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新国立劇場《リゴレット》|明るい廊下の光に208号室は隷属する(10/12)

c0060659_10395040.jpg【2013年10月13日(土) 14:00~ 新国立劇場】
●ヴェルディ:《リゴレット》
→マルコ・ヴラトーニャ(リゴレット)
 エレナ・ゴルシュノヴァ(ジルダ)
 ウーキュン・キム(マントヴァ公爵)
 妻屋秀和(スパラフチーレ)
 山下牧子(マッダレーナ)
 谷友博(モンテローネ伯爵)
→三澤洋史/新国立劇場合唱団
→アンドレアス・クリーゲンブルク(演出)
→ピエトロ・リッツォ/東京フィルハーモニー交響楽団


自分が中学生のころに読んだものの本によると「俳句を詠む作法には大きく2通りある」ということであった。ひとつは季語そのものを季語以外の言葉でもって深く説明するやり方、もうひとつは季語と季語以外の事象を衝突させて化合させるやり方。でもいずれの手法に対応するにも自分には才能がないことがわかって、それ以降は俳句の道から遠ざかった。

オペラの演出もだいたいはこの2通りのどちらかで説明がつくんじゃないかなあと思う。上述の俳句ハウツー本は続けて、季語そのものを掘り下げるほうが格段に難しいと断言していた記憶があるんだけれど、これもやっぱり演出に共通するよね。

今回の新国立劇場《リゴレット》、クリーゲンブルクの演出はおかしな異化にはそれほど頼っていなくて、作品そのものの掘り下げを狙いながらオペラの娯楽性を損なわない。
細部は雑な雰囲気もあったので全知全能の演出ではないかもしれないけど、このオペラの腐りきったストーリーの、そのなかでも特に腐乱した部分を明々と照らし出す厭な演出だった。まずはその一点突破主義において、クリーゲンブルクは賞賛されてもいい。

+ + +

マントヴァの宮廷から場所を移されたのは現代のラグジュアリーホテル。ラウンジをそぞろ歩く若い女性たちが形成する華やかな視界が、オペラを観る空虚な楽しさを増強する。しかし客席側に示されているのはラウンジと廊下だけで、客室の匿名性は絶対。
そんな匿名客のひとりが、ギャングのイケメン若頭・マントヴァ公爵。公爵とその手下のギャングたちは手当り次第に女性を客室に連れ込んでは痛めつけ、残虐非道のリア充生活を送っている。次の標的は道化が囲っているとされる「愛人」とのこと。

この演出で、ラグジュアリーホテルの独特の冷たい静けさは、マントヴァ公爵の人格性の薄さに直結している。彼はセックスマシーンと言うべき正確さで事を終え、すぐに次の仕事に掛かるわけだけれども、その同質感がホテルの廊下に並ぶドアたちと瓜二つなのよね。客室のつくりがどの部屋でも寸分違わないのと、マントヴァ公爵の餌食になる女性に固有名詞が不要なことは、よく似ている。

それとは反対に、人格性が強くて替えが効かないのがリゴレットやジルダ。でも残念ながら、その固有性を活かすところまでクリーゲンブルクが考えていたかどうか僕にはわからない。マントヴァ公爵と廷臣たちの「空虚で楽しい世界」がリアルすぎて、リゴレットやジルダのほうがむしろ奇矯な人物に見えてしまうんだよね。この演出ならオペラ《マントヴァ公爵》と呼ばれるべきだったかも。

+ + +

主役の3人はいずれも好印象。リゴレットのヴラトーニャは立派な体格と朗々たる声で、なんで廷臣に加わって一緒に悪さをしないのかわからない。ジルダのゴルシュノヴァは比較的強靱な声質の持ち主で、役の頑迷固陋な一本気とはすかっと一致。
それからマントヴァ公爵のキムは(すでに各所で話題になったとおり)朝青龍によく似た見た目と朗らか残忍な美声の持ち主で、こちらも作品のキャラクタとしっかり合致してしまっていた。

指揮者とオーケストラには少し問題があったと思う。丁寧に硬く小さくまとまっているなあ、たぶんヴェルディをやるにはこれはよろしくないんだろうなあ、と冒頭から感じていたんだけど、この箱庭感はたとえばモーツァルトや《ペレアスとメリザンド》や《鼻》を活かす種類の感覚ではないかしら。ほかの作品で聴いてみたい。リッツォ氏。
by Sonnenfleck | 2013-11-16 11:49 | 演奏会聴き語り

新国立劇場《ナブッコ》|ゴーストハックとエルサレムモール(6/1)

とある日曜の午後、昼酒をしていい気分のワタクシは、ふとヴェルディに近寄ってみることに決めたのだった。
今年のお正月から始めた歌舞伎鑑賞や、(ブログにはまだ書いていないけれど)バロックオペラの大傑作、レオナルド・ヴィンチ《アルタセルセ》をヘヴィに鑑賞してきたおかげなのか、不思議なことにヴェルディのベタなリズムや破綻したストーリーに対して愛着が湧く自分を発見しているからなのです。音楽の好みは移りゆく。だからこの趣味がやめられない。

+ + +

c0060659_7584968.jpg【2013年6月1日(土) 14:00~ 新国立劇場】
●ヴェルディ:《ナブッコ》
→ルチオ・ガッロ(ナブッコ)
 マリアンネ・コルネッティ(アビガイッレ)
 コンスタンティン・ゴルニー(ザッカーリア)
 樋口達哉(イズマエーレ)
 谷口睦美(フェネーナ)
 安藤赴美子(アンナ)
 内山信吾(アブダッロ)
 妻屋秀和(ベルの祭司長)
→三澤洋史/新国立劇場合唱団
→グラハム・ヴィック(演出)
→パオロ・カリニャーニ/東京フィルハーモニー交響楽団


まずは手近に鑑賞できる新国の公演を選ぶ。某オークションで安い席を競り落とす。序曲しか知らない作品なので、ムーティ/フィルハーモニア管の録音(1978年EMI)を取り寄せてiPodで予習しまくるのである。

一度目の聴き通しでは「ドンジャカうるせえなあ…」という率直な感想を抱くものの、二度三度と繰り返し聴いていくなかで耳が慣れてゆき、やがて若ムーティの強靱なオーケストラドライヴに身を任せることができるようになる。リズムはベタである。メロディも華やかだがキラキラして陰翳を欠く。ストーリーは超テキトー。しかしそれをこそ愛するのがイタオペ山の登山口と心得る。

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◆あらすじ
「バビロン捕囚」を題材とする歴史スペクタクル。しかしストーリーは混乱しており、主役は誰でもないという酷いありさま。フツーの現代の感覚からすると、この台本ではナブッコが主役とは言いがたい。。

☆大祭司ザッカーリアが指導するユダヤの民
☆ナブッコ王が率いるバビロニア

がいちおう対立関係にあって、ナブッコは第1幕でユダヤの地を蹂躙したうえ、民をバビロニアに連れて行く。でもナブッコに落ちた雷(雷よ?コントみたいでしょ?)のおかげで、王様は精神錯乱状態でピヨピヨ。そこへバビロニア内部でクーデターが発生し、ナブッコの庶子であるアビガイッレが権力を掌握する。

ところが「正気を取り戻した」ナブッコが急にユダヤの神さまを信奉しだし、支持されて再び王位を奪還(バビロニア人たちはそれでいーの?)。アビガイッレは自害。ナブッコは嫡流のフェネーナとともにユダヤの民とも和解して万歳万歳。おわり。視点はぐらぐらしっぱなしで、主役はいません。

◆音楽と演奏とうた
こんなにひどいストーリーなのに、ヴェルディの音楽は気持ちがよい。すっと胸がすく。
戦争シーンに合わせた行進曲や、タッタカタッタカタッタカ…と駆け上っていくようなリズム、それに乗る技巧的なアリア。《椿姫》と《オテロ》くらいしかヴェルディのオペラを知らなかった人間からすると、ヴェルディのなかにミトコンドリアのようにひっそり包含されているナポリ楽派オペラをあらためてここで発見し、実に爽快。アレッサンドロ・スカルラッティもハッセもポルポラもヴィンチも、みんなヴェルディのなかで生きてる!

それを、30年前のムーティの録音よりさらに気持ちよく実現させていたのが、今回のプロダクションの指揮を執るパオロ・カリニャーニである。
何度か読響に客演していたような気がするスキンヘッドのイタリア男、実際に聴くのはこれが初めてだけど、あちこちのオペラハウスに引っ張りだこなのがよくよく理解できたなあ。VcとCbを雄弁に語らせる、今どきの若い古楽アンサンブルのような通奏低音をヴェルディで実践したら、それは輪郭のくっきりとした音楽になるのは必定なわけです。
ピットの見えない4階席では、下から立ち上ってくる響きの生々しい美味しさ(ぷりっぷりのエビとか、汁がしたたるジューシーなトマトとか、噛みしめると野蛮な薫りがあふれるサラミとか、そういうもの)にノックアウト状態。あれっ?東フィルってこんな演奏をすることができる華やかなオーケストラだったっけ?という。

歌手はアビガイッレ役のコルネッティが美味しいところを持っていった感じ。巨体から発せられる、よくコントロールされた馬力。これがヴェルディのメゾソプラノの威力か。イズマエーレ役の樋口氏も爽やかで素敵でした。
タイトルロールのガッロはところどころで音程がよたつく。声もあまり響かない。しかし後述の演出に巧まずして合致してしまったので全然OK。

◆演出
で、演出です。演出のグラハム・ヴィックは、

☆ユダヤの民→ショッピングモールに集う現代の物質主義者たち
☆バビロニア→反資本主義的テロリスト集団

と読み替え、さらに舞台をエルサレムの神殿からショッピングモールに置き換える。舞台上には3層吹き抜けのモールが形成され、稼働こそしていないがエスカレーターまで設置されている。そして客席に入場したわれわれを驚かせるために、すでに開演前からユダヤの民によるショッピングモールでの演技が始まっており、リッチな着こなしの合唱団員たちがてんでばらばらにウィンドウショッピングを楽しんでいるのである。スイーツショップに高級ブランドショップ、アップルストアまでリアルに再現されてるので笑ってしまった(アップルストアのTシャツ店員までいました)

序曲が始まると、そこらじゅうのユダヤの民たちがバッグやシューズやクレジットカードに接吻したり、股ぐらに挟んだりする「拝金の踊り」を開始。あとで思い返すとこのシーンだけちょっと浮いていた感じもありつつ、やがて老リーダーのナブッコに率いられた極左テロリスト集団=バビロニアがショッピングモールを占領する。

このシーンあたりから、僕の頭のなかには「攻殻機動隊S.A.C. エピソード××:ナブッコ Nabucco」という妄想がむくむくと成長。
テロリスト集団の内部のクーデターなんて、いかにも!なお話だと思いませんか。対立する2集団(物質主義者とテロリスト)のいずれもが醜悪で、どちらにも正義がない。そして黒幕がいそう―

第2幕の最後で、自分は神だ!と叫んだナブッコ王に裁きの雷が下り、彼の精神が錯乱するというシーンがありますが、これもこの世界観ではゴーストハック。何ものかがナブッコの電脳をハッキングし、意志を操ったとしか見えない。さきほどから恣意的な見方を開陳しておりますが、それを可能にするバビロニア人たちの魯鈍なテロリストっぷりや、ナブッコの哀れな姿、裁きの雷のエフェクトなど、サイバーパンクを支持するさまざまな示唆があったのです。

そうなると、唆されてクーデターを起こした庶子アビガイッレは、みるみるうちに陰謀の犠牲者臭をまとうことになってしまう。黒幕は誰?ナブッコがユダヤの神さまを信奉し、アビガイッレが消えて喜ぶのは誰か?それはナブッコのもうひとりの娘・フェネーナをおいて他になし。何しろフェネーナはユダヤの国王の甥・イズマエーレと愛し合ってるんであるから。

さて《ナブッコ》の第3幕には、有名な「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」という囚われのユダヤの民たちが歌う合唱がありますが、これもヴィックの演出では金品への執着から逃れられない元・物質主義者たちの哀れな合唱に変容していました(バッグやシューズやMacBook Airの残骸を愛おしそうに抱きしめながら歌う振り付け)。救いようがないすね。
それを励ますユダヤの大祭司・ザッカーリアも、神の預言を語る直前、ハアハアいいながら腕にドラッグを注射していたので(単眼鏡が大活躍!)これまた醜い。テロリストも愚鈍だがこっちもひどいもの。

それらの混乱を強制終了に導くのが、ラストシーンの演出です。
組織のリーダーに返り咲いたナブッコ(ただし僕の二次的な妄想では黒幕フェネーナによって操られたまま)は、よりによって最後にショッピングモール1階の床をぶち抜いて、苗木を一本植えるんだよね。この唐突なエコ!演出家がラストの偽善をまったく信じていないのは明々白々。この場合は混乱を全能的に収拾するデウスエクスマキナが、苗木の形を取っているにすぎない。バビロニアの偶像は崩れたけれど、今度はこの苗木が新しい偶像である。フェネーナさえ偶像に気がつかない…!

目に鮮やかで楽しく、愉快な皮肉も効いた名演出だと思いました。おわり。
by Sonnenfleck | 2013-06-02 12:29 | 演奏会聴き語り

新国立劇場 《ヴォツェック》(11/21)

鬼も呆れる時差感想文。

c0060659_21124953.jpg【2009年11月21日(土)14:00~ 新国立劇場】
●ベルク:《ヴォツェック》
→トーマス・ヨハネス・マイヤー(ヴォツェック)、
  エンドリック・ヴォトリッヒ(鼓手長)、
  高野二郎(アンドレス)、
  フォルカー・フォーゲル(大尉)、妻屋秀和(医師)、
  大澤建(第一の徒弟職人)、
  星野淳(第二の徒弟職人)、
  ウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン(マリー)、
  山下牧子(マルグレート)
→新国立劇場合唱団
→アンドレアス・クリーゲンブルク(演出)
⇒ハルトムート・ヘンヒェン/東京フィルハーモニー交響楽団


生で舞台を観たことのない演目ってのは結構多い。《モーゼとアロン》は体験済みで《ヴォツェック》が未体験というのは変わり種かもしれないが、ようやくこれをライヴを味わうことができた。故若杉監督の薫陶は僕のようなキャリアの浅いクラファンにも及ぶのだから、まことにありがたいことです。
会社への往還にiPodでベーム盤を聴きまくったので、予習はバッチリ(新聞に目を通しながらヴォツェックを聴くことの倫理性は措いとく)。

■悪意の沼地+見る装置
最初にして最大の吃驚だったのが、今演出の核の部分が、舞台一面に浅く水が張られた「長靴ヴォツェック」だったという点です。
ヴォツェックが嵌まり込む沼地は、第1幕の大尉のシーン直後から終劇までずっとそこに存在していて、そこには、黒いフロックコートを着た黙役たちがパラパラと立っている。彼らは誰かが放り投げた肉片やGeldに群がったり、〈職求む〉のカードを首に下げて一列に並んだりして、一見本筋とは関係ないことをやってみたり、あるいはヴォツェックにナイフを渡したり、マリーの死体を片付けたりして、黒子を兼ねながら進行に絡んできたりもする。彼らの存在感はなかなか凄くて、僕は「社会の悪意」「狂気」「ヒステリー」の擬人化なんだろうなあと思って見た。でももしかしたら何の意味もない遊び要素だったかもしれない。

そんな「沼地の妖精さんたち」が巨視的なフォルムだとしたら、微視的なフォルムとして位置付けられていたのが「家庭」だったろう。細部の趣味がちょっと特殊だけども、そうした意味では正統的なやり方ではあった。

こちらのほうのフォルムを黙役として支えていたのが、ヴォツェックの息子。
彼は始まりから終わりまで舞台の上にいて、父親が大尉のヒゲを剃っていたり、実験台にさせられていたりする様子を見ている。あるいは、母親が鼓手長と不倫関係にあるのを見、第3幕でマグダラのマリア気取りの母親に向かって、壁に「売女」と書く。終幕では溺死して沼地に浮んでいる父親の死体に寄り添って座ったりする。
子どもの黙役はびわ湖サロメでも「装置」として大事な役割を担っていたわけだが、狂人ばかりが登場するオペラに対峙した観衆が、誰かに感情移入しなければならないものなのであれば、思いは彼らに注ぎ込まれるしかない。そして、彼らが幸せになることはない。

でもね。細かすぎてめんどくせ、というのが一番の感想。
本筋に何ら関係のない小ネタを散りばめるやり方はとても好きだけど、そうではなくて、「本筋」のヴァリアントが厖大に並べてあるのはご勘弁願いたい。あれならもうちょっと約分されてもよくね?という。

■うたも音楽も
そんなわけであんまり頭に入ってきませんでした。
マイヤーという人のヴォツェックは声が立派すぎて哲人みたいだったなあ。案外マリーって見せ場少ないんだなあ。殺人シーンの音楽は本当に凄いなあ。
by Sonnenfleck | 2010-01-17 21:28 | 演奏会聴き語り

新国立劇場 《ムツェンスク郡のマクベス夫人》 5/4

c0060659_1233313.jpg【2009年5月4日(月) 14:00~ 新国立劇場】
●ショスタコーヴィチ:歌劇《ムツェンスク郡のマクベス夫人》 op.29
→ヴァレリー・アレクセイエフ(Bs/ボリス・チモフェーヴィチ・イズマイロフ、ボリスの亡霊、年老いた囚人)
  内山信吾(T/ジノーヴィー・ボリゾヴィチ)
  ステファニー・フリーデ(S/カテリーナ・リヴォーヴナ)
  ヴィクトール・ルトシュク(T/セルゲイ)
  出来田三智子(S/アクシーニャ)
  高橋淳(T/ボロ服の男)
  森山京子(MS/ソニェートカ) 他
→新国立劇場合唱団
→リチャード・ジョーンズ(演出)
⇒ミハイル・シンケヴィチ/東京交響楽団


自分はショスタコーヴィチが大好きで、彼の音楽のために多くの時間を用意してきたけど、このオペラだけはちゃんと向き合ってこなかった。何度も通しで聴いていない。あの凄惨すぎる響きを日常生活に組み込むのが困難なのです。
で、《鼻》から遅れること4年、ようやく実演に接することになった《マクベス夫人》。

■あらすじと演出
レスコフの原作はちょうど一昨年、岩波文庫からリクエスト復刊により重版されて、名古屋にいたころ読み終えていましたが、枝葉の部分においてそれとは若干異なるオペラの方のあらすじは新国の公式をご覧いただければと思います。才能溢れる若きショスタコーヴィチによって制作された台本は、オペラティックな感興を引き起こす場面が追加されて(つまり、よりこの時期の作曲家好みのスラップスティックが取り込まれて)います。

2004年にロイヤル・オペラで初演されたリチャード・ジョーンズの演出はきわめて真っ当、文句の付けようはありません。印象に残ったのをいくつか挙げると、

・互いに監視される「個室性」を表現するのに、隣り合った2部屋を常に用いる方法。
 →さらにその中で、家具の中に自己閉塞する登場人物。
  →死んでなお、旧生活を象徴する家具に自己閉塞するジノーヴィー。

・スプレーが露骨なアクシーニャの集団レイプシーン。
 →男共の仮面ってネズミでしたか?であれば納得がいく。
・群集の扱い。あのぬぼうっとした動きは、練習のせいではなく態となのか?
 →でも、さすがに警官達の動きのダサさはいたたまれなくなった。ニホンジンマジメ。。
  →バンダをステージに上げる理由がわからない。音響面で?

・ボリス殺害後の場面転換+間奏曲。ここはなかなか巧かった。
 →壁紙を張り替え家具を新調する様子を、幕を上げて見せてしまうメタな感興。
・ブラウン管に映るボリスの亡霊。
 →警察署の中でも、テレヴィジョンの有用性が高い。
・けばけばしい結婚式のダンスパーティ。非常にショスタコらしい場面。
 →案外あっさり終えてしまったのがもったいない。
・ヴォルガ道連れ投身の仕組み。これも自分は評価する。
 →奈落にゆったりと沈めるのは、あの音楽からしたらむしろ当然ではないだろうか。

アーノンクール式の藝術観からしたら、暴力とポルノに染まりきった21世紀初頭においては、もっともっと血とエロの値を上げなければ、当時の観衆が味わったような興奮は、あるいは髭のあるグルジア人に荒唐無稽と叫ばせたものは得られないんだとは思います(個人的には、味覚異常と罵られてもいいから、初体験はもっと過激なのがよかった)。しかし、きれいな国立劇場でGWに良識ある市民をお招きして演るにはあれぐらいが妥当なのかとも思います。

■歌手とオケ
歌手は主役級3人がみんな一定水準以上でしたので、十二分に楽しめました。特にボリス役のアレクセイエフは、腹にずんとくるような嫌らしさを芬々と漂わせる一方、終幕での年老いた囚人の深いうたが実に素晴らしくて、《バービィ・ヤール》の第4楽章を聴いているような気分になった。あの部分が、後年のショスタコーヴィチに向かって極めて滑らかにリンクしているということを発見させられた。
酔っ払い役の高橋淳は、、ああいう役どころは食傷気味。。予想つくもんなあ。。

さてこの日は。オケがですね、けっこうよかったんですよ。
予定されていた若杉監督が体調を崩して降板、代わって指揮台に立ったのがゲルギエフの弟子筋にあたるミハイル・シンケヴィチでした。この作品に必要な、暴力的なところを過不足なく暴力的に運ぶ手腕はマリインスキーで鍛え上げられたのでしょうが、なおかつ静寂時の「気分」をちゃんと響きに纏わりつかせる能力にも長けていて(彼のお師匠さんにはこれが不足している>ヴォリュームを下げるだけでは意味がないんだもの)、迫り来るボリスの静かな圧迫感や、第4幕の暗澹たる道行き、そして身体中に響く最後の大クレシェンドなんか強く評価したいポイントです。東響も、キタエンコとの《レニングラード》はこんな感じだったのだろうなあと思わせる、ヘヴィーかつダーティな響きを作り上げていて、ブラヴォでした。

■雑感
プログラムで一柳センセが、レディ・マクベスは「マクベス夫人」じゃなくて「マクベス<女性版>」じゃないのと述べておられて、あーそれもそうだよなと思った。その視点からすると《軍人たち》からの流れは自然だし、流れ着くのが《ヴォツェック》というのも自然。
by Sonnenfleck | 2009-05-17 12:04 | 演奏会聴き語り

ムツェンスク郡実況1

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センペは朝イチから神でした。詳細はのちほど。

喧騒の有楽町から初台へやってきました。聴覚器の目盛りを一気に200年ほど進めて、いざ1934年レニングラードへ。。
by Sonnenfleck | 2009-05-04 13:40 | 演奏会聴き語り

新国立劇場オペラ研修所公演 《カルメル会修道女の対話》

c0060659_2239194.jpg【2009年3月14日(土)14:00~ 新国立劇場中劇場】
<新国立劇場オペラ研修所公演>
●プーランク:《カルメル会修道女の対話》
→岡昭宏(Br/ド・ラ・フォルス侯爵)
  木村眞理子(S/ブランシュ・ド・ラ・フォルス)
  糸賀修平(T/騎士)
  茂垣裕子(MS/マダム・ド・クロワッシー)
  高橋絵理(S/マダム・リドワーヌ)
  塩崎めぐみ(MS/マザー・マリー)
  山口清子(S/シスター・コンスタンス)
  小林紗季子(MS/マザー・ジャンヌ)
  東田枝穂子(S/シスター・マチルド)
  中島克彦(T/司祭) 他
→ロベール・フォルチューヌ(演出)
⇒ジェローム・カルタンバック/東京ニューシティ管弦楽団


終劇の〈サルヴェ・レジナ〉合唱とそれを何度も遮るギロチンの音。こんなに堪えるとは。
心が折れそうです。後学のためにーとか軽く考えただけで出かけた自分を責めたい。

■あらすじと演出
あらすじ、はこちらのサイトさんをご覧いただくのが一番かと思いますので省略。

自分が遠藤周作の『沈黙』に半ば異常な愛情を感じているのは、なぜか「信仰が揺らぐシーン」に強く心惹かれてしまうからなのです。自分は前世が転びキリシタンだったのかもしれませんが、冗談はともかくとして、このオペラの台本にはブランシュの「揺らぎ」が大きな構えとして用意された中に、修道院長やシスター・コンスタンス、生き残るマザー・マリーらの「揺らぎ」が入れ子のかたちで封入されていて、僕の心を揺さぶります。

演出のロベール・フォルチューヌという人は、今公演の主体である新国立劇場オペラ研修所の「演技コーチ」に名を連ねていて、コーチらしく模範解答的な舞台捌きでした。歌手たちの立ち居振る舞いよりも光線と装置をシンプルに用いることで、この作品のゴシックホラー的な側面をストレートに扱います。ストーリーの要請によってどんよりと暗いシーンが多いのだけど、修道院長の棺のシーン、兄妹再会と決別のシーン、ラストの断頭台シーンでは、光と装置の設えがとても巧かった。
このように、キャリアがまだそれほど長くない若手に無理な演技をさせない(=でも自然な演技は要求する)演出は、彼らの歌の能力を引き出すし、僕のように初見の客にも優しい。

ちなみに公演チラシの情景、、これは最後のシーンそのままです。
舞台奥で〈サルヴェ・レジナ〉を合唱していた修道女たちが、一人また一人と舞台前方へ進んできて、ギロチンの大音響が鳴ると雷に打たれたようにしてその場に倒れ伏します。一人減り、二人減りしてだんだん小さくなる合唱の声が、たまらなく辛い。

■歌手とオケ
室内楽のときの寛いだプーランクを主にプーランクだと思っていた自分には(この作品が特に壮絶だというのは聞き知っていたけれど)驚愕でした。
本公演の主体は研修生ですから、穴がまったく気にならなかったと書いたら嘘になるけど、しかし予想以上に歌手たちが健闘していたなあというのは事実。特に主役級の女声陣に関してはまったくの大熱演で、ヨーロッパのオペラハウスの馬鹿高い引越公演で得られるものとはまったく違う、あえて言えばこの作品の生真面目でひたむきな性質に、極めてよく合致していたと思うのです。
ブランシュ役の木村さんのソリッドな声質、マザー・マリー役の塩崎さんの凛とした歌い口。どちらも素晴らしかったですし、さらに修道院長マダム・ド・クロワッシー役の茂垣さん(彼女は研修生ではないみたいだけど)の「狂乱の場」が、僕はこのシーンが最も心に残った。新入りのブランシュに語りかける厳格で深沈とした声と、死の苦痛に苛まれて神を疑う絶望の声と、どちらも見事に解決されている。

オケは、ジェローム・カルタンバック(この人も「コーチ」)指揮の東京ニューシティ管。
ニューシティを実際に耳にするのはこれが本当に初めてで、ブルックナーのマニアックな稿を取り上げるのが好きなのね…というくらいにしか思っていなかったのですが、実はオケの仕上がりもなかなか悪くなかった。中劇場はデッドな空間だから、特に弦楽器の音の収まり方が微妙なのはまあ仕方がないかなと思いますけど、時おり木管がオルガンのように響いてとても美しかったのは書いておくべきでしょう。

+ + +

これでS席4000円。コストパフォーマンス良すぎではないだろうか。
なのに、会場はおじさんおばさん(おじいさんおばあさん)ばかり。休憩中にトイレに行って、行列があんまりにもシルバーだったのでビビリました。ベトブルマラもいいけどさ、、若人はもっと見聞を広めないかんと思うんよ。。
by Sonnenfleck | 2009-03-15 10:40 | 演奏会聴き語り

新国立劇場 《軍人たち》 初日

c0060659_745513.jpg【2008年5月5日(月)14:00~ 新国立劇場】
●B. A. ツィンマーマン:《軍人たち》(日本初演)
→鹿野由之(Bs/ヴェーゼナー)
  ヴィクトリア・ルキアネッツ(S/マリー)
  山下牧子(MS/シャルロッテ)
  寺谷千枝子(MS/ヴェーゼナーの老母)
  クラウディオ・オテッリ(Br/シュトルツィウス)
  村松桂子(MS/シュトルツィウスの母)
  斉木健詞(Bs/フォン・シュパンハイム伯爵 大佐)
  ピーター・ホーレ(T/デポルト)
  小山陽二郎(T/ピルツェル大尉)
  泉良平(Br/アイゼンホルト従軍牧師)
  小林由樹(Br/オディー大尉)
  黒田博(Br/マリ大尉)
  森山京子(MS/ラ・ロッシュ伯爵夫人)
  高橋淳(T/伯爵夫人の息子) 他
→三澤洋史/新国立劇場合唱団
→ウィリー・デッカー(演出)
⇒若杉弘/東京フィルハーモニー交響楽団

劇薬のようなオペラでした。
有楽町で三日間かけて聴いたシューベルトの印象が消し飛ぶくらい。
まずは、日本初演を実現に漕ぎ着けた関係者各位にブラヴォを飛ばしておきたいです。

■音楽と演奏
予習は一切なしで臨みました。
クラスター気味の強烈な和音で開始される第1幕への前奏曲は、目に飛び込んでくる映像と相まって、多くの聴衆を粟立たせたことでしょう。クラスターなのに肌にまとわりつくような粘り気を覚えたあの箇所、若杉監督と東フィルの意気込みがよく感じられましたもの。
テクスチュアが静かになると、今度はPAを使って大袈裟に拡大されたチェンバロやギターの音が、俗悪なレチタティーヴォに絡み合って素敵な効果を上げています。

クラヲタとして最も強いインパクトを受けたのは、やはり第2幕。
カフェのテーブルの上で繰り広げられる軍人たちの性描写とその背後に流れるジャズ。
これは名フィルで聴いたトランペット協奏曲の内容から十分に予想される。

しかし、鋏を持った母親とシュトルツィウス、ヴェーゼナーの老母、性行為に及ぶマリーとデポルト、この3場面が舞台上で同時に展開するクライマックスで、突如湧き上がるJSB《マタイ受難曲》のコラール〈われなり、われこそ償いに〉
これは完全に予期していなかった出来事で、、椅子の上で硬直してしまいました。ところどころ激しい不協和音で途切れながらも、あのエグいシーンで、あの美しいメロディがほぼそのままトゥッティで演奏される。。こんなにクソ真面目な対比を衒いなく作ってしまうとは。。若杉センセとオケも渾身の清らかさでそれに応えてましたよ。

楽音、電子音、軍楽のコラージュ。第4幕の大詰めは(プログラムの解説によれば)ホール中に配置された10群のスピーカによる破滅的な大伽藍の出現。これはあそこに身を置いて正解でありました。心拍数が上がって上がって。。
若杉センセに一本だけ飛んだブーは、僕には理解できません。

■うた
マリー役のルキアネッツと、シュトルツィウス役のオテッリが圧倒的。文句ない。
デポルト役のホーレも嫌らしくて非常に良かったんですけど、カーテンコールのときみんな赤い外套を着てるもんだから、見分けがつかず拍手をし損ねました。

■演出
デッカーの演出は、白と赤と黒を基調にしたシンプルなもの。
「意味がないことを意味する暗喩」を排除した結果、残った暗喩はすべて物語の展開に直結して、わかり易すぎるくらいわかり易いスマートな運びとなっていました。
(最初と最後に登場した「無個性の群衆」はB級ホラーみたいで好きではなかったです。どうせならエヴァンゲリオンみたいに客席にカメラを向けてしまったらよかったのに。)

一方で、これって母親による支配のお話なのかなとも思う。
シュトルツィウスは鋏を持った母親の庇護下にあるようにしか見えないし(最後はそれを振り切ってひとりで「勝利」しちゃうけどさ)、伯爵夫人は若い伯爵の母であると同時にマリーの擬似母になろうとする。
ではマリーの本当の母親は?姉シャルロッテは「軍人たちの娼婦!」という罵言を大きな声で叫ぶことができず、ヴェーゼナーの老母は常識的な秩序の上にあぐらをかくばかりで、ついにマリーを御し得ないわけです。母親の庇護を受けることができず、鏡で自分を見るしかなかったマリーは道を踏み外して、彼女の救済は幕引きの直前に「演出家の慈悲によってしか」行なわれない
ただ、シュトルツィウスの母親も伯爵夫人も最後まで支配を続けることができなかったわけです。その意味で、デッカーが最後に救済したのはマリーの人生ではなくて、ヴェーゼナーの老母の庇護欲である、というさらに嫌な見方もできるかなあ。白布を覆い被せてさ。。
by Sonnenfleck | 2008-05-07 07:08 | 演奏会聴き語り

我々も行進する

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軍人たちと同じく。

by Sonnenfleck | 2008-05-06 08:05 | 絵日記

「オペラパレス」、商標権侵害で訴えられる。

歌舞伎町のホストクラブ・オペラパレス 商標権侵害で新国立劇場を提訴(asapi.com)

c0060659_8233818.jpg2007年9月より使用されることが決定した新国立劇場(東京都新宿区)の愛称・オペラパレスが商標権を侵害しているとして、ホストクラブ・オペラパレス(同区)が1日、同劇場に愛称の使用差し止めを求める訴訟を東京地裁へ起こした。

訴えたのは、同クラブ所有者の玲梅院さん(66)=川崎市中原区=他従業員3人。

訴状によると、新国立劇場は先月29日、会場10周年を記念して全国に公募した愛称が「オペラパレス」に決まったと発表した。しかし「オペラパレス」の商標権は同クラブが1999年5月に取得しており、玲さん側は同劇場に「オペラパレス」の名称使用を求められて、2週間前から交渉に臨んでいた。現在交渉は合意に達しておらず、また同劇場側からは愛称の発表に際して一切の通告がなかったため、玲さん側は提訴に踏み切ったという。
新国立劇場は「訴状が届いていないので現段階ではコメントできないが、深刻に受け止めている」としている。
by Sonnenfleck | 2007-04-01 08:37 | 日記