モーツァルトの風

c0060659_6505031.jpg【DG/00289 477 7598】
●モーツァルト:交響曲第29, 33, 35, 38, 41番
⇒クラウディオ・アバド/モーツァルト管弦楽団

2006年に発売された《魔笛》を聴いて、アバドのモーツァルトはもう一小節一音符も聴き逃せないなーと思ったんです。
そしたら今年に入って、ARCHIV名義で(!)交響曲選集とVn協奏曲全集が発売されるというアナウンスがあったもんですから、指折り数えて発売日を待ちましたよ。しかもアバドの言うことに完全に従って演奏すると思われる「彼の」オケを使ってです。これは期待するなと言うほうがおかしいというもの。

しかしこれは、、聴いていてちょっと切なくなった。初めは。
指揮者の存在はもう霞のように消えかかっていて、流れ出てくる音楽はあくまで楽譜そのものの純粋なエッセンスのみという感じがするんです。確かにディテールはピリオドの方法に立脚しているから、どの曲でも(アーティキュレーション上の)瞬間的な沸騰が聴かれはするし、足回りも軽快ではあるけれど、指揮者の「表現する欲望」みたいなものが微弱で、もはや僕には感じ取れません。いや、そんなレベルはとっくに超越して、音楽だけが「ありてある」。

老いたイタリア人庭師が、人生の夕暮れどきに辿りついた境地―これはどのような技巧に従ってどのように木を刈り込むかではなく、周りに吹いている薫風をいかに捉えて、いかに葉末を震わせ、いかにそれを受け流させるか、そういうことじゃないかな。
水面を渡り、木々を撫で、何かに触れて何かの形を変化させることで風は存在をこちらに示すわけですが、風をすべて受け止めるほどの巨大な風車や、あるいは風を人工的に作ろうと思い上がった扇風機が風景に点在するなかで、マエストロアバドが手入れをした木々はまったく個性的には見えないかもしれません。でも彼だけが風を読んでいる。確実に。

史上最も静謐に始まる演奏と確信できる《ジュピター》もいいんですが、第29番は特に力が抜けきって素晴らしい。イ長調の幸福感「だけが」残る。
by Sonnenfleck | 2008-06-10 06:54 | パンケーキ(18)
<< イスの王様 名古屋フィル 第348回定演 >>