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シベリウスに関する告白

クラシックを聴き始めたころは、シベリウスはすなわち、自室の外のクマザサや地吹雪と同義であったために、敢えて取り出して聴く音楽ではないと思われて仕方がなかった。また、その意味で極端に具象的な音楽であるものよなという気もし、人々がなぜシベリウスにそれほど惹かれるのかわからなかった。

気候の烈しい北国に生まれて育った18年間で自分の中に蓄積されていた、厳しい自然への親近感や、その裏返しの恐怖のようなもの。いつしか、焙煎した珈琲豆から炭酸ガスが抜けるみたいにしてゆっくりとそれらが失われてゆき、今度は、都会暮らしの湿気やある種の臭みが、僕の内部の空いた組織に染み込んできた。あれほど当たり前に周囲にあった山や森への憧れが、近年は特に高まっている(僕がほとんど毎年のように北海道に出かけてしまうのは、たぶんそのためだ)

そうした惨状下で、シベリウスの音楽はもしかすると生涯の伴侶となるべき存在なのかもしれぬという考えが、頭にまとわりついて離れない。ことに、都会に暮らす苦しみを和らげてくれるのは、バッハやショスタコーヴィチではなかった。

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シベリウスに関する告白_c0060659_758259.jpg【DECCA/POCL1089】
<シベリウス>
●交響曲第4番イ短調 op.63
●交響曲第5番変ホ長調 op.82
⇒ヘルベルト・ブロムシュテット/
 サンフランシスコ交響楽団


そんなわけでブロムシュテットのシベリウスを初めて聴いてみる。

サンフランシスコ響との共同作業ではシューベルトの5番&8番が(特に5番の出来が)あまりにも素晴らしく、今でも隠れてこっそり聴いているのだが、このシベリウスもエッジが厳しく立ってて気持ちが良い。
Amazonのレヴューに「もう少し母性的と言うか、優しさや温かさと云った表情も出せていれば理想的な定盤になっていたことだろう」って書いてあって、まさしくそれがこの演奏の特徴を簡潔に言い当ててると思った。自然について受け手が何を言おうが思おうが、自然は意に介さない。シベリウスもそうじゃないか?

じねんに、さらさらと聴こえるようにブロムシュテットが巧みに響きを束ねている4番。けっして肥大しない非人間的な推進力、自律性が、この人の音楽を決定的に高級なものにしている。もちろん、響きをストイックに束ねるのを得意にする指揮者はほかにも大勢いるのだが、その一歩前の、味付けされていない素材まで丁寧に見せてくれるひとはほとんどいないんじゃないかと思う。

まれにハイティンクの演奏でそれを感じることがあり、しかしブロムシュテットはだいたい何を振ってもそのように仕上げるのが凄い(9月のN響《新世界から》も、ブルックナー味のソースが掛かっていたにせよ、素材の繊維は溶けてしまわずにちゃんと主張してた)。唐突に途切れる第2楽章から、旋律のかたちも定かでない第3楽章にかけて、そして曇天に霙の第4楽章後半など、誰かが何かを感じ取る前の、一次資料としてのクラングがひゅうと流れていく。

5番もまったくアンキャッチー。険阻だが、昇ってきた陽は暖かい。
by Sonnenfleck | 2011-12-17 08:04 | パンケーキ(20) | Comments(0)
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