![]() ●ヴェルディ:《リゴレット》 →マルコ・ヴラトーニャ(リゴレット) エレナ・ゴルシュノヴァ(ジルダ) ウーキュン・キム(マントヴァ公爵) 妻屋秀和(スパラフチーレ) 山下牧子(マッダレーナ) 谷友博(モンテローネ伯爵) →三澤洋史/新国立劇場合唱団 →アンドレアス・クリーゲンブルク(演出) →ピエトロ・リッツォ/東京フィルハーモニー交響楽団 自分が中学生のころに読んだものの本によると「俳句を詠む作法には大きく2通りある」ということであった。ひとつは季語そのものを季語以外の言葉でもって深く説明するやり方、もうひとつは季語と季語以外の事象を衝突させて化合させるやり方。でもいずれの手法に対応するにも自分には才能がないことがわかって、それ以降は俳句の道から遠ざかった。 オペラの演出もだいたいはこの2通りのどちらかで説明がつくんじゃないかなあと思う。上述の俳句ハウツー本は続けて、季語そのものを掘り下げるほうが格段に難しいと断言していた記憶があるんだけれど、これもやっぱり演出に共通するよね。 今回の新国立劇場《リゴレット》、クリーゲンブルクの演出はおかしな異化にはそれほど頼っていなくて、作品そのものの掘り下げを狙いながらオペラの娯楽性を損なわない。 細部は雑な雰囲気もあったので全知全能の演出ではないかもしれないけど、このオペラの腐りきったストーリーの、そのなかでも特に腐乱した部分を明々と照らし出す厭な演出だった。まずはその一点突破主義において、クリーゲンブルクは賞賛されてもいい。 + + + マントヴァの宮廷から場所を移されたのは現代のラグジュアリーホテル。ラウンジをそぞろ歩く若い女性たちが形成する華やかな視界が、オペラを観る空虚な楽しさを増強する。しかし客席側に示されているのはラウンジと廊下だけで、客室の匿名性は絶対。 そんな匿名客のひとりが、ギャングのイケメン若頭・マントヴァ公爵。公爵とその手下のギャングたちは手当り次第に女性を客室に連れ込んでは痛めつけ、残虐非道のリア充生活を送っている。次の標的は道化が囲っているとされる「愛人」とのこと。 この演出で、ラグジュアリーホテルの独特の冷たい静けさは、マントヴァ公爵の人格性の薄さに直結している。彼はセックスマシーンと言うべき正確さで事を終え、すぐに次の仕事に掛かるわけだけれども、その同質感がホテルの廊下に並ぶドアたちと瓜二つなのよね。客室のつくりがどの部屋でも寸分違わないのと、マントヴァ公爵の餌食になる女性に固有名詞が不要なことは、よく似ている。 それとは反対に、人格性が強くて替えが効かないのがリゴレットやジルダ。でも残念ながら、その固有性を活かすところまでクリーゲンブルクが考えていたかどうか僕にはわからない。マントヴァ公爵と廷臣たちの「空虚で楽しい世界」がリアルすぎて、リゴレットやジルダのほうがむしろ奇矯な人物に見えてしまうんだよね。この演出ならオペラ《マントヴァ公爵》と呼ばれるべきだったかも。 + + + 主役の3人はいずれも好印象。リゴレットのヴラトーニャは立派な体格と朗々たる声で、なんで廷臣に加わって一緒に悪さをしないのかわからない。ジルダのゴルシュノヴァは比較的強靱な声質の持ち主で、役の頑迷固陋な一本気とはすかっと一致。 それからマントヴァ公爵のキムは(すでに各所で話題になったとおり)朝青龍によく似た見た目と朗らか残忍な美声の持ち主で、こちらも作品のキャラクタとしっかり合致してしまっていた。 指揮者とオーケストラには少し問題があったと思う。丁寧に硬く小さくまとまっているなあ、たぶんヴェルディをやるにはこれはよろしくないんだろうなあ、と冒頭から感じていたんだけど、この箱庭感はたとえばモーツァルトや《ペレアスとメリザンド》や《鼻》を活かす種類の感覚ではないかしら。ほかの作品で聴いてみたい。リッツォ氏。 #
by Sonnenfleck
| 2013-11-16 11:49
| 演奏会聴き語り
内容に一部誤りがありました(ご指摘ありがとうございました)。
当該箇所については訂正・削除しました。ご迷惑をおかけした方にはお詫びします。 + + + ![]() <国立能楽堂開場30周年記念公演> ●能「住吉詣」 悦之舞(観世流) →大槻文藏(シテ/明石の君) 梅若玄祥(ツレ/光源氏) 武田志房(ツレ/惟光) 寺澤幸祐(ツレ/侍女) 大槻裕一(ツレ/侍女) 松山隆之(立衆/従者) 土田英貴(立衆/従者) 角当直隆(立衆/従者) 川口晃平(立衆/従者) 小田切康陽(立衆/従者) 武富晶太郎(子方/童) 寺澤杏海(子方/随身) 武富春香(子方/随身) 福王和幸(ワキ/住吉の神主) 山本則孝(アイ/社人)他 →藤田六郎兵衛(笛) 曽和正博(小鼓) 國川純(大鼓) ●狂言「鶏聟」(大蔵流) →山本則俊(シテ/聟) 山本東次郎(アド/舅) 山本則重(アド/太郎冠者) 山本泰太郎(アド/教え主)他 ●能「正尊」起請文(金春流) →金春安明(シテ/土佐坊正尊) 武蔵坊弁慶(ツレ/本田光洋) 金春憲和(ツレ/源義経) 山井綱雄(ツレ/静御前) 山中一馬(ツレ/江田源三) 政木哲司(ツレ/熊井太郎) 中村昌弘(ツレ/義経郎党) 辻井八郎(ツレ/姉和光景) 本田布由樹(ツレ/正尊家来) 本田芳樹(ツレ/正尊家来) 山本則秀(アイ/召使の女)他 →松田弘之(笛) 幸正昭(小鼓) 亀井広忠(大鼓) 桜井均(太鼓) この日は台風18号が正午に関東地方最接近という最悪のコンディション。鉄道各路線が次々と運転を取りやめるなか、自分の路線は雨風にめっぽう強いためぴんぴんしており、そのまま大江戸線に潜って事なきを得た。千駄ヶ谷ルノアールで軽めのランチ(そして、千駄ヶ谷に行くたびに使ってたニューヨーカーズカフェが閉店しているのを発見!)。 国立能楽堂開場30周年記念公演は、東西の人間国宝たちが一堂に会し、能が3日間+狂言オンリーで1日=4日間が費やされる一大イベントでした。第1希望は有給休暇を取っての9/17(火)、第2希望は9/15(日)だったけど、まあそううまくもゆかない。9/16(月祝)だってそうそうは見られない巨大編成作品による番組だったのだから、これは文句は言いっこなしだ。 + + + まず、この日いちばん好かったことから書きましょう。 ◆鶏聟 吉日の婿入りで舅に挨拶しようと意気込む聟が、しかし自分はマナーを知らないので教えてほしい、と意地の悪い教え手を訪う。教え手は「これこそ当世風である」と騙して、舅に会ったら鶏がつつき合うように振る舞うのがよい、と聟に吹き込む。 そして実践してしまう聟。ところがこの狂言の真骨頂はここからで、奇怪な振る舞いの聟に相対した舅が「これに驚いては物を知らない舅と思われる…!」と考え、同じように鶏の真似をして応対するのだよね。この人間らしい悲哀。完全な真面目。 ◆やはらか狂言 舅役の人間国宝・山本東次郎さん(これまでにもどこかでお姿を見ていたかもしれない)のしなやかな身体に、この日は否応なく引き込まれた。舞台上を浮遊しているのではないかという足運び、泰然と生真面目の同居、柔らかく凛として、しかも聴き取りやすいディクション、、狂言でこんなに透き通った身体感覚を感じたことがなかった僕には、たいへんなショックなのだった。 その「やはらかな」演技は、硬質な山本則俊さんの聟の演技と互いに引き立て合って、藝術としての狂言の深淵をぱっくりと覗かせていた。でも、それでいてくすくすできるのだから、まったく狂言というのは興味深いじゃないですかー。 + + + ◆住吉詣 「源氏物語」第五十四帖「澪標」に基づく、源氏と明石の君の哀しいお話です。 住吉神社に大願を懸けて詣でる源氏の行列。たまたまそこを訪れていた元カノ・明石の君は、行列の麗々しさに気おされながら源氏にひと目会うことを望み、やがて感興を催した源氏の前でひとさし舞う。しかし源氏は留まることなく帰っていく。 ◆人物たちであって人物たちでない 「住吉詣」のコアには光源氏と明石の君がいるけれど、この能には源氏の随臣たちが大勢登場する。源氏の乳母子である惟光は多少の台詞も用意され、人物として機能しているが、それ以外の人物たちはあまりそのようには見えない。 加えてこの公演では、梅若玄祥さんの源氏も、大槻文藏さんの明石の君も、軽やかさより石像のような重厚感を帯びる。より率直に言い換えれば「抑制された人物らしさではなくて、どこまでも人物らしくなさ」を辺り一面に照射していたように感じたのだった。 ●正尊 この公演の少し前に、Eテレ「古典芸能への招待」で放送された「正尊」。頼朝からの刺客・土佐正尊と義経一行のチャンバラ劇です。 神様も亡霊も鬼も何も出てこないあの能は、能のフォームを利用する意味があるのだろうか?陰翳を欠いたドラマトゥルギーと、金春流の不思議な謡い方が精神を酔わせる。どやどやと頭数が揃って、しかし歌舞伎のような群舞の美しさもない。当分、この演目を見ることはないだろうなと思う。 + + + めでたく観能10回目を迎えまして。 あの舞台上の緊張感は、たとえば《大地の歌》の最後の3分間が80分間に引き延ばされたようなもので、およそ現実世界では味わうことができない。クラシック音楽の、弛緩した心地よさより凝縮した緊張感のほうを好む皆さんは、思い切って能に向かってみることを強くお勧めするものであります。 #
by Sonnenfleck
| 2013-11-04 21:33
| 演奏会聴き語り
![]() ●ベートーヴェン:《エグモント》序曲 ●ブリテン:《ノクターン》op.60 →ジェームズ・ギルクリスト(T) ●同:《ピーター・グライムズ》~4つの海の間奏曲 op.33a ●ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調 op.93 ⇒ロジャー・ノリントン/NHK交響楽団 *ゲスト・コンサートマスター:ヴェスコ・エシュケナージ 今年の東京の10月は天候が不順である。すっきりと晴れてカラッと暑いこともある例年に比べて、今年は台風に脅かされて、じめっと蒸し暑かったり肌寒かったり、どんより曇ったりしている。 この日、この公演に行くかどうか実はかなり判断に迷った。篠突く雨をかいくぐり、朝イチから三井記念美術館で桃山の陶器を眺めたまではいいものの(そのうち感想文が書ければよい)、どうにも寒くて動けない。風邪の神様がこっちを見つめている。 しかし風邪の神様はヤヌス。もう一面にブリテンの顔を貼りつけている。こんな冷たい雨の秋の日曜日は、年にそう何度もない絶好のブリテン日和。それでノリントンとギルクリストが《ノクターン》を演るのに聴きに行かなくてなんとする。。 + + + 《ノクターン》は非常に精妙な音楽なので、できれば歌い手の直接の声が飛んでくる場所で聴きたい。当日券売り場で奮発して、1階の前方席を買う。 果たして、この選択は当たりだった。 BCJのソリストとして歌うこともあったらしいギルクリストは、もしかしたらどこかで聴いているかもしれないんですが、それにしても驚いたのは魔術的なディクションの威力です。ボストリッジがまるで256色の8ビットカラーに思えてしまう「24ビットカラーの不吉」。この作品でブリテンが使用した厭な色、夢幻の色、暗示的な色が凄まじい精度でプリントされていく。ギルクリストは道化のようにふざけて語り、後シテの死霊のように静かに謡う。 そしてノリントンとN響は。こちらも素晴らしいのひと言に尽きる。たとえば〈しかしあの夜〉の救い難い悪意や、〈夏の風より優しいものは何だろうか〉の幽かな空間。。 ノリントンのノンヴィブラート奏法(通称Norring-tone)が適用されたブリテン音楽を聴くのはたぶんこれが初めてなんだけど、その冷え冷えとした肌合いは、5月に接したアンサンブル・アンテルコンタンポランの対局にあるのかもしれなかった(澤谷夏樹氏が告発していたとおり、フランスの彼らは案外、発音に対するこだわりを持っていなかった…)。音楽のそれぞれの様式が演奏家に要求する実践のなかに、音の風合いや肌合いが含まれるのは、バロックも20世紀も同じなのだわいね。 + + + 翻ってベートーヴェンの第8は? 細部の整えが行われていないピリオドのベト8は、とても残念だけれども今日ではすでに、それほど価値を持たない。同じ方角の遥か彼方にハイパーなトップランナーたちが幾人もいて、道を切り拓いた先蹤がいまや追い抜かれていることを聴衆は知ることになる。 昨年の「第九演奏会」のしっかりとした統率とはほど遠い渾沌のアンサンブルのまま、フレージングから生み出される勢いだけで音楽を推進させる様子に、ノリントンの「老い」を初めて感じた。オーケストラはブリテンのときより混乱していて、しかしそれでもアーティキュレーションが相変わらず異様に鮮やかに機能しているぶん、少なからず悲しかったんである。 #
by Sonnenfleck
| 2013-10-27 19:50
| 演奏会聴き語り
![]() ●オトテール:2Flのための組曲 ロ短調 op.4 ●クープラン:趣味の融合、または新しいコンセール第13番 ●バッハ:無伴奏Flのためのパルティータ イ短調 BWV1013** ●テレマン:2重奏のためのソナタ ニ長調 op.2-3 ●C.P.E.バッハ:無伴奏Flのためのソナタ イ短調 Wq.132* ●W.F.バッハ:2Flのための二重奏曲第1番 ホ短調 Fk.54 ○C.P.E.バッハ:小品(曲名不詳) ○W.F.バッハ:小品(曲名不詳) ⇒バルトルド・クイケン(Fl*)+前田りり子(Fl**) バルトルド・クイケンのふえを聴くのはたぶんこれで三度目くらいなのだけど、むろん、近江楽堂のように狭い空間で贅沢に体感したことはない(りり子女史のふえはもう何度目かよくわかりません)。 当日の近江楽堂は、あのクローバー型の空間の中央に2つの譜面台と1つの椅子が置かれて、100名弱のお客さんが四方から取り囲む形式。遅れて到着した僕は、譜面台の向きから判断するにP席に相当するブロックの最前列に「まー背中からでも近いからいいかー」と座ったのだが、後からこれが幸いする。 + + + で、入場してきたお師匠さんとお弟子さん。小柄なお弟子さんが立奏すると大柄なお師匠さんが座った高さとちょうど合うらしく、バルトルドは椅子に腰掛ける(あとでりり子女史が教えてくれたのだけれど、バルトルドはひと月前に足の骨を骨折してたとのことで…)。 そしてありがたいことに、1曲ごとに回転しながら方向を変えて吹くよーとの仰せ。P席が一気にS席に早変わりするの図です。 さて、僕としては最初のオトテールのデュオがこの日のクライマックスだったと言ってよい。 本業の多忙が続いて、1ヶ月以上コンサートにご無沙汰していたのもあるし、バルトルド御大とりり子女史の音を至近距離で聴けるというミーハーな喜びもある。しかしオトテールの、お約束どおり終曲に置いてあるパッサカリアが、やっぱりお約束どおり中間部で長調に転調して見せるに及んで、バロックの血がじゅっと沸騰するのを感じたのであるよ。 ふつう、クラシック音楽全般をレコード芸術的に幅広く聴くひとがあれば、彼らがイメージするバロック音楽というのは《マタイ受難曲》だったり《ブランデンブルク協奏曲》だったり《水上の音楽》だったりする。ところがバロック音楽の本質のひとつであるキアロスクーロは、巨きな管弦楽や大合唱よりも、小さなアンサンブルの細部に宿っていることが多いんである。 閉ざされた部屋における密かな明暗の悦びをこっそり分けてもらうこの上ない贅沢は、ふえを知悉しきったオトテールによって、また師匠と弟子の親和する一対の息によってもたらされる。パッサカリアが緊張したロ短調から解放されるその瞬間の光を、僕たちは深呼吸するように味わう。 + + + バルトルドのソロで演奏されたエマヌエル・バッハも(企画の主であるりり子女史には申し訳ないけれども)、この日聴きに出かけて本当によかったと思わせる仕上がり。これもバロック音楽の本質のひとつである「究極の名人芸」に触れたわけですが、目にも止まらぬ速さで鮮やかに撫で斬りされたみたいで、死んだことに気づかない浪人Aみたいな心地。御大が吹いていたのは仕込み笛でござった。 還暦を過ぎてますます進化を続けるバルトルド。BCJの女王(すいません)りり子女史も、大師匠の前では何やら少女のように可憐な姿を見せている。 #
by Sonnenfleck
| 2013-10-14 09:48
| 演奏会聴き語り
![]() ●ベルリオーズ:劇的交響曲《ロミオとジュリエット》op.17~〈序奏〉〈愛の情景〉〈ロミオひとり〉〈キャピュレット家の大饗宴〉 ●ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 op.47 ⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/ 読売日本交響楽団 正直に告白すると、僕はスクロヴァチェフスキを「何かもういーや」と思っていた。かつてあれほど心酔したにも関わらず、ここ最近の動向について情報を集めることすらしてこなかった。 ところが今年の読響客演のショスタコーヴィチが、何やら大変な反響を呼んでいる。そうなると現金なもので、2005年客演時のショスタコの極めて素晴らしいパフォーマンスを思い出し、やがて当日券を頼みにホールへ足が向いてしまうのであった。 + + + で、どうだったか。 第4楽章の凄まじいギアチェンジ、この考え抜かれ鍛え抜かれた推進力には恐れ入った。自分が8年前に書いた感想文がそのまま生きるので、引用しましょう。 緊張を保持したまま、アタッカで第4楽章。恐ろしく遅いテンポで辺りを蹂躙したかと思えば、シニカルなリタルダンドを掛けてニヤリとさせたり、楽しい仕掛けが満載。ちょっとおこがましい言い方ですが、この曲をよく知っていればいるほど面白いのです。最後、普通の指揮者は素直にコーダに重心を置きますが、スクロヴァはコーダの直前に大きなクレッシェンドを掛け、異常に肥大した山を作る。聴き手はここでもまた度肝を抜かれます。なんていう人だ。。でも8年後の僕が腰が抜けるほど驚いたのは、この第4楽章ではなくて、第3楽章の信じられないくらい荒涼とした心象風景なのだった。 ショスタコーヴィチの第5交響曲は、もしかすると、ただ第3楽章のために存在しているのかもしれず、また、スクロヴァチェフスキと読響の8年間はそれを証明するのに十分な関係を互いに構築させたのかもしれません。 ご存知のようにこの曲の第3楽章は、ショスタコが書いたもっとも美しいアダージョのひとつです。この美しさをストレートに表現することで成功している演奏もかなり多いし、そのアプローチについて僕はそれほど疑念を持たない鑑賞者だった。そうだったけれども、今日からは違う。 スクロヴァチェフスキは、ここに甘美なブルジョワ糖蜜をたっぷり掛けたりしなかったし、「<強制された歓喜>に対する<抵抗>の自己表現」にもしなかった。爺さんの前でこの楽章はただ、凍てつく冬に「商店」に並ぶ小母さんたちの偉大さに捧げられた、バビ・ヤールの第3.5楽章として存在していた。こんなマチエールの第3楽章は、ただの一度も聴いたことがない!! バビ・ヤールの言葉なき追加楽章とするために、ポルタメントで厭らしく粘つく2ndVnや、裸のままで乾いたアタックのCb、一斉に縦方向に叫ぶ木管隊、空間を横方向に切り裂くヒリヒリとしたハープに至るまで、スクロヴァ爺さんは容赦なく必要なものを集める。そして彼のいつもの「構築」の柱や梁として、それらのリソースを実に贅沢に使い倒す。 そのようにして組み上げられた響きの空間は、この交響曲が後期ショスタコーヴィチの培地たりうる大傑作であることを、再び僕たちに教えてくれる。「自発的に次に亘る」演奏の前では、誰かが”証言的である”と決めつけるのも、”証言的でない”とみなすのも、等しく意味がない。こうした視点を、僕たちは90歳の元祖モダニスト老人から授けられる。 + + + それから(これもちゃんと書いておきたい)第2楽章も見事のひと言なのだった。 この1年、能と一緒に狂言を見るようになって、優れた狂言の実践は最初から最後まで厳格な真面目さによって貫かれているということがわかってきた。この楽章はカリカチュアライズが簡単にできるので、今世紀の演奏はかなり露悪的なものが多いように思いますが、それだって狂言と同じで、クソ真面目にドタドタやってこそ活きる。露悪の裏に何もない、すっからかんの素寒貧。この日のスクロヴァチェフスキのドライヴは、ちょっとコンドラシンを思い出させるくらい、完璧だった。 + + + さて前半のロメジュリ抜粋。「4楽章の劇的<小>交響曲」の形式に整えられたベルリオーズの、異常な前衛性に僕たちは気がつかなければならない。膨張して1839年の木枠を突き破るその姿に、1937年に鉄の文化政策を腐食させ、次代の芽を宿していた音楽を重ねてみるのも、おそらく悪くないのでありましょう。 スクロヴァ爺さん。僕はやっぱりあなたの元に戻ることになりそうです。 #
by Sonnenfleck
| 2013-10-06 23:00
| 演奏会聴き語り
前にも書いたことがあるが、僕が生まれて初めて生で能を見たのはいまからおよそ10年前、水道橋の宝生能楽堂で、演目は「大原御幸」だった。
いまになって思えば、これが「石橋」や「道成寺」だったら能への接近はもう少し早かったかもしれない。この宝生能楽堂を、とっても久しぶりに訪れたのだった。 + + + ![]() <宝生会主催公演「時の花|夏」> ●狂言「雷」(和泉流) →野村萬斎(シテ/雷) 石田幸雄(アド/医者) ●試演能「雷電」(宝生流) →辰巳満次郎(前シテ/菅原道真の霊|後シテ/雷神) 宝生欣哉(ワキ/法性坊僧正) 則久英志、大日方寛(ワキヅレ/従僧) →松田弘之(笛) 大倉源次郎(小鼓) 柿原弘和(大鼓) 小寺真佐人(太鼓) ●特別対談:湯島天満宮宮司・押見守康 × 宝生流二十世宗家・宝生和英 宝生能楽堂の場所はよく覚えていたけれど、中に入ってからエレベータで上階にあがった記憶が捏造されていた。入り口と同じフロアにあるじゃん。ロビーは自然光が差し込んで明るい。堂内は照明がミニマル。 この日はもともと中正面だったのですが、隣にもの凄い貧乏ゆすらーがいて地震のように椅子を揺らすので、諦めて休憩中に差額を払って正面席へ。。能の見所にも困ったちゃんは出没するのだな。。 ![]() 狂言「雷」は、武蔵野を歩いていた藪医者の目の前にカミナリさまが墜落、腰をしたたかに打ち付けたカミナリさまを藪医者が鍼で治療するという、ドリフのコントみたいなお話。 萬斎さんはカミナリさまなので面を装着して登場。マスクつきの狂言を見るのはこれが初めてですが、能に接近しつつ一線は絶対に越えないバランス感覚が面白い。ちなみに地謡もいらして最後のカミナリダンスを伴奏する(アーティキュレーションは狂言スタイル!)。 + + + で、能「雷電」です。 宝生流の「雷電」は2年前に復曲された演目。宝生流の大パトロンであった加賀の前田家が菅原道真の子孫を称していたことから、宝生流では前田家に気を遣って「来殿」として上演してきた。「来殿」では菅公は僧正に調伏されず、最後に菅公が朝廷への寿ぎの舞いを舞って終わるみたいで、ずいぶん違うすなあ。 ちなみにアフタートークでご宗家が話してらしたんですが、2年前の「雷電」復曲後に、宗家の文庫のなかから「来殿」になる前の旧「雷電」振り付けノートが見つかり、それを元にして微妙に演出を変えたとか。第2稿の初演だったというわけですね。 ◆1 菅公の亡霊と雷神 比叡山の座主・法性坊僧正が祈祷しているところへ、謎の訪問者が現れてほとほとと扉を叩く。不審に思った僧正が確かめると、そこに立っていたのは先日死んだはずの菅原道真であった。 菅公は「これから内裏に行き、仇をなした人物たちを殺すが、僧正は必ず私を調伏するために呼ばれるだろう。だがその勅命には応じないでほしい」と話す。 しかし僧正は、王土にいる以上は勅命には抗し得ないと応じたので、怒った菅公は柘榴を口に含んで戸口に吐き捨てる。すると柘榴は炎に変じて燃え上がるが、僧正は印を結んで水を放射。かつての仲睦まじい師弟は悲しく決裂してしまう。 後場では、内裏を模した畳の作り物が運ばれて来、このうえで雷神と化した菅公と僧正が壮絶なバトルを展開する。雷神は紫宸殿や清涼殿を跳躍し電撃を飛ばすが、僧正は数珠をさらさらと打ち鳴らし、やがて法力で雷神を調伏する。 ◆2 ドラマトゥルギー この作品でシェイクスピアみたいな感覚を受信したのが、自分的にはすごく面白かったのだった。 後半の大スペクタクルのさなか、地謡が「僧正いるところ雷落ちず、、」って謡うんだけど、前半、道真公の亡霊が「勅命には応じないでほしい」っていうやり取りがあったからこそ、菅公の内心に残る人間らしい葛藤(師に対する思慕や感謝の念)をここに入れ込めるようにもつくってあるのよ。この内心の分裂。いいよね。。 内裏に雷がバリバリ落ちる、道真公 vs 僧正のスペクタクルはもちろんサイコーに格好いい。しかしその奥に通底しているのは、かつて親のように教えを受けた師である僧正に対して菅公が抱く静かな感情。しっとりしたドラマであった。 ◆3 クラ者の雑感 最後の雷撃シーンはまるでリヒャルト・シュトラウスの大管弦楽のような膨満感があって素敵でした。笛・小鼓・大鼓・太鼓だけで、あのド迫力。 #
by Sonnenfleck
| 2013-09-28 09:03
| 演奏会聴き語り
![]() ●ムソルグスキー/R=コルサコフ:歌劇《ホヴァーンシチナ》~前奏曲〈モスクワ川の夜明け〉 ●スクリャービン:交響曲第4番《法悦の詩》op.54 ●チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調 op.64 ⇒インゴ・メッツマッハー/ 新日本フィルハーモニー交響楽団 2013/14シーズンの個人的オープニングにして、ほぼ2ヶ月ぶりのフルオーケストラ。男子の朝・男子の夜・男子の昼、みたいな高2系プログラムも興味をそそる。 メッツマッハーを聴くのは1月のアルペン以来ですが、やっぱり前回と同じように、マルケヴィチやベイヌムを想起させたのだよねえ。 鮮やかに分離した声部の襞々と(鮮やかに分裂して静止していれば、それは≒ブーレーズ)、それだけではない自在に伸縮する横への流れ。こうした美質をメッツマッハーは先輩たちと同じように備えていると思うのです。 + + + まずチャイコフスキーから書こう。 スタッカート多用のポツポツしたアーティキュレーションで第1楽章が始まってちょっと困惑させられた聴衆は、やがてメッツマッハーの巧妙な仕掛けに気づく。 「普通の」チャイ5であれば1stVnの分厚いレガートに覆われて見えない木管隊の密やかな声部、これが弦楽器とバランスされてしっかりと浮かび上がる。メッツマッハーが頑なに指定する急速なインテンポに率いられて、それらが鮮やかに分離しながら華々しいテクスチュアを織りなす様子は、ダンスだよ。 ハーモニーの上では無理な統合で縛られないので、一本一本の声部は主張をやめないが、それらがリズムの上で統合されたとき、ペルシアの絨毯がうねるような豪奢な美が目の前に現れる(より正確に言えば「現れそうになっていた」)。 つまり、メッツマッハーが最終的に目指しているものは明確なのだよね。したがって第2楽章では、もし新日フィル弦楽隊に一層の照りや艶があったとしたら、なお適切なバランスで浪漫の絨毯がホールに敷かれただろう、という瞬間がないではなかった。それは、このコンビを聴き続けていく理由は十分にあるということを意味するだろう。 第4楽章など、VaとVcの刻みがあまりにも機能的な美しさを放つのでまるでストラヴィンスキーのように聴こえる局面もあり、たいへん興味深い。 響きを器用にまとめ、どちらかと言うと腰高な音を持つ新日フィルと、上に書いたようなメッツマッハーの目指す音楽とが、別々の方角を向いているのではないのは疑いない。あとは2直線が交わるのを聴衆は待ってる。 + + + 前半のスクリャービン。藝術の峻厳な高みに近づくために、ここで少し不適切な表現を使うのを許してください。 多くの《法悦の詩》が「ボカシあり」だとすれば、メッツマッハーの《法悦の詩》は「無修正」だったと思われる。のたくりながら絡み合う声部たちはやはり綺麗に分離していて、このよくわからない交響曲を初めて何かの描写だと納得させてくれたのだった。直接音の多い座席で聴けたのは幸運だったと思うけど。 次はメッツマッハーのベートーヴェンかハイドンを聴いてみなくちゃいけないなあと思うのでありました。 #
by Sonnenfleck
| 2013-09-16 10:31
| 演奏会聴き語り
以前どこかで書いたかもしれないが、フランチェスコ・ドゥランテ Francesco Durante(1684-1755)の弦楽のための協奏曲ト短調の通奏低音を弾いたことがあって、それ以来、このナポリ楽派随一の感傷主義者(もうちょっと正確に言うと「甘いメロディ量産家」)にはなんとなく心惹かれるものがある。
↑弦楽のための協奏曲ト短調 *ニコラス・クレーマー/ラグラン・バロック・プレイヤーズ このひとはアレッサンドロ・スカルラッティの高弟としてナポリ楽派の隆盛に大いに貢献した人物なのですが、彼は面白いことにオペラを作曲せず、もっぱら教会音楽に人生を捧げてるんだよね。上にリンクを載せた弦楽協奏曲は数少ない例外。 + + + ![]() <ドゥランテ> ●《預言者エレミヤの哀歌》 ●《ヴェスプロ・ブレーヴェ》 →ロベルタ・インヴェルニッツィ、エマヌエラ・ガッリ(S) ドロシー・ラブッシュ、アンネミーケ・カントル、 ローザ・ドミンゲス(A) マルコ・ビーズリー(T) アントニオ・アベーテ、フリオ・ザナージ(Bs) スイス・イタリア語放送合唱団 ⇒ディエゴ・ファソリス/ソナトーリ・デ・ラ・ジョイオーサ・マルカ したがって、劇性や旋律に対するナポリ的偏愛を一滴残らず注がれた彼の宗教作品は、ヴィヴァルディやヘンデルのそうした作品にまったく劣らない強靱な音楽として現在に伝わっている。このディスクはそのなかでも傑作と考えられている《預言者エレミヤの哀歌》と《ヴェスプロ・ブレーヴェ》を収めた一枚です。 まず《預言者エレミヤの哀歌》を聴いてびっくりするのは、そこに確かに現れている、モーツァルトのレクイエムとよく似た旋律運びなんだよね。 モーツァルトがナポリ楽派に甚大な影響を受けていることはよく知られていますが、こんなにはっきりと感知できる作品もあったんだねえ。 ↑《預言者エレミヤの哀歌》序盤 *ファソリス/ソナトーリ・デ・ラ・ジョイオーサ・マルカ ◆2:45すぎくらいから、モーツァルトの元ネタっぽさが炸裂! 指揮は最近お気に入りのディエゴ・ファソリス。 彼のことはどこかであらためてちゃんと書きたいと思いますが、音の立ち上がりと立ち消えに対する彼の鋭敏な感覚と、音符の子音的特質に関する明快な好み、そして決して作品フォルムを崩さない優雅な音楽運びなど、僕は彼に「古楽界のドホナーニ」の称号を贈りたくてたまらんのです。 + + + 《ヴェスプロ・ブレーヴェ》はもう少し前の時代の作品に寄っているような気がする。聴取による様式判断は禁じ手ではありますが、こっちはアレッサンドロ・スカルラッティと、さらにその師匠のカリッシミを経由して、昆布だしのように利いているパレストリーナ風の安寧が聴かれて愉快である。 もちろんバッハもモーツァルトも不世出のものすごい人物だし、彼らの作品は任意の瞬間の「雑な」演奏実践にも耐えうるくらい強靱なフォルムを持っているんだけれど、よりまともな藝術性を確保するために大切なのは、彼らに流れ込んでいるそれまでの潮流を忘れないようにすることだと思うの。 #
by Sonnenfleck
| 2013-09-07 12:28
| パンケーキ(18)
![]() <Corellimania> ●コレッリ:合奏協奏曲ニ長調 op.6-4 ●モッシ:合奏協奏曲ニ短調 op.3-3 ●コレッリ:合奏協奏曲ニ長調 op.6-1 ●ロカテッリ:合奏協奏曲ホ短調 op.1-4 ●コレッリ:合奏協奏曲ニ長調 op.6-7 ●ヴィヴァルディ:2Vnのための協奏曲ヘ長調 RV765 ●ジェミニアーニ:コレッリのVnソナタ op.5-12による合奏協奏曲ニ短調《フォリア》 ⇒フロリアン・ドイター/アルモニー・ウニヴェルセル アルカンジェロ・コレッリ(1653年2月17日 - 1713年1月8日)の生誕300年にあたる今年、コレッリの典雅な音楽をリスペクトしたアルバムがたくさん登場しているが、これはそのなかでも圧倒的に変な光を放つ一枚。浮いている。でも浮いているのは善いこと。 バッハよりもテレマンよりも、ヴィヴァルディよりもヘンデルよりも、ひと世代後の音楽家たちに与えた影響の凄まじさはコレッリのほうが上である(コレッリは「音楽の祖母」くらいには呼ばれていいと思いませんか)。そのコレッリのコンチェルト・グロッソを中心に、影響を受けた作品を据えたアルバム。コンセプトとしてはごく普通でしょう?…しかしですよ。 このディスクに収められたコレッリのop.6-1,4,7には、トランペットとトロンボーンがアンサンブルのなかでリピエーノを吹いているのです。最初の6-4を聴いたときの驚きと言ったらない。 でもこれはお遊びなのかと思ったら、さにあらず。 12曲の合奏協奏曲を仕上げたころのコレッリはピエトロ・オットボーニの楽長として大規模な宗教声楽作品を振っていたし、そもそも1689年3月19日にコレッリが彼の協奏曲をトランペットともに演奏した、という記録もあるらしい。当時のローマでは、アンサンブル補強のためにトランペットとトロンボーンが追加されることも珍しくはなかったようなんだよね(ライナーノーツではコレッリのこの3曲が祝祭性の強いニ長調であることも触れながら、この試みを説明している)。 + + + そんなわけで初めて聴いたときには、まったくコレッリらしからぬ、きんきらきんに光り輝くテクスチュアに「ヴェネツィアかwww」って思ったのですが、演奏実践のフォルムは第一級なのです。 もったりと熱を帯びた「動的な静けさ」で聴かせるコレッリのグロッソはもちろん佳いのだけれど、独特の長~くのたくる旋律がダレやすいロカテッリのグロッソが、かなり素敵な演奏。ロカテッリには金管楽器を加えていないので、このアルモニー・ウニヴェルセルというアンサンブルの機動力がグッと表に出る。しゃっきりと瑞々しいレタスを囓るような爽やか系ロカテッリ。 MAKやルーヴル宮音楽隊のコンサートマスターだったフロリアン・ドイターが創設したこのグループは、このディスクを聴くかぎりでは「現実を忘れさせるくらいニュートラルな」面白い音楽をやる。 どうしても念頭に浮かびやすいゲーベルやミンコフスキの音楽と正反対のその方向は、百花繚乱の10年代古楽シーンではきっととても強力な武器で、僕は彼らの演奏にブーレーズのラヴェルと同様の矜恃を感じるのだ(でも通奏低音にハープやギターがいたりもするから、一筋縄ではいかない)。 かくして金管楽器に彩られた72分は、自他共に認める史上最強のコレッリマニアことフランチェスコ・ジェミニアーニの「5-12」グロッソがトリを務める。ここでもニュートラルの仮面をかぶったスペインが踊り、爽やかにまた平然と幕を下ろすのであった。 #
by Sonnenfleck
| 2013-08-11 10:15
| パンケーキ(18)
![]() <東京オペラシティシリーズ第74回> ●ドビュッシー:《牧神の午後への前奏曲》 ●同:交響詩《海》~3つの交響的素描 ●ショーソン:《詩曲》op.25* ●ラヴェル:《ツィガーヌ》* ●同:《ボレロ》 ○同:《マ・メール・ロア》より第5曲〈妖精の園〉 →成田達輝(Vn*) ⇒ミシェル・プラッソン/東京交響楽団 初めに《牧神》のオーケストラの響きを聴いたときに、いつもの東響のプチ重厚な音色ではなくて、充実した中音域と華やいだメロディラインで構成された、まるで別のオーケストラのような印象を持ったことをまず書いておきたい。オーケストラをいろいろな指揮者で聴く醍醐味はこういうところに現れている。 それから《海》。これは自分×ドビュッシー史上に残るようなたいへんな名演であった…! 角ゴシック風のきりりとした太線で描かれた響きに、彩度の高いパリッとした色が乗っている。 これはよく言われていることだけど、フランス音楽は演奏実践がふわとろだと全然ハマらないことが多い。だからパレーやベイヌムの古い録音はいまでも明確な価値を持っているし、自分の聴神経の奥に眠っているフルネの音楽づくりだって、その価値観をしっかり体現していたように思うのだ。 プラッソンのことはこれまでそんなに気に留めたことがなかった。録音の多すぎる指揮者の例に漏れず、愚かな自分は無意識に彼のことを軽く見ていた可能性がある。しかしこの剛毅でカラフルなドビュッシー!大事に感じるマエストロがひとり増えた! + + + 後半はショーソンの《詩曲》にラヴェルの《ツィガーヌ》と続く。 ソロVnの成田氏は、これからもっともっと良い音楽家になるだろうと思う。力強く円やかな音色ははっきり言ってかなり好みなんだけれど、どの局面でも完全に均質なヴィブラートは、作品の陰影を失くす蛍光灯の照明のようでもあった。 ショーソンのオケパートは、しかしこれはまた素晴らしい仕上がり。 ワーグナーとフォーレの隙間に漂うのはオフホワイトのロマンティシズムである。プラッソンの指揮はそれほど精密には見えないが、曇天にも様々な表情があるように、光が射してくる時間や、黒雲が沸く時間、こうした「流れ」がホールの時間と同期していたのにはまったく驚いた。時間の流れはプラッソンの棒の先で操られていた。 ボレロ。この作品に「解釈」はありえない、と思っていた僕の考えを粉々に打ち砕いたのは、かつてFMで聴いたプレートル/SKDの演奏であった(史上もっとも猥雑なボレロ!)。 プラッソンはやはりドビュッシーのときと同じ太い描線でデッサンを描き始めるが、乗っているのはもう少しくすんでエロティックな色である。歌い回しに加わったほんの少しノンシャランな味つけが、そんなイメージを喚起する。 (※ボレロがいちばん楽しいのは初めてピッコロが加わるあたりで、それはドラクエで言うとルーラを覚えるくらいに相当する。) + + + そんなダンディちょいエロ系ボレロが華々しく爆発したあとのアンコールに用意されていたのは、精密の限りを尽くした〈妖精の園〉なのだった…!ここで泣かずにいられるクラシック音楽好きがいるだろうか。 ここで嗚咽しては恥ずかしいという気持ちが辛うじてブレーキを掛けてくれたが、危ないところだった。日々の仕事で鈍麻していく審美の感覚に対してさえこのような慰撫があるのだから、クラシック音楽を聴くのはますますやめられない。 #
by Sonnenfleck
| 2013-08-03 09:57
| 演奏会聴き語り
![]() ●狂言「瓜盗人」(大藏流) →茂山千三郎(シテ/男) 茂山正邦(アド/畑主) ●能「熊坂」(宝生流) →朝倉俊樹(前シテ/僧|後シテ/熊坂長範) 宝生欣哉(ワキ/旅僧) 茂山逸平(アイ/所ノ者) →一噌幸弘(笛) 鵜澤洋太郎(小鼓) 柿原弘和(大鼓) 金春國和(太鼓) 国立能楽堂・7月企画公演「蝋燭の灯りによる」に行ってきたのだ。時間的に狂言には間に合わなかったが、観能7回目にして初の蝋燭能であるよ。蛍光灯の下に亡霊や死霊は現れにくいのであるから。 ![]() 当日はこのように、舞台の周りにぐるりと蝋燭が灯されている。席に座っていると小さな炎は和紙の外側には露出しない。そのぶん、その影を紙に落として炎は何倍にも膨れあがる。 僕はこの公演がどうしても見たくて、発売日当日に電話をして正面席一列目真ん中を押さえていた(世が世なら御殿様が座る席ですね)。でもこの選択は失敗だったかもしれないなあと、はじめは思ったのよ。炎との物理的な距離が近いと、視界に入る周囲の闇の量が少なくなってしまうのね。 ともあれ、仕手の真ん前で身体を観察するにはもってこいの場所だ…と割り切って舞台に目を移した僕を、だんだん闇が浸食してゆく。 なんということはない。僕の目の前で、たかが23メートルのあの至近距離ですら、シテの身体性が薄まって消えてしまったのだ。闇が濃い。闇が重い。もったりと澱んだ闇があちこちを覆っている! + + + ◆1 盗賊と僧侶 「熊坂」のお話は次のとおり(公演パンフより一部抜粋)。 都の僧が東国へと下る途中、美濃国・青野が原にやってくる。すると一人の僧体の者が旅の僧を呼び止め、今日はあるひとの命日なので回向をしてほしいと、街道筋からはずれた古塚へと案内して供養を頼む。 ◆2 面と装束と蝋燭 この「熊坂」では、長霊癋見(ちょうれいべしみ)と呼ばれる、熊坂長範が登場する能でしか用いられない独特のマスクが用意される(画像はこちら※ちょっと怖いので夜中などご注意)。 個々でも再三書いてきたが、舞台上で能面は明らかにひとの顔を志向する。ひとの顔になりたがる。蛍光灯の下ですらこのような幻視を体験するのだから、いわんや蝋燭の灯りにおいてをや…である。 斜め下から蝋燭の光に照らされた長霊癋見は、シテの朝倉氏の人格を喰い破って身体を支配し、しかし亡霊であるからその操る身体の境界を曖昧にし、ついには浮遊するかのような舞いを舞わせる。この浮遊する感覚は、現実的には朝倉氏の身体能力の高さのゆえだろうし、夢幻的には蝋燭のせいであろうと思う。 牛若との一騎打ちを再現する舞いで、シテの振り回す薙刀の切っ先は正面に座る僕のほうを捉えている。斬られる。マスクのうつろな眼窩だけが炯炯と実在する。 そして能装束である。あの蠱惑的な蝋燭光の反射、朱暗い黄金色は、装束が持っている真実のエネルギーが放出されていた証ではないかと思う。もう本当に心の底から震えるように美しいのだよ。蛍光灯の平たい光はこのエネルギーを放射させないための拘束具なのか。。 ◆3 ピリオドアプローチとしての蝋燭能 それが産み落とされた時代の様式で実践するという姿勢が、古楽と蝋燭能の明確な共通項である。 ガット弦を張ることによる音色の豊かな幅と、蝋燭を灯すことによって導かれる舞いや謡いの陰翳とは、同質の「訪れ」。能における空間のキアロスクーロは、たとえばバッハやモーツァルトに不可欠なガット弦の用意やボウイングやフレージングと何ら変わらないどころか、それにも増してさらに重要な因子である可能性が高い。これがわかったのは本当に大きいです。 蝋燭のぼんやりとした灯りの下では、囃子方も地謡も、ワキですら木像のように静かで、人格を喪っている。シテが見ている幻が観衆にも逆流して、孤独な一人芝居としての能の性格を際立たせるのだよね。そういえば古楽も密室の愉楽なのであった。 #
by Sonnenfleck
| 2013-07-29 06:23
| 演奏会聴き語り
![]() 【2011年9月9日 スロヴェニア・マリボル ユニオン・ホール】 ●ボッケリーニ:弦楽五重奏曲ニ長調 op.40-2 G341 ●ハイドン:Vc協奏曲第2番ニ長調 Hob.VIIb/2 ○ソッリマ:インプロヴィゼーション? →ジョヴァンニ・ソッリマ(Vc) ●ロカテッリ:合奏協奏曲変ホ長調 op.7-6《アリアンナの嘆き》 ●ハイドン:交響曲第63番ハ長調 Hob.I:63《ラ・ロクスラーヌ》(第2稿) ⇒ジョヴァンニ・アントニーニ/イル・ジャルディーノ・アルモニコ (2013年7月24日/NHK-FM) ボッケリーニ。サヴァールの洒脱な大人ボッケリーニを知っているわれわれには、イルジャル好みに統一されたヤンキーボッケリーニはかえって格好悪いように聴こえるのだよなあ。とげとげとげ。 かねてからボッケリーニの作品は(たとえばベートーヴェンほどには)演奏者に「解釈」を許さないのではないかと思っている。魚が描いてある魯山人の絵皿にサイコロステーキを載せても仕方がないように、器に正しい料理を載せることはとても大切。 ハイドンはボッケリーニに比べて劇的に器の汎用性が増すので、アントニーニがやりたいように料理をつくっても音楽は耐えうる。 イルジャルのハイドンって初めて聴いたような気がするんだけど、溌剌とした第1協奏曲ではなく、バロックの優雅の裾を引きずった第2協奏曲で意外なマッチングを見せているのが面白い。優雅の裾の下にすね毛のいっぱい生えたごつい通奏低音を利かせているけれど、足はけっして裾から出てこないのがアントニーニの巧みさなのかも。ソッリマ(この作曲家氏の演奏実践も初めて聴いたな!)のなよっとして腰高な歌い回しを上手に支えている。 ソッリマのアンコール、NHKの番組表では「オリジナルのテーマによる変奏曲」とされていたけど、インプロヴィゼーションではないだろうか?明らかに直前のハイドンを元にした主題が上手に変奏されてた。 + + + さて後半。ロカテツのこの作品はちゃんと聴いたことがなかったなあ。 解説の方が話していたように、グロッソの名前を持っているくせにほとんどソロコンチェルトという詐欺みたいな曲ですが、コレッリではなく完全にヴィヴァルディに変質しているこのころのロカテッリにはイルジャル流のアプローチがよく合います。空間に溶けるようにしてぼやっと終わってしまった。ソロVnはオノフリ? 最後のハイドンは、名曲の名演奏だったと思う。 本当にここ最近、ハイドン不感症が治療される糸口が見つかり始めたんですが、ハイドンの1770年代に素材を求めることができるこの交響曲には、エマヌエル・バッハの残響がたくさんこだましているのがすぐにわかる。アントニーニ/イルジャルはもっとエマヌエル・バッハやクリスティアン・バッハをやればいいと思っている僕には、ここで示されている「チャラめな高校サッカー部員」みたいな運動能力の高いハイドンが心地よい。 それから、Vc協奏曲で感じられた「バロックの優雅の裾」の処理が、ここでも適切に行なわれているのが好ましい。第2楽章のある局面では、むしろその先のベートーヴェンの緩徐楽章にすっと繋がっていく理性の光も見える。以前よく聴いていた彼らのベートーヴェン録音(第1・第2)よりもその意味ではベートーヴェンらしい。アントニーニが少しずつ変わってきているのかな。。 #
by Sonnenfleck
| 2013-07-25 23:11
| on the air
![]() もともとスイカの味を好まないのにスイカの風情だけは好きなので、まずパッケージのインパクトにまず嬉しくなっちゃう。 それからキャップをぐねりと捻って液体の匂いを嗅ぐと、あの懐かしき「夏はやっぱりスイカバー」と完全に同じスイカの香りが漂ってきて、口に含んでも、喉の奥に落としても、鼻に抜けるのはノスタルジックな少年時代の思い出。そのうち山でヒグラシが鳴き始めて、庭木に水を撒いて、夕ごはんが待っている。。 いつも水っぽい「小岩井純水」シリーズなのに、なぜかここでは夏の夜のスイカ的気分をぎゅっと凝縮した素晴らしい仕上がり。純水シリーズ最高の完成度に達しているのでは。。 #
by Sonnenfleck
| 2013-07-21 08:10
| ジャンクなんて...
![]() <第23回演奏会|没後10年 石井眞木へのオマージュ> ●石井眞木:交響的協奏曲~オーケストラのための(1958、世界初演) ●陳明志:《御風飛舞》In the memory of Ishii Maki(2013、委嘱・世界初演) ●石井眞木:《ブラック・インテンションI》~1人のRec奏者のための op.27(1976)* →鈴木俊哉(Rec*) ●伊福部昭:《交響譚詩》(1943) ●石井眞木:《アフロ・コンチェルト》op.50-ver.B(1982)** ○同:《サーティーン・ドラムス》op.66(1985)から** →菅原淳(Perc**) ⇒野平一郎/オーケストラ・ニッポニカ このブログ、そしてTwitterでも長くお世話になっているmamebitoさんが所属されているオーケストラ・ニッポニカ。これまでなかなか聴く機会がなかったんだけれど、今年は取り上げる作品の熱さが尋常でなかったし、ニッポニカの評価は年々上がるばかりだし、是非もなく出かけたのだった。 石井眞木という作曲家、さほど邦人作曲家に詳しくない僕がなんとなく彼のことを知ったつもりでいるのは、秋田県民のための偉大なるオラトリオ《大いなる秋田》(今すぐYouTubeで第1楽章を聴こう!)が、石井眞木の実兄・石井歓によって作曲されているから。でも眞木のほうの曲は《アフロ・コンチェルト》をどこかで聴いたことがあるくらいで、実はよく知らない(ちなみに石井兄弟の父である舞踏家・石井漠は秋田のひとで、僕の高校の先輩である)。 + + + まず驚いたのは、発掘されてこの日が世界初演となった若書きの交響的協奏曲が、かなりの名品だということ。 聴いていて強く感じたのは、プログラムにあるバルトークからの影響より、伊福部からの影響のほう。俗謡的な易しいモティーフが積み重なっていくのは確かにバルトーク風ではあるけれど、そもそもあのノシノシ!ドコドコ!バンバン!という明快なリズムは伊福部、もうちょっと言うなら日本の古典芸能や民謡に特徴的なあの「超しっくりくるリズム」に他ならない。純邦楽風バルトーク。こういうシンプルな音楽観が土台にある作曲家だったんだ。 (※それから、いかにもショスタコーヴィチらしい「Fg→コーラングレ→Fl(たしか…)」という静かなソロの吹き渡しにクスリ。) そして次の驚きは、オーケストラ・ニッポニカのシャープな巧さ! アマオケを聴くときにプロオケを聴くときのようなドライな耳を使っていいのか、僕はいつも迷い、そして結局アマオケを聴くのを放棄する。でも幸いにしてすでにニッポニカはそういうレベルを脱していて、在京プロオケと同じ高さで遠慮会釈のない聴き方をしてもフツーにいける。団員の皆さんの高い技倆と熱い共感に支えられて純邦楽風バルトークがスパークするのだよ。ああ。 + + + 団員による「ISHII!! MAKI!!」の掛け声も楽しい中華風伊福部・陳明志の委嘱作品、そして休憩を挟んで、これも驚愕だった《ブラック・インテンションI》。 これは能ではないか!石井眞木の能! 昨年の11月から能を見続けてきて、自分のなかでクラシックから能への敷衍だけでなく、ついに能からクラシックへ逆流の兆候が!あな嬉し!フランス・ブリュッヘンがこの作品を初演してから30年が過ぎ、今日の僕はこれを能だと感じる。 ◆序(1本ソプラノRec) →ワキの登場。「これは僧にて候」とか言ってる。 ◆破(1本ソプラノRec+1本バロックソプラノRec) →前シテが登場しワキと対話する。次第に張り詰める空気。前シテの錯乱と絶叫、銅鑼。煙のように消える前シテ=バロックソプラノRec。 ◆急(1本テナーRec) →ワキ(ソプラノRec)は人格を喪ったのでもう登場しない。後シテ=テナーRecとして正体を現した亡霊が、フレーズ感の希薄な独白ののち、やがて急調子の早笛(ここのリズムの好みは1958年と全然変わってない)。ひとしきりの舞い、最後は地謡が受け取って静かに終焉を迎える。 鈴木俊哉さんをついにライヴで聴けたのも嬉しい。一部の無神経なお客が咳で静寂を妨害するなか、リコーダー本来の寂寥感のある音色と特殊奏法を駆使して、ほとんどの真っ当なお客たちを幽境に引き込んだ。 + + + 伊福部昭《交響譚詩》は、この日唯一の物足りなかった時間。伊福部の比較的若いころの作品をやるには、野平センセの好みがちょっと淡泊すぎるのではないかと思ったのだった。石井作品ではコアの部分に相当する感覚が伊福部ではそのまま表に露出しているわけだから、もっと彫りを深く、恥ずかしがらないフレージングをオケに伝えてしかるべきだったのではないかしらん。。 で、大トリは石井眞木《アフロ・コンチェルト》である。 この作品は視覚的な効果が大きい。ちょっとわかりにくいけど、当日の終演後の写真を載せますと。 ![]() 打楽器協奏曲だけに、指揮台の向かって右手にドラムセット、向かって左手にマリンバとバラフォン(アフリカの民族的マリンバ→参考リンク、音も確認できます)がわらわらと並んでます。菅原さんは演奏中にここを縦横に駆け巡って各打楽器を打ち鳴らす。「奏でる」ではなく「鳴らす」がしっくりくる作品です。 この曲に使われているリズムは明快だよ!と言ってもいいと思う。「たたたた|たたたた|たんたんたん♪」というリズムモティーフが、ソロのドラムセットやマリンバ、巨大に拡張されてオーケストラへ伝播し、作品の額縁として機能している。でもそのすっきりした額縁のなかに、厖大な装飾が蠢いているのよ。この厖大な装飾の統制が演奏の難しさにつながっているんだろうなあ。 いっぽう、野平さんの乾いた感覚は、こういう音楽や冒頭の交響的協奏曲のような作品によく合致する。蠢いているのは伊福部作品のなかにいるような魑魅魍魎ではなく、石井が与えた拍子の法則によって縛られた音符たちなので、オーケストラへの指示もより明瞭なのではなかったかと思われる。 菅原さんは、ひと月前にBCJで典雅なバッハを叩いていたおじさんとは思えないような、鬼神のごとき打ち込みであった。これは文章で描写する努力を初めから放棄したい。薄いイエローの涼しげなシャツは彼の演奏をより軽やかなものに見せていたし、アンコールの《サーティーン・ドラムス》抜粋もまた、本プログラムに輪を掛けて軽やか。つまり重大なのは、あれが難しそうに聴こえないこと。 + + + コンサートが万雷の拍手とともにはねると、上空にも雷さまが来て驟雨と雷鳴。ホールの軒下で雨宿りする夕方の聴衆は口々に、アフロと13ドラムスが雨を呼んだと噂している。 #
by Sonnenfleck
| 2013-07-16 23:28
| 演奏会聴き語り
![]() <七月観世会定期能> ●能「景清」 松門之出 小返 →片山幽雪(シテ/悪七兵衛景清) 坂井音隆(ツレ/人丸) 浅見重好(トモ/人丸ノ従者) 宝生欣哉(ワキ/里人) →一噌仙幸(笛) 大倉源次郎(小鼓) 國川純(大鼓) ●狂言「太刀奪」 →大藏吉次郎(太郎冠者) 榎本元(主) 宮本昇(通行人) ●能「半蔀」 →関根知孝(前シテ/里女|後シテ/夕顔女) 福王茂十郎(ワキ/僧) 大藏教義(アイ/所ノ者) →松田弘之(笛) 亀井俊一(小鼓) 柿原弘和(大鼓) ●仕舞「高砂」 →木月孚行 ●仕舞「通盛」 →上田公威 ●仕舞「桜川」クセ →野村四郎 ●仕舞「阿漕」 →片山九郎右衛門 ●能「鵺」 →武田尚浩(前シテ/舟人|後シテ/鵺) 則久英志(ワキ/旅僧) 大藏千太郎(アイ/里人) →内潟慶三(笛) 森澤勇司(小鼓) 亀井広忠(大鼓) 小寺真佐人(太鼓) ●附祝言 梅雨明けの朝の渋谷を歩けば、松濤の山上に観世能楽堂あり。開店した109に雪崩込むギャルたち、パチンコ屋の入店を待つ長い行列、至近に狂乱の円山町、、これはいとも不思議のことなり。 観世流の総本山である観世能楽堂を訪ねたのはこれが初めてです。水回りを見るにつけても建物自体は結構古いようですが、内部はきれいに保たれてる。 お客さんは宝飾品をじゃらじゃら付けた威風堂々たるマダム率が(国立能楽堂に比べるとかなり)高くて、今の世のパトロンたちを垣間見る思い。彼女たちの「上品な下品」こそ、本物のお金持ちの証だろう。 この日は、というかこれが普通なんだろうけど、能三本に狂言一本、仕舞が四本というたっぷりスタイル。国立能楽堂の公演が安いのは公立ということもあるだろうが、そもそも番組が小さいからというのもあるんだろうなあ。 + + + ◆1 ラモーまたはワーグナーとしての観世流 一曲目「景清(かげきよ)」。 これは平家の猛将・悪七兵衛景清こと伊藤景清をシテとした作品です。景清は大河清盛には出てきませんでしたが、伊藤忠清の七男。 ここではまずオーケストラによる前奏曲と、ご宗家が中に入った地謡が、いずれも荘重かつ重厚でびっくりしてしまった。2ヶ月間、自分が観能から離れていたせいだけではなくて、観世流の劇的な性格が強く観測されたと考えるのが自然のように思う。はっきりとしたキアロスクーロに、音楽的豊満さ。ものの本などに書いてある観世流の特長が徐々にわかるようになってきた。 その特長を踏まえたうえで、シテ・片山幽雪氏の、老いと悔いが滲んだレチタティーヴォが印象に残っている。手元に詞章がなくて半分くらいは聞き取れなかったのだけど、意味があるかどうかはあまり関係ないんだろうな。 かつての傲然とした武者姿の残像をこちらに放ちつつ、盲目となって手に持つ杖の震えにこもる執心。これは亡霊のなりかけとしての盲目なのだ。 ◆2 ラモーとリュリのちがい 二曲目は「半蔀(はじとみ)」。 前半で若い女、後半で「源氏物語」の夕顔の亡霊が登場する複式夢幻能です。第五帖「若紫」で与謝野源氏をいったん断念した僕でも知っている(苦笑)第四帖「夕顔」の主人公が、源氏との思い出を語り舞う美しい時間。 今回の正味5時間のなかで僕がもっとも能の恐ろしさを感じたのは、実はこの作品の後半、夕顔の亡霊が、夕顔の蔓這う半蔀の奥からこちらを真っ直ぐにじっと見ていた数分なのだった(こちらに参考画像のリンクを貼りますが、ゾワッとくるので注意)。 露わになっていても人の顔と紛うことの多い能面が、蔓や花弁や瓢箪でまだらに隠れれば、それはもう明らかに人である。声も体格も普通のおじさんのはずなのに、そこにいたのは若い女の亡霊であった。舞台に風が吹き抜けて、夕顔の花が揺れる。まことに幽冥の藝術である。 オーケストラの面では、小鼓の亀井老人の、擦るような呻くような柔らかいアーティキュレーションが舞台を涼やかにしていたし、「景清」とは明らかに発声メソッドを変えた地謡もしっとりした趣があった(または、あれが地謡の「楽譜」の違いのせいなのだとしたら、わかったことが大きい)。 でももしかしたら、先に述べた観世の特長は「景清」や「鵺」でこそパーフェクトに達成されるのかもしれない。曖昧に消えかかる輪郭よりも。これはリュリやシューベルトが担当すべき世界だ。 ◆3 豊麗の奥に潜む何か 三曲目は「鵺」。 能の上演の最後はこういう異形が登場する五番目物によるんだよね。五番目物一曲だけで上演されるときよりも、今回のように巨大な序破急のなかで取り上げられるときの効果は無類なのだろう。スペクタクル。と、知識ではいったん理解している。 ところが、実際に見てみれば、前シテで岸辺に漕ぎ寄せてくる「異形の水夫」のほうが、後シテの鵺本体よりもよほど恐ろしかったのが興味深い。舞台に青臭い水辺のにおいが立ち込めたが、それはシテ武田尚浩氏の持つたった一本の竿のせいである。 ◆4 身体のためのエチュード 実は、今回の比較的暗く静かな番組のなかで、身体性の発露をもっとも強烈に感じさせたのが四曲の仕舞であった。 仕舞というのはマスクも装束も着けず、オーケストラもなく、コロスだけを従えて任意の能の場面を舞う形式。上演のときにはたぶん流派の実力者たちがこのかたちで登場する。 上田公威氏の「通盛」と片山九郎右衛門氏の「阿漕」は男ざかりの身体の勁さを、木月孚行氏の「高砂」は優雅な身体の運びとはこういうものだということを、それぞれに教えてくれる。5分の時間の重いこと!特に片山九郎右衛門氏の身体から立ち上る整頓された熱気に、4月に近美で見たベーコン展の残像が重なってしまった! そして2月の「砧」以来となる野村四郎氏は、「桜川」で脂の抜けた澄明な身体を見所に見せる。扇を持つ手は老いによる震えが無視できないほどではあるけれど、シテの狂乱と一体化して、しかもその周囲にはらはらと散る桜花を幻視させるくらい美しい。 + + + 能楽堂を出ればいつの間にか夏の日は傾き、遠くに積乱雲が見える。夏なのだ。 #
by Sonnenfleck
| 2013-07-13 08:49
| 演奏会聴き語り
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