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タケミツのジャンクな楽しみ方。

c0060659_6262119.jpg【DENON/COCO-70662】
<武満徹>
●《ジェモー》
→本間正史(Ob)、クリスチャン・リンドベルイ(Tb)
●《夢窓》
●《精霊の庭》
⇒若杉弘/東京都交響楽団

iPodに入れてはみたものの、都市の喧騒の中で武満を聴くのがふさわしいのかわからず、放置してたんですね。行間こそ武満の最重要ポイントじゃないですか。

でも昨日電車の中で聴いてみたら、案外いけることがわかった。
確かに、結果として音量の大きな部分のみが耳に届くことになるんですよ。でも曲そのものの音量が小さい部分、あるいは無音の部分に、電車の発車メロディや人のざわめきがじわりと滲入してきて、えもいわれぬ多元的な重なり合いが生じる。これが悪くないどころか、いいのです。これは武満の意図からはきっと物凄く遠距離な味わい方で、玄妙なスープにポテチを浮かべて食べるようなものかもしれない。

《夢窓》を聴いていたらバリトンのゆったりとしたヴォカリーズが入ってきて、ああこういう曲だっけなあとしばらく楽しんでいたら、背後の酔っ払いが鼻歌を歌っていたのだった。
by Sonnenfleck | 2009-01-09 06:57 | パンケーキ(20)

新国立劇場 《軍人たち》 初日

c0060659_745513.jpg【2008年5月5日(月)14:00~ 新国立劇場】
●B. A. ツィンマーマン:《軍人たち》(日本初演)
→鹿野由之(Bs/ヴェーゼナー)
  ヴィクトリア・ルキアネッツ(S/マリー)
  山下牧子(MS/シャルロッテ)
  寺谷千枝子(MS/ヴェーゼナーの老母)
  クラウディオ・オテッリ(Br/シュトルツィウス)
  村松桂子(MS/シュトルツィウスの母)
  斉木健詞(Bs/フォン・シュパンハイム伯爵 大佐)
  ピーター・ホーレ(T/デポルト)
  小山陽二郎(T/ピルツェル大尉)
  泉良平(Br/アイゼンホルト従軍牧師)
  小林由樹(Br/オディー大尉)
  黒田博(Br/マリ大尉)
  森山京子(MS/ラ・ロッシュ伯爵夫人)
  高橋淳(T/伯爵夫人の息子) 他
→三澤洋史/新国立劇場合唱団
→ウィリー・デッカー(演出)
⇒若杉弘/東京フィルハーモニー交響楽団

劇薬のようなオペラでした。
有楽町で三日間かけて聴いたシューベルトの印象が消し飛ぶくらい。
まずは、日本初演を実現に漕ぎ着けた関係者各位にブラヴォを飛ばしておきたいです。

■音楽と演奏
予習は一切なしで臨みました。
クラスター気味の強烈な和音で開始される第1幕への前奏曲は、目に飛び込んでくる映像と相まって、多くの聴衆を粟立たせたことでしょう。クラスターなのに肌にまとわりつくような粘り気を覚えたあの箇所、若杉監督と東フィルの意気込みがよく感じられましたもの。
テクスチュアが静かになると、今度はPAを使って大袈裟に拡大されたチェンバロやギターの音が、俗悪なレチタティーヴォに絡み合って素敵な効果を上げています。

クラヲタとして最も強いインパクトを受けたのは、やはり第2幕。
カフェのテーブルの上で繰り広げられる軍人たちの性描写とその背後に流れるジャズ。
これは名フィルで聴いたトランペット協奏曲の内容から十分に予想される。

しかし、鋏を持った母親とシュトルツィウス、ヴェーゼナーの老母、性行為に及ぶマリーとデポルト、この3場面が舞台上で同時に展開するクライマックスで、突如湧き上がるJSB《マタイ受難曲》のコラール〈われなり、われこそ償いに〉
これは完全に予期していなかった出来事で、、椅子の上で硬直してしまいました。ところどころ激しい不協和音で途切れながらも、あのエグいシーンで、あの美しいメロディがほぼそのままトゥッティで演奏される。。こんなにクソ真面目な対比を衒いなく作ってしまうとは。。若杉センセとオケも渾身の清らかさでそれに応えてましたよ。

楽音、電子音、軍楽のコラージュ。第4幕の大詰めは(プログラムの解説によれば)ホール中に配置された10群のスピーカによる破滅的な大伽藍の出現。これはあそこに身を置いて正解でありました。心拍数が上がって上がって。。
若杉センセに一本だけ飛んだブーは、僕には理解できません。

■うた
マリー役のルキアネッツと、シュトルツィウス役のオテッリが圧倒的。文句ない。
デポルト役のホーレも嫌らしくて非常に良かったんですけど、カーテンコールのときみんな赤い外套を着てるもんだから、見分けがつかず拍手をし損ねました。

■演出
デッカーの演出は、白と赤と黒を基調にしたシンプルなもの。
「意味がないことを意味する暗喩」を排除した結果、残った暗喩はすべて物語の展開に直結して、わかり易すぎるくらいわかり易いスマートな運びとなっていました。
(最初と最後に登場した「無個性の群衆」はB級ホラーみたいで好きではなかったです。どうせならエヴァンゲリオンみたいに客席にカメラを向けてしまったらよかったのに。)

一方で、これって母親による支配のお話なのかなとも思う。
シュトルツィウスは鋏を持った母親の庇護下にあるようにしか見えないし(最後はそれを振り切ってひとりで「勝利」しちゃうけどさ)、伯爵夫人は若い伯爵の母であると同時にマリーの擬似母になろうとする。
ではマリーの本当の母親は?姉シャルロッテは「軍人たちの娼婦!」という罵言を大きな声で叫ぶことができず、ヴェーゼナーの老母は常識的な秩序の上にあぐらをかくばかりで、ついにマリーを御し得ないわけです。母親の庇護を受けることができず、鏡で自分を見るしかなかったマリーは道を踏み外して、彼女の救済は幕引きの直前に「演出家の慈悲によってしか」行なわれない
ただ、シュトルツィウスの母親も伯爵夫人も最後まで支配を続けることができなかったわけです。その意味で、デッカーが最後に救済したのはマリーの人生ではなくて、ヴェーゼナーの老母の庇護欲である、というさらに嫌な見方もできるかなあ。白布を覆い被せてさ。。
by Sonnenfleck | 2008-05-07 07:08 | 演奏会聴き語り