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1950年の昏い森の中で。

ここ数回のエントリがなぜ(久しぶりに)ショスタコーヴィチづいているのかといえば、きたる2月26日(日)に、本邦ショスタキスト必聴の《24の前奏曲とフーガ》全曲演奏会が行なわれるからである。

ピアニストはアレクサンドル・メルニコフ。

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1950年の昏い森の中で。_c0060659_11184054.jpg【Regis(Melodiya)/RRC3005】
●ショスタコーヴィチ:24の前奏曲とフーガ op.87
⇒タチアナ・ニコラーエワ(Pf)

そのまえに、ニコラーエワの1987年盤をiPodに入れて、朝な夕なの通勤時間で予習を続けてきた。今が冬であればこそ(またいつもより厳しい冬であればこそ)、街区で聴くショスタコーヴィチの味わいは何十倍にもなる。

この曲集は(率直に言って)以前の僕の理解の及ぶところではなかった。が、今このように改めて襟を正して対峙してみても、その巨きさと勁さに圧倒されてしまってやっぱり言葉にならない。

中期ショスタコーヴィチらしく烈しい局面も確かに多くて、そのときは第8交響曲などを聴くときの耳にチューニングすれば済みます。でもこの曲集ではそうした「滑稽と悲惨のステージ」をはるかに通り過ぎて、すでに後ろの番号の弦楽四重奏曲と同じような深淵、光の差さない暗い森が、ゆらっと覘いている。

ニコラーエワの演奏はただ悠然としている。彼女のタッチは急がないし、見得も張らないし、危険なアクロバットもやらない。彼女の演奏からはただ、静かな「音楽の皺」のようなものを感じる。
スコアに潜んでいる深い暗闇にあえて挑んで全部をぶつけるというのではなく、彼女自身に刻まれている「音楽の皺」の谷間の暗がりを、僕たちに聴かせている。老女の昔語りが、時としてものがたりよりも「ものがたり」であるように。

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1973年生まれのメルニコフの演奏は、どうだろうか。また、全曲を通しで聴いてしまったら、どんな気持ちがするものだろうか。

彼が2008年にとうとう録音してしまったこの曲集の評価や感想は、あえて避けてきた。プレーンな耳で判断したいのだけれど、僕の予想では、メルニコフはショスタコーヴィチの深淵に正面から切り込んでいって、しかもその征服に成功してるんじゃないかという気がしている。明日を待て。
by Sonnenfleck | 2012-02-25 12:12 | パンケーキ(20) | Comments(0)
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