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ブリュッヘン・プロジェクト第3夜|18世紀オーケストラのシューベルト、メンデルスゾーン@すみだ(4/6)

c0060659_7382884.jpg【2013年4月6日(土) 18:00~ すみだトリフォニーホール】
<ブリュッヘン・プロジェクト第3夜>
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759《未完成》
●メンデルスゾーン:交響曲第3番イ短調 op.56《スコットランド》
 ○バッハ:カンタータ第107番《汝何を悲しまんとするや》BWV107~コラール
 ○ヨゼフ・シュトラウス:ポルカ・マズルカ《とんぼ》op.204
⇒フランス・ブリュッヘン/18世紀オーケストラ


嵐の夕べ、すみだで18世紀オーケストラは19世紀オーケストラに変貌していた。
ブリュッヘンが18世紀老人から19世紀老人に変容して新日フィルを指導していたのは何度か聴いているが、CDで何度も鑑賞してきた彼「ら」のロマン派作品をこの耳で最後に体験できたのは、本当に、本当に幸せだった。

+ + +

まずシューベルトは。これは僕の当初の予想にもっとも近い、典型的な00年代ブリュッヘン像をしっかりと示していた。とにかく静かで、不穏で、冷たい風がひゅうひゅう吹いているようなグロテスクな音楽。生で聴くとああいう感じなんであるなあ。
2007年のブリュージュライヴをFMで聴いて書いた感想文とほとんど変わらないので、それをほぼそのまま転載しておく。
まず1曲目の《未完成》を聴いて、冗談ではなく心臓が止まるかと思った。暗くて、激しい、どん底の演奏でありました。一筋の光明もない。

第1楽章。胸を抉るような低弦の響き、Flが断末魔の声のように引き伸ばされて第1主題を締めくくり、したがって第2主題はなかなか訪れない。訪れたら訪れたで、気を病んでしまったような暗鬱な音をしている。音楽家は、お客を集めて、お金を取って、こんなに破滅的な音楽をやっていいんでしょうか。。

展開部が来ても、再現部が来ても、この暗さがまだ続くのかという印象が強い。夜のあとに夜が明けない、残酷な音楽です。咆哮がこの世のものとは思えないのです。大袈裟に書いているのではありません。全部本当にあったことです。

第2楽章。今度は予想外に軽くてそっけない。最初の下行音型主題の提示が終わって、付点の付いた主題が登場すると、いよいよ音の量感がすーっと消えます。青く美しく透き通った沼地、それは毒が流れ込んで生き物が住めないから。
2007年7月6日
+ + +

そして後半の《スコットランド》で、僕たちは19世紀のリアルを聴いた。
19世紀のリアルとは何か?19世紀のリアルとは、つまりそれは数十年前までバロックだったということ。簡単な事実です。

相対的に数を増やしていった弦楽隊に埋もれてしまっている木管隊の旋律を復権させ(第3楽章)、低音擦弦楽器とファゴットに通奏低音のフォルムを要請し(特に第1楽章のおしまい)、トランペットとティンパニには彼らが誕生した原初の「ランドスケープ」を思い出させる(第4楽章)こと。

30年間ずっと一緒にやってきた彼「ら」が簡単そうにこれをやってのけるのを目の当たりにしながら、僕はメンデルスゾーンを愉しむ。ただ演奏実践がすべてであった時代の音楽を。これが彼「ら」の着陸地点なのだろうなあといま思うのです。第3楽章の美しすぎるメロディと、それを自在に歌い上げるオーケストラの幸せな横顔とブリュッヘンの大きくて小さな背中を見ていて、涙が出て仕方がなかった。

+ + +

正規のプログラムを聴きながら、アンコールには何をやってくれるのかを断片的に考えていた。《真夏の夜の夢》のスケルツォなら寂しくて据わりがいいな。

ところが、車いすから降りて再び指揮台に上がったブリュッヘンが長い腕を振り下ろすと、明らかにバロックのダンスナンバーがオケから流れ出したので驚く。
付点のある3拍子系、寂しいメロディ、フレーズの残り香は少なからずフランス風、なので、心のなかで密かにラモーを期待していた僕はラモーと判断したのだが、耳からの様式判断がよろしくないのはかつて大学で学んだことなのであった。



↑この16:17~。バッハのカンタータ第107番から最終コラール。
コラールなので厳密に言えば世俗のダンスじゃないわけだけど、これはたとえばバッハが管組第1番で使ってるフォルラーヌのリズムの準用なのだ。19世紀オーケストラはまた18世紀オーケストラに戻った。
今どきのハイパーな古楽アンサンブルのバロックとは少し違う、どっしりした粒あんの大福みたいなバロック。明晰より野趣。しかし付点のリズムはきつくなく、角は柔らかい。最後に彼「ら」は僕たちにバロックを聴かせてくれたのだ。何を悲しもうとしているのか。僕たちは。

客席に、徐々にスタンディングオベーションが広がっていく。東京の音楽シーンで自然なスタオベが起こることはほとんどない。そうなんだよね。みんなブリュッヘンと18世紀オーケストラを聴きに来たひとたちなんだ。僕も立ち上がる。

そして最後に舞台から流れてきた音楽も、僕たちの度肝を抜いた。
ヨゼフ・シュトラウスの《とんぼ》!
やはりメンデルスゾーンと同じ公平な管弦バランス。透き通った羽の、優しくて、華やかな、寂しいとんぼ。いまこうして思い出していても、胸にこみ上げるものがある。満場のスタオベに応えて、指揮者の一般参賀が二度。そして最後に、ブリュッヘンを真ん中にしてオーケストラみんなが横一列に並んでみんな参賀。とんぼの羽に腰掛けて、リコーダー仙人は遠くに行ってしまった。ありがとうブリュッヘン。ありがとう18世紀オーケストラ。
by Sonnenfleck | 2013-04-14 08:32 | 演奏会聴き語り

晴読雨読:藤谷治『船に乗れ!』|R-28の青春音楽(悔恨)小説

藤谷治『船に乗れ!』、2008年、ジャイブ(2011年、ポプラ文庫ピュアフル)
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そもそもこの作品を知ったのは、僕がいつも更新を楽しみにしているふたりの書き手さん(「木曽のあばら屋」さんと「Blue lagoon」さん)がこの作品に賛辞を寄せていたからである。
音楽一家に生まれた僕・津島サトルは、チェロを学び芸高を受験したものの、あえなく失敗。不本意ながらも新生学園大学附属高校音楽科に進むが、そこで、フルート専攻の伊藤慧と友情を育み、ヴァイオリン専攻の南枝里子に恋をする。夏休みのオーケストラ合宿、市民オケのエキストラとしての初舞台、南とピアノの北島先生とのトリオ結成、文化祭、オーケストラ発表会と、一年は慌しく過ぎていく。書き下ろし、純度100パーセント超の青春音楽小説。(「BOOK」データベースより)
事務的なあらすじはこんなもんだが、主題として紹介すべきなのは、
・人間はどこまでも利己的で醜悪であるということ
・努力は報われないことのほうが多いこと
・取り返しはつかないことのほうが多いこと
・相容れない存在や苦しい事実を是認しながら生きていくしかないこと
・それでも、音楽と一体になれば痺れるような法悦が得られること
というようなところ。
本書は出版されたレーベルがヤングアダルト向けのようで、書店に出かけていっても「上等なラノベ」くらいの扱いしか受けてないのだが、自分はこれを中高生が喜んで読むとは到底思えない。むしろ未来に希望を持つ若人にとっては害毒ではないかとさえ思う。「何ものにもなれなかった」後悔の濃霧が全体を覆い尽くしている。

+ + +

おそらく―おそらくと書いておこう、人生はフィクションのように綺麗に伏線が回収されたりしないし、理由のない出来事も多かろうと思う。
その真理をあえてフィクションに入れ込んでしまうなんてことをすれば、表裏が裏返って「エンタメ作品としては」破綻しそうなものだが、作者は微妙なバランスでもって破綻を最小限に食い止めようと試み、でも結局は絶妙に破綻して、ジュブナイルでも恋愛小説でも青春追憶小説でもない、何ものでもない痛痒い余韻を残しながら物語は終わる。
ともかく、読後の後味の悪さは近来のエンタメ小説とは確実に一線を画す。僕は今のところ、この作品を再読しようという気が全然しない。

このままでは、僕はこの場で紹介文を書こうとは思わなかったと思う。
しかし、この本筋に対して宿命的に、分かちがたく絡みつく悪い蔦のような音楽の描写(より正確には奏楽の描写)が、異常なほど優れている。クラを愛する者であれば一発でハートを持っていかれる。それを心の底から請け合いたいと思うから、この小説をご紹介する。
技術的な恐怖、我のぶつかり合い、合奏の法悦。上のほうで「何ものでもない」と書いたが、もしかしたら、これは頗る変わった姿をした音楽小説かもしれない。

ブラ5、貼っときましょうか。時代的にはリヒターがいいですね。


by Sonnenfleck | 2012-06-12 22:38 | 晴読雨読

テツラフ+児玉桃+スダーン/東響 第589回定期演奏会@サントリーホール(5/14)

c0060659_222419.jpg【2011年5月14日(土) 18:00~ サントリーホール】
●シェーンベルク:室内交響曲第2番変ホ短調 op.38
●メンデルスゾーン:VnとPfのための協奏曲ニ短調
→クリスティアン・テツラフ(Vn)+児玉桃(Pf)
●ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調 op.55《英雄》
⇒ユベール・スダーン/東京交響楽団


充実した一夜。聴きに行ってよかった。

何を隠そう、在京オケの中でもユベール・スダーンだけは生で聴いたことのないシェフで、10年くらい前はしばしばNHK-FMで流れていたモーツァルテウム管とのライヴ(ザルツブルク音楽祭)のほうが、東響よりもなじみ深いくらい。

+ + +

◆片付けないシェーンベルク。
第2楽章がとてもよかった。シェーンベルクによるマーラーへのオマージュとでも言うべきこの楽章を、あえてとっちらかったままばらばらばらっと開帳したのは、これはひとつの見識だと思う。楽器があちこちでぶつかり合う小爆発が連続して、テンションも上がる(もちろん、爆発を避けて太い縄で縛り上げるのもやり方)



◆「メンコン」タイトルに史上最強の挑戦者
ただの忘れ去られた秘曲だと思ってました。第二次大戦後にソロ+弦楽オケのみのパート譜が発見。この日の演奏で使われた、管楽器とティンパニ入りの完成稿が見つかったのは80年代に入ってから。その完成稿の蘇演はなんと1999年ということで、バリバリの秘曲だよね。
ところが聴いてみたらね。この曲のクールなことといったらない。こんな名曲がいまだに市民権を持たず、10年以上もほったらかしなのは理解に苦しむ。ソリスト複数ってのが鬼門なのかな。

ニ短調の疾走で幕が開く第1楽章の第1主題は、古風な気配。まるでバッハがアリアを導くようにして二人のソロの登場を促している。この曲を作曲した14歳のメンデルスゾーンは、wikipedeiaによれば、クリスマスプレゼントにマタイ受難曲のスコアをもらっているようで、何か意義深いものを感じずにはおれない。
オケがメン様らしい爽快な第2主題を仄めかして消えると、ソロの二人が電撃のように降り立つ。テツラフの鋼のような音と(すげーうめーまじでー)、桃さんの円やかな音が融け合って、えも言われぬ快空間。なおオケは軽めのギアに完全に切り替えられて、ひたすら薄くて軽い刻み隊に徹している。

擬バッハの硬質な第1楽章を引き継ぐ第2楽章は一転して緊張がほぐれ、特有の麗しい浪漫がふあふあと漂う。テツラフは相変わらず鬼神のような弓捌きだけども、時おり垣間見える優しい歌心にギャップ萌え。
そこへ桃さんの綺麗なアタッカで第3楽章。リズミカルでちょっぴりセンチメンタルなロンド形式はこれぞメンデルスゾーン!の貫禄。それにしてもテツラフがあまりにも巧くて言葉を失うのだった。なんだありゃあ。



◆凍れるエロイカ
この夜のエロイカには、ネット上ですでに多くの賛辞が集まっている。同意しないわけじゃない、が、僕はここでのスダーンの造型に物凄いフェティシズムを感じざるを得なかった。なるほどこういう音楽ができあがってくるのか。面白いなあ。

第1楽章の進まなさは果てしなかった。リピートなしに思わずホッとしてしまったくらいには。そこにあるのは、推進力をほぼすべて犠牲にするかわりに、発音にとことん拘って高い解像度を獲る、という哲学だった。録音を聴く限り、あの「遅さ」の中でもチェリビダッケは推進力を保持しているので、スダーン+東響の面白さはチェリとも異なる。勝れて絵画藝術的と言ったらいいのか。

つまり、進まぬ進まぬと思うかわりに、瞬間を輪切りにして聴くように努める。そうすることでその一瞬の鮮やかさに気づくことができる、というわけで。
あたうかぎり生硬で岩石のような1stVnと、春霞のようなFlがしっかり重ねられ、Vaがふっくらとした芝生を描けば、Obが鋭い光線を投げ掛ける。けっして油彩絵の具ではなく、水彩絵の具を品良く(しかし偏執的に)重ねたような美しさ。モローの水彩画を一度だけ見たことがあるのだが、たとえるならばそんな感じだ。

僕は弦の体験しかないから弓づかいの細やかなアーティキュレーションに注目したけれども、管プレイヤーの方の見方も気になる。とまれ、発音にこれだけ拘ると、さすがにクリーヴランドやベルリンフィルじゃない東響は推進力が落ちてしまうようで(各パートで次の音符を拾うのが若干遅れて、それが縦に積み上がる)、そのためにあの前に進まない独特の風貌が出現していると思われた。
でも、それが面白い。このやり方だと長いフレーズは勢いを無くすけど、短いフレーズはむしろ活き活きと輝く。変奏曲である第4楽章、そしてシェーンベルクがとても佳かったことの説明もつこう。

ただ、瞬間は鮮烈でも全体はのっぺらぼう、な葬送行進曲を聴いてしまうと、この楽章に代表されるような息の長いフレーズで構成される音楽に対して、スダーン+東響がどう向き合っているのか、ちょっと気にならないではない。スダーンそのものというより、スダーンがこのオケで採っている施策がそうさせているのかもしれない。

少なくともオケの献身的姿勢は素敵だ。これまで何度か聴いた東響の演奏の中では最も自発的で、俺らが監督の音楽を作るんだ、といった良好な雰囲気が確かにある。
by Sonnenfleck | 2011-05-24 22:04 | 演奏会聴き語り

熱狂の復習―【178】ネムタヌ+ドマルケット+シャマユ(5/3)

ポゴさん@サントリーの感想文は、とりあえず措いといて。

+ + +

c0060659_23205550.jpg【178】5/3 2015-2100 G409〈グジマワ〉
●シューマン:Vnソナタ第1番イ短調 op.105
●メンデルスゾーン:Pf三重奏曲第1番ニ短調 op.49
⇒デボラ・ネムタヌ(Vn)
  +アンリ・ドマルケット(Vc)
  +ベルトラン・シャマユ(Pf)


5月3日の二公演め。
群衆の中で休息を取るのは非常に難しいということが過去5回分の経験からわかったので、朝一アンタイの後、すぐに会場を脱出して、近くの秘密の隠れ場所に潜伏。夕方からは友人たちと合流して、東京駅南のほうで寿司をつまんだり、ビックカメラで家電を見たりして、夜までの時間を消化する。(うわさの羽レス扇風機、一度見たほうがいいですよ。凄いですよ。)

さてこの公演のチケットは、正直に言ってしまうと、【183】アラ・ポロッカまでのつなぎのつもりで入手したものだったんです。奏者は全員知らないし、まあでもメントリ1番が聴けるんならいいなあ、というくらいで。
でも、これだからLFJは面白い。
5月3日に聴いた三公演の中で、この時間が最も濃密で、素晴らしかった。

まず、シューマンの第1ソナタ。この曲は実は初めて聴いたんだけども、馥郁たる浪漫が立ち昇るシューマンらしい(しかしそんなにビョーキっぽくない)音楽で、これまで知らずにいた贅沢を噛み締めるほかなし。
ネムタヌという若い女性ヴァイオリニストは、あの響かないGの空間でも柔らかい音を維持できる右腕の持ち主で、五月の薫風のように空間を撫でる。お菓子みたいな名前のシャマユというピアニストも、細心の注意を払って部屋の大きさに見合うアーティキュレーションを実現させる。第3楽章で冒頭から上昇しすぎた結果、終盤でそれ以上に持っていけなくなり、全般に少ーしだけ平板になってしまった以外は、とても素晴らしいライヴだったと言えるだろう。おしまいで第1楽章の主題が静かに戻ってきたときは、思わず泣けてしまった。

で、Vcのドマルケットが加わってメンデルスゾーンの第1トリオ
常設のトリオじゃないのに、リハも満足にできないと言われるLFJで、この完成度!両端楽章で登り詰めた高みは、メンデルスゾーンを軽んじる多くの日本人クラヲタにリピート再生を義務づけたいくらいだな。
全体に漂う重量感は、C線に独特のソリッド感があるドマルケットに理由が求められそうだけど、ここでは曲調の要請もあってシャマユのPfが表層に浮かび上がることも多く、彼の爽快な音質が全体を一段階上に掬い上げたのは間違いない。ネムタヌ嬢は重量を男二人に任せて、よりいっそう開放感のあるスタイルに移行する。

この公演はアーティストの立ち見がずいぶん多かったのも不思議で、彼らの歓呼も混じって万雷の拍手へ。本当にいいロマン派の音楽を聴いた。
by Sonnenfleck | 2010-05-07 23:24 | 演奏会聴き語り

ホグウッド/N響 第1653回定期公演Aプロ(9/20)

c0060659_2341454.gif【2009年9月20日(日) 15:00~ NHKホール】
<メンデルスゾーン>
●序曲《フィンガルの洞窟》 op.26(ローマ版)
●Vn協奏曲ホ短調 op.64(初稿)
 ○ラヴィ・シャンカール:ラプソディ(?)
→ダニエル・ホープ(Vn)
●交響曲第3番イ短調 op.56 《スコットランド》
⇒クリストファー・ホグウッド/NHK交響楽団


寝てしまうかもなあという危惧の下、晴天の渋谷へ。だいたい、晴天でしかも休日の渋谷なんかできれば行きたくないのだ。そのように思って原宿から歩いたけど、あっちはあっちで眩しすぎて辛い。NHKホールを新しくするときは所沢とか青梅に移転させてほしい。

そんな暗い妄想に取り憑かれていたけれど、いや、演奏は頗るよかったですよ。この機会を逃さなくて正解だった。
このAプロ、会場はやんやの喝采だったですが、ネットで検索してみるとけっこう批判的なレヴューが目に付くんですよ。いやあこれは本当にいいことだと思う。FMで中継されTV収録されることによって日本中に名を轟かせているオーケストラが、ホグウッドの指導下で至極真っ当なピリオド・アプローチをやってのけて、それが知られ感じ取られることの重大さ!いくらミンコフスキ+ルーヴル隊がオペラシティで最先端のモーツァルトをやっても、それは認知される度合いとしては絶対にN響には敵わないんだもの。。
今回のホグウッドを耳にされて、「やっぱりなんにもないメンデルスゾーンが好きだなあ」と思われた方は、ぜひこの機会にドホナーニなりセルなりのディスクをガッツリと聴き返して、自分が「なんにもないメンデルスゾーン」のどういうところが好きなのか考えてみてもいいかもしれませんよね(僕は彼らの録音も大好きです)。

僕が見事だなと思ったのは、Vn協奏曲の第2楽章と《スコットランド》の第3楽章。

どちらも仄かな香水のように浪漫が漂う幸福な緩徐楽章ですが、決して刈り込まれてはいない大きな編成の弦楽を従えつつ、木管のアンサンブルを理想的なバランスで聴かせるホグウッドの感覚にまず驚いた。この人の録音してきたバッハやヴィヴァルディは、このメンデルスゾーン(や、来たるべきシューマンとか)のための下書きでしかなかったのではないか?あの弦楽合奏の青白さは、管楽器を迎え入れるための下地だったのではないか?

これら薄絹のような緩徐楽章のあればこそ、大袈裟なメンコンの第3楽章、速すぎるとの不評を買っているスコッチの第4楽章が活きているのは明らかでありましょう。バロックでは絶対に破綻を避けていたホグウッドが(少なくとも僕は例を知らない)、恐らく強い確信を持ってロマン派の様式でメンデルスゾーンを造形している姿はまったく頼もしく、「学究肌」というのはこういう人のことを評する誉め言葉なのだと思われました。

協奏曲のソリスト、ダニエル・ホープは、僕たちの生きているのがハイフェッツやオイストラフの時代ではないことを朗らかに教えてくれます。甚だしい抑揚の山谷もわざとらしい加減速も、伴奏と「合っていない」ことさえも、それも彼のスタイルの一部ではないかしら。
by Sonnenfleck | 2009-11-20 23:44 | 演奏会聴き語り

[カルミナ・ウィークエンド]第3日:The Communicators

c0060659_1202657.jpg【2009年6月12日(金) 19:00~ 第一生命ホール】
<第3日 The Communicators―世界をつなぐ者>
●メンデルスゾーン:弦楽五重奏曲第2番変ロ長調 op.87
→川本嘉子(Va)
●ブラームス:Pf五重奏曲へ短調 op.34
→田部京子(Pf)
 ○シューマン:Pf五重奏曲変ホ長調 op.34 ~第3楽章

⇒カルミナ四重奏団
   マティーアス・エンデルレ(1stVn)、スザンヌ・フランク(2ndVn)
   ウェンディ・チャンプニー(Va)、シュテファン・ゲルナー(Vc)


スカラ座に60,000円、VPOに30,000円、ポリーニに20,000円払う人々も、カルミナの3,500円に気がつかない。現役最高峰のカルテットの来日に気がつかない。もったいないと言うよりほかない。気がついた人々は、この週末の夜を熱狂的に過ごすことになった。

第1日の「名曲」プログラムを聴いた友人は「巧すぎて胃が痛くなった」というコメントを寄せてくれたのですが、僕が聴いた第3日と第4日も、そうなるだけのエネルギー放射が十分にあったと言えます。
この数年間、老境を迎えたアルバン・ベルクの引退に臨んだ一方、今となっては正直凸凹が酷かった記憶しか残っていないハーゲン、あるいはパイゾクスといったクールな若手たちのライヴにも接することができましたが、完全な球体として瑕疵ひとつないカルテットをカルミナに発見することができたのは望外の喜びであります。僕は彼らを生で聴いたことがなかったし、巨大匿名掲示板でも「カルミナは録音に助けられている」という意見をよく見かけたんだけど、少なくともそれは一刻も早く生を聴くべきであるとアドバイスしたいところだ。

互いが互いのためにアンサンブルをやると、究極的にはあのようになると思うのであります。どこかが欠損したら何かがすかさず穴を埋めに動くし、誰かが突出すればすぐに他のメンバーもそのレベルまで自分を高めるし、要は絶対に球面が崩れない。うにょうにょとした不定形で、しかも美しい何か、であります。
彼らは球体のままフェーズを変えることでデュナーミクを表現したり、エアを増やしてスカスカにしたり、逆にステージの床面から土中に沈み込むくらいグッと比重を重くしたり、なんでもやってのけてしまうのだ。もとよりCDを聴いて似たような印象は感じていたとはいえ、ライヴでそれ以上の球体を見せつけられるとは思っていなかったものだから、当夜は椅子の上であんぐりと口を開けてしまったのだった。

+ + +

ただ、第3日・第4日と続けて聴いてしまうと、どうしても第3日の方は分が悪い。
4人の球体にゲストを迎えることによって、閉じた世界には楔が打ち込まれてしまう。吉と出るか凶と出るかといったら、第3日については特に前半のメンデルスゾーンで、凶と出ていたように僕は感じてしまいました。"The Communicator"としてのゲストは、確かに閉じた世界と聴衆の世界の間に立ってはいたけれども、どちらの世界にも属しきれずにいたのではなかったか。曖昧な言い方しかできないんだけど。

プログラム冊子で、1stVnのエンデルレが次のように語っています。
「加わるのがヴィオラであれピアノであれ、私たちはそのパートを欠いた弦楽四重奏で全曲の練習をし、コンセンサスを作っておきます。5つの異なる方向から議論が為されるよりも、弦楽四重奏と独奏者のふたつの方向の方が練習が進みますからね。とはいえヴィオラ奏者の場合はチームのメンバーみたいなものですけど、ピアニストの場合には殆どソリスト。相手が加わった段階で変化することはありますよ。」
…ここだよなあ。きっと。
こういう練習スタイルを採っているのであれば、なおさら気心知れた、近しい間柄のソリストでないと5方向からの完全世界を形成するのは難しかろうと思うのです。川本さんも田部さんもともにカルミナQとは共演経験があるし、彼女たちが非常に素晴らしい音楽家であるということは体験的にわかっているのだけど、閉じた世界に入り込むことに関してはできていない局面のほうが多かったように感じました。
個人的には、ちょっとメタメタしつつも勢いのあったブラームスの方が楽しめたんですが、会場で偶然会った友人はブラームスにおける齟齬を指摘する。確かにメンデルスゾーンに比べると、メンバーが滑ったりピアノが脱落したりする場面が目立ったものなあ。メンバーたちはほぼ完璧な球体を維持してるんですが、球体の隣にもう一つ物体が浮んでいるような(Q体?)そんな雰囲気もありつつ、第4日へ続く。

あ、でもアンコールのシューマンはサイコーに素晴らしかった。これは書いておかねば。
by Sonnenfleck | 2009-06-14 12:03 | 演奏会聴き語り

下野竜也/読売日響 第107回東京芸術劇場マチネーシリーズ

【2009年1月10日(土)14:00~ 東京芸術劇場】
<メンデルスゾーン生誕200年記念プログラム>
●トランペット序曲ハ長調 op.101
●ヴァイオリン協奏曲ホ短調 op.64
 ○アンコール バッハ:無伴奏Vnソナタ第2番イ短調 BWV1003~アンダンテ
→小野明子(Vn)
●交響曲第4番イ長調 op.90 《イタリア》(1833/34年稿)
 ○アンコール 交響曲第5番ニ長調 op.107 《宗教改革》~第3楽章
⇒下野竜也/読売日本交響楽団


2009年のライヴ聴き初め。すでにして池袋芸劇がホームになりつつあります。
あのチャチな座席と濃紺の衛生陶器が実に懐かしく、趣き深い。

マエストロ・シモーノは11月の《聖パウロ》@名古屋も記憶に新しく、メンデルスゾーンから「聴きやすさ」のエッセンスを搾り出して提示してくれた点は大いに感謝するところであります。

最初のトランペット序曲ハ長調は珍しい曲ですね。
金管とティンパニによる一撃、それからやたらと浮かれた主題が特徴的で、蒼白メンデルスゾーンを期待している人は肩透かしだったかもしれない。途中、最高に艶やかなフーガが入ってきたりするんですが(メンデルスゾーンはこういうところが侮れない)、そこを器用に振り分ける指揮者と、アルブレヒト時代に比べて急激に駆動力が増したようであるこのオケの共同作業が巧くいっているのがわかるというものです。
それにしても終止がハ音でないのは奇妙。あの拍手の薄さは終止感の薄さによる?

昨年来から続く「2曲目のジンクス」どおり、メンコンは強力な睡魔に勝てず。
ソリストは爽やかな音色の持ち主だったようです。フレーズの形成に関してはちょっと考えさせられるところもあったのだけど、いかんせん当方は夢うつつでしたからね。。

さてさて《イタリア》は、通常演奏される初稿ではなくて、初演後にメンデルスゾーンが手を入れていた改訂稿がチョイスされましたが、この改訂稿の慎ましやかなスタイルには今回大いに驚かされました。これが聴かれただけでも足を運んだ甲斐があったです。
なんというか、彩度70%カット、みたいな感じなんですね。
この曲特有の華のあるメロディやハーモニーが、一応の外枠だけ残してぐっと渋くなり、ローマの謝肉祭の仮装が長屋のご隠居さんの江戸小紋に変わってしまったような衝撃です。特に第2と第3楽章の変容ぶりが強烈。
今回のシモーノの策は、あえてダルに仕立て上げて流れを滞らせた第1楽章と、繊細敏感な第2第3楽章の対比を聴かせるところに重点があったのではないかなあ。アクセントが四角四面、立方体がゴトゴトと転げるような鈍い第1楽章を臆面もなく提示した直後に、改訂稿の枯淡の雰囲気を生かした音づくりへモードを切り替える。やっぱり聴かせ上手ですよね。

この《イタリア》、第3楽章の途中でひとりの団員の方が明らかな体調の不良を見せて倒れかけたんですが(高熱でもあったんじゃないか)、額の汗を拭きつつ最後まで演奏に参加されていました。プロの根性にブラヴォ!です。
by Sonnenfleck | 2009-01-11 09:05 | 演奏会聴き語り

迎春

皆さま、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
いやはや2009年ですよ。なんという未来に生きていることだろうか。年頭に当たって、趣味に関連する目標をいくつか立てました。

◆一、CDの購入を控え、生演奏に接する時間を増やす。しばらくは東京にいるはずなので、定期会員になるべきオケをこの一年で見定める。
◆二、美術に関して自分の中で体系化できないか、自分の好みをもう一度明確にできないか探る。遠くの美術館にも足を伸ばす。
◆三、楽器を再開できないか画策する…うーむこりゃ無理かな。

+ + +

【2009年1月1日 9:30~ 自室】
<元旦レコードコンサート〜メンデルスゾーン・メモリアル>
●序曲《フィンガルの洞窟》 op.26
⇒マーク/ロンドン響
●Vn協奏曲ホ短調 op.64
⇒カンポーリ(Vn)+ボールト/ロンドン・フィル

○休憩10分 ホットコーヒー

●交響曲第4番イ長調 op.90 《イタリア》
⇒ショルティ/イスラエル・フィル
○アンコール 同曲~第4楽章
⇒クレンペラー/フィルハーモニア管


実家のレコードから見繕って聴き初め。同じくメモリアルのヘンデルもハイドンも微妙に揃わないので、メンデルスゾーン・コンサートにしました。
まず、マーク/ロンドン響の音色が冗談ではなく絹のようで、大変驚きます。優しく軽快なアクセントとくすんだ和音が実に心地よく、素敵なひとときであります。
Vn協奏曲では、わがままなお嬢さんのように弾き崩れるカンポーリをふんわりとサポートするボールト/ロンドン・フィル。清楚な第2楽章が極めて美しいですね。うっとりしてしまう。
それにしても若きショルティの快速ぶりには驚くばかりです。ここではさすがに追い込まれたイスラエル・フィルの目が血走っていたので、最後はクレンペラーにご登場願い、クールダウン。。

とまあ、こんな遊戯に浸ることができる幸せを感じています。今年も芸術が死なない、平和な年でありますように。
by Sonnenfleck | 2009-01-01 13:49 | 日記

下野/名フィル+名古屋市民コーラス メンデルスゾーン《聖パウロ》

c0060659_634797.jpg【2008年11月8日(土)17:00~ 中京大学文化市民会館】
<名古屋市民コーラス 第38回定期演奏会>
●メンデルスゾーン:オラトリオ《聖パウロ》 op.36
→谷村由美子(S)
  谷田育代(A)
  北村敏則(T)
  末吉利行(Br)
→長谷順二/名古屋市民コーラス
⇒下野竜也/名古屋フィルハーモニー交響楽団


演奏についてあーだこーだと言う前に、作品自体の素晴らしさに惚れ込んだことを書いておきましょう。
キリスト教最初の殉教者・ステファノの逸話から、初めユダヤ教パリサイ派のエリートとして迫害者だったサウロ(=パウロ)が、天の光線を浴びて改心し、厳しい伝道ののち殉教を覚悟してエルサレムへ上るまでを2時間半で描くオラトリオ。パウロの生誕2000年(!)とメンデルスゾーンの生誕200年が交錯する08-09シーズンにはぴったりの選曲です。僕は今回生まれて初めてこの曲を耳にしましたが、これほど充実した作品がどうして滅多に演奏されないのか不思議に思う。

このオラトリオが作曲されたのは1836年、メンデルスゾーン27歳のときですが、雰囲気、というか音楽のフォルムがバッハの受難曲に酷似している。すなわちレチタティーヴォとアリア、重唱と合唱が折り目正しく連続する中で、ソプラノとテノールが交互に「福音史家」の役割を、バリトンがパウロを、合唱が「醜く残忍な群集」をそれぞれ演じ、ストーリーは淀みなく流れてゆくわけです。
ただし、フォルムはそのようにレトロなのですが、搭載されたエンジンや電気部品はメンデルスゾーン一流の繊細雄弁な表現を纏って、1836年当時最新鋭の実力を見せるというわけ。見かけは古めかしいので暢気に構えていると、メンデルスゾーンの劇的な表現力に度肝を抜かれることになります。メンデルスゾーン作品の最高峰のひとつじゃないかなホント。

+ + +

まず本公演の母体になっているのが、来年で結成50年を迎える名古屋市民コーラス
お年を召されたように見える方が多いのはやはり老舗だからでしょうか。ハーモニーにはどっしりとした安定感があり、表現力も(こう書いてはなんですが)老獪。律法を否定され怒り狂ったユダヤの群集と、イエスを希求する清純な心と、両方の描き分けが巧いんです。合唱を専門に聴いておられるリスナーの意見はまた別にありましょうが、アマチュアでこれだけ心の機微を表現してくれたら僕は何も言うことがありません。ブラヴォでした。
(第1部最後の22番と、第2部29番のヒソヒソ話+コラール、拍子にエスニックな香りが漂う35番、怒り狂った38番の群集、そして45番の終曲、このあたりの集中力が素晴らしかった。きっとずいぶん練習を重ねられたことでしょう。)

次に、マエストロ・シモーノに率いられた名フィル。こちらもよかった。
2時間半の長丁場だし、団員も作品の詳細に関して十分知悉しているとは思えませんから、ほとんど定期公演がもうひとつ増えたようなものでしょう。
下野氏は相変わらずよくスコアを読んでるんだろうなあという印象で、隅々まで自然なコントロールを効かせながら(いつもより少し安全運転だったけど、この人のフレーズ造形能力は実に素晴らしいと思う)、聴かせどころでは畳み掛けるようなスピード感やごついハーモニーを前面に出したりする。序曲の神々しく精妙な和音から終曲の大見得まで、もたれることなく運んでいました。
(いつもより弦が薄く聴こえるのはあの恐ろしくデッドな音響のせいだろう。金管陣はずいぶん安定していたし、木管陣、特にClのティモシーくんの豊かな表現力にはますます磨きが掛かってるような気がする。)

独唱陣に関しては評価が分かれます。
まず、見せ場の多いソプラノに登場したのが、今年のラ・フォル・ジュルネで一部の話題を攫った谷村由美子さん。僕もコルボが指揮するシューベルトの変ホ長調ミサ曲で彼女を聴いて「突出」と書きましたが、それは単に声量だけの問題ではなく、彼女の透き通った声質や深い表現力は今回のメンデルスゾーンでも遺憾なく発揮され、結果として本公演でも「突出」して素晴らしかったと書かざるを得ません(ソプラノのアリア〈エルサレムよ!〉の神々しさには涙が出た)。なーんか、、この人何かのきっかけで有名になったら爆発的に人気が出そうなんですよね。。プロフィールに書いてあったんですが、来年コルボの《ロ短調ミサ》が発売されるみたいで、そこにソプラノとして参加してるらしいです。ブレーク間近か。

逆にもうひとり見せ場の多かったテノールの方は、、突出して絶不調。どうしようもないくらい音程が取れてなくて、声も裏返るし、苦しそうだし、はっきり言って「お金払いたくない」という感じでした。
バリトンの末吉利行氏は悪役っぽい声質で、最初のパウロのアリア〈彼らを根絶やしにしてください、万軍の主よ〉が禍々しく素敵でした。改心してからも声に翳りがあって面白かったなあ。ヘレニストのパウロは原始キリスト教が最初に内部に抱えた「他者」だったのかもしれず、パウロの内面も複雑に絡み合っていたはずだもの。
アルトは、、この作品では極端に出番が少ないけど、水準以上でした。

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というわけで、総合的には「名古屋だけにしまっておくのはもったいない」公演でした。
名古屋的にも(数は少ないけど名フィル定期で見るような)クラヲタ層が来ているようには見えず、もったいないなあと思う。お客さんも「職場の同僚に招待券もらったから行くわ」的な目的意識の薄い人が多いようで、せっかくの熱演にも拍手が薄く、これももったいない。

検索してたら、来週の金曜日に湯浅卓雄氏の指揮による藝大フィルハーモニア・合唱定期でこの《聖パウロ》が取り上げられるみたいです。関東の方は行かれてみては。一度は生で耳にしておくべき作品と思いますれば。
by Sonnenfleck | 2008-11-11 06:38 | 演奏会聴き語り

驚くべき、驚くべきシュトライヒャー@宗次ホール

c0060659_2217224.jpg【2008年10月20日(月)18:45~ 宗次ホール】
<メンデルスゾーン>
●Vnソナタ ヘ短調 op.4
●Vcソナタ第2番 ニ長調 op.58
●《ロンド・カプリチオーソ》 ホ長調 op.14
●Pf三重奏曲第1番 ニ短調 op.49
 ○同第2番 ハ短調 op.66~第2楽章
⇒小倉貴久子(Fp/1845年 J. B. シュトライヒャーによる)
  桐山建志(Vn)
  花崎薫(Vc)


おおよそ僕がこれまでに聴いた、どのメンデルスゾーンよりも素晴らしかった。
本当によかった。心の底からメンデルスゾーンを味わった。

当夜の主役は、ヨハン・バプティスト・シュトライヒャーが制作した跳ね上げ式ウィーンアクションの木製フォルテピアノ。これが制作された1845年というのは、鉄骨フレームによるイギリスアクションが登場する前に栄華を誇ったウィーンアクションが、最後の輝きを見せていた頃らしいです。
見た目には木目が大変美しいけれどもオール木製ではない。現代のコンサートグランドとは比べ物にならないくらい弱い張力の線ではありながら、それでも木製だと耐え切れずに割れてしまうので、それを支えるため箱の中に鉄柱が渡してある由。

+ + +

このシュトライヒャーから流れてくる音が、心を捉えて離さないのです。
音の頭はあくまで粒立ちがよく、高音域には鳥の声のような軽やかさが、低音域には生々しく残酷な属性があり、それらが消えてゆくときには惻惻とした風情がある。
何より、和音のさまざまな色合い、これが堪らない。
明らかにモダンのピアノとは違うし、これまでに聴いたほかのフォルテピアノとも味わいが異なる。和音の違いが空気の揺れの違いであることを、直感的に感じさせるのです。こぼれてくる和音を聴き逃さないように、ひとつ残らず掴まえられるように、こんなに夢中になったようなことはあまり記憶にありません。

自由席だったのをよいことに、前半2曲はホール2階の最前列で、後半2曲は1階の最前列に移動して聴き比べをさせてもらいました。興味深いのは、1階最前列のように通常であればピアノの音が巨大すぎて何も聴こえないような場所に座っていても、和音のさまざまな色合いを感じることができ、ピアノの筐体が振動しているのがはっきりと感じ取れるという点。
バランス的にはVnとVcの音量に負けるくらいではあるけれども、そのぶん弦楽器との溶け合いは極上としか言いようがないのです。シュトライヒャーの発音が、弦楽器のピツィカートによく似ているというのも面白い発見。

その上で、演奏がいい。小倉さんのタッチも、桐山さんの弓づかいも、花崎さんの歌い回しも、みなピリオド・アプローチを自然に昇華し、軽快で清冽な印象を聴き手に与えます。これ見よがしのメンデルスゾーンなんてまっぴらごめんだものね。
和音を掴まえる愉悦に溺れることができたのは、Vcソナタ第2番第3楽章
シュトライヒャーのしなやかで優しい風合いに感服したPf三重奏曲第1番第2楽章、透き通ったとんぼ玉がコロコロコロ...とたくさん転がっていくように感覚的触覚的な第3楽章marutaさんが7月に予言されていたとおり、このナチュラルさがメンデルスゾーン演奏の最先端であると言うことができそうです。
本当に胸がいっぱいになってしまったので、当夜は宗次オーナーに深く感謝し、いつものようにホール出口に立っていらした彼に頭を下げてホールを後にした。

今日の19時より、まったく同じプログラムの演奏会が静岡で行なわれるので、距離も時間も自由になる方は(ならない方もぜひそのようにして)駆けつけるべきと思います。
by Sonnenfleck | 2008-10-21 06:16 | 演奏会聴き語り