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大野和士/ウィーン響のウィーン・プログラム@オペラシティ(5/18)

c0060659_1118977.jpg【2013年5月18日(土) 18:30~ 東京オペラシティ】
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759《未完成》
●マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
○シュトラウス:ワルツ《春の声》op.410
○同:ポルカ《トリッチ・トラッチ・ポルカ》op.214
○同:ポルカ《雷鳴と電光》op.324
⇒大野和士/ウィーン交響楽団


1月に水戸で聴いた大野さんのシューベルトがたいへん好くて、その勢いで買ってしまった本公演のチケット。しかしこの週に開かれた大野/ウィーン響のほかのプログラムの出来に対して、ネット上で続々とあがる非難の声たち。果たしてどうなってしまうのか。かえってすごく楽しみになってしまった音楽会。

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オペラシティっていまだにどこに座ったらいいかよくわからないんですが、この日は3階R1列目、舞台の真上の席をゲット。Rからだと指揮者とコンマスのやり取りが明確にわかるんだけど、他の公演で言われていたような、オケ側の著しい不服従は、少なくともこの日は観測できなかったのだった。そりゃー1stVnの後ろのプルトとか全然やる気ないテキトーなボウイングだったけれど。

ウィーン響のアンサンブル能力はすごく低いというわけでもない。汚く濁っているわけではないが独特の曇った響き、ごく甘いピッチ、奇妙な音の木管隊。そして(これがもっとも強烈なんだが)あの謎の自信、あの発音の強気さ!俺たちがクラシック!(ドヤァ)という振舞い。いやー味わい深いよね。しかしあれに10,000円以上払うのは癪だ。

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アクとクセと澱みと自信過剰に満ちたウィーン響を前にして、大野さんはどんな音楽をやる?可笑しいことに大野さんのマーラーは、これがまた、オーケストラに負けないくらい自信たっぷりで、そして圧倒的に「変」だった。

大野さんのマーラーは「うた」しかないキメラなのだ。その瞬間瞬間の主旋律を(あるいはメロディではない経過句ですらメロディとして)どんどん選びとり、べろべろと舐め回し、むしゃむしゃ噛み砕いて自分と同化させてゆく。
これはヴェルディとマーラーのハイブリッドみたいなものかとも一瞬思ったけど、そんな生やさしいものではない。こんなにメロディしかないマラ5を、僕は全然聴いたことがなかった。

この「メロディしかない戦法」は、マーラーの5番目の交響曲では本当にぎりぎりのところで成立するかしないか、というやり方と思われた。
あるメロディnを、それ自体を流麗にしつこく細やかに猛々しく歌うことについて、オケに対する大野さんの指示は実に明瞭で、解釈者としての自分はこうやりたい!という音楽が客席にもはっきりと伝達されてきた(ちなみに大野さんの歌の感覚は「ベタ」で、そしてその「ベタ」は自分にとっても気持ちよくなじみ深いもので、これはユダヤじゃなく演歌だなと思わされることたびたび)

ところが、メロディnの大集合として成立すべき交響曲Nを、俯瞰で引いた視点から観察すると、メロディn内部の歌心はあれほど細やかであったにもかかわらず(またメロディnの内部では、「前進」が味付けの一種として働いていたにもかかわらず)、交響曲Nのフェーズではある種の停滞さえ感じられた。つまり、メロディn同士の連関はそれほど重視されていなかったんではないかという考えがもやもやと浮かんでくるんである。「キメラ」は前に進むことについてあまり関心がない…!

かくして前も後もなく、その瞬間のメロディに淫する袋小路的なマラ5が現れる。結果として第2楽章や第5楽章で描かれた豊饒の宇宙は実に見事だったと言えるし、逆に第3楽章の異様な退屈さ、前進しない絶望感は無類だった。重いながらも物理法則のように粛々と前進するクレンペラーのマーラーの、かっきり正反対に位置するのがこのやり方なのではないでしょうか。

+ + +

シューベルトは深淵とか闇とか、そうしたものと無縁の一本気で剛直な演奏。この勢いなら「未完成」じゃなく「完成」になっていたかもしれぬ。
交響曲第7番ロ短調 D759《完成》←くくく。あたりまえ。
しかし振り返れば、マーラーと同じ絵の具、同じ筆、同じキャンバスで作ってあったのが少し気になった。そんなものかなあ。20世紀っぽい。
by Sonnenfleck | 2013-05-25 11:19 | 演奏会聴き語り

[感想文の古漬け]スダーン/東響 第600回定期演奏会@サントリーホール(5/26)

8ヶ月ものの古漬け。発酵してます。

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c0060659_21223035.jpg【2012年5月26日(土)18:00~ サントリーホール】
<マーラーのリート・プロジェクトその2>
●モーツァルト:交響曲第35番ニ長調 K385《ハフナー》
●マーラー:交響曲《大地の歌》
→ビルギット・レンメルト(MS)
 イシュトヴァーン・コヴァーチハーズィ(T)
⇒ユベール・スダーン/東京交響楽団


前半のハフナーがあまりにも名演で、気分が高揚してしまったのが記憶に残る。
アーティキュレーションの隅々までピリオドのスパイスを利かせつつも重厚な拍節感が保たれているので、あたかもカール・ベームの古い録音のような「格調高い」空気も感じるのが面白かった(東響の音色ともよく合致)。この交響曲の様式はたとえばプラハや第39番とはかなり違っているので、これはフツーにアリだよねえ。

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後半は「連作歌曲集」としての大地の歌が、より鮮やかにフォーカスされる。
スダーンとオケはきびきびした歩みが全編にわたって特徴的。歌い手がいない隙間は、歌い手の不在を補完するように濃密なテクスチュアが採用される。そして歌い手が舞い戻ると「織り」がサッと薄くなるのである。

当然のことながらそれはスコアの要求でもあるはずだが、ベートーヴェンやブルックナーと同じようにマーラーのシンフォニーを集中的に録音している指揮者たちでこの「歌曲集」を聴くと、意外にもそうした趣は感じられないんである。みんなこれを「交響曲」として捉えるということだが、スダーンはそうしなかったというわけ。

加えて、楽章間の連関があまり重視されないのも面白い。《美について》と《春に酔える者》などは濃厚なお化粧が施された結果、独立したオーケストラリートのように変貌する。そしてこうした処置は、バーンスタインの得意技でもある。。
by Sonnenfleck | 2013-02-07 21:23 | 演奏会聴き語り

インバル/都響<新・マーラーツィクルス>その5@東京芸術劇場(1/20)

c0060659_23334721.jpg【2013年1月20日(日) 14:00~ 東京芸術劇場】
●モーツァルト:Fl協奏曲第2番ニ長調 K314
→上野由恵(Fl)
●マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
⇒エリアフ・インバル/東京都交響楽団


くどくどと感想を書く気になれない音楽会。
僕はインバルの全面的信奉者じゃない。しかしインバルに率いられた今の都響が一段階ステージを上がってしまったのは間違いなかった。こういう演奏は好き嫌いの次元で語ってはいけない気がする。

都響マーラーツィクルスの5回目。僕が聴いた芸劇公演は3度演奏されるマラ5のうちの第2回目だった。
白眉は第1楽章と第2楽章。インバルは粘り気を込めつつも違和感のない(もうちょっと言うならベタな)フレージングを全面的に採用していたけれど、縦の一瞬一瞬ではまさに痺れるような音響を作り出していた。特に弦楽の内声・管楽器たちの音色に対する優れたこだわり、マーラーに必要な、切なげに甘えるような音色を実現するセンス、これに恵まれて失敗するわけがないんである。

僕は今回芸劇のRB1列、つまり舞台直上に座ったのだけど、第2楽章に顕著なユダヤっぽいメロディの瞬間のインバルは、恍惚として鼻歌を唄いながらVaやVc、Clにねっとりとした指示を出していた(ちなみにこの席は芸劇のなかでもっとも好い音がする場所と思う)。その結果として都響が啼く。その音響はである。
繰り返すけどこういうマーラーは苦手だ。でもあの響きを評価しないなんて許されない。矢部コンマスの鬼神のようなリードも忘れがたい。

アダージェットがドライだったのも違和感がない。こういうところでインバルが見せる醒めきったバランサーとしての姿は「敵ながらあっぱれ」という感じ。

むろん終演後は凄まじいブラヴォの嵐。僕の席はだいたいステージ上と同じような聞こえ方がしていたはずで、楽員さんたちの喜びと驚きの表情もよくわかる。最後はインバルの一般参賀→インバルがTp高橋首席の手を引っ張って一般参賀その2→さらに矢部コンマスまで捕まえてきて一般参賀その3、という大盛り上がりなのであった。

+ + +

この公演の前日、マーラーツィクルス後期セット券を購入した(本当は芸劇がよかったけど、諸々の事情からみなとみらい)。後期交響曲はインバルの大きくてふてぶてしい自意識をがっしりと受け止めるのだから、これを聴き逃すわけにはいかないんだよね。ただ多くの人たちがそのように考えたみたいで、1回券がほとんど発売されないかも、という回もあると聞いている。。

みなとみらいはベルティーニのマーラーをたくさん聴いた思い出のホールだけど、いつまでも彼の思い出のなかに生きるわけにはいかない。今のハイパーな都響を、きっとベルティーニもにこにこして見つめているだろう。
by Sonnenfleck | 2013-01-27 00:08 | 演奏会聴き語り

インバル/都響<新・マーラーツィクルス>その1@東京芸術劇場(9/15)

c0060659_6114552.jpg【2012年9月15日(土) 14:00~ 東京芸術劇場】
●ベートーヴェン:Pf協奏曲第2番変ロ長調 op.19
→上原彩子(Pf)
●マーラー:交響曲第1番ニ長調《巨人》
⇒エリアフ・インバル/東京都交響楽団


これまでの自分の聴体験を信じれば、インバルという指揮者には強く同意できる側面とそうでない部分があって、結果として、全面的に好きな指揮者とは言いにくい状況にある。熱狂t的なファンの方が多いのでなんだか申し訳ないのですが。。

インバルが新しく始めたマーラーツィクルスの、この日は記念すべき第一回。
都響のマーラーというと、みなとみらいホールでの故ベルティーニの姿があまりにも鮮明に思い出されてしまう。インバルに対して感じている上述のような思いもあって、少し複雑な気持ちなんである。

ベルティーニの晴朗にして波高からぬ、耽美なマーラーをこころの基準に置いていると、インバルのマーラーの、時には強引と思えるえぐみやしつこさには簡単には感心できない。そんな瞬間は確かに多かった。

でももう少し分解して聴いていくと、マーラーが飾り付けた第3楽章マルティン君テーマのなかのクレズマー要素を非常に的確に再現させているのがよくわかるし(ここでバスドラムに小さくて硬いヘッドのバチを用いて、チンドンの輪郭を際立たせる技などはさすがだ)第4楽章の爆発的な音量の中でも木管隊をけっして埋もれさせない立体感も好きなところだ。インバル、物凄い角度のベルアップを要求していましたね。そして終盤では明らかに後期交響曲の音が先取りされている。

+ + +

ところで今回、もっとも感銘を受けたのはベートーヴェンの第2楽章です。あの官能的肉感的なアダージョはいったい…。プロコフィエフの急速楽章専門家にして重火器系ピアニスト・アヤコウエハラ(第3楽章などあまりのぶっ叩きぶりに笑ってしまった)を包含してもなおあのアダルトな音楽!

とりあえず、ツィクルスその5の安席を会場で買ったのだった。
by Sonnenfleck | 2012-10-02 06:14 | 演奏会聴き語り

大友直人/東響 第599回定期演奏会<マーラーのリート・プロジェクト始まる>@サントリーホール(4/15)

c0060659_6284593.jpg【2012年4月15日(日)14:00~ サントリーホール】
●ラフマニノフ:ヴォカリーズ
●マーラー:歌曲集《子どもの不思議な角笛》~
 むだな骨折り/不幸な時の慰め/天国の喜び/
 魚に説教するパドゥアの聖アントニウス/
 塔の中の囚人の歌/死んだ鼓手/少年鼓手
→トーマス・バウアー(Br)
●スクリャービン:交響曲第2番
⇒大友直人/東京交響楽団


某オークションで良席がずいぶん安く出ていたので、急遽落札して聴きに行くことに。大友氏の指揮を聴くのはとーっても久しぶりです。

シェーンベルク年度の最後に《ペレアスとメリザンド》を聴いて、東響の恐ろしく深い音色に心から感じ入ったのだったが、その音色はこの日も比較的同じであった。あるプロジェクトを通じてオケの音色がもう一段階上に昇格するということはあるんだね。僕はスダーンの音楽づくりすべてに賛成という立場じゃ(たぶん)ないけど、「監督」の役割を着実に果たしている点に関して、強く敬意を表するものです。

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後半のスク2、あまり緻密な交響曲じゃないようだけれど、妙に破天荒な勢いがあって面白い作品だったな。。
ワーグナーの魂がリンツに避暑してブル3、ヤルタにバカンスに出掛けてスク2、といった風。曲中に愉快なリズムピースがたくさん潜んでるのも、ブルックナーと共通している。でも最終楽章でハ長調を爆発させちゃうのは、熱いロシア魂がなせるわざだ。しつこいパウゼのコンボに苦笑。

しかし肝心の大友氏は、、トゥッティを勢いに任せても響きに清潔感があり、若々しい音楽が形成されるのはよいものの、リズムピースを全然重視しないところ、それから音色のパレットに数色しか絵の具がないのには閉口した。パターン化は決して悪いことじゃないが、特に音色の単調さについては、共感覚を持ってたようなひとの音楽ではいかにもまずかろうと思う。また、しばらく聴くのを止そう。。

+ + +

でも、前半のマーラーがたいそう佳かった。
ソロを取ったバリトンのバウアーが、やや軽めの、健康的な明るい声質を活かしつつ、知的なデクラメーションを駆使してテキストを解釈してく。
この曲集、実はクヴァストホフ+オッター+アバドの録音がピンと来なくてこのかた、ずいぶん聴いてなかったんだけど、この日のバウアーの歌唱によって、この曲集のマーラー音楽における重要性を再認識することができた。

つまり、いくら1900年頃のマーラーが独墺楽壇の異端だったとしても、いちおうはシューベルトのような均整を踏まえた上で歌曲を作曲していたということを、歌い手と伴奏者は忘れるべきじゃないってことです。

〈塔の中の囚人の歌〉〈死んだ鼓手〉で、イロニーの後ろに静かに響いている寂寥感は、歌い手のわざとらしい諧謔で簡単に打ち消されてしまう。この日のバウアーの自然で高貴な発音は、浪漫の泥濘からちゃんとマーラーを掬い上げていたし、大友氏の清潔な音楽性もここではプラスに働いていました。
by Sonnenfleck | 2012-04-16 06:29 | 演奏会聴き語り

こえがききたい

c0060659_2365226.jpg【DGG/POCG4085】
<ヴォルフ>
●ミニョンI 《語らずともよい》
●ミニョンII 《ただあこがれを知るひとだけが》
●ミニョンIII 《もうしばらくこのままの姿に》
●ミニョン 《ごぞんじですか、レモンの花咲く国》
●《四季すべて春》
●《問うなかれ》
●《お澄まし娘》
●《羊飼い》
●《ヴァイラの歌》

<マーラー>
●《無駄な骨折り》
●《ラインの伝説》
●《去って!去って!》
●《高い知性への賛美》
●《春の朝》
●《ファンタジー》
●《わたしは緑深い森を楽しく歩んだ》
●《想い出》
●《セレナーデ》
●《トランペットが美しく鳴るところ》

⇒アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(MS)+ラルフ・ゴトーニ(Pf)

今や熟女の魅力でわれわれを煙に巻くフォン・オッターおばさんだが、このディスクは、まずジャケ写真の80年代的雰囲気に驚かされる。オッターの厖大な録音歴のごくごく初期のものであるらしい。そしてなぜか、彼女自信の公式サイトのディスコグラフィからは消去されている。

ヴォルフの音楽はほんとうに変だ。変すぎて今でもあまり聴かれていないのは納得のいくところで、至極まっとうな現状だ(わかりやすい藝術などクソ喰らえ)。ヴォルフと並べて聴くと、マーラーが根っこに持っているポピュリズムが芬々と臭ってきて実に厭な気持ちになるのが、このディスクの善いところ。

ところで、むすめさんが唄うヴォルフは佳い。
フォン・オッターおばさんになってからアーティキュレーション錬金術の生け贄になって消えてしまった、素肌の奥にわだかまっている闇のような暗い地声が、ヴォルフの奇怪を引き立ててやまない。
by Sonnenfleck | 2012-03-19 23:49 | パンケーキ(20)

デュトワ/N響の "Tausend" 第1715回定期@NHKホール(12/3)

c0060659_21461930.jpg
【2011年12月3日(土) 18:00~ NHKホール】
●マーラー:交響曲第8番変ホ長調
→エリン・ウォール(S)、中嶋彰子(S)、天羽明惠(S)
 イヴォンヌ・ナエフ(A)、スザンネ・シェーファー(A)
 ジョン・ヴィラーズ(T)、青山貴(Br)、ジョナサン・レマル(Bs)
→東京混声合唱団、NHK東京児童合唱団
⇒シャルル・デュトワ/NHK交響楽団


デュトワが造形した第一部は、日本での第8演奏史上、もっとも個性的な部類に入るものではなかったかと考える。音楽が自律的前進に、音楽家のほうで制限をかけたという意味で。あるいはこの作品で、ちゃんと「表現した」という意味で。

+ + +

マーラーのこの交響曲に魅入られてまだ三四年程度ではあるけど、僕が聴いてきた指揮者はすべて、この夜のデュトワのようではなかった。
ことに、第一部はよほどのことがないかぎりは、曲自体の重みで豪華客船のように前進していくものだと思っていたんだよね。それ以外の在り方があるとは全然考えていなかった僕の眼前に広がったのは、異形の「流れない」演奏であった。

夏くらいにウェブラジオで聴いたダニエレ・ガッティ/フランス国立管の第8もずいぶん「流れない」演奏だったが、あっちが曲に多量の水とき片栗粉を入れただけだったのに対し(それはもうでろでろ)、デュトワはもうちょっと老獪である。

彼が取り組んだのは、執拗とも言える「響きのバリケードづくり」。
陶酔的なレガートのかわりにクリスプなスタッカートを全面的に適用した結果、余計な水気が蒸発。楽句は裸になって、パーツ同士が一瞬で縦方向に組み上がり、マーラーが元来この曲に与えたであろう立体感が自然に現れる。このバリケードが邪魔をして、温暖湿潤な流れはすっかり犠牲になったが、そのかわり得られた新鮮な響きといったら!この曲にはこんなに豊かな表情がつく余地があったんだね。
(※ネット上では、このマーラーの不思議な感触の理由をNHKホールのデッドな音響だけに求めるレヴューも目立つが、自分はそうは思わない。デュトワが元からトゥッティを強烈に締め上げて、楽天的ぶよぶよを排除した結果だと思うんだ。)

+ + +

さて、これでは大方の千人ファンはぷんぷん怒ってしまうんじゃないかと思ったんだけど、第二部は清純系「フツー千人」への見事な転身をやってのけるのが心憎い(テノールだけ妙に不純で残念でした)。やっぱりデュトワの独墺レパートリーって独特の魅力があって面白いよねえ。
by Sonnenfleck | 2011-12-05 22:12 | 演奏会聴き語り

ぼくのマーラーはじめてものがたり(5/18)

この日がマーラーの没後100年にあたる。5月17日の夜にちゃんとCDをリッピングしてiPodに仕込んだのだ。
僕が初めて聴いたマーラーは、亡くなった祖父が自分のCDコレクションからくれて寄越した、ハイティンク/コンセルトヘボウ管の《巨人》。PHILIPSの臙脂色ラインと、ジャケットの色づかいがシックでしょ。

初めて聴いたマーラーは、奥行きと広がりのある音楽であった。ベートーヴェンもモーツァルトもいいけれど、マーラーは表現したい事柄がずいぶん違うようだった。しかしこの演奏だから、なんの苦もなく自然に、マーラー世界へ足を踏み入れることができたのだと思う。ここにプレーンの良さが極まっているのさ。

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c0060659_23293744.jpg【PHILIPS/32CD-615】
●マーラー:交響曲第1番
⇒ベルナルド・ハイティンク/
 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団




第1楽章からして、未明の小雨で適度に湿気を含んだ夏の早朝みたいに気高い。そこへ木管の光線が差し込んでくる。心底きれいだ。浮かれがちなフレーズも(おそらくはハイティンクらしい品の良い自律心で)抑制が効いてる。
夜会のランプで魅せるマーラーもたくさんあるけど、日光と素肌美人、みたいなナチュラルな美しさはこの録音で聴けるコンセルトヘボウの一人勝ち。比類がないよね。マジでね。騙されたと思ってみんなに聴いてもらいたい。

大地の歌の終楽章を思わせるほど静謐に、丁寧に、ハイティンクはこの楽章を作り込んでいる。マーラーの本質のひとつでもある稚気から、注意深く離れて。そこにオケの深い音色が力を貸しているのは自明としか言えない。

第2楽章はエレガント。
ここに差し掛かると、ケーゲルがこの楽章をとっても残忍に作っているのがいつも思い出されるんだが、ハイティンクもコンセルトヘボウも、この楽章を幻想交響曲みたいに軽めのロマンに仕立てているんだよね。
さらに、第3楽章はまるでブラームスでもやるようにくすんだ音色が美しい。
木管のアンサンブルは高級きんつばのように深い色をしながらしっとりと湿り、極上の甘い香りを漂わすのです。

さて、ブルックナーの最終楽章みたいに堅牢な第4楽章の据わりの悪さが、この演奏の面白みであり、佳きところでもあろう。と、今こそ思う。

第1楽章の革新性は、ハイティンクの天性の勘とオケのスペックの猛烈な高さで乗り切ってしまったような感じだけど、比較的古めかしい様式の第4楽章は、既存の語彙に変換された上で処理が行なわれているようです。HrやらFlやらが弦の細かな模様の上でヒラヒラするパッセージなんて、オケの音がワーグナー専用みたいに重厚なギアにチェンジされて、いかにも古めかしい。柔らかなポルタメントがあちこちに降り注ぐ様子を一言で表せば、萌えである。
by Sonnenfleck | 2011-06-23 23:38 | パンケーキ(19)

尾高忠明/読売日響 東北関東大震災チャリティーコンサート@東京文化会館(4/2)

c0060659_12325729.jpg【2011年4月2日(土)18:00~ 東京文化会館】
<東北関東大震災 被災者支援チャリティー・コンサート>
●バーバー:弦楽のためのアダージョ op.11
●マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
 ○エルガー:《エニグマ変奏曲》op.36~〈ニムロッド〉
⇒尾高忠明/読売日本交響楽団






この日の演奏を僕は忘れないと思う。音楽と演奏によって整理されたもの、解毒されたもの、受け取ったものがたくさんあったから。
生の音はこれほど情報が多かったか。大オーケストラはこんなに大きな音がしていたか。思い出せない。1ヶ月以上ライヴを聴いていなかったからなのか、自分の神経が過敏になっているせいなのか、とても刺激が強かったことを冒頭に記しておく。

+ + +

バーバー。終了後の拍手はご遠慮下さい、とのアナウンスがあり、照明をぐっと絞ったステージに弦楽隊と尾高氏が歩み出る。静かに音楽が始まり、静かに終わる。

10分間の休憩。お客さんの入りは4割くらい。

マーラーは振幅の大きい演奏であった。獣のように威嚇するアクセントと、佳い匂いのする果物のようなレガートがあえて隣り合わせに並べられて、マーラーの内面の不確実性、あるいはマーラーが観測した外側世界の不確実性がはっきりと照らし出されていた。
速報性の高い複数のメディアでは好意的なレヴューが少なくて意外だったが、ここで顕れた「不確実性」は演奏の不確実性ではなく、ある程度までちゃんと整理され演出された不確実性だったということを力説したい(ミスを拾う聴き方はしたくないし、だいいちTpやTb、Vaは堅固に安定していたよ)。尾高さんがこんなに彫りの深い音楽を作るとは、正直、思っていなかったです。
(第4楽章でさらに彫りを深めてメロメロ演歌調にしちゃわないのは尾高さんの見識だろう。繊維質、まではいかないくらい適度になめらかで、テンポも速くはないが、その中でもいちフレーズごとにちゃんと芯があって、響きはすっきりしている。)

僕はいま地震の後の世界に生きて、それまでの自分が(なんとなく)思っていた「生きることの確実性」みたいなものがただの錯覚でしかなかったことを知った。怒りと慈しみがごた混ぜになった第2楽章を聴いて、マーラーもきっと生きているのが怖かっただろうな、などと思う。真ん中にあるVc隊の静かなモノローグ。
でも。でもである。
絶望的な葬送行進曲から始まって、ようよう第2楽章の途中から一条、光が差し込んでくるようなこの交響曲の、その第5楽章まで来て、和らいだ響きにざぶんと浸ること暫し。生きている内面に不確実性を抱えたままでも(外側世界の不確実性に絶望していても)、そして完璧な生でなくても、ただ生きているからには、ただ生きていかなければならないと、僕はここで強く感じたのであった。

+ + +

以下、尾高さんのスピーチを思い出して。

「昨日、薔薇の騎士の上演が決まった。マノン・レスコーも、東フィル100周年のグレの歌も皆なくなってしまっててんやわんやだったが、ここまで漕ぎ着けた。」
「今すぐにでも被災地に駆けつけて瓦礫の撤去を手伝いたいが、それも叶わないなら、音楽家はとにかく、演奏しなければいけない。暗くなっていてはだめだ。なんとか音楽で明るくしていきたい。」
「バーバーのアダージョは本当に辛かったが、演奏した。天国にいる方たちに届けばと思う。」
「本来、マーラーの5番の後にアンコールをやるなどありえないが、今は特別な状況でもあるし、(コンマスの)ノーランさんの提案を受けてエルガーのエニグマ変奏曲からニムロッドを演奏する。エルガーが本当に大切な友人を描いた音楽だ。」


ニムロッド。大ホールが音楽に満たされている間、あちこちからすすり泣きが聞こえてきて、僕自身、息を吐き出すときに嗚咽が漏れてしまわないよう、自分を抑えるのがやっとでした。あの音の優しさ、気高さはまたとない体験であったと思う。
by Sonnenfleck | 2011-04-03 12:34 | 演奏会聴き語り

インバル/都響 第701回定期演奏会@サントリー(6/19)

c0060659_229059.jpg【2010年6月19日(土) 19:00~ サントリーホール】
●マーラー:交響曲第2番ハ短調 《復活》
→ノエミ・ナーデルマン(S)
  イリス・フェルミリオン(MS)
  二期会合唱団
⇒エリアフ・インバル/東京都交響楽団



激しい蒸し暑さ。
W杯は、僕にとっては遠い国の遠い出来事。

インバルは、何度か実演を聴いても、正体が掴めない指揮者であった。全局面に渡ってクリティカルヒット!というライヴを聴いていないのも大きかった。
しかしよく考えると、これまでに聴いたインバルのライヴは、いずれもベートーヴェンだったんだよなあ。徹底解釈者・インバルにとっては、ベートーヴェンは革新的というより古典的で、彼が20世紀から後ろを振り返ってベートーヴェンを捉えているのが、あの演奏からはよくわかる。ピリオド系の人々が尊ぶ「フォルムそのものの運動性」には、たぶん彼は興味がないんだと思う。

それを踏まえた上で、マーラーは、彼の巨大な自意識や解釈したい気持ち、みたいなものが存分に充満できる大きな水槽だということが判明する。アマゾンの白くて巨大な魚が大きな水槽の中を悠々と泳ぐようにして、インバルのトップギアが入る。つまり、非常に壮絶な演奏が展開されることになる。

+ + +

特に第1楽章第3楽章後半の空気感は、忘れることができない。
時折烈しく畳み掛けるような強いテンポをメインとし、ソリッドな響きでもってそれを固めていくやり方。また同時に、インバルが歌いたい、テクスチュアが薄い箇所で急激に歩調を緩めて、とろりとして美しい「澱み」を混ぜるやり方。これは2008年にNHKで視聴した《千人の交響曲》と同じアプローチでありました。第1楽章の第2主題は効果的にポルタメントが用いられ、甘い蜜のようで胸が熱くなったよ。

ただ、この両楽章に特徴的に頻出する破裂音・炸裂音が、調理されないままと言ったらいいのか、原始的な硬い音響で処理されていたのはいささか意外であった。僕の席が打楽器に近かった(というか舞台真横)ので、打楽器の直接音によってマスクされたためかもしれないけど、もっと多層的にうごめく炸裂音を予想してたんだよね。全体を俯瞰する席で聴かれた方、いかがでしたか。

しかし、空気がこんなに張り詰めているとは。。指揮者とオケの緊張感も鋭いし、お客さんもそこから緊張が伝染して厳しく集中しているし、音の行間には空調のかすかなホワイトノイズだけが乗っている。楽章が終わったところでお客さんがふうっと息を吐き出すのがわかる。

第4楽章第5楽章のつくりはオーソドックスで予定調和的。でも感動しちゃうのがこの曲なんだよねえ。在京オケ定演では数年に一度聞かれるかどうかというクラスの、大人数&大音声のブラヴォが飛び交う。

+ + +

この公演では、都響のポテンシャルが最大限に引き出されていたことも触れておきたいなあ。
都響の管楽首席陣はみんな自律的に歌心があって素敵だし(Ob広田氏、Tp高橋氏、独唱に合わせる局面の歌心が素晴らしかったです)、弦楽もやはり、自律的にアンサンブルを形成する意気込みを強く感じる(この日はあの湿気にも関わらず弦楽陣の精度が抜群に高かったが、なかんずくVaとKbが実にクールであった)
矢部コンマスがマーラーで美音を奏するとどうしてもベルティーニのことを思い出しちゃうけど、あの時ともまた違う、第一級のマーラーが繰り広げられた。
by Sonnenfleck | 2010-06-20 22:28 | 演奏会聴き語り