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名古屋フィル 第347回定演

【2008年5月17日(土)16:00~ 第347回定期/愛知県芸術劇場】
<ツァラトゥストラ2―隠れた世界>
●ハイドン:《天地創造》 Hob.xxI-2 ~ 第1曲〈混沌〉
●ケクラン:管弦楽のための夜想曲《星降る天穹に向かって》 op.129(日本初演)
●ロータ:トロンボーン協奏曲
●マルタン:トロンボーンと管弦楽のためのバラード
  ○アンコール ?:《波止場にたたずみ》
           クルティス:《帰れソレントへ》
→ジョゼフ・アレッシ(Tb)
●シベリウス:交響曲第5番変ホ長調 op.82
⇒金聖響/名古屋フィルハーモニー交響楽団


このプログラムが暗示しているのは、無神論に対応する不可知論なのかなと思った。

ハイドン→ケクラン→シベリウスはこれらの作品の中で人が知り得ない領域を音楽化しようと試みたと言えるし、だとすれば、人に属する神秘の尾っぽとして宗教性を纏わざるを得なかったトロンボーンをここへ持ってくるのは、西洋音楽史的には当然の帰結だと思われる。
本当のところはどうなのか知らないけどさ。

ただ ― 陽気なヤンキー・アレッシの「気のいい」アンコールは措くにしても ― この一見雑多な5人の作曲家による120分間は、(これが凄いんだけど)耳で聴いても新鮮な統一感に貫かれており、またもホールの椅子の上で唸らされてしまいました。
前回の定期に引き続きですが、「ツァラトゥストラ」シリーズはただ闇雲に変な曲を並べてみましたということではなく、信じられないくらい細やかに考え抜かれた結果としてああいったぶっ飛びプログラムになっているんじゃないかと、、気づかされつつあります。

+ + +

金聖響はやはりバロックティンパニを持ち込んで、《天地創造》冒頭を演奏します。
対向配置でなかったのはこの後のプログラムによる要請だと思いますが、そのぶん目の釣りあがったようなノンヴィブラートを徹底させて厳しい音響に仕立てる。ちょっとやだな。

そして(想像どおり)、ハイドンからアタッカでケクラン《星降る天穹に向かって》に移行。
語法はまったく異なるのに、この継ぎ目のなさ。。並べて聴くと物凄いぞ。。
(つまりハイドンのカオスがいかに前衛的であったかということですね。)
実は、ラ・フォル・ジュルネでもらった無料パスを使いNMLでこの作品を予習してたんだけど、まんまメシアンのご先祖さまという感じなんですよ。子孫より旋律が直截でずっと陶酔感が強いものの、混濁した肌触りの心地よさは「血のつながり」を感じさせます。
それゆえに、金氏の刺さるような音楽づくりに僕は異議を申し立てたかった。ステージ上に尖がった三角錐がたくさん並ぶような音響は、ハイドンでは一定の効果があったけど、この作品のマチエールにはまったく似つかわしくないもの。。

ロータの新古典的な協奏曲、マルタンの十二音+ジャズなバラード
耳に届く不可知として威容を誇ってきたトロンボーンが、新古典主義と十二音の前に引き摺り出されて裸にされる末路…。バラードの最後にソロが「ぷあぁぁぁ...ぁ」と断末魔を上げる箇所なんか、よくできてるなあと思ったです。
NYP首席奏者のアレッシはとてつもなく滑らかな発音、かつピアニシモが抜群に太くて、あーこのへんが一流の人なのねーと思わせる。どちらもオケはギスギスゴシゴシと造り込まれていて、今度はこれらの曲調に映えるし、アレッシとの断絶も効果的に現れています。

最後のシベ5。テンポも妙に速くて、本当は「シベリア5番」なのではというくらい寒々しい音響に仕上がっていたように思いました。シベリウスはいまだに自信を持って「わかる」と言い切れないので、最後の高揚で盛り上がれなかったのが自分のせいなのか演奏のせいなのか曲づくりのせいなのか、判別に苦しんでいます。聴かれた皆さん、どう思われましたか?
by Sonnenfleck | 2008-05-18 09:25 | 演奏会聴き語り

on the air:ハイティンク/シカゴ響のマラ6

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自主制作CDにして売ってる演奏?をオンデマンドで流してしまうシカゴ響萌え。

【2007年10月 シカゴ・シンフォニーセンター?】
●ワーグナー:《ジークフリート牧歌》
●マーラー:交響曲第6番イ短調
⇒ベルナルト・ハイティンク/シカゴ交響楽団
(2008年5月11日/BP CSO RADIO BROADCASTS)

6番が直情的な作品だと思い込んできた僕のような温いマーラー好きにとっては、実に衝撃的な内容でした。
つまり、そのようにしか聴けなければ、この演奏はひたすらフラットで停滞した状態にしか聴こえない。一方、6番でもマーラーはいつもと同じように(たとえば3番や7番のように)立ち止まったり意識を拡散させたりしてるんだと気づけば、これほど上質な演奏はなかなか考えにくい、ということなんです。

スコアを持たずに例を挙げるのは非常に困難なんですが、たとえばスケルツォがこんなに情報の多い楽章だということに僕は気がついていなかった。和声形成に音色の要素をふんだんに、ただしグロテスクに陥ることなく取り入れて、しかも破綻させない(ここが凄い)。音色をセリー的に捉える考え方の手前まで近づいてるんではないか。多種多様な音色要素があちこちから断片的に聴こえてきて、ゾクゾクいたします。

アンダンテも表層的にはさっぱりしたものです。ただ、数多くの「推進している」演奏の中にアンダンテを聴くと、箸休めとして流すか、さもなくば浪漫的に(≒グロテスクすぎる)加工を加えてしまっているケースが多いように思うんですが、ハイティンクはそんなことはしない。
中間部の一歩手前に聴かれる木管群のクロマティックな旋律、これをよく聴けば、そのブレンドの絶妙な匙加減に舌を巻かざるを得ないんですよ。今度は「図」も「地」もない「要素のフラット化」とでも言ったらいいのか。終結部に向かって一途に盛り上がっていく箇所がなぜ醒めているかと言えば、ハイティンクのやり方ではこの「泣かせる」箇所に大きな価値を見出さないのが当然のことであるからです。揺れ動きながら拡散していく意識を聴くのが、このアンダンテの主たる目的ということでしょうか。

それでいてフィナーレは凄まじい高潮を見せる。この、高潮の中に複数の楽想が並存する箇所は、いくつもの柱が音を立てて地面から突き上がってくるような印象を受けます。大切なのは、柱が一本きりではないということ!
コーダに突入すると、その居並ぶ柱が一気にすべて苔むし、朽ち果ててしまう。この空気の変化は強烈ですね。視点がすぅーっと後退して響きが急激に拡散し、全景が見渡せたところで、柱廊は秩序立って崩壊。「破綻」そのものが破綻していては元も子もない、ということを知り抜いたハイティンクの設計が光る瞬間であります。

+ + +

で、前半の《ジークフリート牧歌》がこれまた美しいんですよ。絹に顔を埋めるよう。。
なんでこれを余白に入れなかったんだろうか>CSO・RESOUND
by Sonnenfleck | 2008-05-17 05:52 | on the air

匣が来りて笛を吹く

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DHM50周年記念50枚BOXと、バイロイト33枚BOXが到着。いつ聴くんだろう…

by Sonnenfleck | 2008-05-16 07:00 | 精神と時のお買い物

on the air:ハーディング/東フィルのマラ6

c0060659_6593691.jpg明日あたり感想をUPしますが、このFM放送の前に、老獪なハイティンク/シカゴ響を先に聴き込んでしまったのは失敗だったかも。

【2008年2月14日 東京オペラシティ】
●マーラー:交響曲第6番イ短調
⇒ダニエル・ハーディング/東京フィルハーモニー交響楽団
(2008年5月11日 NHK-FM)

第1楽章。身振り手振りでとにかく何かを伝えたがっている印象が、まずは強い。
各旋律線は一本の太い綱にまとめられて、皆で動揺し、皆で伸縮しています。一糸乱れず「推進していく」統一感という点では、シカゴよりこの東フィルの方がずっと上ですね。オケの方ですっかりやる気になっているというか、指揮者のカリスマに中てられているというか…。よくここまでオケのポテンシャルを引き出したなあと(嫌味でも皮肉でもなく)素直に感心しています。全曲を通じて最も高く評価したいのはこの楽章でした。

第2楽章にアンダンテ、のパターン。清涼感があったけど、それはハーディングもオケも一途に素直に突進していっているのが伝わってくるせいかもしれないなあ。

それでは居並ぶ要素の弁別は?第3楽章スケルツォはラトルそっくりで、つまりグロテスクさを強調し切るのです。そうするとグロテスクなパッセージは効果的に強く浮かび上がるけど、そうでないパッセージは光り輝くグロテスクを目立たせるための「地」になってしまう。。

第4楽章は高血圧気味で、冒頭の和音は物凄くいきり立った響きをしていたけど、この方向で行くとオケの疲労がそのままトーンダウンに直結してしまって、縦の線にいくつもズレが生じ、最後は膨張し切れずにしぼんでしまったような印象。「しぼむ」と、直前に膨張していたときの「皮」みたいなものがヘタレてまつわりついているのが聴こえてくるようで…。

まあこれは夕食後に自室でまったりしながらFMを聴いてるからこそ細かい点が気になってくるだけであって、僕ももしその場に居合わせたら、きっと激しい緊張に苛まれていたことでしょう。大詰めの破綻(これは素晴らしい一撃でした)の後、30秒以上に及ぶ静寂を守った東京の聴衆にこそブラヴォでしょうね。

このマーラーはストレートでした。
ハーディングはそれでもなお、正体のわからない指揮者のひとりです。
シェフを務めるスウェーデン放送響とのライヴがネット上にたくさん出始めたので、拾って聴いていかなくては。個人的にはラヴェルとかベートーヴェンが見極めポイントかな。。
by Sonnenfleck | 2008-05-15 07:00 | on the air

「ウルビーノのヴィーナス」展@国立西洋美術館

5月5日の9時20分に美術館へ到着したときには、すでに数十メートルにわたる大行列。
しかし《ウルビノのヴィーナス》は、絶対に見ておかなければならないのです。
ウフィツィに行くと思えば、露店のチョコバナナ売りの甲高い声や、上野動物園に向かう大群衆の歓声を遠くに聞きながらの行列も苦ではない。

ところが、実際に9時30分に開場してしまうと大した混雑ではなかったので拍子抜け。ヴィーナスの前もスカスカでじっくり鑑賞できました。早起きは3コペイカの徳だね!

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■まずは意外に巨大な画面であるということ。ヴィーナスでけー。
■肌の質感。次元が違う。豊かな大腿部から、ほんのりと赤みを帯びた膝、ふくらはぎ、凛と伸びた爪先にかけてのラインはほとんど煽情的。
■それに対応するように、窓の外へ広がる気候は不吉な曇り空を主張している。
■加えてタペストリーと寝台の細かな装飾文様に執拗さを感じる。
■さらに言うと、光源の位置が謎すぎる。

■右から眺めるとヴィーナスの脚と後景の縦のリズムがぶつかる様子が伝わる。
■左から眺めると視線は良く合うが、身体のエロスはずいぶん減退する。
■タペストリーと柱と侍女による後景、およびカーテンによる中景によって、視線は上から下へ流れる。前景の寝台は横方向へ広がり、床面のタイルは奥行きを示す。
■つまりヴィーナス以外は乾燥した座標空間のようであります。ヴィーナス以外は。

+ + +

《ウルビノのヴィーナス》(1538年)は、ティツィアーノとしても畢生の大作だったんでしょうね。次のセクションの《ヴィーナスとアドニス》に、それほどのオーラはありませんでした。
あとは、目玉以外にも味わいのある作品がいくつか。

c0060659_78962.jpg◆ポントルモ《ヴィーナスとキューピッド》(1533年頃)
《ウルビノのヴィーナス》のすぐ脇に、この筋肉質のヴィーナス。凛々しい目元はまるでJOJOではないか。
全然かわいくないキューピッドはスタンド。
よく見ると左に石仮面まで用意してあるではないですか(笑) ひとりで笑ってしまった。


c0060659_782862.jpg◆ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニ《キューピッドの髪を梳くヴィーナス》(1627年)
展覧会場最後の壁面に掛けられていた作品。近代性を得たヴィーナスは、自分の顔を美しく見せないという詐術と、服を着るというしょうもない美徳を学んだらしい。
ただしそのぶんエロスは妖しい方向へ進化してしまったらしく、たった100年の経過で、今度はキューピッドが劇的にエロティックになっていました。背中の矮小な翼と、瞳を潤ませてこちらを見てくるあの顔は反則です。反則ですね!

5月18日まで。
by Sonnenfleck | 2008-05-14 07:09 | 展覧会探検隊

シト変容

c0060659_75168.jpg【DECCA/POCL-1218】
<R. シュトラウス>
●交響詩《ドン・ファン》 op.20
●《メタモルフォーゼン》
●交響詩《死と変容》 op.24
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/
  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

「ヱの字<序>」のDVDが出たみたいで、ちょっと興味があります。まあいいけど。

さて、こつこつ蒐集中のドホナーニ。オケの美感が厳しく要求されるシュトラウス作品集が、上前津のサウンド・ベイ・リパブリックに転がっていました。まだ店頭にあるんだなあ。ヤフオクではそんなに珍しい出物でもないようだけど、実物を探し当てる楽しみは大きい。
1989年の録音ということは、D先生とVPOの関係がフツーであった最後の頃でしょうか。
shuさんtakさんも軒並み高評価を与えておられる演奏なので、固唾を呑んでPLAYボタンを押してみましたが、、なるほどねえ、、こりゃーいいわー。

《死と変容》に大推薦マーク。
冒頭の苦々しく切ない後悔が心にしみます。ドホナーニは音が拡大しすぎないようにきつく手綱を締めていますが、それでもクリーヴランド管に比べると奏者自身の裁量に任されている領域が広いみたいで、VPOの甘い香りがあちこちから立ち昇っている。「甘苦さ」こそ音楽が表現しうる最高の感情のひとつでは?
ティンパニの一撃で主部に突入してからは、例によって流線型のフォルムでもって音楽が後ろにビューンと飛び去っていきます。ただしこの演奏で興味深いのは、(録音コンディションのせいかもしれないが)いつものドホナーニではあまり聴かれない響きの混濁があるというところ。特に最初の「変容」の主題近辺で顕著なのだけど、これはこれで味わいがある。VPOからの要求が想像されますね。
2回目のティンパニアタックの直後、ほろほろほろっ...と音符が抜けていく瞬間が絶美であり、総括するようにゆったりしたテンポで「変容」の主題が現れるところでは、涙腺が刺激されて困ります。響きを美しく抜いていくテクニックは、ドホナーニの必殺技!

《ドン・ファン》はちょっと引き締めすぎかなあ。
一方で《メタモルフォーゼン》は予想外に透明を極めていて驚きました。やけに明るい響きをしているのが物凄く効果的。ラヴェルみたいに聴こえる。
by Sonnenfleck | 2008-05-13 07:06 | パンケーキ(20)

熱狂の復習―5月4日(日)

c0060659_21101059.jpg整理しときたいのであと1回だけお付き合いください。

【331】5/4 0945-1030 ホールB5〈テレーゼ・グロープ〉
●弦楽四重奏曲第12番ハ短調 D703 《四重奏断章》
●弦楽四重奏曲第13番イ短調 D652 《ロザムンデ》
⇒古典四重奏団


今回唯一聴けたカルテット。暗譜で有名な方たちですが、ライヴは初めてかなあ。
ところが、、アサイチのせいかこれがどーぅにも微妙な演奏で。
4人とも自分の声部を恙なく再生することに必死で、全然溶け合ってないように聴こえてしまったんですよ。前夜のトリオ・ショーソンのようなプラス方向の緊張感ではなく、合奏を整えよう整えようという刺さるようなマイナスの緊張感が漂っているので、こっちも聴き疲れします。そうなるとさらに、音程とか音色とか内声が聴こえてこない点とか、ラ・フォル・ジュルネの聴き方として相応しくないいつもの暗ヲタ志向が自分の中で芽生えてきて、ちょっと辛い45分間でした。
朝早いもんなあ。これが彼らのベストパフォーマンスではないことを信じたいッス。

【362】5/4 1130-1215 G409〈カロリーネ・エステルハージ〉
●ピアノ・ソナタ第20番イ長調 D959
⇒フィリップ・カッサール(Pf)


暗ヲタ気質を引き摺りながらエレベータに乗ってG409へ。
カッサールはたぶんサービス精神に溢れているのです。バターがたっぷりついたシューベルトを弾いてくれて、それが大好きなD959だったので、とても悲しい気持ちになりました。
シューベルトでなければまた聴いてみたい。

【334】5/4 1500-1545 ホールB5〈テレーゼ・グロープ〉
●《雷雨の中の神》 D985
●詩篇第23番 《神はわが牧者》 D706
●《白鳥の歌》 D957 ~〈アトラス〉、〈彼女の絵姿〉、〈都会〉、〈影法師〉
●《夜》 D983c
●《夜の明かり》 D892
●ブラームス:《あこがれ》 op.112-1
●同:《夜に》 op.112-2
●同:《夕べの歌》 op.92-3
→トマス・ウォーカー(T)
  ベン・マルティン・ワイヤンド(Pf)
⇒ダニエル・ロイス/カペラ・アムステルダム


はろるどさんと同じで、3年前の《ミサ・ソレムニス》が忘れられないロイス+カペラ・アムステルダム。今回は「夜」を主題にしたプログラムでした。
しかし合唱を収容するにはB5は小さすぎる。
したがって、聴こえなくてもいいアラが少しばかり浮んできてしまうんですが、逆にあの環境で詩篇やブラームスをバシッと揃えてきたことを賞賛したいです。シューベルトに引き続いて聴くブラームスはいかにもテクスチュアが込み合っていて、いつも以上にグラデーションが細やかな感じがする。そういう微妙な様式の違いにサッと沿う様子が非常に巧妙でしたね。
たとえばシェーンベルク合唱団はデジタルかもしれないけど、カペラ・アムステルダムはアナログ・ハイビジョンかな(停波はしません)。来年はまた1年目のようにコンチェルト・ケルンと何かやってほしいなあ。クリオラとか。
ソロのウォーカーが喉を痛めそうな金切り声で、、心配になりました。絶不調?
by Sonnenfleck | 2008-05-11 23:07 | 演奏会聴き語り

熱狂の復習―5月3日(土)

c0060659_21352791.jpgホテルを出ると本降りの雨。。でも夕方には晴れてきた。

【232】5/3 1130-1215 ホールB5〈テレーゼ・グロープ〉
●マティーカ:フルート、ギター、バリトンのためのノットゥルノ
●《おとめ》 D652
●《夜咲きすみれ》 D752
●ハウシュカ:ソプラノ、バリトン、ギターのためのカンツォネッタ
●メルツ:ギターのためのエレジー
●《糸を紡ぐグレートヒェン》 D118
●《水に寄せて歌う》 D774
●《彼女がここにいたことは》 D775
●ロッシーニ:歌劇《タンクレディ》~〈こんなに胸騒ぎが〉
⇒リチェルカーレ・コンソートのメンバーによるアンサンブル
   セリーヌ・シェーン(S)、ジョルジュ・バルテル(Fl)
   サビエル・ディアス=ラトーレ(Gt)、フィリップ・ピエルロ(Br)


「ピエルロ(Br)」、歌ではありません。綴りが違う。バリトン Barytonという古楽器です。
6弦のヴィオールの指板裏に共鳴弦が張ってあって、ヴィオールの音を出しながら同時に共鳴弦を爪弾くことができる、という変態な楽器。エステルハージ侯爵が大好きだったらしく、ハイドン作の厖大なバリトン三重奏曲が残されているのですが、、ついに実物を聴くことができました。ちょっとゴツめで田舎くさい、でもチェロとは明らかに違うヴィオール属の音なんすよ。どんな楽器かはこのクリップ(YouTube)で見られます。

すらりとした長身のシェーン、大胆な歌い崩しを挿みながら豊かな表現でシューベルトを攻略します。同じシューベルトでも室内楽やソロだと濃い味つけはちょっと鼻につくんですが、歌はそんなこともないんだよなあ。
そのシェーンを支えるのが、残り三人の不思議なアンサンブル。誰の編曲なのかわからないんだけど(作曲家自身ということもないだろうし)、コンサートホールで正装の演奏者に料理されるようになる前の、未分化だったころのエネルギッシュなシューベルト像に新鮮な印象を持ちました。シューベルト以外の、今は名前を聞かない(でも当時はこの編成を知悉していた)作曲家たちの作品も、野卑で俗で面白かったなあ。オシャレ系古楽アンサンブルの彼らだけに、野卑も俗も全部ポーズなのが憎い。。来年はバッハのモテットとかやってね!

【253】5/3 1330-1415 ホールD7〈ヒュッテンブレンナー〉
●VnとPfのためのソナチネ第1番ニ長調 D384
●同第3番ト短調 D408
●《華麗なるロンド》ロ短調 D895
⇒久保田巧(Vn)+佐藤卓史(Pf)


初のD7。エレベータ付近におけるスタッフさんたちの手際の良さが光ります。
今回のLFJで僕が唯一聴けた佐藤卓史の公演ですが、いやはや《華麗なるロンド》の重厚な演奏にすっかり引き込まれました。いつもの美音もさることながら、主部に入ってからラプソディックな音型(こういうベートーヴェンみたいな顔をしたシューベルトは怖い)を鮮やかに紡いでいく様子には、彼の表現の幅広さが改めて窺えたわけです。
久保田さんは、、ちょっとお疲れムード?

【215】5/3 1915-2015 ホールA〈シュパウン〉
●ミサ曲第6番変ホ長調 D950
→谷村由美子(S)、ジャッキー・カアン(A)、
  クリストフ・アインホルン(T)、マティアス・ロイサー(T)、クリスティアン・イムラー(Bs)
  ローザンヌ声楽アンサンブル
⇒ミシェル・コルボ/シンフォニア・ヴァルソヴィア


アンチメジャー志向ゆえに、LFJ4年目にして初のコルボ体験。
これはこの作品をジュリーニの演奏で楽しんできたせいなのかもしれないけど、コルボがこの作品の中に動的な流れを作ろうとしていることが少々意外でした。〈キリエ〉に明解なアクセントを付け、〈グローリア〉でかっ飛ばし、〈クレド〉に凹凸を形作る…。僕が勝手に熟成させてきたイメージに反し、けっこうモダンな元気爺さんなのかも。。
ローザンヌの合唱は安定していたし、シンフォニア・ヴァルソヴィアも侮れない。
ソプラノの谷村さんが突出と言ってもいいくらい声を前方へ飛ばしていたです。僕は1階の14列目に座ったのでちょっとやりすぎに聞こえましたけど、あのホールAのことを考えれば当然の音響設計だったのかもしれません。
ホールAの椅子はどうしてあんなにふかふかなんだろう。

【228】5/3 2230-2315 ホールB7〈ショーバー〉
●Pf三重奏曲第2番変ホ長調 D929
  ○アンコール ショーソンさん:Pf三重奏曲から
          ハイドンさん:Pf三重奏曲から(詳細不明)
⇒トリオ・ショーソン


引き続き変ホ長調ナイト。山尾さんオススメのトリオ・ショーソンでした。

いや彼らは凄いよ!一晩でファンになっちゃったよ!

真面目そーぅなメガネ男子3人がトコトコ歩いてきたと思ったら、目配せしていきなりダンスを始め、それに巻き込まれちゃって気がついたら一緒に踊ってたーみたいな感じ。あのワクワクドキドキする空気、表現したい意志と表現する内容の濃さでヒリヒリするくらい充実した空気、彼らの演奏が聴けたのは今年のLFJで最大の収穫です。
運よく最前列の中央付近に座れたんですが、あの異常に緊密なアイコンタクトが彼らの快演の秘密かなあ。天性のアンサンブルってああいう動きをするんでしょうね。3人ともすげえ楽しそうに弾いてるしなあ。いやはや。
2330を回ろうとしているのに拍手と歓声の収まらない客席に応えて、2曲のアンコール。それぞれ「ショーソンさん!」「ハイドンさん!」の日本語アナウンスつきで(笑)
by Sonnenfleck | 2008-05-10 21:43 | 演奏会聴き語り

熱狂の復習―5月2日(金)

c0060659_21375619.jpg雨もよい。水色コンバースを履いている人は見つからなかった。

【123】5/2 1715-1800 ホールB7〈ショーバー〉
●大ソナタ 変ロ長調 D617
●ロンド イ長調 D951
●創作主題による8つの変奏曲 変イ長調 D813
⇒デジュー・ラーンキ+エディト・クルコン(Pf連弾)


あてがわれた席が最後尾から2列目で泣けてきました。顔が見えるだけマシ?
男性二人のデュオだと思い込んでいましたが、出てきたのはなるほどラーンキ夫妻。
小プログラムの解説は大ソナタ 変ロ長調がモーツァルトを想起させると述べていたけれども、陰のあるマチエールは紛うことなきシューベルトであって、ガラスが砕けるような冒頭の分散和音が悲惨さを盛り立てます。次のロンド イ長調の最後でロンド主題が回想されるシーンとともに、意外と彫りが深いラーンキ夫妻の表現にドキドキ。
さても8つの変奏曲 変イ長調。これは珍味だなあ。
第4変奏はバッハのように厳しいフガート、対して第5変奏はベト7第2楽章にそっくり!

【114】5/2 2000-2050 ホールA〈シュパウン〉
●交響曲第8番ハ長調 D944 《グレート》
⇒クワメ・ライアン/ボルドー・アキテーヌ管弦楽団


熱狂の非公式インタビューがやや長引き、第2楽章から客席へ。
いやーなんというかー、これがとっても普通の安心グレートだったんですよ。
アルコール摂取のせいもあり、気持ちよくなって寝てしまいました。ライアンのラリホー。

【173】5/2 2200-2245 相田みつを美術館〈シュヴィント〉
●12のレントラー D790
●ピアノ・ソナタ第13番イ長調 D664
○アンコール グリーグ:《抒情小曲集》 op.54 ~〈トロルの行進〉
         シューベルト:4つの即興曲 D935 ~ 第2番変イ長調
⇒シャニ・ディリュカ(Pf)


4年目にして初のみつを入り。狭い。。
ディリュカはスリランカ系の美人ピアニストでした。出てくる音には一切の翳りがなく、灼熱の太陽に照らされるかのような激しいタッチ。ただしシューベルトはそれも呑みこむ。
本プロでチケットが取れなかった即興曲の、それも最も愛するop.142-2をやってくれたので、恥ずかしながら落涙。放心するような美とは無縁の演奏だったけど、これもアリ。深い時間の熱いシューベルトに独特の感慨を覚えました。
by Sonnenfleck | 2008-05-09 21:38 | 演奏会聴き語り

新国立劇場 《軍人たち》 初日

c0060659_745513.jpg【2008年5月5日(月)14:00~ 新国立劇場】
●B. A. ツィンマーマン:《軍人たち》(日本初演)
→鹿野由之(Bs/ヴェーゼナー)
  ヴィクトリア・ルキアネッツ(S/マリー)
  山下牧子(MS/シャルロッテ)
  寺谷千枝子(MS/ヴェーゼナーの老母)
  クラウディオ・オテッリ(Br/シュトルツィウス)
  村松桂子(MS/シュトルツィウスの母)
  斉木健詞(Bs/フォン・シュパンハイム伯爵 大佐)
  ピーター・ホーレ(T/デポルト)
  小山陽二郎(T/ピルツェル大尉)
  泉良平(Br/アイゼンホルト従軍牧師)
  小林由樹(Br/オディー大尉)
  黒田博(Br/マリ大尉)
  森山京子(MS/ラ・ロッシュ伯爵夫人)
  高橋淳(T/伯爵夫人の息子) 他
→三澤洋史/新国立劇場合唱団
→ウィリー・デッカー(演出)
⇒若杉弘/東京フィルハーモニー交響楽団

劇薬のようなオペラでした。
有楽町で三日間かけて聴いたシューベルトの印象が消し飛ぶくらい。
まずは、日本初演を実現に漕ぎ着けた関係者各位にブラヴォを飛ばしておきたいです。

■音楽と演奏
予習は一切なしで臨みました。
クラスター気味の強烈な和音で開始される第1幕への前奏曲は、目に飛び込んでくる映像と相まって、多くの聴衆を粟立たせたことでしょう。クラスターなのに肌にまとわりつくような粘り気を覚えたあの箇所、若杉監督と東フィルの意気込みがよく感じられましたもの。
テクスチュアが静かになると、今度はPAを使って大袈裟に拡大されたチェンバロやギターの音が、俗悪なレチタティーヴォに絡み合って素敵な効果を上げています。

クラヲタとして最も強いインパクトを受けたのは、やはり第2幕。
カフェのテーブルの上で繰り広げられる軍人たちの性描写とその背後に流れるジャズ。
これは名フィルで聴いたトランペット協奏曲の内容から十分に予想される。

しかし、鋏を持った母親とシュトルツィウス、ヴェーゼナーの老母、性行為に及ぶマリーとデポルト、この3場面が舞台上で同時に展開するクライマックスで、突如湧き上がるJSB《マタイ受難曲》のコラール〈われなり、われこそ償いに〉
これは完全に予期していなかった出来事で、、椅子の上で硬直してしまいました。ところどころ激しい不協和音で途切れながらも、あのエグいシーンで、あの美しいメロディがほぼそのままトゥッティで演奏される。。こんなにクソ真面目な対比を衒いなく作ってしまうとは。。若杉センセとオケも渾身の清らかさでそれに応えてましたよ。

楽音、電子音、軍楽のコラージュ。第4幕の大詰めは(プログラムの解説によれば)ホール中に配置された10群のスピーカによる破滅的な大伽藍の出現。これはあそこに身を置いて正解でありました。心拍数が上がって上がって。。
若杉センセに一本だけ飛んだブーは、僕には理解できません。

■うた
マリー役のルキアネッツと、シュトルツィウス役のオテッリが圧倒的。文句ない。
デポルト役のホーレも嫌らしくて非常に良かったんですけど、カーテンコールのときみんな赤い外套を着てるもんだから、見分けがつかず拍手をし損ねました。

■演出
デッカーの演出は、白と赤と黒を基調にしたシンプルなもの。
「意味がないことを意味する暗喩」を排除した結果、残った暗喩はすべて物語の展開に直結して、わかり易すぎるくらいわかり易いスマートな運びとなっていました。
(最初と最後に登場した「無個性の群衆」はB級ホラーみたいで好きではなかったです。どうせならエヴァンゲリオンみたいに客席にカメラを向けてしまったらよかったのに。)

一方で、これって母親による支配のお話なのかなとも思う。
シュトルツィウスは鋏を持った母親の庇護下にあるようにしか見えないし(最後はそれを振り切ってひとりで「勝利」しちゃうけどさ)、伯爵夫人は若い伯爵の母であると同時にマリーの擬似母になろうとする。
ではマリーの本当の母親は?姉シャルロッテは「軍人たちの娼婦!」という罵言を大きな声で叫ぶことができず、ヴェーゼナーの老母は常識的な秩序の上にあぐらをかくばかりで、ついにマリーを御し得ないわけです。母親の庇護を受けることができず、鏡で自分を見るしかなかったマリーは道を踏み外して、彼女の救済は幕引きの直前に「演出家の慈悲によってしか」行なわれない
ただ、シュトルツィウスの母親も伯爵夫人も最後まで支配を続けることができなかったわけです。その意味で、デッカーが最後に救済したのはマリーの人生ではなくて、ヴェーゼナーの老母の庇護欲である、というさらに嫌な見方もできるかなあ。白布を覆い被せてさ。。
by Sonnenfleck | 2008-05-07 07:08 | 演奏会聴き語り