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フェドセーエフ/N響 第1755回定期@NHKホール(5/18)

フェドセーエフ好きの僕は、昨秋聴いたチャイコフスキー交響楽団(旧モスクワ放送響)との来日公演のデザートのようなつもりで出かけたのだったが。

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【2013年5月18日(土) 15:00~】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第1番ヘ短調 op.10
●チャイコフスキー:弦楽セレナード ハ長調 op.48
●ボロディン:歌劇《イーゴリ公》~序曲、だったん人の踊り
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/NHK交響楽団


フェドセーエフは意外にもこれまでN響に客演したことがなく(東フィルと仲良しだったからかな)、今回が初共演だった由。ところが彼らの90分間の共同作業を聴いて、僕は、彼らの相性が全然良くないことを知った。

現在のフェドセーエフは、兇暴な音響や音の質量を武器にするのではなく、オケの自然な円みや香りを活かすがゆえに、すべてを完璧に統率し切るような指揮をもうやめている。それでも手兵・チャイ響や、手の内を長らく学んできた東フィルは、フェドセーエフのフェドセーエフらしさを少なからず補いながら、それを自分たちの音楽とも不可分のものとして共に創る意気があるからまだいい。

しかしN響は。彼らが(彼らがと書いてまずいなら、紺マス氏がコンマスをやっているときには)自発的に指揮者に合わせよう、オケの側から指揮者を補おう、という気はさらさらなく、まったく事務的に、自分たちの負担にならない程度の適度な運動で定期公演を終えてしまう。

「オーケストラを訓練し統率することへの興味」をあまり多くは持たず、自由な霊感を大事にしている指揮者と、「自発的に協力する気持ち」に不足する"学級の秀才"オーケストラ。彼らが出会ってしまった。

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老人も少しは訓練を試みるし、優等生もその名に恥じない事務的な協力は惜しまないから、たとえば弦楽セレナードの第3楽章のようにまずまずの演奏(ピッチやアーティキュレーションに少なからず問題はあったが)が成立した箇所もあった。またイーゴリ公の周辺も、若いころのフェド節をほんの少し思い出させた。前世紀の録音で聴かれる、またチャイ響との音楽会でもちゃんと保持されていた、フェドセーエフの音楽に特有の張りと艶はここではほとんど望めなかったにせよ。

しかし…ショスタコーヴィチの第1交響曲。これは良くない。まったく良くない。心が凍えるくらい寒々しく醒めた演奏。そのために一面ではかなりショスタコらしくもあったが、あれを楽しめるほど僕はひねくれた人間ではない。

アンサンブルはギザギザで量感に乏しく、合奏協奏曲のコンチェルティーノである各パートのソロは輪郭がへにょへにょ(あのTpとVcに対してお金を支払われるのかと思うと実に厭な気持ちになる)。そしてもともとメドレー的な作品であるだけに、肝心なのは横方向への展開だけど、それすら怪しい。前に進まない。指揮者にもオーケストラもお互いに「なんでそっちがもっと努力しねえんだよ」という空気が漂う。断じてこれでは困る。

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僕はフェドセーエフ贔屓だから次のように書かせてもらうけど、N響は近ごろますます魅力がない。それなりの「当たり」にすら出会えなくなってきている。ほとんど燃え上がることのない湿った楽団に、なぜ時間を割く必要があるだろう?
by Sonnenfleck | 2013-05-22 23:02 | 演奏会聴き語り

ノリントン/N響 ベートーヴェン「第9」演奏会@NHKホール|または、具象の勝利(12/23)

c0060659_617688.jpg【2012年12月23日(日) 15:00~ NHKホール】
●ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 op.125《合唱付》
→クラウディア・バラインスキ(S)
 ウルリケ・ヘルツェル(A)
 成田勝美(T)
 ロバート・ボーク(Br)
→国立音楽大学合唱団
⇒ロジャー・ノリントン/NHK交響楽団


ひと言で表すと「レトリックの塊」のような第9。
もともとベートーヴェンが意図的に(または無意識的に)第9のなかに詰め込んだ音楽修辞技法の数々を、サー・ロジャーは掘り起こし、土くれを払い、洗浄し、僕たちの前に鮮やかに並べてくれた。ただそれだけだ。それだけだが、まことに尊い機会。今この世界で、ここだけにしかない第9だった。

ネットで観測するかぎり、この公演は賛否両論である。あたりまえだ。

百万人の無辜の市民を歓喜の渦に巻き込むことなんか、ノリントンの頭にはない。彼の禿頭のなかに詰まっているのは、18世紀までの音楽の総決算としてのベートーヴェンを、いかにして鮮明に復元するか、その一点だけである。ノリントンの真価を、学究の最前線に吹き出すマグマを、僕はこの日ほど尊敬したことはない。

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この日唯一、ベートーヴェンが僕らの知ってるベートーヴェンだったのは、せいぜい第1楽章くらいだったかもしれない。
つまり、楽聖が得意にしていたフィグーラ、アナバシスとカタバシスの自在な組み合わせによる「運動」を、ノリントンはちゃんとこの楽章で展開した。冒頭の五度音程を1stVn-Va-Cbラインでヴィヴィッドに弾かせることから始まる、この楽章の緊張した運動。寄せては返す千万のアーティキュレーション。ノリントンの武器がノンヴィブラートだけだなんて、いったい誰が言ったんだい?

第2楽章第3楽章の美しいタイムスリップ!
ここでノリントンが向かうのは、ベートーヴェンに流れ込んでいるモーツァルト、あるいはモーツァルトに流れ込んでいるグルックやアレッサンドロ・スカルラッティ、ヘンデルの要素なんである!なんという!

第2楽章の奇妙に鈍重なテンポ。皆さんはどう聴かれたのでしょうか。
あのもったいぶったようなスケルツォ、僕には「フィガロ」の戯けたシーンへのオマージュとしか思えなかった。今にも第3幕のはちゃめちゃな6重唱が始まりそう。そこへベートーヴェン自身を体現するかのように自由なティンパニが躍り込んできて、さらに「異種対話劇」が始まってしまう。それでいて中間部の管楽隊の美しさには「魔笛」の3人の童子の重唱が透けて見えるのだ。
情報量の多さにくらくらする。こんな設計は、ノリントンの過去の録音ではやってないんだよね。でもこれを聴くと、これしかない、と思わずにいられない。

第3楽章の透明感は予想どおりだったけれども、あの教条主義的な静けさは19世紀の特産品ではなく、モーツァルトの道徳的なアリア、あるいは18世紀前半のオペラセリアが得意にしていた荘重なアリアから来ているような気がしてならない。それは何も思い込みによるのではなく、ヴィブラートを抑制し淡々と歩んでいくVcとCbの響きに通奏低音を感じたからにほかならない。サー・ロジャーは聴き手の耳をしなやかに過去へ向けさせていく。

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そしてさらにさらに驚きだったのが、第4楽章
ヲタの皆さん、昭和のヒョーロンカ先生の言うことを真に受けて第4楽章を小バカにしてませんか?いわく「第9が素晴らしいのは第3楽章まで!」みたいな。でもそれはもったいない。気づきの少ない演奏を聴いて浪費するには、人生は短すぎる。

ここに含まれていた音楽修辞技法は、僕たちの蒙昧を啓くのに十分。すなわち僕たちはここに、ベートーヴェンが企んだ(あるいは企んですらいないかもしれない)モンテヴェルディやジョヴァンニ・ガブリエリのゴーストを見るからである。

ベートーヴェンが用いたレトリックのうち、とある対象をはっきりと暗示するものがこの楽章で登場する。そのひとつはトルコ軍楽隊の行進であり、もうひとつは、神の楽器としてのトロンボーンである。

トルコの軍楽隊は、近づき遠ざかることで楽曲のなかに遠近法を導き、またモーツァルトの「後宮」などに代表される18世紀トルコ趣味を連想させて懐古をかき立てる。これは音場をデフォルメすればするほど効果的だと思うが、ノリントンの指示は極めて具体的で、あからさまである。

そしてトロンボーンは(もっと言ってしまえばサックバットは)ヴェネツィアのジョヴァンニ・ガブリエリ、そして彼に流れ込んでいる中世教会音楽を想起させるのに十分な濁った音色を、薄氷を踏むような慎重さで実現させていたのである。あっぱれ。本当にあっぱれだ。

それは具体的には、歓喜の主題がひとしきり爆発した直後、
Seid umschlungen, Millionen!
Diesen Kuß der ganzen Welt!
Brüder, über'm Sternenzelt
Muß ein lieber Vater wohnen.
の部分なのだが、なぜ各連を最初に歌うのが男声だけなのか、ということについて、ノリントンはちゃんと回答を出している。これは神の意向がサックバットによってもたらされる教会の音楽なんである。

またここで国立音大の学生さんたち、そしてN響トゥッティは、何を要求されていたか。そこも面白い。
合唱はあくまでもモンテヴェルディのマドリガーレのような非人間的マチエールを、またN響トゥッティは絶対にその合唱を塗り潰さないような微細な発音を、それぞれノリントンから指示され、ほぼ完全に達成していたんだよね。特に「俗な楽器」である弦楽器が人間の声の前に出てくるなんて、これが(18世紀の視点に立った)17世紀初頭の音楽へのオマージュだとしたら、そんなことはありえないんだ。

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「劇的」という日本語があるが、なぜかそこには「アクセント強め」とか「『悲』劇的」とか「ロマンティックな」とかいうイメージが小判鮫している。
でも本当の「劇」は、そんなイメージを片方に含みつつ、もっと豊饒な空間を示してはいないだろうか。よく動き、泣き、笑い、叫び、黙り、そして語らう。語らいのアンサンブルが蒼古たる音楽修辞学とがっちり結合したとき、そこに立ち上がるのは、抽象に対する具象の勝利なのである。

これから生で聴かれる方、そして年末年始にTVでご覧になる方。どうかお楽しみに。
by Sonnenfleck | 2012-12-25 06:20 | 演奏会聴き語り

スタニスラフ、工場へ行く

2012年9月、スクロヴァ爺さんが東京に来て読響を振り去っていったが、結局コンサートには足を運ぶことができなかった。ブログやTwitterで観測したかぎりではかなり評判がよろしく、聴けなかったのは無念である。

無念なので少し昔のCDを引っ張り出してきた。

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c0060659_9372681.jpg【Altus/ALT031】
●ベートーヴェン:《大フーガ》変ロ長調 op.133*
●ルトスワフスキ:管弦楽のための協奏曲*
●ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 op.67**
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/NHK交響楽団
(*:1999年1月27日/**:1999年2月5日)

僕がスクロヴァ爺さんを初めて生で聴いたのは、たぶん2004年4月に行なわれた3回のN響定期・オールベートーヴェンプロです。エロイカ(C定期)、第4+第7(A定期)、そして第5(B定期)で当方のハートを鷲づかみにした老人は、やがて読売日響のシェフに就任し、頻繁にその音楽を東京の聴衆に聴かせることになりましたが、あのときN響で味わった精密なベートーヴェンを上回る体験は(僕のところには)ついに訪れなかったのでした。

この1999年N響ライヴは、特にあのときのサントリーホールの様子をかなりはっきりと思い出させてくれる逸品ディスクで、とても大事。

ところどころ筋肉や血潮が見える読響のマッチョな弦よりも、重金属的で古インテリっぽいN響の弦のほうに、スクロヴァチェフスキらしさはより明確に宿ったのではないかと今でも考えていて、《大フーガ》の弦楽合奏を聴いてさらにその考えを深くする。細い金属線で織り上げられていくフーガの軽い手触りには、若い古楽系指揮者たちとは全然別ルートの軽快さがあるんだよね。

ルトスワフスキも素敵。打楽器が特別に峻烈かつ冷徹なリズムを指示されているのは間違いなくて、それがトゥッティを支配することで(むしろ!)前のめりの熱い音楽に仕上がっているのが楽しいです。この人のバルトークと同じで、たとえ縦線が精密に揃っていなかったりしても気にならない。熱いモダニズム!

そして第5。繰り返しになっちゃうけれども、スクロヴァ爺さんのベートーヴェンの軸にあるのは金属線の束感だと思う。しかもそれは、クリーンな工場でオートマティックに機械加工されるツルリとした束じゃなく、町工場の爺さんが技術を習得した時代に最先端だった加工技術によるものである。

何十年もその加工技術ひと筋でやってきた爺さんの製品は、声部の金属線同士が自在にほろほろと解け、解けては融合し、しかし明らかに文学作品ではなくて一個の工業製品として存在している。シンプルに駆動する第3楽章のフガートに、みな人は快感を覚えよ。
by Sonnenfleck | 2012-10-07 09:38 | パンケーキ(19)

ノリントン/N響の "ティペ1" 第1725回定期@NHKホール(4/21)

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【2012年4月21日(土) 15:00~ NHKホール】
●ベートーヴェン:序曲《レオノーレ》第2番ハ長調 op.72a
●同:交響曲第4番変ロ長調 op.60
●ティペット:交響曲第1番
⇒サー・ロジャー・ノリントン/NHK交響楽団


この日はなんだか体の調子が悪くて、たいへん眠かった。後半なんか(これを目的に聴きにいったのだし、多少は予習までしたにもかかわらず)ほとんど寝落ちだったのですが、出かけた記録だけは残しておく。

・コントラバスを横一直線に並べるスタイル。
・その後ろに衝立型の反響板。これがあるとNHKホールでも音が映える。
・レオノーレ第2番はたぶん初めて生で聴く。ノリントンは休符の扱いが独特で、序曲のくせに恐ろしく巨大な絵巻物を見せられたような感覚に陥った。
・フルトヴェングラーの1954年録音と手法が少し似ていた。
・ベト4は終始きんきんと響いて正直しんどい。
・そしてティペットの様子は覚えてない。
・こんな日もあるよね☆(ゝω・)vキャピ
by Sonnenfleck | 2012-06-10 12:30 | 演奏会聴き語り

ベルトラン・ド・ビリー/N響 第1721回定期@NHKホール(2/11)

僕はこのコンサートにイザベル・ファウストを聴きに行ったはずなのだが、気がついたらベルトラン・ド・ビリーのファンになっていた。おそろしい。

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【2012年2月11日(土) 18:00~ NHKホール】
●ドビュッシー:《牧神の午後への前奏曲》
●プロコフィエフ:Vn協奏曲第1番ニ長調 op.19
 ○バッハ:無伴奏Vnソナタ第3番ハ長調 BWV1005~ラルゴ
→イザベル・ファウスト(Vn)
●シューベルト:交響曲第8番ハ長調 D944
⇒ベルトラン・ド・ビリー/NHK交響楽団


僕の心をぐっと掴んだのは、ド・ビリーのきわめて安定して高品質な音楽的センス(なかんずくテンポと木管バランスに関する感覚)と、それを生かしていろいろな様式を巧みに捌いてしまう彼の職人技なのである。この指揮者がヨーロッパのあちこちで引っ張りだこな理由がやっとわかったということだ。

昨日の多くの聴衆はもしかしたらド・ビリーを「特徴がない」とか「何でも屋」と捉えたかもしれないが、本当の指揮のプロはああいう音楽を作るということを忘れちゃいけない。鬼才に異才、奇演に凄演、そんな音楽ばかりでは、僕は厭なのだ。

まことに勝手な想定だが、僕がドイツとかベルギーに住んでいるつましい商売人とか小役人だったら、余裕があるわけではない家計からお金を捻り出してでも、ド・ビリーのような指揮者が監督をやっているオケの会員になるし、自分の子どもにはド・ビリーのような音楽を日常的に聴いて育ってほしいと思うだろう。
そういうことです。

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最初のドビュッシーから、木管のバランスの良好さに驚いた。N響ソロ管のなかで僕がもっとも信頼し尊敬しているのが神田さんのフルートなのだが、彼による導入から木管の緩やかなマーブル模様が拡がり、たいへん美しい。
それと同時に、風呂敷を広げすぎない「小体の美学」とも言うべきド・ビリーの手堅さに、感興がぶくぶくと湧くのであります。

プロコフィエフは、ホールが広すぎていかにもファウストの音が遠い。昨年の新日フィルとのブリテンほどには心に響かなかったのが無念。それでも第1楽章の澄み切ったフラジョレットや、甲虫のように光るスル・ポンティチェロ、第3楽章の夢幻的空間の出現など、いくつかのポイントはしっかりと感じ取れた。しかしもっと小さいホールで聴きたい。決定的に。
さてここでも、ド・ビリーの底堅いセンスがよくわかる。あくまで軽やかに。

後半のグレートは名演だったと言わざるを得ない。

フルトヴェングラーのグレートや、チェリビダッケのグレート、そういうどろどろしたシューベルトがお好みの方の琴線には全く触れないだろうが、明るい青空にクリスプなクラング塊がぷかぷかと浮いているような横方向のつくりは、20世紀浪漫でも、20世紀古楽でもない、独特の(あるいは1950年代のカラヤンにうり二つの!)センスに基づいている模様。
なるほどこれなら「小体なグレート」が実現される。第3楽章のトリオが極上な此岸的美しさを湛えているのも好いし、第4楽章のコーダで品の良いアッチェレランドをちゃんとかましてくれるのも花丸。ピリオドにあえなく呑み込まれてしまったと思われていたノイエザッハリヒカイトの正統的嫡流、なんて書いたら大げさだろうか? いやいや、ぜんぜん大げさじゃねーだろ。

このスタイルはノリントンの64倍くらい新鮮。そして256倍くらい上質。始めに話を戻すと、要は、僕はこのひとにN響の監督になってほしいっつーことです。
by Sonnenfleck | 2012-02-12 11:41 | 演奏会聴き語り

デュトワ/N響の "Kékszakállú" 第1715回定期@NHKホール(12/10)

デュトワがN響に客演しに来るのは毎年12月に固定されてしまっているが、僕の本業は12月からピークを迎え始めてしばしば土日も潰れるので、だいたい毎年聴きに行けてない。今年は幸運です。

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【2011年12月10日(土) 15:00~ NHKホール】
●ブラームス:Vn協奏曲ニ長調 op.77
→リサ・バティアシュヴィリ(Vn)
●バルトーク:《青ひげ公の城》op.11
→バリント・ザボ(Br/青ひげ)
 アンドレア・メラース(MS/ユディット)
⇒シャルル・デュトワ/NHK交響楽団


で。当然ながら週日の疲れが出て眠くなる。コンディションは悪い。

なので、偉そうなことは全然言えないんですけどもね。あちこちで人気のこのソリスト、少なくともブラームスでは、生硬な節回しに変化のない音色、ごぼうの固い水煮みたいで、演奏は全然好みじゃなかったんだよなあ。ブラームスのコンチェルトはもっと豊饒で贅沢な音楽として捉えたいのが、僕の正直な気持ち。

ブラヴォも飛んでたし、ネット上の感想も上々なので、きっと僕が彼女の良さを感じ取れなかったのが悪いんでしょう。しかしこういうキャラクタなら浪漫作品じゃなく、ディーリアスかバルトーク、ストラヴィンスキーのコンチェルトでも聴いてみたいものです。

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まったくこれじゃいかんと、休憩中に3階自販機でリアルゴールド120円を買い求め、ぐいと飲む。NHKホールならではです。

《青ひげ公の城》を生で聴けるのはこれが初めての機会であったために、この2週間ほど一生懸命に予習をした。朝一番から通勤電車で青ひげ。残業帰りにヘロヘロになっても青ひげ。不吉のきわみだよなあ。

その予習に使っていたケルテス/ロンドン響の演奏と比べて、デュトワ/N響の演奏では優雅さ・流麗さが非常に際立つ格好となっていたのが面白い。ほとんど「反表現主義的」と言ってもいいくらいだろう。
冒頭の東方風音響の柔らかさから違いを認識させられ、その後はパッセージ同士がぬるぬると連結して豊かに流れていく(先日のマーラーとは正反対の作り方と言える)。第5の扉、ハ調の爆発なんか《妖精の園》かよっていうくらい肯定的な響きだったし、第6の扉から第7の扉に掛けて、つまり音楽がもっとも妖しく光る局面においても、響きは乾燥しない。血は干からびず、前妻たちも生きている。

それに輪を掛けて素晴らしかったのが、青ひげを歌ったバリント・ザボと、ユディットを歌ったアンドレア・メラース。
ナチュラルなアーティキュレーションで、しかし(ここが重要だが)デュトワのつくる柔らかい地を生かして、彼らはちゃんと表現主義的な鮮烈な歌唱を行ない、強烈な図を提供していたのであった。ザボの苦悩の混じった声、メラースのヒステリックな声がやがて催眠に掛かったように沈んでいく有り様。

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演奏会がはねて原宿駅に向かって歩いていると、代々木競技場の第2体育館の上に巨大な満月が昇っていた。その夜、月は欠けて赤く光る。
by Sonnenfleck | 2011-12-13 22:12 | 演奏会聴き語り

デュトワ/N響の "Tausend" 第1715回定期@NHKホール(12/3)

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【2011年12月3日(土) 18:00~ NHKホール】
●マーラー:交響曲第8番変ホ長調
→エリン・ウォール(S)、中嶋彰子(S)、天羽明惠(S)
 イヴォンヌ・ナエフ(A)、スザンネ・シェーファー(A)
 ジョン・ヴィラーズ(T)、青山貴(Br)、ジョナサン・レマル(Bs)
→東京混声合唱団、NHK東京児童合唱団
⇒シャルル・デュトワ/NHK交響楽団


デュトワが造形した第一部は、日本での第8演奏史上、もっとも個性的な部類に入るものではなかったかと考える。音楽が自律的前進に、音楽家のほうで制限をかけたという意味で。あるいはこの作品で、ちゃんと「表現した」という意味で。

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マーラーのこの交響曲に魅入られてまだ三四年程度ではあるけど、僕が聴いてきた指揮者はすべて、この夜のデュトワのようではなかった。
ことに、第一部はよほどのことがないかぎりは、曲自体の重みで豪華客船のように前進していくものだと思っていたんだよね。それ以外の在り方があるとは全然考えていなかった僕の眼前に広がったのは、異形の「流れない」演奏であった。

夏くらいにウェブラジオで聴いたダニエレ・ガッティ/フランス国立管の第8もずいぶん「流れない」演奏だったが、あっちが曲に多量の水とき片栗粉を入れただけだったのに対し(それはもうでろでろ)、デュトワはもうちょっと老獪である。

彼が取り組んだのは、執拗とも言える「響きのバリケードづくり」。
陶酔的なレガートのかわりにクリスプなスタッカートを全面的に適用した結果、余計な水気が蒸発。楽句は裸になって、パーツ同士が一瞬で縦方向に組み上がり、マーラーが元来この曲に与えたであろう立体感が自然に現れる。このバリケードが邪魔をして、温暖湿潤な流れはすっかり犠牲になったが、そのかわり得られた新鮮な響きといったら!この曲にはこんなに豊かな表情がつく余地があったんだね。
(※ネット上では、このマーラーの不思議な感触の理由をNHKホールのデッドな音響だけに求めるレヴューも目立つが、自分はそうは思わない。デュトワが元からトゥッティを強烈に締め上げて、楽天的ぶよぶよを排除した結果だと思うんだ。)

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さて、これでは大方の千人ファンはぷんぷん怒ってしまうんじゃないかと思ったんだけど、第二部は清純系「フツー千人」への見事な転身をやってのけるのが心憎い(テノールだけ妙に不純で残念でした)。やっぱりデュトワの独墺レパートリーって独特の魅力があって面白いよねえ。
by Sonnenfleck | 2011-12-05 22:12 | 演奏会聴き語り

プレヴィン/N響 第1710回定期@NHKホール(10/22)

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【2011年10月22日(土) 15:00~ NHKホール】
●メシアン:《トゥーランガリラ交響曲》
→児玉桃(Pf)、原田節(オンド・マルトノ)
⇒アンドレ・プレヴィン/NHK交響楽団


ほかの何でもなく、これは緩慢な愛の交響曲なのだなあ。
スリリングなリズムの饗宴、エロティックな音色の乱舞、そうした要素は結果として付加されうるだけで、本質ではなさそう。僕はこの日までその副次的要素をトゥーランガリラのお楽しみポイントだと思ってきたが、しかと覆された。そういったわけで10月22日はトゥーランガリラ記念日。

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ケント・ナガノのCDが好きな僕からすると、この日の演奏のあまりに悠然とした歩みが、まずたいへん強い違和感を催させたのは事実。(黒色の歩行補助カートを押しながらよろよろと袖から出てきたプレヴィンを見て、「ゆるふわ☆とぅーらんがりら」を覚悟したのは僕だけだったろうか?)
でもただの「ゆるふわ」じゃなかった。ちゃんと聴いていれば、その違和感の理由は単純に音楽の構えがかなり大きいせいなのだということがわかる。拍が整然と揃っているのは明白であって、緩慢ではあるが弛緩しているとは言い難い。目前の楽句に喰らいつくようにして前に進んでいく演奏ではないっつうこった。

あり得なくもなかったはずのことだけど、晩年のクレンペラーがトゥーランガリラを振っていたらどうだったろう。大質量の巨大な立方体がひたすら等速で、すー…っと滑っていくようなあの音楽、あそこからクレンペラーらしい頓狂な発声を無くし、アンサンブルが分離しすぎないよう念入りにブレンドすれば、この日のプレヴィンの曲作りに接近するんでは。

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実は、週日の疲れが出て、全曲の間で5、6回は眠りに落ちたのです。
それは音楽に慈しまれるような、たいへん心地よい眠りでした。

ふと眠りに落ちて、覚めてもまた同じ音型がふあふあしたタッチで続いている。音楽が倦怠と漸進の間の絶妙なバランスを保って、時間を統御しているんだな。
プレヴィンのこの日の音楽づくりを「とろい」と罵るのはとても容易いことだけど、トゥーランガリラ交響曲の本質は、こういう醒と睡のあわひ、停まった時間のなかの緩やかな愛にあるんじゃないかしら、ということを気づかされました。おしまい。
by Sonnenfleck | 2011-10-23 09:07 | 演奏会聴き語り

on the air:ブロムシュテット/N響 第1708回定期@サントリーホール(9/21)

らじる★で聴くのはやっぱりやめ。フツーにチューナーで聴いた。

山田美也子さん「今日は大変な一日になりました。どうぞお気をつけてお過ごしください。ゲストで音楽評論家の安田和信氏は、交通機関が乱れているため、まだご到着ではありません。今日は客席に空席が目立っています」とのこと。

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【2011年9月21日(木) 19:00~ サントリーホール】
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759《未完成》
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ノヴァーク版)
→ペーター・ミリング(ゲストコンマス)
⇒ヘルベルト・ブロムシュテット/NHK交響楽団
(2011年9月21日/NHK-FM生中継)

まず前半の《未完成》である。
先だって聴いたゲヴァントハウス管との同曲ライヴに比べて、ずっとずっとオケの音が柔らかいんだな。これは(失礼承知ですが)たいへん意外な結果。響きの骨格がギシギシと軋み、険呑な雰囲気さえ漂っていたゲヴァントハウスのオケに対して、輪郭はお洒落にくっきりしながらもあくまで柔軟な音で応えるN響の皆さま。状態が良いときのウィーン響かワルシャワ・フィルみたいな音がしてる。
うーむ。薫り高い。佳い演奏だと思う。

拍手の音量が、、小さい、、こりゃあお客が全然いないね…
休憩に入っても安田氏は到着せず。ブ氏のCD(K136)で時間が稼がれる。

さて後半。休憩の間に何人のお客さんが溜池山王に辿り着いたろうか。
今日のノヴァーク版はブ氏の判断で「シンバルとトライアングル除き」だそうな。
前回のN響定期でブロムシュテットの《新世界から》を聴き、そのあまりのブルックナーぶりに驚愕したのだが、それじゃあブルックナーは何になる?
ブルックナー・ダッシュターボ?
…ダッシュターボである。
現役の例を挙げれば、スクロヴァチェフスキのちょうど正反対に位置するというか、ブルックナーのスコアを全力で信頼してそこに身を委ねるような、そういう演奏。
風の噂ではこの前のアルミンク/新日フィル「仲直り第7」もずいぶん佳かったみたいだが、ブロムシュテットの第7も佳いな。ブ氏はこの交響曲にとってもシンプルな美を見ているんだろうな。こういうナチュラルシンプル気持ちいい系の演奏を聴くと、もう、懐疑の沼地に足を取られて転ぶのは嫌になっちゃうよね。

わあ。第2楽章きれいだなあ。すごくワーグナーから遠くて。
by Sonnenfleck | 2011-09-22 06:22 | on the air

ブロムシュテット/N響 第1706回定期@NHKホール(9/10)

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【2011年9月10日(土) 18:00~ NHKホール】
●シベリウス:Vn協奏曲ニ短調 op.47
→竹澤恭子(Vn)
●ドヴォルザーク:交響曲第9番ホ短調 op.95《新世界より》
⇒ヘルベルト・ブロムシュテット/NHK交響楽団


ドヴォルザークについて書きますと。
僕は、この曲がこんなにブルックナーのように聴こえたことはありません。
よく聴き慣れたこの交響曲で、新しい経験でした。

第1楽章は直線的な音楽で、またブロムシュテットもそれをことさら直線的に造形していたので「ブルックナー的」は表出しなかったが(むしろ「シューベルト的」だったかもしれない)第2楽章の途中から、あれ、なんかおかしいなあ変だなあという雲行き。音塊の束ね方、浮き上がる奥のリズム。

第3楽章になるとその空気はいっそう明確になる。
スケルツォのダイナミックレンジはきわめて幅広く取られるいっぽう、細密なグラデーションをあえて止め、音量のごつごつした移動を志向している。また、緊張の強いスケルツォに対置してふつう茶目っ気や長閑さを狙って造形されるトリオなど、逆にくそ真面目に音価を引き摺って頑迷な雰囲気を醸す。そうした手法により、経過句を経て第2トリオに至る道は完全にブルックナー状態である。

さて第4楽章は、ほとんど非人間的と言ってもいいリズム管理にぞくぞくさせられる。著名なメロディたちが颱風の雲のようにひゅうと流れていくその下で、ひたすら整った打点を取り続けるブロムシュテット。ブルックナーの理想はこういうリズム管理ではないか?
再現部、第2主題とともにホルンが高く歌った直後に置いてある「たぁらんた|たぁらんた|たぁらんた」というフレーズに予想外の強い粘りを込めてアッチェレランドさせる様子。それからコーダ、金管を中心としたトゥッティのコラール風の歩みを、全要素を全開にするんではなくきちんと束ねてリズムをくっきりさせるやり方。

ドヴォルザークはもっと野放図に歌えたほうが好いという声も(演奏者と聴衆の両方から)あがりそうだけど、理性によって管理されたアントニンがアントン化する様子をしかと見届けました。たいへん面白かった。
by Sonnenfleck | 2011-09-16 06:22 | 演奏会聴き語り