「ほっ」と。キャンペーン

タグ:ベートーヴェン ( 47 ) タグの人気記事

ハイティンク/ロンドン響|ブリテン、モーツァルト、ベートーヴェン@サントリーホール(3/9)

いろいろな切り口の「ベスト体験」があっていいと思うけれども、「音楽それ自体」に限りなく接近したという意味で、僕はこの日、これまでで最高の経験をしたと断言できる。今日まで音楽を聴きつづけてきて本当によかったと思う。

+ + +

c0060659_23342183.jpg【2013年3月9日(土) 14:00~ サントリーホール】
●ブリテン:《ピーター・グライムズ》~4つの海の間奏曲
●モーツァルト:Pf協奏曲第17番ト長調 K453
→マリア・ジョアン・ピリス(Pf)
●ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調 op.92
 ○メンデルスゾーン:《真夏の夜の夢》~スケルツォ
⇒ベルナルド・ハイティンク/ロンドン交響楽団


後半のベートーヴェン、第1楽章ですでに、僕は座席の上で硬直していた。

これまでに聴いてきたベト7は、この午後にハイティンクによって実際に開帳された「音楽」の劣化した影か、過度に装飾された写しでしかなかった可能性がある。「演奏」ではなく「音楽」と書いたのは、演奏者や指揮者の刻印がそこから完璧に消えていたから。
「演奏」を研ぎ澄ましていった先の最終形態が「音楽」だとすれば、あの瞬間に(恐ろしいことに)ベートーヴェンの姿さえ透過していたのが観測されたことも何らおかしくない。あそこにあったのは旋律と和音と拍節のただひたすら心地よいつながり、言ってしまえば「音楽のイデア」みたいなものだった。

僕は普段(「僕たちは普段」でもいいのかはわからないけど)、ある「曲」のことを知っていて、いつでも頭のなかで再生できる「曲」を基準に、あるときどこかで聴いた演奏について「こいつは愉しいフレージングだ!」とか「ここは演奏実践の失敗だ…」とか考えている。

でもハイティンク/ロンドン響のベートーヴェンは、普段は実在しないはずの概念としての「曲」が、信じがたいことにそのまま目前で展開されるという、イデアの降臨としか言いようのない体験だった。快感に恍惚。そして第4楽章のコーダでは、イデア界への扉が音を立てて閉まるような圧倒的な絶望感が快感のなかに混信してきて、もう何が何だかわからない。
いや、正確には、すべてわかったと書いたらいいのか。あれは自分の頭のなかでまた鳴らすことができるような気もするんだよね。実際。

+ + +

2003年の「スーパーワールドオーケストラ」、2009年のシカゴ響に続き、ハイティンクを生で聴くのはこれが三度目だったのだけど、過去の二度はここまでの感覚を得たことはなかった。
いま極端にレパートリーを絞り込んできている彼は、イデアの在り処や呼び出し方をよく知っている作品だけを選んで振るようになっているのかもしれない。つまり磨き上げられて僕たちに供されるのは、最上の普通。この最上の普通に辿り着くために、どれほど多くの指揮者が時間と労力を欲しているのだろうか!

かたやロンドン響は、この週の他公演でアンサンブル荒れ気味という感想がTwitter上で散見されていたのでちょっと不安だったんだよね。
でもピーター・グライムズ、じゃなく「4つの海の間奏曲」が始まってすぐ、オケの機能に不満を持つ必要がないことがわかってほっとする。

冷たく湿った良好なブリテンだっただけじゃなく、ハイティンクの要請に応えて各パートが無数のギアチェンジを行うことで、整然と柱廊が組み上がっていくような巨大な音響も確保される。
よく鳴っているだけでなく、フォルムもくっきりとしていて実に気持ちよいわけだけど、そしてブリテン音楽の場合はそれが「ブリテンらしい居心地の悪さ」へとつながってゆくのだった。このまま第1幕が始まったらいいのに、と思ったひとも客席には多かったことだろう。

モーツァルトの協奏曲はあまりにも心地よくて(またベト7とは違い、自分の頭のなかに再生可能な「曲」がなくて)うとうとしてしまったので、感想を書く資格がない。ただ、ピリスの打鍵が瑞々しく、力が抜けているのに力強い、不思議な雰囲気を示していたことは記しておきたい。ハイティンクのサポートも実に温かな音色だった。ような気がする。

+ + +

こんな感想文はオカルトのカテゴリに分類されたって文句は言えない。でも、賛意を示してもらうどころか共有されたいという気持ちもあまり強くはないのです。「音楽」を聴いて心の底から驚嘆したので、そのことについて書いた。
by Sonnenfleck | 2013-03-10 00:43 | 演奏会聴き語り

ノリントン/N響 ベートーヴェン「第9」演奏会@NHKホール|または、具象の勝利(12/23)

c0060659_617688.jpg【2012年12月23日(日) 15:00~ NHKホール】
●ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 op.125《合唱付》
→クラウディア・バラインスキ(S)
 ウルリケ・ヘルツェル(A)
 成田勝美(T)
 ロバート・ボーク(Br)
→国立音楽大学合唱団
⇒ロジャー・ノリントン/NHK交響楽団


ひと言で表すと「レトリックの塊」のような第9。
もともとベートーヴェンが意図的に(または無意識的に)第9のなかに詰め込んだ音楽修辞技法の数々を、サー・ロジャーは掘り起こし、土くれを払い、洗浄し、僕たちの前に鮮やかに並べてくれた。ただそれだけだ。それだけだが、まことに尊い機会。今この世界で、ここだけにしかない第9だった。

ネットで観測するかぎり、この公演は賛否両論である。あたりまえだ。

百万人の無辜の市民を歓喜の渦に巻き込むことなんか、ノリントンの頭にはない。彼の禿頭のなかに詰まっているのは、18世紀までの音楽の総決算としてのベートーヴェンを、いかにして鮮明に復元するか、その一点だけである。ノリントンの真価を、学究の最前線に吹き出すマグマを、僕はこの日ほど尊敬したことはない。

+ + +

この日唯一、ベートーヴェンが僕らの知ってるベートーヴェンだったのは、せいぜい第1楽章くらいだったかもしれない。
つまり、楽聖が得意にしていたフィグーラ、アナバシスとカタバシスの自在な組み合わせによる「運動」を、ノリントンはちゃんとこの楽章で展開した。冒頭の五度音程を1stVn-Va-Cbラインでヴィヴィッドに弾かせることから始まる、この楽章の緊張した運動。寄せては返す千万のアーティキュレーション。ノリントンの武器がノンヴィブラートだけだなんて、いったい誰が言ったんだい?

第2楽章第3楽章の美しいタイムスリップ!
ここでノリントンが向かうのは、ベートーヴェンに流れ込んでいるモーツァルト、あるいはモーツァルトに流れ込んでいるグルックやアレッサンドロ・スカルラッティ、ヘンデルの要素なんである!なんという!

第2楽章の奇妙に鈍重なテンポ。皆さんはどう聴かれたのでしょうか。
あのもったいぶったようなスケルツォ、僕には「フィガロ」の戯けたシーンへのオマージュとしか思えなかった。今にも第3幕のはちゃめちゃな6重唱が始まりそう。そこへベートーヴェン自身を体現するかのように自由なティンパニが躍り込んできて、さらに「異種対話劇」が始まってしまう。それでいて中間部の管楽隊の美しさには「魔笛」の3人の童子の重唱が透けて見えるのだ。
情報量の多さにくらくらする。こんな設計は、ノリントンの過去の録音ではやってないんだよね。でもこれを聴くと、これしかない、と思わずにいられない。

第3楽章の透明感は予想どおりだったけれども、あの教条主義的な静けさは19世紀の特産品ではなく、モーツァルトの道徳的なアリア、あるいは18世紀前半のオペラセリアが得意にしていた荘重なアリアから来ているような気がしてならない。それは何も思い込みによるのではなく、ヴィブラートを抑制し淡々と歩んでいくVcとCbの響きに通奏低音を感じたからにほかならない。サー・ロジャーは聴き手の耳をしなやかに過去へ向けさせていく。

+ + +

そしてさらにさらに驚きだったのが、第4楽章
ヲタの皆さん、昭和のヒョーロンカ先生の言うことを真に受けて第4楽章を小バカにしてませんか?いわく「第9が素晴らしいのは第3楽章まで!」みたいな。でもそれはもったいない。気づきの少ない演奏を聴いて浪費するには、人生は短すぎる。

ここに含まれていた音楽修辞技法は、僕たちの蒙昧を啓くのに十分。すなわち僕たちはここに、ベートーヴェンが企んだ(あるいは企んですらいないかもしれない)モンテヴェルディやジョヴァンニ・ガブリエリのゴーストを見るからである。

ベートーヴェンが用いたレトリックのうち、とある対象をはっきりと暗示するものがこの楽章で登場する。そのひとつはトルコ軍楽隊の行進であり、もうひとつは、神の楽器としてのトロンボーンである。

トルコの軍楽隊は、近づき遠ざかることで楽曲のなかに遠近法を導き、またモーツァルトの「後宮」などに代表される18世紀トルコ趣味を連想させて懐古をかき立てる。これは音場をデフォルメすればするほど効果的だと思うが、ノリントンの指示は極めて具体的で、あからさまである。

そしてトロンボーンは(もっと言ってしまえばサックバットは)ヴェネツィアのジョヴァンニ・ガブリエリ、そして彼に流れ込んでいる中世教会音楽を想起させるのに十分な濁った音色を、薄氷を踏むような慎重さで実現させていたのである。あっぱれ。本当にあっぱれだ。

それは具体的には、歓喜の主題がひとしきり爆発した直後、
Seid umschlungen, Millionen!
Diesen Kuß der ganzen Welt!
Brüder, über'm Sternenzelt
Muß ein lieber Vater wohnen.
の部分なのだが、なぜ各連を最初に歌うのが男声だけなのか、ということについて、ノリントンはちゃんと回答を出している。これは神の意向がサックバットによってもたらされる教会の音楽なんである。

またここで国立音大の学生さんたち、そしてN響トゥッティは、何を要求されていたか。そこも面白い。
合唱はあくまでもモンテヴェルディのマドリガーレのような非人間的マチエールを、またN響トゥッティは絶対にその合唱を塗り潰さないような微細な発音を、それぞれノリントンから指示され、ほぼ完全に達成していたんだよね。特に「俗な楽器」である弦楽器が人間の声の前に出てくるなんて、これが(18世紀の視点に立った)17世紀初頭の音楽へのオマージュだとしたら、そんなことはありえないんだ。

+ + +

「劇的」という日本語があるが、なぜかそこには「アクセント強め」とか「『悲』劇的」とか「ロマンティックな」とかいうイメージが小判鮫している。
でも本当の「劇」は、そんなイメージを片方に含みつつ、もっと豊饒な空間を示してはいないだろうか。よく動き、泣き、笑い、叫び、黙り、そして語らう。語らいのアンサンブルが蒼古たる音楽修辞学とがっちり結合したとき、そこに立ち上がるのは、抽象に対する具象の勝利なのである。

これから生で聴かれる方、そして年末年始にTVでご覧になる方。どうかお楽しみに。
by Sonnenfleck | 2012-12-25 06:20 | 演奏会聴き語り

スティーヴン・イッサーリス ベートーヴェン全曲演奏会第1日@王子ホール(11/21)

c0060659_10564081.jpg【2012年11月21日(水)19:00~ 王子ホール】
<ベートーヴェン>
●ヘンデル《ユダス・マカベウス》の主題による12の変奏曲 ト長調 WoO.45
●Hrソナタヘ長調 op.17(作曲家自身によるVc編曲版)
●Vcソナタ第1番ヘ長調 op.5-1
●モーツァルト《魔笛》の〈娘か女か〉の主題による12の変奏曲 ヘ長調 op.66
●Vcソナタ第3番イ長調 op.69
 ○アンダンテと変奏曲 ニ長調 WoO.44b(イッサーリスによるVc編曲版)
⇒スティーヴン・イッサーリス(Vc)+ロバート・レヴィン(Fp)


イッサーリスに対しては、これまではあまり特別な思いを抱いてこなかった。この公演のチケットを入手できたのも、某オクで破格の値段が提示されてたのを偶然発見したからに過ぎない。
ところが、音楽の神さまのお膳立てにより、至芸と表現してよいチェロを知ることになった。これまでに足を運んだどのチェロリサイタルよりも強く、感銘を受けた。

+ + +

1726年生まれのストラドにガット弦を張ったイッサーリスの音色、これは聴神経の担当領域だけでは上手く形容できない。
基本的には、マットな音。ブリリアントなチェリストが世界にはたくさんいるけれども、彼の音はけっして大きくないし、派手じゃない。しかしながらそのうえで(摩訶不思議なことに)実家の座布団のようにインティメイトなにおいが漂うこともあれば、博物館の漆器みたいに凄みのある底光りがのぞくこともある。耳以外の器官が音をキャッチし始める。
彼の演奏、たとえばブラームスのソナタなんかをCDで聴いていたときには、こんなに多彩な音が彼のガットとボウから発せられているとは気がついていなかった。まったく自分の薄ぼんやりに呆れてしまう。

そんなひとが、レヴィン教授のワルターレプリカと組んでベートーヴェンを演る。
冒頭の《ユダス・マカベウスの主題による変奏曲》から、あっという間に術中にはまる我々。イッサーリスはあの音質を土台に据えたうえで、縦横無尽のボウイングから繰り出す多彩なフレージングでもってベートーヴェンと共闘していく。

共闘である。
ねじ伏せたり、分析したり、ではない。

ベートーヴェンの音楽が根源的に備えている「面白がり」や「驚かせたがり」、「楽しませ」という要素を、イッサーリスのチェロが増幅していく。五月蠅いくらいヘンテコなアーティキュレーションを採用したかと思えば、また時には人間の深淵を覗くような真っ暗な音が出てきたりもする。いかにも愉快そうにボウを操る彼の姿と、愉快そうに筆を執る楽聖の姿とが重なる。

レヴィン教授の極めて豊饒な(それでいてもちろん「慎み深い」)演奏実践も、この共闘を側面支援する。モダンピアノのモダンな奏法では、イッサーリスのボウから紡ぎ出される音をみな塗り潰してしまうだろう。
前半の第1ソナタの第1楽章が終わったところでワルターレプリカの調律が狂ってしまい、梅岡楽器サービスの梅岡さんが舞台に飛び出して応急処置、という一幕も。梅岡さんによればこのコンビでベートーヴェンの録音をするという話があるみたいで、心の奥底から楽しみです。

最後の第3ソナタ。第1楽章展開部のお尻(再現部への推移局面)でぱっくりと口を開けたベートーヴェンの深淵が、一生忘れられない音楽の記憶として残りそうだ。なんだったのだろう。あの深い音は。

+ + +

僕は「チェロはもっともひとの声に近い楽器」という言説にずーーーーーっと違和感を持ってきたんだけど、イッサーリスの音は圧倒的なまでに声だった。一生ついていくことに決めて、サインもゲット。メンデルスゾーンのソナタ集。
by Sonnenfleck | 2012-12-09 10:58 | 演奏会聴き語り

スタニスラフ、工場へ行く

2012年9月、スクロヴァ爺さんが東京に来て読響を振り去っていったが、結局コンサートには足を運ぶことができなかった。ブログやTwitterで観測したかぎりではかなり評判がよろしく、聴けなかったのは無念である。

無念なので少し昔のCDを引っ張り出してきた。

+ + +

c0060659_9372681.jpg【Altus/ALT031】
●ベートーヴェン:《大フーガ》変ロ長調 op.133*
●ルトスワフスキ:管弦楽のための協奏曲*
●ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 op.67**
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/NHK交響楽団
(*:1999年1月27日/**:1999年2月5日)

僕がスクロヴァ爺さんを初めて生で聴いたのは、たぶん2004年4月に行なわれた3回のN響定期・オールベートーヴェンプロです。エロイカ(C定期)、第4+第7(A定期)、そして第5(B定期)で当方のハートを鷲づかみにした老人は、やがて読売日響のシェフに就任し、頻繁にその音楽を東京の聴衆に聴かせることになりましたが、あのときN響で味わった精密なベートーヴェンを上回る体験は(僕のところには)ついに訪れなかったのでした。

この1999年N響ライヴは、特にあのときのサントリーホールの様子をかなりはっきりと思い出させてくれる逸品ディスクで、とても大事。

ところどころ筋肉や血潮が見える読響のマッチョな弦よりも、重金属的で古インテリっぽいN響の弦のほうに、スクロヴァチェフスキらしさはより明確に宿ったのではないかと今でも考えていて、《大フーガ》の弦楽合奏を聴いてさらにその考えを深くする。細い金属線で織り上げられていくフーガの軽い手触りには、若い古楽系指揮者たちとは全然別ルートの軽快さがあるんだよね。

ルトスワフスキも素敵。打楽器が特別に峻烈かつ冷徹なリズムを指示されているのは間違いなくて、それがトゥッティを支配することで(むしろ!)前のめりの熱い音楽に仕上がっているのが楽しいです。この人のバルトークと同じで、たとえ縦線が精密に揃っていなかったりしても気にならない。熱いモダニズム!

そして第5。繰り返しになっちゃうけれども、スクロヴァ爺さんのベートーヴェンの軸にあるのは金属線の束感だと思う。しかもそれは、クリーンな工場でオートマティックに機械加工されるツルリとした束じゃなく、町工場の爺さんが技術を習得した時代に最先端だった加工技術によるものである。

何十年もその加工技術ひと筋でやってきた爺さんの製品は、声部の金属線同士が自在にほろほろと解け、解けては融合し、しかし明らかに文学作品ではなくて一個の工業製品として存在している。シンプルに駆動する第3楽章のフガートに、みな人は快感を覚えよ。
by Sonnenfleck | 2012-10-07 09:38 | パンケーキ(19)

on the air:ドホナーニ82歳、タングルウッド75周年を祝う@タングルウッド音楽祭'12(7/6)

c0060659_11185892.jpg

【2012年7月6日(金) 20:30~ クーセヴィツキー・ミュージック・シェッド】
<ベートーヴェン>
●《レオノーレ》序曲第3番 op.72b
●交響曲第6番ヘ長調 op.68《田園》
●交響曲第5番ハ短調 op.67
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/ボストン交響楽団
(2012年7月7日/WGBH Classical New England生中継)


タングルウッド音楽祭2012のオープニングコンサート。75年前のこの夜、クーセヴィツキーが振った同じプログラムを、ドホナーニが振ります。ということで久々のドホ爺ネタ。

+ + +

最近しばしば考えるのは、ドホナーニがやるような様式のベートーヴェンは、われわれの多くが気づかないだけで、もうすぐライヴでは聴けなくなる可能性が相当高いということである。

モダンオーケストラの機能を全開にした《田園》の音響の美しさよ。
この美しさは、五線譜の行間が拡張されて、増強されて、加重された結果なので、まったくナチュラルではないかもしれないが、ナチュラルなものだけが美しさのすべてではないのだ。それでいて清冽な透明感をまったく喪わないドホナーニ先生の手綱捌き、これが全然衰えていないのが確認できたのは慶賀の至り。
ドホ爺のものと思われる鼻歌が随所で聴かれる。萌えである。

第1楽章再現部の貴族的な高血圧、第2楽章での自信満々な低弦の勁さ、同じ楽章のおしまいに登場する「義体化カッコウ」、きわめて観念的な第4楽章などは、この交響曲が持っている複雑な性格を浮き彫りにしている。
ベートーヴェンの作品たちを18世紀交響曲の終わりとして見るのがフツーであるのと同じくらい、これらを19世紀交響曲の始まりとして捉える視座も、僕たちは忘れてはいかんのだと思う。ほんとに思う。

燦爛と輝く第5楽章の威力に恐れをなしつつ(omnipotent!!!)休憩。

後半の第5交響曲も、一貫して同じ哲学が底部にある。
第3楽章からまっすぐに伸びた高張力鋼のようなブリッジ、全曲における第4楽章の明確な優位性、ボストン響の高雅な音色、そしてもちろんドホナーニ好みの清冽な響き。どれをとっても第一級の20世紀中後半様式なのさ。いいね。とてもいいね。
by Sonnenfleck | 2012-07-15 11:20 | on the air

ノリントン/N響の "ティペ1" 第1725回定期@NHKホール(4/21)

c0060659_12273888.jpg

【2012年4月21日(土) 15:00~ NHKホール】
●ベートーヴェン:序曲《レオノーレ》第2番ハ長調 op.72a
●同:交響曲第4番変ロ長調 op.60
●ティペット:交響曲第1番
⇒サー・ロジャー・ノリントン/NHK交響楽団


この日はなんだか体の調子が悪くて、たいへん眠かった。後半なんか(これを目的に聴きにいったのだし、多少は予習までしたにもかかわらず)ほとんど寝落ちだったのですが、出かけた記録だけは残しておく。

・コントラバスを横一直線に並べるスタイル。
・その後ろに衝立型の反響板。これがあるとNHKホールでも音が映える。
・レオノーレ第2番はたぶん初めて生で聴く。ノリントンは休符の扱いが独特で、序曲のくせに恐ろしく巨大な絵巻物を見せられたような感覚に陥った。
・フルトヴェングラーの1954年録音と手法が少し似ていた。
・ベト4は終始きんきんと響いて正直しんどい。
・そしてティペットの様子は覚えてない。
・こんな日もあるよね☆(ゝω・)vキャピ
by Sonnenfleck | 2012-06-10 12:30 | 演奏会聴き語り

最近のアバドとベルクとベートーヴェン

c0060659_20475173.jpg【HMF/HMC902105】
●ベルク:Vn協奏曲
●ベートーヴェン:Vn協奏曲ニ長調 op.61
→イザベル・ファウスト(Vn)
⇒クラウディオ・アバド/オーケストラ・モーツァルト



ベルク。
ここに刻みつけられているオーケストラの豊饒な響きに、心奪われないひとがいるだろうか?アバドが備えている緻密な色彩感覚は、今や彼の弟子筋に流れ込んで「指揮者ならこれができて当たり前」というスタンダードになりつつあると思うが、本人は78歳になってもその感覚を衰えさせないばかりか、いや増さんばかりにカラフルな音楽を生み出している。
たぶん、アバドのこうした手法はすべての音楽に平等に幅広く通用するものではなくって(それゆえこの偉大なマエストロへの毀誉褒貶は振れ幅が大きいのだろう)、しかし、はまったときに訪れる法悦は何ものにも代えがたい。

この協奏曲の第2楽章で幾度も訪れる激昂や絶叫の局面でも、オーケストラ・モーツァルトの音は驚くほど曖昧さがなく、切り子細工のような透明な色と乱反射によって響きは高次に引き上げられている。
終盤でバッハの旋律線を奏でるクラリネット隊にアバドが与えた空虚なパステルカラー。。それからあとの響きは驚くべきふわふわ時間である。色彩が触感を伴うなんて信じられますか?エロスは雲散霧消して、かわりにアガペーの暖かい光が差してくるような心地さえ。重い。アガペーが重い。

+ + +

ベートーヴェン。
この協奏曲はニ調の弾力を確実に持っているくせに曲調は起伏が少ないので、プレイヤーもリスナーも音楽の力によって逆方向に引き裂かれる。だからこの曲の演奏は至難だと考えているんだけど、アバドによって最適解がもたらされてた。

第2楽章がいい。平穏な曲調をあくまで平穏に、脱力しきって構築するアバドの秘策は、オーケストラの色彩によるセリー天国とでも言うべき手法であった。もちろん総天然色のベルクとは少し趣が違うけれども、ベートーヴェンでは同色の系統の中に凄まじく細密なグラデーションが起こり、それらがベルクと同じようにしっかりとした感触を伴っていて、ニ調の弾力をキープしている。

で、ファウストである。
上のほうでは積極的に触れずにきたが、ベルクもベートーヴェンも、彼女はこのアバドの手法にぴったり寄り添っている。すでにブリテンやプロコフィエフの実演でも体験したけれど、ごく緻密なアーティキュレーションの持ち主として、あたかも協奏交響曲の一ソリストのように違和感なく(そしてもちろん一頭地を抜けた存在感でもって!)アバドのランドスケープのなかに溶け込んでいる。上述してきたような音色世界にあっては、伴奏やソロという関係はあまり意味がなかろ。
第1楽章のカデンツァはシュナイダーハン版。

+ + +

なお、本CDはアートワークも愉快だ。ディジパックを開くと、ジャケットにも使われているクリムトの《ヘレネ・クリムトの肖像》が現れ、それをまたぽうっ…と見つめるアルバン・ベルクの横顔が見え、最後にベルクを捲ると裏側にベートーヴェンの素描が怖い顔をして待っている。
by Sonnenfleck | 2012-05-01 20:52 | パンケーキ(20)

ペーター・レーゼル ベートーヴェンの真影|第7回@紀尾井ホール(10/1)

c0060659_7563755.jpg【2011年10月1日(土) 15:00~ 紀尾井ホール】
<ベートーヴェン>
●Pfソナタ第24番嬰ヘ長調 op.78
●Pfソナタ第25番ト長調 op.79《郭公》
●Pfソナタ第11番変ロ長調 op.22
●Pfソナタ第7番ニ長調 op.10-3
●Pfソナタ第13番変ホ長調 op.27-1
 ○アンコール 6つのバガテル op.126~第3番変ホ長調
⇒ペーター・レーゼル(Pf)


レーゼルのピアノの「感想書けない性」の強さに立ち向かえないでいるどうも僕です。心の中で2週間も熟成させてたけどやっぱりダメだったので、もうテキトーに書いちゃいますよ。

・聴き手に緊張を強要しない音楽って、今や貴重な存在だ。
・だからと言って輪郭が曖昧なわけではない。ただ、行間に余裕がある。
・00年代は演奏に鋭い緊張感が求められた時代、あるいは、そうでなければ「名演」とは見なされない時代だったと思っている。じゃあ、これから先は?

・ベートーヴェンのPfソナタを目前にすると、アナリーゼが苦手だった学生時代のゼミのことを思い出して憂鬱な気分になる。だから、これらの32曲は老後の楽しみにとっておくことにしている。
・僕はレーゼルのシューベルトが好きだ。最小限のシューベルト。
・この日の演奏で、10-3の第2楽章と第3楽章にむしろシューベルトの真影を見つけてしまったのですが、どう考えたらいいでしょうか(アナリーゼができればその理由もわかるのか)。ニコニコにカサドシュの演奏があったので貼っておく↓


・絶望的に拍手の早い人物が一名。
・休憩時間にその彼を執念深く見つけ出し、大音声で罵り上げる人物が一名。
・ヲタが真影にやあらむ。

+ + +

・終演後は同行の友人と、四ツ谷駅前しんみち通りのルノアールへ。体調芳しからざれば黒蜜抹茶ミルクで暖まろう。あそこはルノアール各店の中でもルノアールレベルが高くて居心地が良く、実は何度も利用している。デイリーポータルZの情報ではあそこがルノアールの第一号店とのことだが、本当だろうか。
by Sonnenfleck | 2011-10-15 08:00 | 演奏会聴き語り

メータ/N響 東北関東大震災チャリティーコンサート@東京文化会館(4/10)

c0060659_17501469.jpg【2011年4月10日(日) 16:00~ 東京文化会館】
<東北関東大震災 被災者支援チャリティーコンサート>
●バッハ:管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068~エール
●ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 op.125《合唱付き》
→並河寿美(S)、藤村実穂子(MS)
 福井敬(T)、アッティラ・ユン(Br)
→東京オペラシンガーズ
→ズービン・メータ/NHK交響楽団


感想文を書くのを止そうかどうか、かなり迷った。
けど、ここは僕のブログで、僕が思ったことをメモしておく場所なのだから、踏ん切りを付けて書くことにした。今夜、N響アワーで取り上げられて、公演の様子をご覧になった方も多いと思う。見た人聴いた人の数だけ、感想があっていいだろう。

1. メータが来てくれたこと
無条件に手放しで嬉しい。彼の心遣いと行動に、僕は心から感謝したいと思う。どなたかがtwitterで「メータはアジア人だった」とつぶいていたのが印象的。

2. まるごとハウマッチ
今日までネット上のレヴューを読んできて、メータ来日と演奏内容を分けて考えるべきではないという考え方が(自覚的にせよ無自覚的にせよ)圧倒的多数であること、そしてこの公演のレヴューがほぼ絶賛一色であることがわかっている。なんとなれば、メータが来日してくれたことを批判する人などいようはずもないから。

今月初めの尾高/読響のマーラーを、僕は演奏行為と演奏内容を分割せずに受け取った。受け取ってぼろぼろ泣いた。したがって、事象をまるごと受容する聴き方を批判することなんてできるはずがないし、だいたい批判しようと思わない。

だから、今回たまたま、行為の意味と演奏の内容を分割して受け止めてしまった者の感想メモの存在を、どうか赦してほしい。
聴かれた方の感動を否定するなんてことは絶対にしたくないし、この感想文によって、感動された方の気持ちを損ねてしまうのが僕の本意ではないということは、厚かましいかもしれないけど、ご理解いただきたい。以下、圧倒的少数派の意見。

3. 遙かなる高みより
傲然として烈しく、揺るがず強靱で楽天的な「第九」。僕の心はここについていくことができなかった。
「いつもの第九」としては文句の付けようがない、日本にいて生で聴くことができうるものとしては最強の完成度であったと思うけれども、N響のパフォーマンスは常の比ではなかったけれども、ただ、そこについていけなかった。ぐじゅぐじゅと卑怯な前置きを書いたが、言いたいことはそれだけなんだ。

弱さ、しなやかさ、懊悩、繊細さ、柔軟さといった属性は、音楽そのものに初めからインストールされていることもあるし、パフォーマンスによって追加的に生まれることも多い。「第九」は、一般的に思われているよりは、指揮者の操縦次第でいろいろな属性を発揮することができると思うのだけど、メータの指揮は一点の揺るぎもない前世紀スタイルで、高いところから高らかに人類愛を叫ぶことを第一に考えていたみたいだった。陰も不安もない第1楽章と第4楽章に、時刻表のように楽天的なリズムを刻む第2楽章と、希望を謳う明るい大演説のような第3楽章と。

地震のあと、弱さや柔らかさのない音楽や演奏が苦痛に感じられる瞬間が、僕の脳みそに何度も訪れている。1ヶ月が経過して、もう元に戻ったかなと思っていたけど、今回の「第九」で気がついたのは、こうした感覚の変化が僕の心根に致命的に刻みつけられているということだった。
「ひとりじゃない」「ひとつになろう」の連呼が僕を変な気持ちにさせるのと同じように、高みから呼びかける演奏は、奥底まで届かずに消えるようだった。永遠にこの感覚を持ちながら生きていくんだろうか。今の僕にはわからない。

+ + +

物凄いオヴェーション。こんなときに日本に来てくれたメータと、それを実現したN響と東京オペラシンガーズの、行為の意味に対して僕は心から拍手した。石造りの巨大なモニュメントの建立式を、遠くのほうから、眺めた。
by Sonnenfleck | 2011-04-17 23:10 | 演奏会聴き語り

ブリュッヘン/新日フィル Beethoven Project 第4回(2/19)

c0060659_1455252.jpg【2011年2月19日(土) 15:00~ すみだトリフォニーホール】
<Beethoven Project>
●交響曲第8番ヘ長調 op.93
●交響曲第9番ニ短調 op.125 《合唱付き》
→リーサ・ラーション(S)
  ウィルケ・テ・ブルメルストゥルーテ(A)
  ベンジャミン・ヒューレット(T)
  デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン(Br)
→栗山文昭/栗友会合唱団
⇒フランス・ブリュッヘン/
  新日本フィルハーモニー交響楽団


◆第8番、ノーコメント。
この交響曲だけはいまだに正体がわかりません。ハイドンパロディ、そしてセルフパロディも含んだベートーヴェンの《古典交響曲》なんだろうなーということは薄々感じているが、この日の演奏でも確信には至らなかった。

+ + +

◆シンフォニア付きオラトリオ ニ短調 op.125a 《歓喜に寄す》
よくね、通のひとって、「第九は第3楽章まででいいんざんす」って言うでしょう。
しかしこの日の演奏を聴いてなお、そう言い切れるだろうか。

第1楽章第2楽章。泰西古典大交響曲の、大楽章としての。
ツィクルスを通していくつかの曲から奪い取ってきた交響曲性を、今度は自分の手駒として投入するブリュッヘン。確かに、古楽「風」アーティキュレーションをツールに用いながら、彼のやりたいことはフルトヴェングラーなどとほぼ変わらないのではなかったか。ジェットコースターのように上っては下る響きの波に洗われる客席。静まり返る。
そして、第8までの編成から弦の各パートを倍増させているにもかかわらず、アンサンブルの状態は前半とはずいぶん違う。劇的なパッセージで表情の彫り込みがより豊かになっているのはよく理解するけども、静かな局面においても静けさがより濃密になっているのは、これは綿密な練習の結果であろうよ。ツィクルスを通じて、新日のアンサンブルの状態は不安定と言ってしまってよかったが、当たったときのここ一番の集中力はなかなか凄い。

第3楽章レチタティーヴォ楽章としての
この扱い。まずここで、たいへん驚く。
1stVnやOb、Flなど、旋律を奏でる高音楽器の言語的な取り扱い、その揺らぎは、完璧に語りであった。そこへVcとKb、Fgまで勝手気ままに振舞うと収拾がつかなくなってしまうんだけど、そこは通奏低音としての役回りがちゃんと計算されていて、揺らぐ高音にヒタリ…とつけてリズムの一定の秩序を守る(この日のVcトップが花崎氏だったのはちゃんと意味があった)。この楽章は滔々と甘美に歌われるアリアではなく、レチタティーヴォだったわけだ。

1992年の正規全集(PHILIPS)、2006年のシャンゼリゼ・ライヴ(KARNA MUSIK)、聴き返してみればいずれもその萌芽があるんだけれども、実体験としてはもっと鮮烈であった。悠然と伸び縮みし、自由に呼吸する音楽。クラヲタに蔓延する第九アダージョ至上主義は、アダージョがアリアとして扱われることによる思考停止状態ではないのか。

そして第4楽章。要するに、レチタティーヴォのあとには何がくるかということ。
第3楽章のレチタティーヴォの雰囲気は、力強く訓練されたVc+Kb軍団によってさらに引き継がれる。その中ではあたかもVcがテノールソロ、Kbが通奏低音であるかのような分担作業が行なわれ、歓喜の主題を経てバリトンソロの登場が待たれる。。
ところが、バリトンソロがステージの上にいない。バリトンだけでなく、残りの3人もいない。合唱団は第1楽章からずっとオケの後ろに座っているのだけれど、ソリストたちが入場していない。二度目の不協和音が鳴り終わっても、ソリストが入ってこない。どうすんの!?
そうして、バリトンのウィルソン=ジョンソンが「O Freunde, nicht diese Töne!」と歌いながら、合唱団員をかき分けるようにして入場してきたとき、そして合唱団が「Freude」の入りを半拍以上、下手をすれば一拍程度早めて演技的に発声したとき、これはヘンデルがたくさん書いたオペラ=オラトリオのパロディだな、という妄想的結論に至る。ああ!そして時はもうまもなく四旬節なのであった(かつてヘンデルは、四旬節の間はオペラの上演を控えて、オペラ歌手にオラトリオを歌わせていたのです)

もうね、背すじがぞくりとしたですよ。
レチタティーヴォ→アリア+合唱という、確固たる連続性の演出にも賛辞を贈りたいけれども(第九に第4楽章は必要だということ)、僕はそれ以上に、そのもうひとつ外側の箱であるところの、演技性の表出に驚嘆させられたのだった。

これは何十年もバッハやヘンデルに立脚して音楽をやってきたひとでないと発想できない事柄だろうし、第九から最後の最後で「第九性」みたいなものを剥ぎ取って、指揮者が考えている、或る文脈の中に再び位置づける行為だった。ちゃんと思想の用意された回答であることよ。
(2008年のスタヴァンゲル響とのベートーヴェン・ツィクルスは、8&9の回のみ録音できておらず、この試みが新日フィルで初めて行なわれたものなのかどうか、ノイズなどから検証することはできない。ブリュッヘン月間終了後にでも、事務局サイドからの種明かしがあると嬉しい。)

+ + +

最後のロ短、どうなる。
by Sonnenfleck | 2011-02-20 14:55 | 演奏会聴き語り