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on the air:井上道義/兵庫芸術文化センター管のプロコフィエフ(2/17)

c0060659_20123941.jpg【2012年11月16日(金)15:00~ 兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール】
<プロコフィエフ>
●バレエ音楽《ロメオとジュリエット》op.64から
●Vn協奏曲第2番ト短調 op.63
→パトリツィア・コパチンスカヤ(Vn)

●交響曲第7番嬰ハ短調 op.131
→井上道義/兵庫芸術文化センター管弦楽団
(2013年2月17日/NHK-FM)


井上ミッキーのオール・プロコフィエフ。
この御仁は現代日本でいちばんプロコフィエフの指揮が似合う人物だと思っていて(それはむろんプロコフィエフそっくりの見かけのためではなく)、このプログラムがもし東京で開かれていたら間違いなく駆けつけていただろう。

放送はなぜかメインの第7交響曲から始まった。
何度も書いているけれど、プロコフィエフの内面における抒情と破壊との分裂状態は、西洋音楽史上ほかに誰も陥ったことのない苦境へとこの作曲家を誘った。晩年のプロコフィエフはどちらかというと寂しげな抒情の方向へ作風を収斂させていったわけで、硬く結晶した破壊への憧れが薄桃色の抒情のキャンパスにぱらりと撒かれている様相に胸が詰まる。リリカルマシン。

第1楽章の超然としたメロディを、臆すことなく堂々と歌い上げるケレン。これはミッキーのとっても好いところで、しかも晩期プロコフィエフ演奏においてなくてはならない美点。音楽のお尻もキュッと引き締まって、あくまでも快活だ。
解説の伊東センセは「もっと奥の意味を主張した演奏がよかった」とかおっしゃってたが、僕は全然そうは思わない。プロコフィエフの「奥の意味」は決してフォーカスされてはいけない。ショスタコーヴィチじゃないんだ。プロコフィエフは。

第4楽章での急激な「運動」性の高まりは、まるでパステルタッチの絵本に機械が描かれているようなアンバランスを示す。
とってつけたように第1楽章の主題が回帰するところも、井上ミッキーは切々と愛おしむように歌う。そのあたりで音楽の実体は終わってしまって(ミッキーもそのような重点を構築していたように僕は感じた)、終結部は全然気の乗っていない改訂版。きっとこれでいいのだ。これで…。

+ + +

来週24日はコパチンスカヤをソロに迎えた協奏曲が放送されるみたい。こっちも必聴だなあ。
by Sonnenfleck | 2013-02-17 20:21 | on the air
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