人気ブログランキング |

タグ:ショスタコーヴィチ ( 87 ) タグの人気記事

on the air:ハーン+ホーネック/ピッツバーグ響からの贈り物

c0060659_9523369.jpg

【2010年5月7or8or9日 ピッツバーグ ハインツ・ホール】
●シベリウス:Vn協奏曲ニ短調 op.47
 ○バッハ:パルティータ第1番ロ短調 BWV1002~サラバンド
 ○バッハ:パルティータ第2番ニ短調 BWV1004~サラバンド
 ○バッハ:パルティータ第3番ホ長調 BWV1006~ルール
→ヒラリー・ハーン(Vn)
●ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 op.47
 ○ハチャトゥリャーン:《仮面舞踏会》~ギャロップ
⇒マンフレート・ホーネック/ピッツバーグ交響楽団
(2011年3月21日/WQED)

シベリウスの協奏曲は、これまで僕が聴き得た同曲の演奏の中でも、特に群を抜いて圧倒的であった。
いつもちょっと空気薄めなこの協奏曲の第2楽章において、ワーグナーのように深沈としたエロティシズムを感じることになるとは思わなかったし、ヒラリー・ハーンがこんなに艶やかに歌うヴァイオリニストだということも知らなかったし、また、マンフレート・ホーネックが、これほど巨大にして引き締まり、なおかつ色彩豊かな音楽を作る指揮者なのだということも理解していなかった。第3楽章の弾む筋肉運動に心が萌える。
僕はこれらを聴いてガリー・ベルティーニの音楽を思い出す。なんか、似てる。

そしてまた、アンコールに供されたバッハに心を助けられる。3拍子のゆったりした舞曲に。なんかこの前から生臭くてヤでしょう?でも本当にそうなんだ。

+ + +

ショスタコーヴィチ。ピッツバーグの南西の都市の某シェフがやる音楽とは根本的に違う。
ホーネックはちゃんと、ショスタコーヴィチの「灰色」に微細なグラデーションがついていることをちゃんと知っていて、墨の濃淡だけで巨大な構築物を描き分けている(第1楽章の豊饒なこと!そしてショスタコはハチャトゥリャーンでもエシパイでもない)。そこに必要十分な原色を垂らし込んで、音楽のエロスを失わない。第1楽章のコーダはまるでマーラーである。

第2楽章は冷笑的ではあるが、どこかでコケティッシュな感覚と結びついていて、断面が複雑。遊園地のメリーゴーランドを眺めているようだ、って書くのが妥当かどうか、わからない。

そして第3楽章で否応なく突きつけられる、嫋々とした「うた」の存在。旋律線が本当によく歌っている。そのうえオケは常時、豪奢に分厚く盛られて(各局面で音は小さくなるが、薄弱にはならない)、それによってツェムリンスキーかシェーンベルクみたいな浮遊感が生まれ、一瞬、どこの楽団で何を聴いているかわからなくなる。
こういうのはソヴィエトの指揮者たちからも、また当代の、何でもこなす器用な指揮者たちからも聴き得ない不思議な感覚。すんごく面白い。ベルティーニのショスタコーヴィチってこんな感じじゃなかったかなあ。やっぱり似てる。

第4楽章はストレートなつくりであるが、管楽器のブレンドが本当に巧みで、はっとする瞬間が何度も訪れる。何度も聴いた曲じゃなかったか。こんなに魅力的な音楽だったか。珍妙なアクセントや奇矯なアッチェレランドがショスタコーヴィチに必要かどうか、考えなくちゃいけない。こういう演奏を耳にすると、指揮者の仕事がなんなのかというのがよくわかる。

アンコールにハチャトゥリャーン。いいね。真面目ぶってなくてね。途中、クラリネットソロが先ほどの第2楽章のパッセージを回想してお客をわらかす。
ああ。ピッツバーグに住みたい。こんなシェフとオケが「おらが街」にいるなんて。
by Sonnenfleck | 2011-04-16 09:53 | on the air

オサレ駅のオサレ本屋に対する反対的意見表明。

c0060659_2117494.jpg【TELARC/80702】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調 op.93
●トルミス:序曲第2番
⇒パーヴォ・ヤルヴィ/シンシナティ交響楽団




この人がかつてN響とやったタコ5のあまりの浅はかさに、0と100を並べただけのような無責任なつくりに、当時カンカンになって書き殴った文章が過去ログのどこかに残っているのだが、残念なことに、この第10番も似たような扱いを受けているのであった。Alas!やはり僕はこの人が信用できない!

+ + +

部分的にはたしかに、響きを美しく整える非凡な能力が垣間見えるところが多い。第1楽章で第1主題から第2主題に推移する局面の円やかさなどは、非常に美しい傾向が徹底されていてすごい。さらに、醜いものを醜く演奏するのも上手だ。第2楽章第4楽章の主部以降で、忠実なベリヤのように立ち回る木管集団のアーティキュレーションの下品なことといったら、これほど一糸乱れぬものはなかなか聴けない。
この鮮やかな描き分けでベートーヴェンやシューマンをやったら、とてもよく聴こえるはずと思う。CDで確かめてみなければとさえ感じる。

しかし、それだけにまずい。
ロマン派半ばくらいまでの音楽なら(ある程度は)、「きれい/汚い」「強い/弱い」「カッコいい/カッコ悪い」の二項をぶつけ合わせ、火花が出るくらい対立させることで音楽を組み上げることができる。そしてそれが、バロックから連綿と続く、最も効果的なやり口のひとつなのは確か。
ところがショスタコーヴィチはベートーヴェンやシューマンではない。きれいか汚いか、軽いか重いか、そういったもののどちらにも含まれない領域、どっちつかずの灰色楽想こそが、この作曲家の音楽を規定している要素だと思うのよ。



息子ヤルヴィさんのタコ10を一周、二周、と聴いて、どうしてこんなに変なんだろう、と思い悩み、至った結論。この人のショスタコは「エキュート品川の丸善」なんだ。コンパクトで小ぎれいな店内に積まれている、真面目な顔の自己啓発本と、付録つきでますます煌びやかな雑誌の束。これらの領域に属さない書物、売れ筋でないものは、この売り場には初めから存在しない。…とろとろの徒労感。

第3楽章の恐ろしいほどのつまらなさ。中間部はまだいいんだ。「派手/地味」の領域に落としこんでタンバリンをパンパンやっててもいいからね。ところが、両端の静まり返った音楽を、パーヴォ・ヤルヴィはどのように扱っていいのかわからないんじゃないだろうか。ホントに。
いちおう彼はこれを「静か/うるさい」の二項に変換しているようではあるけれども、拡張子が違うものをムリヤリ再生してるみたいで、変換の過程で大事な要素が失われているように感じられる。どっちつかずの灰色楽想と、のっぺりと何の意味もない音響とでは、全然違うだろうに。

第4楽章の序奏も同じように、どう処理すればいいのか困っているようにしか聴こえない。「静か/うるさい」にも変換できず、のっぺりと平坦で、まったく死んだように抑揚がない。この平坦さを面白がれとでも言うのだろうか?これはわざとなのか?だとしたら心の底から感服するね。これからエキュート品川に出掛けてって、もしドラと超訳ニーチェを10冊ずつ大人買いしたっていい。

アレグロの馬鹿騒ぎを過ぎて、最後のトランペットの階段状装飾にはゲンナリ。こんなくだらない小細工を仕掛ける元気があるんなら、スコアの灰色グラデを見つめ直したらどうだろう。とんだ付録つきだ。

+ + +

もう一度繰り返すけれども、パーヴォのベートーヴェンとシューマン、あるいはこれから録音されるかもしれないプロコフィエフなど、大変聴き応えがありそうな気がする(そういえば昔、FMで聴いたプロコの第6交響曲は、とても良い演奏だったなあ)。
でもショスタコーヴィチはどうだろう。あるいはスクリャービンやシェーンベルクは。巨大な構造をした灰色の音楽を捌けるほど、この人の指揮は器用なんだろうか。現代のスーパー指揮者にだって、得手不得手があったっていいと思うのだす。
by Sonnenfleck | 2011-01-24 21:32 | パンケーキ(20)

デュトワ/N響 2010横浜定期@みなとみらい(12/18)

c0060659_10434174.jpg【2010年12月18日(土)14:00~ 横浜みなとみらいホール】
●ラヴェル:Pf協奏曲ト長調
 ○ブーレーズ:《12のノタシオン》~I, IV, V, II
→ピエール・ロラン・エマール(Pf)
●ショスタコーヴィチ:交響曲第8番ハ短調 op.65
⇒シャルル・デュトワ/NHK交響楽団


冬晴れの
土曜の午後の
横浜の
こんなところで 聴く曲じゃない

それはさておき(ああ)

タコ8。自分が生で聴いたN響の中では、ブロムシュテットの《グレート》以来のスマッシュヒットだった。それはオケ内の志向がばらばらにならず、きちんと意思統一が図られているという意味で。ミスの多寡はあまり問題ではない。

デュトワのショスタコーヴィチ、面白いんだね!特にそれを、第3楽章の拍の取り方に強く感じた。
ショスタコの中でもとりわけ深刻で重たい第8交響曲を取り上げるなんてのは、まずだいたいがロシア系の指揮者たちである。
彼らにもさまざまなタイプがあるから十把ひとからげにはできないが、中期ショスタコの急速楽章に限れば、小節の中を絨毯爆撃していくような「踏みしめ型」のリズム把握がほとんどだろう。非ロシア系でこの曲をレパートリーにするハイティンクやベルグルンドも、やはり同じタイプ(プレヴィンとショルティは聴いたことがないのでコメントできないのですが)。

ところがデュトワはね。違ったんだな。
Vaから始まるリズム[タ・タ・タ・タ│タ・タ・タ・タ│タ・タ・タ・タ]というのがこの楽章の「踏みしめ」だとすると、デュトワがやったのはタタタタタタタタタというような「跳ね飛ばし」(したがってそのぶん、聴感上の速さは著しい)。これは古楽では当然の拍取り方法だけども、ショスタコーヴィチでこういったのを聴くと胸が熱くなっちゃうよね。このスピードではトロンボーンとテューバは死んでしまうなあと思ったら、皆さん顔を紫色に染めながらも拍を崩さない。ここで拍が崩れなければ、デュトワの意思は実現されきったと言っても良いと思われた。まるで《ミューズの神を率いるアポロ》を聴いているかのようだった。ほんとだよ。

こうした拍取りに基づく演奏様式は、この日の演奏の急速な部分においては至るところで見つけることができたし、さらにじっくり聴けば、緩徐な部分でも見つけられそうであった。ショスタコ演奏でもこういったことができるのだということに驚くのと同時に、なぜ誰もこうした様式を用いたがらないのか、たいへん不思議に感じたのである。
今のところ、このようなスタイルのショスタコーヴィチを聴いたことはあまりないし(ティエリー・フィッシャーは比較的近かった)、もしデュトワがこのスタイルでぶれずに録音してったりしたら、ショスタコ演奏史に残る交響曲全集ができるだろう。あるいはリムスキー=コルサコフまで来ているインマゼールが、反対側からトンネルを掘り進めてきているのかもしれないが。。

リズムの話ばかりしてきたが、デュトワのハーモニーの感覚も、ショスタコにおいては新鮮な結果をもたらしている。
第1楽章では、濁りながらも黒光りするツヤあり感がプーランク(シリアス時)を思わせたし、第2楽章は野蛮のポーズとべちゃべちゃとしたテヌート(もちろんこれはわざとだよね)とが相まって、お腹をこわしたオネゲルのような趣き。第4楽章は冷たく湿ったブリテン風。第5楽章《ペトルーシュカ》の、謝肉祭の市場そのまま。
ロシア系の指揮者たちがつくる生真面目な第8とは一線を画すカラフルな様相、お見事としか言いようがない。

加えて、オケの状態も悪くなかった。いや、正確に書くならば「優6割、良3割、可と不可で1割」くらいのブレンド具合なのかな。いつもは「良」の割合が非常に高いN様ですが、今回は「優」が多くて素敵。池田さんのコーラングレがMVP、そしてVaVcKbと打楽器の皆さんの充実が著しかったでした。

+ + +

前半のラヴェル。いや、よかったよ。エマールもアンコール弾いてくれたしね。でもちょっと変な演奏だったような気がするぞよ。

第1楽章の鈍いアンサンブルにはガッカリさせられたが(どうしたことでしょうか)、第2楽章から急に立ち直って、そして第3楽章が来た。
相変わらずの美しさを放射する前の楽章との落差をつけるために、この両手協奏曲の最後の楽章では、不真面目なアーティキュレーションを多めに盛り付けて、はじけてしまうことが多いと思うんですよ。
ところが、この日の演奏は最後まで抑制が強く効き、箱庭的な停滞感が漂っている。箱庭の完成度が極めて高いために、音楽として展開していくことすら箱庭の中に組み込まれていて、内にしか向かっていないことを気づかせない。鉄道ジオラマの登場人物は、自分たちが模型の中にいるのだと、目の前を走る電車が同じところを回っているだけだと、そういうことに気がつくのだろうか。みたいな怖さ。

アンコールはブーレーズのノタシオンから数曲。前に進む音楽。収穫したての野菜のようにしゃきしゃきと瑞々しく、甘い。
by Sonnenfleck | 2010-12-19 10:56 | 演奏会聴き語り

さようならティシチェンコ

Obituary; Composer Boris Tishchenko dies in St. Petersburg at 71.(Санкт-Петербургский ресурсный центр современной академической музыки/12月12日)
Boris Tishchenko obituary:Prolific, expressive composer, a protege of Shostakovich(guardian.co.uk/12月16日)


ティシチェンコも死んでしまった。
こんなにお師匠さんに忠実な弟子があったろうか。今夜は、DSCHが愛したチェロ協奏曲を聴いて、一番弟子の死を悼むことにしよう。

c0060659_2355051.jpg

by Sonnenfleck | 2010-12-16 23:16 | 日記

さようならバルシャイ

Умер альтист и дирижёр Рудольф Баршай(Газета.Ru/11月3日)
ルドルフ・バルシャイ氏死去 ロシア出身の指揮者(共同通信/11月5日)

バルシャイの指揮に接したのはたった一度きり、2004年12月のN響定期で、キャンセルしたデュトワのピンチヒッターとしてなぜか彼が登場し、《ハフナー》→《ダンバートン・オークス》→ベートーヴェンのVn協奏曲という不思議なプログラムを聴かせてくれたときのことであった。
印象に残らない曲づくりだったのが印象に残っていて、これがショスタコーヴィチから愛された、あの鬼のモスクワ室内の人なのかなあと思って。それでも終演後に楽屋口のサインの列に並ぶと、真っ白にふやけたような顔でぼんやりと座っているバルシャイが見えて、これが演奏の記憶以上に鮮明に焼きついている。

+ + +

いま、ショスタコーヴィチの第14交響曲のモスクワ初演ライヴ録音を聴いて、あのときのバルシャイと、ここでのバルシャイの差をどうやって埋めたらいいのか、悩む。
1969年のこのライヴは、いかにもソヴィエト演奏らしい、前につんのめる焦燥感と凄惨な響きに彩られた、言いようのない雰囲気に満ちています(《ローレライ》から《自殺》にかけて、どうやったらこんな恐怖を作り出せるのか…)。ショスタコーヴィチの同時代人がまたひとり、鬼籍に入ってしまった。過去が生成されてゆく。

c0060659_15194762.jpg
RIP.

by Sonnenfleck | 2010-11-07 15:28 | 日記

バタが香るアヴァンギャルド。

c0060659_064634.jpg【RUSSIAN DISC/RDCD11190】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調 op.43
⇒ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー/
  ボリショイ劇場管弦楽団

久しぶりにショスタコをマジ聴きしたくなった。第4。
文化省オケと、ギラつきヌラつきの点では最強の演奏を残しているロジェヴェン先生でありますけれども、実はもう一枚、ソヴィエト末期に名演を残している。ボリショイ劇場オケとの1981年盤がそれ。この前、ようやく新宿のディスクユニオンで掴まえた。

このライヴ、聴けば聴くほどに呆れるほどオケの音色が美しくって、非常に驚いている。
まず、土台になる強い馬力があるのはソヴィエトオケだから当然のこととして、弦の合奏が予想外にミルキーなのがポイント。第1楽章なんか特にそうで、輪郭がかっちりと精緻に合いながら、同時に甘い香りが漂うような響きを維持している(高速フーガ、そしてその後の再現部はひどく高級な様相)。この響きでルビンシテインやグラズノフをやったら絶品だろう、という響きのままこの交響曲をやれる、ある種のナイーヴさみたいなものが、このライヴでの不思議な品の良さにつながっているみたいです。

第2楽章の前半でフルートが雲雀のように浮き上がる箇所、ありますよね。あそこのロマンティックな清涼感は独特だし、その前後も決して不気味な雰囲気ではない。レントラーのリズムも、それを決める低弦の音質も紳士的で、バターのような照りを加えている。とても深みのある響き。僕らはいつも、ロジェヴェンの鮮やかすぎる色彩のパレットに騙されているだけじゃないのか?

オケ優勢で美し「すぎる」ところもある前二楽章に比べると、第3楽章はいつものロジェヴェン節とオケ間の化学反応の勝利、という感じがする。随所に鋭く突っ込んで彫りを深くしようと努める指揮者に対して、オケは今度はチャイコフスキーのように(もっと言えば《モーツァルティアーナ》のように)軽く甘いマチエールを提供する。かくして、ちょっと他の演奏では聴いたこともないような、古典的均整の取れた演奏に仕上がるというわけ。コーダの金管コラールも不思議と雄大で、しかもスターリンゴシックのよう「ではない」。これは魅力的。とっても。

+ + +

帝政の不思議な残響が残るショスタコーヴィチ。ゴスオケやレニングラード・フィル、モスクワ放送響とは異質の響き、、これは劇場のオーケストラが演奏しているから?これじゃステレオタイプすぎるかな?
by Sonnenfleck | 2010-10-23 00:08 | パンケーキ(20)

シュスタコーヴィチ:交響極大10番

c0060659_2193714.jpg【RCA/09026-60448】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調 op.93
⇒クラウス・ペーター・フロール/
  ロイヤル・アムステルダム・コンセルトヘボウ管




いやー。ずいぶん変な演奏だわ。
タコ10は好きでいろいろ聴いてきたけど、こんなに変なパフォーマンスは滅多にお目に掛からない(なぜか2回も録音しているアンドリュー・リットンの指揮もなかなか酷いが、これも負けず劣らず…)。1991年の初出以来、一度も再発売された形跡がないのもよくわかる。ニブチンもここまで徹底していると、一回りして却って価値があるような気がしてくるのですよ。

単に全編にわたってブルジョア的怠惰な雰囲気というのなら、前述のリットン新旧録にとどめをさすのだけども、このフロール盤に「ダメ演奏としての奥行き」があるのは、以下の二点の理由による。

◆1. オーケストラの響きが美しすぎる。
コンセルトヘボウの非常にふくよかな残響の中に包み込まれて、曇り空のような重みがあるくせに透き通った、このオケならではのサウンドが、、適当に放置されてます。響きの濃度がほとんど変化せず、輪郭もオール面取りでもやもや、ずっと40%くらいの出力で走らせているだけ。
全体に対して、指揮者から何か明確な指示があるようには思えず、オケメンたちはただいつものようにしているだけなのだと想像される。それでも美しいのは、オケの高いポテンシャルにすべての要因がありそう。

◆2. ところどころの脱力哀感。
ところがその一方で、そこでやるか!そんなことしなくていいのに!…という指示が、木管を中心にところどころ指揮者から飛ぶ。優秀なオケがそんな謎の指示に対して鋭敏に反応した結果、背中の力がへなへなっと抜けるような奇怪な表情がごくたまに付くことになる。
第1楽章に顕著な、目覚まし時計のような機械的トリル、第2楽章のクラリネット一転チンドン屋、第4楽章のDSCH最強奏後の異様な粘つきなど、初めてこの曲を聴いたときのような新鮮な気持ちにさせられる。

+ + +

休日の昼下がりに、安いビールでのんびりしながら。
by Sonnenfleck | 2010-07-15 21:12 | パンケーキ(20)

精神と時のお買い物XXIII(棘ロード、終着?)

【アリアCD】
1 ブラームス:Sym全集(EMI) *ラトル/BPO
2 ブルックナー:Sym#7(Coviello) *ボッシュ/アーヘン響
3 ブルックナー:Sym#8(Coviello) *ボッシュ/アーヘン響
4 ショスタコ:Sym#10(DIRIGENT) *ロジェヴェン/香港フィル

アリアCDの開店10周年記念セールから。。

⇒1、ラトルのブラ全。発売当初、定価で国内盤を衝動買いしていた友人には申し訳ないが、その半分以下の価格で入手に成功。たぶんとても刺激的な演奏だと思う。
⇒2と3も同じく、普段の半額で。世評の高いボッシュ/アーヘン。
⇒4は買わざるべからずでしょう。ロジェヴェン先生、昨年の読響客演のひと月前に香港に立ち寄って、ショスタコ第10を指揮してました。この組み合わせ、どうなってるのかまっっっっったく想像がつかない。第10ヲタ歓喜の裏名盤登場か。

【disk UNION 新宿店】
5 カプレ:室内楽曲集(HMF) *Ensムジク・オブリーク
6 ドビュッシー&ラヴェル:四手Pf作品集(DGG) *コンタルスキー兄弟
7 ショスタコ:Sym#10(CAPRICCIO) *キタエンコ/ギュルツェニヒ管
8 ショスタコ:Sym#10(RCA) *フロール/コンセルトヘボウ管
9 ショスタコ:Sym#4(RUSSIAN DISC) *ロジェヴェン/ボリショイ管

たま~に仕事帰りに寄れてしまうと、タガ崩壊の危機。

⇒5と6は青柳氏のドビュッシー本からモロに影響されて。しかしコンタルスキー・ブラザーズの録音、安かったけど、かなり珍しいんじゃない?聴くのが楽しみですよ。
⇒第10ヲタ棘の道。7は全集を買わずに済んでよかった、くらいですが、8!!やった!!やっと見つけた!!これでCDの正規盤はほぼコンプリート!!!

⇒で、9です。物凄いプレミアが付いていて、あっと驚く店頭価格。しかしこのディスクは現物を目にしたことが一度もなかったし、脳内で湧き上がる一期一会コールに押されて、購入に踏み切ってしまいました。大切に聴きます。演奏の内容からすると、大切に聴くと聴神経を傷めそうな予感がありますが。

+ + +

さて、ショスタコの第10交響曲、最近になって新録音が再び活発化。
パーヴォ・ヤルヴィ/シンシナティ響(TELARC)は、、かの指揮者に疑いを抱きつつもそろそろ購入するつもりだけど、アレクセーエフ/アーネム・フィル(EXTON)は、店頭試聴してみたら予想外に「かなり」良さそうな感じでした。
by Sonnenfleck | 2010-06-19 08:56 | 精神と時のお買い物

おじさんと秘密の花園

c0060659_2337215.jpg【Live Classics/LCL105】
●チャイコフスキー:Vn協奏曲ニ長調 op.35
→ジャンスク・カヒーゼ/モスクワ・フィル
●ショスタコーヴィチ:Vn協奏曲第1番イ短調 op.77
→アレクサンドル・ラザレフ/ソヴィエト国立交響楽団
⇒オレグ・カガン(Vn)

ショスタコーヴィチのVn協奏曲第1番は、ブラームスのPf協奏曲第2番みたいな「協奏交響曲」だと個人的に思っているんだけど、そのくせVnソロパートに名人芸的な箇所があまりにも多いので、だいたいの演奏は、それでいいと思って「協奏曲」の檻の中に寝っ転がっている。
そういう場合、Vnソロには何か責任があるわけじゃなくて(死ぬほど難しいもんね)、指揮者とオケの認識がシンプルすぎるところに理由がありそうです。何しろああいう曲調だから、オケはお団子状に仕立て上げたってなかなか聴き応えがあるし、そういう演奏もずいぶん多いように感じる。

+ + +

オケに量感とほぐれ感が両立している、みたいな演奏はないのかなあと思っていて。…いや、ここにあった。名高い名盤だけども、予想外に素晴らしい。

第1楽章は、メンツの名前からこちらが勝手に想像する暑苦しい重さが稀薄で、むしろ適度に風の吹く冷ややかなマチエールに仕上がっているのが面白い。
それどころか、この沈鬱な曲調の中から多くの段差や間隙を見つけ出して、寒色系グラデを自在に操っているフシさえある。豊かな音色のトゥッティを抑えたり、放したり、それが極めて巧い。ラザレフ36歳くらい?

どこもかしこも響きが緻密で、そのためにトゥッティ内の圧力が異様に高いのに、いちいち身のこなしが素早い第2楽章。これはソヴィエトのライヴとは思えないくらい分離のいい録音コンディションも多分に影響しているものと思うが、いや、やはりUSSR響管楽隊の優秀さが根底にあるんだろうね(スケルツォが最初に回帰したところで続々と表に出てきてソロを迎えるFg、Ob、Hr、Cl、Fg、Fl、コーラングレ、そしてBsClの百花繚乱ぶりは…これは本当に見事としか言いようがない)。

前二つの楽章でも若干ヨタってひっくり返ることのあったカガンのソロは、第3楽章初めまではその傾向を維持するけども、中盤以降、この痛ましいパッサカリアとの親和を強める。
カガンのいがらっぽい音色は、レーピンやムローヴァのようにスマートではなく、かと言ってコーガンのように凍てつきもしない。オイストラフのような全能感もない。しかしその、市井のおじさんが瞬間的にフルスロットルに入ったような集中力の中に、そうでなければと思わせる何かが含まれているように思う。

第4楽章はまことに贅沢な花園状態で、コメントすることがない。この肥沃で傲慢な音響のバランスを整えているラザレフの手腕は絶賛に値するでしょう。

+ + +

カガンのおじさん的味わいに触れるなら、カップリングのチャイコフスキー。ショスタコを繰り返し聴いたあとでは、まるで温泉に入っているような好い気持ちになる。
by Sonnenfleck | 2010-06-05 23:45 | パンケーキ(20)

ティエリー・フィッシャー/名フィル 東京公演2010(5/17)

c0060659_21324131.jpg【2010年5月17日(月)19:00~ サントリーホール】
●オネゲル:交響曲第4番《バーゼルの喜び》
●ラヴェル:Pf協奏曲ト長調
→北村朋幹(Pf)
●ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 op.47
 ○プロコフィエフ:組曲《3つのオレンジへの恋》
  op.33bis ~第3曲〈マーチ〉
⇒ティエリー・フィッシャー
  /名古屋フィルハーモニー交響楽団



月曜日のソワレなんてホントに絶望的だったのですが、運良くうるさい上司が全員出払ってくれて、ほいほいと溜池山王へ(ミラクル1)
そうして当日券の列に並んでいたら、まるで冗談みたいなんだけど、僕の目の前で非情の完売コール。
途方に暮れていると、今度は親切なおじさまが、来られなくなった友人のチケットを譲ってくれると(ミラクル2)。もう、これはクラシックと名古屋とサントリーの神様のおかげに違いない。。おじさまに全力で感謝。。

+ + +

さて、自分の贔屓がみんなに発見されることほど嬉しい出来事は、そんなに多くない。これまでこのブログでは、フィッシャー+名フィルの良さを微力ながらも伝えてきたつもりであります。この夜をもって彼らが東京の楽壇に「実際の」姿を現し、また聴衆を虜にしたことは、その良さが認識されるのを十分に扶けたものと思う(悔しいけれど、日本のクラ世論の中心はたぶん東京だ)。

オネゲル《バーゼルの喜び》ではまだ十分にエンジンが掛からない。第1楽章冒頭は薄い弦がふらふらっとしていかにも頼りなげだったけど、終盤のタムタムに乗せる透明なパッセージのあたりから、僕の知っているフィッシャーサウンドが現れます。
第3楽章では顕著に、この数年で名フィルがちゃんと進化したことがわかる。フィッシャーの要求する小股の切れ上がった鋭いリズムがクリアされていく様子…。これは、かつて聴いたフィッシャー+名フィルの《ダフニスとクロエ》の「あと一歩」感が、確実にブラッシュアップされた結果と思われて、何かとても嬉しいのです。

続くラヴェルの協奏曲、いよいよ親方の本領発揮ですね。
ソロの北村くんは青年っぽいシンプルなロマンティシズムに不思議な粘り気が伴って、当方の予想を裏切る。その粘性を推進力燃料に変換して、強く主張するのがこの夜の伴奏だったんだよなあ。
前面に出て個性的な表情で歌う木管(ティモシー君に代わる新しいクラの人がクール!)、いくつも仕掛けられた急激なアッチェレランドに負けない足腰を身に付けた弦楽陣(低弦の敏捷な身ぶりには驚かされた)、いずれもハイレベルでした。
フィッシャー特有の冷たく湿ったような音色は、ここでは第2楽章にくっきりと出現した。あれがコンスタントに聴けるのは名古屋クラシーンの特権。

+ + +

そして休憩後、タコ5ですよ。これが本当に面白い名演奏であった。
この有名な交響曲において伝記的要素を顧慮しないことは、とても勇気の要る判断だと思う。フィッシャーは墓銘碑も強制された歓喜も何もかも打っ棄って、純粋なバレエ組曲のように、あるいはモーツァルトのように、ニュートラルな愉悦を造形することに全力を投じていたように思う。モダン!

第1楽章冒頭がスピカート気味に跳ねたところから予感はあったけども、展開部の気楽な咆哮にもびびっていてはいけない。
驚くべき諧謔ゼロフリーを達成した第2楽章では、新しい知見がもたらされた。皮肉から自由になると、ショスタコーヴィチのアレグロは運動性に焦点が合うので、まるで干潟から潮が引いていくようにして真摯なモダニズムが現れる。この演奏スタイルはソヴィエトのいくつかの古い録音を彷彿とさせるんだよなあ。第4楽章もやはり軽快なインテンポで威嚇がなく、同様の「ソヴィエト・ピリオド」。いやあ。第5番は初期社会主義リアリズムの最後の煌めきだったのだなあ。

しかし僕らは世知辛い2010年に生きているから、この夜の第3楽章のような慰めの抒情も必要としているわけです。
この楽章のアンサンブルの美しさは大変素晴らしかった。弦楽の全パート全員が本気で静謐な美音を出そうとしていたのが明らかだったし、僕がこれまでに聴いてきた名フィルのベストフォームだったと思います。フィッシャーの霧のような音色づくりが完全に成功して、お客が静まりかえってしまった。名古屋での定演のレヴューは辛口のものが多くて心配していましたけど、なんのなんの。もっと名フィルに自信を持つべきですよ>名古屋の皆さま。

+ + +

もちろんライヴならではの傷は方々にあった。それに、以前からこのオケで気になるトランペットの弱々しさが、全然改善されないどころかむしろ悪化しているのは非常にまずい。大胆な改革が要るのかもしれない。そのことを含めても、フィッシャー親方にはさらに長い任期を望みたいのですが、来年2月のマラ9が不気味な存在感を放っている。お別れなのか。

アンコールはショスタコのバレエ組曲でもやったらいいなと思っていたところで、嬉しい《オレンジ》!親方のプロコ愛が伝わるセレクトに、開放感のある陽気なサウンドで応じるオケ。
拍手に応えて、最後に笑顔でガッチリ握手を交わす日比コンマスとVc太田首席の姿を見、フィッシャーがいつまで一緒にいてくれるかわからないけれど、これからも「おらが名フィル」を応援してこうと思う帰途なのでありました。
by Sonnenfleck | 2010-05-18 23:03 | 演奏会聴き語り