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スクロヴァチェフスキ/読響 第67回みなとみらいホリデー名曲シリーズ|そして8年後…(10/6)

c0060659_2281916.jpg【2013年10月6日(日) 14:00~ みなとみらいホール】
●ベルリオーズ:劇的交響曲《ロミオとジュリエット》op.17~〈序奏〉〈愛の情景〉〈ロミオひとり〉〈キャピュレット家の大饗宴〉
●ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 op.47
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/
 読売日本交響楽団


正直に告白すると、僕はスクロヴァチェフスキを「何かもういーや」と思っていた。かつてあれほど心酔したにも関わらず、ここ最近の動向について情報を集めることすらしてこなかった。
ところが今年の読響客演のショスタコーヴィチが、何やら大変な反響を呼んでいる。そうなると現金なもので、2005年客演時のショスタコの極めて素晴らしいパフォーマンスを思い出し、やがて当日券を頼みにホールへ足が向いてしまうのであった。

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で、どうだったか。
第4楽章の凄まじいギアチェンジ、この考え抜かれ鍛え抜かれた推進力には恐れ入った。自分が8年前に書いた感想文がそのまま生きるので、引用しましょう。
緊張を保持したまま、アタッカで第4楽章。恐ろしく遅いテンポで辺りを蹂躙したかと思えば、シニカルなリタルダンドを掛けてニヤリとさせたり、楽しい仕掛けが満載。ちょっとおこがましい言い方ですが、この曲をよく知っていればいるほど面白いのです。最後、普通の指揮者は素直にコーダに重心を置きますが、スクロヴァはコーダの直前に大きなクレッシェンドを掛け、異常に肥大した山を作る。聴き手はここでもまた度肝を抜かれます。なんていう人だ。。
でも8年後の僕が腰が抜けるほど驚いたのは、この第4楽章ではなくて、第3楽章の信じられないくらい荒涼とした心象風景なのだった。
ショスタコーヴィチの第5交響曲は、もしかすると、ただ第3楽章のために存在しているのかもしれず、また、スクロヴァチェフスキと読響の8年間はそれを証明するのに十分な関係を互いに構築させたのかもしれません。

ご存知のようにこの曲の第3楽章は、ショスタコが書いたもっとも美しいアダージョのひとつです。この美しさをストレートに表現することで成功している演奏もかなり多いし、そのアプローチについて僕はそれほど疑念を持たない鑑賞者だった。そうだったけれども、今日からは違う。

スクロヴァチェフスキは、ここに甘美なブルジョワ糖蜜をたっぷり掛けたりしなかったし、「<強制された歓喜>に対する<抵抗>の自己表現」にもしなかった。爺さんの前でこの楽章はただ、凍てつく冬に「商店」に並ぶ小母さんたちの偉大さに捧げられた、バビ・ヤールの第3.5楽章として存在していた。こんなマチエールの第3楽章は、ただの一度も聴いたことがない!!

バビ・ヤールの言葉なき追加楽章とするために、ポルタメントで厭らしく粘つく2ndVnや、裸のままで乾いたアタックのCb、一斉に縦方向に叫ぶ木管隊、空間を横方向に切り裂くヒリヒリとしたハープに至るまで、スクロヴァ爺さんは容赦なく必要なものを集める。そして彼のいつもの「構築」の柱や梁として、それらのリソースを実に贅沢に使い倒す。
そのようにして組み上げられた響きの空間は、この交響曲が後期ショスタコーヴィチの培地たりうる大傑作であることを、再び僕たちに教えてくれる。「自発的に次に亘る」演奏の前では、誰かが”証言的である”と決めつけるのも、”証言的でない”とみなすのも、等しく意味がない。こうした視点を、僕たちは90歳の元祖モダニスト老人から授けられる。

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それから(これもちゃんと書いておきたい)第2楽章も見事のひと言なのだった。
この1年、能と一緒に狂言を見るようになって、優れた狂言の実践は最初から最後まで厳格な真面目さによって貫かれているということがわかってきた。この楽章はカリカチュアライズが簡単にできるので、今世紀の演奏はかなり露悪的なものが多いように思いますが、それだって狂言と同じで、クソ真面目にドタドタやってこそ活きる。露悪の裏に何もない、すっからかんの素寒貧。この日のスクロヴァチェフスキのドライヴは、ちょっとコンドラシンを思い出させるくらい、完璧だった。

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さて前半のロメジュリ抜粋。「4楽章の劇的<小>交響曲」の形式に整えられたベルリオーズの、異常な前衛性に僕たちは気がつかなければならない。膨張して1839年の木枠を突き破るその姿に、1937年に鉄の文化政策を腐食させ、次代の芽を宿していた音楽を重ねてみるのも、おそらく悪くないのでありましょう。

スクロヴァ爺さん。僕はやっぱりあなたの元に戻ることになりそうです。


by Sonnenfleck | 2013-10-06 23:00 | 演奏会聴き語り

東京芸術劇場リニューアル記念公演|ロジェストヴェンスキー/読売日響の悲愴(10/8)

c0060659_841015.jpg【2012年10月8日(月) 15:00~ 東京芸術劇場】
●Vn協奏曲ニ長調 op.35
 ○シュニトケ:ポルカ
→サーシャ・ロジェストヴェンスキー(Vn)
●交響曲第6番ロ短調 op.74《悲愴》
⇒ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー/
 読売日本交響楽団


ロジェストヴェンスキーが振るライヴは、実のところ(流麗な指揮姿や凝った選曲ではなく)その内容において決定的印象を残すものに出会えていなかったというのが本音である。でもやっと、このマチネーで強い印象を得ることができた。

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前半のサーシャ氏は微妙。とても微妙。…

…話は変わって、この日の《悲愴》から得られたものをひとことで言えば、それはハーモニーの美しさなんである。ロジェヴェンの代名詞である軽快で怪しげなリズムやぬらぬらした音色ではなく、和声感。これが圧倒的に素晴らしかった。
(※いくつかのレヴューでは「第4と第5がよくて悲愴は落ちた」という分析があったが、あれで「落ちた」なら前2日はどれだけ凄かったのだろう…。)

第1楽章最初のコントラバス+ファゴットから「おお…」と思わせるカラフルな和音。何かとても核心的なバランス操作、または土台の音色から作り替える操作があったとおぼしき、アンナチュラルでケミカルな和音である。スヴェトラーノフやムラヴィンスキーが重機械工業部門なら、ロジェストヴェンスキーはちょっとソヴィエト化学部門の重鎮科学者みたいな感じがあるよね。

第2楽章の優美さは自発的な浪漫の発露とは思えないくらい「優美すぎ」る。相変わらず震えるくらい和音が綺麗なんだなあ。僕は和音を聴くのがあまり得意じゃないんだけど、それでもあんなに伝わってくるとすれば、ロジェヴェン化学による何らかの秘密の増強策があったとしか思われない。何だろう?フレージングも一般的だったし、アーティキュレーションもおかしくない。僕は人工甘味料をなぜ甘く感じるのか説明できないが、それと同じような現象が起こってる。

あるいはカンブルランにメチャメチャに鍛えられ尽くした、僕の知らないうちにスマートな楽団ににジョブチェンジした読響の底力が働いているのか?いつもの「読響らしさ」みたいなもの、あんまり今回は感じなかったなあ…。

第3楽章から第4楽章への移行は実に決然としたアタッカで行われる。そしていよいよ現れるリアリスト・ロジェストヴェンスキーの矜持。
この交響曲は浪漫に殉じて茫洋と閉じる作品ではなく、あくまでも19世紀のモニュメンタルな構造物なのである。それまで忠実すぎるくらい「悲愴」の世界を実現させてきた精妙な彩りや繊細な弱音は鳴りを潜め、急にぶっとい構造が露出したので驚いてしまった。こういう捉えどころのない脚本を書くのは以前と変わらないね。。それでも和音の美しさは最後まで続く。。

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終演後は一般参賀あり。歩みは昔に比べてゆっくりになったし、指揮棒の動きもだんだん華麗ではなくなってきたが、源名爺が実現させるべきと考える音楽像はすっかり明確になっているんではないかと思われた。
by Sonnenfleck | 2012-10-21 08:41 | 演奏会聴き語り

尾高忠明/読売日響 東北関東大震災チャリティーコンサート@東京文化会館(4/2)

c0060659_12325729.jpg【2011年4月2日(土)18:00~ 東京文化会館】
<東北関東大震災 被災者支援チャリティー・コンサート>
●バーバー:弦楽のためのアダージョ op.11
●マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
 ○エルガー:《エニグマ変奏曲》op.36~〈ニムロッド〉
⇒尾高忠明/読売日本交響楽団






この日の演奏を僕は忘れないと思う。音楽と演奏によって整理されたもの、解毒されたもの、受け取ったものがたくさんあったから。
生の音はこれほど情報が多かったか。大オーケストラはこんなに大きな音がしていたか。思い出せない。1ヶ月以上ライヴを聴いていなかったからなのか、自分の神経が過敏になっているせいなのか、とても刺激が強かったことを冒頭に記しておく。

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バーバー。終了後の拍手はご遠慮下さい、とのアナウンスがあり、照明をぐっと絞ったステージに弦楽隊と尾高氏が歩み出る。静かに音楽が始まり、静かに終わる。

10分間の休憩。お客さんの入りは4割くらい。

マーラーは振幅の大きい演奏であった。獣のように威嚇するアクセントと、佳い匂いのする果物のようなレガートがあえて隣り合わせに並べられて、マーラーの内面の不確実性、あるいはマーラーが観測した外側世界の不確実性がはっきりと照らし出されていた。
速報性の高い複数のメディアでは好意的なレヴューが少なくて意外だったが、ここで顕れた「不確実性」は演奏の不確実性ではなく、ある程度までちゃんと整理され演出された不確実性だったということを力説したい(ミスを拾う聴き方はしたくないし、だいいちTpやTb、Vaは堅固に安定していたよ)。尾高さんがこんなに彫りの深い音楽を作るとは、正直、思っていなかったです。
(第4楽章でさらに彫りを深めてメロメロ演歌調にしちゃわないのは尾高さんの見識だろう。繊維質、まではいかないくらい適度になめらかで、テンポも速くはないが、その中でもいちフレーズごとにちゃんと芯があって、響きはすっきりしている。)

僕はいま地震の後の世界に生きて、それまでの自分が(なんとなく)思っていた「生きることの確実性」みたいなものがただの錯覚でしかなかったことを知った。怒りと慈しみがごた混ぜになった第2楽章を聴いて、マーラーもきっと生きているのが怖かっただろうな、などと思う。真ん中にあるVc隊の静かなモノローグ。
でも。でもである。
絶望的な葬送行進曲から始まって、ようよう第2楽章の途中から一条、光が差し込んでくるようなこの交響曲の、その第5楽章まで来て、和らいだ響きにざぶんと浸ること暫し。生きている内面に不確実性を抱えたままでも(外側世界の不確実性に絶望していても)、そして完璧な生でなくても、ただ生きているからには、ただ生きていかなければならないと、僕はここで強く感じたのであった。

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以下、尾高さんのスピーチを思い出して。

「昨日、薔薇の騎士の上演が決まった。マノン・レスコーも、東フィル100周年のグレの歌も皆なくなってしまっててんやわんやだったが、ここまで漕ぎ着けた。」
「今すぐにでも被災地に駆けつけて瓦礫の撤去を手伝いたいが、それも叶わないなら、音楽家はとにかく、演奏しなければいけない。暗くなっていてはだめだ。なんとか音楽で明るくしていきたい。」
「バーバーのアダージョは本当に辛かったが、演奏した。天国にいる方たちに届けばと思う。」
「本来、マーラーの5番の後にアンコールをやるなどありえないが、今は特別な状況でもあるし、(コンマスの)ノーランさんの提案を受けてエルガーのエニグマ変奏曲からニムロッドを演奏する。エルガーが本当に大切な友人を描いた音楽だ。」


ニムロッド。大ホールが音楽に満たされている間、あちこちからすすり泣きが聞こえてきて、僕自身、息を吐き出すときに嗚咽が漏れてしまわないよう、自分を抑えるのがやっとでした。あの音の優しさ、気高さはまたとない体験であったと思う。
by Sonnenfleck | 2011-04-03 12:34 | 演奏会聴き語り

スクロヴァチェフスキ/読売日響 第497回定期演奏会(10/16)

c0060659_2201762.jpg【2010年10月16日(土)18:00~ サントリーホール】
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/
  読売日本交響楽団


一年前に芸劇で聴いたブル9の、究極★不自然な曲づくりを目の当たりにして、この指揮者から教えてもらったことやそれにまつわる思い出を守るため、もうライヴで聴くのは止めにしよう、と思った。加齢がいい方向に作用していないとまで考えた。

このチケットを取ったのは、それでもやっぱり、何度目かの不思議体験を期待してしまったからだし、何よりも、同じブル7を取り上げた第437回定期(2005年4月)の再現を望んだからなのだった。そんなわけで今一度、スクロヴァチェフスキ讃。

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ブル9演奏との違いで最も驚きかつ安心したのは、ブルックナーらしい響きの質量をナチュラルに活かして、無理に曲げたり撓めたりはしていなかったこと。無論、2005年の定期を思い出してもそんなことはしてなかったし、CD化された1999年のN響ライヴも同様なのよね。えがったえがった。

ただし、ナチュラル極右派たるギュンター・ヴァントとスクロヴァチェフスキが異なるのは、この人がロマンのお砂糖をちゃんと知っていて、しかもそれを適度に用いる術を心得ているという点に尽きる。
人工甘味料とお砂糖とが似て非なるものであるように、例えば現代の某指揮者Tなどが恣意的に復刻を試みる音楽のロマンティックと、モダニストとして生きてきたスクロヴァ爺さんが「自分の物ではなく、むしろ自分はアンチなのだが、まさにそのためによく知っている」音楽のロマンティックと、どう違うかと言うと、それはもうまるで違うんだ。爺さまが今回のブル7で控えめに、しかし確かにまぶしてきたお砂糖は、『1984年』のサッカリンではなかったのだった。

第1・第2楽章の峰と、第3・第4楽章の丘、平原、という構成は五年前と変化ない。でも、あのときに比べてなお素晴らしい印象を残したのは、第2楽章のオトコっぽい甘美さであった。
第1楽章をいつものように骨っぽく、しかし僕がよく知っているレベルの自然さで造形した後、この楽章は内部から響きがじんわりと膨張し、いくぶんもっさりとしたアーティキュレーションの中で、控えめにロマンティックな歌心が奏でられる(ここでの読響Va隊の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい)。辛口の指揮者がふと取り出す(と見せかけてたぶんこの人は全部計算しているのだが…)ホンモノのお砂糖は絶大な効果を与える。また、こういう演奏を聴くと、ブルックナーが中二男子のような感覚をずっと志向していたような気がしてくるし、また、ブルックナー好きに女性が少ないと言われるのもなんとなく納得がいく。
クライマックスの後、ワーグナーテューバも太く円やか。

その直後の第3楽章の勢いに任せたような雑なアンサンブルもをかし。これもスクロヴァ+読響の味わいと思う。
第4楽章は予想以上に音運びのバランスがよく、音色も開放的で楽天的、ブルックナーのフィナーレを聴く愉しみを存分に味わう。第1楽章主題回帰の直前でホルン隊とワーグナーテューバ隊が左右で鳴き交わす箇所(たぶん)の処理がスクロヴァチェフスキはとても巧くて、峰から降りてきて街の鐘楼で鐘が鳴っているのを耳にするような立体的感が、やはりこの演奏でも聴き取れる。
五年前の感想文を見ると、最後の瞬間に向けた大きなリタルダンドが気に入らなかったようだが、今聴けば、これも大質量をソフトランディングさせるための自然な操作と思われた。自然な静寂と大きな拍手。一般参賀アリ。

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コアなスクロヴァファンには、むしろ前半の《未完成》が究極のご馳走だったかもしれない。あちこちのアクセントは硬い一撃、五線譜がキシキシと音を立てているようなインテンポ、、あれほど干からびて甘みのないシューベルトを僕は生で聴いたことがないですよ。。やっぱり変な爺さん。長生きしてね。
by Sonnenfleck | 2010-10-17 22:00 | 演奏会聴き語り

ロジェストヴェンスキー/読売日響 第116回東京芸術劇場マチネーシリーズ(11/28)

c0060659_2157069.jpg【2009年11月28日(土) 14:00~ 東京芸術劇場】
<シュニトケ>
●《リヴァプールのために》(日本初演)
●Vn協奏曲第4番
 ○アンコール 〈ポルカ〉
→アレクサンドル・ロジェストヴェンスキー(Vn)
●オラトリオ《長崎》(日本初演)
→坂本朱(MS)
→新国立劇場合唱団
⇒ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー/
  読売日本交響楽団


シュニトケの多様式主義には共感し難い、ということが改めてわかった。
音楽美学的には「様式の境目にギャップ萌え!」という価値の見出だし方をするんかな?シュニトケのそうした「ギャップ」部分には、お花畑が突如として殺戮現場になるような趣味の悪さがあって僕は嫌だし、それを僕の好みの問題にするにしたってもう少しコンパクトなスコアにまとめられるような気がする。。

前半の二曲はそれが顕著なんです。ちょっと久々に聴いたロジェヴェン先生の華麗な音響設計魔術は完全に健在で、余計鮮やかにギャップが描かれるのでたまらない。本当に趣味が悪い(苦笑)
Vn協奏曲のソリストである息子アレクサンドルのために用意したオケ付きのアンコール〈ポルカ〉もおかしな小品で、アンサンブルが合ってるんだか合ってないんだかよくわからんし、またしてもロジェヴェン先生の煙に巻かれてしまったナ。

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で、最後に打ち上げられるたのがオラトリオ《長崎》日本初演。
前半のことがあったのでかなり覚悟してたんですけど、よくプログラムを読んでみたら1956年に音楽院の卒業作品として作曲された曲で、その実はほとんど純正のショスタコ・インスパイアだったのでした。
それにしたって、交響曲第12番のようなショスタコをさらに露骨なリアリズム路線に仕立てたような感じなのです。ティーシチェンコ以上に…って書いたらおわかりいただけるかもだし、音楽史的には「長年埋もれてても仕方がなかった」レベルかもしれない。

全五楽章からなる反原爆詩をテキストにしたオラトリオですが、例によってテキストには社会主義リアリズム臭が芬々としてて不謹慎ながらついニヤニヤさせるのがミソ(「五大陸のすべての人々よ」とか、「平和と勤労を擁護するために立ち上がろうと」とか)。
ともあれ原爆炸裂シーンの阿鼻叫喚と(ああいう巨大な音響は読響の十八番だわなあ)、畳み込むような露語合唱のパワー、そしてそれを悪魔のように軽くヒョイヒョイ振っているロジェヴェンの姿が印象深い。。ロジェヴェン先生は2010シーズンの来日予定がないみたいだけど、また必ず、僕らを愉しませてください。
by Sonnenfleck | 2010-01-21 22:00 | 演奏会聴き語り

スクロヴァチェフスキ/読売日響 第114回東京芸術劇場マチネーシリーズ(9/23)

c0060659_9334398.jpg【2009年9月23日(水) 14:00~ 東京芸術劇場】
●ベートーヴェン:Pf協奏曲第4番ト長調 op.58
→アンドレ・ワッツ(Pf)
●ブルックナー:交響曲第9番ニ短調
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/
  読売日本交響楽団


このブログ初期のころはスクロヴァ爺さんにハマっていたこともあって、熱狂的なことを書いたこともある。
名古屋で聴いたザールブリュッケンとのベートーヴェンがそんなによくなかったこと、また同様に、彼のブルックナー全集が好みではなかったこともあって、今や気持ちはかなり離れましたが、それでも常任最終シーズンの冒頭を飾るブル9となると、聴き逃すことはできない。

で、どうだったか?スクロヴァの年齢から考えて、彼が指揮を執るブル9をまた生で聴くことはもうないような気がすることを踏まえると、自分にとってはほろ苦い結末だったと言えます。
全体の造形はザールブリュッケンとの全集録音とほとんど変わりない。かなり速めのインテンポを下地に、ブルヲタが浸りたがるような壮麗な箇所ほどむしろテンポを速め、ハーモニーもどぎつく彩る、その方向は同じ。第3楽章になって急激に浪漫化するのも同じ。もともと好みではなかったこの設計を実際に生で体験してみると、かなり白ける場面が多かったな。。

もともとヴォリュームのある曲想なので、響きにも慣性みたいなものが生まれ、空間に自然なカーヴがいくつも出現するのがこの作品のノーマルなスタイルじゃないかと思います。そのカーヴを90度に交わる直角に変えてしまうやり方は、聴いていて確かにスリリングではあるけれども、スクロヴァがたとえばベートーヴェンでやるほどには、効果を素直に発揮していないように感じる。ここんところは好みの問題だから突っ込まれてもうまく反論できないけどさ。

23日はアンサンブルもガタガタで、技術的瞬間的なミスはある程度仕方がないけど、ところどころでアインザッツすら合っていないのにはガッカリ。そういう要素は仮令指揮者の指示がなくても、最低限の土台として揃えておくのがプロだと思う。スクロヴァから「アンサンブルはわざと乱せ」という指示が出ていたか、あるいは翌24日のサントリー公演のための有料ゲネプロだったのかもしれない。

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前半の伴奏は、この人としては珍しいことに非常に美しい音色を伴っていて、意外な側面を垣間見た気がする。ソリストはあまりにも粗野で驚きでしたが。
by Sonnenfleck | 2009-11-28 09:46 | 演奏会聴き語り

on the air:下野竜也/読売日響 第481回定演 [黛]

c0060659_6295071.jpg【2009年4月7日(火) サントリーホール】
●芥川也寸志:《エローラ交響曲》
●藤倉大:《アトム》(読売日響委嘱作品/世界初演)

●黛敏郎:《涅槃交響曲》
→東京混声合唱団
⇒下野竜也/読売日本交響楽団
(2009年5月31日/NHK-FM)

先週から2週連続で取り上げられている読響の定期公演。いよいよその後半部分、黛敏郎の《涅槃交響曲》です。

この曲こそライヴで体験してみたかったなあ。
まずは、第1楽章〈カンパノロジーI〉終結部でのブルックナーのような荘厳なマチエールに対する、第2楽章〈首楞厳神咒〉に現れた静けさ(これは物理的音量とは異なる!)から、仏教の感性を螺鈿細工のようにして「交響曲」に埋め込んだことによる効果のことを考えてしまう。
この場合、「地」の側が、仏教にまつわるものごとに比べると圧倒的すぎる力を持っているので、西洋音楽に精通した指揮者がこの作品を解釈することのアンフェアについても思いをいたすところであります。坊さまにも指揮をお願いしてみたらどうなるだろう?サントリーホールではなくたとえば延暦寺で?―しかし、こういったもしもトークも、結局のところ溶け合わない二者同士の独立が前提になっているわけです。そもそもがこういう作品なのだろうか。

もし第5楽章〈カンパノロジーIII〉でこの曲が終結してしまったなら、このモヤモヤした思いも確定的になってしまっていたのかもしれない。マエストロ・シモーノの特性や読響の好みを考えれば、彼らがこのアレグロ・マルカートな楽章に強い意味を感じているのはあまり疑いのないことだと思うし、事実、素晴らしくマッシヴな「西洋音楽」の演奏だもの。
そうなるとその後の第6楽章〈一心敬礼〉の存在がまったく心憎い。螺鈿細工の貝の殻も、土台となる漆器も、すべて砕けて粉々になりながら混ざり合う感覚―この楽章の奇妙な色気に、メシアンのような何かを見つけ出さないわけにはいきません。作曲者も最終的には溶け合いの方向で決着にしたんじゃないかなあ。

猿谷氏によれば、当日の会場には「若人」も多く訪れていて、演奏後の歓呼がなかなか収まらなかったとのことです(確かに拍手の冒頭、いいブラヴォが飛んでいました)。エローラの肉体賛美よりももっと奥まったところにある美のほうに、強く反応していたのかも。
by Sonnenfleck | 2009-06-03 06:52 | on the air

on the air:下野竜也/読売日響 第481回定演 [芥川&藤倉]

c0060659_6312744.jpg【2009年4月7日(火) サントリーホール】
●芥川也寸志:《エローラ交響曲》
●藤倉大:《アトム》(読売日響委嘱作品/世界初演)
●黛敏郎:《涅槃交響曲》
→東京混声合唱団

⇒下野竜也/読売日本交響楽団
(2009年5月24日/NHK-FM)

聴きに行ってみたかった読響定期が、まさかのNHK-FM登場!「現代の音楽」枠を使って2週分割オンエアと相成りました。嬉しいなあ。NHKに受信料を払う意味はこういうところにあります。

まず芥川の《エローラ交響曲》ですね。
サントリーホールのよく響くホールトーンの中で、細部は決して明瞭ではないけど、むしろこの作品の場合はそれが活きるよなあ。こういうゴツい曲をやるのにマエストロ・シモーノと「今の」読響の組み合わせは現代日本最高と思われます(名フィルもきっといい味出しますが)。
いやあオスティナートが、、かっこいいッス。滾るようなパワー。それだけだ。
会場の拍手が極めて鈍いんですが、ゲンオンヲタが集まれなかったのだろうか。

続いて藤倉大の《アトム》。世界初演です。これはもう一度聴きたいと思った。
弦楽器のぷつぷつとした気泡がいっぱい集合してテクスチュアが出来上がっていく様子はファンタみたいにカラフルでかわいらしいし、その後に立体感のあるサクサクとした生地と併せて悪戯っぽい。後半は打楽器を中心に据えたところから始まって、比較的静謐な時間が続くんですが、こちらもどことなくユーモラスなんだよなあ。下野/読響も腰が据わっていて、案外ありがちな「いいのかな~これこうでいいのかな~」みたいな自信のなさが、しっかりと排除されているのが気持ちいい。
藤倉作品って(語れるほど聴いてないけど、僕がこれまでに聴いた曲は)根底に「楽しませよう」っていう気持ちがあるように思うんです。それってゲンオンにとっても大事、、ですよね。

来週の「現代の音楽」はー、《涅槃交響曲》の一本です。また聴いてくださいね!
by Sonnenfleck | 2009-05-29 06:33 | on the air

カンブルラン/読売日響 みなとみらいホリデー名曲コンサート・シリーズ:ラモーがなくちゃ始まらない!

c0060659_6422275.jpg【2009年4月19日(日) 14:00~ 横浜みなとみらいホール】
●ラモー:《ダルダニュス》組曲~
 〈アントレ〉〈タンブーラン〉〈荘重なエール〉〈活発なエール〉
 〈アントレ〉〈眠りのロンド〉〈優雅なガヴォット〉〈リゴードン〉
●ラヴェル:《クープランの墓》
●ベルリオーズ:《幻想交響曲》 op.14
 ○サティ/ドビュッシー:《ジムノペティ》第1番
⇒シルヴァン・カンブルラン/読売日本交響楽団


東京南部に住んでいたときの癖で、いまだにみなとみらいが近いつもりで出かけてしまう。やっぱ遠いよー。

さて、《幻想交響曲》の終了と同時に激しいブラヴォが飛び交いました。
中には感極まったのか「ゲボォォォーー!」という切ない叫びも聞こえてきて、興行としてなかなかの成功だったでしょう。しかしこの日のお客さんのマナー最悪だったなあ。咳のタイミングといい、楽章間拍手といい、慣れてない方がたーくさんいらっしゃったのではないかと思われた(いよっ!大新聞!俺っちも招待してくれっ!)

しかしカンブルランと読響の《幻想交響曲》は、かなり性質の異なる彼らの化学反応の現時点での到達点であったとともに、今後の課題が見え隠れするパフォーマンスでもあった。
先々週のベートーヴェン・プロで危惧されたアンサンブルの荒れはだいぶ収まったものの、この演奏における大編成ではカンブルランの期待しているであろう音響の軽さ、すなわち夾雑物のないクリアなサウンドや、フレーズの入りやおしまいへの配慮がまだ十分でないように感じられました。特に第4-5楽章に多い興奮の山場では、オケが冷静さを失い、ゴージャスだが濁りの多い音響に終始することもあったように思う。熱くなるのは読響の欠かすべからざる魅力だけども、カンブルランはもうちょっと先の地点にオケと聴衆を導こうとしているんじゃないかな。
ただ、「先の地点」の背中(たとえばトゥッティがひとつの生き物のようなデュナーミクを感じさせたり、パートごとの重なり合いが異様に細かなグラデーションを描いたり)は、この日は第2楽章第3楽章においていくつも観測されていましたので、今後の共同作業によってそれは見えてくるでしょう。特に第2楽章の微細にして分厚い弦楽合奏、まさに大勢のモブキャラクタによって主役=主題がどんどん隠れていってしまうような演出は見事でありました。

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前回の感想文からご覧の方は、書き手の態度がちょっと変わったことに気づかれたかもしれません。
それは、この日の前半に組まれていた《ダルダニュス》組曲《クープランの墓》が大変素晴らしかったからに他ならないのです。猛々しく荒っぽいことが第一義とされたらしい(あるいは練習の不足が原因だったのかもしれない)ベートーヴェンとは似ても似つかぬ、あのようにクリアなサウンドが聴かれるとは想像していなかった。ベルリオーズの演奏に対して浴びせられた喝采は、僕としては、ほとんど残らずラモーとラヴェルに供されるべきだったと思う。

《幻想交響曲》に比べて半分くらいのコンパクトな編成で扱われた《ダルダニュス》組曲は、そのぶんカンブルランの意図がアンサンブル全体に染み渡り、えもいわれぬ典雅な響きに。
ピリオド本流の指揮者でも、今回のように<当意即妙>だけでラモーのテクスチュアを織り上げることのできる人っていうのはそんなに多くはない印象です。おっかなびっくり扱ったために編み目が緩すぎたり、踏ん張りすぎて奇怪な模様ができてしまったりするのは、たまには楽しいけどいつもでは困る。しかしカンブルランは特に弦楽器に対して弓の扱い方の指示を多く飛ばしたようで、多くの音はしっとりと(でもしっかりと)したメッサ・ディ・ヴォーチェで表出するものですから、読響としてはかつてないほど軽い音になっていたのではないかと思います。もちろん、輝きはゴージャスなままで!
オケも指揮者もちゃんと小さなアンサンブル作品に向き合っているなあというのが伝わってきたし、何よりもカンブルランがこういう音楽で何を目指す人なのかが(何となくではあるけど)わかったのが嬉しい。拍手を聴いていると、たぶん読響に興味のある普通のお客さんはラモーなんか箸にも棒にもかけないんだろうけど、個人的にはとてもいい現場に立ち会ったという感じがする。これがカンブルランの所信表明だったのかもしれない。

《クープランの墓》について書くには文章が長くなりすぎました。だいたい、目指しているところはラモーの演奏とほとんど違わなかったのです。トゥッティがカンブルランの意志を捉えて有機的に動き出したら、読売日響は新しい段階に足を踏み入れるのかもしれません。

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今回から(今回だけ?)数年ぶりにサブタイトル制を復活。
by Sonnenfleck | 2009-04-21 06:44 | 演奏会聴き語り

カンブルラン/読売日響 第110回東京芸術劇場マチネーシリーズ

c0060659_6341999.jpg【2009年4月12日(日) 14:00~ 東京芸術劇場】
●モーツァルト:歌劇《劇場支配人》 K486~序曲
●ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調 op.60
●同:同第5番ハ短調 op.67
 ○シューベルト:曲名失念(どなたか教えてください!)
⇒シルヴァン・カンブルラン/読売日本交響楽団


カンブルラン。
ギチギチのゲンダイオンガクっ子というイメージしかなかったので、読響のシェフに就任するという話を聞いたときは大変驚きましたし、4月の来日でベートーヴェン・プロを組んでる(しかも第4と第5)っていうのを知ったときも仰天しました。仰天したら聴きに行かないといけない。

ところが、きっと精密で柔らかい演奏に違いない!と思っていた自分の頭は、最初の《劇場支配人》序曲の砲撃に吹っ飛ばされてしまいました。
確かにリズムは推進力があってかつ精妙なのだけど、音響の広がり方や、ジタバタドスドスとしたアーティキュレーション、リズムによって犠牲にされる細かな音程は、考え込まれたピリオド・アプローチと言うにはあまりにも剛直でありました。良くも悪くも「読響らしい」、あのド派手で荒れた音響をそのままに持っていってしまう。
(都響の美点をうまく引き出していたインバルを、先週聴いているので余計に。。)

ベートーヴェンになってもこのやり方には一分の変化もありません。引き締まったテンポで、雄々しく、猛々しく、荒々しい演奏でした。確かに第4番第1楽章とか、第5番第3楽章とか、部分的に靄のかかったような美しさを発揮する部分はあったにせよ、思いのほかアンサンブルに気を配らないのだなあというその点に耳が行ってしまうようになって、結果的には期待していたほど楽しめませんでした。そうだ読響の弦はこうなんだったよなあ…と今さらながら苦々しく思い出した次第。
変な仕掛けが付いているという意味でも、先週のインバル昨年のティエリー・フィッシャーのほうがずっとずっと「小うるさく」、ライヴだと最近は小うるさいベートーヴェンが好きになってきた自分としては、その点からも少し物足りなさが残りました。第5番第4楽章だけ金管にずり上げるような表情を付けていましたが、あれも著しく効果的だったかというと、うーむ。

ただ―これは完全に僕の妄想独り言なんだけど―、《劇場支配人》序曲ベト4に関しては、あのいかにも心の篭もっていない「陽気のポーズ」に、ラモーの乾燥した豪壮を感じないではなかった。これは、やはりカンブルランが振る4月18日のプログラムの冒頭を《ダルダニュス》組曲が飾るというところから勝手にイメージされてきただけだと思うんですよ。でも、本当に、それだけでイメージが浮ぶものなのかね。
by Sonnenfleck | 2009-04-15 06:33 | 演奏会聴き語り