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新国立劇場《リゴレット》|明るい廊下の光に208号室は隷属する(10/12)

c0060659_10395040.jpg【2013年10月13日(土) 14:00~ 新国立劇場】
●ヴェルディ:《リゴレット》
→マルコ・ヴラトーニャ(リゴレット)
 エレナ・ゴルシュノヴァ(ジルダ)
 ウーキュン・キム(マントヴァ公爵)
 妻屋秀和(スパラフチーレ)
 山下牧子(マッダレーナ)
 谷友博(モンテローネ伯爵)
→三澤洋史/新国立劇場合唱団
→アンドレアス・クリーゲンブルク(演出)
→ピエトロ・リッツォ/東京フィルハーモニー交響楽団


自分が中学生のころに読んだものの本によると「俳句を詠む作法には大きく2通りある」ということであった。ひとつは季語そのものを季語以外の言葉でもって深く説明するやり方、もうひとつは季語と季語以外の事象を衝突させて化合させるやり方。でもいずれの手法に対応するにも自分には才能がないことがわかって、それ以降は俳句の道から遠ざかった。

オペラの演出もだいたいはこの2通りのどちらかで説明がつくんじゃないかなあと思う。上述の俳句ハウツー本は続けて、季語そのものを掘り下げるほうが格段に難しいと断言していた記憶があるんだけれど、これもやっぱり演出に共通するよね。

今回の新国立劇場《リゴレット》、クリーゲンブルクの演出はおかしな異化にはそれほど頼っていなくて、作品そのものの掘り下げを狙いながらオペラの娯楽性を損なわない。
細部は雑な雰囲気もあったので全知全能の演出ではないかもしれないけど、このオペラの腐りきったストーリーの、そのなかでも特に腐乱した部分を明々と照らし出す厭な演出だった。まずはその一点突破主義において、クリーゲンブルクは賞賛されてもいい。

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マントヴァの宮廷から場所を移されたのは現代のラグジュアリーホテル。ラウンジをそぞろ歩く若い女性たちが形成する華やかな視界が、オペラを観る空虚な楽しさを増強する。しかし客席側に示されているのはラウンジと廊下だけで、客室の匿名性は絶対。
そんな匿名客のひとりが、ギャングのイケメン若頭・マントヴァ公爵。公爵とその手下のギャングたちは手当り次第に女性を客室に連れ込んでは痛めつけ、残虐非道のリア充生活を送っている。次の標的は道化が囲っているとされる「愛人」とのこと。

この演出で、ラグジュアリーホテルの独特の冷たい静けさは、マントヴァ公爵の人格性の薄さに直結している。彼はセックスマシーンと言うべき正確さで事を終え、すぐに次の仕事に掛かるわけだけれども、その同質感がホテルの廊下に並ぶドアたちと瓜二つなのよね。客室のつくりがどの部屋でも寸分違わないのと、マントヴァ公爵の餌食になる女性に固有名詞が不要なことは、よく似ている。

それとは反対に、人格性が強くて替えが効かないのがリゴレットやジルダ。でも残念ながら、その固有性を活かすところまでクリーゲンブルクが考えていたかどうか僕にはわからない。マントヴァ公爵と廷臣たちの「空虚で楽しい世界」がリアルすぎて、リゴレットやジルダのほうがむしろ奇矯な人物に見えてしまうんだよね。この演出ならオペラ《マントヴァ公爵》と呼ばれるべきだったかも。

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主役の3人はいずれも好印象。リゴレットのヴラトーニャは立派な体格と朗々たる声で、なんで廷臣に加わって一緒に悪さをしないのかわからない。ジルダのゴルシュノヴァは比較的強靱な声質の持ち主で、役の頑迷固陋な一本気とはすかっと一致。
それからマントヴァ公爵のキムは(すでに各所で話題になったとおり)朝青龍によく似た見た目と朗らか残忍な美声の持ち主で、こちらも作品のキャラクタとしっかり合致してしまっていた。

指揮者とオーケストラには少し問題があったと思う。丁寧に硬く小さくまとまっているなあ、たぶんヴェルディをやるにはこれはよろしくないんだろうなあ、と冒頭から感じていたんだけど、この箱庭感はたとえばモーツァルトや《ペレアスとメリザンド》や《鼻》を活かす種類の感覚ではないかしら。ほかの作品で聴いてみたい。リッツォ氏。
by Sonnenfleck | 2013-11-16 11:49 | 演奏会聴き語り