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on the air:ブロムシュテット/パリ管のブル8|ブルックナー・ダッシュターボ(9/27)

【2012年9月27日 パリ・サルプレイエル】
●ブルックナー:交響曲第8番ハ短調
 ○同:交響曲第2番ハ短調~第3楽章
→ヘルベルト・ブロムシュテット/パリ管弦楽団
(2012年9月27日/France musiqueオンデマンド)


パリ管の副コンマス・千々岩英一氏が万感の思いを込めていろんなことをツイートしておられたコンサートです。

+ + +

やはり想定どおり、フレーズのひとつひとつは主や副に分かれておらず、野の草木や花と同じようにおのおの勝手気ままな非等速直線運動を行ないつつ、しかし全体としては緩やかにブルックナーを形成している。大蛇のように渾然一体となってのたくるブルックナーとは、あるいは一度分解され精密に組み上げられた上で機能を付加された義体化ブルックナーとは、まったく異なる。

ブロムシュテットのフレージング感とパリ管の魅力的な音色は、第2楽章を豊かな霧で包み、他のどのような演奏でも耳にしたことのない幻想的な総体としての山岳を生み出した。楽章が終わり霧を抜けると、狐に化かされたような感覚だけが残る。いいですか皆さん、第3楽章じゃなく、野人のスケルツォで、ですよ!

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霧を抜けた第3楽章は一転して、晴朗で快活でポジティヴな音楽が展開されている。アーティキュレーションの曖昧さは微塵もなく、フレージングは山中で出会う奇勝や高地の植物のように独特の自意識を湛えている。楽章の幕切れですら酸素が濃く、実体感を喪わない。第2・第3楽章のこのポジション逆転が澄明な心地よさを残すんだなあ。ああ。すげえ好いなあ。

聴き手の立場で表現するなら、ブル8のように登山道の姿形が有名な山であっても、目的地まで一気に駈けてしまわず、路傍の植物や鉱物の混沌にしばしば目を取られつつ、それでいて快速と快活を守る不思議な演奏であると言える。登山道に自分以外の人間は誰もいない。快活にして寂寞。

第4楽章のコーダは終わりではなく、続いていくものの途中である。

+ + +

アンコールのブル2スケルツォがまた開放的で、健康的で、すこぶる気持ちのいい演奏。あのブル8なら、登山が終わったあとにさっぱりしたデザートがあっても全然おかしくないよね!
by Sonnenfleck | 2012-10-10 06:18 | on the air

on the air:ブロムシュテット/N響 第1708回定期@サントリーホール(9/21)

らじる★で聴くのはやっぱりやめ。フツーにチューナーで聴いた。

山田美也子さん「今日は大変な一日になりました。どうぞお気をつけてお過ごしください。ゲストで音楽評論家の安田和信氏は、交通機関が乱れているため、まだご到着ではありません。今日は客席に空席が目立っています」とのこと。

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【2011年9月21日(木) 19:00~ サントリーホール】
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759《未完成》
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ノヴァーク版)
→ペーター・ミリング(ゲストコンマス)
⇒ヘルベルト・ブロムシュテット/NHK交響楽団
(2011年9月21日/NHK-FM生中継)

まず前半の《未完成》である。
先だって聴いたゲヴァントハウス管との同曲ライヴに比べて、ずっとずっとオケの音が柔らかいんだな。これは(失礼承知ですが)たいへん意外な結果。響きの骨格がギシギシと軋み、険呑な雰囲気さえ漂っていたゲヴァントハウスのオケに対して、輪郭はお洒落にくっきりしながらもあくまで柔軟な音で応えるN響の皆さま。状態が良いときのウィーン響かワルシャワ・フィルみたいな音がしてる。
うーむ。薫り高い。佳い演奏だと思う。

拍手の音量が、、小さい、、こりゃあお客が全然いないね…
休憩に入っても安田氏は到着せず。ブ氏のCD(K136)で時間が稼がれる。

さて後半。休憩の間に何人のお客さんが溜池山王に辿り着いたろうか。
今日のノヴァーク版はブ氏の判断で「シンバルとトライアングル除き」だそうな。
前回のN響定期でブロムシュテットの《新世界から》を聴き、そのあまりのブルックナーぶりに驚愕したのだが、それじゃあブルックナーは何になる?
ブルックナー・ダッシュターボ?
…ダッシュターボである。
現役の例を挙げれば、スクロヴァチェフスキのちょうど正反対に位置するというか、ブルックナーのスコアを全力で信頼してそこに身を委ねるような、そういう演奏。
風の噂ではこの前のアルミンク/新日フィル「仲直り第7」もずいぶん佳かったみたいだが、ブロムシュテットの第7も佳いな。ブ氏はこの交響曲にとってもシンプルな美を見ているんだろうな。こういうナチュラルシンプル気持ちいい系の演奏を聴くと、もう、懐疑の沼地に足を取られて転ぶのは嫌になっちゃうよね。

わあ。第2楽章きれいだなあ。すごくワーグナーから遠くて。
by Sonnenfleck | 2011-09-22 06:22 | on the air

スクロヴァチェフスキ/読売日響 第497回定期演奏会(10/16)

c0060659_2201762.jpg【2010年10月16日(土)18:00~ サントリーホール】
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/
  読売日本交響楽団


一年前に芸劇で聴いたブル9の、究極★不自然な曲づくりを目の当たりにして、この指揮者から教えてもらったことやそれにまつわる思い出を守るため、もうライヴで聴くのは止めにしよう、と思った。加齢がいい方向に作用していないとまで考えた。

このチケットを取ったのは、それでもやっぱり、何度目かの不思議体験を期待してしまったからだし、何よりも、同じブル7を取り上げた第437回定期(2005年4月)の再現を望んだからなのだった。そんなわけで今一度、スクロヴァチェフスキ讃。

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ブル9演奏との違いで最も驚きかつ安心したのは、ブルックナーらしい響きの質量をナチュラルに活かして、無理に曲げたり撓めたりはしていなかったこと。無論、2005年の定期を思い出してもそんなことはしてなかったし、CD化された1999年のN響ライヴも同様なのよね。えがったえがった。

ただし、ナチュラル極右派たるギュンター・ヴァントとスクロヴァチェフスキが異なるのは、この人がロマンのお砂糖をちゃんと知っていて、しかもそれを適度に用いる術を心得ているという点に尽きる。
人工甘味料とお砂糖とが似て非なるものであるように、例えば現代の某指揮者Tなどが恣意的に復刻を試みる音楽のロマンティックと、モダニストとして生きてきたスクロヴァ爺さんが「自分の物ではなく、むしろ自分はアンチなのだが、まさにそのためによく知っている」音楽のロマンティックと、どう違うかと言うと、それはもうまるで違うんだ。爺さまが今回のブル7で控えめに、しかし確かにまぶしてきたお砂糖は、『1984年』のサッカリンではなかったのだった。

第1・第2楽章の峰と、第3・第4楽章の丘、平原、という構成は五年前と変化ない。でも、あのときに比べてなお素晴らしい印象を残したのは、第2楽章のオトコっぽい甘美さであった。
第1楽章をいつものように骨っぽく、しかし僕がよく知っているレベルの自然さで造形した後、この楽章は内部から響きがじんわりと膨張し、いくぶんもっさりとしたアーティキュレーションの中で、控えめにロマンティックな歌心が奏でられる(ここでの読響Va隊の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい)。辛口の指揮者がふと取り出す(と見せかけてたぶんこの人は全部計算しているのだが…)ホンモノのお砂糖は絶大な効果を与える。また、こういう演奏を聴くと、ブルックナーが中二男子のような感覚をずっと志向していたような気がしてくるし、また、ブルックナー好きに女性が少ないと言われるのもなんとなく納得がいく。
クライマックスの後、ワーグナーテューバも太く円やか。

その直後の第3楽章の勢いに任せたような雑なアンサンブルもをかし。これもスクロヴァ+読響の味わいと思う。
第4楽章は予想以上に音運びのバランスがよく、音色も開放的で楽天的、ブルックナーのフィナーレを聴く愉しみを存分に味わう。第1楽章主題回帰の直前でホルン隊とワーグナーテューバ隊が左右で鳴き交わす箇所(たぶん)の処理がスクロヴァチェフスキはとても巧くて、峰から降りてきて街の鐘楼で鐘が鳴っているのを耳にするような立体的感が、やはりこの演奏でも聴き取れる。
五年前の感想文を見ると、最後の瞬間に向けた大きなリタルダンドが気に入らなかったようだが、今聴けば、これも大質量をソフトランディングさせるための自然な操作と思われた。自然な静寂と大きな拍手。一般参賀アリ。

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コアなスクロヴァファンには、むしろ前半の《未完成》が究極のご馳走だったかもしれない。あちこちのアクセントは硬い一撃、五線譜がキシキシと音を立てているようなインテンポ、、あれほど干からびて甘みのないシューベルトを僕は生で聴いたことがないですよ。。やっぱり変な爺さん。長生きしてね。
by Sonnenfleck | 2010-10-17 22:00 | 演奏会聴き語り

ふだん、僕らが使うことばで。

c0060659_2331642.jpg【Coviello Classics/CD30301】
●ブルックナー:交響曲第8番ハ短調(ハース版)
⇒マルクス・ボッシュ/アーヘン交響楽団

原始霧とか、アルプスとか、大伽藍とか、石造りとか、神降臨とか、崇高とか、機能美とか、宇宙鳴動とか、素朴の勝利とか、もう、どうでもよろしい。

ただ、今日の私が聴いて、疲れないブルックナー。
ボッシュ/アーヘン響のブル8は、ついにその条件を満たす。

第8交響曲は図体がでかい。その大きな時間に、西洋古典巨匠名匠異才鬼才の「オレがオレが自意識」が混入する。
年に数回なら、そんな時間に浸るのもいいかもしれない。でも普段、日本国の都市部でコセコセと暮らしている自分の身の丈にはそれが合わないのだわな。
普段使いのブル8というのは、これまでにひとつも見つけられませんでした。曲調のせいもあって、どの指揮者もどのオケも肩に力が入るのは仕方がないにせよ、一見普段使いの「ような」演奏であったとしても、実際のところは普段使いの「ように」見せる術が見え隠れする。

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マルクス・ボッシュという指揮者のブルックナーが良いらしいぜという話は、これまでもネット上でたびたび見かけていたのだけども。実際にディスクを入手し聴いてみて、確かに、この演奏が旧来のブルックナー的評論言語(冒頭に列挙しました)に落とし込みにくいのがわかる。

まずその軽やかなテンポ設定に心惹かれることになります。総演奏時間76分足らずで、当然ながらCD1枚に納まっているんだけど、たとえばヨッフムやテンシュテットのような急加速・急ブレーキをまったく感じさせずにこの時間を達成していることからわかるように、土台からしてがかなり速い。
その上で、淡々としている。いわゆるブルックナーっぽい、これ見よがしの見得をほとんど切らない。シューベルトの初期交響曲のように、またメンデルスゾーンの弦楽シンフォニアのように、するするさらさらと流れていく局面の多いこと!

アーヘン響が超絶技巧すぎないのも、この「身の丈感」に一役買っている。ドイツの中央のオケとは違って響きもほんのりと温かいし、フレーズの角が適度に丸っこいので、耳に刺さらないのがいい。最強サイボーグみたいなモダンオケにブル8をブリブリやられると、疲れてしまうのよ。

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amazonのカスタマーレビューに、
「ブルックナー独特の不可思議な「音楽的時間」や、物理的空間概念が壊されるような膨張、収縮のダイナミックはほとんど感じさせない。スーパーフラット(中略)村上隆の絵画ですな。(中略)評者はハッキリ言って少しも評価しない」
という★2つのコメントがあるんだけど、この演奏の特徴を非常に巧みに表現していると思うので、最後に引用させていただきました。

ボッシュ/アーヘン響がやってるのは、評価する/評価される、というような20世紀時空とは無縁に、こちらは勝手にナチュラルさらさらブルックナーやってます、冷やし中華も始めました、みたいな演奏だもん。
自室にティントレットなんか飾りたくないけど、村上隆なら飾ってみたい―この演奏では、そういう、ブルックナー価値の転換が起こっている。
僕は、こっちのほうに行きますよ。
by Sonnenfleck | 2010-06-25 23:37 | パンケーキ(19)

スクロヴァチェフスキ/読売日響 第114回東京芸術劇場マチネーシリーズ(9/23)

c0060659_9334398.jpg【2009年9月23日(水) 14:00~ 東京芸術劇場】
●ベートーヴェン:Pf協奏曲第4番ト長調 op.58
→アンドレ・ワッツ(Pf)
●ブルックナー:交響曲第9番ニ短調
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/
  読売日本交響楽団


このブログ初期のころはスクロヴァ爺さんにハマっていたこともあって、熱狂的なことを書いたこともある。
名古屋で聴いたザールブリュッケンとのベートーヴェンがそんなによくなかったこと、また同様に、彼のブルックナー全集が好みではなかったこともあって、今や気持ちはかなり離れましたが、それでも常任最終シーズンの冒頭を飾るブル9となると、聴き逃すことはできない。

で、どうだったか?スクロヴァの年齢から考えて、彼が指揮を執るブル9をまた生で聴くことはもうないような気がすることを踏まえると、自分にとってはほろ苦い結末だったと言えます。
全体の造形はザールブリュッケンとの全集録音とほとんど変わりない。かなり速めのインテンポを下地に、ブルヲタが浸りたがるような壮麗な箇所ほどむしろテンポを速め、ハーモニーもどぎつく彩る、その方向は同じ。第3楽章になって急激に浪漫化するのも同じ。もともと好みではなかったこの設計を実際に生で体験してみると、かなり白ける場面が多かったな。。

もともとヴォリュームのある曲想なので、響きにも慣性みたいなものが生まれ、空間に自然なカーヴがいくつも出現するのがこの作品のノーマルなスタイルじゃないかと思います。そのカーヴを90度に交わる直角に変えてしまうやり方は、聴いていて確かにスリリングではあるけれども、スクロヴァがたとえばベートーヴェンでやるほどには、効果を素直に発揮していないように感じる。ここんところは好みの問題だから突っ込まれてもうまく反論できないけどさ。

23日はアンサンブルもガタガタで、技術的瞬間的なミスはある程度仕方がないけど、ところどころでアインザッツすら合っていないのにはガッカリ。そういう要素は仮令指揮者の指示がなくても、最低限の土台として揃えておくのがプロだと思う。スクロヴァから「アンサンブルはわざと乱せ」という指示が出ていたか、あるいは翌24日のサントリー公演のための有料ゲネプロだったのかもしれない。

+ + +

前半の伴奏は、この人としては珍しいことに非常に美しい音色を伴っていて、意外な側面を垣間見た気がする。ソリストはあまりにも粗野で驚きでしたが。
by Sonnenfleck | 2009-11-28 09:46 | 演奏会聴き語り

ロスバウトに固有速度と猫を発見する

c0060659_8361018.jpg【VOX/CDX2 5518】
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ハース版)
⇒ハンス・ロスバウト/南西ドイツ放送交響楽団

歩くのが速いほうです。ぜんたいクラヲタって歩くのが速い人が多いような気がしますが(笑)
拙宅から最寄の駅まではだいたい徒歩10分くらいでありまして、通勤時などは多くのおっさんを追い越しながら歩いていくのが気持ちよかったりもします。おっさんたちを観察するとそれぞれ独自の歩行速度を堅持しているのがよくわかりますが、さらにそれが完璧なインテンポ、微妙なルバートつき、駅に向かって強烈なアッチェレランド、などと色々な解釈を備えているのも面白い。

で、ハンス・ロスバウトが50年も前に録音した快速ブルックナーが、何度聴いても僕の歩行する拍とぴったり合ってしまうのでしたよ。驚き。
これまで注意してロスバウトを聴いてきたわけじゃなくて、このCDも(たぶん)名古屋のピーカンファッヂに転がっていたのを手に入れただけなんだと思うんだけど、運命的なものを感じる。個体によって時間の流れの感じ方は微妙に違うだろうから、この演奏を皆さんに等しくオススメすることはしません。第1楽章なんかちょっとコソコソしすぎだろうと思われる部分もあるし(ただしそのぶん第3・第4楽章とのバランスはピカイチ)。

自分が来てほしいところにちゃんと来てくれる第2楽章について、言葉を使って改めて説明するのは大変に難しい。僕はベイヌムのブルックナーも好きなので、そのへんに共感いただける方にはオススメかも、というくらいのことしか書けません。
ただ、指揮をしているのがロスバウトだからという変な色眼鏡でこのディスクを見ないでほしいという、その一点はわかっていただきたいのです。ロスバウト=ゲンダイオンガクぶりぶりというレッテルに従って、ブルヲタ守旧派からは白い目で見られ、片や色物探索班からは痛くもない腹を探られ、猫のようにしなやかなこの演奏の価値は不当に貶められてきたんじゃないかという気がしている。もっと単純に聴かれていい演奏のように思うんですがね。

録音は一応ステレオ。ときどき左右に揺れる。
by Sonnenfleck | 2009-06-21 08:37 | パンケーキ(19)

ムジカ・マキーナ

c0060659_6432358.jpg【RCA/74321828662】
●ブルックナー:交響曲第8番ハ短調
⇒ギュンター・ヴァント/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

クラシックを聴き始めたころ、「名曲」と謳われるこの曲を一応聴いてみることにして、「名盤」と言われるヨッフム/SKD盤を探したことがある。でも秋田の田舎は万事モノ不足、結局同じヨッフム指揮でもDGGに録音されたBPO?盤の方を購入して聴いたのでした(なぜマイナーなこっちが店頭にあったのか今でもよくわからない)。
そのヨッフム/BPO?盤では、風景がグルグルと回るようなスケルツォが面白くて繰り返し聴いたものの、当時の生活の「尺」にはこの曲を第4楽章まで聴き通すだけの余裕がなく、大蛇のような印象だけを残して短いブル8蜜月は終わる。ヨッフム/BPO?盤もいつのまにかどこかに失せてしまった。曲の方に愛想を尽かされたのかも。

それから時を経て、突如来たるブル8確変(クラを聴いていて楽しいのは、こういう謎のブレイクスルーが起こったときですよね)。自分にとっては難しいブルックナーの中でも特によくわからないこの曲ですが、一応手許にはヴァント/BPOの演奏が架蔵されていて、先週は通勤電車の中で貪るように聴いていました。
ドクトル・ヴァントの爽快なフレージングに親しんだ結果として、以降この曲を浪漫大蛇デロデロデロと考えるのはやめにする。有機物と捉えなくてはいけない根拠がどこにあるのか、というところに思い至っただけでも、先週のブレイクスルーには意味があると思います。

つまり、何かもっと機械的な特性を持った曲なのではないかということなのです。
不意に粘ついたり急な運動を試みたりすることのないヴァントの指導によって、楽句が油圧式の機械のように滑らかに繰り出されるのを聴いていると、そのように思わざるを得ません。しかもベルリン・フィルのハイパーな音響も手伝って、それは威圧的な第1楽章や第4楽章ではなくむしろ「神秘的」な第3楽章で強く感じられる。こういう「神秘的でなさ」が一周して、むしろ僕のような文系には「機械的神秘」に思われるくらい。この楽章の拍子の保持に用いられる厚い低弦がちっとも意志的じゃないくせにリズミカルで、その上にピツィカートが明滅していたりすると、まさしく巨大な機械のようです。シンバルを迎えたクライマックスも実にあっさりしていて好ましいなあ(後に残るハープもノイジーで面白い)。
by Sonnenfleck | 2009-04-28 06:46 | パンケーキ(19)

進め第6樹海。

c0060659_6313254.jpg【OEHMS/OC215】
●ブルックナー:交響曲第6番イ長調
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/
  ザールブリュッケン放送交響楽団

豊かな痛勤ライフのお供にブル6。発車メロディと混じっても。
1週間くらい毎日のように聴いていたら、この不思議な曲の魅力に憑りつかれてしまったようです。

質実剛健簡浄素朴、どっしりと奇を衒わないのがブルックナーだとしたら(あるいはブルックナー好きの方がお持ちのイメージがそうしたものだとしたら)、この曲はそこから少し外れているためにあまり人気が出ないのかもしれない。メロディもリズムもハーモニーもどれも細かく揺れ動いて質実や簡浄を体現しているとは思えず、例の放心するようなゲネラルパウゼもあまり見当たらないし、メロディもお洒落なものが多いし、、アントンおじさんは自分を開放し切った第5番の後に、自分とは縁遠いものを音にしてみようと思ったのかなあ。

そういう作品のそういうところに力を発揮しているのがミスターS。
基本的に他の作品と同じように早めのインテンポで進めていきますが、やはりスクロヴァ爺さんの指示の細かさは異常なレベルで、僕がiPodで聴いていたナガノ/ベルリン・ドイツ響の薄味演奏とは進んでいる方向がまったく違っていて驚きでした。
たとえばユニークで非常に美しいこの曲の第2楽章は、どなたかが「ブルックナーの『アダージェット』」と書かれていて、なるほどの極み。純粋無垢ではないけれども飛び抜けてビターな美しさを誇る楽章ですね。
前述のナガノの曲づくりはなかなか先が見えづらく、一面に薄い月明かりがあるだけで、茫洋とした響きに呑まれるような不安な心地よさが感じられるのですが、スクロヴァチェフスキはそうではない。彼の示す明かりは明確で、次の曲がり角、次の小道、そこの側道、とヘッドライトで照らしながら、いつもは見えない「道しるべ」を僕たちに示してくれます。ですので、夜の樹海をハイスペックな自動車で突っ切っていくようなスリリングな調子が楽しめるということ。もちろん樹海全部を克明にライトアップするようなことはしないので(神秘は神秘のまま)、たとえばブーレーズが指揮した8番とは根本的に発想が異なるわけです。

前にも実演で聴いたとおり、ザールブリュッケン放送響は物凄く魅力的な音のするオーケストラではなく、アンサンブルも微妙に雑だったりしますが、スクロヴァチェフスキの細かい要求に応える様子が素敵だし、そんなところも読響と似ている気がする。
爺さまの読響常任指揮者任期はもうすぐ終わりを迎えますが、この最後のシーズンはなるべくホールへ足を運び、爺さまの得意な作品を味わいたいなあと思っています。
by Sonnenfleck | 2009-02-05 06:38 | パンケーキ(19)

名古屋フィル 第348回定演

【2008年6月7日(土)16:00~ 第348回定期/愛知県芸術劇場】
<ツァラトゥストラ3―大いなる憧れ>
●ワーグナー:舞台神聖祝典劇《パルジファル》 第1幕への前奏曲
●デュティユー:Vn協奏曲《夢の木》
→堀米ゆず子(Vn)
●ブルックナー:交響曲第9番ニ短調(コールス校訂版)
⇒マイケル・クリスティ/名古屋フィルハーモニー交響楽団


《パルジファル》の4時間半を100分に凝縮してみせたのかもしれない。このプログラム。

指揮のマイケル・クリスティは1974年生まれのアメリカ人で、04年までオーストラリアのクインズランド管の首席指揮者をやり、現在はアリゾナのフェニックス響とニューヨークのブルックリン・フィルの音楽監督を務めているらしい。02年のアジア・オーケストラ・ウィークでクイーンズランド管と来日してるみたいだけど、それ以外は日本語でググってもほぼまったく情報の見つからない指揮者なので、ドキドキします。

+ + +

《パルジファル》第1幕への前奏曲は朴訥とした大きな流れが作られている一方で、叙情味のある楽句への繊細なこだわりも聴かれ、コンサート前の現実と音楽を隔てるには十分合格点。定期に訪れる聴衆のマナーがここ数ヶ月で飛躍的に向上してきていることもあり、ホールの残響を聴き取ったナチュラルなゲネラルパウゼがいい感じ。

さても「前奏曲」からデュティユー《夢の木》への遷移は見事なものでありました。前回前々回のようにアタッカでこそなかったけれども、こうした食前酒と前菜の不思議な対置/融合によって、それこそ毎月毎月新しい発見が得られていますもの。幸せだ。
聖にも俗にも傾かない浮遊感のある曲調。各所に心地よい旋律の残り香があるし、快速な部分では打楽器が拍子を彩るのでミヨーやルーセルの残像が見える。しかし冒頭、堀米さんが奏でる甘い旋律が、どうしてかわからないのだけど《パルジファル》の〈聖餐の動機〉を髣髴とさせるんですよ。これにはまったく驚いた。分析したら理由がわかるのかなあ。

堀米さんの音を生で聴いたのはこれが初めてですが、温かく包み込まれるようでいて、妖艶な湿り気もある。冒頭書いたようにこれが《パルジファル》仕立てだとしたら、クンドリの誘惑と嘆きをイメージせずにはおれないのです。左肩故障で来日できなくなった当初のソロ、ペッカ・クーシストで聴いていたら、同じ印象を受けただろうか?
クリスティの指示は非常に的確に見えました。全体を大づかみで捉えながら要所ではその要所たる部分をはっきりとオケに示しているので、オケはやり易いと思われます。おどけたパッセージが真面目君になっちゃうのは2月のブラッハーとか4月のツィンマーマンとかでも見られた傾向ですが、コバケンに毒された鍛えられた名フィルであれば、表現する潜在能力は備わっていると思うので、もっとぶつかってきてほしいな。

さてブル9。「コールス校訂版」って最新のクリティカル版のことみたいです。
第1・第2楽章は、、それぞれ音価を切り詰めてたいそう速い。びっくり。
前者は冒頭のホルン隊、後者は43小節目(?)に変わったアクセントを置いてオケがコケるアクシデントがあったんですが、特に第2楽章は聴いたことがないくらいダンサブルな仕上げになってて…うきうきしてしまったのでした。マリオが(ルイージでもいいけど)等間隔に並ぶブロックをぽーんぽーんぽーんっと飛んでいくように、拍がぽーんぽーんと後ろに遠ざかっていく。荒削りだったけどやりたいことやってるなあという感じで、僕は積極的に評価したいです。朝比奈隆みたいなブル9を期待した人は噴飯ものだったかもしれないが。

第3楽章はしっとり。ここは名フィルの健闘を讃えたいです。
冒頭短9度の跳躍、よく合わせたなあ。下品にならないちょっとしたポルタメントを付けて、なかなか厚みのある響きで統一されている。コラールの中のTpがちょっと弱々しくて心残りだったけど、<ツァラトゥストラ>シリーズに入ってから続いていた「メインでスタミナ尽きました」という傾向が、今回についてはほとんど当てはまらなかったのが嬉しい点です。
コーダはもっともっと音量を落としてもよかったけど、聴き手に爽快な疲労感と達成感をもたらして、クリスティが手を下ろしきるまで拍手をさせなかったのは、最後まで持続したオケの緊張感に因るところ大でありましょう。アンフォルタスもクンドリも救済された。かな。
by Sonnenfleck | 2008-06-09 06:46 | 演奏会聴き語り

ヤンソンス/バイエルン放送交響楽団@豊田

【2007年11月18日(日)17:00~ 豊田市コンサートホール】
●メンデルスゾーン:Vn協奏曲ホ短調 op.64
→サラ・チャン(Vn)
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調
⇒マリス・ヤンソンス/バイエルン放送交響楽団


土曜日の午後に思い立ってボックスオフィスに電話したら、ずいぶんいい席が残ってたので急遽予約して聴きに行っちゃったですよ。この組み合わせはちょうど2年前の11月にも横浜で聴いてるんですが、これといってヤンソンスのファンというわけでもないので、近場で休日で悪くないプログラムなのにチケットを押さえてなかったというのも、自分の中では別に怠慢ではありませんでした。
…しかし。もし聴き逃していたら、ヤンソンスを理解しようと思う気持ちはさらに後退し、ますます興味が湧かない指揮者として片づけることになっていったと思う。聴きに行ってよかった。

+ + +

メンデルスゾーンについては筆が進みません。
サラ・チャンの音と彼女の演奏する姿からわかったのは、汚い音でガリガリと表情をつけるやり方に自分のアイデンティティを感じているらしいということ。音楽を荒らした挙句「どうだ!」という顔をするのを見てゾッとしました。これは好きじゃない。

で、ブルックナーです。まずは一見すると、金の楽観銀の無関心でもって織り上げられた何物か、だったのではないかな。
第1楽章。スコアは明るい響きで完璧に再現されます。バイエルン放送響は2年前よりさらに一歩進んで放恣な鳴り方をするようになっていましたが、それも当然でしょう。最大公約数を信奉することと、それを恥だとする考えは説得力を持たないということを、ヤンソンスは徹底的に教え込んだのだと思う。
速いテンポは懐疑が付け入る隙を与えない。パウゼはただのパウゼでそこに意味を付加する必要はないし、逆に意味を付加することが悪であるように思われる。このつるりとした金銀の圧迫感は相当なもので、些事を気にすることに慣れたクラヲタには抵抗が難しい。

第2楽章。ふてぶてしいくらい太く朗々と演奏される主要主題は、これこそが現代オーケストラ演奏の一つの傾向が極まった結果なのだと思われました。ジューシーで不毛な贅沢。さすがにこれには弓を引かれない。ホールの椅子の上であんぐりと口を開けてしまった。
ただ、ノヴァーク版の炸裂を経て放心したような葬送行進曲の結尾(僕はこの神秘的な「放心」がブルックナーをブルックナーたらしめていると思うんだけど)、ここを愛おしく撫でるように造形したヤンソンスのやり方は、ちょっと意外でした。ここだけは金と銀の織物に常ならぬ慎重な色彩が加わっていたような気がします。

第3楽章。威力で懐疑を一掃するスケルツォがまったくもって凄いのひとことなんですが、その直後に、「放心」した中間部がまたも慎重の苦みを得ていたので驚きました。銀の無関心は、こういったパッセージに意味を与えないのではなかったのか。。
豊田市コンサートホールは巨大なホールではありません。紀尾井ホールに毛が生えたくらい、もしくはオペラシティの横幅を狭めながら3階部分を丸ごと取り去ったような感じ、と書けば関東の方にはわかっていただけるかしら。ヤンソンスもバイエルンも、響きの巨きさには定評があるかと思われますけど、そういう彼らがキャパ1000人の空間に向けて楽観的に砲撃を加えるジオラマに心を奪われます。心は奪われつつも、しかし、中間部に充満する「放心」がずいぶん丁寧な扱いを受けていることに考えを巡らせないではいられません。

第4楽章。ある瞬間では軽すぎ(第1楽章)、ある瞬間では最大公約数すぎた(第2楽章)これまでの展開と比較して、最終楽章では独自の表情を探るような素振りがあちこちで強く感じられました。
でもそれを逆の方向から見ると、激しく緩急をつけて咆哮するオケの表面とは裏腹に、恐らく今のヤンソンスにしか構築できない最強の楽観無関心が、ここへ至って揺らいだようにも思われる。…もしかすると、単に全曲の統一の中でキャラ立ちが弱い第4楽章に濃いアクセントを付けたかっただけなのかもしれないんですけど。

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2年前に聴いたヤンソンス/バイエルンの演奏には、今思い返しても楽観の縦糸と無関心の横糸しか存在せず、僕の感想文でもそのことによる最大公約数への接近しか取り上げていないわけです。
しかし今回のブルックナーには、複雑な色をした装飾糸が(ごく少数ではあるものの確実に)混じっていたように思われます。楽観的最大公約数を信奉し、この日の演奏が終わって手が捥げそうなくらい熱狂的な拍手を送っていた向きにとってはこの装飾糸は邪魔でしかないはずだし、今のところはヤンソンス自身にも積極的にマッチするわけではないだろう。
この曖昧で複雑な装飾糸が、今や世界最高の金銀の間にどれくらい紛れ込んでくるか。。それによって、ヤンソンスは一昔前の芸人状態に戻るかもしれないし、逆に金銀の奥行きを極めるかもしれません。カラヤンみたいに。
by Sonnenfleck | 2007-11-20 07:10 | 演奏会聴き語り