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2012年 06月 17日 ( 1 )

セザンヌ―パリとプロヴァンス@新国立美術館|あるいはシェーンベルクとしてのセザンヌ(6/3)

c0060659_13351146.jpg「あたくしゴッホが好きですの」「あたくしはルノワール」という応酬に負けじと「セザンヌ萌え!」などと叫べば、その場は一気に「お、おう…」という空気になること甚だしく、よってミーハーなるおばちゃんたちからは敬して遠ざけられる、セザンヌ。

一義的にこの状況はシェーンベルクも同じである。「モーツァルトやショパン…」というテクストのなかでは、シェーンベルクの名前は禍々しい呪文のように響く。
もう少し拡げて言えば、セザンヌもシェーンベルクも、後代に与えた影響の大きさは計り知れないが、彼らそのものの作品が一般に広く知られているとは到底言い難いということでもある。

ところで、シェーンベルクに《ピアノ組曲》op.25という作品があります。
シェーンベルクが初めて全面的に十二音技法を用いて作曲したこの作品が、
I プレリュード
II ガヴォット
III ミュゼット
IV インテルメッツォ
V メヌエット
VI ジーグ
という極めて古典的なフォルムをしていること、皆さんはご存じでしょうか。

完全に新しい作曲技法を自信たっぷりに披露する際に、シェーンベルクがなぜ古典舞曲の集まりを用いたか。いくつかの理由があるのだろうけど、音楽史のなかでよく知られた「かたち」と、そこに盛りつけられた新料理との間で起こる著しい異化を、シェーンベルクが計算していないわけはない。



↑op.25をポール・ジェイコブスの演奏で(背景はフランツ・マルク)

+ + +

この展覧会の会場で、次の作品から電撃的にシェーンベルクの作品25が想起させられたのは、岩場の風景という伝統的なお皿の上に載っかっている強烈な新料理が発見されたからである。これが、ファン層よりもマニア層のほうが厚いという点よりも重要な、シェーンベルクとセザンヌの本義的な共通性ではないだろうか。

◆《フォンテーヌブローの岩》(1893年、メトロポリタン美術館)
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岩場、という何の変哲もないお皿にセザンヌが載せたのは、視野のなかに宿命的に紛れ込んでいるフォルムの焙り焼きとでも言えるようなものである。5分くらいじっと視ていると、岩と木々が(本質的には岩と木々そのもののまま)同じ本質を持つ別の実体に見えてくるんだよなあ。あーでもうまく説明できねえなあ。

僕たちの絵画鑑賞においては、しばしばお皿の貴賤や軽重によって第一次の判断が行なわれ、たいていはそれがそのまま最終次の判断になってしまう。セザンヌの用意しているお皿の地味さは、それが本来的にセザンヌの最強の戦略であることを意味している。シェーンベルクの文脈で言えば、僕たちはヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲などを思い出してもいいかもしれない。

◆《ビベミュスの岩と枝》(1900-1904年、パリ・プティ・パレ美術館)
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もう一歩進むとこうなる。フォルムの黒焼き。弦楽三重奏曲。

+ + +

つづくかも。
by Sonnenfleck | 2012-06-17 13:41 | 展覧会探検隊