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学生のころの話と、いずみホール古楽最前線!- 2018|躍動するバロックVol.5《ポッペアの戴冠》(1/19)

大学に受かった春、東京と神奈川の境目あたりにある街に出てきた僕は、入学式の人波に恐怖しながらたどり着いた先に数人のおねえさんたちを目にした。彼女たちは「バロックアンサンブル」と書いた手づくりの札を肩から提げていた。
かくして僕の「バロアン」時代が始まる。
(だいたい)1680年〜1760年くらいに書かれた小さめの編成の曲を定期演奏会にかけては1年をまったりと過ごすこのサークルで、ふるさとの訛りを隠すすべを身につけるのと並行して、僕は通奏低音見習いとしてこの狭い時代の音楽に親しんでいったのだ。

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大学で東京に出る前から満遍なくいろんな時代の音楽を聴いてきたけれども、しかしこのころ獲得した「狭いバロック音楽」の呪いが、結果としてずいぶん自分を苦しめることになりました。
「狭いバロック音楽」に浸った学生時代の自分には、たいていのひとがそうであるのと同じように切って売るほど時間があった。ヘンデルらしい進行やテレマンらしい進行、ときどきはコレッリらしい進行を浴びるように聴いて、その狭い時代に完璧に適応する代償として、時代の少し前や少し後の「逸脱」を許容し味わう能力を僕は失った。

さてクラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)は、1642年に《ポッペアの戴冠》を生み出して世を去った作曲家です。
モンテヴェルディの音楽は、たとえばヘンデル(1685-1759)に深く親しんで一体化してしまった耳からすればきわめて異質で、心地よくない。この「心地よくなさ」というのが曲者で、音楽史的にいくら重要だと理解していても心は拒絶が先に立つ。卒業してサークルを追い出されてからも、モンテヴェルディやカヴァッリやシュッツと自分の心の間にある深い溝を感じながら、あっという間に15年以上の時が流れたのだったが…。

そうして2019年は、モンテヴェルディとの和解から始まる!

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【2019年1月19日(土)14:00〜 いずみホール】
●モンテヴェルディ:《ポッペアの戴冠》
石橋栄実(フォルトゥーナ/ダミジェッラ)
鈴木美登里(ヴィルトゥ)
守谷由香(アモーレ)
望月哲也(ネローネ)
阿部雅子(ポッペア)
加納悦子(オッターヴィア)
藤木大地(オットーネ)
岩森美里(アルナルタ)
櫻田亮(ヌトリーチェ)
山口清子(ドゥルジッラ)
斉木健詞(セネカ)
小堀勇介(ルカーノ)
田中純(リクトール/護民官)
向野由美子(ヴァレット)
村松稔之(セネカの友人)
福島康晴(兵士/リベルト/執政官)
中嶋克彦(兵士/セネカの友人/執政官)
小笠原美敬(セネカの友人/護民官)
―――
リコーダー:太田光子、江崎浩司
コルネット:上野訓子、笠原雅仁
ヴァイオリン:伊左治道生、渡邊慶子、宮崎容子、丸山韶
ヴィオラ:宮崎桃子
ヴィオローネ:西澤誠治
チェロ:懸田貴嗣、山本徹
チェンバロ/オルガン:渡邊孝
リュート、テオルボ:坂本龍右、金子浩

指揮・チェンバロ:渡邊順生


緑に覆われた巨大な孤峰に登る和解の道は、どうやらオペラ、ということだった。
この登山道に至るまで、狭いバロック音楽の、しかも器楽に慣れ親しんだ心を徐々に溶かしてくれていたのが、レオナルド・ヴィンチ(1690-1730)が生み出した奇跡のオペラ《アルタセルセ》なんですけど(この出会いに関してはまたいずれちゃんとブログに書いて残したい)、生理的な快感としての声の力を十分に味わうすべをこのオペラで身につけて、それがモンテヴェルディへのアプローチにつながったのは、まさしく縁というか運というか。

つまり、別に後期バロックの和声進行であろうがなかろうが、声は深い溝を越えてこちらに届く。何の難しいこともなく、甘い重唱のハルモニア・ムンディが脳みそを覆い尽くす。そんなシンプルな力が電撃的にモンテヴェルディへの道を開いたのだ。
少し話がずれるけど、たぶんこの先の音楽オタク人生において、いずれロッシーニやドニゼッティ、またはパレストリーナやビクトリアへの道が開かれると思う。ヴェルディやプッチーニにはワーグナーを経由しないとたどり着けないかもしれないけれど、とにかくそこにも行けそうなんだよ。かように声の力はすべての障害を取り払う。

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いずみホールに初めて出かけていって、この日は当日券で前から2列目の右寄りを買い求めた。小編成の古楽アンサンブルはなるべく実音に近いところで聴くのが自分の流儀だからなんですけど、この選択は予想もせず吉と出る。

ホールに入ると舞台前方に渡邊順生氏が弾きながら指揮するためのチェンバロが縦に置かれて、その周囲を小さいオケが取り囲んでいる。
演技のスペースはその後方、オルガン台へのアプローチを使ってとても上手に設営されていて、また、自分の席の真ん前に、オルガン台との高低差を演出する小舞台が設えてある。これは佳いね。演出は髙岸未朝氏。

◆1.演出について
照明が暗転すると、この公演のために一度限り集められた超絶豪華な「オケ」が荘重なシンフォニアを奏でる。
やがて「アモーレ」(守谷由香氏)が戯けた身振りで舞台袖から出てきます。髙岸氏はこの後、ワキと道化と萌えキャラのキメラとしてアモーレを上手に使って、ものがたりを回していく。

神々の短い戯れが終わると、弱々しいコキュ・オットーネがふらつきながら入場。彼が懐かしく見上げるオルガン台の下の閨にはネローネとポッペアがいて、やがて後朝の別れを迎える。
ここでシュトラウスの音楽や、オクタヴィアンと元帥夫人を思い浮かべないわけにはゆかぬ!初代皇帝と同じ名前の小僧と第5代皇帝ネローネが同期するためには、ネローネが女声であればなおよかったんだけど、まあいいんだ。くどくどしい別れの台本に甘い音楽が纏わりつくのを陶然として聴いているうちに、この想念も消えていく。

やがてネローネはセネカと口喧嘩を始めるが、形成は見事に不利である。しこも愛するポッペアが邪魔立てするセネカを貶めるので、自尊心の鬼になったネローネによってセネカは自死に追い込まれます。
髙岸氏冴えてるなあと思ったのは、オルガン台の陰で手首を切ったセネカの腕から赤い血が滴る前で、ネローネとその部下ルカーノが男色に耽るシーンをしっかり描写したところねえ。ここはさっきの「女声ネローネ」と逆の「男声ネローネ」だからこそ強烈な印象を与えるのよ。視覚のインモラルが甘い音楽によっていやが上にも引き立つ。ところで、髙岸氏の見解ではネローネは受けである。

これとほぼ連続して、石女オッターヴィア(…捩れたオクタヴィアン!)の小姓・ヴァレット(ソプラノ)と侍女・ダミジェッラ(ソプラノ)がこの世の春のごとく絡むシーン。ここ、聴覚的には男声ネローネの男色シーンと鏡写しになるので、面白いくらい奥行きが出るんだなあ。視覚的にもルカーノ×ネローネと対比をつけて自由に舞台を走り回らせ、華々しいエロスで飾ってました。上手。

その後の筋書きはなんとも面白くないけれど、ドラマを維持するためにポッペアの乳母・アルナルタとオッターヴィアの乳母・ヌトリーチェが道化合戦を繰り広げる。ここでアモーレが最前面から前面に後退するのは少しもったいなかったが、乳母合戦にあんまり絡ませすぎても煩いし、バランスが難しいよね。。

敗残のオッターヴィアを流刑に処して、見よ、悪徳はどこまでも栄える。
この日の舞台ではネローネとポッペアのラストシーンはすごくシンプルなヘテロの絡みとして描かれていたけど、それはこのとき後ろで鳴っている音楽を踏まえれば当然だな、と納得。何しろ音楽がここでぶっとい浪漫を描写してるもんなあ。最後にアモーレに恍惚とした表情をさせたのもさらに好ましかった。
これはとにもかくにもエロスの成就だもんね。

◆2.演奏実践について
まずネローネの望月哲也氏は、男の脆さと虚飾を実に巧みに歌い込んでたと思われる。堂々とした体躯もそれを後押し。ポッペアの阿部雅子氏は天真爛漫7・邪悪3くらいの織り合わせで演じてまして、虚飾のないポッペアの実像という感じ。ただネローネに好かれただけで、このひと別にそんなに悪いことしてない。

オッターヴィアの加納悦子氏はさすがの貫禄で、絶望が服を着て歌っているような冷たい声質に背筋が寒い。
オットーネの藤木大地氏は、作中最もしょぼいこの男性をなよやかに描いて吉。藤木氏、最近よくメディアでお見かけするとおり叙情的な歌い口が味わい深く、次はヘンデルの世俗カンタータいかがっすかねえー。いずみホールよりもっと小さな箱でしんみり聴きたい。
セネカの斉木健詞氏も好かったなあ。強靭で滑らかなバスで完全にネローネに競り勝ち、これは自害でも仕方ない。

乳母コンビは前述のようにひたすら美味しい役どころですが、アルナルタの岩森美里氏は「怪演」のひとこと。夢に出そう。そしてヌトリーチェの櫻田亮氏は、いつも真面目にバッハを歌ってるひととは思えないコミカル演技ににっこりさせられました。

それから自分はやっぱり、「オケ」の魅力について書かずにはいられない。

ヴィオローネ:西澤誠治
チェロ:懸田貴嗣、山本徹
チェンバロ/オルガン:渡邊孝
リュート・テオルボ:坂本龍右、金子浩
指揮・チェンバロ:渡邊順生

という超豪華な通奏低音隊に、痺れるような快感を感じながら4時間を過ごす。これ以上の贅沢があるかなあ?
指揮というかプロデューサーを務めた渡邊順生氏は要所要所のリズムを引き締めながら、アンサンブルの主軸に渡邊孝氏をかっちり据えて、そのまま自由にやらせていた印象。10年前にヘンデルの《タメルラーノ》を聴いて以来、渡邊孝氏の鍵盤をやーーっと聴けましたよ。濃密なルバートも爽快な走句も自在。

そこへ懸田貴嗣氏、山本徹氏という古楽二大看板チェロ奏者が加わり、坂本龍右氏と金子浩氏の優しいつまびきが乗っかり、西澤誠治氏のヴィオローネが全部を受け止めて低く鳴る。繰り返しになって恐縮ですが、本当にこれは本当に耳福のきわみ。蠢く通奏低音隊、モンテヴェルディのようにキアロスクーロがきつい音楽ではさらに輝く

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カーテンコールでポッペアが泣いてた。
悪徳なのに善い舞台だったんですよ、礒山先生。
おしまい。

by Sonnenfleck | 2019-02-10 21:59 | 演奏会聴き語り | Comments(0)
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