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[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その十 国立能楽堂開場30周年記念公演@国立能楽堂(9/16)

内容に一部誤りがありました(ご指摘ありがとうございました)。
当該箇所については訂正・削除しました。ご迷惑をおかけした方にはお詫びします。

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c0060659_1838739.jpg【2013年9月16日(月祝) 13:00~ 国立能楽堂】
<国立能楽堂開場30周年記念公演>
●能「住吉詣」 悦之舞(観世流)
→大槻文藏(シテ/明石の君)
 梅若玄祥(ツレ/光源氏)
 武田志房(ツレ/惟光)
 寺澤幸祐(ツレ/侍女)
 大槻裕一(ツレ/侍女)
 松山隆之(立衆/従者)
 土田英貴(立衆/従者)
 角当直隆(立衆/従者)
 川口晃平(立衆/従者)
 小田切康陽(立衆/従者)
 武富晶太郎(子方/童)
 寺澤杏海(子方/随身)
 武富春香(子方/随身)
 福王和幸(ワキ/住吉の神主)
 山本則孝(アイ/社人)他
→藤田六郎兵衛(笛)
 曽和正博(小鼓)
 國川純(大鼓)
●狂言「鶏聟」(大蔵流)
→山本則俊(シテ/聟)
 山本東次郎(アド/舅)
 山本則重(アド/太郎冠者)
 山本泰太郎(アド/教え主)他
●能「正尊」起請文(金春流)
→金春安明(シテ/土佐坊正尊)
 武蔵坊弁慶(ツレ/本田光洋)
 金春憲和(ツレ/源義経)
 山井綱雄(ツレ/静御前)
 山中一馬(ツレ/江田源三)
 政木哲司(ツレ/熊井太郎)
 中村昌弘(ツレ/義経郎党)
 辻井八郎(ツレ/姉和光景)
 本田布由樹(ツレ/正尊家来)
 本田芳樹(ツレ/正尊家来)
 山本則秀(アイ/召使の女)他
→松田弘之(笛)
 幸正昭(小鼓)
 亀井広忠(大鼓)
 桜井均(太鼓)


この日は台風18号が正午に関東地方最接近という最悪のコンディション。鉄道各路線が次々と運転を取りやめるなか、自分の路線は雨風にめっぽう強いためぴんぴんしており、そのまま大江戸線に潜って事なきを得た。千駄ヶ谷ルノアールで軽めのランチ(そして、千駄ヶ谷に行くたびに使ってたニューヨーカーズカフェが閉店しているのを発見!)

国立能楽堂開場30周年記念公演は、東西の人間国宝たちが一堂に会し、能が3日間+狂言オンリーで1日=4日間が費やされる一大イベントでした。第1希望は有給休暇を取っての9/17(火)、第2希望は9/15(日)だったけど、まあそううまくもゆかない。9/16(月祝)だってそうそうは見られない巨大編成作品による番組だったのだから、これは文句は言いっこなしだ。

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まず、この日いちばん好かったことから書きましょう。

◆鶏聟
吉日の婿入りで舅に挨拶しようと意気込む聟が、しかし自分はマナーを知らないので教えてほしい、と意地の悪い教え手を訪う。教え手は「これこそ当世風である」と騙して、舅に会ったら鶏がつつき合うように振る舞うのがよい、と聟に吹き込む。

そして実践してしまう聟。ところがこの狂言の真骨頂はここからで、奇怪な振る舞いの聟に相対した舅が「これに驚いては物を知らない舅と思われる…!」と考え、同じように鶏の真似をして応対するのだよね。この人間らしい悲哀。完全な真面目。

◆やはらか狂言
舅役の人間国宝・山本東次郎さん(これまでにもどこかでお姿を見ていたかもしれない)のしなやかな身体に、この日は否応なく引き込まれた。舞台上を浮遊しているのではないかという足運び、泰然と生真面目の同居、柔らかく凛として、しかも聴き取りやすいディクション、、狂言でこんなに透き通った身体感覚を感じたことがなかった僕には、たいへんなショックなのだった。

その「やはらかな」演技は、硬質な山本則俊さんの聟の演技と互いに引き立て合って、藝術としての狂言の深淵をぱっくりと覗かせていた。でも、それでいてくすくすできるのだから、まったく狂言というのは興味深いじゃないですかー。

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◆住吉詣
「源氏物語」第五十四帖「澪標」に基づく、源氏と明石の君の哀しいお話です。
住吉神社に大願を懸けて詣でる源氏の行列。たまたまそこを訪れていた元カノ・明石の君は、行列の麗々しさに気おされながら源氏にひと目会うことを望み、やがて感興を催した源氏の前でひとさし舞う。しかし源氏は留まることなく帰っていく。

◆人物たちであって人物たちでない
「住吉詣」のコアには光源氏と明石の君がいるけれど、この能には源氏の随臣たちが大勢登場する。源氏の乳母子である惟光は多少の台詞も用意され、人物として機能しているが、それ以外の人物たちはあまりそのようには見えない。

加えてこの公演では、梅若玄祥さんの源氏も、大槻文藏さんの明石の君も、軽やかさより石像のような重厚感を帯びる。より率直に言い換えれば「抑制された人物らしさではなくて、どこまでも人物らしくなさ」を辺り一面に照射していたように感じたのだった。

●正尊
この公演の少し前に、Eテレ「古典芸能への招待」で放送された「正尊」。頼朝からの刺客・土佐正尊と義経一行のチャンバラ劇です。

神様も亡霊も鬼も何も出てこないあの能は、能のフォームを利用する意味があるのだろうか?陰翳を欠いたドラマトゥルギーと、金春流の不思議な謡い方が精神を酔わせる。どやどやと頭数が揃って、しかし歌舞伎のような群舞の美しさもない。当分、この演目を見ることはないだろうなと思う。

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めでたく観能10回目を迎えまして。
あの舞台上の緊張感は、たとえば《大地の歌》の最後の3分間が80分間に引き延ばされたようなもので、およそ現実世界では味わうことができない。クラシック音楽の、弛緩した心地よさより凝縮した緊張感のほうを好む皆さんは、思い切って能に向かってみることを強くお勧めするものであります。
by Sonnenfleck | 2013-11-04 21:33 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その八 宝生会主催公演~能「雷電」@宝生能楽堂(7/25)

前にも書いたことがあるが、僕が生まれて初めて生で能を見たのはいまからおよそ10年前、水道橋の宝生能楽堂で、演目は「大原御幸」だった。
いまになって思えば、これが「石橋」や「道成寺」だったら能への接近はもう少し早かったかもしれない。この宝生能楽堂を、とっても久しぶりに訪れたのだった。

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c0060659_911697.jpg【2013年7月27日(土) 16:00~ 宝生能楽堂】
<宝生会主催公演「時の花|夏」>
●狂言「雷」(和泉流)
→野村萬斎(シテ/雷)
 石田幸雄(アド/医者)
●試演能「雷電」(宝生流)
→辰巳満次郎(前シテ/菅原道真の霊|後シテ/雷神)
 宝生欣哉(ワキ/法性坊僧正)
 則久英志、大日方寛(ワキヅレ/従僧)
→松田弘之(笛)
 大倉源次郎(小鼓)
 柿原弘和(大鼓)
 小寺真佐人(太鼓)
●特別対談:湯島天満宮宮司・押見守康 × 宝生流二十世宗家・宝生和英


宝生能楽堂の場所はよく覚えていたけれど、中に入ってからエレベータで上階にあがった記憶が捏造されていた。入り口と同じフロアにあるじゃん。ロビーは自然光が差し込んで明るい。堂内は照明がミニマル。

この日はもともと中正面だったのですが、隣にもの凄い貧乏ゆすらーがいて地震のように椅子を揺らすので、諦めて休憩中に差額を払って正面席へ。。能の見所にも困ったちゃんは出没するのだな。。
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狂言「雷」は、武蔵野を歩いていた藪医者の目の前にカミナリさまが墜落、腰をしたたかに打ち付けたカミナリさまを藪医者が鍼で治療するという、ドリフのコントみたいなお話。
萬斎さんはカミナリさまなので面を装着して登場。マスクつきの狂言を見るのはこれが初めてですが、能に接近しつつ一線は絶対に越えないバランス感覚が面白い。ちなみに地謡もいらして最後のカミナリダンスを伴奏する(アーティキュレーションは狂言スタイル!)

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で、能「雷電」です。
宝生流の「雷電」は2年前に復曲された演目。宝生流の大パトロンであった加賀の前田家が菅原道真の子孫を称していたことから、宝生流では前田家に気を遣って「来殿」として上演してきた。「来殿」では菅公は僧正に調伏されず、最後に菅公が朝廷への寿ぎの舞いを舞って終わるみたいで、ずいぶん違うすなあ。
ちなみにアフタートークでご宗家が話してらしたんですが、2年前の「雷電」復曲後に、宗家の文庫のなかから「来殿」になる前の旧「雷電」振り付けノートが見つかり、それを元にして微妙に演出を変えたとか。第2稿の初演だったというわけですね。

◆1 菅公の亡霊と雷神
比叡山の座主・法性坊僧正が祈祷しているところへ、謎の訪問者が現れてほとほとと扉を叩く。不審に思った僧正が確かめると、そこに立っていたのは先日死んだはずの菅原道真であった。

菅公は「これから内裏に行き、仇をなした人物たちを殺すが、僧正は必ず私を調伏するために呼ばれるだろう。だがその勅命には応じないでほしい」と話す。
しかし僧正は、王土にいる以上は勅命には抗し得ないと応じたので、怒った菅公は柘榴を口に含んで戸口に吐き捨てる。すると柘榴は炎に変じて燃え上がるが、僧正は印を結んで水を放射。かつての仲睦まじい師弟は悲しく決裂してしまう。

後場では、内裏を模した畳の作り物が運ばれて来、このうえで雷神と化した菅公と僧正が壮絶なバトルを展開する。雷神は紫宸殿や清涼殿を跳躍し電撃を飛ばすが、僧正は数珠をさらさらと打ち鳴らし、やがて法力で雷神を調伏する。

◆2 ドラマトゥルギー
この作品でシェイクスピアみたいな感覚を受信したのが、自分的にはすごく面白かったのだった。
後半の大スペクタクルのさなか、地謡が「僧正いるところ雷落ちず、、」って謡うんだけど、前半、道真公の亡霊が「勅命には応じないでほしい」っていうやり取りがあったからこそ、菅公の内心に残る人間らしい葛藤(師に対する思慕や感謝の念)をここに入れ込めるようにもつくってあるのよ。この内心の分裂。いいよね。。

内裏に雷がバリバリ落ちる、道真公 vs 僧正のスペクタクルはもちろんサイコーに格好いい。しかしその奥に通底しているのは、かつて親のように教えを受けた師である僧正に対して菅公が抱く静かな感情。しっとりしたドラマであった。

◆3 クラ者の雑感
最後の雷撃シーンはまるでリヒャルト・シュトラウスの大管弦楽のような膨満感があって素敵でした。笛・小鼓・大鼓・太鼓だけで、あのド迫力。
by Sonnenfleck | 2013-09-28 09:03 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その七 蝋燭の灯りによる能「熊坂」@国立能楽堂(7/25)

c0060659_623070.jpg【2013年7月25日(木) 18:30~ 国立能楽堂】
●狂言「瓜盗人」(大藏流)
→茂山千三郎(シテ/男)
 茂山正邦(アド/畑主)

●能「熊坂」(宝生流)
→朝倉俊樹(前シテ/僧|後シテ/熊坂長範)
 宝生欣哉(ワキ/旅僧)
 茂山逸平(アイ/所ノ者)
→一噌幸弘(笛)
 鵜澤洋太郎(小鼓)
 柿原弘和(大鼓)
 金春國和(太鼓)


国立能楽堂・7月企画公演「蝋燭の灯りによる」に行ってきたのだ。時間的に狂言には間に合わなかったが、観能7回目にして初の蝋燭能であるよ。蛍光灯の下に亡霊や死霊は現れにくいのであるから。

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当日はこのように、舞台の周りにぐるりと蝋燭が灯されている。席に座っていると小さな炎は和紙の外側には露出しない。そのぶん、その影を紙に落として炎は何倍にも膨れあがる。
僕はこの公演がどうしても見たくて、発売日当日に電話をして正面席一列目真ん中を押さえていた(世が世なら御殿様が座る席ですね)。でもこの選択は失敗だったかもしれないなあと、はじめは思ったのよ。炎との物理的な距離が近いと、視界に入る周囲の闇の量が少なくなってしまうのね。

ともあれ、仕手の真ん前で身体を観察するにはもってこいの場所だ…と割り切って舞台に目を移した僕を、だんだん闇が浸食してゆく。
なんということはない。僕の目の前で、たかが23メートルのあの至近距離ですら、シテの身体性が薄まって消えてしまったのだ。闇が濃い。闇が重い。もったりと澱んだ闇があちこちを覆っている!

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◆1 盗賊と僧侶
「熊坂」のお話は次のとおり(公演パンフより一部抜粋)。
都の僧が東国へと下る途中、美濃国・青野が原にやってくる。すると一人の僧体の者が旅の僧を呼び止め、今日はあるひとの命日なので回向をしてほしいと、街道筋からはずれた古塚へと案内して供養を頼む。

僧体の者の庵室には仏の絵像も木像もなく、大薙刀や金棒などの武具が立て並べてある。旅の僧が不審に思ってたずねると、僧体の者は山賊夜盗に備えるためだと答える。やがて僧体の者は掻き消え、庵室も草むらになってしまう。

旅の僧は近在の者から、この土地で牛若丸に討たれた大盗賊・熊坂長範のことを聞き、さては最前の僧体の者は熊坂の霊であったかと思い、熊坂のために弔う。するとその夜も明け方近く、熊坂の亡霊が姿を現し、金売り吉次の一行を襲ったときのことを語る。

吉次の一行に加わっていた牛若に次々と仲間の盗賊を切り伏せられた熊坂は、最後の力を振り絞って薙刀を武器に牛若と戦うが、牛若に斬られ命運尽きたのだった。都の僧に後世の弔いを頼むと、熊坂の亡霊は松陰に消えてしまう。

◆2 面と装束と蝋燭
この「熊坂」では、長霊癋見(ちょうれいべしみ)と呼ばれる、熊坂長範が登場する能でしか用いられない独特のマスクが用意される(画像はこちら※ちょっと怖いので夜中などご注意)。
個々でも再三書いてきたが、舞台上で能面は明らかにひとの顔を志向する。ひとの顔になりたがる。蛍光灯の下ですらこのような幻視を体験するのだから、いわんや蝋燭の灯りにおいてをや…である。

斜め下から蝋燭の光に照らされた長霊癋見は、シテの朝倉氏の人格を喰い破って身体を支配し、しかし亡霊であるからその操る身体の境界を曖昧にし、ついには浮遊するかのような舞いを舞わせる。この浮遊する感覚は、現実的には朝倉氏の身体能力の高さのゆえだろうし、夢幻的には蝋燭のせいであろうと思う。
牛若との一騎打ちを再現する舞いで、シテの振り回す薙刀の切っ先は正面に座る僕のほうを捉えている。斬られる。マスクのうつろな眼窩だけが炯炯と実在する。

そして能装束である。あの蠱惑的な蝋燭光の反射、朱暗い黄金色は、装束が持っている真実のエネルギーが放出されていた証ではないかと思う。もう本当に心の底から震えるように美しいのだよ。蛍光灯の平たい光はこのエネルギーを放射させないための拘束具なのか。。

◆3 ピリオドアプローチとしての蝋燭能
それが産み落とされた時代の様式で実践するという姿勢が、古楽と蝋燭能の明確な共通項である。
ガット弦を張ることによる音色の豊かな幅と、蝋燭を灯すことによって導かれる舞いや謡いの陰翳とは、同質の「訪れ」。能における空間のキアロスクーロは、たとえばバッハやモーツァルトに不可欠なガット弦の用意やボウイングやフレージングと何ら変わらないどころか、それにも増してさらに重要な因子である可能性が高い。これがわかったのは本当に大きいです。

蝋燭のぼんやりとした灯りの下では、囃子方も地謡も、ワキですら木像のように静かで、人格を喪っている。シテが見ている幻が観衆にも逆流して、孤独な一人芝居としての能の性格を際立たせるのだよね。そういえば古楽も密室の愉楽なのであった。
by Sonnenfleck | 2013-07-29 06:23 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その六 七月観世会定期能@観世能楽堂(7/7)~はじめてのかんぜ~

c0060659_80232.jpg【2013年7月7日(日) 11:00~ 観世能楽堂】
<七月観世会定期能>
●能「景清」 松門之出 小返
→片山幽雪(シテ/悪七兵衛景清)
 坂井音隆(ツレ/人丸)
 浅見重好(トモ/人丸ノ従者)
 宝生欣哉(ワキ/里人)
→一噌仙幸(笛)
 大倉源次郎(小鼓)
 國川純(大鼓)
●狂言「太刀奪」
→大藏吉次郎(太郎冠者)
 榎本元(主)
 宮本昇(通行人)
●能「半蔀」
→関根知孝(前シテ/里女|後シテ/夕顔女)
 福王茂十郎(ワキ/僧)
 大藏教義(アイ/所ノ者)
→松田弘之(笛)
 亀井俊一(小鼓)
 柿原弘和(大鼓)
●仕舞「高砂」
→木月孚行
●仕舞「通盛」
→上田公威
●仕舞「桜川」クセ
→野村四郎
●仕舞「阿漕」
→片山九郎右衛門
●能「鵺」
→武田尚浩(前シテ/舟人|後シテ/鵺)
 則久英志(ワキ/旅僧)
 大藏千太郎(アイ/里人)
→内潟慶三(笛)
 森澤勇司(小鼓)
 亀井広忠(大鼓)
 小寺真佐人(太鼓)
●附祝言


梅雨明けの朝の渋谷を歩けば、松濤の山上に観世能楽堂あり。開店した109に雪崩込むギャルたち、パチンコ屋の入店を待つ長い行列、至近に狂乱の円山町、、これはいとも不思議のことなり。

観世流の総本山である観世能楽堂を訪ねたのはこれが初めてです。水回りを見るにつけても建物自体は結構古いようですが、内部はきれいに保たれてる。
お客さんは宝飾品をじゃらじゃら付けた威風堂々たるマダム率が(国立能楽堂に比べるとかなり)高くて、今の世のパトロンたちを垣間見る思い。彼女たちの「上品な下品」こそ、本物のお金持ちの証だろう。

この日は、というかこれが普通なんだろうけど、能三本に狂言一本、仕舞が四本というたっぷりスタイル。国立能楽堂の公演が安いのは公立ということもあるだろうが、そもそも番組が小さいからというのもあるんだろうなあ。

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◆1 ラモーまたはワーグナーとしての観世流
一曲目「景清(かげきよ)」。
これは平家の猛将・悪七兵衛景清こと伊藤景清をシテとした作品です。景清は大河清盛には出てきませんでしたが、伊藤忠清の七男。

ここではまずオーケストラによる前奏曲と、ご宗家が中に入った地謡が、いずれも荘重かつ重厚でびっくりしてしまった。2ヶ月間、自分が観能から離れていたせいだけではなくて、観世流の劇的な性格が強く観測されたと考えるのが自然のように思う。はっきりとしたキアロスクーロに、音楽的豊満さ。ものの本などに書いてある観世流の特長が徐々にわかるようになってきた。

その特長を踏まえたうえで、シテ・片山幽雪氏の、老いと悔いが滲んだレチタティーヴォが印象に残っている。手元に詞章がなくて半分くらいは聞き取れなかったのだけど、意味があるかどうかはあまり関係ないんだろうな。
かつての傲然とした武者姿の残像をこちらに放ちつつ、盲目となって手に持つ杖の震えにこもる執心。これは亡霊のなりかけとしての盲目なのだ。

◆2 ラモーとリュリのちがい
二曲目は「半蔀(はじとみ)」。
前半で若い女、後半で「源氏物語」の夕顔の亡霊が登場する複式夢幻能です。第五帖「若紫」で与謝野源氏をいったん断念した僕でも知っている(苦笑)第四帖「夕顔」の主人公が、源氏との思い出を語り舞う美しい時間。

今回の正味5時間のなかで僕がもっとも能の恐ろしさを感じたのは、実はこの作品の後半、夕顔の亡霊が、夕顔の蔓這う半蔀の奥からこちらを真っ直ぐにじっと見ていた数分なのだった(こちらに参考画像のリンクを貼りますが、ゾワッとくるので注意)。
露わになっていても人の顔と紛うことの多い能面が、蔓や花弁や瓢箪でまだらに隠れれば、それはもう明らかに人である。声も体格も普通のおじさんのはずなのに、そこにいたのは若い女の亡霊であった。舞台に風が吹き抜けて、夕顔の花が揺れる。まことに幽冥の藝術である。

オーケストラの面では、小鼓の亀井老人の、擦るような呻くような柔らかいアーティキュレーションが舞台を涼やかにしていたし、「景清」とは明らかに発声メソッドを変えた地謡もしっとりした趣があった(または、あれが地謡の「楽譜」の違いのせいなのだとしたら、わかったことが大きい)

でももしかしたら、先に述べた観世の特長は「景清」や「鵺」でこそパーフェクトに達成されるのかもしれない。曖昧に消えかかる輪郭よりも。これはリュリやシューベルトが担当すべき世界だ。

◆3 豊麗の奥に潜む何か
三曲目は「鵺」。
能の上演の最後はこういう異形が登場する五番目物によるんだよね。五番目物一曲だけで上演されるときよりも、今回のように巨大な序破急のなかで取り上げられるときの効果は無類なのだろう。スペクタクル。と、知識ではいったん理解している。

ところが、実際に見てみれば、前シテで岸辺に漕ぎ寄せてくる「異形の水夫」のほうが、後シテの鵺本体よりもよほど恐ろしかったのが興味深い。舞台に青臭い水辺のにおいが立ち込めたが、それはシテ武田尚浩氏の持つたった一本の竿のせいである。

◆4 身体のためのエチュード
実は、今回の比較的暗く静かな番組のなかで、身体性の発露をもっとも強烈に感じさせたのが四曲の仕舞であった。
仕舞というのはマスクも装束も着けず、オーケストラもなく、コロスだけを従えて任意の能の場面を舞う形式。上演のときにはたぶん流派の実力者たちがこのかたちで登場する。

上田公威氏の「通盛」と片山九郎右衛門氏の「阿漕」は男ざかりの身体の勁さを、木月孚行氏の「高砂」は優雅な身体の運びとはこういうものだということを、それぞれに教えてくれる。5分の時間の重いこと!特に片山九郎右衛門氏の身体から立ち上る整頓された熱気に、4月に近美で見たベーコン展の残像が重なってしまった!

そして2月の「砧」以来となる野村四郎氏は、「桜川」で脂の抜けた澄明な身体を見所に見せる。扇を持つ手は老いによる震えが無視できないほどではあるけれど、シテの狂乱と一体化して、しかもその周囲にはらはらと散る桜花を幻視させるくらい美しい。

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能楽堂を出ればいつの間にか夏の日は傾き、遠くに積乱雲が見える。夏なのだ。
by Sonnenfleck | 2013-07-13 08:49 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その五 能「巴」@豊田市能楽堂(5/11)~はじめてのしゅら~

豊田市は雨だった。豊田参合館の、コンサートホールの隣のあのスペースに、僕が足を踏み入れる日が来ようとは。。

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c0060659_1023311.jpg【2013年5月11日(土) 14:00~ 豊田市能楽堂】
<豊田市能楽堂主催公演「ふじ能」>
●狂言「金岡」(和泉流)
→野村万蔵(シテ/金岡)
 野村万禄(アド/妻)
●能「巴」(喜多流)
→狩野了一(前シテ/里の女|後シテ/巴御前の霊)
 飯富雅介(ワキ/旅の僧)
 椙元正樹、橋本宰(ワキツレ/従僧)
 野村太一郎(アイ/粟津の里人)
→大野誠(笛)
 後藤嘉津幸(小鼓)
 河村眞之介(大鼓)ほか


能にはいくつかの種類がある。オペラがセリアやブッファ、グランドオペラ、ヴェリズモなどに分かれているのと同じように。

 初番目物:脇能とも。だいたい「神さま目出度い!」という内容。
 二番目物:修羅物とも。
 三番目物:鬘物とも。女性の亡霊の恋する思いを描くことが多い。
 四番目物:狂い物、雑能物とも。その他もろもろ。
 五番目物:切能物とも。鬼や天狗が出てくるスペクタクル。

「修羅物」は現世で戦闘に明け暮れた武者や武将、悪人が死霊の姿で現れ、現世で果たせなかったことへの執着や修羅道に堕ちた苦しみを語り、やがて消える、という形式が多いようです。「平家物語」から着想した作品が多いこの二番目物(修羅物)に分類される能、ついに初めて見たのですが、それが唯一の女性を主人公とする修羅能「巴」だったことに運命的なものを感じるのであった。

1 「巴」のおはなし
巴御前、って知っておられるかたが多いですよね。頼朝のいとこにして悲劇のライバル・源義仲(木曾義仲)の愛妾、そして古今比類なき女武者として「平家物語」に描かれた女性です。

ものがたりは義仲が戦死した粟津(びわ湖ホールのあたり)を僧が訪れるところから始まる。僧は神前に参拝に来ていたひとりの女性を目にとめてしばし会話するが、女性はすっ…と消えてしまう。ここまでが前半。
後半、僧の前に、薙刀を持ち甲冑をまとった女武者の死霊が姿を現す。死霊は自ら巴と名乗り、義仲の死に立ち会えなかったことを悔やんで、感情の激するままに薙刀を掲げて舞う。そして消える。こんなおはなし。

2 執心の凄惨な美
神様や帝を寿ぐ脇能がビクトリアやパレストリーナのミサ曲だとすれば、修羅の怨霊が現れる能は、ヴォルフのリートやブリテンのある種のオペラのように救い難く凄惨で、静かに物悲しい
「巴」の身体的な見どころは、やはり終盤の、シテによる「薙刀のヴァリアシオン」なのだよね。普通は扇で心情を語るところを、長い薙刀で義仲への執心を表現し、能面で涙を流し、やがてクライマックスでその薙刀をがらりと取り落として、このものがたりは終わる。
シテの狩野氏は総身に力を漲らせ、必要十分に女武者の死霊を演じきったと思う。シテの技巧に関する専門的な見方がまだわからない今だけ味わうことができる、執心の本質的な部分を観測した。これは自信がある。

3 焼き切れる執心
で、「巴」の観念的な見どころがどこにあるのかといえば、やっぱりこれも「薙刀のヴァリアシオン」なのだよね。
「平家物語」の記述によれば、巴が義仲と別れて落ちていったのは義仲の最後の一戦の前であり、しかも義仲が討ち取られるのを目撃したのは彼の乳母子・今井四郎兼平。兼平もすぐに後を追って自害したので、したがって巴は、義仲の最期の様子など知る由もない。

でも、この「巴」の名無しの作者は、巴の怨霊に義仲の最期を演じさせるという思い切ったドラマトゥルギーを用いるんである。
ヴァリアシオンの強靱な舞いは、白熱電球のフィラメントが焼き切れる瞬間の強い輝きのように見えた。能の前半、舞台に巴の死霊が降りていたのは疑いないが、最後に作者は、巴の死霊に義仲の死霊を二重に降ろすことによって、巴の執心を焼き尽くさせたのかもしれない。それは彼女のための、弔いの炎である。

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五月晴れの翌日、滋賀の粟津に行った。
粟津(膳所駅から徒歩10分くらい)に「義仲寺」というお寺がある。義仲の墓所とされる場所であり、義仲死後に巴が結んだ庵がこのお寺の始まりともされている。

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立派な義仲の墓と寄り添うようにして、小さな「巴塚」が境内の緑に埋もれていた。巴の墓とも言われるし、そうでないとも言われる。しかしどちらでもよい。
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実はこの寺を愛したのが、松尾芭蕉なのだ。義仲の墓の奥に、松尾芭蕉の墓がある。時代の不思議な断層を感じますよね。
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正午前の木洩れ日を浴びてしばし境内に佇む。池では亀が甲羅干し祭り。
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執心が焼き切れてのちの世の、穏やかな昼。初夏に向けて陽射しは心持ち強い。今から900年前に、そんな男女がいたのであった。
by Sonnenfleck | 2013-06-30 10:35 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その四 能「草子洗小町」@国立能楽堂(3/20)

c0060659_23113881.jpg【2013年3月20日(水) 13:00~ 国立能楽堂】
<国立能楽堂3月特別公演>
●仕舞「蝉丸」(宝生流)
→三川泉(シテ)
●狂言「花盗人」(和泉流)
→野村萬斎(シテ/男)
 野村万作(アド/何某)
●能「草子洗小町」(観世流)
→観世清和(シテ/小野小町)
 藤波重光(子方/帝)
 坂口貴信(ツレ/壬生忠岑)
 坂井音晴(ツレ/官女)
 角幸二郎(ツレ/凡河内躬恒)
 武田宗典(ツレ/官女)
 観世芳伸(ツレ/紀貫之)
 福王茂十郎(ワキ/大伴黒主)
 石田幸雄(アイ/黒主の下人)
→藤田六郎兵衛(笛)
 観世新九郎(小鼓)
 安福光雄(大鼓)ほか


1 スーパー爺タイム~蝉丸
「仕舞」っていうのは、能の一部分を抜粋して面や装束を着けずに演じる略式形態です。序破急の美学は損なわれるけれど、シテの技の骨格をより濃密に楽しむにはよいものかもしれない(2台Pf編曲版の交響曲みたいなものか)。特に能を学習している人たちにとっては。

で。この日の最初の演目は91歳の人間国宝による狂女なのでした。
これがまた足取りもおぼつかないのに打ち震えるほど凄艶で、ほんの10分ほどの舞と地謡に、能の真髄のひとつの姿を見たように思う。専門用語を使って感想文を書くことはいまの僕にはできないけれど、
我ながら浅ましや、髪はおどろを戴き、
黛も乱れ黒みて、げに逆髪の影映る、
水を鏡といふ波のうつつなの我が姿や。
というコロスの淀んだ響きに乗り、扇を頭上に揚げて一瞬、正気に戻るかのような羞恥心を老翁が見せたのは驚愕であった。よぼよぼ乙女。

2 万作×萬斎の繚乱ユニバース~花盗人
この作品では可笑しみは隠し味にすぎないわけです。淫らなくらい爛漫に咲く桜花の幻影を感じさせるので、仮に「この台本はもともとは能なんだよ」なんて説明されたとしてもまったく違和感を持たない。

(1)おはなし
庭に咲く満開の桜の枝を折られて怒った何某は、今宵も花盗人が現れると踏んで張り込む。折しも花盗人が現れ、折り取る枝を吟味しているところを、何某は桜の幹に縛り付ける。
花のために斬られる身の不幸を悲しみ、花盗人が古歌を引きながら独りごちているのを耳にした何某は、花盗人が教養のある人物と知り、この桜を歌に詠めば許そうと提案。花盗人は見事に即興で歌をつくり、何某は大いに喜んで彼を解放する。
興が乗った何某、満開の花の下で花盗人に酒を勧め、花盗人は朗々と歌い上げて返礼する。何某は自ら桜の枝を折り取って、花盗人に呉れてやる―。

(2)アリアとレチタティーヴォとダンス
「花盗人」は野村万作・萬斎父子の共演だったわけです。正三角形と表現すべき万作氏のどっしりとした演技に比べ、萬斎氏は逆三角形的なエキセントリックな演技も多く用いているのがたいへん興味深かった(しかもそれがきれいにハマっている!)。これは彼の不変の個性なのか、やがてこれを捨てて万作氏(81歳人間国宝)のように重厚な存在に変わっていくのか。

今回、幸運なことに野村萬斎氏から3mくらいの席で彼に接したのですが、これまで見たどの媒体に比べても彼の全身に力がみなぎっていて、ああこれがこのひとの真実の姿なのだと感じ入ってしまった(狂言師の狂言が凄いのは当たり前なんだけど)

後半、桜の主と花見の宴になって、萬斎氏が長大なアリアを堂内に響き渡らせたのは本当に見事のひと言。これだけ巨大なアリアのある狂言は未体験だったこともあるし、萬斎氏の美声には頭がくらくら。ふと見渡すと会場の老若女性陣がうっとりとしているのが、やっぱり最後に可笑しいのであった。

3 二十六世観世宗家~草子洗小町
これまで3回、能を見た。そのいずれも、神様か怨霊が登場する超現実ストーリーの演目だったのですが、4回目の今回は「鬘物」と呼ばれる、女性を主人公に持つ(比較的)現実的な分類の作品。ライバルの奸計で窮地に陥った小野小町が、機転を利かせて真実を暴くという2時間サスペンス仕立てのストーリーです(プログラムでは「法廷劇」と表現されてた)

(1)おはなし
帝の御前での歌合戦。小町と当たる大伴黒主は勝ち目がないと考え、前夜、小町の邸宅に忍び込む。黒主は小町が詠む予定の歌を盗み聞きしたうえそれを万葉集のページに書き込んで、古歌を引用したと断罪する計略を立てる。

場面転じて歌合戦。予定どおりの歌を詠んだ小町に黒主は異議を唱え、帝に万葉集(書き込み済み)を見せて小町を陥れる。小町は筆跡や行の乱れを怪しみ反論するが、ふてぶてしく応じる黒主に圧され、大ピンチ。

そこへ、同席していた紀貫之が助け舟を出し、小町は万葉集(書き込み済み)を水で洗ってみせる。するとたちどころに黒主の書き込みが消え、企みは露見、黒主は恥辱に感じ自害しようとする。しかし小町と帝は「歌道に励む気持ちから出たもの」と彼を許し、最後は小町が天下泰平を寿ぐ舞いを披露して幕。

(2)オーケストラ
神様登場や闘いシーンで使われる太鼓を欠くほかは、笛+小鼓+大鼓のいつもの編成。僕は当初、笛奏者の音が苛烈すぎ、また大鼓奏者があまりにも巨大な破裂音を出し続けていたため、なんだかアンサンブルが破綻しているなあという感想を持ったんだよね。
でも百戦錬磨の彼らがそんな失態を犯すはずはなく、場面の転換とともにこの理由が明らかになる。

この作品、後半の歌合戦の場で、8人もの人物が同時に舞台に上がるんです。彼らがユニゾンで謡うこともあるし、その他にコロスである地謡がいつもどおり8人座ってるので、舞台上はまるで《アルプス交響曲》のような巨大編成になる。オーケストラに聴かれた強いアクセントは、まずこの巨大編成に十分に対抗するためのものだったんだろうなあ。
笛氏はObとTp、大鼓氏はVnからTb、Percまでの外声的なパートを体現し、小鼓氏はVa、Vc、Fg、Hrあたりを内声的にカバー。小町が装束を替えている間の間奏曲で、大鼓氏はシテの動きを横目で睨みつつ、どうやら他の2名に伸縮の指示を送っていた。囃子方アンサンブルの神髄というものかもしれない。

(3)ダンス
そしてさらに(これが本当に重要なのだけど)小町を演じる観世清和氏の圧倒的なダンスに、オーケストラはわずか3名でのバランス取りを要求されてたんである。オーケストラが強くなくてなんとする。

観世宗家の舞いを言葉でうまく表現するのは難しい。ぽうっと見蕩れてしまったから。の烏帽子を被り、短冊と色紙が装飾的に描かれた紫紺の装束を着けて舞う、結末の流麗な美しさは何だったか?円やかな袖の捌きかた、扇を操る指先の確かな自信、あれは才長けた艶美な女性である真実の小野小町だったぜ。

慣れ親しんだ分野の知識や経験を援用するならば、観世清和氏のシテはベルリン・フィルが演奏するベートーヴェンやブラームスのように、誰にも何も言わせない全能の空気を静かにまとっていたのだった。あれが「事も無げにできることではない」ということがわかるような視点を早く身につけたい。。もうそれだけだ。

上述のように、小町は窮地から歓喜を経由して寛恕に至る感情の流れをシテに要求するわけです。もちろん表情を変化させるギミックを能面が持っているはずもなく、すべてはシテの首の角度や指先の処理に委ねられている。

そして(大阪で見た「砧」もそうだったけれど)この日も面は雄弁に表情を変えた。恐ろしい。扇で草子に水をかけ、黒主の書き込みが洗い落とされた瞬間、確かに小町は安堵の微笑を浮かべていた。能はできるかぎり前の席で見るのがいい。「能面のように無表情」という表現が決定的に間違っていることは、能を至近でご覧になればすぐにわかるはず。。
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上村松園《草紙洗小町》(1937)

(4)アリア
最後に、小町が扇を使って水をさらさらと掛け流すシーンの美しい詞章(歌詞)を転記しておく。水と時間・水と空間の変遷を流麗に表現した一節。ヴォルフの静謐な歌曲みたいな美しさを感じたのだった。
地謡 旧苔の鬚を洗ひしは、
シテ 川原に解くる薄氷、
地謡 春の歌を洗ひては霞の袖を解かうよ、
シテ 冬の歌を洗へば、冬の歌を洗へば、
地謡 袂も寒き水鳥の、上毛の霜に洗はん、恋の文字なれば忍び草の墨消え、
シテ 涙は袖に降りくれて、忍ぶ草も乱るる、忘れ草も乱るる、
地謡 釈教の歌の数々は、
シテ 蓮の糸ぞ乱るる、
地謡 神祇の歌は榊葉の、
シテ 庭燎に袖ぞ乾ける、
地謡 時雨に濡れて洗ひしは、
シテ 紅葉の錦なり、―

4 クラ者の雑感
・うーん観世流ベルリン・フィル。日本で見る能はクラヲタ大好き本場ものだし、すぐそばで世界最高級のパフォーマンスが見られることをもっと多くのひとに知ってほしい。クラヲタが日本のクラシックを体験しないでどうする!!由緒正しい宮廷劇だよ!!
・「草子洗小町」のシュトラウス感がすごい。虚構と浪漫のバランス。
by Sonnenfleck | 2013-03-24 23:13 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その三 能「砧」@大槻能楽堂~はじめてのおんりょう~(2/9)

c0060659_2310307.jpg【2013年2月9日(土) 14:00~ 大槻能楽堂】
<大槻能楽堂自主公演能 日本探訪シリーズ 研究公演>
●お話「砧考 世阿弥の砧を読み解く」
→天野文雄(国際高等研究所副所長)
●能「砧」(観世流)
→野村四郎
 (前シテ/蘆屋某ノ北方|後シテ/北方の亡霊)
 上野雄三(ツレ/夕霧)
 福王茂十郎(ワキ/蘆屋某)
 喜多雅人(ワキツレ/従者)
 小笠原匡(アイ/下人)ほか


土曜20時開演の大井浩明ワールド@京都カフェ・モンタージュに合わせ、何かいい公演がないかと探した結果、今回は大阪の難波宮跡近くに建つ大槻能楽堂を訪れることにした。観能を始めてからまだ日が浅い僕は、これが初めての国立能楽堂以外での公演であります。

地下鉄中央線・谷町四丁目(「た」にまちよんちょうめ!)から少し歩くと、古い映画館のようなコンクリート建築が姿を現す。内部の様子は、たまたまここで収録された半能「石橋」をテレビで見ていたのである程度わかっていたが、かなり古めかしい。実家にいるような独特のにおいも趣深い。

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観能3回目の今回、初めて脇正面の席を選んだのだった。脇正面は演者たちが登場する長い廊下に沿ったエリアで、正面とは90度異なる面から舞台を眺める。上の写真だと壁画の松に向かって左側に廊下が伸びて、舞台袖に通じてます。

+ + +

これまでに見た2公演(11/10「賀茂」、1/5「弓八幡」)はいずれも「脇能」、つまり神様が登場する、荘重でおめでたいオペラ・セリアのような作品だったわけですが、今度は違う。「砧」は「雑能」という雑多なカテゴリのなかの「怨霊物」に属する作品で、これでいよいよ、能の世界に深く沈潜することになろう。

現在の能の上演形態でもっとも多いのが2つないし3つの能で1つないし2つの狂言を挟むスタイルだが、この日は大槻能楽堂の「研究公演」とのことで、能「砧」の詞章(歌詞)を世阿弥が書いたとおりに復元しよう!というピリオド能公演。「砧」1作品が古典学者の解説付きで上演されました。

1 おはなし
訴訟で都に上ってから、3年もの間戻らぬ蘆屋某。蘆屋某の妻はそれを嘆き悲しんでいる。そこへ蘆屋某から伝言を預かった侍女・夕霧が帰郷、妻は故事に倣い、砧を打って己の不遇を慰めようとするが、「今年も戻らない」という伝言を夕霧から聞いた妻は、嘆きのあまり命を落とす。
後半。慌てて帰郷した蘆屋某の願いによって、妻の亡霊が現れる。砧を打ち続けよという地獄の責め苦の辛さを訴え、蘆屋某を呪い、怨む。しかし夫が唱える法華経により、妻の亡霊は成仏する。

2 ダンスとオーケストラ
今回、もっとも心を揺さぶられたのは、観世流・野村四郎氏演ずるシテ=蘆屋某の妻である。
野村氏は日本能楽会会長にして藝大名誉教授という凄い77歳。巨匠の至芸と書いていいのだろうと思う。震える指先を加齢のためとはつゆほども思わせず、むしろ哀しくも「重い女」の心の有り様を示す。
後半、亡霊の能面(痩女 ※ちょっと怖いのでご注意)を被ってからはさらに力が増し、激しく取り乱して顔を覆う仕草や、憤怒の形相で蘆屋某に詰め寄る様子、そして怨みと恋しさがメタメタに混ざった苦しみなど、すべてを身体から放射していた。ほんの少しの顔の傾け方で、能面の表情は千変万化する。凄艶のひと言。

オーケストラは太鼓を欠いた編成(笛・小鼓・大鼓)。席の関係かもしれないが、大鼓の方の声があまりにもよく通って、全体のアンサンブルが破綻しかかっているように感じた。
これは彼個人の解釈なのか、「砧」の楽譜の指定なのか、関西の能が全般的にそうなのか、あるいは僕の囃子アンサンブル観が間違ってるのか、理由は不明。観能の場数を踏まないとこのへんはよくわからんですな。

3 演出?
能に「演出」が有り得そうだ、というのも今回見出されたこと。
これまでに見た能は、いずれも、すでに舞台に並んでいる囃子方が奏する前奏曲が始まってから、演者が舞台に進み出てきた。しかし今回、アンサンブルは舞台袖のなかで前奏曲をやり、その後シテたる蘆屋某の妻がアンサンブルの面々と一緒に無音のまま登場。劇の始まる前から舞台に座っている。

ト書きに最初から厳密にそう書かれているのであれば認識は改める必要があるし、そんなん珍しくも何ともないわ、ということなら別にいいんだけど、僕としては、能にも音楽を中断したり改変したりする上演(あるいは作品)があるんだなあと今回感じ入ったことは記録しておきたい。

4 クラ者の雑感
・なお、読み替えにより舞台が1950年代のアメリカに…なったりはしない模様。

・前半で妻が落命するところと、後半で妻が成仏するところ、つまりこの作品の胆と言える部分で、同じ婆さんが二度も携帯を鳴らしおった。永遠に呪われれ。
・でもクラシックみたいに客席が殺気立つことがないんだよなあ。これは本当に文化の違いというか面白いギャップ。みんな冷静に舞台に集中してる。大人。

・BADかつ消え入るような終結は、チャイコフスキーの悲愴を蒸留して純度を高めたようであったことだ。そして彼女は妄執から救われる。
by Sonnenfleck | 2013-02-13 23:14 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その二 素謡「翁」&能「弓八幡」@国立能楽堂(1/5)

昨秋からあれよあれよという間に嵌りはじめた能。2013年はコンサートホールじゃなく能楽堂でライヴ初めをすることにしました。

チケットをもぎってもらい入場すると、ロビーに正月のお飾りを発見。
これ、比べる対象が写っていないからわかりにくいけど、250L冷蔵庫くらいの存在感です。鏡餅の直径は下のお餅で30cmくらい。伊勢えびも誇らしげ。目出度い。
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ほぼ初体験と言っていい前回11月定期は正面の席に座ったのですが(下の写真では右の方に広がっているエリア)、今回はいちばん安い中正面という斜めの席をチョイス。舞台に近いしいいじゃん♪と開演前はるんるん。でもこの場所がなぜ安いのかは後ほど判明する。
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↑お正月限定の紙垂が鴨居に掛かってます

+ + +

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<国立能楽堂1月定例公演>
●素謡「翁」(宝生流)
→近藤乾之助(翁)
 金井雄資(千歳)
●狂言「牛馬」(大蔵流)
→大藏吉次郎(シテ/牛商人)
 善竹十郎(アド/博労)
 山本東次郎(アド/目代)
●能「弓八幡」(宝生流)
→大坪喜美雄(前シテ/老人|後シテ/高良の神)
 小倉健太郎(ツレ/男)
 福王和幸(ワキ/臣下)
 喜多雅人(ワキツレ/従者)
 是川正彦(ワキツレ/従者)
 善竹富太郎(アイ/山下の者)ほか


1 「翁」に驚愕
今回はまず「素謡」と言われる、囃子方(オーケストラ)も舞(バレエ)もいない、謡(ソロ)と地謡(コロス)だけの無伴奏合唱曲が演奏されたのだった。

「翁」っていうのは、どうも詳しくはわからないのだけど、能の演目のなかでもっとも成立が古く、能にして能に非ずと言われる作品らしい。
翁 とうどうたらりたらりら、たらりあがりららりどう
地謡 ちりやたらりたらりら、たらりあがりららりどう
翁 所千代までおはしませ
地謡 我等も千秋さむらはむ
翁 鶴と亀との齢にて
地謡 幸ひ心に任せたり
翁 とうどうたらりたらりら...
ここにことばを載せた前半部分は、呪術的なオノマトペによって水滴からやがて滝の轟音を描写し、続く後半部分では鶴と亀のいる渚の砂(いさご)がさくさく、朝日の輝きを謡いあげて、最後は全員で「万歳楽(まんざいらく)」と和して終わる。ストーリーはない。天下泰平。寿ぎの極致。

たった6人の声楽アンサンブル、しかもソロを謡うのが84歳の老翁・近藤乾之助氏であるにもかかわらず、巨大なモダンオーケストラが演奏するスクリャービンやシェーンベルクと同じくらいの圧倒的な極彩色を感じ取った。遥か眼前の広大なランドスケープ。この体験は何だったか?

この15分くらいのうちに能の秘め事が全部入っていたような気がする。バッハでいうとフーガの技法、ベートーヴェンでいうと32番ソナタみたいな。隣の席に座っていたおじさんは、「翁」だけ聴いて帰っていった。

2 「弓八幡」に背筋を正す
牛と馬のどちらが優れているかを競い合うほんわか系狂言にうとうと。休憩時間に中庭に出て冷たい外気に触れて眠気を散らす。後半は能「弓八幡」です。

(1)おはなし
11月同様、神様の化身が出てきていろいろと由来を語ったのち掻き消えて、後半で神様本体が登場し舞う。たぶん「脇能」っていう種類だな。

八幡神がいる石清水八幡が舞台。後宇多上皇の臣下が参詣していると、弓を袋に入れて携えている老人と出会う。弓が袋に入っているのはすなわち天下治まった泰平の徴で、自分は実は石清水八幡の摂社※ の神(高良神)だと語って消え失せる。
(※この高良神社は、「仁和寺にある法師」が石清水八幡宮と間違えてお参りしてしまった徒然草のエピソードで有名みたいです)

やがてどこからともなく妙なる音楽と薫香が漂い、白髪の老人から若々しい黒髪の姿に戻った高良神が顕現、爽快にして雄渾な舞を舞う。やっぱりバロックオペラとそんなに変わらないぜ。

(2)アリアとバレエ
そういう演目なのか、演者のセンスなのか、その両方なのか、まだ全然判別できないんだけど(クラシック聴き始めのころと同じ!)、今回の「弓八幡」は前回観た「賀茂」よりずっと快活な語り口が多く、舞も涼やかで直線的だった。

ただ、ここに来て中正面に座ってしまった失敗がじわじわ効いてくる。
中正面が安いのは、ずばり「柱が邪魔だから」の一点に尽きる。正方形の舞台の対角線に沿って舞われる局面が多いので、演者と柱がダダかぶりで全然見えない!柱を切り倒したくなる、というのもよくわかるねえ。以後注意しよう。

ともあれ、特に後宇多院の臣下(ワキ)を演じた福王和幸氏のレチタティーヴォが弾むようなアーティキュレーションだったのと、後半で高良神(後シテ)を演じた大坪喜美雄氏の舞いが実にイケメンだったのが印象深い。黒に金の上着(なんて呼ぶのかわからん)の袖をぶあっっっと返す仕草に、金の砂子が飛び散るようなエフェクトを幻視。イケメン神様っていいよね!

3 クラ者の雑感
・やっぱり英語字幕がわかりやすい。ものがたりを追うことができる。
・" ...during the reign of the emperor Kinmei, Usa, Kyushu... "って表示されたときの「なんでアメリカなの?」感。
・今回の詞章は"emperor"を"he"に置き換えるとだいたいメサイア。なにしろheのreignを寿ぐ内容ですので。

・毎回の囃子方(オーケストラ)の演奏を比べて違いを聴きわけるなんて、今の段階では全然できる気がしない。そもそもあれは楽譜があるんだろうか…?

・実は今回、終演後に「みんなで謡おう!高砂」っていう超アグレッシヴなコーナーがあった。
・歌詞カードもプログラムと一緒に配られたんだけど、フツーの「《歓喜の歌》を歌いましょう」などとは格が違う。技術的困難を思って早々に退散。

・でもその後、ロビーでコートを着たりしていてもあんまりお客は出てこなかったので、みんな謡ったんだなと思われる。すげえなあ。この「鑑賞と実践のお隣感」はクラシックとは違うなあ。
by Sonnenfleck | 2013-01-07 22:06 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その一 能「賀茂」@国立能楽堂(11/10)

ひと月ほど前のとある金曜日、帰宅してTVをつけると、Eテレの「芸能百花繚乱」で能「船弁慶」が掛かっていた。波間に現れた平知盛の怨霊がバーバリックなリズムで踊り狂い、義経と弁慶に襲いかかる―。これが強烈に格好いいんである。



↑「船弁慶」から知盛登場シーン。

ちょうど大河ドラマ「平清盛」を(かなり熱心に)見ていることもあり、平家物語には少なからぬ親近感。能の演目に源平ものが多いのが運の尽きであった。新中納言知盛、僕を古典芸能の海底に引きずり込む。

+ + +

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●解説「白い矢と朱の矢―賀茂社の縁起と能」
→田中貴子(甲南大学教授)
●狂言「佐渡狐」(和泉流)
→松田髙義(シテ/佐渡の百姓)
 野村又三郎(アド/越後の百姓)
 佐藤友彦(アド/奏者)
●能「賀茂」(観世流)
→武田宗和(前シテ/里女|後シテ/別雷神)
 坂口貴信(前ツレ/里女)
 武田宗典(後ツレ/天女)
 宝生欣哉(ワキ/室明神の神職)ほか


国立能楽堂は千駄ヶ谷駅から徒歩5分。サッカーに縁がない僕には千駄ヶ谷は「津田ホールの街」だったが、これで「津田ホールと国立能楽堂の街」になった。門前の警備員氏がひとりひとりに挨拶をしているのが新鮮スね。

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建物に入ると空間にかなりのゆとりがあり、独特の重厚感が漂う。新国立劇場には残念ながらこの風格はない。でもホールの菱形構造は上野の東京文化会館小ホールとうり二つ、座席数も600席あまりとよく似ているので、クラ系のひとはあそこを想像してみてください。

1 おはなし
この公演は国立能楽堂が月に一度主催している「普及公演」なので、前座に30分の演目解説が。先生もジョークや森見登美彦(糺の森の古本市に増殖する黒髪の乙女等)を引っ張ってきたりして余念のないお話ぶり。ありがたい。

この能は、上賀茂神社(正式には「賀茂別雷神社」)の祭神・賀茂別雷大神が登場する目出度い演目。それでいて、川で水を汲んでいた女が、上流から流れてきた白羽の矢を持ち帰ったところ女はたちまち妊娠、別雷神が生まれる、という神さびたエロティックストーリーでもあります。ふむふむ。何しろ矢印だもんねえ。

2 音楽
クラシック者としての物差しを総動員。

(1)囃子方(はやしかた、オーケストラ)
笛・小鼓・大鼓・太鼓がひとりずつ舞台の奥に並んで座る。前奏曲や間奏曲に相当する器楽合奏ナンバーと、それから登場人物たちのアリアや重唱の伴奏を担当する。

面白いのは、笛以外の3名の「掛け声」も独立した器楽パートとして各ナンバーに包含されているという点。したがって七重奏くらいの豊かな響きも可能で、盛り上がる場面ではちゃんと響きが厚くなるというわけ。
むろん、指揮者がいたりはしないので、縦線が揃う揃わぬという点については一向に気にされていない。そのため七重奏のクライマックスでは、かなりドロドロした呪術的音響が出現する。

(2)謡(うたい、アリア・重唱・レチタティーヴォ)
能が「アリア→レチタティーヴォ→アリア」というふうに運ばれていくことがわかったのが今回の最大の収穫かもしれない。
黙役もいるみたいだけれど、基本的に登場した人物はみな謡うらしい。登場人物たちは彼らの思いをアリアに込めるいっぽうで、ものがたりを進める説明口調のセリフもちゃんと発している。面白いことにこのときオーケストラは伴奏をやめるんだよね。レチタティーヴォ・超・セッコと言ってよかろう。

(3)地謡(じうたい、コロス)
能の劇的世界のうち、非常に不思議というか、クラ者として慣れないのが「地謡」と言われる8人の合唱団の存在。

注意して聴いていると、どうやら演者のアリアや重唱の歌詞のうち特に作者が重要と感じた部分をリフレイン、または情景描写を補強するのが役目みたいだ。オペラのように「群衆」として存在しているわけじゃない。面白いよね。声なのに人じゃなくてむしろ楽器、いや、楽器どころか装置。

(4)舞(まい、バレエ)
謡いが入らない器楽合奏ナンバーは、前奏曲や間奏曲以外にも適宜挿入されている。ほんとうにオペラ・バレと一緒ですね。

今回の番組でもっとも心を奪われたのは、ラスト15分ほどで繰り広げられた天女と別雷神の舞。オーケストラの狂乱、地謡の高揚はこの日の最高潮に達し、天女の涼やかな官能と、足を踏み鳴らして威を誇示する別雷神の神々しい傲慢が感興を醸す。これは完全にラモーのオペラ・バレと同じ感覚。

3 クラ者の雑感
・初めてのホールでも苦労することなく自分の座席に辿り着けるくらいのクラヲタなら、能楽堂への入場は簡単にクリアできる。

・クラのコンサート会場でいちばん多いアラフォーおじさんたちはむしろ少数派。老若問わず女性の比率が高く、若いカポーも少なからず見かける。バレエの客層をうんと渋くしたような感じかな。
・客層の玄人感はクラシックの比じゃないが、彼らは思いのほかフリーダム。謡の楽譜みたいなものをベラベラ捲りながら鑑賞している婆さんなどがあちこちにいる。しかしコンサートホールにいるような怒りんぼうがいないので、ちょっとのんびりしてます。
・前の座席の背もたれに字幕システムが完備。これはクラ側からするとホントにうらやましい。日本語字幕より英語字幕のほうがわかりやすいのは内緒だ。
・椅子ふかふか~。

・拍手の作法がきわめて独特である。クラ者的にはこれがいちばんの違和感だな。
第九で例えれば、指揮者が手を下ろして…無音、ソリストとオケが全員退出して…無音、合唱団員の最後の一人が袖に入る後ろ姿に向けて、やっと儀礼的な拍手がパラパラッと起こる。これでおしまい。
・感激を拍手に込めてはいけない。
・ブラヴォもダメ。
・行き場のない高揚感をグッと飲み込み、膨満ゴーホーム。

・国立能楽堂のホワイエにはドリンクカウンターも自販機もありません。ひさびさに水飲み機をフル活用。
・でもそのかわり、物凄ーく入りにくい「食事処・向日葵」がある(新国立劇場の「マエストロ」みたいな感じね)。いつか能ヲタになったら幕間に堂々と入店してあんみつなど注文したい。
by Sonnenfleck | 2012-11-23 11:21 | 演奏会聴き語り