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宿命的に巡り会うボーカロイドとシュニトケ

ボーカロイドを駆使したニコニコ動画のクラシック音楽シーンは面白いのが平気で転がってるので、まったく油断も隙もない。


何重にも美的に面白くて悶絶しちゃうよ。
・シュニトケのヴァイオリン・ソナタ第1番(1963)を
・ボーカロイド(「巡音ルカ」(2009))に歌わせて
・1分30秒過ぎにたいへん印象深くBACH主題(1740s)が出てきて
・かつ8bit風デチューン(1980s)を華麗に施して
・背景映像は奇しくもロトチェンコ風(1920s)
この作者さんは、アダムズの《中国の門》をアンビエント風に仕立て直したり、プーランクの《フランス組曲》リゲティの木管五重奏バガテルを8bitデチューンしたり、僕の好みの真ん中にぶち当たるので困っちゃいます。
by Sonnenfleck | 2012-06-28 22:29 | 広大な海

熱狂の復習―5月3日(木)その1|アレンスキー→シュニトケ→ペルト

c0060659_106449.jpg【133】5/3 1500-1545 ホールB5〈ツルゲーネフ〉
●アレンスキー:Pf五重奏曲ニ長調 op.51
●シュニトケ:Pf五重奏曲 op.108
⇒ボリス・ベレゾフスキー(Pf)
 スヴャトスラフ・モロズ(Vn)
 ミシェル・グートマン(Vn)
 エリーナ・パク(Va)
 アンリ・ドマルケット(Vc)


水も漏らさぬ、というアンサンブルではなかった。アレンスキーもシュニトケも、音程の定まらないところやユニゾンが破綻している箇所はいくつもあった。水はダダ漏れである。でも、湛えている水の性質が佳い。それが大事だ。

アレンスキーは第2楽章が印象深い。この楽章は変奏曲形式なんだけど、変奏していく主題の独特の高貴さは、音程やアンサンブルのメカが整っていることを必ずしも必要としてない。LFJ大好き熊さん・ベレゾフスキーをついにライヴで聴いたけど、この人も精緻さではなくムードの追求に余念がない。すなわちこの作品によく合う。

シュニトケはもう少し難物だけど、ショスタコムードの忠実な実践であるから、ソヴィエト臭い荒々しさで乗りきることもできる。特に第3楽章アンダンテから第5楽章パストラーレにかけて、たいへん荒涼として素晴らしい演奏が続いた。

【134】5/3 1645-1730 ホールB5〈ツルゲーネフ〉
●キリルス・クレーク Cyrillus Kreek:晩祷、首誦聖詠(詩篇104)
●作曲者不明:讃歌《沈黙の光》(ズナメヌィ聖歌)
●ペルト:《カノン・ポカヤネン》
~オードI, III, IV、コンタキオン、イコス、カノンの後の祈り
 ○アンコール メロディアスな何か
⇒ヤーン=エイク・トゥルヴェ/ヴォックス・クラマンティス


ECMからディスクをリリースしているオサレ系合唱団のみなさん。考えてみれば、メジャーレーベルから録音が出てるような合唱団を、合唱団だけのライヴで聴くのはこれが初めての体験かもしれない。
最初のクレークは1889年に生まれて1962年まで生きたエストニアの作曲家。いみじくメロディアス。次の単旋律聖歌(ズナメヌィ聖歌)との対比をなす。

しかし背筋が粟立ったのは、やはりペルトの《カノン・ポカヤネン(痛悔のカノン)》である。いちおうは4声合唱のために書かれているようなんだけど、声部内でも微妙にディヴィジが起こってるように僕には聴こえた。10数名のヴォックス・クラマンティスのメンバーがそれぞれ細かく分かれた声部を担当することで、物凄い不協和音の音波が押し寄せてくる。ドラッグを用いるとこういう感覚に陥るのかなあ。


↑参考:《カノン・ポカヤネン》からオードIV。

ま、ホールB5はまったく残響のない直方体なので、ちゃんと豊かな残響のあるホールで聴いてみたかったというのも本音。あれだけ乾いた空間でちゃんと合唱を聴かせる彼らこそ讃えらるべき。5/5勅使河原三郎の舞踏付きというのも面白げ。

この回のお客さんは、これまでの自分LFJ史上もっとも静かな人びとであった。みんな固唾を呑んで聴いていた。小さく携帯が鳴っても集中力が途切れない。

+ + +

雨がだらしなく降り続いている。寒くはないが陰鬱な心地。これも露西亜。その2へ続く。
by Sonnenfleck | 2012-05-04 14:09 | 演奏会聴き語り

サントリーサマーフェスティバル2011|映像と音楽 - グラス・ハーモニカと砂漠(8/22)

【2011年8月22日(月) 19:00~ サントリーホール】
●シェーンベルク:映画の一場面への伴奏音楽 (1929-30)
●フルジャノフスキー監督へのインタビュー
●フルジャノフスキー×シュニトケ:《グラス・ハーモニカ》(1968)
 (35mmフィルム、カラー、21分)生演奏付映像 世界初公開
●「ビル・ヴィオラ《砂漠》を語る」
●ヴィオラ×ヴァレーズ《砂漠》(1994制作/1949-54作曲)
 (35mmフィルム、カラー、29分)生演奏付映像 日本初公開
→有馬純寿(エレクトロニクス)
⇒秋山和慶/東京交響楽団


ソヴィエト文化に興味を持つ者としてはやはり、フルジャノフスキー×シュニトケの短編アニメ《グラス・ハーモニカ》に強いインパクトを受けた。こんなお話。
金権支配の激しいある都に一人の音楽師がやって来る。人心を惑わせる者として彼は逮捕され、楽器も破壊される。が、その音はひとりの少年の心を捕らえて離さなかった。その少年が大人になったとき・・・黒帽警察とその黄色い魔力に落ち、果てしない欲望、孤独、残酷、野蛮にかられた人々はひたすら、シュール、グロテスクに描かれる。グラスハーモニカの静かで澄み切った美しい音色はその魔力を解き、人々に徳が宿り、善行をせしめ、マリアのいる天井の世界へと誘う。ボス、デューラー、アルチンボルドグラスの肖像やルネッサンスを思わせる均整のとれた美しい典雅な世界が広がる。(サントリー芸術財団HPより)
以下、フルジャノフスキー監督の言葉をかいつまんで。

◆《グラス・ハーモニカ》は完成当初、当局の検閲を通り抜けられなかった。
◆そのためソヴィエト指導者のカリカチュアライズをやめた改訂稿を制作し直したが、それでも結局、公開できなかった。
◆改訂稿には「これは資本主義の国のお話です」というテロップを入れざるを得なかったが、民衆がそれを見たら笑っただろう。本当はどこの国のことか、すぐにわかるからだ。
◆現在のロシアに残るフィルムコピーは4本のみで、上映はいまだ困難。そのため今日この東京公演が、公開のかたちでの世界初演である。
◆私の大切な友人アルフレート・シュニトケの音楽もまた、当時は公開演奏されるようなことはほとんどなかった。
◆「アルフレート、君はやがて世界でもっとも著名な音楽家の仲間入りをすることになるよ」と言ったら、彼は笑っただろう。
◆世界はこのアニメの内容のように、金こそがすべて、という状況になってしまった。今こそ、この作品が上映されるべき時だ。
◆ドストエフスキーは「美は世界を救う」と書いている。
◆美に対して鋭敏な感覚を持つ日本でこの作品が上映され、また自分がその場に立ち会うことが出来、たいへん嬉しい。ありがとう。

という感じ。
YouTubeにあった断片を貼っておく。僕がごちゃごちゃと描写するより、実際にこれをご覧いただくのがずっといいよね↓


シュニトケの音楽はすでに、後年と同様の厳しさを備えている。
すなわちスラップスティックと激しいクレッシェンド、打楽器の透明感、バンドネオン、怪物たちの乱痴気騒ぎの躍動感。グラス・ハーモニカの優しいBACH主題から展開する典雅な擬バロック、そしてそれを台無しにする強烈な不協和音…。秋山/東響のプチ重厚な響きが美しい。シュニトケの純音楽的作品はあまりにも苛烈で個人的には敬遠気味だったが、ちょっと考えが改まったのだった。

「金貨の悪魔」によって二度も破壊されたグラスハーモニカが、最後は薔薇の姿で人々を救済し、悪魔は滅びる。理知の時計塔が再建され、画面は静かに暗転する。再びBACH主題が流れるエンドロール。幕。大喝采。
客席のフルジャノフスキー監督は何度もステージに呼ばれ、歓声と拍手を浴びる。隣に座る奥さまは感に堪えない様子で、ずっと泣いておられた。そりゃそうだよね。

監督が最後にとった行動は、この公演のモニュメント性を示していた。秋山さんからシュニトケのスコアを受け取り、僕たちに向かって高々と掲げたのである。

+ + +

後半はビル・ヴィオラ×エドガー・ヴァレーズ。

さて、僕には、ヴィオラの映像が美しすぎて、少なくとも音楽との共同ではなくなっていたように思えた。これはヴィオラの映像を貶しているわけではないし、ヴァレーズの音楽に力がないと言っているのでもない。ただ「どちらがカンヴァスか」という順序構造ができてしまっただけだと思うのだ。
したがって僕にとっては、生演奏付きの、とびっきり贅沢なヴィデオインスタレーションだった。もし生演奏でなければ、都現美の暗い部屋に座って眺めるインスタレーションとそれほど変わらなかった。

もちろん、ここで想起されるのはパリ国立オペラ《トリスタンとイゾルデ》でのセラーズ+ヴィオラ+ワーグナー、というコラボだが、思い返しても、あのときは今回のようなインスタレーション風味を感じなかったのはなぜか。それは何よりも、ワーグナーが生み出したのが「音楽」というより「オペラ」であり、それ自体が強大な重力を持つ「ものがたり」だったからである。

ヴィオラは奇しくも、総合藝術としてワーグナーを引き合いに出していた。そして「いずれもわれわれの脳みそを走る電子の表象であるなら、音楽と映像の間に(そして絵画や彫刻との間にも)差はない」と語っていた。
「差」の定義は抽象的な段階にあるようだが、ここではもっと卑近なところまで段階を落としましょう。それらが共同するとなれば、「ものがたり」があるためにより理解が容易いほう、より官能を満足させるほうが、受容する側にとってのカンヴァスになってしまうのは仕方がないことだと思うのよね。

カンヴァスなしの公平な受容は僕には難しい。差はないかもしれないが、差はある、ということだ。
僕はあのときワーグナーの官能的なスコアをカンヴァスだと判断したし、今回はヴィオラのぞっとするような美しい映像をカンヴァスとして捉えた(それは、ヴァレーズの音楽をBGM以上のものとは認識できなかったということでもある)。それぞれに逆の感想を持った方が大勢おられると思うし、あるいは、ヴィオラとワーグナー、ヴィオラとヴァレーズを等距離で観察できた方だっておられたはず。

+ + +

その文脈では、フルジャノフスキーの映像とシュニトケの音楽は、どちらかがカンヴァスになるというわけではない、正真正銘の共同だったと思われる。互いに話し合い、改良し合うことのできた幸福な作品だ。
そしてヴィオラ×ヴァレーズは、共同ではなかったかもしれないが、ヴィオラの映像作品として第一級の価値があるというわけだ。それでいいんじゃね?

(追記1)フルジャノフスキー監督からサインを頂くことができた。かわいい↓
c0060659_940367.jpg

(追記2)《グラス・ハーモニカ》とまったく同時期に作曲されたシュニトケのヴァイオリン・ソナタ第2番。BACH主題が執拗に登場している。


by Sonnenfleck | 2011-08-28 09:40 | 演奏会聴き語り

ロジェストヴェンスキー/読売日響 第116回東京芸術劇場マチネーシリーズ(11/28)

c0060659_2157069.jpg【2009年11月28日(土) 14:00~ 東京芸術劇場】
<シュニトケ>
●《リヴァプールのために》(日本初演)
●Vn協奏曲第4番
 ○アンコール 〈ポルカ〉
→アレクサンドル・ロジェストヴェンスキー(Vn)
●オラトリオ《長崎》(日本初演)
→坂本朱(MS)
→新国立劇場合唱団
⇒ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー/
  読売日本交響楽団


シュニトケの多様式主義には共感し難い、ということが改めてわかった。
音楽美学的には「様式の境目にギャップ萌え!」という価値の見出だし方をするんかな?シュニトケのそうした「ギャップ」部分には、お花畑が突如として殺戮現場になるような趣味の悪さがあって僕は嫌だし、それを僕の好みの問題にするにしたってもう少しコンパクトなスコアにまとめられるような気がする。。

前半の二曲はそれが顕著なんです。ちょっと久々に聴いたロジェヴェン先生の華麗な音響設計魔術は完全に健在で、余計鮮やかにギャップが描かれるのでたまらない。本当に趣味が悪い(苦笑)
Vn協奏曲のソリストである息子アレクサンドルのために用意したオケ付きのアンコール〈ポルカ〉もおかしな小品で、アンサンブルが合ってるんだか合ってないんだかよくわからんし、またしてもロジェヴェン先生の煙に巻かれてしまったナ。

+ + +

で、最後に打ち上げられるたのがオラトリオ《長崎》日本初演。
前半のことがあったのでかなり覚悟してたんですけど、よくプログラムを読んでみたら1956年に音楽院の卒業作品として作曲された曲で、その実はほとんど純正のショスタコ・インスパイアだったのでした。
それにしたって、交響曲第12番のようなショスタコをさらに露骨なリアリズム路線に仕立てたような感じなのです。ティーシチェンコ以上に…って書いたらおわかりいただけるかもだし、音楽史的には「長年埋もれてても仕方がなかった」レベルかもしれない。

全五楽章からなる反原爆詩をテキストにしたオラトリオですが、例によってテキストには社会主義リアリズム臭が芬々としてて不謹慎ながらついニヤニヤさせるのがミソ(「五大陸のすべての人々よ」とか、「平和と勤労を擁護するために立ち上がろうと」とか)。
ともあれ原爆炸裂シーンの阿鼻叫喚と(ああいう巨大な音響は読響の十八番だわなあ)、畳み込むような露語合唱のパワー、そしてそれを悪魔のように軽くヒョイヒョイ振っているロジェヴェンの姿が印象深い。。ロジェヴェン先生は2010シーズンの来日予定がないみたいだけど、また必ず、僕らを愉しませてください。
by Sonnenfleck | 2010-01-21 22:00 | 演奏会聴き語り