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さようならマエストロ・クラウディオ・アバド

Claudio Abbado dies aged 80(The Guardian, 2014.1.20)
Claudio Abbado, an Italian Conductor With a Global Reach, Is Dead at 80(The New York Times, 2014.1.20)
Claudio Abbado ist tot(Die Zeit, 2014.1.20)
Le chef d'orchestre Claudio Abbado est mort(Le Monde, 2014.1.20)
世界的指揮者のアバド氏死去(NHK, 2014.1.20)

ある音楽家の死について、いつもであれば僕はわりとすぐに平気になってしまうのだが、今回だけはだめである。この指揮者のことをどれだけ好んでいたのか、彼が永遠にいなくなって初めて理解したのだ。もう遅い。

僕がアバドを「本当に」認知したのはそんなに昔のことではない。クラシック好き後発組としてBPO治世の最後のほうをFMで聴いていたころ、アバドは遠い世界で活躍するスター指揮者のひとりであり、特段、大切な指揮者とは感じていなかった。
その認識が根底から覆されたのは、彼がBPOのシェフを辞めて自由な活動を開始してからのこと。2006年5月にマーラー室内管とライヴ録音した《魔笛》のディスクを聴いてから、アバドは僕のスターになった。

+ + +

1月20日の夜、残業を切り上げて帰宅する地下鉄の車内で、友人から届いた知らせが第一報。Twitterにあふれていく追悼の言葉。帰宅してすぐに僕は、あの魔笛を聴くことにした。この夜に聴くのはこの演奏以外であってはいけない。

アバドが彼の晩年に集中的に取り上げたモーツァルトは、どれも素晴らしかった。生のスコアが彼のなかを通ることで昇華されて、すべての音符は羽が生えているみたいに素早く、あっという間に飛び去るように価値づけられた。この陰翳と軽さはピリオド由来なのかもしれないし、そうでないかもしれない。いま、指揮者の死を知った僕の耳を通過して、アバドの魔笛はどこかに飛んでいこうとしていた。0時を回って、太陽の教団が勝利を収める。

いまの気分では、書きたい思いが全然まとまらない。
アバドの音楽をどのように考えているか、2013年7月のエントリ「天上謫仙人、またはアバドに関する小さなメモ」へもう一度リンクを張っておこうと思う。言い訳のようにして。オーケストラ・モーツァルトとのシューマン全集の完結を僕たちの想像力に委ねて、マエストロは遠いところへ行ってしまった。

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R.I.P.

by Sonnenfleck | 2014-01-26 11:33 | 日記

ブリュッヘン・プロジェクト第2夜|18世紀オーケストラのモーツァルト&ショパン@すみだ(4/5)

c0060659_23194737.jpg【2013年4月5日(金) 19:00~ すみだトリフォニーホール】
<ブリュッヘン・プロジェクト第2夜>
●モーツァルト:交響曲第40番ト短調 K550
●ショパン:Pf協奏曲第1番ホ短調 op.11
●ショパン:Pf協奏曲第2番ヘ短調 op.21
 ○ショパン:夜想曲第5番嬰ハ長調 op15-2
 ○ショパン:マズルカ第25番ロ短調 op.33-4
→ユリアンナ・アヴデーエワ(Pf/1837年パリ製エラール)
⇒フランス・ブリュッヘン/18世紀オーケストラ


本当はこの金曜日、会社の飲み会が入っていたのだけど、急にキャンセルになったのを幸いに、やりかけの仕事を全部引っ掴んでかばんに詰め込み、錦糸町に駆けつけたのだった。

このブログを読んでくださる皆さんであればご存知かもしれません。僕はブリュッヘンに対して特別な思い入れがあります。
彼らの(ら、の!)音楽を初めて聴いたのは、シューベルトの5番とメンデルスゾーンのイタリアがカップリングで入ったディスクだったと思う。でも2002年のみなとみらいでベートーヴェンの第9が聴けたのを最後に、「ら」の公演を聴くチャンスは日本では巡ってきませんでした。

2005年のすみだで新日フィル初共演のラモーの第1音に度肝を抜かれたのは間違いないことだけど、新日フィルとのハイドン、ベートーヴェン、ロ短調ミサなどをずっと聴いてきて、何かが物足りなかったんだ。何か?それが古楽器の濃厚な響きじゃなくて何だというのだ!

彼ら(ら、の!)の来日公演はもう行われないだろうというのが大方の意見だったけれど、10年の時を経て彼らは再び来日した。でもこの10年でブリュッヘンはすっかり老いた。ついに今宵は車いすで指揮台に運ばれてゆくくらい老いた。
ネットラジオで一生懸命聴いた00年代の「ら」の演奏、つい最近リリースされた新しいベートーヴェン全集、どれも嶮岨で静かな名演奏に変貌している。80年代の録音で聴ける「ら」の合体魔法をやるには、もう「MPがたりない!」なのではないだろうか…。「ら」の再来日に歓喜するいっぽう、僕はそう思っていました。

+ + +

でも!でもモーツァルトの40番が鳴りはじめて、僕はブリュッヘン+18世紀オケの合体魔法を正面からまともに浴びて256ダメージ!何も違わない!80年代の録音のあの濃密な音楽が戻ってきてる!

管楽隊のびゅわっ!というあの響き、弦楽器のしゃららー+ごりっ!というあのブレンド感。00年代ブリュッヘンの静謐な音色も今ではパレットに加わって、高濃度モーツァルトが描かれていく。フォルムは一切崩れず、明暗はあくまでも克明。そこへ、指揮者の爺さんが発する「zuuuuuu...ziiiiiiii.........」という風の歌が聞こえてくる。

驚いたのは第3楽章と第4楽章で、舞曲を処理するみたいにアンチナラティヴなリズムを付加してゆく指揮者と、あの旧い響きが帰ってきた18世紀オケが反応しあって、明らかにラモーの音楽が転生したようなモーツァルトができあがっていたこと。あの音は生涯忘れないだろう。
ありえない空想だけど、18世紀のどこかの宮廷に存在した老宮廷楽長とハイパー名人宮廷楽団に、仮にタイムマシンでモーツァルトのスコアを届けたら、一生懸命、彼「ら」の流儀でこんな演奏をするんじゃん?そういうことだ。

なお、ハイパー名人宮廷楽団にはウルトラコンマスがいて、ときどき中身が抜けて骨格だけになる老宮廷楽長の手の動きや目線の方向を察知し、完璧にサポートしていました。ウルトラコンマスのザッツと老宮廷楽長の震える指先の、その狭い隙間に湧き上がってくる音楽のピュアな響き。

+ + +

ショパンの感想文(特にソリスト、アヴデーエワ女史のこと)を書くのは、僕には荷が重い。
伴奏部分について語るなら、ブリュッヘンと18世紀オーケストラの演奏によって、それがまるでシューマンを思わせるほの暗い大気が充満した音楽に翻訳されていたことに触れておきたい。そしてVc首席はFgとの連携を常に意識しながら、明らかに他のパートとは異なる文法でソロパートにひたり...と寄り添っていた。ショパンのなかに潜む昔。
by Sonnenfleck | 2013-04-06 00:33 | 演奏会聴き語り

on the air:小澤/水戸室内管 第83回定期演奏会@水戸芸術館(1/19)

c0060659_2130192.jpg【2012年1月19日(木) コンサートホールATM】
●モーツァルト:ディヴェルティメント ニ長調 K136
●ハイドン:Vc協奏曲第1番ハ長調
→宮田大(Vc)
●モーツァルト:交響曲第35番ニ長調 K385《ハフナー》
⇒小澤征爾/水戸室内管弦楽団
(2012年6月17日/NHK-Eテレ)


らららクラシックの枠で放送。N響アワーではできなかったことが実現されていて、これはたいへんありがたい。

《ハフナー》は、進みたくない、留まりたい、という音楽。
進めないのではなく、進まない。
小澤はそれを淡泊な白身魚のような響きでやる。カラヤン/BPOのモーツァルトは、それを肉汁のしたたる響きでやった(そのようにミキシングしただけなのかもしれない)。あるのはその違いでしかない。そんなわけで第2楽章の美しさは比類がない。なんと書いていいのか。
第3楽章と第4楽章は巨大なモティーフを選んだ静物画のように感じられる。円環が完全に閉じている。進まないことに価値を見いだして、しかもそれを完璧に成功している演奏の真価を、僕は初めて知ったような気持ちだ。クレンペラーのモーツァルトをキングスウェイホールの最前列で聴いたらこんなふうに聴こえたのかもしれない。いや、わからないな。どうだろう。

ハイドンも、緩徐楽章の「留まりたいエネルギー」が厖大すぎて、思わず呻いてしまう。この辺り一面に照射されているものの正体は何だ。バーンスタインのスタンドが発動しているのか。
2012年ごろの小澤がこういう音楽をやっていたことを、僕はこの先も忘れられないと思う。あるいは、今そのことに気がついただけなのだとしても、今気がついた、ということを覚えていたい。何が小澤にそうさせる?20世紀が?

+ + +

ところで宮田君は、はち切れそうなパワーを小澤の閉じた円環のなかに押し込めている。彼のチェロはついに縁がなくてこの夜の放送まで聴いたことがなかったけれど、ううん。巧いんだなあ。留まらない音楽ではどんなふうに演奏するんだろうか。
彼のチェロは齋藤秀雄の使っていた楽器だそうである。

ところでこの公演、7月にソフト化されて発売されるっぽいです。芸術館や室内管のサイト、twitter等では情報が発見できませんでしたが、Amazonに情報が登録されてました。今回の放送を見逃した方はぜひ。
by Sonnenfleck | 2012-06-21 21:34 | on the air

フォアマン×シェーファー『アマデウス』:サリエリをちょっと擁護してみる

c0060659_20594683.jpg【2011年9月18日(日) 18:00~ TOHOシネマズみゆき座】
<第二回 午前十時の映画祭~赤の50本>
●『アマデウス ディレクターズ・カット版』
 (1985年、カラー、181分)
→ピーター・シェーファー(脚本)
 ミロシュ・フォアマン(監督)

oyamadaさんのtwitterで上演を知り、出かける。これを初めて観たのは中学の音楽の授業、二度目は高校生のときに市販のビデオテープを買って、そして今回で三度目。
連休中日といえども日曜夜の回に観客が押し寄せるわけがない。お互いそれを狙って集まってきてるから、静かなものだ。誰かのポップコーンの香りが漂っている。

ああ。スクリーンで観る《アマデウス》がこれほどのショックを与えるとは。

レオポルドのウィーン訪問のあたりから急激に画面の色調が昏くなり、それは予想通り、1791年12月5日の朝のシーンでクライマックスを迎える(映画館というのはあんな暗闇を表現できるのか)。しかれども画面は最後に一転、画面に凡人の光が満ち、破顔しては赦しを与えていくサリエリの表情。呆然としてしまった。

+ + +

●自分は普段、こばんざめのような二次表現者として一次表現者との間に絶対的な壁を感じながら藝術を眺めているが、一次表現者同士にもこうした壁があるんだろうか。あるんだろうな。二次表現者は一次表現者に対して深い愛情を感じていればそれで済むが、一次表現者が上位の一次表現者に感じる愛情は、嫉妬の形をしなければならないんだろうな。そりゃあ苦しいよな。

●コンスタンツェがなぜあんなにサリエリを嫌うか、これまでいまいちピンと来てなかったんだが、ディレクターズ・カット版でその理由が判明した。そりゃーあの大事なシーンをカットしてたら、サリエリの悪行だけが目立つのは当然じゃん。まあつまり何が言いたいかというとコンスタンツェはおバカかわいいということだ。
●あそこでコンスタンツェをモノにできない、据え膳下げて寝る人間味。

+ + +

●音楽の使い方はやはり非常に巧みだった。《グラン・パルティータ》は言わずもがなだけども、何より今回、シカネーダーの芝居小屋で流れるモーツァルトのパロディ劇のシーンに強い衝撃を受けた(お馬さんからソーセージや鳩が出てくるやつね)。下品なジングシュピールに乗っかる旋律の親密な美しさが、直前に登場するサリエリのオペラセリアとの著しい対照をなしているんだよねえ。

●でも正当なセリアとして聴くと、むしろグルックの後継者としてのサリエリの「確かさ」を感じないわけにはいかない。バッハ以後ハイドン以前の音楽を無視する19世紀的音楽史観が、『アマデウス』を作劇させたということか。


↑グルック《オーリードのイフィジェニー》(1774年)から。2009年、ヴェロニク・ジャンスのイフィジェニー、ルセ/モネ劇場。


↑サリエリの《見出されたエウローパ》(1778年)から。2004年、ディアナ・ダムラウがムーティ/スカラ座をバックにエウローパの超絶技巧アリアを披露している。ぜひ聴いてみてください。名曲の名演奏だと思うよ。

●いっぽう、モーツァルトの《ポントの王ミトリダーテ》(1770年)は「セリアとしては」まったく失格だったかもしれない。


↑何しろシリアスじゃない。これはたぶん2005年のザルツブルク、ベジュン・メータがミンコフスキ/ルーヴル宮と一緒にファルナーチェのアリアを歌う場面。

●とりあえず、バルトリ姐さんのサリエリ・アルバムを買ってみようと思った。
by Sonnenfleck | 2011-10-01 21:22 | 日記

トゥルコヴィチ/都響 「作曲家の肖像」シリーズvol. 83《モーツァルト》 @オペラシティ(9/4)

c0060659_1072444.jpg【2011年9月4日(日) 14:00~ 東京オペラシティ】
<モーツァルト>
●交響曲第38番ニ長調 K504《プラハ》
●Fg協奏曲変ロ長調 K191 (186e)
→岡本正之(Fg)
●交響曲第39番変ホ長調 K543
⇒ミラン・トゥルコヴィチ/東京都交響楽団


たいへん丁寧に造形されたモーツァルトだった。
音楽のうま味を心の底から堪能した。

個人的にはコンツェントゥス・ムジクス・ウィーンの重鎮としての印象が強いトゥルコヴィチだが、前回の都響登場時の評判がずいぶんよかったので、今回のチケットを買ってみた次第。
指揮者がアーノンクールの盟友であるということを配布されたプログラムで知ったお客さん、また、ピリオドアプローチ=ヴィブラートと思っている向きには、この日の演奏は少々意外に、もしくは少々期待はずれに聴こえたのかもしれない。
なぜならトゥルコヴィチの造形は「一般的なピリオド風味」(小編成・Vn対向配置・ノンヴィブラート等)からすべて離れてて、多少判りやすいのは編成にバロックティンパニを導入していることくらいだったわけ。
じゃあ、サー・ネヴィル・マリナーのモーツァルトみたいな感じなのかと問われれば、いややっぱりそれとは違う。やっぱりこの人はCMWの藝術家なんだ。

たとえば、変ホ長調の第1楽章提示部で聴かせた、アーノンクールそっくりのおどけた調子(ソォっっファっっっミぃ♭~という強いスタッカート>これを再現部では再現しなかったのはこの人の好みだろうか)
それから第3楽章の田舎踊り。これもニコラウス親方によく似てら。東京人が東北訛りを茶化すみたいに、ウィーンの都会人が観測した田舎踊りはめっぽう愉快に表現される。第4楽章はちょっと勢いがつきすぎてたけど…。

無論、アーノンクール似の造形だけでは面白くないわけで、今回は《プラハ》の第2楽章が、これがトゥルコヴィチの本領が最強に発揮された時間だった。

あまりにもちゃんとバルカローレのリズムが維持されていたため、素っ気なく聴こえた人もいたかもしれないんだけど、各声部は(特に管楽器隊は完璧に)統率されて動き、しかも今度はそれら同士が明解に独立して働く、あんなモーツァルトの緩徐楽章をライヴで聴けるなんて想像していなかった。
つまりトゥルコヴィチは数本の楽器でセレナードでもやるみたいにして、《プラハ》の巨大なアンダンテを組み上げてしまってた。3階席から見下ろすとお客さんの3人に1人は安らかに眠っていたが、それは本当にもったいないことよ。。

ピリオドアプローチの真の意味は、アンサンブルのアーティキュレーションを精査し、各局面に応じてそれを最適化することで、親密な室内楽をモダンオケで実現させることにあると僕は考えている。それはともかく、《プラハ》のアンダンテで実現されてた。トゥルコヴィチのコンティヌオ者としての感覚も、おそらく造形の役に立っていることだろう。都響のコンディションがすこぶる良いのも嬉しかった。

+ + +

ところでFg協奏曲も、2曲のメインの間でたいへん魅力的な一皿として提供された。都響首席の岡本さん、ブラヴォでした。
トゥルコヴィチはきっと、この協奏曲のソロを世界中で飽きるほど吹いてきたんだろう。この曲だけは当然のように暗譜で指揮棒を振っていたのは可笑しかったが、完璧なタイミングでトゥッティを操り、アンサンブルは快適としか言いようがなかった。この曲についてはたぶん世界でいちばん巧いサポート。
by Sonnenfleck | 2011-09-11 10:12 | 演奏会聴き語り

アーノンクール/CMW 《ポストホルン》+《ハフナー》@オペラシティ(11/3)

c0060659_9344957.jpg【2010年11月3日(水) 18:00~ 東京オペラシティ】
<モーツァルト>
●行進曲ニ長調 K335-1(K320a-1)
●セレナード第9番ニ長調 K320 《ポストホルン》
●交響曲第35番ニ長調 K385 《ハフナー》
 ○ドイツ舞曲第6番ニ長調 K571-6
⇒ニコラウス・アーノンクール/
  コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン


CMW来日最終公演は、オペラシティのP席を買い求めました。
主にアーノンクールの指揮を正面から視ることを目的にして、あそこの一列に初めて座ったんだけど、視覚の効果以上に音が極めて生々しく、いつもはアコースティックが上品すぎて物足りない思いのするタケメモでは例外的な場所なのだね(特に木管群のライヴ感がたまらない)。正面に座ってどう聴こえたかはわからないので、それを踏まえて。

+ + +

今回の3プログラムのうち、アンサンブルの練り上げではハイドン回が圧倒的、緊張感ではバッハ回の勝利、ではモーツァルトは…これはアーティキュレーションの千変化による触感マジックの回だったのね。テキストを伴わない音楽は、こうも指揮者の表現欲を強くかき立てられるものかと思った。最後の最後でついに、僕らが慣れ親しんだアーノンクール節が炸裂する。

昨年のミンコフスキでも思ったけど、本当に優れた演奏は、《ポストホルン》の名曲ぶりというか、大交響曲に何ら引けを取らない規模と内容を備えていることを感じさす。
でもこの日の演奏がミンコフスキ/ルーヴルと決定的に違ったのは、アーノンクールの独自の音楽観・美意識に基づいて、19世紀的な「藝術音楽」から一歩も外れなかったことだろう(アーノンクールがモーツァルト以降の音楽をやるときは、彼らのバロック音楽(少なくとも、ハイドンまで)とは全然違う回路への分岐を常々感じていたんだけど、これもライヴ体験で裏づけられるものがあった)。これはどっちが良い悪いじゃなく、ミンコフスキはバロックの方向からモーツァルトを眺めて「芸能」をやっただけだし、アーノンクールは19世紀から振り返ったということ。

最初の行進曲は巧まざるごちゃつきだったかもしれないが、第1楽章の最初の音が出た瞬間、彼らがやってきたバッハともハイドンともまったく違う、雑駁で華美な二長調の展開にニコニコしてしまう。CMWのバルブを閉めずに全開にすることで、このような雰囲気をあえて醸成しているのは間違いのないところだろうよ。
第2楽章のトリオはおどけるようにギクシャクとしたリズム取りで、あそこは明らかにアーノンクールがニヤニヤしていました。僕ぁ見ました。

第3楽章第4楽章の協奏的瞬間は、自分の席の真下にいるヴェスターマンやヴォルフ、トゥルコヴィチの直接音がガンガンに飛び込んできて胸苦しい。みなアーティキュレーションに鋭いキレがあり(ヴェスターマンは音が多少ひっくり返ったり掠れたりで、ここでも他のメンバーに比べて枯れと若干の衰微を感じさせてしまったが)、音楽の贅沢とはこういうものなのだと思われた。
それにしても、あのアーノンクールの飾り気のない直感的指揮から、どうしてあれほど豊かな発音の幅が生まれるのだろう?左右のL字・逆L字運動、人差し指の矢印、灰青ギョロ目、大きな口、時々がに股。リハーサルに秘密があったのだろうか。あったのだろうな。見てみたかったな。

もちろん、第5楽章のCMWの(特に1stVnの!)音色は期待どおりの凄惨な処理を施されていて、周りを取り囲む煌びやかな二長調たちに対して盛大な「音色だまだま」を形成するのだった。
みんな大好き第6楽章では、2ndObのマリー・ヴォルフが、第1トリオでさも当然のようにフラウティーノをさっと取り出して、ピッコロとはまるで異なる素直な高音を響かす。危なげないポストホルンはTpで大活躍してきたアンドレアス・ラックナー(かなあ。おさげの兄さん>カーテンコールのときにちょうど目が合って、こちらがニヤッとしたら向こうもニヤッとしていた)。

+ + +

当初の順序が入れ替わって、後半に《ハフナー》
前後半ともに二長調に統一された華やぎ感は、実際に聴いてみると驚くべき効果が上がっている。チケットを買ったときは《ハフナー・セレナード》をやるんだと思い込んでて、なんて質実なプログラムだと思ったのだが、さすがにシンフォニーのほうだったね。
第1楽章にはわかりやすい「リズムだまだま」があちこちに仕掛けられていて痛快。ちょっとバタバタしすぎていたかもしれないが、愉しかったからいい。
さて第2楽章の展開部だけは、この晩を通じて唯一、アーノンクールが右チョップを唇に当てて、陶酔しているように見えた瞬間。音楽はすこぶる官能的であった。彼がハフナー交響曲を取り上げた理由がなんとなくわかる。

+ + +

すでに休憩中、舞台上にタンバリンとミニシンバルを見てしまって、アンコールは後宮の序曲でもやるんかいなと思っていたが、やっぱりD-durの渋い逸品。
でもこの作品、全然二長調っぽくない。それどころかむしろ、ヘーバルトの酔っ払いソロとともにゴーゴリの小品のラストみたいな絶望感が襲うんだなあ。最後の最後でまさかのハシゴ外し。こういう作品をわざわざアンコールに選ぶ皮肉が、この爺さんの魅力にこそあらめ。長生きしてね。

このように、モーツァルト回は贅沢なデザート皿のようにして味わった。
感動で打ち震えるというのじゃなかったけど、シヤワセだ。

アーノンクール/CMW 《ロ短調ミサ》@NHKホール(10/24)
アーノンクール/CMW 《天地創造》@サントリーホール(10/30)
by Sonnenfleck | 2010-11-13 13:15 | 演奏会聴き語り

on the air:ヤーコプスが魔笛でやってしまった@エクス

c0060659_0492663.jpg【2009年7月30日 プロヴァンス大劇場】
<エクサン=プロヴァンス音楽祭'09>
●モーツァルト:《魔笛》 K620
→ダニエル・ベーレ(T/タミーノ)
  マリス・ペーターゼン(S/パミーナ)
  アンナ=クリスティーナ・カーッポラ(S/夜の女王)
  ダニエル・シュムツハルト(Br/パパゲーノ)
  イム・スンヘ(S/パパゲーナ)
  マルコス・フィンク(Bs-Br/ザラストロ)
  クルト・アツェスベルガー(T/モノスタトス) 他
→RIAS室内合唱団
⇒ルネ・ヤーコプス/ベルリン古楽アカデミー
(2010年7月25日/Catalunya Musica)

いやはや!なんとも!
周到に計算され尽くした最強エンタメ系魔笛が、今宵、カタルーニャよりお届け。
こんなにいじくり回されても、まだかたちを崩さないモーツァルトが凄い。
ヤーコプスの魔笛は、9月にセッション録音としてハルモニア・ムンディから発売されますから、楽しみにされている方は、以下はお読みにならないほうがいいかもしれない。このような演奏では、「一回性」が何よりも大事でして。

+ + +

音楽は、ヤーコプスのなすがままにされている。オケも、ソロも、合唱も、すべてヤーコプスのなすがまま。驚くほど一糸乱れずヤーコプスの思い通りに運んでいて、これでライヴだというのだからたまらない。
立ち止まったり、急ダッシュしたり、うさぎ跳びで進んだり、期待どおりにうるさいヤーコプス節全開、あの「面白がらせ」が芬々としているので、嫌な人は本当に嫌でしょうな。僕も、これはCDを購入してまで聴きたいとは思わないけど、一回限りの愉しさは無類と言える。この「面白がらせ」のために、シリアスなシーンはだいたい台無しなのですが、ザラストロが第2幕のアリアで装飾を入れまくるのを聴くと、彼も気のいいオッサンみたいに思えてくるから不思議。

ただ、この演奏の一番の面白さは、セリフ部分のレチタティーヴォ化に集約されてしまう。急停止急加速は想定の範疇だったが、これには度肝を抜かれた。
たとえば、冒頭の3人の侍女の、シュプレッヒシュティンメと化したパパゲーノ脅しには、歌舞伎のような凄味のある色気があって、侍女の一人がふざけて夜の女王のアリアを口ずさんでいるのも許せる。なんという恐ろしいオバハンたち。

その上さらに、この演奏にはフォルテピアノがいるんだよね。
フォルテピアノはアリアの中にもいて、遠慮なくジャラジャラと鳴っているんだけど、やはり圧倒的な存在感を示すのがセリフの伴奏。そこで、その直後のアリアや重唱の旋律を先取りしたり、人物の感情を代弁したりする(パパゲーナ(婆)のシーンも凄かったが、第2幕のモノスタトスのアリア直前のセリフに、陽炎のような上昇音型の伴奏が付いたのは、なんというエロさかと感動した)。これはやっぱり、フィゲイレドが弾いているのか。
これがオーセンティックなやり方でないことは想像がつくのだが、ちょうどコジファントゥッテみたいに、つくりものじみて儚い美しさが音楽に漂い始める。魔笛を真摯にやろう、というのが20世紀呪縛だったとしたら、これはそこから自由。
by Sonnenfleck | 2010-07-31 01:01 | on the air

シャガール│ロシア・アヴァンギャルドとの出会い@東京藝大美術館

c0060659_19305853.jpgシャガール展かと思ったら、ミニ・ロシアアヴァンギャルド+魔笛展だった。展覧会としての構成は若干弱いのだけども、出品作における名作率?が高くて、かなり満足がいきます。

14時半の灼熱上野公園を縦断して藝大まで辿り着く。何もかも色彩がくっきりしている。この会場はだいたいいつもそうなのだけども、この日も土曜日の午後のわりには会場が空いていて、眺めやすい。真夏の日なかは狙い目なのだね。


◆ゴンチャローワ+ラリオーノフ レイヨニスム
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左 ナターリヤ・ゴンチャローワ 《葡萄を搾る足》(1911年)
右 ミハイル・ラリオーノフ 《タトリンの肖像》(1913年)

美しいね。夫妻の作品が、他に埋もれずにしっかり見られたのは、この規模の展覧会ならではかもしれません。

特にゴンチャローワの《葡萄を搾る足》《孔雀》の2点は、厳密にはレイヨニスムではないかもしれないけども、ヴィヴィッドな色彩と直球勝負な構図が爽快で、この素敵な時代の勢いを感じます。のちのストラヴィンスキーとの協同は(《結婚》とかね)、この時期の作品からしても十分に予想される。要するに、好きだ。もっと知られてほしい。
夫のラリオーノフのほうは、様式で様式を描いている感がなくはない。それでも《タトリンの肖像》は、マチエールが異常なまでに透き通っていて(jpgだとこんな見え方ですが)、タトリンのトンガリぶりを見事に表現していると思われた。

+ + +

◆MET 1967 THE MAGIC FLUTE

1967年、メトロポリタン歌劇場の依頼で《魔笛》の舞台美術を担当したシャガール。その一連のシリーズ約50点が、まとまった形では今回が本邦初公開なのですな。ちなみに、以下がこのときの豪華キャスト(METのアーカイヴより抜粋)。
Pamina..................Pilar Lorengar
Tamino..................Nicolai Gedda
Queen of the Night......Lucia Popp [Debut]
Sarastro................Jerome Hines
Papageno................Hermann Prey
Papagena................Patricia Welting
Monostatos..............Andrea Velis
Speaker.................Morley Meredith
First Lady..............Jean Fenn
Second Lady.............Rosalind Elias
Third Lady..............Ruza Baldani
Genie...................Kevin Leftwich [Debut]
Genie...................Peter Herzberg [Debut]
Genie...................John Bogart [Debut]
Priest..................Gabor Carelli
Priest..................Robert Goodloe
Guard...................Robert Schmorr
Guard...................Louis Sgarro

Conductor...............Josef Krips [Debut]

Production..............Günther Rennert
Designer................Marc Chagall [Debut]
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上 マルク・シャガール 《背景幕 第2幕第30場 フィナーレ》(1966-67年)
最上部左 同《パパゲーノ》(1966-67年)

それにしても、見蕩れてしまった。どれもこれも本当に美しい。舞台のデザインなのだが、画家シャガールがあの色彩をそのままデザインにぶつけているので、衣装も、背景も、煌めくような仕上がりなんですな。それだけでなく、どの人物にもシャガールの温かい愛情が注がれているのが、僕にとっては感動であった。かわいそうなモノスタトスにも、ザラストロの車を牽く獅子にも。

フィナーレの音楽を頭で再生しながら、フィナーレの背景幕を眺めていると、久々に、絵を見て涙が出た。この強い幸福感。

+ + +

そうそう、シャガールの他の作品は…。今回もポンピドゥーの所蔵品から選ばれているために、2002年の都美での大規模展に来ていた作品ばかりで、新たな発見はなかったけれども、それでもこの人のエッセンスが濃縮されてたなあ。《ロシアとロバとその他のものに》、そして《イカロスの墜落》との再会。

そのほかにも、カンディンスキーの闘争的風景画や、マレーヴィチのデザインに基づく夢想的建築模型など、見所が多い。なんと10月11日までという長期開催なので、もう一度行ってみようかと思っています。
by Sonnenfleck | 2010-07-25 19:32 | 展覧会探検隊

そして非伝説へ…

c0060659_8554224.jpg【TELARC/80139】
<モーツァルト>
●交響曲第40番ト短調 K550
●交響曲第41番ハ長調 K551 《ジュピター》
⇒サー・チャールズ・マッケラス/
  プラハ室内管弦楽団


恐らく、バーンスタイン/VPOの録音で初めて聴いてから、今の今までずうっと、このト短調交響曲が得意じゃない。

そのあとバロックの谷底に転落したせいもあってか、この作品に纏わりついている浪漫性の何物かに対して、あるいはもっと言うなら、この作品を意味あるものとして演奏する行為そのものに対して、近寄りがたさを感じ続けてきた。
悲しみが疾走したりするネトネトの演奏も、「悲しみは疾走したりしません!」というピリオドの演奏も、そのどちらも、この作品が普通ではないことを前提にしていて、それが腑に落ちなかった。なんか、、もっとフツーの曲なんじゃないの?

そんな中で、ほぼ唯一、聴いていて厭にならないト短調演奏が、実はマッケラスの録音であった。これこそが、標題も伝説もないK550という作品の、すっぴんの演奏だと思うんだよね。
ちょっと聴いただけだと、速めに流してるだけのどうってことのないパフォーマンスに聴こえがちなのだけども、この演奏の縦方向における肌理細やかさ(第2楽章)、通奏低音が引き締めるリズムの輪郭(第3楽章)は、モダンもピリオドもなく、無類である。
「伝説」で勝負できないセレナードやディヴェルティメントは、演奏に際してはすっぴんの魅力を掘り起こすしかないわけですが、「大ト短調」だって、その方策が適用できるんです。かくして、セレナードやディヴェルティメントのように等身大で、非伝説的な、いち管弦楽組曲としての「大ト短調」が提示されるというわけ。

マッケラスは自分を伝説化しなかった。このあたりも、徹底していたよね。
by Sonnenfleck | 2010-07-18 09:03 | パンケーキ(18)

ショルティ・ライム

c0060659_10392638.jpg例年通り、本業が劇的な一ヶ月間だった。疲れた。
今日この「昭和の日」は一切の生産的活動を停止し、ブログなどの非生産的活動に終始することに決めた。いま決めた。

+ + +

いつも楽しみな<世界のキッチンから>シリーズの最新作は、「ソルティ・ライム」
スポーツ飲料系の味は「岩塩」の文字と半透明の液色からすぐに想像がついたけれども、香料のバランスが思いのほか独自路線で、好きだな。ビタミン摂取やらアディダス共同開発やら、今や打算に堕ちまくっているスポーツ飲料と一線を画すのは、飲み物は美味しくあるべきという自然なスタンス。真理のジャンクドリンク。

+ + +

友人から借りて、返せなくなったショルティ/VPOの《魔笛》ハイライト盤を聴く。
(もしここを見ていたら連絡ください。返せていないことを悔やんでいます。)
ドイテコムのクイーンとシュトルツェのモノスタトスが強すぎて夜の国大勝利!!な歌手陣を、しかしいささかも意に介さず、すっぱすぱと正道に切り分けて太陽教団の勝ちにもっていくショルティ。心裡にスポーツドリンク。
by Sonnenfleck | 2010-04-29 11:21 | ジャンクなんて...