ヨーロッパ肖像画とまなざし@名古屋ボストン美術館

c0060659_2110238.jpg名古屋ボストン美術館は、ありがたいことに平日は毎日19時まで開館してるんですね。エヴリディ勤労感謝。ということでこの間の木曜日、仕事場からの帰りに駆け足で観てきました。

全体は16世紀の肖像画→17...→18...という章立てが20世紀まで続くシンプルな構成。しかし「ヨーロッパ肖像画500年の変遷を一同に紹介!」なんて謳うわりになんだか物凄く物足りないんですよ。。出品数が特別に少ないというわけでもないのにそう感じるのは、やはり僕の側の問題、つまり肖像画を「工芸品」としか感じられないせいなのかなあ。陶磁器なんかと一緒で、差異を見分け、その中に画家の個性を見つけるのが劇的に難しい。要するにどれも同じに見えるんですね。
本展の半分以上を占める16~18世紀の作品においては、大体において画家自身「オレの個性の刻印!」ではなく「注文主のお気に召すまま…」を第一に考えてるということがあからさまに伝わってきます。確かにティツィアーノの《本を持つ男の肖像》(1540年頃)の肌の表現は非常に美しかったけど、その美しさはどうも表層的で好きになれません。しかもそれが素朴な偽善であるだけにたちが悪い。
…といってもそれが林檎に蜜柑の味を期待するようなものであることは承知しています。そもそも林檎の味わい方を知らない人間がどうのこうのと言える問題ではないのでしょう。

そんなわけで前半は華麗にスルー、後半へ歩を進めます。
ゴーギャンの《ステファヌ・マラルメの肖像》(1891年)とカリエールの《ポール・ヴェルレーヌ》(1891年頃)。幾分カリカチュアライズされた前者と、出来過ぎなくらいぼんやりとした後者には表現上大きな違いがありますが、もう表面的な感じはしない。画家の個人様式が肖像画の機能を破壊したところでやっと工芸品臭は消えます。セザンヌの《赤い肘掛け椅子のセザンヌ夫人》(1877年頃)の相変わらず分裂した意識も楽しい。スカートの模様に対するモノマニアックな拘り!
しかし逆に、表面を極限まで突き詰めた19世紀のアカデミー作品にはむしろ惹かれるという面白い状況も起こる。ロートレックやブラックの先生であるレオン・ボナ(1833-1922)の《メアリー・シアーズ(後のフランシス・ショー夫人)》(1878年※上に画像をアップ)は、本展の最大の収穫でした。展覧会名にある「まなざし」はモデルに対する画家の視線のことを言っているのだと思うけど、それを跳ね返すようなモデルの「まなざし」を感じたのはこの作品だけでしたね。表面によって内面が構築されてると言いますか、、見た目も深層もほとんど絵画版『ねじの回転』。ううむ。

◆公式サイト http://www.nagoya-boston.or.jp/data/a01_01.html
by Sonnenfleck | 2006-10-28 21:11 | 展覧会探検隊
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