雪の降る街を歩いて、久しぶりに重量級のハシゴ。順番は前後するが、ハシゴの二軒目から先に感想文を書いておきます。
北東北育ちの男子的には(いつまでも僕を支配する男子中学生メンタル的には)、雪に対して傘をさすのはとってもとってもとーっても格好悪いことなので、この日も傘を持たずに外出したのだが、残念ながら東京の雪はすぐに融けてしまうので、頭からずぶ濡れになった。東京で雪なのに傘をさしていない男性は北東北以北の人だと勝手に変換して、勝手に親近感を抱いてしまう。 + + + ![]() ●ドヴォルザーク:Vc協奏曲ロ短調 op.104 ○バッハ:無伴奏Vc組曲第1番~プレリュード ○同:同第3番~サラバンド ○同:同第3番~ジーグ →アレクサンドル・クニャーゼフ(Vc) ●ストラヴィンスキー:《ペトルーシュカ》 (1911年版コンサートver) ⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/ 東京フィルハーモニー交響楽団 フェド久しぶりだなあ。最後に聴いたのは2006年の1月に《森の歌》をやったときみたいでしたが、それよりも前、2003年にタコ10を振ったときにすっかり魅了されてしまって、いまだにそれを上回る思い出ができないこの関係。 ともかくもこの5年間でいろいろな音楽を聴いてきて、今回それでもなおかつ、フェドセーエフすげえなあ…と思った次第。 ソヴィエトの香りを音楽に籠めることができる指揮者はもうほとんど残っていないと思うが(ロジェヴェン老師はそういうのを超越しているし、テミルカーノフやキタエンコは、なんか違うのだ)、日本に住む僕らにはラザレフとフェドセーエフがいてくれる。前者がチャイコフスキー的高慢を体現するなら、後者はバラキレフ的お下劣を巧妙に構築する技に長けているといえよう。もちろんどちらも褒め言葉ですよ。 + 今回の《ペトルーシュカ》が、もう出会うことはないであろうまことに奇矯な演奏だったことを、まずは初めに書いておこう。 とにかくすべてのフレーズが泥のように粘ついていて、それぞれの短い局面においてはたいへん気持ちの悪い音楽なのだが(バレエ音楽のバレエ音楽性を、極端に突き詰めるとこうなるのだろう)、しかしその短い局面が連続して並んでいると構築は破綻しておらず、むしろ丁寧なつくりさえ感じさせて、アルチンボルドの野菜人間みたいな変な安定感が生まれている。 白眉は第1場と第4場。謝肉祭の広場の塵芥と泥濘の中から次々とパッセージが立ち上がってこちらに押し寄せてくる様子には、酩酊感を覚えるほどでした。何が、どのパートが、というよりも、トゥッティが隅々まで調教されたときの威力に気おされた、というか。だいたいの時間において、東京のオケとは思えないような傲然とした響きが立ち昇っていたよな。この、謎の土俗性。もしくは肉々しさ。 何も知らない人に「この音楽はペトルーシュカという乙女が異教の祭典に生贄として捧げられる様子を描写しているのだ」と説明して、彼を納得させるのは容易いだろう。三大バレエの中でももっともモダンでドライなこの作品でそれが起きたということに驚いている。 こうした様式で《レクイエム・カンティクルス》などやった暁には、十二音時代のストラヴィンスキーが決然と見直されることになろうかと思うが、そんな日はついにやってこないだろうな。ソヴィエトの体制がもう30年くらい続いていたら、ソヴィエト型の怪しい指揮者に成長したゲルギエフなどがやってくれたかもしれないが。 + 前半のドヴォルザークも実に自由な演奏で。 2007年のLFJで同じ曲をクニャーゼフで(+ドミトリー・リス/ウラル・フィルで)聴いた自分は「ひたすら演歌の人」との感想を書き残していますが、指揮者まで演歌に徹するとこうなるんだろうなあ。全盛期のロストロポーヴィチのライヴはこんな感じだったんだろうか。世界で一人くらいは、こういう本能のままのチェリストが一線級にいるべきだと思う。チェリストがみんなケラスとかウィスペルウェイみたいじゃつまらないものね。(おっとこれはマイスキーの悪口じゃないぞ。) アンコール。真ん中のサラバンドはグッと胸に来た。 + + + ホールを出ると、まだ雪がちらちらと舞っている。コンビニでビニール傘を買った。 ▲
by Sonnenfleck
| 2011-02-13 10:52
| 演奏会聴き語り
危機脱す。割れんがごとき頭痛もついには終わる。
しかし、残念なことに、いまだにインフルエンザウイルスを排出し続ける身なれば、今夜の読響500回定期には行かれませんでした。次にファウスト交響曲を生で聴くのは、いったいいつだろう。。 + + + ![]() ●髙田三郎:狂詩曲第1番~「木曾節」の主題による ●同:同第2番~「追分」の主題による ●エネスコ:《ルーマニア狂詩曲》第2番ニ長調 ●同:同第1番イ長調 ●ストラヴィンスキー:《ペトルーシュカ》(1947年版) ○チャイコフスキー:《くるみ割り人形》~パ・ド・ドゥ ⇒曽我大介/新交響楽団 さて、これが休館前の最後になるかなあ。 現・芸劇、、色づかいは寒色系で寒々しいし、トイレは暗いし狭いし、椅子は安くてギシギシいうし、音は遠くてスカスカだし、いい演奏でも7掛けされちゃうようなひどい空間でしたね(ショスタコーヴィチとかシベリウスを聴くにはよかった)。いくつかのいい思い出もありますが、個人的にはここに行くと頭痛がしたり寒気がしたりで、あんまり積極的には近寄りたくない場所だったな。大改装を望むものです。 しかしな。うん!今回はなんか元気になるコンサートだったな! 髙田の狂詩曲は、初演以来なんと60年ぶりの蘇演とのこと(第1番が1945年、第2番が1947年)。素材の煮詰めがたいへん懇ろな作品で、たとえば外山の《管弦楽のためのラプソディ》などとはまるで異なる。主題に沿って直線的に盛り上がるかと思えばすぐに脇道に外れ、その反動で尾根にワープ、そのあとずっと葦原、みたいな曲調。主題は親しみやすいのに勢いを形成しづらいというのは、演奏者にとってはいかにも大変そうでしたね。 しかし、浅漬け外山ラプソディに対して、古漬け髙田ラプソディ、これも日本の時間のかたちだよね。Naxosの「選輯」、髙田は合唱作品集なのかもだけど、これら初期作品は入るべきと思いました。お客さん盛り上がってなかったけどね。。 かたやエネスコの狂詩曲は、実は生まれて初めて聴いたのですが、愛すべきバカ曲というか、きっと昔はプロオケの定期でもたくさん演奏されたんだろうなあ。しかしこれはマーラーの交響曲の前に意図的に置いてあっても、ある文脈ではまったく正しい曲よな。 オケは、直前の髙田作品のふんにゃり時空に引きずられたか、お客さんの気のなさに引きずられたか、あるいはプロオケのように照れたかして、やや湿っぽく固い演奏に終始してしまったような気がする。奏者のひとりひとりが、ぱあっと派手にやったる!という気持ちをもっとストレートに右手やブレスに籠めれば(学生のようにね)、この作品においてはよりよい結果が得られたのではと思う。極度に巧いアマオケならではの壁なんだろうか。 + とかなんとか思っていたら、《ペトルーシュカ》でぶっ飛び。 この音の圧力の強さ、ブリリアントな響き、これこそが高級アマオケで味わうことのできる嬉しさ愉しさでありましょうね。エネスコは練習が十分に行き届かなかったのかな。難しそうなパッセージばっかりだったしな。 とにかく〈謝肉祭の市場〉冒頭から、木管楽器たちが「ずごおぉーっずごぉーっ」という、見事に肥えた響きで飛ばしてくる。最初に思いもよらぬ巨大な質量があって、ついに終局までその大質量の移動でもって音楽を形作ったような趣き。ムーア人も踊り子も警官も轢かれてしまったよ。 〈ペトルーシュカの部屋〉は、だからとても変な感じであった。ジャンプ漫画の主人公のようなペトルーシュカに、閉じこもるべき部屋はいらないよね。あ、精神と時の部屋かね。 なんだかこれじゃ、、誉めてるんだか貶してるんだかよくわからないですが、ともかくも全体はとっても面白かった。ブーレーズ的ストラヴィンスキーへの明確な反動の意志を、新響を巧みに煽動して?実現した曽我氏の手腕に驚いたのでした。全然タイプは違うのに、モントゥーの古い録音のことをふと思い出す。 後先考えないハイカロリーな音響を保持し続けた各パートの皆さんに、まずはお疲れさまを。それから特に、首席Tp氏は本当に本当にお疲れさまでございました(物凄いプレッシャーだったろうなあ)。確かにヒヤヒヤはしたけど、プロ以上に鋭くコースを抜けた箇所がいくつもありましたよ。ブラヴォ! + 曽我氏は面白い人かもしれない。この日は西武線沿いのつけ麺屋のおやじみたいなコスチュームだったけど、アンコールのくるみの〈パ・ド・ドゥ〉の煽り方は土俗的と言ってよかった。 ▲
by Sonnenfleck
| 2011-01-22 21:54
| 演奏会聴き語り
![]() <2009年 仏(原題"COCO CHANEL&IGOR STRAVINSKY")> →アナ・ムグラリス(ココ・シャネル) マッツ・ミケルセン(イーゴリ・ストラヴィンスキー) グリゴリイ・マヌコフ(セルゲイ・ディアギレフ) マレク・コサコフスキ(ヴァーツラフ・ニジンスキー) ジェローム・ピルマン(ピエール・モントゥー)ほか ⇒ヤン・クーネン(監督) 舞台は1920年のパリ。一流デザイナーの地位を手にしながら、初めて心から愛した男を事故で亡くし、悲しみにくれるココ・シャネル。天才音楽家でありながら、「春の祭典」初演を酷評され、悲観にくれるイーゴリ・ストラヴィンスキー。そんな2人が出会い、たちまち恋に落ちていく―。というストーリー。クラヲタ的には、1920年のハルサイ再演のために改訂作業を行なっている途中のストラヴィンスキー、と書いたらいいか。 昨秋の「クララ・シューマン 愛の協奏曲」が記憶に(特にロベルト錯乱シーンが生々しく)残っているところですが、今度の「シャネル&ストラヴィンスキー」は、はっきり言って、よかった。 まず、徹頭徹尾、装飾的に仕上がっている作品だというのがポイント。 服飾デザインとクラシック音楽という、一般的にはマニアックな世界のお話なのに説明口調の部分がほとんどないし、むしろ観客が想像する余白がたっぷりと取られている。そのために枠組みは重厚なのに足腰の運びが軽いんだな。だから、説明される映画が好きな人にはこれは絶対物足りなく感じられるだろうし、決して万人受けはしないと思う。 それから、その点にも関わるけども、シャネルにもストラヴィンスキーにも寄りすぎていない脚本のバランスが見事。 完全な3人称とまでは言わないけども、シャネルの視点もストラヴィンスキーの視点も不完全で、2人の考えている内容が明確に提示されることはあまりない。(←それでもイーゴリの行動がわかり易いのは僕が男子だから?) しかし見終えた後にトイレに行ったら、すれ違った2人組の女子が「シャネルってマジめんどくさい女ぁ!」って言ってたから、女子的にもココは謎なのか。それも謎。 + + + 以下、鑑賞後に同行者と話し合った内容及び個人的補足を箇条書く。 ■冒頭の唐草模様エフェクトがカコイイ。 ■モントゥー似過ぎ!!!!!鼻血出そう!! ■ハルサイ初演のシーンは極めてよくできていると思った。クラヲタならこのシーンだけでもこの映画を見る価値があるだろう。(演奏はラトル/BPOなのかしら?巧すぎるので演奏のリアリティはない。) 怒って席を立つサンサーンスを探したが見つけられず。 ■ココもイーゴリもカラダがきれいだなあ。R-18ながらきれいすぎて装飾化。 ■エレーナ・モロゾヴァ演ずるエカチェリーナ・ストラヴィンスキーはホラー寸前。シャネルに告発文を渡して別荘を去っていくときの演技はなかなかのものです。 ■スリマ発見。 ■秘書面接と称して男の子を裸にしているディアギレフが可笑しい。 ■赤ワインうまそう。 ■ストラヴィンスキーが自らタクトを取ってハルサイ再演を行なうラストシーン。その一歩手前で、ストラヴィンスキーはニューヨーク、シャネルはホテル・リッツと、最晩年の老いた2人の様子と彼らが過ごした場所のカットが挿入される。これはどうしてだろう。 「我を忘れて愛し合った瞬間を見ていた観客に、それも人生の僅かな一部分だったにすぎない、ということを客観的に感じさせるためではないか」というのが同行者の説。僕は考えたけども理由がわからなかった。 ■タイトルロールで席を立ったらダメダヨ。 + + + これ、原作があるんすね。amazonでその商品情報を見てたら 天才音楽家でありながら、7年前のニンジンスキー振付の「春の祭典」初演を酷評され、悲嘆にくれるイゴール・ストラヴィンスキー。って書いてあるんだなあ。我喜欢胡萝卜! ▲
by Sonnenfleck
| 2010-01-26 22:14
| 演奏会聴き語り
【2009年9月11日(金) 19:30~ 新国立劇場中劇場】
●ストラヴィンスキー:《兵士の物語》 →アダム・クーパー(兵士)、ウィル・ケンプ(ストーリーテラー) ゼナイダ・ヤノスキー(王女)、マシュー・ハート(悪魔) →ウィル・タケット(振付) ⇒ティム・マーレー/ソルジャーズ・アンサンブル・オーケストラ うーん。《兵士の物語》は「音楽」劇じゃなくて音楽「劇」なんだなあ。この形で体験できてよかったなあ。ストラヴィンスキーの音楽だけ取り出して聴くのはもったいないのかもしれない。今回はバレエ形式の上演だったけど、ダンサーがちゃんと台詞まで担当したから「劇」のイメージは崩れないのです。 舞台上には劇中劇のように野外舞台のセットが組まれて、その周りを囲むテーブルには蝋燭が灯り、観客役の俳優たちが着席している。紫や緋、橙の多い色遣いはいかにも猥雑で、こってりと装飾されたセットがいやらしい光を反射している。オケピットもそのように装飾されて、楽員氏らも舞台の一部。 たった4人の登場人物である、進行役兼狂言回しのウィル・ケンプ、兵士役のアダム・クーパー、悪魔役のマシュー・ハート、そして王女様役のゼナイダ・ヤノスキー。彼らは(バレエヲタではない僕も認識せざるを得ない)強靭な筋肉でもって、ストラヴィンスキーの音を可視化していく。作曲家がたぶん死ぬような思いで五線譜に捕まえた空気が、何の苦もないかのように平然と可視化される様子は、音楽と音楽に関わる芸術家への痛罵であり、決定的な嫌味でもある。…にも関わらず、その可視化はとっても美しいかたちをしている!バレエはいつも音楽の上位にいたがる! オリジナルの7楽器アンサンブルはあまり精度が高いとは言えなかったけれども、そのぶん、パイプをくわえた王女様のダンスは変ないかがわしさに彩られていたし、終劇の兵士地獄落ちは徹底的に乱雑でむしろ効果的であったと言えます。千秋楽に向けて練り上がったら却って面白くなくなるかもしれないな。 最後に、いかにもそれらしく火焔燃え盛る奈落からせりあがってきた悪魔のやりたい放題が、シンプルに可笑しかった。狂言回しを追っかけ回し、兵士を奈落に突き落とし、王女様を犯すポーズで笑いを起こし、、しかしこの幕切れって、悪魔側からしたらただの契約履行なんだよねえ。違反しようとしたのは兵士の方だし。 お客さんはバレエヲタっぽいおばさんが多かったけれども(バレエは本当にいつも肩身が狭い)、この「機能的な」幕切れに彼女たちはどんな思いを致すのだろうか。終演後にお仲間と、「見た!?マシュー・ハートの逆さゴキブリ戦法!健在ねえ!」とか言ってた人もいたが、一方クラヲタだって「1stVn汚かったなあ!」とか言い合ってるんだから、五十歩百歩なのか。 ▲
by Sonnenfleck
| 2009-11-14 01:56
| 演奏会聴き語り
![]() <ストラヴィンスキー 三大バレエⅠ> ●ショスタコーヴィチ:《祝典序曲》 op.96 ●モーツァルト:Pf協奏曲第9番変ホ長調 K271 《ジュノーム》 →北村朋幹(Pf) ●ストラヴィンスキー:《春の祭典》 ⇒ティエリー・フィッシャー/名古屋フィルハーモニー交響楽団 (2009年8月9日/NHK-FM) FMシンフォニーコンサートで名フィルの定演。名古屋にいれば絶対に行っていたはずなので、とてもありがたい。 最初のショスタコーヴィチ《祝典序曲》は、確か当初はマルタンの《四大元素》という超絶マニアックな作品が予定されていたところからのメジャースライド。 ここでは、名古屋時代から少し気になっていた金管隊の重々しさが、ディヴェルティメント的に足回りを軽やかに仕上げてしまうフィッシャー親方と、微妙な齟齬がなくはないなあ、という歯切れの悪い感想です。。あのよく響く愛知県芸のせいもあるだろうし、バンダがいるからそのように聴こえるのかもしれない。 続いて、モーツァルトの《ジュノーム》。 まずはオケが、思ったより編成を刈り込んでいないように聴こえるのが興味深い。確かに昨年夏のベートーヴェン第5では、前半のショスタコーヴィチVn協奏曲とほとんど変わらない厚みでもって、アーノンクール直伝の不自然派とでも呼ぶべき演奏があのように顕現したのですから、今回もおかしい感じはしない。 第1楽章のカデンツァの直後の、トゥッティが肩をひゅうっと竦めるようなお洒落なアーティキュレーションなんか、この日一番の「あーフィッシャーっぽい」ポイントだな。第2楽章でソロに寄り添う優しげなアンサンブルが、突如氷のように冷たい態度に出たりするのもをかし。 北村君は少なくともFMの電波で聴く限り、ずいぶんアーティキュレーションが平板だなあという印象を免れませんでした。第2楽章のカデンツァのアイディアはなかなか面白いけど、全面を白磁のような育ちの佳いタッチで覆ってしまうのが藝術だろうかなとも思う。お好きな人はお好きでしょうけども。第3楽章はいたずら小僧のように軽く罪のないタッチがとてもよかった。 + + + 後半に《春の祭典》です。ドキドキする。 細かい指示が飛んでいるらしい様子が、冒頭は少しおずおずとした音運びから伝わってきますが(何やらFlにおかしなことをさせていたぞ!)、音色の重なり合いにこだわりを持ちつつ、総体としてひんやりとしたアンサンブルに纏め上げる手腕は変わらず。マッシヴさのまるで欠けた〈春のきざし〉の、しかし鋭く冴え渡るリズム感!これはいい! 映像が次々と後ろにすっ飛んでいく〈誘拐〉。続く〈春のロンド〉はたとえばコバケンであれば重みと脂っこさだけで押し切る場面だけども、この演奏ではトゥッティのフォルテでもなお透明感を失なっていないのが驚きです。根底にある律動感のようなものが絶えず参照されて、停滞する暇がない。かなりの速度で突っ込んだ〈大地の踊り〉はアンサンブルが若干崩れかかってヒヤリとさせられましたが(苦笑) 第2部の〈序奏〉はフレーズのおしまいのところが面白くて、スダレ状に響きを残すパートと、さっさと片づけて先に行くパートが並存しています。複数回そのようにされたので演奏ミスではなく指揮者の指示と解釈しましたが、これも効果的なカラクリだねえ。 〈乙女の神秘的な踊り〉のデジタルオルガンのように空虚な和音が耳に残る。最後に〈生贄の踊り〉にかけてはちょっとカラータイマーの点滅が見えてきて、スタミナ切れ間近の中を首尾よく駆け抜けた感アリ。最後の一打とか、響きがタイトで物凄くカッコよかったですけどね。 徹頭徹尾、冷静な律動管理なので、これは名フィル的には地獄の特訓だったのではないかと思います。お疲れさまでした。タト山センセは「演奏全体がやや前のめり」の一言で片づけましたが、たとえば老人の前のめらない気の抜けたハルサイに比べてどちらがいいかと言ったら、それは。ね。 ▲
by Sonnenfleck
| 2009-08-10 06:13
| on the air
![]() <ストラヴィンスキー> ●バレエ音楽《春の祭典》 ●3楽章の交響曲 ⇒ジョナサン・ノット/バンベルク交響楽団 自作自演箱を使ってストラヴィンスキー・マラソンをやったのがずいぶん前のような気がしますが、久しぶりにここに戻ってくるにあたり、このディスクに向き合おうと思いました。何しろご紹介せずにはおれないからです。 音響快楽主義的傾向の好みを(はしたなくも)持ち合わせているために不満に思うのは、ストラヴィンスキーなら、特にハルサイなら、非楽音的な方向にむしろ積極的に寄せてドンチャン騒ぎにしちゃっていいよね、みたいな演奏がけっこう多いということです。けれども、いやいや、そんなに簡単な作品でもないだろうと。 シンプルな機能美や運動美を追求することによってプラスマイナス0に持ち込む演奏は確かにいくつか存在しているし(ブーレーズの旧録音なんかまさにそれだと思う)、それでいいと思っていたこともありましたが、それじゃあ物足りなくなってしまった。あえてプラスの方向へこだわりのモデリングをしている演奏はないもんだろうか、と思っていたんです。 カラヤン?―いえいえ。今やジョナサン・ノットの造形を耳にすべきです。 ここにある音はことごとく楽音的なんですよ。この作品だから凶暴に野蛮に、荒れた音響で汚らしく描く、なんていうのは、この演奏を聴いた自分には愚の骨頂だと思われます。ノットとバンベルク交響楽団は「不協和音」の協和的美、みたいなものをとことんまで追求した結果、第一級のメンデルスゾーンのように理路整然としながらそれ自体が美しい音響体に、ハルサイを仕立て上げてしまった。 当然ながら第1部〈序奏〉のファゴット(及びその後景にいるクラリネット属)に始まり、〈生贄の踊り〉の最後で閃くフルートのパッセージに至るまで、ソロ楽器の音は徹底的に殺菌され、同時に藝術的に表現することが求められています。意味のない、あるいは雑音めいた絶叫はひとつとして見つからないのです。 そして〈春のきざし〉の弦楽器の刻みが、これが「弦楽器の刻み以外の音には聴こえない」。これって凄いことだと思いません?ストラヴィンスキーの意図していたことに、我々は100年近く囚われていただけなんじゃないだろうか? 第2部の前半は官能的な和音の洪水です。ここの部分、凡百の演奏では2色刷りくらいまでカラーリングを落としてしまって実に拙いことになるんだけど、ノットはそんなことはしません。だって楽音だもの。いいスピーカーで大きく鳴らしたらどんなに素敵だろう。 〈選ばれた生贄への賛美〉から〈生贄の踊り〉にかけて、たとえば統率力の弱い指揮者がカオスに乗じて逃げ切ろうとする局面にあっても、真正面からアンサンブルを整理整頓し、ひときわ冷静な(むしろ静謐な)美しい音響を連続的に生産しているのを聴くと、萌えとしか言いようがないわけです。いやーノット+バンベルクの秋の来日が楽しみで仕方ない。 ▲
by Sonnenfleck
| 2009-05-22 07:01
| パンケーキ(20)
![]() ●サンサーンス:Pf協奏曲第5番ヘ長調 op.103 《エジプト風》 →横山幸雄(Pf) ●ストラヴィンスキー:バレエ組曲《火の鳥》(1919年版) ⇒パスカル・ヴェロ/仙台フィルハーモニー管弦楽団 (2008年12月20日/NHK教育テレビ) 布団に包まって鑑賞。 同じ東北でも、僕の生まれ育った秋田に比べて、大都会仙台はもう少しドライというか、いや、人から受ける感じはドライなんだけど、街のにおいは冷たく湿っているというか、ちょっと不思議な場所です。 (それが良い悪いという話ではありません。) 今回初めて仙台フィルを耳にして、団員さんたちも仙台出身の方ばかりじゃなかろうってのは承知の上ですが、そんな印象もあながち的外れではないなあと思った次第。 サンサーンスの《エジプト風》第1楽章と第2楽章、ここがすこぶるよかったと思います。ピアノがかなりオンマイク気味で、オケは十分に捉えられてはいませんでしたが、それでも独特の冷涼な響きが伝わってくる。あのエキゾチックな「雰囲気美」に下品な調味料をかけたりすることなく、オトナな感じのアンサンブルを醸成しています。弱音に繊細な表情をつけるのがとても巧いオケだなあと。 つまり「オレがオレが」という自己主張にはあまり重きを置いていないようなんですが、しかしそれはともすれば「どうぞどうぞお先にどうぞ」というおかしな謙譲精神につながりかねない。華やかなはずの第3楽章もちょっと落ち着きすぎのように感じられますし、一方で我慢に我慢を重ねて耐え切れずに一線を越えてしまうと、空回りして素っ頓狂な金属音が聴こえてきたり、、難しいですね。前半の巧みな弱音さばき、よかったんだけどなあ。 後半の《火の鳥》組曲にも同じことが言えてしまうかなあ。 〈序奏〉〈王女たちのロンド〉〈子守歌〉といった優しくメロディアスなナンバーは旋律線の綾がきれいに重なり、奥ゆかしい美しさがあったのだけど、〈カスチェイの凶悪な踊り〉〈終曲〉はキンキンと聴き手の耳に喰らいつくような音が放射されてしまっていてとても残念でした。指揮者パスカル・ヴェロの曲づくりからはけっこう派手好みな印象を受けるので、果たしてオケの方向と指揮者の方向が一致しているのかという疑問も少し残ります。一度限りの視聴体験では何とも言えないけど。 名フィルの薫陶を受けて地方オケの魅力に取りつかれた今、すみだトリフォニーの「地方都市オーケストラ・フェスティバル」が楽しみですが、2009年は大阪シンフォニカーと群響だけなんすね。東京でも名フィルが聴きたい! ▲
by Sonnenfleck
| 2008-12-23 08:40
| on the air
![]() ブーレーズが録音したいくつかのハルサイには、いずれも異なった味わいがあります。このフランス国立放送管盤は鋭角的とか分析的だとか言われるけど、そのまえにちょっと甘酸っぱい響きがしていて好き。 うたびとよ、こといだけ、くちふれよ。 はつざきのはなさうび、さきいでて、 このゆふべかぜぬるし、はるはきぬ。 あけぼのを、まつやかのにはたたき、 あさみどり、わかえだにうつりなく。 うたびとよ、こといだけ、くちふれよ。 (上田敏『海潮音』拾遺) ▲
by Sonnenfleck
| 2008-08-20 07:59
| 絵日記
![]() ●ストラヴィンスキー:《ペトルーシュカ》 ●バルトーク:《中国の不思議な役人》 ⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 うーむ。またドホナーニ。 「推薦」連発してるレコ芸のセンセイみたいな気分。 ですが、ドホナーニはここでもずいぶんと素晴らしい仕事をしているので、またしても「いい!」と言わせていただきます。仕方ないですわ。 この2曲が録音されたのは1977年の12月でありまして。 ヒストリカルをほとんど聴かず、クラにまつわる「脳内補正神話」みたいなものが好きでない僕としても、こんな響きを証拠として提出されたら、ウィーン・フィルがこの時期にあってもその独特の響きを維持していたらしいことを認めないわけにはいきません。木管のソロからトゥッティの爆発に至るまで、どこもかしこもこってりとした美音。 そんな状況で、今の彼のやり方にまっすぐ通じるような、恐ろしく精密で非人間的なリズムや縦の構造を実現してしまったことで、若き日のD先生はきっと団員から蛇蝎のごとく嫌われたことでしょう。これはさぞ激しいリハが繰り返されたのだろうと勘繰りたくもなります。 基本的なテンポ設定は速くはありません。速くないけど、響きが消えていくところにやはり気を遣っているようなので、もたれたりはしない。 美しい響きが充満している中で、特に第3部と第4部の充実には目を見張ります。前者ではムーア人とバレリーナが一緒に踊る場面がまさに「痛ましく」演奏されていて、ため息が出ますね。見せ付けられる者は、空しく苛立ちつつ美に見蕩れるという屈折した感情を持つわけで。この曲がった愛と痛ましさはまさしくミシマの世界。 で、そんな密室などなかったかのように、華やかな謝肉祭が第4部で描写されます。 〈熊を連れた農民〉から〈商人と二人のジプシー娘〉にかけての30秒間、目も眩むような響きが構築されてます。どこか一箇所聴いてほしいとしたら、ここ。 せっかく豪ユニバーサルが覆刻してくれたのに、たぶんすでに廃盤。 入手は困難ですが、探す価値大有りです。あ、もちろん《マンダリン》も色気のある演奏。 ▲
by Sonnenfleck
| 2008-03-07 06:39
| パンケーキ(20)
![]() ●交響詩《夜うぐいすの歌》(1917) ※ ●《ダンス・コンチェルタント》(1942) + ●《フュルステンベルクのマックス王子の墓碑銘》(1959) →アーサー・グレグホーン(Fl) カルマン・ブロッホ(Cl) ドロシー・レムセン(Hp) ●《ラウール・デュフィ追悼の二重カノン》(1959) →イスラエル・ベイカー(Vn)、オティス・イーグルマン(Vn) サンフォード・ショーンバッハ(Va)、ジョージ・ナイクルグ(Vc) ●宗教的バラード《アブラハムとイサク》(1963) ※ →リチャード・フリッシュ(Br) ●管弦楽のための変奏曲(1964) ※ ●《レクイエム・カンティクルス》(1966) ※ →リンダ・アンダーソン(S)、エレーヌ・ボナッツィ(A) チャールズ・ブレスラー(T)、ドナルド・グラム(Bs) グレッグ・スミス/イサカ大学コンサート合唱団 ⇒ロバート・クラフト/ コロンビア交響楽団(※)、コロンビア室内管弦楽団(+) というわけで、先週から引き続きラストのDISC22。 最後の《管弦楽のための変奏曲》と《レクイエム・カンティクルス》とは、どちらも、透徹したフォルムと舞台性の脂っぽさの両方を兼ね備えた奇跡的な傑作であると、感想文の最後に記しておきたいと思います。 先々週聴いたように、《カンティクム・サクルム》はどうやらストラヴィンスキー内の「フォルムの系譜」が辿り着いた最高傑作である、という思いでいます。それはこのラスト2曲を聴いた今でも変わらない。ではもう一方の、「舞台性の脂っぽさの系譜」は作曲家の中でどうなったのか。このDISC22で言ったら《夜うぐいす...》や《ダンス・コンチェルタント》の系譜は。。 40年代から50年代にかけて、たぶん《放蕩者の遍歴》くらいを最後に、こちらの系譜は一旦地下に潜伏したんじゃないかと思うんです。しばらく養分を貯えて、そしてなぜかはよくわからないけれど、作曲家の最晩年にいきなり発芽して「フォルムの系譜」の支柱に絡み付き、見事に巨大な花を咲かせたのではないかな。そういう気がしています。 もうちょっと別の言い方もしてみましょう。 すでに何度か、「フォルムの系譜」のほうを「皿」に例えてますよね。その路線で行くと《カンティクム・サクルム》はそれ自体、非の打ち所がない完璧かつ巨大な皿で、皿自体が偉大な価値を持つようです。博物館の皿に料理が盛られていないから皿としての価値が低い、と言う人がいないのと同じ。このたとえを用いれば、《変奏曲》も《レクイエム・カンティクルス》も、間違いなく一級の皿であると思われるんですよ。ただしこれが《カンティクム・サクルム》と異なるのは、そこに、貪欲な聴き手の味覚を刺激するような「料理」が盛ってあるというただ一点ではないかなと思う。 《管弦楽のための変奏曲》の皿には、久しぶりにインパクトのある分厚い音塊へ、華やかなソロを付け合わせて。冒頭のTp数本のしゃがれ声からJAZZYなおふざけを感じ取ったっていいでしょう。ほんの5分間の作品の中にさまざまな階層のさまざまな要素がぎゅっと凝縮されていて、飽きることのない旨味を放っています。最後にたぶんバスクラリネットで「。」と律儀な句点が打たれてるのが面白くて。生で聴いてみたいなあ。 そして《レクイエム・カンティクルス》の皿には、 ・バルトーク風の親しみやすい音型 ・堅く引き締まって器楽っぽい合唱(〈リベラ・メ〉での粒感が面白い) ・逆に器楽っぽさが巧く取り除かれた合唱(まるで《ミサ曲》のように!) ・口ずさめるような不吉なメロディ ・口ずさめない愉快なメロディ こんな雑多な材料を渾然一体に煮込んだスープがよそわれている。プレリュード→インターリュード→ポストリュードのアーチ構造は、きっと音列にも関係していたりするんでしょう。楽譜が目の前になくてもこんなに楽しめる十二音作品は…そんなにないんじゃないか。 + + + というわけでした。ストラヴィンスキーすげえ。おしまい。 ▲
by Sonnenfleck
| 2008-01-21 06:56
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