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カテゴリ:on the air( 179 )

on the air:チョン・ミョンフン/東フィル ブラームス・ツィクルスⅠ

金曜日お仕事@大阪→名古屋で会社同期と一席→名古屋泊→土曜お仕事@名古屋→名古屋で同僚たちと一席→土曜深夜帰京。名古屋でも雪が降るくらい寒かったこともあって今回は特に疲れたああ。
いろいろ行きたいコンサートもあれど、体力の乏しいリーマンは家で休養しなければならない。…って寝てたらもう夜だよ!午後のギーレン特集聴きたかったよ!
昼食だか夕食だかよくわからない食事を摂って、FMにかじりつく。

+ + +

c0060659_22121924.jpg【2009年7月24日 サントリーホール】
<ブラームス>
●交響曲第1番ハ短調 op.68
●交響曲第2番ニ長調 op.73
⇒チョン・ミョンフン/東京フィルハーモニー交響楽団
(2010年2月7日/NHK-FM)

一時期どっぷりとはまっていたウェブラジオ。
2004年製のPCがそろそろ発熱を伴うようになってきて、負荷を掛けぬように最近はアクセス凍結中です。「on the air」カテゴリも久しぶりね。
久しぶりといえばチョンも東フィルもずいぶん久しぶり。いつごろからか東フィルの定期演奏会がほぼすべて平日に移行してしまったために、在京オケの中でも最もライヴで聴く機会の乏しいオケになってしまった(新国立劇場のピットに入っているときは別だけども)。久しぶりだ。どうだろうか。

いや、いいねえ。もんのすごくいい。

半ば強引に、音響をグイグイと前に持っていくチョンのスタイルは以前聴いていたまま、しかし東フィルがそれに応じる能力が着実に進化しているように思った。
チョン・ミョンフンの直截な音楽趣味を10年近くにわたって注ぎ込まれてきた結果なのかなあ。オケの側に、燃焼することに対する抵抗みたいなものがもう全然なくなってるんですよね(ノリのいい指揮者の下でもノリきれずにぶすぶすと不完全燃焼を起こされてしまうと、ノリの悪い指揮者と一緒にノリの悪い演奏をされるよりもなお、客としては空しい気持ちになる)

ブラ1もブラ2も、ひたすらシンプルに、熱い音楽をやってやろうというスピリットを燃やして運転が行なわれている感。自分のキャラを把握した上での能天気や、逆に猜疑心を音に込めたような暗さばかりが悪目立ちする傾向にあって、これは貴重な記録だと思う。
しかしプロとしての大切な一線―アンサンブルの精度だったり、自分が和音の一部であることを忘れない節度だったりすると思うけど、それがないがしろにされていないのも驚き。こんな積載量のうえこんなスピードで突っ込んだらプロオケでも曲がり切れない!というようなヘアピンカーヴを、グンッ…とドライヴするチョンさんかっけえ。第1番の第4楽章は胸がすくようなパフォーマンスでございました。

一方、チョンさん(さん付け)の趣味も、強引niマイYeah~!という感じでなくなってきたのが興味深い。
第1番の第1楽章、そして第2番の第4楽章で聴かせてくれている「てろり」とした奥行きのある輝きは、この人の新たな境地としか思えない。アーティスティック何とかの任期は終わるかもしれないが、次にチョンさんが振りに来るときは、生を聴かねばならぬ。これでは。
by Sonnenfleck | 2010-02-10 22:17 | on the air

「青い文学」第5&6話―坂口安吾『桜の森の満開の下』

メリクリ!(←テンション5割増し)
善男善女の多いクラブログ界隈ではまだ誰もやっとらんだろうと思ってのんびりしてたら、ヽ['A`]ノキモメンさんに先を越されてしまってぐぬぬぬ。

ガーター亭さんに倣ってオネゲルを聴こうかとも思ったけれど、連日の残業では元気も出ず。この時期は仕方がないのだ。そうしてまた今年も、一年に一度しか聴かないレオンタイン・プライス+カラヤンのクリスマスアルバムを聴いている。

+ + +

さて。こういうトンデモ作品が何の前触れもなくポッと出たりするから、まだまだテレビも捨てたもんじゃないよね。
土曜日深夜に日本テレビで放送中の「青い文学」は、堺雅人が冒頭数分のナビゲータ兼主演声優として登場し、『人間失格』→『桜の森の満開の下』→『こころ』→『走れメロス』→『蜘蛛の糸』→『地獄変』の順番に有名作品がアニメ化されていくシリーズ。なのだが、『桜の森の...』の知名度はこのラインナップの中では明らかに他より劣っているような気がするし、どうしてこの作品が選ばれているのか、不思議ではあった。

最初の『人間失格』は、堺雅人が演ずる葉蔵クンがゾッとするくらいはまり役だったくらいで、まあこんなもんかな…という感じでしたが、この『桜の森の満開の下』は違っている。
妙なるエロと血の臭いのするグロが静かに渦巻いたこの作品に、まさかのスラップスティックコメディと、わざと安っぽく崩したためにかえって記号的になった萌え要素を混ぜて、しかもそれをミュージカル仕立てにしようなんて、誰が考えるだろう。普通は誰も考えない。異常な演出だ。作り手がシリーズ中のどこかでこうした異常な演出を施したいがために、この作品が選ばれたような気がしてならない。従ってもともと異様なストーリーがさらに奇怪な姿になってしまった。

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キャプチャ画面からはコメディや萌えの部分をあえて外しましたが、シリアスなエログロシーンもなかなか美しい。

時節柄もしかすると微妙かもしれないネタはカッチリと原作準拠で、切り取られた首同士を接吻させて女が遊ぶ様子や、絞め殺された女の表情をリアルに描写してしまう。深夜帯とはいえよくこんな描写が許されて電波に乗っているなあと感心するのと同時に、コメディや萌えを混ぜてもギリギリのところで「文学」に踏み止まるバランス感覚にも驚いた。(ただし、盗人の姿が桜の花びらと化すラストシーン、ここを原作の文章のカットを多用して閉めるのは少しずるい。)

このお話、たとえばCG混ざりの実写でやったって面白くもなんともないでしょう?こういう野心的なアニメーション作品を見ると、表現手段としてのアニメはイメージ面でつくづく損をしているなあと思う。
いよいよ今週末、『蜘蛛の糸』と『地獄変』の二本立て!
by Sonnenfleck | 2009-12-24 23:06 | on the air

on the air:大阪シンフォニカー響 第136回定期演奏会

c0060659_6302343.jpg【2009年6月19日(金) ザ・シンフォニーホール】
<ドイツ・ロマン派の秘密>
●S. ワーグナー:歌劇《異教徒の王》~間奏曲〈信仰〉
●同:交響詩《幸福》
●ブルッフ:交響曲第3番ホ長調 op.51
⇒児玉宏/大阪シンフォニカー交響楽団
(2009年8月23日/NHK-FM)

はあ。そうなのです。大阪シンフォニカー交響楽団もプログラミングが凄いのです。冴えまくっているのです。もうちょっと名古屋にいる期間が長かったら(あと、定期が平日じゃなかったら…)、きっといつかシンフォニカーの定期は聴きに行っていたはずなのです。この定期演奏会もマニアックな章立てで、ぶらあぼの裏表紙裏に載っているキレイな広告を見て、ムズムズと行きたくなっていたのでした。FMシンフォニーコンサート様様だ。

実にジークフリート・ワーグナーの音楽を聴くのは本当にこれが生まれて初めてでして、確かにオヤジさんに酷似してはいるものの、オヤジさんにはない肯定的な素直さがスコアに漲っているみたいで、これはこれでいいなあと思う。無条件でキレイだもんなあ。児玉氏の指揮を聴くのは初めてのような気がしますが、ここではシンフォニカーの音色は明るく色彩的で、何よりそこからノリの良さみたいなものを感じるんですよね。ノリのよさは演奏者側の強い理解と深い共感によってのみ生まれるものと思いますが、未知の作品を聴かせてくれるのにこれほど大事な要素はない。こないだのヴィラ=ロボスのときも強く感じたこと。

オペラの超絶ハッピーエンドの予感を漂わせる間奏曲〈信仰〉の美しさ。豊かな旋律美に基づく音楽が、素直に幸福を物語る交響詩《幸福》。確かに第一次大戦から戦間期にかけてこんなに素直なロマン派ぶりを示していたら、「勝者」たちが書いた音楽史の中では一章も与えられないだろうし、オペラでもし何時間もずっとこの調子だったら、脳ミソに花が咲きそうで辛い。それでもグラズノフやラフマニノフがオケのレパートリーとして定着しているのなら、このジークフリート・ワーグナーだって普通に聴かれていいよなあ。簡単に忘れられるには惜しい才能のように思いました。「勝者」たちが「ネタ」化した今だからこそ。

さてブルッフ。クラシック好きの(たぶんクラヲタではないと思う)友人の中に随分なブルッフ好きがいまして、一体ブルッフの何が彼を駆り立てるのか謎でしたが、この放送でその一端が窺えたような気がします。ああこれはカッコイイ。
結局さっきの話に戻ってしまうけど、ブラームスはシェーンベルクにジョイントされたために「勝者」の音楽史にも名前が残ったのに対し、ブルッフがウェーベルンに華々しく評価されたというエピソードがない以上、半ばは意図的に埋められていったというところなのでしょうか。音楽史がドラスティックに変わっていくのが許せない人たちだって、きっといたはずなのです。児玉氏からのメッセージにもあるとおり、自分はここにメンデルスゾーンを感じる。溌剌と躍動する親しみやすい旋律、全然深刻ぶらない第2楽章の優しさ、これも忘れられるのは惜しい。。
by Sonnenfleck | 2009-08-26 06:31 | on the air

on the air:T. フィッシャー/名フィル 第359回定期演奏会

c0060659_6101880.jpg【2009年6月12日(金) 愛知県芸術劇場】
<ストラヴィンスキー 三大バレエⅠ>
●ショスタコーヴィチ:《祝典序曲》 op.96
●モーツァルト:Pf協奏曲第9番変ホ長調 K271 《ジュノーム》
→北村朋幹(Pf)
●ストラヴィンスキー:《春の祭典》
⇒ティエリー・フィッシャー/名古屋フィルハーモニー交響楽団
(2009年8月9日/NHK-FM)

FMシンフォニーコンサートで名フィルの定演。名古屋にいれば絶対に行っていたはずなので、とてもありがたい。

最初のショスタコーヴィチ《祝典序曲》は、確か当初はマルタンの《四大元素》という超絶マニアックな作品が予定されていたところからのメジャースライド。
ここでは、名古屋時代から少し気になっていた金管隊の重々しさが、ディヴェルティメント的に足回りを軽やかに仕上げてしまうフィッシャー親方と、微妙な齟齬がなくはないなあ、という歯切れの悪い感想です。。あのよく響く愛知県芸のせいもあるだろうし、バンダがいるからそのように聴こえるのかもしれない。

続いて、モーツァルトの《ジュノーム》
まずはオケが、思ったより編成を刈り込んでいないように聴こえるのが興味深い。確かに昨年夏のベートーヴェン第5では、前半のショスタコーヴィチVn協奏曲とほとんど変わらない厚みでもって、アーノンクール直伝の不自然派とでも呼ぶべき演奏があのように顕現したのですから、今回もおかしい感じはしない。

第1楽章のカデンツァの直後の、トゥッティが肩をひゅうっと竦めるようなお洒落なアーティキュレーションなんか、この日一番の「あーフィッシャーっぽい」ポイントだな。第2楽章でソロに寄り添う優しげなアンサンブルが、突如氷のように冷たい態度に出たりするのもをかし。
北村君は少なくともFMの電波で聴く限り、ずいぶんアーティキュレーションが平板だなあという印象を免れませんでした。第2楽章のカデンツァのアイディアはなかなか面白いけど、全面を白磁のような育ちの佳いタッチで覆ってしまうのが藝術だろうかなとも思う。お好きな人はお好きでしょうけども。第3楽章はいたずら小僧のように軽く罪のないタッチがとてもよかった。

+ + +

後半に《春の祭典》です。ドキドキする。
細かい指示が飛んでいるらしい様子が、冒頭は少しおずおずとした音運びから伝わってきますが(何やらFlにおかしなことをさせていたぞ!)、音色の重なり合いにこだわりを持ちつつ、総体としてひんやりとしたアンサンブルに纏め上げる手腕は変わらず。マッシヴさのまるで欠けた〈春のきざし〉の、しかし鋭く冴え渡るリズム感!これはいい!
映像が次々と後ろにすっ飛んでいく〈誘拐〉。続く〈春のロンド〉はたとえばコバケンであれば重みと脂っこさだけで押し切る場面だけども、この演奏ではトゥッティのフォルテでもなお透明感を失なっていないのが驚きです。根底にある律動感のようなものが絶えず参照されて、停滞する暇がない。かなりの速度で突っ込んだ〈大地の踊り〉はアンサンブルが若干崩れかかってヒヤリとさせられましたが(苦笑)

第2部の〈序奏〉はフレーズのおしまいのところが面白くて、スダレ状に響きを残すパートと、さっさと片づけて先に行くパートが並存しています。複数回そのようにされたので演奏ミスではなく指揮者の指示と解釈しましたが、これも効果的なカラクリだねえ。
〈乙女の神秘的な踊り〉のデジタルオルガンのように空虚な和音が耳に残る。最後に〈生贄の踊り〉にかけてはちょっとカラータイマーの点滅が見えてきて、スタミナ切れ間近の中を首尾よく駆け抜けた感アリ。最後の一打とか、響きがタイトで物凄くカッコよかったですけどね。

徹頭徹尾、冷静な律動管理なので、これは名フィル的には地獄の特訓だったのではないかと思います。お疲れさまでした。タト山センセは「演奏全体がやや前のめり」の一言で片づけましたが、たとえば老人の前のめらない気の抜けたハルサイに比べてどちらがいいかと言ったら、それは。ね。
by Sonnenfleck | 2009-08-10 06:13 | on the air

on the air:タモリ倶楽部「大橋ジャンクション完全踏破!!」(1)

c0060659_8145632.jpgここ数週間見ていなかったら、予期せぬ大特集でした。
2週間にわたる企画に力が入っているのは当然ですが、今回はタモリの専門領域から少しずれていると思われる土木建築系社会科見学。こういうときのタモリは、素朴を偽装しながら一方で虎視眈々と注意深く知識を吸収する姿を見せるので、その点からも必見と思われます。(テンションが高すぎてそろそろ気持ち悪い江川達也が、みんなの注意を引きつけてくれるのでなおさら。)

大橋ジャンクションは、東京都目黒区に設置される首都高速道路の3号渋谷線と中央環状線を結ぶ建設中のジャンクションである。
中央環状新宿線 西新宿JCT-大橋JCT間は2010年3月、中央環状品川線 大橋JCT-大井JCT間は2013年度開通予定となっており、これに併せて大橋JCTは、2010年3月より一部、2013年度より全面供用開始予定となっている。
Wikipedia「大橋ジャンクション」より)

2回シリーズの第1回は、深さ60メートルの松見坂立抗から潜入し、シールドマシーンで掘り進めたトンネルを大橋ジャンクションまでてくてく歩くシーン。立抗の鋭い高低差、白銀色に輝く地下トンネル、工夫を凝らした歓喜換気システム…これは歩いてみたいぞよ。それにしても日本の土木技術の粋を手加減なしに教えてくれる番組が、民放ではせいぜいこの30分間くらいのもの、というのは悲しいじゃありませんか。

薄暗い地下道でタモリがいつサングラスを取るかハラハラしましたが(笑) トンネル構造体である黒い鋳鉄を触るタモリ、資材運搬用のバッテリー式機関車とレールを見てはしゃぐタモリ、と、この番組はタモリに萌える30分間でもあります。大橋ジャンクションの巨大カタツムリ状構造が見られるのは来週。
by Sonnenfleck | 2009-08-09 08:15 | on the air

on the air:名曲のたのしみっ。吉田秀和。(2009年盛夏バッハ)

c0060659_6315275.jpg【2009年7月25日(土) 21:00~22:00(NHK-FM)】
<私の試聴室:バッハ>
●平均律クラヴィーア曲集第1巻*
 ~第1番ハ長調、第3番嬰ハ長調、第4番嬰ハ短調
●同第2巻*
 ~第14番嬰ヘ短調、第16番ト短調
●無伴奏Vnパルティータ第3番 ホ長調 BWV1006**
●平均律クラヴィーア曲集第1巻*
 ~第8番変ホ短調 前奏曲

⇒アンジェラ・ヒューイット(Pf*)/ヴィクトリア・ムローヴァ(Vn**)

95歳と10ヶ月の吉田先生。今宵は口調がおじいさんおじいさんしていない。
「私の試聴室」コーナーが好きで、ハイドン音痴のために最近は聴いていなかった「名曲のたのしみ」を受信する夜。冒頭、グールドについて触れる老先生ですが、グールドの短い生涯は、この人の長い人生にすっぽりと収まっているんだなあ。
そのグールドから自由に飛び立つヒューイットの平均律。
僕はこれまで、なんとなくヒューイットを聴かず嫌いで来たのだけれど、どうもそれは間違いどころか損失であるような気がしてきました。この放送で取り上げられた平均律は、真夏の正午の麦茶のように爽快で、、その透き通った音でもって空気を冷ややかにしているような、そのような感じです。ファツィオーリの特性なのか、ヒューイットのタッチに秘密があるのか。。

一方、吉田秀和をして「この演奏を聴くとバッハがわざわざ面倒くさいポリフォニーを使った理由というのを納得させられる」と言わしめる、ムローヴァの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番。
なるほどアタックも音質も素直かつ植物的で、時に鋭く鳴り過ぎていて集中して聴くのが辛い局面も確かにあるけど、幾層を重ねてもずっとクールビューティなこの音響体に、確かに惹かれるところ大。〈ガヴォット〉への軽いあしらいなんか、薄荷のような甘みを感じさせて実に素敵な印象を受けます。他の曲をどのように実現しているか、確かめなくては。

グールド聴いときゃいいシェリング聴いときゃいい、というレコ芸ヒョーロンカ先生方の醜さから、先駆者自身がすっきりと飛び出してしまっているよい例でありましょう。自分がもしこの先、95歳を超える年齢まで生き続けると仮定して、このように新鮮な演奏に相対する澄明な感性を持ち続けていることができるだろうか?
by Sonnenfleck | 2009-07-29 06:37 | on the air

on the air:尾高/N響 第1647回定期公演から。

c0060659_6175325.gif【2009年5月15日(金)? 19:00~ NHKホール】
<エルガー>
●Vc協奏曲ホ短調 op.85
→ロバート・コーエン(Vc)

●交響曲第2番変ホ長調 op.63
⇒尾高忠明/NHK交響楽団 (2009年7月12日/N響アワー)

最初は何気なくテレビのスピーカーで聴いてたんだけど、何やらめちゃくちゃ佳い演奏のようでしたので、慌ててオーディオのスピーカーに繋ぎ直し、謹聴謹聴。

プログラミングにいささかの進歩も見られず、個人的には激しく魅力を減じている保守勢力の一大牙城・N響ですが、保守的なプログラムを組んでいい指揮者を迎えると、今もってたまに確変的な名演奏を出すのが侮りがたいところです。
この公演も「エルガーのチェロコン何回やってるんだよ…」という目でしか見てませんでしたが、実際は後半のメインプロが強力であった模様。コンマスが紺色の御仁だったのに、腰の据わった重々しいこの響き、集積された落ち葉のように重なるエピソード、、エルガーに見放されている僕であっても感情が高められるというものですよ。

この前、シベリウスの(自分にとっての)わかりにくさについて書きましたが、エルガーもその意味ではなかなか難しい作曲家です。シベリウスとは違った意味で時間の刻み方が渋くて、決してシンプルでもあざとくもなく、激昂もせず笑いもしない。これもシベリウスみたいに「移動」の線上に乗せてみたらと思って、名古屋にいたときはクルマで聴いていたりもしましたが、エルガーは車のスピード感には合わないんだなあこれが。あるいは「移動」よりも、「停止」した場所で、そこからの眺めや風の変化と共に楽しむのもいいかもしれない。
by Sonnenfleck | 2009-07-17 06:18 | on the air

on the air:大河ドラマ『天地人』~第24話「戸惑いの上洛」

c0060659_6213175.gif福島正則が空を飛ぶような演出を誰が喜ぶのか?

脚本家と演出家はコメディのつもりでやってるのかもしれないけど、質のいいコメディなら当然備えている節度もないし、恐ろしい寒々しさを感じる。コメディ路線で不人気だった『新選組!』には少なくとも自己を抑制する感覚を感じたし、常套性に陥らない鮮烈な演出があったのに対して、『天地人』は酔っ払いの宴会芸のようにどこにもオチがなく、誰をターゲットにしたのかわからない表現ばかりで、公共の電波の中を無駄に漂っているだけ。はっきり言って今年の脚本家と演出家は全然センスがないということです。

上杉景勝と直江兼続の話はうまい具合に込み入ってて決して悪い題材じゃないのに、三流の脚本家と演出家が低俗なホームドラマに仕立てた。こんな番組の制作費を支えるために受信料を払っているわけじゃないんだ。制作陣は顔を洗って一から出直したらどうだろう?
by Sonnenfleck | 2009-06-18 06:22 | on the air

on the air:カンブルラン/南西ドイツ放送響のカーター

c0060659_6335761.jpg【2001年9月9日 ルツェルン・文化会議センター】
<ルツェルン音楽祭'01>
●ハイドン:交響曲第82番ハ長調 Hob.I-82 《熊》
●カーター:Ob協奏曲(1986-1987)
→ハインツ・ホリガー(Ob)
●同:Symphonia "Sum fluxae pretium spei" (1993-96)
 ~第3楽章 アレグロ・スコッレヴォーレ
●ラヴェル:《高雅にして感傷的なワルツ》
⇒シルヴァン・カンブルラン/南西ドイツ放送交響楽団
(2002年3月27日/NHK-FM)

エアチェックしたMDを眺めてたら、カンブルランの8年前のライヴが。恐らく彼が得意な古典とモダンの溶接プログラムでした。接合部が奇怪に目立つことこそカンブルランの狙い!

しかし真ん中の2曲のカーターが、カッコよかったんですな。
カーターは「ゲンダイオンガクらしいゲンダイオンガク」だけど、ダイナミックレンジへのあからさま挑戦は行なわれないケースが多いような気がする。ゲンダイオンガクに欠かすべからざる急激な音量増大が苦手な僕からすると、カーターの比較的穏健な前衛ぶりは心地よく響きまして、このオーボエ協奏曲だって、1945年に85歳のマーラーが交響曲第20番を初演した後に書き上げた気軽なピースくらいに思えます。

テクスチュアは混雑しているけどカンブルランの手腕もあってか追いきれないほどではないし、むしろ音響が塊になっているところよりも散逸しているところのほうが多くて、そういった箇所の和音の透明感はこの曲に強い価値を与えているんじゃないかしら。なるほど読響で聴いたラモーと《クープランの墓》から予想されたとおり、こういう作品をやると滅茶苦茶に透き通った時空を発生させるカンブルラン。ホリガーの適切な超絶技巧、幅の広い音色はこの時点でまったく健在であって、気まぐれな王様のように振舞います。オーボエを協奏作品のソロに仕立てる作曲家は、オーボエの音色がもたらす思念に捕捉されるんでしょうね。ラヴェルしかりシュトラウスしかり、カーターしかり。

Symphonia "Sum fluxae pretium spei"(なんと訳すべきだろう?)の第3楽章もその名前どおり滑らかで、激しいダイナミクスによる断崖絶壁がないので安心して混雑した響きに浸っていられます。子どものころ、実家の裏山に山菜を採りに入ると、ときどきこういう害のない安心カオスに周囲を取り巻かれることがあった(これは当然、人家に近接した里山だからあり得たことなのだろうと思うけど)。この感覚は音楽そのものからはかなり遠いけれども、曲調に微妙な懐かしさを感じるのは、そんな記憶が根を張っているからかもしれない。

+ + +

《高雅にして感傷的なワルツ》は、ジタバタドスドスとしたアーティキュレーションがグロテスク。なんかさ、、そもそもこういうのが好きな人なんだね。カンブルラン。
by Sonnenfleck | 2009-06-10 06:35 | on the air

on the air:下野竜也/読売日響 第481回定演 [黛]

c0060659_6295071.jpg【2009年4月7日(火) サントリーホール】
●芥川也寸志:《エローラ交響曲》
●藤倉大:《アトム》(読売日響委嘱作品/世界初演)

●黛敏郎:《涅槃交響曲》
→東京混声合唱団
⇒下野竜也/読売日本交響楽団
(2009年5月31日/NHK-FM)

先週から2週連続で取り上げられている読響の定期公演。いよいよその後半部分、黛敏郎の《涅槃交響曲》です。

この曲こそライヴで体験してみたかったなあ。
まずは、第1楽章〈カンパノロジーI〉終結部でのブルックナーのような荘厳なマチエールに対する、第2楽章〈首楞厳神咒〉に現れた静けさ(これは物理的音量とは異なる!)から、仏教の感性を螺鈿細工のようにして「交響曲」に埋め込んだことによる効果のことを考えてしまう。
この場合、「地」の側が、仏教にまつわるものごとに比べると圧倒的すぎる力を持っているので、西洋音楽に精通した指揮者がこの作品を解釈することのアンフェアについても思いをいたすところであります。坊さまにも指揮をお願いしてみたらどうなるだろう?サントリーホールではなくたとえば延暦寺で?―しかし、こういったもしもトークも、結局のところ溶け合わない二者同士の独立が前提になっているわけです。そもそもがこういう作品なのだろうか。

もし第5楽章〈カンパノロジーIII〉でこの曲が終結してしまったなら、このモヤモヤした思いも確定的になってしまっていたのかもしれない。マエストロ・シモーノの特性や読響の好みを考えれば、彼らがこのアレグロ・マルカートな楽章に強い意味を感じているのはあまり疑いのないことだと思うし、事実、素晴らしくマッシヴな「西洋音楽」の演奏だもの。
そうなるとその後の第6楽章〈一心敬礼〉の存在がまったく心憎い。螺鈿細工の貝の殻も、土台となる漆器も、すべて砕けて粉々になりながら混ざり合う感覚―この楽章の奇妙な色気に、メシアンのような何かを見つけ出さないわけにはいきません。作曲者も最終的には溶け合いの方向で決着にしたんじゃないかなあ。

猿谷氏によれば、当日の会場には「若人」も多く訪れていて、演奏後の歓呼がなかなか収まらなかったとのことです(確かに拍手の冒頭、いいブラヴォが飛んでいました)。エローラの肉体賛美よりももっと奥まったところにある美のほうに、強く反応していたのかも。
by Sonnenfleck | 2009-06-03 06:52 | on the air