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造園11周年/錠を開けよう、窓を開けよう。

前回更新は2015年9月だったから、9ヶ月も放っておいてしまった。
放っておいても残っている秘密の花園が、しかしやっぱり自分には必要なんである。毎日丹念に手入れしていたころを懐かしみ、そのまま錠前を掛けたままにするのは実に甘美な行為だが、それではクレイヴン伯父さんと同じだ。自分だけの場所だから、自分がときどき錠を開けに戻らなくっちゃ。ね。

* * *

このブログを始めた日、フェニーチェ歌劇場の名シェフとして将来を嘱望されていたマルチェロ・ヴィオッティが、リハーサル中に脳卒中で倒れ、そのまま天に召されるという出来事があった。
11年後のいま、僕はロレンツォ・ヴィオッティの名前を東響名曲シリーズのプログラムのなかに見つける。1990年にマルチェロの息子として生を受けた男の子が、今年の9月に東響を振るために来日するんだ。
東京オペラシティシリーズ 第93回
2016年09月03日(土)14:00 開演
ベートーヴェン:交響曲 第4番 変ロ長調 作品60
R.シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」組曲
ラヴェル:ラ・ヴァルス

2014年にウルバンスキの代役として共演し絶賛されたヴィオッティ。今回はオペラ指揮者の父(故マルチェロ・ヴィオッティ)とフランス人の母の元に生まれ、ウィーンで学んだという彼の人生そのもののプログラムで再登場。東響HPより
父親と同じ道を選んだロレンツォ君は指揮者コンクールで結果を重ね、やがて檜舞台に立った。ウィーンのはっぱさんがつい2週間ほど前のウィーン響客演を大絶賛されているので、可能なら聴きに行ってみたいな。
by Sonnenfleck | 2016-06-12 22:30 | 日記

プラッソン/東響 東京オペラシティシリーズ第74回|海の日の海(7/15)

c0060659_9572230.jpg【2013年7月15日(月祝) 14:00~ 東京オペラシティ・コンサートホール】
<東京オペラシティシリーズ第74回>
●ドビュッシー:《牧神の午後への前奏曲》
●同:交響詩《海》~3つの交響的素描
●ショーソン:《詩曲》op.25*
●ラヴェル:《ツィガーヌ》*
●同:《ボレロ》
○同:《マ・メール・ロア》より第5曲〈妖精の園〉
→成田達輝(Vn*)
⇒ミシェル・プラッソン/東京交響楽団


初めに《牧神》のオーケストラの響きを聴いたときに、いつもの東響のプチ重厚な音色ではなくて、充実した中音域と華やいだメロディラインで構成された、まるで別のオーケストラのような印象を持ったことをまず書いておきたい。オーケストラをいろいろな指揮者で聴く醍醐味はこういうところに現れている。

それから《海》。これは自分×ドビュッシー史上に残るようなたいへんな名演であった…!
角ゴシック風のきりりとした太線で描かれた響きに、彩度の高いパリッとした色が乗っている。
これはよく言われていることだけど、フランス音楽は演奏実践がふわとろだと全然ハマらないことが多い。だからパレーやベイヌムの古い録音はいまでも明確な価値を持っているし、自分の聴神経の奥に眠っているフルネの音楽づくりだって、その価値観をしっかり体現していたように思うのだ。

プラッソンのことはこれまでそんなに気に留めたことがなかった。録音の多すぎる指揮者の例に漏れず、愚かな自分は無意識に彼のことを軽く見ていた可能性がある。しかしこの剛毅でカラフルなドビュッシー!大事に感じるマエストロがひとり増えた!

+ + +

後半はショーソンの《詩曲》にラヴェルの《ツィガーヌ》と続く。
ソロVnの成田氏は、これからもっともっと良い音楽家になるだろうと思う。力強く円やかな音色ははっきり言ってかなり好みなんだけれど、どの局面でも完全に均質なヴィブラートは、作品の陰影を失くす蛍光灯の照明のようでもあった。

ショーソンのオケパートは、しかしこれはまた素晴らしい仕上がり。
ワーグナーとフォーレの隙間に漂うのはオフホワイトのロマンティシズムである。プラッソンの指揮はそれほど精密には見えないが、曇天にも様々な表情があるように、光が射してくる時間や、黒雲が沸く時間、こうした「流れ」がホールの時間と同期していたのにはまったく驚いた。時間の流れはプラッソンの棒の先で操られていた。

ボレロ。この作品に「解釈」はありえない、と思っていた僕の考えを粉々に打ち砕いたのは、かつてFMで聴いたプレートル/SKDの演奏であった(史上もっとも猥雑なボレロ!)
プラッソンはやはりドビュッシーのときと同じ太い描線でデッサンを描き始めるが、乗っているのはもう少しくすんでエロティックな色である。歌い回しに加わったほんの少しノンシャランな味つけが、そんなイメージを喚起する。
(※ボレロがいちばん楽しいのは初めてピッコロが加わるあたりで、それはドラクエで言うとルーラを覚えるくらいに相当する。)

+ + +

そんなダンディちょいエロ系ボレロが華々しく爆発したあとのアンコールに用意されていたのは、精密の限りを尽くした〈妖精の園〉なのだった…!ここで泣かずにいられるクラシック音楽好きがいるだろうか。
ここで嗚咽しては恥ずかしいという気持ちが辛うじてブレーキを掛けてくれたが、危ないところだった。日々の仕事で鈍麻していく審美の感覚に対してさえこのような慰撫があるのだから、クラシック音楽を聴くのはますますやめられない。
by Sonnenfleck | 2013-08-03 09:57 | 演奏会聴き語り

[感想文の古漬け]スダーン/東響 第600回定期演奏会@サントリーホール(5/26)

8ヶ月ものの古漬け。発酵してます。

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c0060659_21223035.jpg【2012年5月26日(土)18:00~ サントリーホール】
<マーラーのリート・プロジェクトその2>
●モーツァルト:交響曲第35番ニ長調 K385《ハフナー》
●マーラー:交響曲《大地の歌》
→ビルギット・レンメルト(MS)
 イシュトヴァーン・コヴァーチハーズィ(T)
⇒ユベール・スダーン/東京交響楽団


前半のハフナーがあまりにも名演で、気分が高揚してしまったのが記憶に残る。
アーティキュレーションの隅々までピリオドのスパイスを利かせつつも重厚な拍節感が保たれているので、あたかもカール・ベームの古い録音のような「格調高い」空気も感じるのが面白かった(東響の音色ともよく合致)。この交響曲の様式はたとえばプラハや第39番とはかなり違っているので、これはフツーにアリだよねえ。

+ + +

後半は「連作歌曲集」としての大地の歌が、より鮮やかにフォーカスされる。
スダーンとオケはきびきびした歩みが全編にわたって特徴的。歌い手がいない隙間は、歌い手の不在を補完するように濃密なテクスチュアが採用される。そして歌い手が舞い戻ると「織り」がサッと薄くなるのである。

当然のことながらそれはスコアの要求でもあるはずだが、ベートーヴェンやブルックナーと同じようにマーラーのシンフォニーを集中的に録音している指揮者たちでこの「歌曲集」を聴くと、意外にもそうした趣は感じられないんである。みんなこれを「交響曲」として捉えるということだが、スダーンはそうしなかったというわけ。

加えて、楽章間の連関があまり重視されないのも面白い。《美について》と《春に酔える者》などは濃厚なお化粧が施された結果、独立したオーケストラリートのように変貌する。そしてこうした処置は、バーンスタインの得意技でもある。。
by Sonnenfleck | 2013-02-07 21:23 | 演奏会聴き語り

シナイスキー/東響 第603回定期演奏会<大衆系タコ4の勝利>@サントリーホール(9/15)

c0060659_5471721.jpg【2012年9月15日(土) 18:00~ サントリーホール】
●モーツァルト:Pf協奏曲第27番変ロ長調 K595
 ○同:Pfソナタ第16番ハ長調 K545~第3楽章
→デジュー・ラーンキ(Pf)
●ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ長調 op.43
⇒ヴァシリー・シナイスキー/東京交響楽団


インバル/都響からのタブルヘッダで、シナイスキー/東響を聴くため池袋から溜池山王へ。土曜の18時開演ってもっと増えないかなあといつも思ってます(都響の感想文は後ほど)。

シナイスキーは少し前に読響?でタコ5を振ったときの評判が微妙だったのが印象に残っているくらいで、これまであまり意識したことがない指揮者だったんだけど、この日はまさしくもその認識が改まることになった。

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まず先にショスタコーヴィチから。
僕はこの日、シロフォン・グロッケン・銅鑼の後方1メートルという、P席の変な場所で聴いていたので、シナイスキーの姿をよく観察することができたのは大きい。
彼は指揮棒を持たないスタイルで、一見するとかなり大雑把なオーラが出てるのだが、それは世を忍ぶ仮の姿。本当のシナイスキーはバランス感覚に優れた、非常に身軽な指揮者ではないかというのが今回の印象である(ラザレフと似ているようで正反対、という指摘をTwitterで見かけたが、まさにそのとおりと思う)

この交響曲はたぶん、現代のたいていのオケならスコアどおりにニュートラルに構築することができ、事実その方向でひとつの到達点を示す演奏も出ている(サロネン/LAPh)。
でも、そうしたとき、シナイスキーのやり方が示唆に富んでいることに僕たちは気づくべきだ。

シナイスキーは、同じように中立性を放棄する故ロストロポーヴィチ氏的な立場とは逆から、中立的な構築を止めている。それはすなわち、この交響曲を軽快で直截で混乱した組曲として捉えるということで、実はコンドラシンの第4演奏ととてもよく似たやり口なんである。

例えば第1楽章の巨大な音量やエグいパッセージを、シナイスキーは身軽で鋭角的な表現で塗り固める。音価を短く取って凝縮させた冒頭の下行音型や、再現部の軽薄で喜遊的な表現などその最たるものだし、カッコー動機の潰れて掠れたような描写も面白い。この交響曲は「デジタルでハイパーでスマートな、ディストピア的超絶技巧フルオーケストラ」によるのでなければ、このようにまったく逆の、大衆演芸的可笑しさと濡れた刃物のような鋭さでもって表現されるのが好みだ。

第2楽章こそ、マーラーを基礎に置いた最近の若い指揮者がやりがちな毒々しい装飾から自由だったものの、第3楽章では再び、この作曲家の映画音楽と《鼻》をブレンドしたような、グロテスクの一大マーケットが開かれていく。お師匠コンドラシンが初演した交響曲をこうして東京で振る、弟子シナイスキーの胸中やいかに。

第3楽章以外にも、全曲にわたって東響のプチ重厚な音色が活きる場面のほうがずっと多かったが、シナイスキーの「もっと!もっとやれёёёёё!」みたいな指示に対しては、大谷コンミス以下、ちょっと行儀が良すぎるナアというところもごく僅かながら見受けられたのはちょい心残りなポイント。東響の小体な魅力は全能ではない。17日のみなとみらい公演ではどうなっていただろうか。

+ + +

さてさてこの日は、前半のモーツァルトもたいへん素敵であった。

録音で聴くバルシャイやソンデツキスのモーツァルトとまさしくも同様の、ちょいとオフホワイトめの可憐な音楽づくりに、しぶとく生き残っているソヴィエト楽派の鉱脈を聴き当てる思いがする。編成はショスタコの4分の1以下だけど、ピリオド風のアプローチは一顧だにしない潔さ。ラーンキの澄んだ詩趣と最高度に合致して、呆然とするような名演に。
こういうモーツァルトもきっと、あと20年くらいしたらライヴでは聴けなくなってしまうのだろう。
by Sonnenfleck | 2012-09-18 05:55 | 演奏会聴き語り

スダーン/東響 第602回定期演奏会<マーラーのリート・プロジェクトその3>@サントリーホール(7/21)

c0060659_22153219.jpg【2012年7月21日(土) 18:00~ サントリーホール】
●マーラー:歌曲集《さすらう若人の歌》
→ヴォルフガング・ホルツマイアー(Br)
●リスト:ファウスト交響曲 S108
→チャールズ・キム(T)
→東響コーラス
⇒ユベール・スダーン/東京交響楽団




本日のプログラムは、手ひどい失恋によって恋愛にトラウマを負った非リアバリトン青年が精神的修行のすえリア充テノールになって帰還し、最後は永遠に女性的なものによって救われる仕様です。

《さすらう若人の歌》。ずいぶん久しぶりに聴いたのだが(2003年の河野克典+アルブレヒト/読響以来じゃねえかな)、当夜は後期マーラーにまっすぐつながる要素をいくつも発見したのが大収穫。
第3曲に聴かれるのはたとえば第6交響曲のスケルツォのような陰惨さ、第4曲に見つかるのは、のちにはマンドリンを導くようなふんわりとした諦念。ホルツマイアーのちょっとクサい演出と、シェーンベルクシリーズを経由したスダーン/東響の響きに対するセンスが、これらを十分に顕現させていたようでした。

+ + +

そしてファウスト交響曲。変な曲だなあ。
第3楽章の後半までホントに退屈でつまらない。僕の耳ではこの曲の楽しさはわからなかった(リスヲタ上級者向けなのか)。それはたぶん、小粒な主題をゾロゾロと並べ、カラオケの伴奏みたいな薄めの音楽を展開するリストの筆によるものであって、指揮者やオケのせいではない。どうにも仕方がないので、途中でワーグナーっぽい架空のアリアを考えて乗せる作業に没頭する。

ところが第3楽章のラスト5分でテノールソロと男声合唱が加わって、音楽は突然、完全体である「千人の交響曲」に変容してしまうんである。そうか重要なパーツがあらかじめ抜かれてたのか。道理で物足りないはずだ。合体ロボ物だったんすね。

歌詞だってわかりやすいチョイス。
Alles Vergängliche
Ist nur ein Gleichnis;
Das Unzulängliche,
Hier wird’s Ereignis;
Das Unbeschreibliche,
Hier ist’s getan;
Das Ewig-Weibliche
Zieht uns hinan.
マーラーの場合、この部分は「神秘の合唱」という名前で、全体合唱とソロによるオールマイティな音楽が付与されているが、リストも完全に同じ。まさしくマーラーの元ネタみたいな感じですね。

一時間以上続く小粒な主題群に倦むことなく、生真面目に音楽を織り上げていったスダーン/東響に大きな拍手を。やっぱりこのオケの、どこか東欧の小国のオケを思わせるような、くすんだ音色が好きである。プチ重厚。この音色はホントに貴重だ。東響コーラスも(どちらかというと苦言を呈すコメントのほうがよく見つかる団体だけれども)この日は匂いやかで柔らかい響きを、東響と一緒に作り上げていた。

テノールはブリリアント☆リア充。

さて、音楽の仕組みがネタっぽくて面白いということと、何度も聴いて楽しみたいということの間には、致命的な溝がある。まあ人生で一度は生で聴けてよかったな…というレベルの感興が自分に残っているのを発見したのであった。
by Sonnenfleck | 2012-07-21 22:47 | 演奏会聴き語り

大友直人/東響 第599回定期演奏会<マーラーのリート・プロジェクト始まる>@サントリーホール(4/15)

c0060659_6284593.jpg【2012年4月15日(日)14:00~ サントリーホール】
●ラフマニノフ:ヴォカリーズ
●マーラー:歌曲集《子どもの不思議な角笛》~
 むだな骨折り/不幸な時の慰め/天国の喜び/
 魚に説教するパドゥアの聖アントニウス/
 塔の中の囚人の歌/死んだ鼓手/少年鼓手
→トーマス・バウアー(Br)
●スクリャービン:交響曲第2番
⇒大友直人/東京交響楽団


某オークションで良席がずいぶん安く出ていたので、急遽落札して聴きに行くことに。大友氏の指揮を聴くのはとーっても久しぶりです。

シェーンベルク年度の最後に《ペレアスとメリザンド》を聴いて、東響の恐ろしく深い音色に心から感じ入ったのだったが、その音色はこの日も比較的同じであった。あるプロジェクトを通じてオケの音色がもう一段階上に昇格するということはあるんだね。僕はスダーンの音楽づくりすべてに賛成という立場じゃ(たぶん)ないけど、「監督」の役割を着実に果たしている点に関して、強く敬意を表するものです。

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後半のスク2、あまり緻密な交響曲じゃないようだけれど、妙に破天荒な勢いがあって面白い作品だったな。。
ワーグナーの魂がリンツに避暑してブル3、ヤルタにバカンスに出掛けてスク2、といった風。曲中に愉快なリズムピースがたくさん潜んでるのも、ブルックナーと共通している。でも最終楽章でハ長調を爆発させちゃうのは、熱いロシア魂がなせるわざだ。しつこいパウゼのコンボに苦笑。

しかし肝心の大友氏は、、トゥッティを勢いに任せても響きに清潔感があり、若々しい音楽が形成されるのはよいものの、リズムピースを全然重視しないところ、それから音色のパレットに数色しか絵の具がないのには閉口した。パターン化は決して悪いことじゃないが、特に音色の単調さについては、共感覚を持ってたようなひとの音楽ではいかにもまずかろうと思う。また、しばらく聴くのを止そう。。

+ + +

でも、前半のマーラーがたいそう佳かった。
ソロを取ったバリトンのバウアーが、やや軽めの、健康的な明るい声質を活かしつつ、知的なデクラメーションを駆使してテキストを解釈してく。
この曲集、実はクヴァストホフ+オッター+アバドの録音がピンと来なくてこのかた、ずいぶん聴いてなかったんだけど、この日のバウアーの歌唱によって、この曲集のマーラー音楽における重要性を再認識することができた。

つまり、いくら1900年頃のマーラーが独墺楽壇の異端だったとしても、いちおうはシューベルトのような均整を踏まえた上で歌曲を作曲していたということを、歌い手と伴奏者は忘れるべきじゃないってことです。

〈塔の中の囚人の歌〉〈死んだ鼓手〉で、イロニーの後ろに静かに響いている寂寥感は、歌い手のわざとらしい諧謔で簡単に打ち消されてしまう。この日のバウアーの自然で高貴な発音は、浪漫の泥濘からちゃんとマーラーを掬い上げていたし、大友氏の清潔な音楽性もここではプラスに働いていました。
by Sonnenfleck | 2012-04-16 06:29 | 演奏会聴き語り

スダーン/東響 第597回定期演奏会<シェーンベルクプロジェクト最終回>@サントリーホール(2/25)

c0060659_1222782.jpg【2012年2月25日(土) 18:00~ サントリーホール】
●モーツァルト:Vn協奏曲第5番イ長調 K219
 ○バッハ:無伴奏Vnソナタ第3番~ラルゴ
→パク・ヘユン(Vn)
●シェーンベルク:交響詩《ペレアスとメリザンド》
 ○シェーンベルク:Hpと弦楽のためのノットゥルノ
⇒ユベール・スダーン/東京交響楽団


魂を奪われてしまった。シェーンベルクに。ぼうっとする。
僕が1905年のウィーンで初演を聴いた作曲科の学生だったと仮定すれば(毎度勝手な仮定で恐縮ですが)、そのまま楽屋に駆け込んでシェーンベルクに弟子入り志願。

ロマンティシズムって佳いなあ、と心の底から思う。
この曲に限らず、また僕が改めて言うまでもなく、そしてその作曲様式の種類を問わず、シェーンベルクが表現しているのは彼の中でぐじゅぐじゅに発酵する浪漫なんである。アルバン・ベルクだけが新ウィーン”浪漫”楽派とされて、シェーンベルクが無視されるのは納得がゆかぬよ。

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スダーン/東響は、極上のパフォーマンスをやってのけてしまった。僕がこれまでに聴いてきた国内オケの公演のなかでも、これは特に屈指の体験だったと言える。

熱に浮かされたような首席Va青木さんのソロ、ニキティンコンマスの清澄なソロ、絡み合う木管が描く蔦文様、表現主義のギッザギザが見えるTp、深いため息のようなTb。。スダーンのフェティシズムがすっかり浸透した結果だろうか、この夜の東響は本格的重厚であった。何しろオケの響きが飴色に光っていたもの!もはや「プチ」重厚と書いたら失礼に当たるくらいには、ひかひかてらてらと。

細かな評論は評論家先生方に任せよう。僕はただ、紫の浪漫煙が充満し、いろいろなキャラクタの声部がびゅうびゅうと交錯し、おまけにそれら音の線たちがとろっと光るあの空間に身を置けただけで、もう十分に満足であります。

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東響はこのあと、おそらくはこの音色を維持したまま、マーラーの歌曲プロジェクトに突入するわけだ。伝説的な完成度が期待される。定期会員になろうかなあ。
by Sonnenfleck | 2012-03-03 01:36 | 演奏会聴き語り

ウルバンスキ/東響 第31回川崎定期演奏会@テアトロ・ジーリオ・ショウワ(6/12)

c0060659_8522144.jpg【2011年6月12日(日) 14:00~ テアトロ・ジーリオ・ショウワ】
●ルトスワフスキ:小組曲
●シマノフスキ:Vn協奏曲第2番 op.61
 ○バッハ:無伴奏Vnソナタ第2番イ短調~アンダンテ
→諏訪内晶子(Vn)
●ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調 op.93
⇒クシシュトフ・ウルバンスキ/東京交響楽団


先月から東響定期に通う格好になっているが、満足度がすごく高いんだよね。プログラムづくりの巧さもさることながら、「プチ重厚」なこのオケの音色の魅力がわかってきた気がしてます。

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1982年生まれのポーランド人、クシシュトフ・ウルバンスキ。体型が自分と似ててなんか変な親近感を感ずる(ただし向こうのほうがずっと格好いい)。暗譜。
バルトークとショスタコを溶融させてちょっと田舎風の寂しさを添加したようなルトスワフスキの民謡風小品に続き、シマノフスキの第2協奏曲である。後述するようにショスタコもよかったのだが、実はこっちがハイライトだったかもしれない。

「麻辣」は四川料理などには欠かせない味付けだが、このシマノフスキはまさしく音楽の「麻」、耳から始まって身体の神経がびりびりびり...と痺れていくような、鈍い快感を与えられた。これまでコンスタンティ・クルカのEMI録音を聴くこともあったが、実演で体感する痺れは、なかなかほかの作曲家からは得られない感覚であったことだ。
ウルバンスキの、この曲ばかりはスコアを捲っての音楽づくり。調味料の「麻」感を最大限に引き出すため、もともと不揃いの食感が楽しい食材をさらに乱切りにし、しかし乱切りのパターン分けをちゃんと行なって、その瞬間に口に入る食感がどんな様子かということまでちゃーんとコントロールしてるみたいだった。火加減も最高。

その火照った食材を取り分けて僕らの口に運ぶ、ひんやりと冷たい銀の匙のような諏訪内さんのソロ。高級な食器ほど「口に付けた瞬間、料理の味を損なわない触感」を大事にしているように思うけれども、諏訪内さんの歌い口、揺らぎ、高音の見事な透明感などは、まさにシマノフスキ専用の高級スプーンのように思われた。

この人のライヴはいっつもチケットが高すぎたり曲が面白くなかったりでずっと縁がなかったが、当の本人は、録音で聴くよりもずっと官能的な音色の持ち主なのだということをこの日のシマノフスキで理解。ごく純粋にブラヴァであった。ただし、バッハのあのアンダンテは曲のフォルムを成立させるのが困難な凄まじい難曲なので、アンコールはフツーレベルになってしまったけれど。



さて、サントリー定期の好評を目にし、タコ10ヲタとして厳しめに聴くことにした後半。厳しめに聴くことにしたのだったが。。

まず、第1楽章でのベートーヴェンみたいに剛直な拍の刻みがなかなかどうしてスリリングで、はじめから気持ちを持ってかれる。初演から60年近く経ち、そろそろ古典的な作品として処理する視点があってもいいと思っていたので、これは楽しかったな。
もちろん剛直といっても、ムラヴィンスキーみたいにカチカチに硬直してるわけでもないのが今風で、場合によってはメニューボタンからピッと選ぶみたいにして急に演奏モードを変えることも全然厭わず(たぶんあれはロジェストヴェンスキーモード)、結果ぐにょぐにょっと蠢く展開部などいかにも鮮烈である。

でも、この日いちばん感心したのは第2楽章だったんだよね。
シルヴェストリの闇タコを聴いたばかりで、あのグルーヴする第2楽章をどうしても思い描かざるを得なかったのだが、ウルバンスキの音楽の作り方はいみじくも、ブカレストと同じ方角を向いていたわけです。

速さや重さ、威圧感でこの楽章を押し切るのはたぶんそう難しいことではない。真に難しいのは、この小さくて凶暴な楽章に何らかの味わいを乗せることであって、何度も書くが90年代以降の録音が碌な結果を残せていないのには、そうした事情があるとみてよかろ。
剛直ムラヴィンモードから指揮姿もがらりと変え、マエストロ広上にも似たタコ踊りを始めるウルバンスキ。シルヴェストリと同じく、ダイナミックをかなり厳しく統制するために音楽は豊かに波打ち、さらに、過度のスピードを追求しない代わりにフレージングがたいそう華やかで、スターリンにフリルがついたみたいでメタ可笑しい。あっという間の出来事だったが、この指揮者の魔術的な手際を感じてしまったのだった(そしてもちろん、東響の巧さも)

ハチャトゥリャーンのいくつかの作品に特有な朗らかな稚気をショスタコに援用し、明るいリリシズムで塗り固めた第3楽章にも興味をそそられて、それだけに、第4楽章の圧倒的正統的正攻法に僕は無念を感じる。
正攻法になって急にオケの瑕が目立ったのも残念至極(個人の大きなミスだけじゃなく、アンサンブルのスタミナが尽きて草臥れてしまった)。あそこでもう一二回転予期せぬやり方で振り回され、驚かされる何かがあれば、生タコ10における伝説になるところだった。28歳マエストロのさらなる進化に激期待。

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さても新百合ヶ丘は遠すぎる。そして小田急文化圏は瀟洒である。駅の売店まで小洒落ている。オサレにゲロルシュタイナーなど買い求めて退散。
by Sonnenfleck | 2011-06-18 10:01 | 演奏会聴き語り

テツラフ+児玉桃+スダーン/東響 第589回定期演奏会@サントリーホール(5/14)

c0060659_222419.jpg【2011年5月14日(土) 18:00~ サントリーホール】
●シェーンベルク:室内交響曲第2番変ホ短調 op.38
●メンデルスゾーン:VnとPfのための協奏曲ニ短調
→クリスティアン・テツラフ(Vn)+児玉桃(Pf)
●ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調 op.55《英雄》
⇒ユベール・スダーン/東京交響楽団


充実した一夜。聴きに行ってよかった。

何を隠そう、在京オケの中でもユベール・スダーンだけは生で聴いたことのないシェフで、10年くらい前はしばしばNHK-FMで流れていたモーツァルテウム管とのライヴ(ザルツブルク音楽祭)のほうが、東響よりもなじみ深いくらい。

+ + +

◆片付けないシェーンベルク。
第2楽章がとてもよかった。シェーンベルクによるマーラーへのオマージュとでも言うべきこの楽章を、あえてとっちらかったままばらばらばらっと開帳したのは、これはひとつの見識だと思う。楽器があちこちでぶつかり合う小爆発が連続して、テンションも上がる(もちろん、爆発を避けて太い縄で縛り上げるのもやり方)



◆「メンコン」タイトルに史上最強の挑戦者
ただの忘れ去られた秘曲だと思ってました。第二次大戦後にソロ+弦楽オケのみのパート譜が発見。この日の演奏で使われた、管楽器とティンパニ入りの完成稿が見つかったのは80年代に入ってから。その完成稿の蘇演はなんと1999年ということで、バリバリの秘曲だよね。
ところが聴いてみたらね。この曲のクールなことといったらない。こんな名曲がいまだに市民権を持たず、10年以上もほったらかしなのは理解に苦しむ。ソリスト複数ってのが鬼門なのかな。

ニ短調の疾走で幕が開く第1楽章の第1主題は、古風な気配。まるでバッハがアリアを導くようにして二人のソロの登場を促している。この曲を作曲した14歳のメンデルスゾーンは、wikipedeiaによれば、クリスマスプレゼントにマタイ受難曲のスコアをもらっているようで、何か意義深いものを感じずにはおれない。
オケがメン様らしい爽快な第2主題を仄めかして消えると、ソロの二人が電撃のように降り立つ。テツラフの鋼のような音と(すげーうめーまじでー)、桃さんの円やかな音が融け合って、えも言われぬ快空間。なおオケは軽めのギアに完全に切り替えられて、ひたすら薄くて軽い刻み隊に徹している。

擬バッハの硬質な第1楽章を引き継ぐ第2楽章は一転して緊張がほぐれ、特有の麗しい浪漫がふあふあと漂う。テツラフは相変わらず鬼神のような弓捌きだけども、時おり垣間見える優しい歌心にギャップ萌え。
そこへ桃さんの綺麗なアタッカで第3楽章。リズミカルでちょっぴりセンチメンタルなロンド形式はこれぞメンデルスゾーン!の貫禄。それにしてもテツラフがあまりにも巧くて言葉を失うのだった。なんだありゃあ。



◆凍れるエロイカ
この夜のエロイカには、ネット上ですでに多くの賛辞が集まっている。同意しないわけじゃない、が、僕はここでのスダーンの造型に物凄いフェティシズムを感じざるを得なかった。なるほどこういう音楽ができあがってくるのか。面白いなあ。

第1楽章の進まなさは果てしなかった。リピートなしに思わずホッとしてしまったくらいには。そこにあるのは、推進力をほぼすべて犠牲にするかわりに、発音にとことん拘って高い解像度を獲る、という哲学だった。録音を聴く限り、あの「遅さ」の中でもチェリビダッケは推進力を保持しているので、スダーン+東響の面白さはチェリとも異なる。勝れて絵画藝術的と言ったらいいのか。

つまり、進まぬ進まぬと思うかわりに、瞬間を輪切りにして聴くように努める。そうすることでその一瞬の鮮やかさに気づくことができる、というわけで。
あたうかぎり生硬で岩石のような1stVnと、春霞のようなFlがしっかり重ねられ、Vaがふっくらとした芝生を描けば、Obが鋭い光線を投げ掛ける。けっして油彩絵の具ではなく、水彩絵の具を品良く(しかし偏執的に)重ねたような美しさ。モローの水彩画を一度だけ見たことがあるのだが、たとえるならばそんな感じだ。

僕は弦の体験しかないから弓づかいの細やかなアーティキュレーションに注目したけれども、管プレイヤーの方の見方も気になる。とまれ、発音にこれだけ拘ると、さすがにクリーヴランドやベルリンフィルじゃない東響は推進力が落ちてしまうようで(各パートで次の音符を拾うのが若干遅れて、それが縦に積み上がる)、そのためにあの前に進まない独特の風貌が出現していると思われた。
でも、それが面白い。このやり方だと長いフレーズは勢いを無くすけど、短いフレーズはむしろ活き活きと輝く。変奏曲である第4楽章、そしてシェーンベルクがとても佳かったことの説明もつこう。

ただ、瞬間は鮮烈でも全体はのっぺらぼう、な葬送行進曲を聴いてしまうと、この楽章に代表されるような息の長いフレーズで構成される音楽に対して、スダーン+東響がどう向き合っているのか、ちょっと気にならないではない。スダーンそのものというより、スダーンがこのオケで採っている施策がそうさせているのかもしれない。

少なくともオケの献身的姿勢は素敵だ。これまで何度か聴いた東響の演奏の中では最も自発的で、俺らが監督の音楽を作るんだ、といった良好な雰囲気が確かにある。
by Sonnenfleck | 2011-05-24 22:04 | 演奏会聴き語り

飯森範親/東響 名曲全集第53回(1/30)

c0060659_22522861.jpg【2010年1月30日(土)18:00~ ミューザ川崎】
●リスト:Pf協奏曲第1番変ホ長調
 ○ショパン/リスト:17の歌曲
   ~第12番《私の愛しき人》
→ベンジャミン・グローヴナー(Pf)
●マーラー/クック:交響曲第10番(第3稿第2版)
⇒飯森範親/東京交響楽団


マーラーイヤーの第一歩は第10交響曲で!
…と思って威勢よく踏み出したのです。
でも、第一歩を踏み外して大怪我。あーあ。

まずは本題の前に、前半のリスト。1992年生まれグローヴナーくんのピアノは、青少年らしい自然な衒いが素敵だった。たぶんこの曲ってそういう曲じゃんね。はしゃぎ過ぎたり老成しすぎたりする「若者」たちの中で。

+ + +

で、本題。第1楽章の全体と、第5楽章の最後はよかった。
クック版を隅から隅まで知悉しているマラヲタではないから、詳しいことはよくわからんけど、少なくともこの両端の楽章では、何の小細工も弄さずに嫋々とメロディを歌い上げる作戦がかなり功を奏していたと思う。
特に第1楽章のコラール絶叫は響きが澄んでいてとても美しかったです。が。

真ん中の第2、3、4楽章は、ちょっと弁護のしようがない。あれほど縦の線が破綻していて、それをお客に聴かせてお金を取ろうというのだろうか?プロでしょう?
主旋律への愛は飯森センセの指揮ぶりから大変よく伝わってまいりましたが、コンマス高木氏による決死の統率が何度も見られ聴かれたのは、なかなか辛かった。センセが指揮する公演のチケットは、よほどのことがない限りもう二度と買わないことにしよう。感動した方、ごめんなさいね。

ブラヴォ飛び交う終演後、拍手するのももったいなくてすぐにホールを飛び出すと、ピアス光らす少年たちがぞろりぞろりとたむろする、川崎西口インフェルノ。
by Sonnenfleck | 2010-02-01 22:51 | 演奏会聴き語り