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円光寺雅彦/名フィル 第416回定期演奏会@愛知県芸術劇場(9/6)

c0060659_10484791.jpg【2014年9月6日(土)16:00~ 愛知県芸術劇場コンサートホール】
●スメタナ:《売られた花嫁》序曲
●ドヴォルザーク:Pf協奏曲ト短調 op.33
 ○同:ユーモレスク
→スティーヴン・ハフ(Pf)
●マルティヌー:交響曲第1番 H289
⇒円光寺雅彦/
 名古屋フィルハーモニー交響楽団


半年書いてないと書けなくなるものですわな。どうやって話を運べばいいか忘れてしまった。名古屋引っ越し後やっと名フィルに行けた記念で、ひさびさに感想文を上げます。

2014.4-2015.3シーズンの名フィルは「ファースト」というテーマで、相変わらず孤高のマニアック路線を貫いている。僕が6年前に名古屋を離れる前からこの姿勢がしぶとく続いているのは、シンプルに「いい根性してる!」というひと言に尽きるのではないかと。オーケストラの財政にはあまり興味がないクラシック音楽オタクである僕は、誰が何と言おうと今でもこの姿勢に賛辞を送りたいのです。
知られざる佳い音楽を街に広める活動と、それが儲かるかどうかというのは根本的に別問題で、後者はそれについて詳しい別の方が批評すればよい。僕は前者の、作品の力による都市文化の底上げ活動を全力で応援します。名フィル定期会員の善良なるおじさまおばさま、そしてY席にお行儀よく座って熱心に聴いている中高生たちはそろそろ、Eテレで見るN響の退屈なオール名曲プログラムに我慢できなくなってきているのではないでしょうか(期待を込めてね…!)

+ + +

この日のプログラムはマルティヌーの「ファースト」である交響曲第1番がメインに据えられていて、僕はこの曲を聴きに来たつもりだったのですよ。でも終わってみれば、強く印象に残ったのは真ん中のドヴォPfコンだったわけ。

ドヴォルザークのPf協奏曲、たぶんどこかの演奏会で聴いたことがあったんだろうと思うんだけれど、ブラームスのPf協奏曲にシューベルトのセンスを振りかけたような捉えどころのない曲想が災いしてかそもそもあまりいい印象を持っていなかった。
ブラームスのPf協奏曲がそもそも輝かしいソリストの技巧を聴くという作品ではないし、それがさらに迷いの森のようなテクスチュアを与えられればなおのこと。この日もこの曲で寝てしまうことを覚悟でホールに向かったのだった。

ところが、まずソリストのスティーヴン・ハフが試みていることに圧倒されてしまった。僕はピアノが弾けないのでピアノ弾きの方が聴いたときに把握されるハフの秘策がいまいちわからないのだけど、どうせなら感性学徒のはしくれとして、どこまでも可感的に把握できればと思っている。
そうして可感的に把握できるハフの端正な美音、そしてメロディラインのごくわずかな揺れから、雨後の渓谷のような香気が音楽として形成されていたのだよねえ。その少し冷たい香気を鼻からいっぱいに吸って、ドヴォルザークの音楽を胸にためた。一説によればオーケストラとソリストの間には「危険な瞬間」があったそうだけど、少し遠くに離れた地点からの聴取ではそんなに気にならなかった、というのが本音(単に聴き取れていないだけかもしれないけどね)。

ところがねえ。。マルティヌーがねえ。
ドヴォルザークで聴かれていた渓谷の香気は、鈍重なダムのような極端につまらない解釈によってずたずたにされてしまった。円光寺氏の指揮っぷりを聴いてこれまでに佳いと思ったことはただの一度もないけど、今回も順調にその履歴が更新されました。やったね☆

この交響曲は舞踊的なリズムと冷え冷えとしたメロディをどれくらい精密に実践できるかが勘どころと思いますが、ビエロフラーヴェク/BBC響の優れた演奏で予習していったのが仇となった感あり。ずーずーずー、べーべーべー、という「力点のない」リズム把握ではもうどうにも弁護のしようがない(オーケストラの側には絶対に非がない!と断言はできないかもしれないけど、こういうもっさい性質の音楽づくりでは、プラスアルファの「自発性」が「逸脱」と見なされてしまうのだろうなあ…と推察するところであります)。こういうガックリくる経験を積み重ねておくと、佳き演奏に巡り会えたときの感動はひとしお。応援しています名フィル!
by Sonnenfleck | 2014-11-01 11:10 | 演奏会聴き語り

ティエリー・フィッシャー/名フィル 第403回定期演奏会@愛知県芸術劇場(6/15)

このブログが2006年から2008年の間、名フィルブログだったことを覚えていて下さるかたがどれだけいらっしゃるかわかりませんが、ともかくこの土曜日、5年ぶりに本拠地に向かったのです。
なにしろ見よ、このハイセンスなプログラムを!元親方のティエリー・フィッシャーが名フィルに客演するときの、これがスタンダードなのよ。僕が愛したハイセンス名フィルの遺産を大切に聴くのだ。

+ + +

c0060659_10341642.jpg【2013年6月15日(土) 16:00~ 愛知県芸術劇場コンサートホール】
<水―波に翻弄される舟>
●ラヴェル:《海原の小舟》
●プロコフィエフ:Pf協奏曲第3番ハ長調 op.26
 ○ラフマニノフ:絵画的練習曲集(練習曲集『音の絵』)op.39~第5番変ホ長調
→イリヤ・ラシュコフスキー(Pf)
●フランツ・シュミット:交響曲第4番ハ長調
●ラフマニノフ:ヴォカリーズ op.34-14
⇒ティエリー・フィッシャー/
 名古屋フィルハーモニー交響楽団


名古屋駅に着いた直後はそれほど感じなかったのだが、東山線に乗って栄駅に到着したあたりから雲行きが怪しくなり、人混みをかき分けて県芸に辿り着くころにはすでに滝のような汗を流していたんである。これが名古屋~ウェット名古屋~♪

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さっそくビュッフェに直行して、レイコーをごくごく飲む(レイコーという言葉は名古屋に暮らすまで一度も目にしたことがなかったのだった)。ちなみにここのカウンターからの眺望は、日本の都市系コンサートホールのなかでは屈指のものである。

で、2階のL2列に座る。ちょうど指揮台を真横から見る席です。
この日の長大なプログラムは、ハ長調の2曲を小品2曲でサンドしたアーチ構造を取っていて、たいへん意志的。小舟の登場→小舟の内燃機関→小舟と嵐、難破→小舟にもたらされたひとつのエピローグ、という4楽章構成の大きな交響曲を聴いたような満足感があったのだった。

+ + +

◆第2楽章:小舟の内燃機関
僕がこの日、心底素晴らしいなあと思ってブラヴォを飛ばしたのは、まずはプロコフィエフの第3協奏曲なんである。

あえて率直に書きますと、しばらく東京のオーケストラを中心に音楽を聴いていたために、かつてとは違った印象を「フィッシャーが振っている名フィル」にすら感じてしまうのではないかという密かな危惧を持って、この日品川からのぞみに乗ったわけです。
しかしそれはまったくの杞憂に過ぎないどころか、かえってフィッシャー+名フィルの相思相愛ぶり、その結果としての素晴らしい完成度を思い知ることになったのです。こんなに優れたプロコフィエフが生で聴けたら、N響に8,500円払う必要もなければ、ベルリン・フィルに40,000円払う必要もないのだ。いや、本当にね。

名フィルは東京のオケでいうと読響にカラーが似ていて、フィーバー状態になったときのノリの良さと「ひと」の善さ、そして通常営業時のやや大味めな空気感、これが彼らの持ち味だと思っている。
フィッシャー名誉客演親方は、常任親方のころから彼らを鼓舞してフィーバー状態にするのがものすごく上手だったし、その状態を作り上げたうえで、今度は自分のクールビューティ+機知に富んだ音楽を「徹底的に」やる。この日もやっぱりそう。

まずフィッシャー/名フィルの伴奏がギンギンに尖っているのが、好いんだよねえ。歯車やバネがキチキチキチ...と噛み合って精妙なアンサンブルが組み上がっていくのがつぶさにわかる。親方の細かくてマニアックな指示をよく理解して、可能な限り実現させようとするオケの反応が非常に良くて、聴いていて嬉しくなってくるのですよ(各楽器の一瞬のミスなどはこういうときは一切関係ない)。特に第1楽章の後半と第3楽章の終盤の叙情的機械っぷりは、どこに出したって恥ずかしくない一流のプロコフィエフ。
また第2楽章も素晴らしい。ここで伴奏は急に、東欧の古くて小さいオーケストラのような響きに変わる。フィッシャーが何かをインストールしたのは間違いなく、微かな浪漫のヴェールに包まれる心地よさにびっくりなのである。

そしてソロのラシュコフスキー。彼は第8回浜松国際ピアノコンクールの覇者で(ちなみにこのとき、当ブログで勝手に応援中の佐藤卓史が第3位に入賞している)、イルクーツク出身の28歳。
華やかな経歴やロシアの若手ということから、勝手に地対地ミサイルみたいな重火器演奏をイメージしていた僕を、第1楽章の最初のタッチでラシュコフスキーは完璧に裏切った。意表を突く「溶け込み型ソロ」で、伴奏として駆動する叙情機械にせいぜいふわっとエフェクトが掛かるくらいのさりげなさ。まことに驚愕しました。

このソロを見越しての鋭い伴奏なのか、この伴奏にゆるふわソロを中てたのか、それともこの両方なのか、正確にはわからねど、作品を根幹から見直すくらい理想的な演奏だったのです。

+ + +

◆第3楽章:小舟と嵐、難破
そして休憩を挟んで「シュミ4」。
フランツ・シュミットといえばオラトリオ《七つの封印の書》…くらいしか知らない。かつてアルミンク/新日フィルで聴いたときも、作品の良さがあまりよくわからなかったのだったが、あれはテキストがあったのがよくなかったのかもしれない。「シュミ4」は都会風の寂しいマーラーで、じんわりと理解されたのだった。

この交響曲が作曲されたのは1932年から33年にかけて。宮廷歌劇場のVc奏者としてキャリアをスタートさせたシュミットは当時、高等音楽院の院長を務めるまでになり、ウィーンのアカデミックな潮流のど真ん中にいたひとだったので、作風は保守を、大いに「気取っている」。

単一楽章の曲中、マーラー風の大きな讃歌に到達しかけるんだけれど、そこであえなく破綻→ぐずぐず→立ち消え、というのが二度ほど観測される。小さな讃歌はメロディラインが短すぎてすぐに埋没してしまう。
シュミットは若いころ謦咳に接したマーラーの浪漫に終生憧れていたんだろうけれども、彼では恥ずかしくて大きな声では浪漫を歌えなかったんだろうなあ。都会風の、アカデミックな、歪んだ自己韜晦が基調にある寂しい交響曲(ミャスコフスキーに少し似てる)。しかし美は、いじけた細部にもちゃーんと宿っていて、フィッシャーはそれを見逃さない。

たとえば第1部の小さな讃歌たち。第2部に登場する甘美なVcのソロ(ひさびさに耳にする太田首席の豊かな音、お見事でした…!)。あるいはその後の葬送行進曲。そして第4部の終盤。
第4部の終盤に訪れるのは、マーラー風讃歌と冒頭のTpソロモティーフの精神的融合ではないかと思う。作曲家のなかで破綻を讃歌に読み替えるという病的な高揚が起こり、それで静かに交響曲の幕が下りてしまうんだよねえ。プロコフィエフの第2楽章で体感されたあの蒼古とした響きを、全曲にわたってオケに要求し続けたフィッシャーの自信と、名フィルに対する信頼、それにオケが応える熱い45分。

+ + +

しかしシュミ4はラストで破綻がむりやり讃歌になってしまっているので、演奏会プログラムとしてはとても解決したとは思えぬ。そこで最後にフィッシャーは「あり得たかもしれないひとつの可能性」を設定することで、シュミットを救い、聴衆のことも救ってくれる。ラフマニノフの甘い旋律もいいだろう。
by Sonnenfleck | 2013-06-16 13:49 | 演奏会聴き語り

ティエリー・フィッシャー/名フィル 東京公演2010(5/17)

c0060659_21324131.jpg【2010年5月17日(月)19:00~ サントリーホール】
●オネゲル:交響曲第4番《バーゼルの喜び》
●ラヴェル:Pf協奏曲ト長調
→北村朋幹(Pf)
●ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 op.47
 ○プロコフィエフ:組曲《3つのオレンジへの恋》
  op.33bis ~第3曲〈マーチ〉
⇒ティエリー・フィッシャー
  /名古屋フィルハーモニー交響楽団



月曜日のソワレなんてホントに絶望的だったのですが、運良くうるさい上司が全員出払ってくれて、ほいほいと溜池山王へ(ミラクル1)
そうして当日券の列に並んでいたら、まるで冗談みたいなんだけど、僕の目の前で非情の完売コール。
途方に暮れていると、今度は親切なおじさまが、来られなくなった友人のチケットを譲ってくれると(ミラクル2)。もう、これはクラシックと名古屋とサントリーの神様のおかげに違いない。。おじさまに全力で感謝。。

+ + +

さて、自分の贔屓がみんなに発見されることほど嬉しい出来事は、そんなに多くない。これまでこのブログでは、フィッシャー+名フィルの良さを微力ながらも伝えてきたつもりであります。この夜をもって彼らが東京の楽壇に「実際の」姿を現し、また聴衆を虜にしたことは、その良さが認識されるのを十分に扶けたものと思う(悔しいけれど、日本のクラ世論の中心はたぶん東京だ)。

オネゲル《バーゼルの喜び》ではまだ十分にエンジンが掛からない。第1楽章冒頭は薄い弦がふらふらっとしていかにも頼りなげだったけど、終盤のタムタムに乗せる透明なパッセージのあたりから、僕の知っているフィッシャーサウンドが現れます。
第3楽章では顕著に、この数年で名フィルがちゃんと進化したことがわかる。フィッシャーの要求する小股の切れ上がった鋭いリズムがクリアされていく様子…。これは、かつて聴いたフィッシャー+名フィルの《ダフニスとクロエ》の「あと一歩」感が、確実にブラッシュアップされた結果と思われて、何かとても嬉しいのです。

続くラヴェルの協奏曲、いよいよ親方の本領発揮ですね。
ソロの北村くんは青年っぽいシンプルなロマンティシズムに不思議な粘り気が伴って、当方の予想を裏切る。その粘性を推進力燃料に変換して、強く主張するのがこの夜の伴奏だったんだよなあ。
前面に出て個性的な表情で歌う木管(ティモシー君に代わる新しいクラの人がクール!)、いくつも仕掛けられた急激なアッチェレランドに負けない足腰を身に付けた弦楽陣(低弦の敏捷な身ぶりには驚かされた)、いずれもハイレベルでした。
フィッシャー特有の冷たく湿ったような音色は、ここでは第2楽章にくっきりと出現した。あれがコンスタントに聴けるのは名古屋クラシーンの特権。

+ + +

そして休憩後、タコ5ですよ。これが本当に面白い名演奏であった。
この有名な交響曲において伝記的要素を顧慮しないことは、とても勇気の要る判断だと思う。フィッシャーは墓銘碑も強制された歓喜も何もかも打っ棄って、純粋なバレエ組曲のように、あるいはモーツァルトのように、ニュートラルな愉悦を造形することに全力を投じていたように思う。モダン!

第1楽章冒頭がスピカート気味に跳ねたところから予感はあったけども、展開部の気楽な咆哮にもびびっていてはいけない。
驚くべき諧謔ゼロフリーを達成した第2楽章では、新しい知見がもたらされた。皮肉から自由になると、ショスタコーヴィチのアレグロは運動性に焦点が合うので、まるで干潟から潮が引いていくようにして真摯なモダニズムが現れる。この演奏スタイルはソヴィエトのいくつかの古い録音を彷彿とさせるんだよなあ。第4楽章もやはり軽快なインテンポで威嚇がなく、同様の「ソヴィエト・ピリオド」。いやあ。第5番は初期社会主義リアリズムの最後の煌めきだったのだなあ。

しかし僕らは世知辛い2010年に生きているから、この夜の第3楽章のような慰めの抒情も必要としているわけです。
この楽章のアンサンブルの美しさは大変素晴らしかった。弦楽の全パート全員が本気で静謐な美音を出そうとしていたのが明らかだったし、僕がこれまでに聴いてきた名フィルのベストフォームだったと思います。フィッシャーの霧のような音色づくりが完全に成功して、お客が静まりかえってしまった。名古屋での定演のレヴューは辛口のものが多くて心配していましたけど、なんのなんの。もっと名フィルに自信を持つべきですよ>名古屋の皆さま。

+ + +

もちろんライヴならではの傷は方々にあった。それに、以前からこのオケで気になるトランペットの弱々しさが、全然改善されないどころかむしろ悪化しているのは非常にまずい。大胆な改革が要るのかもしれない。そのことを含めても、フィッシャー親方にはさらに長い任期を望みたいのですが、来年2月のマラ9が不気味な存在感を放っている。お別れなのか。

アンコールはショスタコのバレエ組曲でもやったらいいなと思っていたところで、嬉しい《オレンジ》!親方のプロコ愛が伝わるセレクトに、開放感のある陽気なサウンドで応じるオケ。
拍手に応えて、最後に笑顔でガッチリ握手を交わす日比コンマスとVc太田首席の姿を見、フィッシャーがいつまで一緒にいてくれるかわからないけれど、これからも「おらが名フィル」を応援してこうと思う帰途なのでありました。
by Sonnenfleck | 2010-05-18 23:03 | 演奏会聴き語り

on the air:T. フィッシャー/名フィル 第359回定期演奏会

c0060659_6101880.jpg【2009年6月12日(金) 愛知県芸術劇場】
<ストラヴィンスキー 三大バレエⅠ>
●ショスタコーヴィチ:《祝典序曲》 op.96
●モーツァルト:Pf協奏曲第9番変ホ長調 K271 《ジュノーム》
→北村朋幹(Pf)
●ストラヴィンスキー:《春の祭典》
⇒ティエリー・フィッシャー/名古屋フィルハーモニー交響楽団
(2009年8月9日/NHK-FM)

FMシンフォニーコンサートで名フィルの定演。名古屋にいれば絶対に行っていたはずなので、とてもありがたい。

最初のショスタコーヴィチ《祝典序曲》は、確か当初はマルタンの《四大元素》という超絶マニアックな作品が予定されていたところからのメジャースライド。
ここでは、名古屋時代から少し気になっていた金管隊の重々しさが、ディヴェルティメント的に足回りを軽やかに仕上げてしまうフィッシャー親方と、微妙な齟齬がなくはないなあ、という歯切れの悪い感想です。。あのよく響く愛知県芸のせいもあるだろうし、バンダがいるからそのように聴こえるのかもしれない。

続いて、モーツァルトの《ジュノーム》
まずはオケが、思ったより編成を刈り込んでいないように聴こえるのが興味深い。確かに昨年夏のベートーヴェン第5では、前半のショスタコーヴィチVn協奏曲とほとんど変わらない厚みでもって、アーノンクール直伝の不自然派とでも呼ぶべき演奏があのように顕現したのですから、今回もおかしい感じはしない。

第1楽章のカデンツァの直後の、トゥッティが肩をひゅうっと竦めるようなお洒落なアーティキュレーションなんか、この日一番の「あーフィッシャーっぽい」ポイントだな。第2楽章でソロに寄り添う優しげなアンサンブルが、突如氷のように冷たい態度に出たりするのもをかし。
北村君は少なくともFMの電波で聴く限り、ずいぶんアーティキュレーションが平板だなあという印象を免れませんでした。第2楽章のカデンツァのアイディアはなかなか面白いけど、全面を白磁のような育ちの佳いタッチで覆ってしまうのが藝術だろうかなとも思う。お好きな人はお好きでしょうけども。第3楽章はいたずら小僧のように軽く罪のないタッチがとてもよかった。

+ + +

後半に《春の祭典》です。ドキドキする。
細かい指示が飛んでいるらしい様子が、冒頭は少しおずおずとした音運びから伝わってきますが(何やらFlにおかしなことをさせていたぞ!)、音色の重なり合いにこだわりを持ちつつ、総体としてひんやりとしたアンサンブルに纏め上げる手腕は変わらず。マッシヴさのまるで欠けた〈春のきざし〉の、しかし鋭く冴え渡るリズム感!これはいい!
映像が次々と後ろにすっ飛んでいく〈誘拐〉。続く〈春のロンド〉はたとえばコバケンであれば重みと脂っこさだけで押し切る場面だけども、この演奏ではトゥッティのフォルテでもなお透明感を失なっていないのが驚きです。根底にある律動感のようなものが絶えず参照されて、停滞する暇がない。かなりの速度で突っ込んだ〈大地の踊り〉はアンサンブルが若干崩れかかってヒヤリとさせられましたが(苦笑)

第2部の〈序奏〉はフレーズのおしまいのところが面白くて、スダレ状に響きを残すパートと、さっさと片づけて先に行くパートが並存しています。複数回そのようにされたので演奏ミスではなく指揮者の指示と解釈しましたが、これも効果的なカラクリだねえ。
〈乙女の神秘的な踊り〉のデジタルオルガンのように空虚な和音が耳に残る。最後に〈生贄の踊り〉にかけてはちょっとカラータイマーの点滅が見えてきて、スタミナ切れ間近の中を首尾よく駆け抜けた感アリ。最後の一打とか、響きがタイトで物凄くカッコよかったですけどね。

徹頭徹尾、冷静な律動管理なので、これは名フィル的には地獄の特訓だったのではないかと思います。お疲れさまでした。タト山センセは「演奏全体がやや前のめり」の一言で片づけましたが、たとえば老人の前のめらない気の抜けたハルサイに比べてどちらがいいかと言ったら、それは。ね。
by Sonnenfleck | 2009-08-10 06:13 | on the air

名古屋フィル 第352回定演

c0060659_19341099.jpg【2008年11月15日(土)16:00~ 愛知県芸術劇場】
<ツァラトゥストラ7―舞踏の歌>
●ハチャトゥリャーン:バレエ《ガヤネー》から
〈剣の舞〉、〈子守歌〉、〈薔薇の乙女たちの踊り〉、〈レズギンカ〉
●ショスタコーヴィチ:バレエ組曲第1番
●ルーセル:バレエ《バッカスとアリアーヌ》第2組曲
●ラヴェル:《シェエラザード》
→浜田理恵(S)
●同:《ボレロ》
⇒大友直人/名古屋フィルハーモニー交響楽団


最近夕方の4時ころが猛烈に眠い。どうしてかな。
4時開演の名フィル定期は、だからとっても辛いんです。

ハチャトゥリャーンからルーセルまで、前半は起きていた時間と沈没していた時間が半々くらい。情けない。起きていた時間に関して感想文を書きます。(ルーセルは9割方沈没。)

ハチャトゥリャーンはチェクナヴォリアン/アルメニア・フィルの、ショスタコーヴィチはマキシム/ボリショイ劇場管の演奏が頭の中にあるから、大友氏のスタイルは(予想されてたけども)はっきり言って全然好みではありませんでした。ソヴィエトの作曲家の「バレエ」って平明に見える小節線の底にヘドロのように思念が沈殿しているから、額面どおり平明にバランスよく纏めるだけでは、僕は意味がないと思っています。
〈レズギンカ〉〈叙情的なワルツ〉〈ギャロップ〉も、よく研磨されてササクレは見つからない。テンポの伸縮もなくほとんど表情のないかわりに、清潔で健やかで○王の石鹸のごとき響きでした。こうした大友氏のバランスのよさは後半のラヴェルで活きてくることになりますが、前半は退屈だったです。申し訳ないけど。

+ + +

「ツァラトゥストラ」シリーズ第7回、「舞踏の歌」。もし僕がプログラミングを決める権限を持っていたら(大胆な仮定)、安易な気持ちで《高雅にして感傷的なワルツ》《ラ・ヴァルス》を持ってきてしまうでしょうが、ここでは《シェエラザード》

この「うた」が、非常に秀逸な出来。これが聴けただけでも元は取れたと思う。
大友氏の最大の美点は、まさしくこのラヴェルで最大限に発揮されたのです。つまり彼がブレンドした響きは、楽器がキシッ、キシッ、キシッ、と音を立ててアンサンブルに変形していくような、ラヴェル独自の合体ロボット的な精密さと精密さ自体による感覚的な快感を発生させることに成功しておりました。大友さんってこんなに優れたバランスを構築する人だったのか。初めて彼の真価を思い知ったような気がする。名フィルもコンディションがいい…。

もちろん、《シェエラザード》に対してこの日ひときわ大きな拍手が寄せられたのは、オケの音色の素晴らしさにだけに因るわけではないでしょう。ソプラノの浜田さんの声質や歌い口がこの日の大友+名フィルのサウンドによく合致しているといいますか、何か特段の相性の良さのようなものを感じさせたのです。声がオケに乗っかっているのではなく、オケが声を包括しているような。
ディクションはそんなに明瞭じゃなかったのでフランス語を解する方はイライラしたかもしれませんが、ちっともフランス語がわからない自分には一個の楽器が美しく鳴っているように聴こえて、20分間ひたすら美しい響きに溺れました。ほわわ。

《ボレロ》はね。過剰な誉め言葉も自虐的な反省も必要ないでしょう。あれが現時点での名フィルそのものだと思う。ソロの出来に関して脳内BPOや脳内CSOと比べてあーだこーだと文句をつけるのは実に簡単だけど、そういう問題でもないかなと。何より、拍手を浴びながら起立しているときの団員さんたちの「やりきった」顔がとてもよかった。
ああいう顔をしているオケは、もっと応援していかないとなと思う。
by Sonnenfleck | 2008-11-16 08:28 | 演奏会聴き語り

下野/名フィル+名古屋市民コーラス メンデルスゾーン《聖パウロ》

c0060659_634797.jpg【2008年11月8日(土)17:00~ 中京大学文化市民会館】
<名古屋市民コーラス 第38回定期演奏会>
●メンデルスゾーン:オラトリオ《聖パウロ》 op.36
→谷村由美子(S)
  谷田育代(A)
  北村敏則(T)
  末吉利行(Br)
→長谷順二/名古屋市民コーラス
⇒下野竜也/名古屋フィルハーモニー交響楽団


演奏についてあーだこーだと言う前に、作品自体の素晴らしさに惚れ込んだことを書いておきましょう。
キリスト教最初の殉教者・ステファノの逸話から、初めユダヤ教パリサイ派のエリートとして迫害者だったサウロ(=パウロ)が、天の光線を浴びて改心し、厳しい伝道ののち殉教を覚悟してエルサレムへ上るまでを2時間半で描くオラトリオ。パウロの生誕2000年(!)とメンデルスゾーンの生誕200年が交錯する08-09シーズンにはぴったりの選曲です。僕は今回生まれて初めてこの曲を耳にしましたが、これほど充実した作品がどうして滅多に演奏されないのか不思議に思う。

このオラトリオが作曲されたのは1836年、メンデルスゾーン27歳のときですが、雰囲気、というか音楽のフォルムがバッハの受難曲に酷似している。すなわちレチタティーヴォとアリア、重唱と合唱が折り目正しく連続する中で、ソプラノとテノールが交互に「福音史家」の役割を、バリトンがパウロを、合唱が「醜く残忍な群集」をそれぞれ演じ、ストーリーは淀みなく流れてゆくわけです。
ただし、フォルムはそのようにレトロなのですが、搭載されたエンジンや電気部品はメンデルスゾーン一流の繊細雄弁な表現を纏って、1836年当時最新鋭の実力を見せるというわけ。見かけは古めかしいので暢気に構えていると、メンデルスゾーンの劇的な表現力に度肝を抜かれることになります。メンデルスゾーン作品の最高峰のひとつじゃないかなホント。

+ + +

まず本公演の母体になっているのが、来年で結成50年を迎える名古屋市民コーラス
お年を召されたように見える方が多いのはやはり老舗だからでしょうか。ハーモニーにはどっしりとした安定感があり、表現力も(こう書いてはなんですが)老獪。律法を否定され怒り狂ったユダヤの群集と、イエスを希求する清純な心と、両方の描き分けが巧いんです。合唱を専門に聴いておられるリスナーの意見はまた別にありましょうが、アマチュアでこれだけ心の機微を表現してくれたら僕は何も言うことがありません。ブラヴォでした。
(第1部最後の22番と、第2部29番のヒソヒソ話+コラール、拍子にエスニックな香りが漂う35番、怒り狂った38番の群集、そして45番の終曲、このあたりの集中力が素晴らしかった。きっとずいぶん練習を重ねられたことでしょう。)

次に、マエストロ・シモーノに率いられた名フィル。こちらもよかった。
2時間半の長丁場だし、団員も作品の詳細に関して十分知悉しているとは思えませんから、ほとんど定期公演がもうひとつ増えたようなものでしょう。
下野氏は相変わらずよくスコアを読んでるんだろうなあという印象で、隅々まで自然なコントロールを効かせながら(いつもより少し安全運転だったけど、この人のフレーズ造形能力は実に素晴らしいと思う)、聴かせどころでは畳み掛けるようなスピード感やごついハーモニーを前面に出したりする。序曲の神々しく精妙な和音から終曲の大見得まで、もたれることなく運んでいました。
(いつもより弦が薄く聴こえるのはあの恐ろしくデッドな音響のせいだろう。金管陣はずいぶん安定していたし、木管陣、特にClのティモシーくんの豊かな表現力にはますます磨きが掛かってるような気がする。)

独唱陣に関しては評価が分かれます。
まず、見せ場の多いソプラノに登場したのが、今年のラ・フォル・ジュルネで一部の話題を攫った谷村由美子さん。僕もコルボが指揮するシューベルトの変ホ長調ミサ曲で彼女を聴いて「突出」と書きましたが、それは単に声量だけの問題ではなく、彼女の透き通った声質や深い表現力は今回のメンデルスゾーンでも遺憾なく発揮され、結果として本公演でも「突出」して素晴らしかったと書かざるを得ません(ソプラノのアリア〈エルサレムよ!〉の神々しさには涙が出た)。なーんか、、この人何かのきっかけで有名になったら爆発的に人気が出そうなんですよね。。プロフィールに書いてあったんですが、来年コルボの《ロ短調ミサ》が発売されるみたいで、そこにソプラノとして参加してるらしいです。ブレーク間近か。

逆にもうひとり見せ場の多かったテノールの方は、、突出して絶不調。どうしようもないくらい音程が取れてなくて、声も裏返るし、苦しそうだし、はっきり言って「お金払いたくない」という感じでした。
バリトンの末吉利行氏は悪役っぽい声質で、最初のパウロのアリア〈彼らを根絶やしにしてください、万軍の主よ〉が禍々しく素敵でした。改心してからも声に翳りがあって面白かったなあ。ヘレニストのパウロは原始キリスト教が最初に内部に抱えた「他者」だったのかもしれず、パウロの内面も複雑に絡み合っていたはずだもの。
アルトは、、この作品では極端に出番が少ないけど、水準以上でした。

+ + +

というわけで、総合的には「名古屋だけにしまっておくのはもったいない」公演でした。
名古屋的にも(数は少ないけど名フィル定期で見るような)クラヲタ層が来ているようには見えず、もったいないなあと思う。お客さんも「職場の同僚に招待券もらったから行くわ」的な目的意識の薄い人が多いようで、せっかくの熱演にも拍手が薄く、これももったいない。

検索してたら、来週の金曜日に湯浅卓雄氏の指揮による藝大フィルハーモニア・合唱定期でこの《聖パウロ》が取り上げられるみたいです。関東の方は行かれてみては。一度は生で耳にしておくべき作品と思いますれば。
by Sonnenfleck | 2008-11-11 06:38 | 演奏会聴き語り

名フィルの始まりは続いている。

ややタイミングを逸したネタですが、名フィルの09-10シーズン定期プログラムがようやく発表されましたね。「四季」シリーズだそうで。
去年と同じように公式から転載しちゃっていいでしょうか事務局サマ。。宣伝ですので大目に見てくださいましね。(赤字に個人的興味。)

+ + +

第357回<四季/ハイドン没後200年記念>(4/24-25、鈴木秀美
・ハイドン:オラトリオ《四季》 Hob.xxI-3

第358回<春のロンド>(5/22-23、イラン・ヴォルコフ
・グラズノフ:交響的絵画《春》 op.34
・シベリウス:Vn協奏曲ニ短調 op.47→ライナー・ホーネック
・ドビュッシー:管弦楽のための《映像》

第359回<春の祭典>(6/12-13、ティエリー・フィッシャー)
・マルタン:交響的練習曲《四大元素》
・モーツァルト:Pf協奏曲第9番変ホ長調 K271 《ジュノーム》→北村朋幹
・ストラヴィンスキー:バレエ《春の祭典》

第360回<真夏の夜の夢/メンデルスゾーン生誕200年記念>(7/10-11、鈴木雅明
・メンデルスゾーン:序曲《ヘブリーデン》 op.26
・同:交響曲第4番イ長調 op.90 《イタリア》
・同:劇音楽《真夏の夜の夢》 op.21,61 全曲


第361回<夏風の中で>(9/4-5、ティエリー・フィッシャー)
・ウェーベルン:《夏風の中で》
・ベルク:Vn協奏曲→オーギュスタン・デュメイ
・ストラヴィンスキー:バレエ《火の鳥》

第362回<ア・ストリング・アラウンド・オータム>(10/16-17、尾高忠明)
・リャードフ:交響詩《魔法にかけられた湖》 op.62
・武満:《ア・ストリング・アラウンド・オータム》→今井信子
・エルガー:交響曲第2番変ホ長調 op.63


第363回<11月の森>(11/13-14、広上淳一)
・バックス:交響詩《11月の森》
・ブルッフ:Vn協奏曲第1番ト短調 op.26→ボリス・ベルキン
・グリーグ:劇音楽《ペール・ギュント》第1組曲 op.46、第2組曲 op.55

第364回<燃える炭火に照らされた夕べ>(12/11-12、ティエリー・フィッシャー)
・ボルン:《カルメン幻想曲》 →エマニュエル・パユ
・ドビュッシー/カプレ:《子供の領分》~〈雪は踊っている〉
・ジャレル:Fl協奏曲《…静寂の時…》[日本初演]→エマニュエル・パユ
・ドビュッシー/ホリガー:アルドゥル・ノワール(黒い熱)[日本初演]
・ストラヴィンスキー:バレエ《ペトルーシュカ》(1911年版)


第365回<冬の日の幻想>(1/22-23、ダグラス・ボイド)
・武満:《ウィンター》
・R. シュトラウス:4つの最後の歌→平松英子
・チャイコフスキー:交響曲第1番ト短調 op.13 《冬の日の幻想》

第366回<早春>(2/26-27、ハインツ・ホリガー
・ラヴェル:《スペイン狂詩曲》
・ホリガー:クリスティアン・モルゲンシュテルンの詩による6つの歌[日本初演]→秦茂子
・ルトスワフスキ:ObとHpのための二重協奏曲→ハインツ&ウルズラ・ホリガー
・シューマン:交響曲第1番変ロ長調 op.38 《春》


第367回<春初めてのカッコウを聞いて>(3/12-13、クラウス・ペーター・フロール)
・ディーリアス:《春初めてのカッコウを聞いて》
・ヴォーン・ウィリアムズ:《ひばりは昇る》→滝千春
・R. シュトラウス:《アルプス交響曲》 op.64

+ + +

去年「ツァラトゥストラ」シリーズをぶつけられたときのような衝撃はありません。
でも、じわじわくる。

・鈴木兄弟が定期演奏会に客演するモダンオケは、世界広しと言えど名フィルだけ!
・話題のヴォルコフがちゃんと呼ばれるのはフィッシャー人脈のおかげ?
・ヨーロッパ室内管の同僚、元Ob吹きのダグラス・ボイドもフィッシャー人脈なんだろうね。「ユビュ王の食卓」さんのエントリによるとなかなか期待できそうです。やっぱりアーノンクール路線なんだろうか。
・第362回の尾高センセ、第366回のホリガー客演は、いずれも彼らの名刺曲というか、ぜひ彼らの指揮で聴いてみたい作品が並んでますね。今から脳汁出そう。

・フィッシャー関連ではまずストラヴィンスキー・シリーズが楽しみ。ここ数年で別の指揮者が取り上げた《春の祭典》と《ペトルーシュカ》をあえて上塗りする意気。ここを始点にミューズもオルフェウスもアゴンもやってくれますね?
・デュメイのベルクは湿度高そう。日本の夏。
・第364回は親方頑張りすぎでしょ!(パユ!)万難排して向かうべし!

いやはやハイセンスなプロデュース。まったくもって死角がない。
確かにベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、マーラーなんかはないんだけど、彼らの人気に頼らなくてもこんなに上質なプログラムが組めるんだよなあ。
by Sonnenfleck | 2008-11-08 07:10 | 演奏会聴き語り

名古屋フィル 第351回定演

c0060659_19563831.jpg【2008年10月18日(土)16:00~ 愛知県芸術劇場】
<ツァラトゥストラ6―墓の歌>
●ベルリオーズ:カンタータ《クレオパトラの死》
→加納悦子(MS)
●ハイドン:交響曲第45番嬰へ短調 Hob.I.45 《告別》
●アデス:《…されどすべてはよしとなり》 op.10
●バルトーク:管弦楽のための協奏曲 Sz.116
⇒マーティン・ブラビンス/名古屋フィルハーモニー交響楽団


これまでの「ツァラトゥストラ」シリーズは、プログラムを見た時点でピンと来るか、そうでなくても実際にホールで聴いて納得がいくパターンでしたが、今回の「墓の歌」を貫く一本線は見えず。うーむ。

指揮者ブラビンスの名前は今年のプロムスでも見かけていました。10年以上BBCスコティッシュ響の副指揮者を勤め、その間ほかのBBC系オケも含めて彼がハイペリオンに録音したCDは30枚以上らしく、都響にも来年早々に客演するみたいです。いかにもフィッシャー系の人脈っていう感じですよね。
そのブラビンス、とにかく何でも器用にこなす人だなあという印象。
本定期の4作曲家の様式に関する途方もないギャップをちゃんと振り分けることができるし、ただ事務的に振り分けるんじゃなく、その上で聴衆が喜ぶ「ふりかけ」みたいなものもちゃっかり知っていてパラパラとやる。お客さん喜ぶ。オケメンも喜ぶ。みたいな。

+ + +

最初の《クレオパトラの死》は沈没。ダメだね最近。寝てしまう。

しかしハイドンの《告別》が、これが素敵な演奏だったので飛び起きることができました。
弦の編成は8-6-4-3-2と一気に刈り込む一方、その小編成にも関わらずアーティキュレーションは必ずしも原理主義的ではなく、レガートやヴィブラートも何食わぬ顔で表現パレットの上に乗っています。ブラビンスが作る土台はとろりとして温かい響きであって、そこへピリオド奏法の軽快さを抽出したふりかけをパラパラ(Fgシャシコフ氏が座っている場所は完全に通奏低音部隊だったね)。
これまでの「ツァラ」シリーズに3度練り込まれていたハイドンの中では、この日のブラビンスのスタイルがもっとも明解に成功していたと思われる。愛知県芸の豊かな残響も考慮に入れて、爽快かつふわとろな演奏でありました。

日本にいてフツーのクラヲタをやっているかぎり、アデスをライヴで聴くのは人生にそう何度もないことと思われます。今回の《…されどすべてはよしとなり》は、いやー可愛い曲だ。
打楽器群が重層構造になったリズムを叩く→トゥッティに飛び火する→いつの間にかごく簡単な山型のメロディが一本流れるようになる→リズムが落ち着いて静かに解決する、というのが大まかな流れですが、バルトークのオケコンとほぼ同じ大きさの巨大な編成なのに響きは省エネな感じ。ショスタコが交響曲第15番の最後でやった「チャカポコチャカポコ…」と同じ線上に位置する、「無邪気な」音の遊びです。
こういう無目的的な音楽って、定期演奏会なんかではまだまだ受けないのかもしれない。拍手の薄いことといったら!熱狂してる自分が恥ずかしくなるくらい!

最後にバルトークの管弦楽のための協奏曲
これはブラビンスとオケの共同作業が非常に上手くいっていた感アリです。ブラビンスはここにきて聴衆大喜びのガハガハ系バルトーク像を持ち出し、濃ゆい味つけを施すんですが、(多少の破綻もあったけども)基本的にはそれがスムーズに再現されるあたり、もう馬力だけの名フィルではないのだなあと。
もちろん第1楽章第3楽章の濃厚な静けさもよかったけども、第2楽章第4楽章のスパイシーな凹凸が実に刺激的でした。ああいう豊かな抑揚は日本人指揮者+日本のオケだとあんまり現れないですよね。面白かった。

ここまで書いて、今回の「墓の歌」は、ニューヨークのバルトークが葬った、しかし絶えず憧れてやまなかったヨーロッパ的な過去を並べたのかなあという気がしてきた(ニーチェの「墓の歌」ってそういう感じじゃなかったっけ?)。ベルリオーズもハイドンもアデスも、病身のバルトークが懐かしく思い描いた非合理性を背負っているものね。
by Sonnenfleck | 2008-10-19 08:18 | 演奏会聴き語り

名古屋フィル 第350回定演

c0060659_853294.jpg【2008年9月6日(土)16:00~ 愛知県芸術劇場】
<ツァラトゥストラ5―学問の拒絶>
●メシアン:《キリストの昇天》
●武満:《ファンタズマ/カントス》
→亀井良信(Cl)
●ラヴェル:バレエ音楽《ダフニスとクロエ》
→荻野砂和子/グリーン・エコー
⇒ティエリー・フィッシャー/名古屋フィルハーモニー交響楽団


メシアン+武満+ラヴェルによる「学問の拒絶」
いい。たまらなくいい。萌えのポイントを的確に刺激されます。

と言いつつ、実はメシアンと武満はそれぞれ聴いたことのない作品。
メシアン《キリストの昇天》はプログラムによると1932年から33年にかけて作曲されているので、まったくモダンの作品。コンテンポラリーじゃないよね。全4楽章、30分ほどの時間の中に、後々メシアンらしい音組織を形作る各要素たちが、ここではまったく別の形状に擬態して並んでいるような感じでした。ただし学問は拒絶されているから、これは交響曲ではない。

たとえば第1楽章〈みずからの栄光を父なる神に求めるキリストの威厳〉は、これはブルックナーの残り香がふわーっと漂ってくるし、一方で第3楽章〈トランペットとシンバルによるアレルヤ〉の根底にはルーセルのような軽快な運動性が聴こえてくる。
加えて特に第2楽章〈天国を希求する魂の清らかなアレルヤ〉で顕著なんですが、極めて点描的な、ウェーベルンのような感触がこの作品の全面に覆いかぶさっているんですね(頻出する管の大ユニゾンはショスタコーヴィチのお得意パターンだが、これは「管の大ユニゾン」というひとつの選択肢、パレットの中のひとつの色にすぎないようだ)。そのために各パートが裸になってしまう場面がかなり多いので緊張するだろうし、オケプレイヤーたちにとってはなかなか辛い曲かもしれません。
管楽器だけで演奏される第1楽章、そして弦楽合奏だけで演奏される第4楽章〈父のみもとへ帰るキリストの祈り〉、名フィルのメンバーはそれぞれ健闘していたと思います。…思いますが、後者に限っていえばもっとグラマラスな量感を出してほしかった。フィッシャーの指示かもしれないけどとにかくストイックで、ひんやりしてとても美しい音が出ているんだけど、ちょっと食物繊維っぽくて物足りないんですよね。。これは様式に沿った解釈だろうから、肉っぽくなったメシアンしか知らない自分としては何も言えないけどさ。。

続く武満の《ファンタズマ/カントス》
点描的でそんなにメシアンらしくない1曲目のあとに並べて聴くと、90年代の武満作品は余計トロトロでエロティックに聴こえるであります。タケミツトーンとクラリネットの相性は抜群であると思われますが、この日のソロを務めた亀井氏はとても耽美的な音質の持ち主のようで、いつ始まるともいつ終わるともわからない武満時間に溶け込んでいました。
よく練り上げられたこしあんのようにしっとりと光ったり、暗さを秘めたりして、オケの状態はこの曲が最もよかったように思う。この前のショスタコーヴィチもそうだったけど、こんな感じの響きを作るのが得意なフィッシャーのスタイルを僕は強く評価したいし、それを名フィルに導入しようとしている彼の試みもぜひ応援したい。

さて《ダフニスとクロエ》です。
ここで白状しますが、実は金曜と土曜、両方聴きにいったんですよ。

金曜のダフクロはもう本当にアンサンブルがガタガタで、合唱にもいらぬ緊張が走り、そういうときに限って個人のミスも集積し、さらに長いスコアの最初の1小節目で着メロが鳴り響いてしまって、それはそれは悲惨な出来に。。
メシアンと武満は金曜の方が厳しい集中力を感じたので、どうも前後半で力の配分をミスったんじゃないかなあと思うんですが、一方で「ツァラトゥストラ」シリーズにより大量の情報が注ぎ込まれた疲れがここにきて出てきたのかなあという気も。。

仕切り直して土曜日。
フィッシャー親方の意図しているラヴェルは速めのインテンポの中に自由なデュナーミクが効いているために柔らかく、それでいて冷たくツンと澄ましていて、各場面の切れ目には几帳面な句読点が置かれ、とこれまでの名フィルには(たぶん)そんなに馴染みのない要素が多く含まれていたんです。これも金曜のゴタゴタした演奏の原因かもしれない。
しかし…オケは土曜日に一変。
土曜日の午前中(金曜の深夜かも)に何があったか知りませんけど、アンサンブルの練り上げがまったく段違いなのですよ。レベルが違う。あちこちから匂い立つような素晴らしい響きが立ち昇ってきて、眩暈のするような幸福を感じました。

ダフクロはどの部分も欠かすことができないし、連続しているから意味があるわけで、どこかを取り出してああだこうだと書くのはあんまり気が進まないのだけど、特に強く印象に残っているのは〈無言劇〉かなあ。
それまでの仮借ないインテンポの行進がここだけ極端に緩められ、この日大活躍の首席Fl・富久田氏の音がふわふわと漂います。彼の音にはこれまでそんなに注目していなかったけれども、何よりノリとリズム感に優れているようで、これはフィッシャーの音楽づくりに間違いなく適していると思う。元フルーティストの指揮者にしごかれるのはなかなか大変だったでしょうが、フィッシャーがカーテンコールで真っ先に彼を立たせたのはもっともなことです。
(※《クープランの墓》がOb協奏曲なら、《ダフニスとクロエ》はFl協奏曲かも。)

打楽器陣は健闘していたと思う。金曜日はスネアがズレ気味で残念だったけど、土曜にはしっかり補正されていましたし。非楽音的な音が頻出するハープも素晴らしかったです。
ただし、ウインドマシン。
帰りがけに階段を下りていたカポーの男の方が「あれならオレでもできるぜー。ひゅ~ううう~ってやつ。どぁはははは!」って笑っていたけど、意外にそうでもないのだ。滑り出しと止めを円滑に行なわないと、風には聴こえなくなる。

合唱は、、指揮者が必死に口に指を当てて「しーっ!」とやるのに、なかなか声量をコントロールできない。あれだけ人数がいると(これまで何度か聴いてきたグリーン・エコーに比べて多かったような…)ひとりひとりが本当に注意しないと、恐怖の金太郎飴メゾフォルテになってしまうんだよなあ。残念。それでも金曜より土曜のほうがずっとずっとよかった。

+ + +

ステージ上にはマイクがセットしてあったけど、武満のときにソロ用マイクが立ってなかったから、合唱団員頒布用の録音かも。いや、武満はコンチェルトではないから総体の中に聴こえてこそという深謀遠慮に因っているのかもしれないけど。
by Sonnenfleck | 2008-09-07 09:29 | 演奏会聴き語り

名古屋フィル 第13回市民会館名曲シリーズ

【2008年8月31日(日)16:00~ 中京大学文化市民会館】
●ドビュッシー:《夜想曲》
→近藤惠子/岡崎混声合唱団
●ショスタコーヴィチ:Vn協奏曲第1番イ短調 op.77
  ○アンコール バッハ:無伴奏Vnパルティータ第2番イ短調 BWV1004~〈サラバンド〉
→バイバ・スクリデ(Vn)
●ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 op.67
  ○アンコール ドビュッシー/ビュッセル:《小組曲》~〈行列〉
⇒ティエリー・フィッシャー/名古屋フィルハーモニー交響楽団


7月の常任指揮者就任披露公演が聴けなかったので、親方さんの指揮ぶりにライヴで接するのは2006年9月以来。…今日もやってくれた。やっぱこの人面白い!

順番に行きますね。まずドビュッシーの《夜想曲》
フィッシャーが指揮台に立つと、名フィルは音が変わりますね。これはブリテンをやったときだけのサムシングスペシャルではなかった。かなり速めのテンポで、冷たく輝くようなテクスチュアが次々と並べられていく〈雲〉。冒頭のVn隊が炸裂して、リズムによる切り込みが完璧に決まった〈祭〉は本当に気持ちよかった。
(それだけに行進曲における金管の発音の遅れ、後ろにもたれかかるような負のリズム感はいただけない。わが街のオケの金管、特にTpには前々から不満があるけど、音色だけじゃなく拍節感もとなると…。)
インテンポでクールにまとめた前二曲とは対照的にもったりと緩めた〈シレーヌ〉は、テクスチュアの編み目を手で揉みほぐしていくような、分解・分散型の気持ちよさがありました。岡崎の皆さんは発音やアタックにやや硬さがあったけど、音程や分解能に関しては十二分。

+ + +

さてさて、次はショスタコーヴィチのVn協奏曲第1番。「夜想曲」つながりダネ。
いやーこれは。
久しぶりに深く満足のいくショスタコーヴィチを聴いたなあ...という感じ。
このヴァイオリニスト、どっかで聴いたよなあと思ってたら、2年前の9月にモーツァルトを聴いてました第1楽章における彼女の歌い崩しはあのときの比ではないくらい妖艶で、音程を犠牲にするくらいトロトロに熟している。ついさっき遠くへ去っていったシレーヌがカテリーナ・イズマイロヴァとして舞い戻ったかのようです。
彼女を支える、重々しくも澄み渡った(わかるでしょうか?)オケの音色は、これはフィッシャー薫陶の賜物でしょう。この指揮者の音色のセンスはなかなかに凄いのだ。。

第2楽章中間部は嵐のようなテンポによる強烈なギャロップ!まさかこのスピードで突っ込むとは思わなかったというのが本音だけど(ちょっとドキドキした)、確かにあれはショスタコの真髄のひとつだ。意味ありげに遅いショスタコは、「意味ありげ」という不遜な印象でスコアを玩んでいるにすぎないと僕は思うんです。
ここではフィッシャーの「ショスタコビリティ」の高さが、そしてそれに食らいつく名フィルのポテンシャルが、第12交響曲のときに引き続いて披瀝された格好。ただしソロはあれほどに粗さを演出する必要があったのかな?
でも第3楽章ではスクリデの才能に驚かされることになります。
あのパッサカリアはどんな演奏でもある程度は感動してしまうんだけど、今回は彼女の妖艶な歌い回しと、他者を必要としないような完結した響きに絡め取られた感じです。オケはフィッシャーによってとことん抑制されて軋むような音しか出せずに、そこから続く孤独なカデンツァをいっそう引き立てる。
一方で第4楽章はいかにも協奏交響曲らしく、各パート、特に木管がやかましいくらい囀り立てて愉快(FgやFlの扱いはちょっとクセがあって面白かった)。

+ + +

今回の第5交響曲、巨大な編成はショスタコーヴィチのまま。フィッシャー親方の古典派は聴いたことがないし、どうなるのかまったく想像がつかなかった。まさかの巨匠風?
ところがいざ蓋を開けてみると、そこにはアーティキュレーションに超こだわった不自然派ベートーヴェンがでろでろでろ~っと横たわっていたんですな。うはー。
弦を見ていると(弦しか見えなかったけど)左手によるヴィブラート、それから漫然としたメゾフォルテがかなり抑制された代わりに、ボウイングに凄まじい量の指示が飛んでいたんではないかなあと思われる。引っ掛けたり突っついたり撫でたり、あちこちがコミカルでシニカル、古式ゆかしい「運命交響楽」を期待していた人は金ダライ級の衝撃ではなかったか。

どこがどうだったか伝えるのは至難の業ですが、たとえば第1楽章冒頭のフェルマータはほとんど無視されていたし、第2楽章はいかにも軽々しいディヴェルティメント、抑制されて不機嫌な第3楽章、そして第4楽章の発音はけっしてストレートな輝かしさではなく、基本的にゴリゴリとした跳ね上げによって統一されようとしていました。この「不自然さ」…何に似ているかといったら…こりゃアーノンクールだわ。アーノンクールのベートーヴェンだわ。うん。


うまく説明できないので、アーノンクール/ヨーロッパ室内管のライヴを貼っておきます。フィッシャーの造形はこれに驚くほどよく似ていました。フィッシャーのプロフィール欄にある「アーノンクールにスコアを学び、強い影響を受ける」っていうのは、修辞的な文句でもなければ誇張表現でもない。この耳で聴いてきた。

名フィルはヨーロッパ室内管ではないから、あの人数であの方法を試すのは、フィッシャー親方にとっても実験の意味が強かったんじゃないかしら。アインザッツが揃わないことについて怒りをぶつけるのは、今回に関してはお門違いだと思う(首席たちがフィッシャーの意を汲んでいつもと違うアーティキュレーションを実行していたのを、僕は見ました)。僕は日本のオケから思惟による「不自然」の響きが立ち昇るとは思ってなかったし、それがよりによってわが街のオケからだとはもっと思っていなかったのですよ。
(ところが、いつも拝見している在名古屋ブロガーの皆さんの評価が総じて低めだったので、自分はいまモーレツに自信を無くしています。)

親方の「横一閃!」がカッコよいね。ダフニスも行きますよ。
by Sonnenfleck | 2008-09-02 06:27 | 演奏会聴き語り