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続|オハン・ドゥリアンは誰でしょう

続|オハン・ドゥリアンは誰でしょう_c0060659_6195972.jpg【PHILIPS(TOWER)/PROC1152】
<ショスタコーヴィチ>
●交響曲第12番ニ短調 op.112《1917年》
⇒オハン・ドゥリアン/
 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
●《ステパン・ラージンの処刑》op.119
⇒ヘルベルト・ケーゲル/
 ライプツィヒ放送交響楽団+合唱団

バイエルン放送響とのタコ10海賊盤が驚愕だったオハン・ドゥリアン。タコ12には正規盤があって、塔様が覆刻くだすった。

工藤先生のサイトを拝見するかぎり、1961年のムラヴィンスキー盤に続く「東側系」2例目の商業録音として、このドゥリアン盤にはまず大きな価値があるように思う(DECCAのロゴが無粋)。起用されたのがソヴィエトオケじゃなく、コンヴィチュニーからノイマン時代の旧いゲヴァントハウス管というのもなにか好い。

あの滅茶苦茶な第10交響曲からこの指揮者を知った人間からすると、ドゥリアンのここでの音楽づくりは、一聴すると拍子抜けするくらい格調高い。
オケの腰の重さを十分に理解したうえでの静かな第2楽章。この森閑とした趣きはコンヴィチュニーのショスタコーヴィチによく似ているし、第3楽章なんかムラヴィンスキーの忠実な副官みたいにして、冬宮に向け整然とした砲撃を喰らわせている。それでいて第4楽章は、勝利の金管がまるでブラームスみたいな渋~い音色を投げ掛けてきてたまらなく愛おしい。そして格好いい。

むろんドゥリアンはこの交響曲の本質をがっちり見抜いて、このように仕立てている。間違いなく。
第12交響曲は、ショスタコーヴィチの体制萌え系交響曲の総決算である。最近思うようになったのは、5番とか11番、12番みたいな作品を懐疑の目で解剖するのは「粋ではない」ということだ。男の子が巨大な建築物や重厚なメカに目を輝かせるような感覚は、簡単に消えるものではない。内面の比較的表層部分が感じていることを、作曲家が交響曲にしてはいけない決まりでもあるんだろうか。

並列的に何枚も舌を持ってるんじゃなく、レタスの葉っぱみたいに幾層も重なる別々の(≒同一の)個性が作曲家を運営していたのだ。今はそう思っている。

+ + +

《ステパン・ラージンの処刑》は実は初めて聴きました。なるほど。バービィ・ヤールの第6楽章に収まっててもおかしくないし、第14交響曲のプロトタイプとも言える。聴けてよかった。ケーゲル特有の寒々しい音色もバッチリ。
by Sonnenfleck | 2012-10-30 06:21 | パンケーキ(20) | Comments(0)
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