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学生のころの話と、いずみホール古楽最前線!- 2018|躍動するバロックVol.5《ポッペアの戴冠》(1/19)

大学に受かった春、東京と神奈川の境目あたりにある街に出てきた僕は、入学式の人波に恐怖しながらたどり着いた先に数人のおねえさんたちを目にした。彼女たちは「バロックアンサンブル」と書いた手づくりの札を肩から提げていた。
かくして僕の「バロアン」時代が始まる。
(だいたい)1680年〜1760年くらいに書かれた小さめの編成の曲を定期演奏会にかけては1年をまったりと過ごすこのサークルで、ふるさとの訛りを隠すすべを身につけるのと並行して、僕は通奏低音見習いとしてこの狭い時代の音楽に親しんでいったのだ。

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大学で東京に出る前から満遍なくいろんな時代の音楽を聴いてきたけれども、しかしこのころ獲得した「狭いバロック音楽」の呪いが、結果としてずいぶん自分を苦しめることになりました。
「狭いバロック音楽」に浸った学生時代の自分には、たいていのひとがそうであるのと同じように切って売るほど時間があった。ヘンデルらしい進行やテレマンらしい進行、ときどきはコレッリらしい進行を浴びるように聴いて、その狭い時代に完璧に適応する代償として、時代の少し前や少し後の「逸脱」を許容し味わう能力を僕は失った。

さてクラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)は、1642年に《ポッペアの戴冠》を生み出して世を去った作曲家です。
モンテヴェルディの音楽は、たとえばヘンデル(1685-1759)に深く親しんで一体化してしまった耳からすればきわめて異質で、心地よくない。この「心地よくなさ」というのが曲者で、音楽史的にいくら重要だと理解していても心は拒絶が先に立つ。卒業してサークルを追い出されてからも、モンテヴェルディやカヴァッリやシュッツと自分の心の間にある深い溝を感じながら、あっという間に15年以上の時が流れたのだったが…。

そうして2019年は、モンテヴェルディとの和解から始まる!

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【2019年1月19日(土)14:00〜 いずみホール】
●モンテヴェルディ:《ポッペアの戴冠》
石橋栄実(フォルトゥーナ/ダミジェッラ)
鈴木美登里(ヴィルトゥ)
守谷由香(アモーレ)
望月哲也(ネローネ)
阿部雅子(ポッペア)
加納悦子(オッターヴィア)
藤木大地(オットーネ)
岩森美里(アルナルタ)
櫻田亮(ヌトリーチェ)
山口清子(ドゥルジッラ)
斉木健詞(セネカ)
小堀勇介(ルカーノ)
田中純(リクトール/護民官)
向野由美子(ヴァレット)
村松稔之(セネカの友人)
福島康晴(兵士/リベルト/執政官)
中嶋克彦(兵士/セネカの友人/執政官)
小笠原美敬(セネカの友人/護民官)
―――
リコーダー:太田光子、江崎浩司
コルネット:上野訓子、笠原雅仁
ヴァイオリン:伊左治道生、渡邊慶子、宮崎容子、丸山韶
ヴィオラ:宮崎桃子
ヴィオローネ:西澤誠治
チェロ:懸田貴嗣、山本徹
チェンバロ/オルガン:渡邊孝
リュート、テオルボ:坂本龍右、金子浩

指揮・チェンバロ:渡邊順生


緑に覆われた巨大な孤峰に登る和解の道は、どうやらオペラ、ということだった。
この登山道に至るまで、狭いバロック音楽の、しかも器楽に慣れ親しんだ心を徐々に溶かしてくれていたのが、レオナルド・ヴィンチ(1690-1730)が生み出した奇跡のオペラ《アルタセルセ》なんですけど(この出会いに関してはまたいずれちゃんとブログに書いて残したい)、生理的な快感としての声の力を十分に味わうすべをこのオペラで身につけて、それがモンテヴェルディへのアプローチにつながったのは、まさしく縁というか運というか。

つまり、別に後期バロックの和声進行であろうがなかろうが、声は深い溝を越えてこちらに届く。何の難しいこともなく、甘い重唱のハルモニア・ムンディが脳みそを覆い尽くす。そんなシンプルな力が電撃的にモンテヴェルディへの道を開いたのだ。
少し話がずれるけど、たぶんこの先の音楽オタク人生において、いずれロッシーニやドニゼッティ、またはパレストリーナやビクトリアへの道が開かれると思う。ヴェルディやプッチーニにはワーグナーを経由しないとたどり着けないかもしれないけれど、とにかくそこにも行けそうなんだよ。かように声の力はすべての障害を取り払う。

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いずみホールに初めて出かけていって、この日は当日券で前から2列目の右寄りを買い求めた。小編成の古楽アンサンブルはなるべく実音に近いところで聴くのが自分の流儀だからなんですけど、この選択は予想もせず吉と出る。

ホールに入ると舞台前方に渡邊順生氏が弾きながら指揮するためのチェンバロが縦に置かれて、その周囲を小さいオケが取り囲んでいる。
演技のスペースはその後方、オルガン台へのアプローチを使ってとても上手に設営されていて、また、自分の席の真ん前に、オルガン台との高低差を演出する小舞台が設えてある。これは佳いね。演出は髙岸未朝氏。

◆1.演出について
照明が暗転すると、この公演のために一度限り集められた超絶豪華な「オケ」が荘重なシンフォニアを奏でる。
やがて「アモーレ」(守谷由香氏)が戯けた身振りで舞台袖から出てきます。髙岸氏はこの後、ワキと道化と萌えキャラのキメラとしてアモーレを上手に使って、ものがたりを回していく。

神々の短い戯れが終わると、弱々しいコキュ・オットーネがふらつきながら入場。彼が懐かしく見上げるオルガン台の下の閨にはネローネとポッペアがいて、やがて後朝の別れを迎える。
ここでシュトラウスの音楽や、オクタヴィアンと元帥夫人を思い浮かべないわけにはゆかぬ!初代皇帝と同じ名前の小僧と第5代皇帝ネローネが同期するためには、ネローネが女声であればなおよかったんだけど、まあいいんだ。くどくどしい別れの台本に甘い音楽が纏わりつくのを陶然として聴いているうちに、この想念も消えていく。

やがてネローネはセネカと口喧嘩を始めるが、形成は見事に不利である。しこも愛するポッペアが邪魔立てするセネカを貶めるので、自尊心の鬼になったネローネによってセネカは自死に追い込まれます。
髙岸氏冴えてるなあと思ったのは、オルガン台の陰で手首を切ったセネカの腕から赤い血が滴る前で、ネローネとその部下ルカーノが男色に耽るシーンをしっかり描写したところねえ。ここはさっきの「女声ネローネ」と逆の「男声ネローネ」だからこそ強烈な印象を与えるのよ。視覚のインモラルが甘い音楽によっていやが上にも引き立つ。ところで、髙岸氏の見解ではネローネは受けである。

これとほぼ連続して、石女オッターヴィア(…捩れたオクタヴィアン!)の小姓・ヴァレット(ソプラノ)と侍女・ダミジェッラ(ソプラノ)がこの世の春のごとく絡むシーン。ここ、聴覚的には男声ネローネの男色シーンと鏡写しになるので、面白いくらい奥行きが出るんだなあ。視覚的にもルカーノ×ネローネと対比をつけて自由に舞台を走り回らせ、華々しいエロスで飾ってました。上手。

その後の筋書きはなんとも面白くないけれど、ドラマを維持するためにポッペアの乳母・アルナルタとオッターヴィアの乳母・ヌトリーチェが道化合戦を繰り広げる。ここでアモーレが最前面から前面に後退するのは少しもったいなかったが、乳母合戦にあんまり絡ませすぎても煩いし、バランスが難しいよね。。

敗残のオッターヴィアを流刑に処して、見よ、悪徳はどこまでも栄える。
この日の舞台ではネローネとポッペアのラストシーンはすごくシンプルなヘテロの絡みとして描かれていたけど、それはこのとき後ろで鳴っている音楽を踏まえれば当然だな、と納得。何しろ音楽がここでぶっとい浪漫を描写してるもんなあ。最後にアモーレに恍惚とした表情をさせたのもさらに好ましかった。
これはとにもかくにもエロスの成就だもんね。

◆2.演奏実践について
まずネローネの望月哲也氏は、男の脆さと虚飾を実に巧みに歌い込んでたと思われる。堂々とした体躯もそれを後押し。ポッペアの阿部雅子氏は天真爛漫7・邪悪3くらいの織り合わせで演じてまして、虚飾のないポッペアの実像という感じ。ただネローネに好かれただけで、このひと別にそんなに悪いことしてない。

オッターヴィアの加納悦子氏はさすがの貫禄で、絶望が服を着て歌っているような冷たい声質に背筋が寒い。
オットーネの藤木大地氏は、作中最もしょぼいこの男性をなよやかに描いて吉。藤木氏、最近よくメディアでお見かけするとおり叙情的な歌い口が味わい深く、次はヘンデルの世俗カンタータいかがっすかねえー。いずみホールよりもっと小さな箱でしんみり聴きたい。
セネカの斉木健詞氏も好かったなあ。強靭で滑らかなバスで完全にネローネに競り勝ち、これは自害でも仕方ない。

乳母コンビは前述のようにひたすら美味しい役どころですが、アルナルタの岩森美里氏は「怪演」のひとこと。夢に出そう。そしてヌトリーチェの櫻田亮氏は、いつも真面目にバッハを歌ってるひととは思えないコミカル演技ににっこりさせられました。

それから自分はやっぱり、「オケ」の魅力について書かずにはいられない。

ヴィオローネ:西澤誠治
チェロ:懸田貴嗣、山本徹
チェンバロ/オルガン:渡邊孝
リュート・テオルボ:坂本龍右、金子浩
指揮・チェンバロ:渡邊順生

という超豪華な通奏低音隊に、痺れるような快感を感じながら4時間を過ごす。これ以上の贅沢があるかなあ?
指揮というかプロデューサーを務めた渡邊順生氏は要所要所のリズムを引き締めながら、アンサンブルの主軸に渡邊孝氏をかっちり据えて、そのまま自由にやらせていた印象。10年前にヘンデルの《タメルラーノ》を聴いて以来、渡邊孝氏の鍵盤をやーーっと聴けましたよ。濃密なルバートも爽快な走句も自在。

そこへ懸田貴嗣氏、山本徹氏という古楽二大看板チェロ奏者が加わり、坂本龍右氏と金子浩氏の優しいつまびきが乗っかり、西澤誠治氏のヴィオローネが全部を受け止めて低く鳴る。繰り返しになって恐縮ですが、本当にこれは本当に耳福のきわみ。蠢く通奏低音隊、モンテヴェルディのようにキアロスクーロがきつい音楽ではさらに輝く

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カーテンコールでポッペアが泣いてた。
悪徳なのに善い舞台だったんですよ、礒山先生。
おしまい。

# by Sonnenfleck | 2019-02-10 21:59 | 演奏会聴き語り

フィラデルフィアに雪が降る。

皆さん、この荒れた庭にまだ来ていただけている皆さん。あけましておめでとうございます。園丁はなんとか生きています。いまではTwitterの箱庭に引っ越して、毎日ちまちまと小さな鉢植えを並べて、元気に暮らしています。
最後にここの庭木を刈り込んだのは2年半以上前のことですが、今日、箱庭が狭いな、周りのひとたちが速く歩きすぎているな、と感じて、久しぶりに鍵を開けに戻ってきました。鍵の開け方も鋏の場所も忘れかけていたよ。

* * *
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フィラデルフィア管弦楽団公式サイトより。

【WINTERSTÜRME ! The Wagner Winter Storm Concert】
●ワーグナー:楽劇《タンホイザー》第2幕~
 ○〈崇高な殿堂よ〉
 ○〈おお、公女様!〉
 ○大行進曲
●ワーグナー:楽劇《ワルキューレ》第1幕
→デボラ・ヴォイト Deborah Voigt (Elisabeth/Sieglinde)
 ハイッキ・シウコラ Heikki Siukola (Tnnhauser/Siegmund)
 ルネ・パーペ Rene Pape (Landgraf/Hunding)
 ブライアン・フィップス? Brian Phipps? (Wolfram von Eschenbach)
⇒ヴォルフガング・サヴァリッシュ (Pf)

今日、さる方のご厚意で、サヴァリッシュ/フィラデルフィア管の1994年2月の "UNUSUAL concert" を聴かせてもらいました。
この日、フィラデルフィアは記録的な猛吹雪に見舞われ、オケメンバーは出勤できず、定期演奏会の開催が危ぶまれたそうです。しかし音楽監督のサヴァリッシュは近くのホテルに滞在していた数人の歌手と、急ごしらえの合唱団を呼び集め、なんと自らすべてピアノ伴奏でワーグナーをやるということを思いつき、実行しました(フィラデルフィア管のサヴァリッシュ追悼記事にもこのときの成功が書かれている)。

この晩、演奏されたのはタンホイザー第2幕の抜粋と、ワルキューレ第1幕。

サヴァリッシュはどうやらヴォーカルスコアではなくて、フルスコアからその場で音を拾っているようです(後でわかりますが、いくつかの楽器はピアノに置き換えにくいので少しだけカットする、とスピーチしてます)。もちろん僕はこれらの作品のピアノ伴奏用スコアを知っているわけではないけれど、分厚い和音とライトモティーフのさりげない/または非常に烈しい強調、なにより「ヴォーカルがない」部分のピアノパートの巨大な響きが、サヴァリッシュがその場で即興的に音を作っていることを物語っていると思います。
ここで聴かれる「ピアノ≒オーケストラ」のテクスチュアはなかなか文章に表現しきれないのですが、まるで指揮者の頭のなかをそのまま聴くような稀有の体験であるのは間違いない。ワルキューレの第1幕前奏曲の黒々とした嵐をサヴァリッシュはこういう和音の集合で考えている、「嵐の動機」の音型を引っ張りながら、上の声部をこう認識している、また〈君こそは春〉をこういう音の織物として捉えている、というのが如実にわかります。「ヴェルズングの愛の動機」の慈しむような演奏実践!彼が何十年もドイツのオペラハウスのカペルマイスターとしてやってきた蓄積と、ピアニストとしての高い技倆がまるでこの一晩に結晶している。

ヴォイトとパーペはこの状況でも超人的な安定感があって笑えてきます。シウコラというテノールは存じ上げないですが、甘い声でちょっと危ない雰囲気のあるジークムント。素敵ね。

さらに、聞き物なのは演奏実践だけではなく、ワルキューレを始める前の4分半にわたるサヴァリッシュの解説。わざとドイツ語を使ってくすぐってみたり、皆さんもジークムントとおんなじように猛烈な嵐に巻き込まれてますな…、とか言って笑わせてみたり、わかりやすい英語で機知に富んだスピーチをなさる。そして〈君こそは春〉のメロディはワーグナーが書いた最も素晴らしい旋律のひとつだよ、と。

大オーケストラのダイナミクスで轟々と、また甘く、また精妙にピアノがものがたりを紡いでいく。双子が駆けだしていく幕切れ、たくさんの楽器が鳴り響いて、彼の指揮したバイエルン国立歌劇場の幻覚が見えるようだぞよ。

大トラブルに巻き込まれて定期演奏会が開催できない夜に、いったい何人の指揮者がこんな離れ業をやってのけるだろうか?地味でつまらない職人肌?田舎の堅実な校長先生?なんという無知蒙昧!バイロイトの天才サヴァリッシュ!
ちょうどここ1年くらい、サヴァリッシュの「やばさ」をいろいろな録音から感じていたところではあったんだけれど、この特殊なライヴ録音を聴いてわたしは完全に惚れました。遺されたマエストロの録音をしっかり聴いていかねばならぬ。


# by Sonnenfleck | 2019-01-13 22:18 | パンケーキ(19)

造園11周年/錠を開けよう、窓を開けよう。

前回更新は2015年9月だったから、9ヶ月も放っておいてしまった。
放っておいても残っている秘密の花園が、しかしやっぱり自分には必要なんである。毎日丹念に手入れしていたころを懐かしみ、そのまま錠前を掛けたままにするのは実に甘美な行為だが、それではクレイヴン伯父さんと同じだ。自分だけの場所だから、自分がときどき錠を開けに戻らなくっちゃ。ね。

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このブログを始めた日、フェニーチェ歌劇場の名シェフとして将来を嘱望されていたマルチェロ・ヴィオッティが、リハーサル中に脳卒中で倒れ、そのまま天に召されるという出来事があった。
11年後のいま、僕はロレンツォ・ヴィオッティの名前を東響名曲シリーズのプログラムのなかに見つける。1990年にマルチェロの息子として生を受けた男の子が、今年の9月に東響を振るために来日するんだ。
東京オペラシティシリーズ 第93回
2016年09月03日(土)14:00 開演
ベートーヴェン:交響曲 第4番 変ロ長調 作品60
R.シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」組曲
ラヴェル:ラ・ヴァルス

2014年にウルバンスキの代役として共演し絶賛されたヴィオッティ。今回はオペラ指揮者の父(故マルチェロ・ヴィオッティ)とフランス人の母の元に生まれ、ウィーンで学んだという彼の人生そのもののプログラムで再登場。東響HPより
父親と同じ道を選んだロレンツォ君は指揮者コンクールで結果を重ね、やがて檜舞台に立った。ウィーンのはっぱさんがつい2週間ほど前のウィーン響客演を大絶賛されているので、可能なら聴きに行ってみたいな。
# by Sonnenfleck | 2016-06-12 22:30 | 日記

精神と時のお買い物XXXIV(Twitterが落ちているその2分間)

その2分間は僕に本店のことを思い出させる。

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【BOOKOFF某店】
1 "Songs of Desire"(PHILIPS) *オルガ・ボロディナ+ラリッサ・ゲルギエヴァ
2 星野道夫『旅をする木』(文春文庫)
3 上原善広『異邦人 世界の辺境を旅する』(文春文庫)
4 武田龍夫『宮中物語 元式部官の回想』(中公文庫)

【サウンドベイ金山店】
5 "LANG LANG Live in Vienna"(Sony) *ラン・ラン

1は、オルガ・ボロディナのロシア歌曲集。バラキレフやキュイの歌曲は秋の情緒を呼び込むはず。名古屋はまだ夏の出口を行ったり来たりしているわけだが。PHILIPSの地味なアルバム探索は今やBOOKOFFを巡る楽しみのひとつで、イ・ムジチとホリガーとマリナーの木立から何か不思議なものを見つけ出す嗅覚が必要とされている。
ところでPHILIPSのジャケットは、DECCAの強い赤青を念頭に置かない渋い色調が多いですよね。DECCAのロゴが付いたPHILIPS原盤のアルバムはだいぶ悲惨なアートワークになっていると思うんであります。

2。カムチャツカで熊に食べられて亡くなった写真家・探検家の星野道夫氏。これまでに読んできたいくつかのノンフィクションが星野氏の著作の上で交差し始めており、彼の紀行文に正面から向き合うときが来ていると判断。『のだめカンタービレ』全25巻が1冊5円で引き取られていったその代金がアラスカの詩作に化ける。

3。『日本の路地を旅する』が猛烈に面白かった上原氏による、世界の被差別部落を旅するルポ。目前の事象と自分の過去を同化しながら、ルポであり私小説でもある「路地」を描く手段が海外ルポで通用するのか、またまったく異なるアプローチをしているのか。

4。武田氏は外務官僚ながら宮内庁に勤務した経験を持つ御仁。完全に内側の人物ではなく少し外側の人物によって描かれた宮廷の様子が知りたい。夏休みに読んだ半藤一利『日本のいちばん長い日』以降、出光美術館のソファから近くて遠い桜田門と宮内庁を眺め、2015年のいまでも不可侵の森について興味が湧いているんである。

5。ラン・ランが好きな自分は、ユジャ・ワンにない「計算を感じさせないくらい極めて巧妙に計算された」天真爛漫さを彼に求めている。
モーツァルトアルバムでラン・ランが達している異様な軽さとドライな空気はシュタイアーよりもベザイデンホウトよりも「ピリオド的」だと感じるので、ピリオド界隈専門の皆さんはモーツァルトアルバムを進んで買ってみるべきと思います。アーノンクールとのコンチェルトも2枚目についているしね~(そちらはもしかすると両者にとって挑戦だったかもしれないけれど)
# by Sonnenfleck | 2015-09-02 22:56 | 精神と時のお買い物

スラヴァ×セイジのモダン・タイムス

結婚してから生活のスタイルが変わり、難しい顔をして音楽をじっくり聴きながらPCの前に長時間座っているのが難しくなった。これではブログのエントリを生み出すことができない。できないが、したい。

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c0060659_22515769.jpg【Erato/WPCS22184】
●プロコフィエフ:交響的協奏曲ホ短調 op.125
●ショスタコーヴィチ:Vc協奏曲第1番変ホ長調 op.107
→ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(Vc)
⇒小澤征爾/ロンドン交響楽団

HMVのセールで756円くらいになっていた。安いね。
小澤とロストロポーヴィチ、という組み合わせがいかにも昔風に見えるのはどうしてだろう。ところが組み合わせから受ける印象に比べて、ここに録音された演奏実践は意外にもスマートで聴きやすい。ひょっとすると「モダン」かもしれない。

まずロストロポーヴィチが、一般的にイメージされるような鈍重さをあまり感じさせない(僕の脳みそに残っている指揮者としてのロストロポーヴィチがテキストの前面に出てしまっているのだろうなあ)。
80年代後半にチェロを持ったときのロストロポーヴィチが敏捷ですらあった(!)ことを、この録音が証拠として伝えている。少し強引な歌い回しと鋭敏さがミックスされたマチエール、これがモダニズムの薫りをそのまま宿しているわけですが、たぶん今世紀の若いチェリストが同じことをやろうとすれば、そればメタな視点からしか獲得できないはずなのであります。

それから小澤だけれども。
なめらかに整えようとする圧力と、ガサガサに掘り下げようとする圧力の両方から常に引っ張られて、その強い張力や緩んだときの対処にいつも悩まされているような気がするのです。このひとは。

ところでショスタコーヴィチの楽譜は、実は小澤の(僕が勝手に想像している)悩みに対して意外によく合致するのではないかと思われて仕方がない。
とある両側の圧力に「悪意のある器用さ」で対応したのがショスタコーヴィチとすれば、小澤征爾は悪意なんて考えることもなくどこまでも真摯に楽譜をなぞる。それによって、髭のグルジア人とその後継者を横目にしていたショスタコーヴィチの悪意が打ち消されてしまい、ただ器用なスコアがイコールの向こう側に浮かび上がるではないですか。ロンドン響のつるっとした音響はここで完璧にプラスに働いています。

小澤は結局、ショスタコーヴィチを彼のキャリアのなかに置かなかったことが少なくともレコード史的にはわかっているけれど、このようにニュートラルな器用さがばっちり表面に出てくるショスタコーヴィチ演奏というのは実はあまり思いつかないんである。皆さんはどうでしょうか?アシュケナージ?ハイティンク?いやいや、少し違う。何でもない何か、である。

2010年代は、ショスタコーヴィチの悪意に指揮者の悪意を掛け合わせた悪意2乗のゲテモノ演奏がはびこっている。そんなときに僕たちは小澤の器用で真摯な運転に乗った、ナイーヴで力強いロストロポーヴィチの歌を懐かしく思い出すのかもしれません。これがモダンのひとつの正体。

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プロコフィエフについて書く時間がありませんでした。追記できるかな?


# by Sonnenfleck | 2015-06-03 23:21 | パンケーキ(20)

造園10周年/近況報告

前回の更新からずいぶん間が空いてしまったけれど、名古屋で変わらず元気に暮らしています。
東京圏の藝術シーンの最先端を追うことをやめてしまうと、気持ちはずいぶん楽になった。気が向いたときに奥さんの了解をもらって名フィルの定期演奏会に足を運び、たまに愛知県美術館でゆっくりしていると、20代のころとは違うスピードで時間が流れ始めているような気がする。しかし時間はごっごごご…と音を立てて動いている。

10年前の今日、就職活動に臨む大学3年生の僕は、友人Nの勧めに従ってブログを書き始めた。あれから10年、30代になってもこの営みを続けているとは思っていなかったが、そもそもあのころは10年先を思い浮かべるような時間の定規を持っていなかったのだった。いま、定規の種類は増えたが、使いこなせているか?

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10年前の明日、フランス・ブリュッヘンが初めて日本のオーケストラに客演する。プログラムはこうだ。

【2005年2月18日(金)19:15〜 第381回定期演奏会/すみだトリフォニーホール】
●ラモー:歌劇《ナイス》から序曲、シャコンヌ
●モーツァルト:交響曲第31番ニ長調《パリ》K297
●シューマン:交響曲第2番ハ長調 op. 61


フランス・ブリュッヘンはこの9年後、2014年の8月に天に召された。時間は動いている。僕も動いている。当分立ち止まることはなさそうだ。


# by Sonnenfleck | 2015-02-17 22:44 | 日記

円光寺雅彦/名フィル 第416回定期演奏会@愛知県芸術劇場(9/6)

c0060659_10484791.jpg【2014年9月6日(土)16:00~ 愛知県芸術劇場コンサートホール】
●スメタナ:《売られた花嫁》序曲
●ドヴォルザーク:Pf協奏曲ト短調 op.33
 ○同:ユーモレスク
→スティーヴン・ハフ(Pf)
●マルティヌー:交響曲第1番 H289
⇒円光寺雅彦/
 名古屋フィルハーモニー交響楽団


半年書いてないと書けなくなるものですわな。どうやって話を運べばいいか忘れてしまった。名古屋引っ越し後やっと名フィルに行けた記念で、ひさびさに感想文を上げます。

2014.4-2015.3シーズンの名フィルは「ファースト」というテーマで、相変わらず孤高のマニアック路線を貫いている。僕が6年前に名古屋を離れる前からこの姿勢がしぶとく続いているのは、シンプルに「いい根性してる!」というひと言に尽きるのではないかと。オーケストラの財政にはあまり興味がないクラシック音楽オタクである僕は、誰が何と言おうと今でもこの姿勢に賛辞を送りたいのです。
知られざる佳い音楽を街に広める活動と、それが儲かるかどうかというのは根本的に別問題で、後者はそれについて詳しい別の方が批評すればよい。僕は前者の、作品の力による都市文化の底上げ活動を全力で応援します。名フィル定期会員の善良なるおじさまおばさま、そしてY席にお行儀よく座って熱心に聴いている中高生たちはそろそろ、Eテレで見るN響の退屈なオール名曲プログラムに我慢できなくなってきているのではないでしょうか(期待を込めてね…!)

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この日のプログラムはマルティヌーの「ファースト」である交響曲第1番がメインに据えられていて、僕はこの曲を聴きに来たつもりだったのですよ。でも終わってみれば、強く印象に残ったのは真ん中のドヴォPfコンだったわけ。

ドヴォルザークのPf協奏曲、たぶんどこかの演奏会で聴いたことがあったんだろうと思うんだけれど、ブラームスのPf協奏曲にシューベルトのセンスを振りかけたような捉えどころのない曲想が災いしてかそもそもあまりいい印象を持っていなかった。
ブラームスのPf協奏曲がそもそも輝かしいソリストの技巧を聴くという作品ではないし、それがさらに迷いの森のようなテクスチュアを与えられればなおのこと。この日もこの曲で寝てしまうことを覚悟でホールに向かったのだった。

ところが、まずソリストのスティーヴン・ハフが試みていることに圧倒されてしまった。僕はピアノが弾けないのでピアノ弾きの方が聴いたときに把握されるハフの秘策がいまいちわからないのだけど、どうせなら感性学徒のはしくれとして、どこまでも可感的に把握できればと思っている。
そうして可感的に把握できるハフの端正な美音、そしてメロディラインのごくわずかな揺れから、雨後の渓谷のような香気が音楽として形成されていたのだよねえ。その少し冷たい香気を鼻からいっぱいに吸って、ドヴォルザークの音楽を胸にためた。一説によればオーケストラとソリストの間には「危険な瞬間」があったそうだけど、少し遠くに離れた地点からの聴取ではそんなに気にならなかった、というのが本音(単に聴き取れていないだけかもしれないけどね)。

ところがねえ。。マルティヌーがねえ。
ドヴォルザークで聴かれていた渓谷の香気は、鈍重なダムのような極端につまらない解釈によってずたずたにされてしまった。円光寺氏の指揮っぷりを聴いてこれまでに佳いと思ったことはただの一度もないけど、今回も順調にその履歴が更新されました。やったね☆

この交響曲は舞踊的なリズムと冷え冷えとしたメロディをどれくらい精密に実践できるかが勘どころと思いますが、ビエロフラーヴェク/BBC響の優れた演奏で予習していったのが仇となった感あり。ずーずーずー、べーべーべー、という「力点のない」リズム把握ではもうどうにも弁護のしようがない(オーケストラの側には絶対に非がない!と断言はできないかもしれないけど、こういうもっさい性質の音楽づくりでは、プラスアルファの「自発性」が「逸脱」と見なされてしまうのだろうなあ…と推察するところであります)。こういうガックリくる経験を積み重ねておくと、佳き演奏に巡り会えたときの感動はひとしお。応援しています名フィル!
# by Sonnenfleck | 2014-11-01 11:10 | 演奏会聴き語り

「かかるついでにまめまめしう聞こえさすべきことなむ」「ファジョーリにや」

c0060659_9305654.jpg【Naive/V5333】
●ハッセ:《シロエ》より〈嵐の恐怖の中で〉
●ハッセ:《シロエ》より〈私はあなたの人生でなければならなかった〉
●ヴィンチ:《許されたセミラーミデ》より〈千の怒りに抱かれて〉
●レーオ:《デモフォンテ》より〈可哀そうな子供〉
●ポルポラ:《許されたセミラーミデ》より〈Passaggier che sulla sponda〉
●ペルゴレージ:《シリアのアドリアーノ》より〈だから、時々嬉しくて〉
●レーオ:《デモフォンテ》より〈海岸近くで願い信じていたのに〉
●カファロ:《イペルメストラ》より〈私をもっと落ち着かせて〉
●サッロ:《ヴァルデモロ》より〈よく愛する心〉
●マンナ:《ルキウス・ウェルス、またの名をヴォロジェーソ》より〈お前を残して行く、愛する人よ、さようなら〉
●マンナ:《独裁者ルキウス・パピルス》より〈戦場のトランペットの音を聴き〉
→フランコ・ファジョーリ(C-T)
⇒リッカルド・ミナージ/イル・ポモ・ドーロ

そのうち、そのうち、と思いながら感想文は書けていないのだが、レオナルド・ヴィンチ Leonardo Vinci(1690-1730)のオペラ《アルタセルセ》を1年以上ずっと聴き続けている。
《アルタセルセ》はカウンターテナーが5人必要なものすごいオペラで、しかもナポリ楽派の大天才であるヴィンチが花園のようにメロディを書きまくったおかげで凄まじい作品になっているのですが、そこで重要な役を務めているのが、アルゼンチン出身の若きカウンターテナー、フランコ・ファジョーリです。

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カウンターテナーの人気者たち。デラー、コヴァルスキー、ヤーコプス、レーヌ、ヴィス、ショル、、煌びやかな先人たちが種をまいた畑がいよいよ実りの時期を迎え、ついに2010年代がカウンターテナーの百花繚乱となっていることを、たとえばレコ芸のおじいさんたちは知っているのでしょうか?知らないだろうなあ。知らないままでえーわ。
そのなかでも特に、フィリップ・ジャルスキー、マックス・エマヌエル・ツェンチッチ、そしてフランコ・ファジョーリ。この3名が抜きん出た活躍をし始め、しかも賢明に声質を住み分けて、おのがじし大輪の花を咲かせ始めています。ドラクエ3的な語彙でたとえると、ジャルスキーは妖しい魔法使いLv.65、ツェンチッチは僧侶から武闘家への転職組(+黄金の爪)、そしてファジョーリはベホマズンとギガデインを操るロトの勇者、というのが僕の見立てである。

なぜファジョーリが勇者枠なのかということだ。
このひと、C-Tの教科書のような歌唱を平気でやってしまう。曰く、滑らかな中高音をテノール歌手の豊かな声量で、というのが辞典的な記述だが、僕はこれまでヴィスやヤーコプスの歌唱からそれを感じ取ったことはなかった。でもショルあたりから格段に技術が進歩してきて、いよいよファジョーリがそれを「本当に」やってのけた。C-T2.0である。
たとえばトラック6、ペルゴレージ《シリアのアドリアーノ》のアリアを聴いてみよう。11分を超す長大なアリアだが、ペルゴレージらしく甘やかでたおやかな、言ってしまえばかなり起伏のつけにくいナンバーなんですよ。これをファジョーリはそのまま、肉厚で豊かな音楽としてそのまま顕現させてしまった。煮たり揚げたり、これまでは手の込んだ料理として味わわなければならなかった素材が、あるときから素材の味によってロマン派オペラのアリアのように楽しめるようになったというのは、革命と書いてよいのではないか?

もちろん、滋味ある素材ばかりが彼の得意技ではない。肉食系のド派手なナンバーもまさにそのままの魅力で僕たちに突きつけてくる。
トラック3、レオナルド・ヴィンチ《許されたセミラーミデ》のアリアなどは、ティンパニがどんどこ鳴り響き、ラッパが吹き荒れる強力な曲です(仮にこれがモーツァルトのオペラのなかに挿入されていたとしたら、テノール歌手たちはこぞってこのナンバーを自分のフェイヴァリットアルバムに入れるでしょう)。A-B-A'のダカーポアリアの伝統はA'に自在な装飾を要求するわけですが、そこでファジョーリが披露する装飾はある意味では装飾らしくなくて、音楽の豊饒な劇性をそのまま活かしているだけなのだなあ。
悔しいけど上手に形容できないので、YouTubeのクリップを貼ろう。Bは2分12秒、A'は2分39秒から始まる。


この自然な調理から僕が連想するのは、たとえばワーグナーがジークムントに付与したような高貴な音楽である。こうした想像をさせるC-Tは、彼が初めてなんだよね。攻守のバランスがよく、正攻法で高得点をたたき出す。それが勇者枠。
(ちなみにこのクリップ、5分11秒からとある別のC-Tが歌う同じアリアが続くが、つまらない小細工に頼って音楽を台無しにしているのがよくわかる。上で書いたようにファジョーリの勇者だとしたら、この別のC-Tは残念ながら村人Aくらいでしかない。動画うp主による残酷な比較です。)

隆盛するバロックオペラは、こと日本ではまだまだ、ロマン派オペラやロマン派リートに比べ市民権を得るまでに到っていない。でもいつの間にか僕たちは、化学調味料のような味つけに頼らない本物の演奏実践を、まずはCDで楽しむことができるようになっている。その革命を知らないままでいるのは惜しいのです。


# by Sonnenfleck | 2014-07-13 09:34 | パンケーキ(18)

いくつかのご報告とこのブログの今後について

4月に隣家の柿の木が切り倒されてからというもの、僕の身辺にはじつに多くのことが起こった。柿の木はその大きな枝ぶりによって、まるで僕の人生が先に進むのを食い止めてくれていたようだったが、そのありさまは最後まで象徴的だったと言える。そうして時間は堰き止められずに進んでゆくことになった。

◆1 引っ越しました
柿の木が伐られた翌週、上司は僕を会議室に呼んで異動を命じた。二度目の名古屋であった。
半月の間、慌ててさまざまの支度をし、本を売りCDを段ボール箱に詰め、東京の寓居を引き払うことになった。この住まいは大震災を経験した場所でもあったし、何よりも20代の楽しい時間をひとりで過ごした場所でもあった。地震で落ちたテレビが作った床の凹みを見下ろしながら、まことに思い出は尽きない。この狭い部屋が僕の庭であった。

そしていま、僕は名古屋のマンションの一室からこのブログを書いている。前の名古屋の家は静かな住宅地のなかにあったが、今度の家は繁華街の外れにあって、たまに酔っぱらいの楽しそうな声が聞こえる。窓の外を眺めても柿の木はないけれど時間が流れているのがよく見える。そういうことだ。

◆2 結婚しました
人生はわからぬもので、この転勤を機にえいやっと結婚してしまいました。勢いよく時間の流れに漕ぎ出すことも大切ですね。
このブログを始めたのは僕が大学3年生、21歳のころだったのだけど、自分が結婚するまでこの場所をちゃんと守ることになろうとは、当時は考えなかったなあ。

◆3 このブログの今後について
時間は流れる。
ますます仕事に忙殺され、細切れの藝術体験(それは、しかしそれでも感性を刺激するのだが)と、Twitterの小さな文章に満足する9年後の僕は、それでもこのブログをやめません。定期的な更新が途絶えてもはや久しく、初めて訪れるユニークユーザがここを廃墟のようだと感じたとしても、ここは僕の庭であり続けます。いまでは僕の庭に根を張った柿の木が、風をはらんでさわさわと揺れています。

ときどき思い出したように更新するかもしれません。でもそれは誰かのためではなく、僕のためです。

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# by Sonnenfleck | 2014-07-10 20:49 | 日記

さらば柿の木

このブログで何度か書いてきた、隣家の庭の巨大な柿の木が、この木の芽時に切り倒されてしまった。
樹高は僕の部屋のある2階の高さをゆうに超え、3階の高さと同等かそれ以上に見えていた。「柿8年」のことを思えば、あの樹高に達するまで10年や20年ではきかないのではないかと考える。夏には照り返す緑色で僕の部屋のなかを染め、秋にはたくさんの鳥が舞い降りては実をついばみ、冬にも堂々とした枝ぶりを寒空に示していた。そして春にはまた、新しい葉をつけようとしていた。

2009年4月30日 美しい4月に。
2009年11月1日 柿の午後
2009年10月18日 暮色蒼然
2012年11月10日 柿の晝

隣家の敷地には、古いアトリエのような建物と、柿の木を中心にした活力に満ちた庭が含まれていた。いまはすっかり更地なのだ。小さな一戸建てが2軒建つのだろう。そして庭のことを知らない、罪のない一家が引っ越してくるのだろう。一家には犬がいるかもしれない。犬は柿の木があった気配を感じるかもしれない。

さらば柿の木!
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# by Sonnenfleck | 2014-04-12 10:22 | 日記

NHK、ザ八・八ディド氏設計による新NHKホール建設へ

NHK、ザ八・八ディド氏設計による新NHKホール建設へ(asali.com/4月1日)

NHK経営委員のミリオン尚樹氏による「(現NHKホールは)音楽ホールのくず」発言が物議を醸す中、NHKが新しい音楽用ホールの建設を検討していることが明らかになった。

消息筋によると、2月末頃、NHKのモミーヌ勝人会長と東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の森元気楼会長が都内の料亭で会食した際、森元会長から「せっかく決めた新国立競技場のデザインがお蔵入りになりそうだ、何とかならないか」とモミーヌ会長へ露骨な打診があったという。
2015年秋季頃に建て替え着工、2019年竣工を目指す新国立競技場は、イギリスの建築家、ザ八・八ディド氏のデザインを採用することで決定した。ところが、専門家から「高い」「カブトガニだ」「雪で屋根が落ちる」などと批判の声が上がり、政府はデザインや規模の見直しなどの検討に入っている。

一方、1973年に運用が開始された現NHKホールは施設の老朽化が進んでおり、また世界最大規模の歌の祭典である紅白歌合戦の会場に相応しくない、自販機の飲み物の種類を増やして、などの指摘が相次いでいる。NHKはNHKホールを含む東京・渋谷の放送センターの建て替えを検討しており、森元会長の鶴の一声が、モミーヌ会長の思惑と一致した格好だ。

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NHK高官によれば、ザ八・八ディド氏の設計を流用した新NHKホールの総工費は3000億円、8万人が収容可能で、開閉式ドームを持つという。
そのため「事実上の新国立競技場だ」との声も上がる中、モミーヌ会長は「NHK交響楽団に所属する職員数を1000人規模に拡大する」「世界一のコンサートホールにしたいと政府が言っているのに我々が違うよと言うわけにはいかない」などと呟いているという。

モミーヌ会長はさらに、「(ダメだったときの)取り壊し許可証を取っている」「一般社会ではよくあること」と発言したとの情報もあり、今後物議を醸しそうだ。

# by Sonnenfleck | 2014-04-01 01:04 | 日記

フライブルク・バロック・オーケストラ|ブランデンブルク協奏曲全曲演奏会@三鷹(2/15)

せめて、ひと月に一度の更新くらいは死守したいよね。

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c0060659_10174032.jpg【2014年2月15日(土) 17:30~ 三鷹市芸術文化センター・風のホール】
<バッハ>
●ブランデンブルク協奏曲第1番ヘ長調 BWV1046
●ブランデンブルク協奏曲第6番変ロ長調 BWV1051
●ブランデンブルク協奏曲第2番ヘ長調 BWV1047
●ブランデンブルク協奏曲第3番ト長調 BWV1048
●ブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調 BWV1050
●ブランデンブルク協奏曲第4番ト長調 BWV1049
○テレマン:Vn、Obと2つのHrのための協奏曲ヘ長調 TWV54:F1 ~ジーグ
⇒ペトラ・ミュレヤンス(Vn)+ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ(Vn)/
 フライブルク・バロック・オーケストラ


いかにも雪の多い2月であった。
2月14日の昼から降り始めた関東甲信の雪は、日が暮れると勢いを増し、大規模に降り積もっていった。2月15日の朝、われわれは東京とは思われないような光景を目の当たりにするのである(別に北国ならふつう)。よって、摩周岳登山に活躍した登山靴を引っ張り出すことになり、ひさびさに「雪わらを漕いで」三鷹へ向かうのだ。

自宅からバスでアクセスできる三鷹市芸術文化センター。ここはたいへん素直な響きの中ホールを持っていて、案外、古楽の重要公演が開かれることが多い。2012年のフライブルク・バロック・オーケストラ初来日公演も、僕はこのホールで聴いた。
聴いたが、感想文を書いていない。なぜか。
僕は2012年1月に初めて「古楽のベルリン・フィル」であるFBOを耳にして、どうにもピンと来なかったのである。
理由はいくつか考えられるが、このときの演目がバッハの管弦楽組曲全曲だったのは鍵になり得る。FBOのパリパリッと(ときどきゴリゴリッと)しながら特に 束 感 の あ る 響きは、特にヘンゲルブロックが去ってからこの楽団のアイデンティティになっていると思うんだが、このキャラクタと「かんくみ」のフランス様式とは必ずしも相性がいいわけではない、と感じるんだよねえ。

そのため、翻ってバッハの「コンチェルトグロッソ」であるブランデンブルク協奏曲に相対したとき、彼らの音楽づくりが輝くのは十分に期待ができ、またその期待ははっきりと満たされたのであった。

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チェンバロを搬入する予定だった「チェンバロ漫遊日記」さんのこのエントリにも少し触れられているが、2月15日の公演はチェンバロ・コントラバス・ヴィオローネといった大型の楽器がついにホールに到着することができず、ホール備え付けのチェンバロに、市中で調達した(!)コントラバスとヴィオローネを用いるという苦肉の策で、どうにか開演に漕ぎ着けるFBO。だいいち本人たちも、飛行機がキャンセルになったため急遽新幹線で京都から戻ってきたのだから、気の毒である。

こうしたトラブルがあったためか、冒頭の第1番についてはアンサンブルの状態が最上ではなく、少し心配させられたのではあったが、やがて尻上がりに調子を出し始めるのがさすが「BPO」なのですな。
アンサンブルは優秀な個の音の積み重ねであるというすんごく当たり前のことを、第6番と第2番で胸ぐらを掴まれグワッと理解させられる。バロック音楽で時には大切な「ひとつの円やか」に、やはり彼らは収斂されない。でもその代わり、果てしない重層構造が聴こえてくる。この強靱な束感こそFBOの美質なのだなあ。

後半は第3番のアダージョが思いのほかどす黒い装飾を与えられていたのでびっくりしたが、白眉は第5番の第2楽章と第4番なのだった!
この日、第5番でチェンバロを担当したセバスティアン・ヴィーナント Sebastian Wienand氏の軽やかで色気のあるタッチ、そして通奏低音Vcを弾いたシュテファン・ミューライゼン Stefan Mühleisen氏のしっとり吸いつくような美音により、第2楽章は震えるほど美しい時間になった。
ミューライゼン氏は特に、これまで自分が生で耳にしたなかで最強のアンサンブル系古楽Vcだったと断言できます。フォルムは強固なのに芯は空疎で、その「洞」に高音楽器の旋律をぴたりと填めてしまうあの音。自分のなかに少しだけ残っているプレイヤーとしてのペルソナが、あんな音が出せたら死んでもいいなと言っている。


↑シュテファン・ミューライゼンが通奏低音に参加した、ヴィヴァルディのトリオ・ソナタ編成《ラ・フォリア》。お聴きくださいよこの音を。

トリの第4番は、言葉で形容するのが難しい。こういうときは本当にアマチュアでよかったなあと思うのよ。プロの物書きはあの究極的なアンサンブルの魔法を分析して、それをわかりやすい言葉で公衆に提供しなければならないんだから。
第1楽書の終わり、無数の美しい音の束に優しく縛られて法悦を感じてしまったことを書いておく。聴き手を音楽的ドMに突き落とす演奏実践ってどうなのよと思う。それは確実に大正義だけれども。

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アンコール。テレマンっぽいなあ、きっとテレマンだなあと思って聴いていたら当たりだった。このアンコールの演奏からすると、いまのFBOはファッシュやジェミニアーニといった華麗系下世話バロックでも平然と素晴らしい演奏をするはず。聴いてみたい。ものすごく。
# by Sonnenfleck | 2014-02-23 11:34 | 演奏会聴き語り

さようならマエストロ・クラウディオ・アバド

Claudio Abbado dies aged 80(The Guardian, 2014.1.20)
Claudio Abbado, an Italian Conductor With a Global Reach, Is Dead at 80(The New York Times, 2014.1.20)
Claudio Abbado ist tot(Die Zeit, 2014.1.20)
Le chef d'orchestre Claudio Abbado est mort(Le Monde, 2014.1.20)
世界的指揮者のアバド氏死去(NHK, 2014.1.20)

ある音楽家の死について、いつもであれば僕はわりとすぐに平気になってしまうのだが、今回だけはだめである。この指揮者のことをどれだけ好んでいたのか、彼が永遠にいなくなって初めて理解したのだ。もう遅い。

僕がアバドを「本当に」認知したのはそんなに昔のことではない。クラシック好き後発組としてBPO治世の最後のほうをFMで聴いていたころ、アバドは遠い世界で活躍するスター指揮者のひとりであり、特段、大切な指揮者とは感じていなかった。
その認識が根底から覆されたのは、彼がBPOのシェフを辞めて自由な活動を開始してからのこと。2006年5月にマーラー室内管とライヴ録音した《魔笛》のディスクを聴いてから、アバドは僕のスターになった。

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1月20日の夜、残業を切り上げて帰宅する地下鉄の車内で、友人から届いた知らせが第一報。Twitterにあふれていく追悼の言葉。帰宅してすぐに僕は、あの魔笛を聴くことにした。この夜に聴くのはこの演奏以外であってはいけない。

アバドが彼の晩年に集中的に取り上げたモーツァルトは、どれも素晴らしかった。生のスコアが彼のなかを通ることで昇華されて、すべての音符は羽が生えているみたいに素早く、あっという間に飛び去るように価値づけられた。この陰翳と軽さはピリオド由来なのかもしれないし、そうでないかもしれない。いま、指揮者の死を知った僕の耳を通過して、アバドの魔笛はどこかに飛んでいこうとしていた。0時を回って、太陽の教団が勝利を収める。

いまの気分では、書きたい思いが全然まとまらない。
アバドの音楽をどのように考えているか、2013年7月のエントリ「天上謫仙人、またはアバドに関する小さなメモ」へもう一度リンクを張っておこうと思う。言い訳のようにして。オーケストラ・モーツァルトとのシューマン全集の完結を僕たちの想像力に委ねて、マエストロは遠いところへ行ってしまった。

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R.I.P.

# by Sonnenfleck | 2014-01-26 11:33 | 日記

頌春(と、ブログに対する思い)

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あけましておめでとうございます。

旧年中はこれまでにないほどブログの運営から遠ざかってしまい、もうそれほど多くはないであろう、でもとても大切な読者の皆さんには平身低頭、お詫び申し上げるほかありません。日々のつれづれに、Twitterに短い文章を書いて気を紛らわせることも多いのですが、この年頭に声を大にして申し上げたいのは、このブログを閉じるつもりはないということです。自分の本拠地はここです。

かつて大勢いたクラシック音楽系ブロガー仲間の多くがTwitterに移住して、そのまま戻ってこなくなったのは無理からぬことと思います。僕も実際に使ってみて、あの楽ちんさを理解しました。あれを覚えるともうブログを書く気にはならないかもしれない。
しかし(ふたつ前のエントリでも書きましたが)すべての事象、またそれに対するすべての思いが140字ずつの房でまとまっているわけはないんですよ。ところが、Twitterに首までどっぷり浸かることで、その房に収まるように自分の思いや記述方法がだんだん矯正されていくのを僕は感じています。それではまったくよろしくない。自分で自分に用意する原稿用紙は無限の白紙でないといけなくて、それだけが、またそれこそが「ブログ」の有している圧倒的な価値です。

従来のようなたくさんの投稿は今年も難しいはずです。でもしぶとく続けていきます。この場所でね。
# by Sonnenfleck | 2014-01-04 11:07 | 日記

2013年感想文まだで賞(上)慶應リュリからブロムシュテットのブラームスまで

音楽会の感想文はこのブログの主たるメニューであるが、もう全然書けてない。溜まりに溜まってもう首が回らない。2013年分はここらでご破算としましょう。

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◆慶應義塾大学コレギウム・ムジクム合唱団・古楽アカデミー演奏会
【2013年1月5日(土) 18:30~ 慶應義塾大学・藤原洋記念ホール】
●シュッツ:《宗教的合唱曲集》、《シンフォニア・サクラ集》より*
●ハッセ:《クレオフィーデ》序曲ニ長調
●ヴィヴァルディ:4Vnのための協奏曲ロ短調 op.3-10
●ムファット:《音楽の花束》第1巻より組曲第6番ホ短調
●リュリ:《ロラン》~第4幕最終場・第5幕*
⇒佐藤望/慶應義塾大学コレギウム・ムジクム合唱団*
⇒石井明/慶應義塾大学コレギウム・ムジクム・古楽アカデミーオーケストラ


慶應の教養のいち授業として発足したコレギウム・ムジクム。その合唱団とオーケストラの初めての大規模合同演奏会。
曲数が多すぎて明らかに練習の足りていない作品もあったのだけど(3-10とか)、最後のリュリ抜粋で帳消しかと思う。驚くべきことにちゃんとリュリの舞台上演なのだった。バレエもパントマイムも、合唱もオケも、照明も字幕も手作り。バロックの演奏実践は音程より発音・フレージングが絶対条件になると考えていますが、この点ではオケも合唱も相当に訓練されていた。ただの総合大学の教養の授業で、よくここまでマニアックに仕上げたなあと素直に驚いたのだった。

※ちなみに年末年始にはコジファントゥッテを上演してしまうみたい。行かれないのが残念。

◆大野和士/水戸室内管弦楽団 第86回定期演奏会
【2013年1月13日(日) 18:30~ 水戸芸術館コンサートホールATM】
●ドヴォルザーク:弦楽セレナード ホ長調 op.22
●ブリテン:《ノクターン》op.60
→西村悟(T)
●シューベルト:交響曲第6番ハ長調 D589
⇒大野和士/水戸室内管弦楽団


大野さんのブリテンが聴いてみたくて、初の水戸遠征となった。
前半の《ノクターン》ではあの素敵なホールの親密さがぐるっと反転、寒さと孤独と夜の気配が空間を満たして、忘れられない藝術体験になってしまった。振り返ってみると10月のギルクリスト+ノリントン/N響よりさらにきめ細やかな残忍さが全体を覆っていたように思う。西村さんの声質も、バボラークのホルンも、アルトマンのティンパニも、みな冷たく光っていた。

後半、凍りついた心胆を再び温め直してくれたのが、シューベルトの第6。マエストロ大野のシューベルトはまるでロッシーニみたいに、楽しいものも、きれいなものも、美味しいものも、気持ちのいいものも、全部ぎゅうぎゅうに詰まった幸せ空間であった。第4楽章を聴いていてどんどん頬が緩んできたのを覚えている。

この夜、帰りのフレッシュひたち号でNHKスペシャルのダイオウイカを見逃したことを知る。ノクターン第2曲のクラーケンが脳裏に浮かぶ。

◆東京春祭 ストラヴィンスキー・ザ・バレエ
【2013年4月14日(日) 15:00~ 東京文化会館】
●《ミューズを率いるアポロ》
→パトリック・ド・バナ(振付)
⇒長岡京室内アンサンブル
●《春の祭典》
→モーリス・ベジャール(振付)
⇒ジェームズ・ジャッド/東京都交響楽団


控えめに言ってうーん…という感じ。自分はバレエ観者にはなれないかもしれないなと改めて思ってしまった。
能や歌舞伎からのエコーで今回のような振付のバレエを見ると、「ルールなんかないのサ!」というルールに縛られてるようですこぶる窮屈に感じる。びょんびょん飛んだり跳ねたりするモダン振付バレエの身体性が、能や歌舞伎ほどには納得できない。いやまったくすとんと落ちてこない。ギチギチのルールの中で身体を満開に咲かせている日本の劇作品のほうが、端的に言って好みなんであるよ。

でもそれゆえに、古典的な振付のバレエをちゃんと観なければばならない。くるみ割り人形とか。

◆ヘレヴェッヘ/コレギウム・ヴォカーレ+シャンゼリゼ管弦楽団来日公演@所沢
【2013年6月9日(日) 15:00~ ミューズ所沢】
<モーツァルト>
●交響曲第41番ハ長調 K551《ジュピター》
●《レクイエム》ニ短調 K626
→スンハエ・イム(S)
 クリスティーナ・ハンマーストローム(A)
 ベンジャミン・ヒューレット(T)
 ヨハネス・ヴァイザー(Br)
→コレギウム・ヴォカーレ・ゲント
⇒フィリップ・ヘレヴェッヘ/シャンゼリゼ管弦楽団


初めての生ヘレヴェッヘで嬉しい。
まず前半のジュピター、アンチ通奏低音な演奏実践にすごく驚いたのを覚えている。指揮者を含めて誰も(低弦やファゴットでさえ!)リズムに責任を持っていないように聴こえるんだけれど、しかし中音域にコアのあるオケは、清涼な小川のようによく横に流れてゆく…。これは実践の文法が違うだけなのだね…。いま思い出してみても特異な演奏だった。面白い。

そして後半のレクイエム。これは別次元の名演奏だったと思う。
前半、ヘレヴェッヘが何を指揮しているか自分にはよくわからない局面も多かったのですが、後半にコレギウム・ヴォカーレが入って、あれは声を最上位に置いた指揮なのだと確信。ヘレヴェッヘの両手は合唱とぴたり、、声が拍節を支配しているのだよねえ。声はヘレヴェッヘにとって旋律であり拍子であり和音なのだなあと改めて感じたのだった。

◆沼尻竜典/東京トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ 第64回定期演奏会
【2013年6月30日(日) 15:00~ 三鷹市芸術文化センター風のホール】
●プロコフィエフ:交響曲第1番ニ長調 op.25《古典》
●ショスタコーヴィチ:交響曲第14番 op.135
→黒澤麻美(S)
 デニス・ヴィシュニャ(Bs)
⇒沼尻竜典/東京トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ


武蔵野でひっそりと執り行われた演奏会だったけれど、実は日本のショスタコーヴィチ演奏史上、決定的な名演のひとつだったのではないかと思う。からっとドライ、喉ごし鮮烈、、からの、、深い闇。抉られる日曜の午後。指揮者もオーケストラも歌手もお客さんも、あの小さなホールごと闇に沈んだ。
今日の日本でもまだ、演奏することに価値があるように思われがちなショスタコの第14交響曲に、沼尻さんはちゃんと第5や第10と同じ「交響曲」としてメスを入れていた。演奏で精一杯、なんていう時代はもうお終いにしよう。この交響曲では比較的単調になりがちな響きの色づけ、特に弦楽器のアーティキュレーションを丹念に見直すことで、フルカラーのショスタコーヴィチが眼前に現れて、、そして第11楽章のв нааааааас!!!!!!!の絶叫とともにホール中の照明を落とした。

若くて主張のはっきりしたTMPの巧さと、彼らをキレよくドライヴしてゆく沼尻さん。前半のプロコフィエフの第1交響曲もたいへん好みで、この作品のライヴであそこまで納得がいったのは初めてだと思う(プロコの古典交響曲は極めて難しい作品だと僕は考えてる)。あちこちでぶつかり合い反応し合うフォルムによって、ホール中に色や形が散乱していた。実に気持ちよかった。

◆ブロムシュテット/N響 第1761回定期公演
【2013年9月21日(土) 18:00~ NHKホール】
<ブラームス>
●交響曲第2番ニ長調 op.73
●交響曲第3番ヘ長調 op.90
⇒ヘルベルト・ブロムシュテット/NHK交響楽団


先日、Eテレのクラシック音楽館でも放送されたので、多くの方がご覧になったのではないかと思う。言葉には尽くせない稀代の名演奏だった。

前半の第2番では第2楽章の艶と照り、第4楽章の爽快な爆発が印象に残る。こういう演奏をいまでも自在に繰り出すあの老人には心から敬意を表したい。何なんだろう。すごい。
後半の第3番は第3楽章がばらっとほどけて始まったんだけれど、風で揺れる梢が、瞬間的に途方もない複雑性を獲得するような感覚を受け取った。これまでブラームスでは体感したことのない不思議なマチエール。ブロムシュテットはブルックナーでもときどきこういう「自然のような複雑性」を花開かせたりするので、今回も何らかの事故ではなくああいう設計だったと考えている。

+ + +

(下)に続く。
# by Sonnenfleck | 2013-12-28 11:50 | 演奏会聴き語り