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晩秋本店虫干

Xという名前に変わってしばらく経った支店が今夜はダメである。
そんなときには本店に帰ってきて、何事もない顔をして窓を開け、風を通せばそれでよろしい。

2025年は当ブログ開設20周年である。そのためとは言わないまでも今年はすでに23公演に足を運ぶことができており、2014年以降の最大値を記録したように思います。かつてコンサートゴーイングがこのブログのメインテーマだったことを覚えているのはもう僕だけだと思いますが、全盛期には到底及ばずともあの頃のスピード感・ヒリヒリ感をまた取り戻したいものであることよ。切実に。

# by Sonnenfleck | 2025-11-18 22:12 | Comments(0)

支店を畳む日、そしてさらばレコ芸

この1年で支店に起きた出来事といえば、大家がマスクという御仁に変わったことだ。次々と新しい施策が打ち出されるものだから、店子は海原の小舟のように翻弄されている。

支店を出して10年となるこの7月、大家は大規模改修のためついに店子の活動を著しく制限するに及び、店子が1日あたり見ることができる他の店子各位のツイート件数に上限を設けることとなったのである。
かくして支店は昨夜半から突如としてスタンドアローン状態に陥りました。ちなみに家賃を多めに払うとちょっと他と繋がせてもらえるらしいよ!いやらしい。

店子同士のライトな情報交換の機会が消失したら、もはやそれは支店を開いておく意味がない。本店集約の時が来たのかもしれない。

* * *

ここ最近で時の流れを見ることになった出来事といえば、『レコード芸術』誌の休刊(廃刊)に尽きる。

レコ芸を最初に買ったのは、プーランク生誕100周年記念の特集が組まれた1999年4月号と思われます。メルカリやヤフオクで99年度のレコ芸を検索してみると、どの月の号も表紙や特集を完璧に記憶していて、当時どれほど熱心に読み込んでいたかがわかります。
僕はニフティのクラシック音楽サークルを熱心にやられていた世代より下で、したがってそれらを直接目にしたことはありません。以前もどこかで書いているだろうけれど、当時の僕にとってのインターネット上の情報源はBBS群「クラシック招き猫」が主体でありました。東北の県庁所在地住まいであれば、街の本屋で買うレコ芸をメインとし、そこへ招き猫の情報をサブ的に用いれば、なんとか街のCDショップで目星をつけて小遣いの投入先を知ることができたわけです。

初めて買うブラームスの交響曲全集をヴァントにするかチェリビダッケにするかひたすら悩んだカワイ楽器のCD売り場、新品の輸入盤を初めて見たタワーレコード、家に帰れば『FM fan』の番組表片手にMDにエアチェックしながらレコ芸を読み耽る。これが北東北の田舎の高校生の暗く充実した青春の一コマだったわけですよ。Alas!

それから四半世紀後にレコ芸の命脈が尽きるのは不可避だったのかもしれないが、紙媒体の形を保てないことと、そこにある情報の確からしさを混同するような論調がこの度たくさん見られたのは、なんだかおかしーなーと思う。
とある古参論客がTwitterで書いておられたことに心から同意なので、無断で恐縮だが「RT」させてもらう。おお、そう言えば支店では無断RTが当たり前なのであったが。

《休刊によって経済学で言うところの「サーチコスト」にこれから多くのクラシック愛好家が苦しめられる…》

ここですよね。
(本当はこの下のツリーも読みたかったが障害のせいで読み込めない。)
実はレコ芸の休刊(廃刊)によって、僕たちは母艦を失って漂流する小舟になった。特集が大時代的だ!とか、些末なミスが!とかいう意見は、母艦がプロの編集者・プロの音楽評論家の手で誠実に運営されており、いつでも困ったことがあったら母艦を参照しにいっていいという甘い環境にいればこそ発しうるのであった。
かくして小舟は海原に投げ出され、これからは玉石混交の商的サイトとフリマアプリとサブスクとたくさんの小舟たちの間を右往左往するしかない。そのコストを思うだけで目の前が暗くなる。

小舟は相互扶助的な船団を組むだろうか?それとも母艦の乗組員だったプロの評論家の下に再度結集して新たな母艦を称揚するだろうか?いずれにせよそこに至る道のりはよくわからない。

# by Sonnenfleck | 2023-07-02 06:08 | 日記 | Comments(0)

本店虫干し

また2年くらい留守にしてしまった。

Twitter支店(今はこれが本店になってしまったけれど)が障害で見られないので、こっそり本店に戻ってきて雨戸を開けて風を通すことにしましょう。

まず、何度か書いたことだが、Twitterのいち投稿あたりの字数制限というのは実に厄介である。たくさん書きたいときには情報量を優先させざるを得ないため、文字を繰る楽しみみたいなものを犠牲にして新聞の小見出しのような情報の[顔]しかないお化け文が生まれ出る。情報には手足もあれば腹も尻もあるはずだがそれらを切り落とさないとハマらないのだから、宿命的に仕方がない。

しかし文句をさまざま思い浮かべながらも、あれは手頃気軽な媒体として「ビジネス文章以外も書きたいよぅ欲」を満たしてくれるのだから、結局あそこに集うてしまう。

これに加えて書くならば、私生活では、自分は元々コンサートゴアー系のクラオタだったような気がしつつ、音楽会通いと子育てと本業とブログ執筆は絶対に並立しないというのがこの5、6年しみじみと味わってきた事実です。

ただ、このブログを精力的に更新していた00年代後半のように週3日も4日も音楽会に出かけることは引き続き難しいものの、ごく最近はひと月に1、2回はコンサートホールに行かれないこともない様相を呈してきている。
曇天続きだった自分の内的世界にも若干の薄日が差してきたかなあ、と感じるところ。

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# by Sonnenfleck | 2022-07-01 06:54 | 日記 | Comments(0)

on the air:小泉和裕/名フィル 第481回定期演奏会@愛知県芸術劇場

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【2020年7月10日 愛知県芸術劇場コンサートホール】
●ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調 op.68《田園》
⇒小泉和裕/名古屋フィルハーモニー交響楽団
(2020年7月10日/カーテンコール)

名古屋を離れてちょうど2年が経った。
新しい「おらが街」には湖水のほとりに立派なオペラハウスがあるが、肝心の座付きオーケストラがいない。お隣の京都に出れば京響がいるけれど、おらの所有にできるほど京響をまだ聴き込んでいない。
楽団員さんの顔を見分けることができて、お名前も存じ上げていて、こんなところのアンサンブルが素晴らしくて、こんなところはやっぱりヒヤッとするな、という感覚で親しく接することができるオーケストラは、自分にとってはやはり名フィルなんだよね。おらが「旧」街のオケ。復活おめでとう。

+ + +

さて小泉カントク/名フィルのベートーヴェンを振り返ってみると、これまでに1、6、8番を現地で、7番をNHKFM「ブラボー!オーケストラ」でそれぞれ聴いてきました。いずれもダークな低弦をがっちりと配した重厚なフォルムでもってビタミンカラーの美しい主旋律をしっかり盛り立てる、ミッドセンチュリーモダンのベートーヴェンとでも言ったらいいかなと思います。

小泉カントクはその来歴(カラヤン国際指揮者コンクール第1位)から「和製カラヤン」みたいな感じで言われることがひじょうに多いですよね。
しかしこれまでの1、6、7、8番の演奏から、発音は折り目正しいながらも、HIPをものともせずに「一様にブリリアントな」音の塊をぐんぐん前に動かして推進力で束ねていくような印象を受けたため、カラヤンというよりどちらかと言えばセルやライナーのベートーヴェンが眼前に再現されるような感興を覚えていました。

今回はどうだったか?
ぐんぐん前に流れていく感じは、上述のように低弦ががっちりしている(=もし何もしなければトゥッティのなかで発音が遅れるように聞こえる低弦が、発音するときの子音をちゃんと明確にしてむしろトゥッティのリズムを形成している)という名フィルの特長と、小泉カントクのセンスとの幸福なマリアージュと考えています。これは前回同様。今回もしっかり流れていく。

流れていくが、流れの上に乗っている音そのものの愛らしさ、音の造形の円やかさは、とても前回の比ではない!
第1楽章こそ複数回、Vnにアンサンブルの乱れがあってヒヤッとしたのだけど、第2楽章になると立ち直ってくる。待ちに待った楽団員さんひとりひとりのアウトプット欲が、音符の品質を段違いに引き上げているのだろうなあ。唸らされました。第2楽章の始まりの合奏の美しさ、びっくりしましたよ。特に太田首席と佐藤次席のふたりのソロVcは《ラインの黄金》最初の原始霧を聴いているみたいで、ため息が出てしまう。いま配信元のアーカイヴで何度か繰り返し聴いても、クオリティの高さにびびる。美しいです。すごく。
Fl富久田氏と、まさかの客演・都響Ob広田氏の掛け合いも充実のひと言。

トゥッティが調子づくと少し歯止めが利かなくなって豪放磊落に鳴るのが名フィルの良いところであり、また愛すべきクセと考えていますが、お客という吸音体が減ったためか第3楽章・第4楽章はちょっと「鳴りすぎ」だったかなあ。愛知県芸のコンサートホールはおそろしくワンワン鳴るホールなので、現地で聴いていたら飽和した大音響だったのではないかと勝手に予想します。
しかしClボルショス氏、Hr安土氏など、いつもの面々の渾身のソロがそこへ差し込まれて、それもまた”楽しい集い”だったかもしれないね。

「この交響曲ってパルティータですのよ?ご存じ?」という体で、コレッリ風にパストラーレを柔らかく模倣するHIP演奏が牧場の向こうに吹き飛ばされるような、第5楽章の豪快な開放感モダンオケのビューティが極まる。HIPもいいし非HIPもいい。どちらもいい。

+ + +

最後に小泉カントクがスピーチ。飾らない人柄と、オケとの良好な関係を感じる。
事務局さん、年イチなんて贅沢は言いませんから、たまに関西公演してもらえませんかねえ。待っとるでね。

# by Sonnenfleck | 2020-07-12 12:43 | on the air | Comments(0)

飯森範親/いずみシンフォニエッタ大阪 第44回定期演奏会「天使と神々の幻想」@いずみホール(7/4)

皆さんこんにちは。ほぼ1年半ぶりのエントリです。
長い文章を、字数制限がない文章を書くことをしていなかったので、このまま書き続けられるか心配ですが、やってみよう。

+ + +

飯森範親/いずみシンフォニエッタ大阪 第44回定期演奏会「天使と神々の幻想」@いずみホール(7/4)_c0060659_09360654.jpg

【2020年7月5日(土)16:00~ いずみホール】
●川島素晴:尺八協奏曲《春の藤/夏の原/秋の道/冬の山》(2014)
→藤原道山(尺八)
●ベルク/ファラデシュ・カラーエフ:Vn協奏曲《ある天使の思い出に》(1935/2009)
→郷古廉(Vn)
●西村朗:12奏者と弦楽のための《ヴィカラーラ》(2020委嘱新作)
⇒飯森範親/いずみシンフォニエッタ大阪

「演奏会聴き語り」を書くときの自分なりの入力規則みたいなものも忘れてしまっていてひと苦労である。

さて、このひとつ前のエントリが同じいずみホールのポッペアだったのはまったくの偶然ですが、そのときはつゆほどにも思わなかった、新しいウイルスのパンデミックという新しい要素が私たちの生活に重くのしかかっています。
僕が最後に出かけた「フツーの」音楽会は2020年2月16日、滋賀の守山市民ホールで行なわれた日本センチュリー響首席Cl・持丸氏の小さなリサイタルであり、バルトークやブラームスを楽しんだその後、世界は変わってしまった。いままでのフツーはここで死に絶えたのだった。

6月、7月、世界は新しい形でゆっくりと復活し始めたものの、いずみホールのフツーも壊れてしまっていました。
ホールに入場するとき、非接触式体温計をあてがわれてOKをもらう。
チラシの束を配るひとはいない。
チケットを自分でもぎる。
レセプショニストさんたちはみんな白いマスクをし、フェイスガードも装着している。
手指をジェルで消毒してから自分でパンフレットを取る。
バーコーナーは暗く、営業されていない。
グッズコーナーは閉鎖。
ホワイエの人影はまばら。談笑するひとはいない。
みんな緊張した面持ち。
座席はひとつひとつ間隔を空けて座る。

これが、われわれ愛好家に課せられた暫定「新しいフツー」である。苦しい。

それでも、1曲目のチューニングが始まると、何かわけのわからない温かい感情がこみ上げてきて涙ぐんでしまった。

ひと足先にホールで合奏体と再開した方たちが、Twitterで口々に「チューニングで泣いた」と書いているのを見ていて「ホンマかいな」と疑っていた自分が恥ずかしい。ホンマに涙が出てくるのです。いまPCに向かってこの文章を書いていても、昨日の最初のAの音を思い出すとグッときます。あの音が僕にとっては大切なイメージだったということがよくわかるのであった。

+ + +

1曲目は川島素晴氏の尺八協奏曲(2014年新作の再演とのこと)。藝大の同窓である藤原道山氏の名前を4楽章にばらして読み込んだ、ヴィヴァルディライクな愉しい作品でした。ヴィヴァルディがあれくらい鳥とか犬とか祭りを描写して許されているのなら、川島センセのこのどぎつい描写も全然オッケーというか、アーノンクール的には「これくらい激しく描写しないと現代人にはわからない」というところでしょう。

武満がずっと日本のオケの海外公演の定番になり続けるのは自分はどうかなと思う反面、外山ラプソディは、演奏する側の日本人がすでにあのどっこいしょ、どっこいしょというリズムに関する実感を失いつつあるので、この川島氏の尺八協奏曲は貴重な正統派ジャポニスムレパートリーとしてがんがん演奏されていったらいいと思います。

第1楽章「春の藤」は、藤の花を示すシャラシャラとした下行音型がずっと鳴り続ける美しい楽章。

第2楽章「夏の原」は、まず川島センセの解説を引用します。
最も長い二尺三寸管を用い、オーケストラの「原」を漂うように経巡る。「草いきれ」「生命の気配」「生命の囁き」「熱微風」という具合に、熱帯かが進行している日本の夏のイメージが4種提示され、更に夏の風物詩「蝉」「蛙」「雷」「花火」「風」が模写される。
―いいですよね。愉しかった。
藤原氏は物理的に、ステージを歩きながら「経巡る」。そして飯森マエストロとは別に、手の合図でオケに指示を出していく。その合図を見ると解説にあるように4種類の音楽パーツがあるみたいで、オケはそのパーツを偶然性に従って組み合わせて奏でていく模様飯森氏は指揮台から降りて文字どおりの蛙跳びの形態模写で合図を送ったりするが、飯森氏に従うグループもいれば藤原氏に従うグループもいて、ナチュラル、カオスが眼前に拡がる(というのがきっと狙いなのでしょう)。「花火」と「雷」は思いのほか「花火」と「雷」だったので笑ってしまった。最後はオケ全員が楽器を置いて、代わりに手持ちの風鈴をフォルテで鳴らす。

第3楽章「秋の道」は、僕にはものすごくメシアンへのオマージュのように聞こえまして、これまた楽しかったです。鳥の鳴き声のような特徴的な旋律がいくつも、重層的に、またそれぞれ若干の繰り返しを伴って出現する。

第4楽章「冬の山」は、それまでステージを歩いていた藤原氏がオルガン脇のバルコニーに立って静かで厳しいソロを聴かせ、最後も暗転して終わる、という演劇的な要素が強い楽章でした。ヴィヴァルディと一緒で、冬で終わる寂しさに趣きを感ずる。

+ + +

2曲目はベルク/カラーエフ編曲版のVn協奏曲。
この演奏の前、川島センセ(と終盤に飯森マエストロが加わって)が解説プレトークしてくださったのですが、わたしたちのような愛好家にもすごくわかりやすくて、良い内容でした。
そのときに川島さんが舞台に置いてあったチェレスタを使って、この曲の音列とバッハのコラール主題を弾いていただきましてですね。音列とVnの開放弦との関係やバッハのコラール主題とどう関係しているかがよくわかったのですが、音楽に対する欲望がギンギンに高まっているなかで、チェレスタの静かな音色で、豪奢ないずみホールの席に座って、バッハのあのコラールが奏でられるのを聴くというのは、実は本番の演奏よりもずっとずっとエモーショナルな体験だったということをこっそり書いておきたい。

それと、僕は寡聞にしてこの曲にケルンテン地方の民謡が引用されているという話を知らなかったのですが、川島さんにそれを教えていただいたのと、飯森マエストロからの示唆がよい気づきになった。すなわちケルンテン地方にはヴェルター湖があり、ヴェルター湖畔にはマーラーの作曲小屋があり、グスタフ→アルマ→グロピウス→マノンというこの曲へのもう一本の道があるかもしれないわけです。これは面白い。まだまだ知らないことばかり。

ファラジュ・カラーエフ Фарадж Караев(※カラ・カラーエフの息子ではないですか!)の編曲は特別に変わったことをしているわけではなく、響きを巧みに梳き鋏で軽くしていく。特に「おおっ!」と思ったのは、第2楽章の冒頭の激しいパッセージが涼やか~な響きに変貌していたところです。原曲だとマッシヴな音が襲いかかってくるような部分だけど、室内オケ編曲により木管楽器の動きがよくわかるようになり、ソロとの落差があまり大きくなくなって、新しい佳さが発見されました。

郷古氏、いろんなメディアで聴いてきたけどライヴはお初のように思います。いいねえ巧いねえ。
ベルクの控えめなところとエロなところを往還して破綻せず、基本的にエッジが立ったハードな音(ロックミュージシャンみたいに!)がベースにありながら情緒的なふくらみが両立するところが、若い世代のトップクラスのヴァイオリニストという感じ。Twitterのフォロワーさんオススメのバルトークをぜひ聴いてみたい。

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そして3曲目は、音楽監督・西村朗氏の2020年新作《ヴィカラーラ》である。
少し長くなりますが、西村センセの解説を引用しましょう。
この作品は、12名の奏者、すなわちフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバ、2名の打楽器奏者、ピアノ(チェレスタ)、ハープと弦楽合奏のために作曲されている。12名の奏者にはそれぞれに個性的な働きをする独奏的な箇所が設定されている。したがって全体としては一種の”管弦楽のための協奏曲”である。
奈良の新薬師寺(8世紀半ばに建立)には、有名な国宝「十二神将像」がある。薄暗い堂内中央の大きな円形台座の中央にふくよかな薬師如来(本尊・国宝)が座し、それを外敵から保護する等身大の十二神将が、円周上で外側を睨み威嚇するようなポーズで立ち並んでいる。見るものを釘づけにする超現実的で凄絶な光景である。十数年前、偶然にも人の気配がなく、ただ一人初めてこの堂内に立ち入った時、まさに心身は震え、凍りついた時間の中での幻聴を体験。何かおそろしいほどに激しく骨身に響くものを感じた。
との由。さらに解説プレトークでは
・作曲はコロナ前から始めていたが、書いていくうちにどんどんコロナとの戦いの音楽になっていった
・薬師如来と十二神将は邪気・邪鬼を踏みつけるが、ラストシーンは邪気・邪鬼を根絶しきれない様子も描いた
という話も飛び出してきて、薬師如来をモチーフとした俄然タイムリーな作品になってしまったことが判明。うむー。
音楽としてはなじみ深い西村節、いつものように安定した密教版メシアンですが、中間部で弦楽合奏により神秘的に柔らかく描写される薬師如来と、その後に各ソロが加わったトゥッティで構築される十二神将のダンス、短いながらも壮絶な印象を残す。川島センセがYouTubeに上げておられるこの定演の解説動画によると、この部分は西村朗一流の「ケチャ構造」が奏功しているようでした。

【参考:川島氏によるケチャ講座】



聴いていて面白かった点をもうひとつ記録しておくと、薬師如来を柔らかく描写した弦楽合奏が、同じ音色の細かなトレモロ(※川島解説によると「蠕動運動」)で邪気・邪鬼を描写しているところなのよね。

プレトークの通り、曲の最後はこのトレモロがホラー映画の最後のように蠢いて終わる。「薬師如来が衆生の衣食を満足せしむ」の「衆生」にはウイルスという生きものも当然包含されていて、ウイルスの衣食の結実であるところの疾病も、概念として包み込まざるを得ないのかな、などと思うことしばし。これはマクニール『疫病と世界史』とも繋がっている。


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西にいずみシンフォニエッタありと名高いこのアンサンブル、聴くのは今回が初めてであった。泉屋博古館の本館にいったりいずみシンフォニエッタを聴いたりすると、関西に生活の拠点が移ったことを実感するよね。住友すごいよ。

# by Sonnenfleck | 2020-07-05 12:55 | 演奏会聴き語り | Comments(0)