この1年で支店に起きた出来事といえば、大家がマスクという御仁に変わったことだ。次々と新しい施策が打ち出されるものだから、店子は海原の小舟のように翻弄されている。
支店を出して10年となるこの7月、大家は大規模改修のためついに店子の活動を著しく制限するに及び、店子が1日あたり見ることができる他の店子各位のツイート件数に上限を設けることとなったのである。 かくして支店は昨夜半から突如としてスタンドアローン状態に陥りました。ちなみに家賃を多めに払うとちょっと他と繋がせてもらえるらしいよ!いやらしい。 店子同士のライトな情報交換の機会が消失したら、もはやそれは支店を開いておく意味がない。本店集約の時が来たのかもしれない。 * * * ここ最近で時の流れを見ることになった出来事といえば、『レコード芸術』誌の休刊(廃刊)に尽きる。 レコ芸を最初に買ったのは、プーランク生誕100周年記念の特集が組まれた1999年4月号と思われます。メルカリやヤフオクで99年度のレコ芸を検索してみると、どの月の号も表紙や特集を完璧に記憶していて、当時どれほど熱心に読み込んでいたかがわかります。 僕はニフティのクラシック音楽サークルを熱心にやられていた世代より下で、したがってそれらを直接目にしたことはありません。以前もどこかで書いているだろうけれど、当時の僕にとってのインターネット上の情報源はBBS群「クラシック招き猫」が主体でありました。東北の県庁所在地住まいであれば、街の本屋で買うレコ芸をメインとし、そこへ招き猫の情報をサブ的に用いれば、なんとか街のCDショップで目星をつけて小遣いの投入先を知ることができたわけです。 初めて買うブラームスの交響曲全集をヴァントにするかチェリビダッケにするかひたすら悩んだカワイ楽器のCD売り場、新品の輸入盤を初めて見たタワーレコード、家に帰れば『FM fan』の番組表片手にMDにエアチェックしながらレコ芸を読み耽る。これが北東北の田舎の高校生の暗く充実した青春の一コマだったわけですよ。Alas! それから四半世紀後にレコ芸の命脈が尽きるのは不可避だったのかもしれないが、紙媒体の形を保てないことと、そこにある情報の確からしさを混同するような論調がこの度たくさん見られたのは、なんだかおかしーなーと思う。 とある古参論客がTwitterで書いておられたことに心から同意なので、無断で恐縮だが「RT」させてもらう。おお、そう言えば支店では無断RTが当たり前なのであったが。 《休刊によって経済学で言うところの「サーチコスト」にこれから多くのクラシック愛好家が苦しめられる…》 ここですよね。 (本当はこの下のツリーも読みたかったが障害のせいで読み込めない。) 実はレコ芸の休刊(廃刊)によって、僕たちは母艦を失って漂流する小舟になった。特集が大時代的だ!とか、些末なミスが!とかいう意見は、母艦がプロの編集者・プロの音楽評論家の手で誠実に運営されており、いつでも困ったことがあったら母艦を参照しにいっていいという甘い環境にいればこそ発しうるのであった。 かくして小舟は海原に投げ出され、これからは玉石混交の商的サイトとフリマアプリとサブスクとたくさんの小舟たちの間を右往左往するしかない。そのコストを思うだけで目の前が暗くなる。 小舟は相互扶助的な船団を組むだろうか?それとも母艦の乗組員だったプロの評論家の下に再度結集して新たな母艦を称揚するだろうか?いずれにせよそこに至る道のりはよくわからない。 #
by Sonnenfleck
| 2023-07-02 06:08
| 日記
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また2年くらい留守にしてしまった。
Twitter支店(今はこれが本店になってしまったけれど)が障害で見られないので、こっそり本店に戻ってきて雨戸を開けて風を通すことにしましょう。 まず、何度か書いたことだが、Twitterのいち投稿あたりの字数制限というのは実に厄介である。たくさん書きたいときには情報量を優先させざるを得ないため、文字を繰る楽しみみたいなものを犠牲にして新聞の小見出しのような情報の[顔]しかないお化け文が生まれ出る。情報には手足もあれば腹も尻もあるはずだがそれらを切り落とさないとハマらないのだから、宿命的に仕方がない。 しかし文句をさまざま思い浮かべながらも、あれは手頃気軽な媒体として「ビジネス文章以外も書きたいよぅ欲」を満たしてくれるのだから、結局あそこに集うてしまう。 これに加えて書くならば、私生活では、自分は元々コンサートゴアー系のクラオタだったような気がしつつ、音楽会通いと子育てと本業とブログ執筆は絶対に並立しないというのがこの5、6年しみじみと味わってきた事実です。 ただ、このブログを精力的に更新していた00年代後半のように週3日も4日も音楽会に出かけることは引き続き難しいものの、ごく最近はひと月に1、2回はコンサートホールに行かれないこともない様相を呈してきている。 曇天続きだった自分の内的世界にも若干の薄日が差してきたかなあ、と感じるところ。 #
by Sonnenfleck
| 2022-07-01 06:54
| 日記
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【2020年7月10日 愛知県芸術劇場コンサートホール】 ●ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調 op.68《田園》 ⇒小泉和裕/名古屋フィルハーモニー交響楽団 (2020年7月10日/カーテンコール) 名古屋を離れてちょうど2年が経った。 新しい「おらが街」には湖水のほとりに立派なオペラハウスがあるが、肝心の座付きオーケストラがいない。お隣の京都に出れば京響がいるけれど、おらの所有にできるほど京響をまだ聴き込んでいない。 楽団員さんの顔を見分けることができて、お名前も存じ上げていて、こんなところのアンサンブルが素晴らしくて、こんなところはやっぱりヒヤッとするな、という感覚で親しく接することができるオーケストラは、自分にとってはやはり名フィルなんだよね。おらが「旧」街のオケ。復活おめでとう。 + + + さて小泉カントク/名フィルのベートーヴェンを振り返ってみると、これまでに1、6、8番を現地で、7番をNHKFM「ブラボー!オーケストラ」でそれぞれ聴いてきました。いずれもダークな低弦をがっちりと配した重厚なフォルムでもってビタミンカラーの美しい主旋律をしっかり盛り立てる、ミッドセンチュリーモダンのベートーヴェンとでも言ったらいいかなと思います。 小泉カントクはその来歴(カラヤン国際指揮者コンクール第1位)から「和製カラヤン」みたいな感じで言われることがひじょうに多いですよね。 しかしこれまでの1、6、7、8番の演奏から、発音は折り目正しいながらも、HIPをものともせずに「一様にブリリアントな」音の塊をぐんぐん前に動かして推進力で束ねていくような印象を受けたため、カラヤンというよりどちらかと言えばセルやライナーのベートーヴェンが眼前に再現されるような感興を覚えていました。 ぐんぐん前に流れていく感じは、上述のように低弦ががっちりしている(=もし何もしなければトゥッティのなかで発音が遅れるように聞こえる低弦が、発音するときの子音をちゃんと明確にしてむしろトゥッティのリズムを形成している)という名フィルの特長と、小泉カントクのセンスとの幸福なマリアージュと考えています。これは前回同様。今回もしっかり流れていく。 流れていくが、流れの上に乗っている音そのものの愛らしさ、音の造形の円やかさは、とても前回の比ではない! 第1楽章こそ複数回、Vnにアンサンブルの乱れがあってヒヤッとしたのだけど、第2楽章になると立ち直ってくる。待ちに待った楽団員さんひとりひとりのアウトプット欲が、音符の品質を段違いに引き上げているのだろうなあ。唸らされました。第2楽章の始まりの合奏の美しさ、びっくりしましたよ。特に太田首席と佐藤次席のふたりのソロVcは《ラインの黄金》最初の原始霧を聴いているみたいで、ため息が出てしまう。いま配信元のアーカイヴで何度か繰り返し聴いても、クオリティの高さにびびる。美しいです。すごく。 Fl富久田氏と、まさかの客演・都響Ob広田氏の掛け合いも充実のひと言。 トゥッティが調子づくと少し歯止めが利かなくなって豪放磊落に鳴るのが名フィルの良いところであり、また愛すべきクセと考えていますが、お客という吸音体が減ったためか第3楽章・第4楽章はちょっと「鳴りすぎ」だったかなあ。愛知県芸のコンサートホールはおそろしくワンワン鳴るホールなので、現地で聴いていたら飽和した大音響だったのではないかと勝手に予想します。 しかしClボルショス氏、Hr安土氏など、いつもの面々の渾身のソロがそこへ差し込まれて、それもまた”楽しい集い”だったかもしれないね。 「この交響曲ってパルティータですのよ?ご存じ?」という体で、コレッリ風にパストラーレを柔らかく模倣するHIP演奏が牧場の向こうに吹き飛ばされるような、第5楽章の豪快な開放感。モダンオケのビューティが極まる。HIPもいいし非HIPもいい。どちらもいい。 + + + 最後に小泉カントクがスピーチ。飾らない人柄と、オケとの良好な関係を感じる。 事務局さん、年イチなんて贅沢は言いませんから、たまに関西公演してもらえませんかねえ。待っとるでね。
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by Sonnenfleck
| 2020-07-12 12:43
| on the air
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皆さんこんにちは。ほぼ1年半ぶりのエントリです。 長い文章を、字数制限がない文章を書くことをしていなかったので、このまま書き続けられるか心配ですが、やってみよう。 + + + 【2020年7月5日(土)16:00~ いずみホール】 ●川島素晴:尺八協奏曲《春の藤/夏の原/秋の道/冬の山》(2014) →藤原道山(尺八) ●ベルク/ファラデシュ・カラーエフ:Vn協奏曲《ある天使の思い出に》(1935/2009) →郷古廉(Vn) ●西村朗:12奏者と弦楽のための《ヴィカラーラ》(2020委嘱新作) ⇒飯森範親/いずみシンフォニエッタ大阪 「演奏会聴き語り」を書くときの自分なりの入力規則みたいなものも忘れてしまっていてひと苦労である。 さて、このひとつ前のエントリが同じいずみホールのポッペアだったのはまったくの偶然ですが、そのときはつゆほどにも思わなかった、新しいウイルスのパンデミックという新しい要素が私たちの生活に重くのしかかっています。 僕が最後に出かけた「フツーの」音楽会は2020年2月16日、滋賀の守山市民ホールで行なわれた日本センチュリー響首席Cl・持丸氏の小さなリサイタルであり、バルトークやブラームスを楽しんだその後、世界は変わってしまった。いままでのフツーはここで死に絶えたのだった。 6月、7月、世界は新しい形でゆっくりと復活し始めたものの、いずみホールのフツーも壊れてしまっていました。 ホールに入場するとき、非接触式体温計をあてがわれてOKをもらう。 チラシの束を配るひとはいない。 チケットを自分でもぎる。 レセプショニストさんたちはみんな白いマスクをし、フェイスガードも装着している。 手指をジェルで消毒してから自分でパンフレットを取る。 バーコーナーは暗く、営業されていない。 グッズコーナーは閉鎖。 ホワイエの人影はまばら。談笑するひとはいない。 みんな緊張した面持ち。 座席はひとつひとつ間隔を空けて座る。 これが、われわれ愛好家に課せられた暫定「新しいフツー」である。苦しい。 それでも、1曲目のチューニングが始まると、何かわけのわからない温かい感情がこみ上げてきて涙ぐんでしまった。 ひと足先にホールで合奏体と再開した方たちが、Twitterで口々に「チューニングで泣いた」と書いているのを見ていて「ホンマかいな」と疑っていた自分が恥ずかしい。ホンマに涙が出てくるのです。いまPCに向かってこの文章を書いていても、昨日の最初のAの音を思い出すとグッときます。あの音が僕にとっては大切なイメージだったということがよくわかるのであった。 + + + 1曲目は川島素晴氏の尺八協奏曲(2014年新作の再演とのこと)。藝大の同窓である藤原道山氏の名前を4楽章にばらして読み込んだ、ヴィヴァルディライクな愉しい作品でした。ヴィヴァルディがあれくらい鳥とか犬とか祭りを描写して許されているのなら、川島センセのこのどぎつい描写も全然オッケーというか、アーノンクール的には「これくらい激しく描写しないと現代人にはわからない」というところでしょう。 武満がずっと日本のオケの海外公演の定番になり続けるのは自分はどうかなと思う反面、外山ラプソディは、演奏する側の日本人がすでにあのどっこいしょ、どっこいしょというリズムに関する実感を失いつつあるので、この川島氏の尺八協奏曲は貴重な正統派ジャポニスムレパートリーとしてがんがん演奏されていったらいいと思います。 第1楽章「春の藤」は、藤の花を示すシャラシャラとした下行音型がずっと鳴り続ける美しい楽章。 第2楽章「夏の原」は、まず川島センセの解説を引用します。 最も長い二尺三寸管を用い、オーケストラの「原」を漂うように経巡る。「草いきれ」「生命の気配」「生命の囁き」「熱微風」という具合に、熱帯かが進行している日本の夏のイメージが4種提示され、更に夏の風物詩「蝉」「蛙」「雷」「花火」「風」が模写される。 ―いいですよね。愉しかった。 藤原氏は物理的に、ステージを歩きながら「経巡る」。そして飯森マエストロとは別に、手の合図でオケに指示を出していく。その合図を見ると解説にあるように4種類の音楽パーツがあるみたいで、オケはそのパーツを偶然性に従って組み合わせて奏でていく模様。飯森氏は指揮台から降りて文字どおりの蛙跳びの形態模写で合図を送ったりするが、飯森氏に従うグループもいれば藤原氏に従うグループもいて、ナチュラル、カオスが眼前に拡がる(というのがきっと狙いなのでしょう)。「花火」と「雷」は思いのほか「花火」と「雷」だったので笑ってしまった。最後はオケ全員が楽器を置いて、代わりに手持ちの風鈴をフォルテで鳴らす。 第3楽章「秋の道」は、僕にはものすごくメシアンへのオマージュのように聞こえまして、これまた楽しかったです。鳥の鳴き声のような特徴的な旋律がいくつも、重層的に、またそれぞれ若干の繰り返しを伴って出現する。 第4楽章「冬の山」は、それまでステージを歩いていた藤原氏がオルガン脇のバルコニーに立って静かで厳しいソロを聴かせ、最後も暗転して終わる、という演劇的な要素が強い楽章でした。ヴィヴァルディと一緒で、冬で終わる寂しさに趣きを感ずる。 + + + 2曲目はベルク/カラーエフ編曲版のVn協奏曲。 この演奏の前、川島センセ(と終盤に飯森マエストロが加わって)が解説プレトークしてくださったのですが、わたしたちのような愛好家にもすごくわかりやすくて、良い内容でした。 そのときに川島さんが舞台に置いてあったチェレスタを使って、この曲の音列とバッハのコラール主題を弾いていただきましてですね。音列とVnの開放弦との関係やバッハのコラール主題とどう関係しているかがよくわかったのですが、音楽に対する欲望がギンギンに高まっているなかで、チェレスタの静かな音色で、豪奢ないずみホールの席に座って、バッハのあのコラールが奏でられるのを聴くというのは、実は本番の演奏よりもずっとずっとエモーショナルな体験だったということをこっそり書いておきたい。 それと、僕は寡聞にしてこの曲にケルンテン地方の民謡が引用されているという話を知らなかったのですが、川島さんにそれを教えていただいたのと、飯森マエストロからの示唆がよい気づきになった。すなわちケルンテン地方にはヴェルター湖があり、ヴェルター湖畔にはマーラーの作曲小屋があり、グスタフ→アルマ→グロピウス→マノンというこの曲へのもう一本の道があるかもしれないわけです。これは面白い。まだまだ知らないことばかり。 ファラジュ・カラーエフ Фарадж Караев(※カラ・カラーエフの息子ではないですか!)の編曲は特別に変わったことをしているわけではなく、響きを巧みに梳き鋏で軽くしていく。特に「おおっ!」と思ったのは、第2楽章の冒頭の激しいパッセージが涼やか~な響きに変貌していたところです。原曲だとマッシヴな音が襲いかかってくるような部分だけど、室内オケ編曲により木管楽器の動きがよくわかるようになり、ソロとの落差があまり大きくなくなって、新しい佳さが発見されました。 郷古氏、いろんなメディアで聴いてきたけどライヴはお初のように思います。いいねえ巧いねえ。 ベルクの控えめなところとエロなところを往還して破綻せず、基本的にエッジが立ったハードな音(ロックミュージシャンみたいに!)がベースにありながら情緒的なふくらみが両立するところが、若い世代のトップクラスのヴァイオリニストという感じ。Twitterのフォロワーさんオススメのバルトークをぜひ聴いてみたい。 + + + そして3曲目は、音楽監督・西村朗氏の2020年新作《ヴィカラーラ》である。 少し長くなりますが、西村センセの解説を引用しましょう。
との由。さらに解説プレトークでは
という話も飛び出してきて、薬師如来をモチーフとした俄然タイムリーな作品になってしまったことが判明。うむー。 音楽としてはなじみ深い西村節、いつものように安定した密教版メシアンですが、中間部で弦楽合奏により神秘的に柔らかく描写される薬師如来と、その後に各ソロが加わったトゥッティで構築される十二神将のダンス、短いながらも壮絶な印象を残す。川島センセがYouTubeに上げておられるこの定演の解説動画によると、この部分は西村朗一流の「ケチャ構造」が奏功しているようでした。 【参考:川島氏によるケチャ講座】 聴いていて面白かった点をもうひとつ記録しておくと、薬師如来を柔らかく描写した弦楽合奏が、同じ音色の細かなトレモロ(※川島解説によると「蠕動運動」)で邪気・邪鬼を描写しているところなのよね。 プレトークの通り、曲の最後はこのトレモロがホラー映画の最後のように蠢いて終わる。「薬師如来が衆生の衣食を満足せしむ」の「衆生」にはウイルスという生きものも当然包含されていて、ウイルスの衣食の結実であるところの疾病も、概念として包み込まざるを得ないのかな、などと思うことしばし。これはマクニール『疫病と世界史』とも繋がっている。 + + + 西にいずみシンフォニエッタありと名高いこのアンサンブル、聴くのは今回が初めてであった。泉屋博古館の本館にいったりいずみシンフォニエッタを聴いたりすると、関西に生活の拠点が移ったことを実感するよね。住友すごいよ。 #
by Sonnenfleck
| 2020-07-05 12:55
| 演奏会聴き語り
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大学に受かった春、東京と神奈川の境目あたりにある街に出てきた僕は、入学式の人波に恐怖しながらたどり着いた先に数人のおねえさんたちを目にした。彼女たちは「バロックアンサンブル」と書いた手づくりの札を肩から提げていた。
かくして僕の「バロアン」時代が始まる。 (だいたい)1680年〜1760年くらいに書かれた小さめの編成の曲を定期演奏会にかけては1年をまったりと過ごすこのサークルで、ふるさとの訛りを隠すすべを身につけるのと並行して、僕は通奏低音見習いとしてこの狭い時代の音楽に親しんでいったのだ。 + + + 大学で東京に出る前から満遍なくいろんな時代の音楽を聴いてきたけれども、しかしこのころ獲得した「狭いバロック音楽」の呪いが、結果としてずいぶん自分を苦しめることになりました。 「狭いバロック音楽」に浸った学生時代の自分には、たいていのひとがそうであるのと同じように切って売るほど時間があった。ヘンデルらしい進行やテレマンらしい進行、ときどきはコレッリらしい進行を浴びるように聴いて、その狭い時代に完璧に適応する代償として、時代の少し前や少し後の「逸脱」を許容し味わう能力を僕は失った。 さてクラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)は、1642年に《ポッペアの戴冠》を生み出して世を去った作曲家です。 モンテヴェルディの音楽は、たとえばヘンデル(1685-1759)に深く親しんで一体化してしまった耳からすればきわめて異質で、心地よくない。この「心地よくなさ」というのが曲者で、音楽史的にいくら重要だと理解していても心は拒絶が先に立つ。卒業してサークルを追い出されてからも、モンテヴェルディやカヴァッリやシュッツと自分の心の間にある深い溝を感じながら、あっという間に15年以上の時が流れたのだったが…。 そうして2019年は、モンテヴェルディとの和解から始まる! + + + 【2019年1月19日(土)14:00〜 いずみホール】 ●モンテヴェルディ:《ポッペアの戴冠》 石橋栄実(フォルトゥーナ/ダミジェッラ) 鈴木美登里(ヴィルトゥ) 守谷由香(アモーレ) 望月哲也(ネローネ) 阿部雅子(ポッペア) 加納悦子(オッターヴィア) 藤木大地(オットーネ) 岩森美里(アルナルタ) 櫻田亮(ヌトリーチェ) 山口清子(ドゥルジッラ) 斉木健詞(セネカ) 小堀勇介(ルカーノ) 田中純(リクトール/護民官) 向野由美子(ヴァレット) 村松稔之(セネカの友人) 福島康晴(兵士/リベルト/執政官) 中嶋克彦(兵士/セネカの友人/執政官) 小笠原美敬(セネカの友人/護民官) ――― リコーダー:太田光子、江崎浩司 コルネット:上野訓子、笠原雅仁 ヴァイオリン:伊左治道生、渡邊慶子、宮崎容子、丸山韶 ヴィオラ:宮崎桃子 ヴィオローネ:西澤誠治 チェロ:懸田貴嗣、山本徹 チェンバロ/オルガン:渡邊孝 リュート、テオルボ:坂本龍右、金子浩 指揮・チェンバロ:渡邊順生 緑に覆われた巨大な孤峰に登る和解の道は、どうやらオペラ、ということだった。 この登山道に至るまで、狭いバロック音楽の、しかも器楽に慣れ親しんだ心を徐々に溶かしてくれていたのが、レオナルド・ヴィンチ(1690-1730)が生み出した奇跡のオペラ《アルタセルセ》なんですけど(この出会いに関してはまたいずれちゃんとブログに書いて残したい)、生理的な快感としての声の力を十分に味わうすべをこのオペラで身につけて、それがモンテヴェルディへのアプローチにつながったのは、まさしく縁というか運というか。 つまり、別に後期バロックの和声進行であろうがなかろうが、声は深い溝を越えてこちらに届く。何の難しいこともなく、甘い重唱のハルモニア・ムンディが脳みそを覆い尽くす。そんなシンプルな力が電撃的にモンテヴェルディへの道を開いたのだ。 少し話がずれるけど、たぶんこの先の音楽オタク人生において、いずれロッシーニやドニゼッティ、またはパレストリーナやビクトリアへの道が開かれると思う。ヴェルディやプッチーニにはワーグナーを経由しないとたどり着けないかもしれないけれど、とにかくそこにも行けそうなんだよ。かように声の力はすべての障害を取り払う。 + + + いずみホールに初めて出かけていって、この日は当日券で前から2列目の右寄りを買い求めた。小編成の古楽アンサンブルはなるべく実音に近いところで聴くのが自分の流儀だからなんですけど、この選択は予想もせず吉と出る。 ホールに入ると舞台前方に渡邊順生氏が弾きながら指揮するためのチェンバロが縦に置かれて、その周囲を小さいオケが取り囲んでいる。 演技のスペースはその後方、オルガン台へのアプローチを使ってとても上手に設営されていて、また、自分の席の真ん前に、オルガン台との高低差を演出する小舞台が設えてある。これは佳いね。演出は髙岸未朝氏。 ◆1.演出について 照明が暗転すると、この公演のために一度限り集められた超絶豪華な「オケ」が荘重なシンフォニアを奏でる。 やがて「アモーレ」(守谷由香氏)が戯けた身振りで舞台袖から出てきます。髙岸氏はこの後、ワキと道化と萌えキャラのキメラとしてアモーレを上手に使って、ものがたりを回していく。 神々の短い戯れが終わると、弱々しいコキュ・オットーネがふらつきながら入場。彼が懐かしく見上げるオルガン台の下の閨にはネローネとポッペアがいて、やがて後朝の別れを迎える。 ここでシュトラウスの音楽や、オクタヴィアンと元帥夫人を思い浮かべないわけにはゆかぬ!初代皇帝と同じ名前の小僧と第5代皇帝ネローネが同期するためには、ネローネが女声であればなおよかったんだけど、まあいいんだ。くどくどしい別れの台本に甘い音楽が纏わりつくのを陶然として聴いているうちに、この想念も消えていく。 やがてネローネはセネカと口喧嘩を始めるが、形成は見事に不利である。しこも愛するポッペアが邪魔立てするセネカを貶めるので、自尊心の鬼になったネローネによってセネカは自死に追い込まれます。 髙岸氏冴えてるなあと思ったのは、オルガン台の陰で手首を切ったセネカの腕から赤い血が滴る前で、ネローネとその部下ルカーノが男色に耽るシーンをしっかり描写したところねえ。ここはさっきの「女声ネローネ」と逆の「男声ネローネ」だからこそ強烈な印象を与えるのよ。視覚のインモラルが甘い音楽によっていやが上にも引き立つ。ところで、髙岸氏の見解ではネローネは受けである。 これとほぼ連続して、石女オッターヴィア(…捩れたオクタヴィアン!)の小姓・ヴァレット(ソプラノ)と侍女・ダミジェッラ(ソプラノ)がこの世の春のごとく絡むシーン。ここ、聴覚的には男声ネローネの男色シーンと鏡写しになるので、面白いくらい奥行きが出るんだなあ。視覚的にもルカーノ×ネローネと対比をつけて自由に舞台を走り回らせ、華々しいエロスで飾ってました。上手。 その後の筋書きはなんとも面白くないけれど、ドラマを維持するためにポッペアの乳母・アルナルタとオッターヴィアの乳母・ヌトリーチェが道化合戦を繰り広げる。ここでアモーレが最前面から前面に後退するのは少しもったいなかったが、乳母合戦にあんまり絡ませすぎても煩いし、バランスが難しいよね。。 敗残のオッターヴィアを流刑に処して、見よ、悪徳はどこまでも栄える。 この日の舞台ではネローネとポッペアのラストシーンはすごくシンプルなヘテロの絡みとして描かれていたけど、それはこのとき後ろで鳴っている音楽を踏まえれば当然だな、と納得。何しろ音楽がここでぶっとい浪漫を描写してるもんなあ。最後にアモーレに恍惚とした表情をさせたのもさらに好ましかった。 これはとにもかくにもエロスの成就だもんね。 ◆2.演奏実践について まずネローネの望月哲也氏は、男の脆さと虚飾を実に巧みに歌い込んでたと思われる。堂々とした体躯もそれを後押し。ポッペアの阿部雅子氏は天真爛漫7・邪悪3くらいの織り合わせで演じてまして、虚飾のないポッペアの実像という感じ。ただネローネに好かれただけで、このひと別にそんなに悪いことしてない。 オッターヴィアの加納悦子氏はさすがの貫禄で、絶望が服を着て歌っているような冷たい声質に背筋が寒い。 オットーネの藤木大地氏は、作中最もしょぼいこの男性をなよやかに描いて吉。藤木氏、最近よくメディアでお見かけするとおり叙情的な歌い口が味わい深く、次はヘンデルの世俗カンタータいかがっすかねえー。いずみホールよりもっと小さな箱でしんみり聴きたい。 セネカの斉木健詞氏も好かったなあ。強靭で滑らかなバスで完全にネローネに競り勝ち、これは自害でも仕方ない。 乳母コンビは前述のようにひたすら美味しい役どころですが、アルナルタの岩森美里氏は「怪演」のひとこと。夢に出そう。そしてヌトリーチェの櫻田亮氏は、いつも真面目にバッハを歌ってるひととは思えないコミカル演技ににっこりさせられました。 それから自分はやっぱり、「オケ」の魅力について書かずにはいられない。 ヴィオローネ:西澤誠治 チェロ:懸田貴嗣、山本徹 チェンバロ/オルガン:渡邊孝 リュート・テオルボ:坂本龍右、金子浩 指揮・チェンバロ:渡邊順生 という超豪華な通奏低音隊に、痺れるような快感を感じながら4時間を過ごす。これ以上の贅沢があるかなあ? 指揮というかプロデューサーを務めた渡邊順生氏は要所要所のリズムを引き締めながら、アンサンブルの主軸に渡邊孝氏をかっちり据えて、そのまま自由にやらせていた印象。10年前にヘンデルの《タメルラーノ》を聴いて以来、渡邊孝氏の鍵盤をやーーっと聴けましたよ。濃密なルバートも爽快な走句も自在。 そこへ懸田貴嗣氏、山本徹氏という古楽二大看板チェロ奏者が加わり、坂本龍右氏と金子浩氏の優しいつまびきが乗っかり、西澤誠治氏のヴィオローネが全部を受け止めて低く鳴る。繰り返しになって恐縮ですが、本当にこれは本当に耳福のきわみ。蠢く通奏低音隊、モンテヴェルディのようにキアロスクーロがきつい音楽ではさらに輝く。 + + + カーテンコールでポッペアが泣いてた。 悪徳なのに善い舞台だったんですよ、礒山先生。 おしまい。 #
by Sonnenfleck
| 2019-02-10 21:59
| 演奏会聴き語り
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