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尾高忠明/東京フィル 特別演奏会|グレの歌@オーチャードホール(2/23)

2011年3月12日。帰宅を諦めて会社に泊まり込んだ僕は、残ったほかの同僚とともに、倒れてしまったキャビネットたちの搬出作業に午前いっぱいを費やして、昼ごろようやく平常運転に戻り始めた中央線を使って帰宅したのだ。

この土曜日、僕はラザレフ/日フィルのコンサートに出かける予定で、Twitterの情報を見るかぎりではそのコンサートは果敢にも開催されるようだったが、再び帰宅できる保証はなかった。こうして僕はそのチケットを無駄にした。

そして2011年3月20日。僕はもう一枚、死んだチケットを眺めなければならなかった。中止が発表された、東フィルの創立100周年記念演奏会、グレの歌である。

+ + +

c0060659_20414482.jpg【2013年2月23日(土) 15:00~ オーチャードホール】
<特別演奏会>
●シェーンベルク:《グレの歌》
→ヴァルデマル王:望月哲也(T)
 トーヴェ:佐々木典子(S)
 山鳩:加納悦子(A)
 道化クラウス:吉田浩之(T)
 農民・語り:妻屋秀和(Bs)
→三澤洋史/新国立劇場合唱団
⇒尾高忠明/東京フィルハーモニー交響楽団


でも東フィルは諦めていなかった。今度は作品の初演100年目のその日に、グレの歌はついに演奏されたのだった。

1 作品のこと
《グレの歌》は、表現主義期のシェーンベルクが取り組んだ、全曲2時間を超える巨大な世俗オラトリオ=歌付きの交響曲=舞台なしオペラ。
時間だけじゃなく、編成も本当に巨大。ロマン主義の断末魔を表現するためにシェーンベルクは150人規模の大オーケストラを指定しちゃったんだよね。さらにそこへ5人のソロ歌手と混声8部合唱が加わるので、もう浪漫的妄執の産物と言っていいだろう。オーチャードの奥行きのあるステージを隅々までみっちり占有して、それでどうにか収まる。
(※この日は弦楽器があまりに多すぎて、ふだんは打楽器がいるあたりにようやく木管の1列目が並び、金管はその奥。打楽器陣の絶望的な眺望は推して知るべし。)

全曲は次のような構成(以下、当日のプログラムから抜粋)。
<第1部>(約60分)
序奏
第1の歌「今 黄昏に 海も陸も」(ヴ王)
第2の歌「月が滑るような光を投げ」(トーヴェ)
第3の歌「馬よ なぜ こうも歩みが遅いのだ!」(ヴ王)
第4の歌「星は歓びの声をあげ」(トーヴェ)
第5の歌「天使たちの舞いも」(ヴ王)
第6の歌「今 初めて告げる」(トーヴェ)
第7の歌「真夜中だ」(ヴ王)
第8の歌「あなたは 私に愛の眼差しを向け」(トーヴェ)
第9の歌「不思議なトーヴェよ」(ヴ王)
間奏
「グレの鳩たちよ」(山鳩)

<第2部>(約5分)
「神よ 自分のなさったことをご存じか」(ヴ王)

<第3部>(約65分)
「目覚めよ ヴァルデマル王の臣下たちよ」(ヴ王)
「柩の蓋がきしみ 跳ね上がる」(農民)
「王よ グレの岸辺に よく来られた!」(臣下たち)
「森は トーヴェの声で囁き」(ヴ王)
「鰻のような 奇妙な鳥」(道化クラウス)
「天の厳格な裁き手よ」(ヴ王)
「雄鳥が鳴こうと 頭を起こし」(臣下たち)
序奏
「アカザ氏に ハタザオ夫人よ」(語り手)
「見よ 太陽を!」(合唱)
実はこの2時間、地の文の時間軸ははなはだ不安定に遷移するんだよね。
第1部の終わり、第9の歌までは、時間軸はヴァルデマル王とトーヴェの逢瀬をだらだらと描写する。しかし急転直下、間奏でトーヴェの死が暗示され、山鳩は葬列を歌う。そして第2部はヴァルデマル王の最後の呪詛。たぶんここで王は死ぬ。

第3部の前半はヴァルデマル王の死後、幾星霜を重ねたのちの時代のようだ(明示はされないけど)。
亡霊となったヴァルデマル王が、やはりすでに葬られている臣下を墓から呼び覚まし、グレの大地を徘徊する描写が続く。アンデッドの長い夜は、それが一夜のことなのか、それとも繰り返される苦しみの夜々のことなのか、明確にはならない。

そこへオーケストラの序奏とともに、夏の朝の風が吹き込んでくる。時間軸はやはり明らかにならないが、「朝」がやってくるのである。この永遠の朝とともに時間が消失して、この長大なオラトリオは終わる。

時間は自由に伸縮する。そこでの主人公は誰か?ヴァルデマル王?山鳩?トーヴェの幻影?ゾンビ軍団?
いやいや。このオラトリオの主人公は「グレの大地」ではないかい。
これは呪われたグレの大地に永遠の安らぎが訪れたことを寿ぐオラトリオだったのだ。震災で中止に追い込まれたこの作品の公演が、いま復活する意義はある。せめて藝術の中だけでも、永遠の安らぎの朝が訪れたっていい。。

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2 音楽のこと、演奏のこと、うたのこと

この作品は、興味深いことに途中で作曲が中断された経緯を持つ。
この日のプログラム解説(舩木篤也氏)によると、第1部から第3部の農民の歌くらいまでが1901~03年、それ以降が1910年の作曲とのこと。この間、シェーンベルクは表現主義から無調の時代に突入したけれど、1910年に作曲された部分もいちおうは表現主義時代の様式に基づいている。…かに聴こえる。

でも、実際はそうではない。
ラトル/BPOのCDでこれまでずっと予習してきて、ここの「接ぎ木」部分はそれほど気にならなかったんだけど、生で聴くと明らかに第三部途中からのテクスチュアがそれまでと異なっていて、かなり吃驚してしまった。Twitterでどなたかが「これだけ巨大な音響になると録音には入りきらない、または家庭のオーディオでは再現できない部分が多い」と指摘されていて、今はそれがよく納得できる。

つまり、1910年部分からは、それまで分厚い「塗り」の後方に押し込められていた立体感が急に前面に出てくるということ。
アンサンブルの単位は小さくなり、ソリスティックなパッセージが急増、その小ブロック同士のぶつかり合い=異化し合いで音楽が進んでいく。表現主義的な旋律が乗っかっているけれども、これはシェーンベルク十二音に進化していく骨格だよね。



尾高氏と150人フル編成の東フィルは、立ち上がりの黄昏音楽こそぎくしゃくしたものの、初速が遅い重機械のように尻上がりに調子を上げて、やがて「山鳩の歌」に到達するころにはこの世のものとは思えないくらい絢爛な音響を振りまき始める。

このお方は案外、しっくりくるレパートリーが広くない印象なんだけど、尾高氏の真骨頂である上品でさらりと甘いハーモニーセンスは、むしろ第3部の「接ぎ木」以降、とてもよく映えたように感じた。最後の5分間、朝がやってきてからの素朴な高揚感には、胸が締め付けられるような思い。震災のあと、最初に聴いた生演奏は尾高氏のマラ5だったけれど、僕はまたこのお方に大深度心理を救われたな。

声楽は、肝心のヴァルデマル王の望月氏が不調(というより、そもそも威圧的な大管弦楽には対峙できないという声質アンマッチによる悲劇?>二期会《カプリッチョ》でフラマンを歌ったときはとっても好かった!)に見舞われてほとんど声が通らなかった以外、新国の合唱団も含めて全員大健闘だったと思う。
それにしても妻屋氏の野太いシュプレヒシュティンメ、さすがだったなあ。彼が最後の5分を朗らかに導いた。

+ + +

モニュメンタルな公演でしかも極めて良質な演奏だったのに、終演後に客席があまり盛り上がらなかったのはなぜだろう?最近「盛り上がりすぎる」公演にばっかり足を運んでいたからそう感じたのかな。。
by Sonnenfleck | 2013-02-24 20:43 | 演奏会聴き語り

〈エスポワール シリーズ 8〉日下紗矢子(Vn)Vol.3【シュールホフ!】@トッパンホール(7/1)

c0060659_21212657.jpg【2012年7月1日(日) 15:00~ トッパンホール】
●シュールホフ:弦楽六重奏曲
●ベートーヴェン:弦楽三重奏曲ハ短調 op.9-3
●シェーンベルク:《浄められた夜》op.4
 ○J. シュトラウス2世:《トリッチ・トラッチ・ポルカ》
→日下紗矢子(Vn)、甲斐摩耶(Vn)、
 アンドレアス・ヴィルヴォール(Va)、鈴木康浩(Va)、
 ステファン・ギグルベルガー(Vc)、
 ダミエン・フォンテュラ(Vc)


少し前のコンサートなので軽めに書く。
この日は午前からお昼に掛けて永青文庫で肝を冷やしたあと、講談社野間記念館を覗いてから椿山荘に抜け、目白坂を下って飯田橋まで歩き、当日券でこれを聴いたのだった。ベルリン・コンツェルトハウス管(旧ベルリン交響楽団)の第1コンサートマスター・日下さんの帰国公演には、昨年もお邪魔している

+ + +

この午後は、何と言っても、シュールホフのゼクステットがきわめて素晴らしい聴きものでした。
1924年に初演されたこの作品は、響きのうつろいと陰翳、バルトーク風のバーバリズムにシェーンベルク風の官能が塗り込められた、いかにも美しい戦間期の音楽。この日の演奏は第1楽章の野趣以上に、第2楽章と第4楽章の闇夜のムードに心を持っていかれてしまった。シュールホフのアダージョはだいたい全部そうだが、つま先から冷気がじっとりと這い上がってくるような冷たい音色の遊戯。
ブラヴォを飛ばす。

浄夜は、、オケ版のほうが圧倒的に好きなのでコメントいたしません。

昨年のシューベルトのように日下さんのヴァイオリンの鋭利で硬質な線がそのまま表に出るわけじゃないんだけれど、アンサンブルの方向づけは明らかにその延長線上にあって興味深い。
今年はベルリンやボンの優秀な音楽仲間を募ってこうしたハイレベルな音楽を聴かせてくれる、日下さんのカリスマを体験した気分(長木センセのプログラム解説にもあったとおり、プログラミングの視座を明確にしたうえで、自らの音楽性に合う作品を選ぶところはお見事だ)

日下さん、7月末の梅田/読響@フェスタサマーミューザでゲストコンミスを務められてたとか。今度はそろそろ、オケのなかでのソロを聴いてみたいものです。
by Sonnenfleck | 2012-08-17 21:22 | 演奏会聴き語り

セザンヌ―パリとプロヴァンス@新国立美術館|あるいはシェーンベルクとしてのセザンヌ(6/3)

c0060659_13351146.jpg「あたくしゴッホが好きですの」「あたくしはルノワール」という応酬に負けじと「セザンヌ萌え!」などと叫べば、その場は一気に「お、おう…」という空気になること甚だしく、よってミーハーなるおばちゃんたちからは敬して遠ざけられる、セザンヌ。

一義的にこの状況はシェーンベルクも同じである。「モーツァルトやショパン…」というテクストのなかでは、シェーンベルクの名前は禍々しい呪文のように響く。
もう少し拡げて言えば、セザンヌもシェーンベルクも、後代に与えた影響の大きさは計り知れないが、彼らそのものの作品が一般に広く知られているとは到底言い難いということでもある。

ところで、シェーンベルクに《ピアノ組曲》op.25という作品があります。
シェーンベルクが初めて全面的に十二音技法を用いて作曲したこの作品が、
I プレリュード
II ガヴォット
III ミュゼット
IV インテルメッツォ
V メヌエット
VI ジーグ
という極めて古典的なフォルムをしていること、皆さんはご存じでしょうか。

完全に新しい作曲技法を自信たっぷりに披露する際に、シェーンベルクがなぜ古典舞曲の集まりを用いたか。いくつかの理由があるのだろうけど、音楽史のなかでよく知られた「かたち」と、そこに盛りつけられた新料理との間で起こる著しい異化を、シェーンベルクが計算していないわけはない。



↑op.25をポール・ジェイコブスの演奏で(背景はフランツ・マルク)

+ + +

この展覧会の会場で、次の作品から電撃的にシェーンベルクの作品25が想起させられたのは、岩場の風景という伝統的なお皿の上に載っかっている強烈な新料理が発見されたからである。これが、ファン層よりもマニア層のほうが厚いという点よりも重要な、シェーンベルクとセザンヌの本義的な共通性ではないだろうか。

◆《フォンテーヌブローの岩》(1893年、メトロポリタン美術館)
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岩場、という何の変哲もないお皿にセザンヌが載せたのは、視野のなかに宿命的に紛れ込んでいるフォルムの焙り焼きとでも言えるようなものである。5分くらいじっと視ていると、岩と木々が(本質的には岩と木々そのもののまま)同じ本質を持つ別の実体に見えてくるんだよなあ。あーでもうまく説明できねえなあ。

僕たちの絵画鑑賞においては、しばしばお皿の貴賤や軽重によって第一次の判断が行なわれ、たいていはそれがそのまま最終次の判断になってしまう。セザンヌの用意しているお皿の地味さは、それが本来的にセザンヌの最強の戦略であることを意味している。シェーンベルクの文脈で言えば、僕たちはヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲などを思い出してもいいかもしれない。

◆《ビベミュスの岩と枝》(1900-1904年、パリ・プティ・パレ美術館)
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もう一歩進むとこうなる。フォルムの黒焼き。弦楽三重奏曲。

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つづくかも。
by Sonnenfleck | 2012-06-17 13:41 | 展覧会探検隊

スダーン/東響 第597回定期演奏会<シェーンベルクプロジェクト最終回>@サントリーホール(2/25)

c0060659_1222782.jpg【2012年2月25日(土) 18:00~ サントリーホール】
●モーツァルト:Vn協奏曲第5番イ長調 K219
 ○バッハ:無伴奏Vnソナタ第3番~ラルゴ
→パク・ヘユン(Vn)
●シェーンベルク:交響詩《ペレアスとメリザンド》
 ○シェーンベルク:Hpと弦楽のためのノットゥルノ
⇒ユベール・スダーン/東京交響楽団


魂を奪われてしまった。シェーンベルクに。ぼうっとする。
僕が1905年のウィーンで初演を聴いた作曲科の学生だったと仮定すれば(毎度勝手な仮定で恐縮ですが)、そのまま楽屋に駆け込んでシェーンベルクに弟子入り志願。

ロマンティシズムって佳いなあ、と心の底から思う。
この曲に限らず、また僕が改めて言うまでもなく、そしてその作曲様式の種類を問わず、シェーンベルクが表現しているのは彼の中でぐじゅぐじゅに発酵する浪漫なんである。アルバン・ベルクだけが新ウィーン”浪漫”楽派とされて、シェーンベルクが無視されるのは納得がゆかぬよ。

+ + +

スダーン/東響は、極上のパフォーマンスをやってのけてしまった。僕がこれまでに聴いてきた国内オケの公演のなかでも、これは特に屈指の体験だったと言える。

熱に浮かされたような首席Va青木さんのソロ、ニキティンコンマスの清澄なソロ、絡み合う木管が描く蔦文様、表現主義のギッザギザが見えるTp、深いため息のようなTb。。スダーンのフェティシズムがすっかり浸透した結果だろうか、この夜の東響は本格的重厚であった。何しろオケの響きが飴色に光っていたもの!もはや「プチ」重厚と書いたら失礼に当たるくらいには、ひかひかてらてらと。

細かな評論は評論家先生方に任せよう。僕はただ、紫の浪漫煙が充満し、いろいろなキャラクタの声部がびゅうびゅうと交錯し、おまけにそれら音の線たちがとろっと光るあの空間に身を置けただけで、もう十分に満足であります。

+ + +

東響はこのあと、おそらくはこの音色を維持したまま、マーラーの歌曲プロジェクトに突入するわけだ。伝説的な完成度が期待される。定期会員になろうかなあ。
by Sonnenfleck | 2012-03-03 01:36 | 演奏会聴き語り

表現主義とミクラシックの甘い関係(続報)

ついに第1部が完成したみたいなので、ご紹介。

◆初音ミクにシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」を歌わせてみた#05
→第5曲《ショパンのワルツ》


◆初音ミクにシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」を歌わせてみた#06
→第6曲《聖女》


◆初音ミクにシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」を歌わせてみた#07
→第7曲《病める月》



第6曲の完成度が高い。壮絶に美的。第7曲は(お約束ですが)楽しいです。

[関連リンク]
表現主義とミクラシックの甘い関係(第1~4曲)
by Sonnenfleck | 2011-02-26 11:04 | 広大な海

表現主義とミクラシックの甘い関係

久しぶりにニコニコ動画に潜ってみたら、途轍もないシリーズが始まってて注目せざるを得ない。楽器としての初音ミクは、まことに異様な存在感を持っている。オタのおもちゃというレベルをはるかに超えているのよ。

◆初音ミクにシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」を歌わせてみた。
→第1曲《月に酔う》


◆初音ミクにシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」を歌わせてみた#02
→第2曲《コロンビーナ》


◆初音ミクにシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」を歌わせてみた#03
→第3曲《伊達男》


◆初音ミクにシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」を歌わせてみた#04
→第4曲《蒼ざめた洗濯女》


+ + +

もともと萌えボイスは表現主義に合うなあと思っていたが(現にシュプレッヒシュティンメでもそういう声質のひとはいるしね)、そこへロボっぽさも加わるとかなりの感性論的威力を持つ。

今年の「あいちトリエンナーレ」で、平田オリザがロボットを出演させた演劇をやってましたよね。それに倣って、音源は初音ミクのシュプレッヒシュティンメ、歌手は株式会社ココロの「アクトロイドF」、アンサンブル・ノマドか東京シンフォニエッタの伴奏で、ピエロ・リュネールの新しいかたち。どっすかどっすか。
by Sonnenfleck | 2010-12-22 23:27 | 広大な海

アンサンブル・フランセ@しらかわホール

【2008年6月1日(日)11:00~ しらかわホール】
●ドビュッシー/瀬尾(?):《牧神の午後への前奏曲》(五重奏版)
●同:《第1狂詩曲》
●ラヴェル:Pf三重奏曲
●シェーンベルク/ウェーベルン:室内交響曲第1番 op.9
●ガーシュイン/瀬尾(?):《ラプソディ・イン・ブルー》(五重奏版)
  ○アンコール 同曲~終結部
⇒アンサンブル・フランセ
  ニコラ・ドートリクール(Vn)、ローラン・ワグシャル(Pf)、
  ベルトラン・レイノー(Vc代役)、ニコラ・バルデイルー(Cl)、瀬尾和紀(Fl)


しらかわホール主催の「ELEVEN AM」シリーズ第3回目です。(第1回目はこちら。)
この時間のマチネだとまず13時には終わるので、14時開始マチネみたいに「一日終わってしもたあ」感がないことに気がつきました。いいぞーもっとやれー。

で、在フランスの若い音楽家たちによる活きのいいアンサンブル。
とにかく表現の触れ幅が非常に大きくて、夜に聴いたら軽く疲れてたかも。
プログラムがいい。あとルックスもいい。そっち方面で売り出さなかったのは尊敬する。
チェロの通常メンバーにドクターストップがかかって来日できなくなったのは残念。

しかし(他のメンバーには申し訳ないけど)クラリネットのバルデイルーという兄さんがあからさまに別格というか、頭二つ分くらい飛び出た巧者でありましてですね。
主役の瀬尾さんを圧倒する《牧神...》の中のエロティックなパッセージや、《第1狂詩曲》のソロにおける引き出しの多さを聴いて吃驚してしまって、休憩時間にパンフを見たんです。そしたらこの人ミュンヘンのコンクールで優勝してるし、マーラー室内管の元首席→フランス国立管の現首席らしいんですな。こりゃずるいわ。とんだ不意打ちだ。

ラヴェルのPfトリオで冷却冷却。ここではPfのワグシャルの冷めた感覚、必殺仕事人みたいな抑制の美が実にラヴェルらしくてよかったです。彼の不健康なルックスも◎

さても後半のシェーンベルクの室内交響曲第1番なんかもうぶっ飛びにぶっ飛びまくっちゃって、本人たちもブレーキが利かないくらいだったんじゃないか。主にVnのドートリクールのやんちゃな音楽性に因るところが大きいとは思いますが。
この曲の素っ頓狂な部分に嫌というほどスポットライトを当てて、5人が折り重なるようにしてそれを濃ゆ~く表現していくものですから、もしシェーンベルクがこれを聴いたら、キレるか爆笑するかのどちらかだろう。この曲の静かなところを、ウェーベルン版の「薄さ」を聴きにきた人にとってはたまらんでしょうが、僕は楽しめたなあ。熱演だった。

最後の《ラプソディ・イン・ブルー》で…この仏独近代音楽語法戦争は一時休戦。
五重奏バージョンなので輪郭を整えるVnとVcに無理が掛かってるかなという感じは少ししたんですが、Vc代理のレイノーが「仕事してます」っていう感じであるいっぽう、Vnのドートリクールが感情の赴くまま弾き倒してしまうので、全体の輪郭は微妙に揺らぐ。
まあシェーンベルクの後の公式アンコールみたいな位置づけだったからいいですけどね。
ここでもバルデイルー兄さんの異様に巧いソロに釘付け。。この人要チェックだ。
by Sonnenfleck | 2008-06-04 06:42 | 演奏会聴き語り

on the air:バレンボイム/ベルリン国立歌劇場 《モーゼとアロン》

c0060659_6132689.jpg【2007年10月18日 東京文化会館】
●シェーンベルク:歌劇《モーゼとアロン》
→ジークフリート・フォーゲル(語り/モーゼ)
  トーマス・モーザー(T/アロン)
  カローラ・ヘーン(S/若い娘)
  シモーネ・シュレーダー(MS/病人)
  フロリアン・ホフマン(T/若い男、裸の男)
  ハンノ・ミュラー・ブラッハマン
  (Br/もう一人の男、男、エフライム)
  クリストフ・フィシェッサー(Bs/祭司) 他
→ベルリン国立歌劇場合唱団
⇒ダニエル・バレンボイム/ベルリン国立歌劇場管弦楽団
(2008年4月27日/NHK-FM)

観に行けず涙を呑んだ《モーゼとアロン》。まさか放送されるとは!
僕がNHKに払った受信料は、このライヴを収録するための機材を運んだトラックのガソリン代になったのだと思えば、まったく心安くいられるというものです。ありがとうNHK!

これまでに聴いた《モーゼとアロン》は以下の4つ。
・ケーゲル/ライプツィヒ放送交響楽団(Deutsche Schallplatten)
・ブーレーズ/BBC交響楽団(SONY)
・ブーレーズ/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(DG)
・メッツマッハー/ハンブルク国立歌劇場(2004年11月@ハンブルク)
ハンブルクで観たコンヴィチュニー演出は、モーゼとアロンがキッチンにいたり、「蛇」がエロい女ダンサーになってモーゼを撫で回したり、第2幕の狂乱で当時のドイツ政界要人のお面をかぶった人物たちが踊ったり、乱交パーティ寸前のところまでいったり、とにかく大変な体験でしたが、いつかここで書こうと思いながらいまだに書けてません。

11月の雨のように昏いケーゲル、明晰でちょっと素っ頓狂なブーレーズ旧盤、磨き上げられて心地よいブーレーズ新盤。今回のバレンボイム/ベルリン国立歌劇場の演奏は、少なくとも音だけ聴く限り、これらのいずれとも似ていない。
まずオーケストラの音が濃密でうねるようで(あと、ちょっぴり楽天的で)、これが最初にして最大の特徴であります。
恐らく生で観ていたら演出の方に意識が集中してしまっていたと思うけど、第2幕前半のいくつかの俗悪なナンバーにおけるトゥッティの白熱ぶりだけでなく、第1幕冒頭でアロンが登場するシーンなど艶めかしい木管のアンサンブルに心を奪われました。それに第2幕後半の対決シーンは表出性がずいぶん強くて、なるほどこういうやり方もあるんだなあと感心。

アロンのトーマス・モーザーは第1幕まで声が揺れたり掠れたりしてかなりヒヤヒヤしましたが、第2幕に向けて尻上がりに調子を整えてきてましたね。
いっぽうジークフリート・フォーゲルのモーゼは極めてドラマティックな造形で、結尾の「O Wort, du Wort, das mir fehlt!」まで強い疑問と怒りを秘めていました。バレンボイムの濃厚なオケドライヴと対等に渡り合っていたです。
合唱は終始ノリノリだったなあ。

次に生で観る機会は、20年くらい先だろうか。。
by Sonnenfleck | 2008-04-28 06:15 | on the air

期待しないで

c0060659_73171.jpg【PHILIPS/PHCP-5142】
<シェーンベルク>
●モノドラマ《期待》 op.17 *
●キャバレー・ソング **
  (1)ガラテーア (2)ギゲルレッテ
  (3)分をわきまえた愛人 (4)単純素朴な歌
  (5)警告 (6)それぞれに取り分を
  (7)《アルカディアの鏡》~アリア (8)夢遊病者
⇒ジェシー・ノーマン(S)
→ジェイムズ・レヴァイン(指揮*Pf**)/メトロポリタン歌劇場管弦楽団*

西洋音楽史上、最恐の作品では。シェーンベルクの《期待》―夜の森に女一人、死体一体。

夜の森で女は錯乱していて、死体(=自分が殺してしまった恋人)に話しかけたり、死体を詰ったりして、最後に「何か」を見つけてしまう(何を?)。メデタシメデタシ。
そこへ表現主義時代のシェーンベルクが、大編成のオーケストラで容赦なくギャァァァとかヒィィィィとかやるもんですから、その怖さといったらないです。
何年か前にジェシー・ノーマンが「パリ・シャトレ座プロジェクト」として来日し、この《期待》とプーランクの《声》を演じたことがあって、結局行けなかったのだけど、結果的には行かなくて正解だったのかな。あれに生で接するのは危険すぎるような気がする。

CDでも《期待》は怖すぎて数十秒も聴いていられないので、本題はカップリングのキャバレー・ソング(ブレットル・リーダー)。
20世紀最初の数年間に作曲されたこれらの歌は、たとえばワイルに比ればどれも生硬で、「藝術」の手慰みといった雰囲気。ノーマンの歌唱も重く輝いているので、先日書いたラーベのヴァイル・アルバムに比べてしまうと、いかにも重量級オペラ歌手が歌いました...という感じが拭えない。
で、そのぶん〈夢遊病者〉のように半リート的作品が映えるわけですよ。
「俺」が月明かりの街を行進する様子が、Pfだけでなく、実際にスネアドラムとピッコロ、トランペットの伴奏とともに描写される。しかしグロテスクな歌詞、シンコペを根底に置くギクシャクとしたリズム、明るいようで不安を掻き立てるようなメロディに、マーラーの影を認めないわけにはいきません。「鼓手」ってイコノグラフィ的には「死」へ関連づけられる?
あれ、、一周して《期待》に戻るのか?
by Sonnenfleck | 2008-04-24 07:05 | パンケーキ(20)