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今日は朝からストラヴィンスキー(21)

c0060659_833487.jpg【DISC22…ROBERT CRAFT CONDUCTS UNDER THE SUPERVISION OF IGOR STRAVINSKY】
●交響詩《夜うぐいすの歌》(1917) ※
●《ダンス・コンチェルタント》(1942) +
●《フュルステンベルクのマックス王子の墓碑銘》(1959)
→アーサー・グレグホーン(Fl)
  カルマン・ブロッホ(Cl)
  ドロシー・レムセン(Hp)
●《ラウール・デュフィ追悼の二重カノン》(1959)
→イスラエル・ベイカー(Vn)、オティス・イーグルマン(Vn)
  サンフォード・ショーンバッハ(Va)、ジョージ・ナイクルグ(Vc)
●宗教的バラード《アブラハムとイサク》(1963) ※
→リチャード・フリッシュ(Br)
●管弦楽のための変奏曲(1964) ※
●《レクイエム・カンティクルス》(1966) ※
→リンダ・アンダーソン(S)、エレーヌ・ボナッツィ(A)
  チャールズ・ブレスラー(T)、ドナルド・グラム(Bs)
  グレッグ・スミス/イサカ大学コンサート合唱団

⇒ロバート・クラフト/
  コロンビア交響楽団(※)、コロンビア室内管弦楽団(+)

ついにここまで辿り着いたです。
ストラヴィンスキー大全集DISC22は、クラフト指揮による補遺集。2回に分けて書きます。

まず交響詩《夜うぐいすの歌》ですが、これはいとも効果抜群というか…《カンティクム・サクルム》を聴いてしまったあとでは、波打って押し寄せる効果的な色彩の嵐に目が眩みます。冗談抜きで。クラフト先生の鍛えが効果的なのか、コロンビア響も豊かに奥行きを持って鳴っている気がする。あれーこんなに巧かったのかー。結尾に置かれた「漁師の歌」の寂漠とした趣きがある種の肯定的な力を備えているのは、驚愕ポイントかもしれない。

《ダンス・コンチェルタント》は、合奏協奏曲に似たマチエールで娯楽的な旋律とリズムを大盤振舞する、新古典期ストラヴィンスキーに特有の曲のひとつであるようです。聴いたそばから指をすり抜けて落下していくような、罪のない音符で構成されているらしい。重なり合った楽句は作曲者指揮と比べると明確な優劣を付けられて処理されていると思われます。

ごく短い《墓銘碑》
《ラウール・デュフィ追悼の二重カノン》は陰鬱な気配。気配を音にするのは、たぶん最後まで、ストラヴィンスキーの最も苦手にするところだったのじゃないかと思う。

《アブラハムとイサク》に至ると、慣れ親しんだ(と感じられるようになった)セリー期の宗教作品に特有のマチエール。そんな中で表現主義っぽい爆発が方々で聴かれるのがこの作品の特徴みたいです。
ここで最後の給水。同じ挿話を題材にしたブリテンのカンティクル第2番《アブラハムとイサク》 op.51が作曲されたのは1952年のことであります。でも10年前に作曲されたこの作品がストラヴィンスキーに影響を与えたのかどうかについては資料もないので不明。
だいたいこの作品は、神に甘えるようなブリテンの柔らかさとは対照的に、荒野の一神教らしい厳しい響きをしているし、何よりこの作品の場合、テクストが英語ではなくてヘブライ語なわけで、肌触りはずいぶん異なります。何度も聴こえる「アブラハム!」「…アブラハム…」という単語だけが意味を成して全体を引き締めていて、声を一本の独立した線として器楽的に扱うストラヴィンスキーの性癖がここでも窺われるような気がする(逆に考えると、ヘブライ語リテラシーが備わっている聴き手には、いったいどのように聴こえるんだろうかという疑問はある)。ブリテンとストラヴィンスキーは最後まで交わらずに平行線を描いていたのかなあ。

次回、最終回。
by Sonnenfleck | 2008-01-14 08:37 | パンケーキ(20)

今日は朝からストラヴィンスキー(20)

c0060659_5473123.jpg【DISC21…SACRED WORKS VOL.2】
●《カンティクム・サクルム》(1955) ※
→リチャード・ロビンソン(T)
  Howard Chitjian(Br)
  ロサンジェルス祝祭合唱団
●《イントロイトゥス》(1965) +
→グレッグ・スミス・シンガーズ
●《説教、物語と祈り》(1961) #
→シャーリー・ヴァーレット(MS)
  ローレン・ドリスコル(T)
  ジョン・ホートン(語り手)
●アンセム《鳩は空気を引き裂いて降りる》(1962)
→エルマー・アイスラー/トロント祝祭合唱団
●《預言者エレミアの哀歌》(1958) *
→ベタニー・ベーズリー(S)、ベアトリス・クレブス(CA)、ウィリアム・ルイス(T)
  ジェームス・ワインナー(T)、マック・モーガン(Br)、ロバート・オリヴァー(Bs)
  ヒュー・ロス/スコラ・カントルム
⇒イーゴリ・ストラヴィンスキー/
  ロサンジェルス祝祭交響楽団(※)、コロンビア室内Ens(+)、
  CBC交響楽団(#)、コロンビア交響楽団(*)

越年マラソン。最後の区間になって奥の院が続くと挫けてしまいそうです。

まず《カンティクム・サクルム》
これまでに聴いてきた《火の鳥》《エボニー協奏曲》に代表されるような舞台性の俗、あるいは前のディスクで耳にした3つの無伴奏合唱曲や《ミサ曲》の素朴な信仰告白、そのどちらとも異なる意図的な厳しさが強く伝わってきます。
強い酸性の自制に浸されることで、大まかな小節線と音符の骨格を残して肉の旨味は融けてしまったような印象を受ける。何しろ十二音であると同時に特に響きが薄くて、無地の背景がずいぶんすっきりと透けて見えるんですね。

ただし、その印象は最初の数回までで解消される。骨格自体の旨味が、つまりギ…と軋む弦や、サッと空間に翻る金管や、空間の奥行を暗示するオルガンや、器楽として浮遊する合唱などの面白みが、徐々に何もない空間に滲み出て来るわけです。これはたぶん、聴き手たるこちらの耳の焦点が合ってくるというのが大きいんでしょう。
ピアノと管弦楽のための《ムーヴメンツ》から放たれた長い伏線が、フォルムを楽しむ「皿」であるらしいいくつかのピアノ小品を足掛かりにして、ようよう回収されたような感じ。後期ロマン+原始主義から始まって、自分以外の者を楽しませることにいちおう留意しつつも、この作品で個人的密室的なフォルム萌えに落ち着いた、という判断は正しいのか?…いやいや、遺作《レクイエム・カンティクルス》を聴いてみなければわからない!

アンセム《鳩は...》《クレド》直系の素朴な心持ちが他の曲よりストレートに伝わってくるようです。ただしたとえばスウェーデン放送合唱団の超絶技巧による、しかも優秀な録音で聴いたとしたら、もっと冷たい印象を受けるかもしれない。この大全集で聴いた合唱入り作品すべてに関して言えることだけど。。

《エレミアの哀歌》は、聴感上このディスクの中では最も編成が大きいような気がします。生っぽくてつっけんどんなコロンビア響の音がけっこう懐かしい。「エレミアの哀歌」というドラマティックな元ネタが、冒頭の比喩を用いれば「自制の酸に打ち勝つ肉」を、五線紙の中に準備したようです。この曲で頻出する重唱は(《説教、語りと祈り》で顕著だった!)マゾヒスティックな単調さを伴いますが、そういうもんなのかな。演奏はもちろん、恐らく譜面上もオケはずいぶん雄弁なんだけどな。
by Sonnenfleck | 2008-01-07 05:49 | パンケーキ(20)

今日は朝からストラヴィンスキー(19)

c0060659_915539.jpg【DISC20…SACRED WORKS VOL.1】
●JSバッハ《高き天よりわれは来れり》によるコラール変奏曲(1956) ※
●カンタータ《星の王》(1912/1939) ※
●《アヴェ・マリア》(1934)
→エルマー・アイスラー/トロント祝祭合唱団
●《クレド》(1932/49/64)
→グレッグ・スミス/グレッグ・スミス・シンガーズ
●《パーテル・ノステル》(1926/49)
→エルマー・アイスラー/トロント祝祭合唱団
●《古いイギリスの歌詞によるカンタータ》(1952) +
→アドリエンヌ・アルベール(MS)
  アレクサンダー・ヤング(T)
  グレッグ・スミス/グレッグ・スミス・シンガーズ
●《ミサ曲》(1948) #
→グレッグ・スミス/グレッグ・スミス・シンガーズ
●カンタータ《バベル》(1944) ※
→ジョン・カリコス(語り手)
  エルマー・アイスラー/トロント祝祭合唱団
⇒イーゴリ・ストラヴィンスキー/
  CBC交響楽団(※)、コロンビア室内Ens(+)、
  コロンビア・シンフォニー・ウィンズ&ブラス(#)

ラストスパート?

まずバッハの編曲であるコラール変奏曲
たぶん元になってるのはクリスマスにちなんだコラールなので、季節的にはぴったりですね。管楽器偏重のつぶつぶした響きはシェーンベルクのバッハ編曲よりずっと軽いテクスチュアで、これがストラヴィンスキーの最良の特徴のひとつだよなあと改めて思う。そこへ何の前触れもなく合唱が乱入しちゃうのがいかにも節操レスで融通無碍でして(笑) CBC響はコロンビア響よりもっとサバサバした音なので素敵です。

続いて初期のごく短いカンタータ《星の王》
これはバリモントのロシア語詩に基づいているようですが、歌詞なしにつき内容はまったく不明です。順番的には《春の祭典》の直前の作曲かと思われ、そのように意識すれば、確かにここから声を抜いたらハルサイの静かな部分に似ているかなあというところ。 ただしハルサイよりはふくよか、静謐で不穏。

またもロシア語訳による、今度は無伴奏合唱の《アヴェ・マリア》《クレド》《パーテル・ノステル》がそこへ続く。どれもせいぜい3分ほどで終わってしまうんだけど、ストラヴィンスキーがうっかり素を出してしまったかのような素朴な甘さが充満していて…ギャップ萌えと言えますでしょうか。おなじみトロント祝祭、及びグレッグ・スミスの皆さんも決して超絶技巧ではないので、その方向に拍車がかかるようです。

《古いイギリスの歌詞によるカンタータ》は、古雅で浮遊感のある室内アンサンブルが(あるかなきかの)土台になって、これまで聴いてきたストラヴィンスキー作品群の中でもちょっと独特の肌ざわりかなあ。ここから《シェイクスピアの3つの歌曲》へまっすぐ道が伸びている気がします。ソロのアルベールが少年みたいに恍惚とした歌い方をしていてドキドキする。

で、このディスクの白眉は次の《ミサ曲》でしょうね。
ネットで検索してもほとんど引っかからないし、並み居るス氏作品の中にあってはいかにも身も蓋もないタイトルなので見過ごされてるのかもしれないけど…作品の格というか訴求力が他とかなり違う。
ミサ通常文に添えられた音符は、心に染み入る静かな訴えと都会的なスマートさを兼ね備えていて実に素敵。伴奏は管楽器のみで、いかに弦楽器が悪魔的な響きをしているか、如実にわかってしまうシステムに戦慄。そして旋律の線はここに至っても溶け合うことのない束感を醸し出しており、しかも厳しく並列的で、ここでは特に演奏者ストラヴィンスキーと作曲者ストラヴィンスキーの幸福な一致をみているようです。名演だと思う。

最後に、ナレーション付きで《大洪水》の先駆けのような《バベル》。こちらはたった5分のために語り手と合唱とオケが必要なので実演は絶望的か。ストラヴィンスキーの宗教作品だけ集中的に集めたコンサートは、面白いだろうなあ。でも人は集まらないだろうなあ。
by Sonnenfleck | 2007-12-24 09:06 | パンケーキ(20)

今日は朝からストラヴィンスキー(18)

c0060659_6205392.jpg【DISC19…ORATORIO-MELODRAMA VOL.2】
●メロドラマ《ペルセフォーヌ》(1934/1949) ※
→ヴェラ・ゾリーナ(ペルセフォーヌ)
  ミシェル・モルス(T/神官)
  イサカ大学コンサート合唱団
  テキサス・フォートワース少年合唱団
  グレッグ・スミス・シンガーズ
●《頌歌》-クーセヴィツキーの思い出に(1943) +
●《ジェズアルド・ディ・ヴェノーサ400年祭のための記念碑》(1960) ※
⇒イーゴリ・ストラヴィンスキー/コロンビア交響楽団(※)、クリーヴランド管弦楽団(+)

年内に終わるかストラヴィンスキー・マラソン。あと3枚ッス。
19枚目は「メロドラマ集」の括りではあるけれど、語りが入っているのはジッドのテキストによるメロドラマ《ペルセフォーヌ》だけ。これが頗る官能的な音楽でありました。もし大全集を買わなかったら、この、ストラヴィンスキー随一の甘くてぬるぬるした音楽を一度も耳にすることなくクラヲタ人生を無為に送ってしまうところだった。
フランス語がさっぱりわからないことが、これほど幸せと感じたことはないかもしれない。
テキストが綿々と続く柔らかい音の連なりにしか聴こえないこの悦び!意味なんてわかってたまるかというもの!つまり、意味がわかったらきっと音楽の邪魔をする。

これまでに経過してきた18枚を振り返ると、スタイルとしては《ミューズの神を率いるアポロ》にどことなく似てはいるものの、ときどき指に刺さる棘のダイナミックさは、もうちょっと後に作曲される2つの「交響曲」を先取りしてるかなあとも思う。行き過ぎた先取り、または逸る心にアルカイック・パッチを当てました、という感じ。それでこんなに甘くなっちゃうんだから、何か化学変化的な印象は否めません。

ゼウスとデメテルの娘ペルセポネは、冥界に連れ去られてハデスの妃となる。
暗い冥界でハデスが差し出したザクロを食べてしまうペルセポネ。
ペルセポネが地上に帰ることを許されるのは1年の3分の2の間だけ。
地上へ戻ったそのとき、春が来て、冥界へ戻るそのとき、冬が来る。

というストーリーらしい。wikiで調べたところでは。
3部構成のうち中間の冥界の描写まで、演奏者ストラヴィンスキーにしては考えられないくらい、コロンビア響が見事に溶け合って美しい音を滴らせているのです。そうなると、3つめのペルセフォーヌの帰還があれだけ艶やかな音で描かれるのも頷けますね。出そうと思えばこんな音まで出せんじゃんコロンビア響。

ペルセフォーヌ役のヴェラ・ゾリーナは、僕が知らないだけで有名な方なんだろうなあ。
こちらのブログの情報によると、バランシンの元妻で、オネゲル《火刑台上のジャンヌ・ダルク》アメリカ初演でジャンヌ役を演じ、同曲をオーマンディの指揮で録音までしているスペシャリストであるようです。
ところでバランシンは《アゴン》の振付をやっていたり、《火刑台上のジャンヌ・ダルク》は先週取り上げた《エディプス王》につながっていそうだったり、おまけにペルセポネは《放蕩児の遍歴》第3幕でアドニス(トム)をアン(ヴィーナス)から奪う破壊の女神であるわけで…事項の複雑な絡み合いにはドキドキしますが、ミスリード沼地へ我々を誘う鬼火なのかもしれません。

+ + +

《頌歌》はクーセヴィツキーに捧げられた3つの「Elegiacal Chant」ということらしいです。
第1曲の灰色に曇った響きは、竹を割ったような40年代のストラヴィンスキーらしからぬ湿り気をまとっていますが、第2曲だけはクリーヴランド管(なぜここで登場??)の明るい音に後押しされて、いつものヤンキーイーゴリに戻る。第3曲はまたわざとらしい憂鬱質。

《ジェズアルド・ディ・ヴェノーサ400年祭のための記念碑》(長い!)は、ジェズアルドのマドリガーレの編曲作品ですね。これはジェズアルドを全く聴いていない自分の不明が悔やまれる。あちこちに聴こえる物凄い半音階って、ストラヴィンスキー由来ではないんですね?
by Sonnenfleck | 2007-12-17 06:23 | パンケーキ(20)

名古屋フィル 第342回定演

【2007年12月14日(金)18:45~ 第342回定期/中京大学文化市民会館】
●サティ:バレエ音楽《パラード》
●プーランク:バレエ組曲《牝鹿》
●R. シュトラウス:《ブルレスケ》ニ短調 AV.85
→若林顕(Pf)
●ストラヴィンスキー:バレエ音楽《ペトルーシュカ》(1947年版全曲)
⇒矢崎彦太郎/名古屋フィルハーモニー交響楽団


ぱっと見「フランス音楽の彩と翳」としか思えません(笑) 東京シティ・フィルのあのシリーズに雰囲気がソックリです。このプログラムも矢崎彦太郎 presente、なのかな。
矢崎さん久しぶりに見たらおかっぱからポニテになっていたよ。

惜しむらくはなあ…華やかで豊かに鳴るはずのこのプログラムを、どうしてあのように超デッドなホールでやってしまったのかという点に尽きると思う。今年からネーミングライツを導入して名前が変わったらしい旧「名古屋市民会館」で音楽を聴いたのは初めてだったんですが、《パラード》の最初の音を聴いた瞬間、残響がほとんどないヒリヒリした空気感に絶望しました。よりによってなんでこの回だけ愛知県芸じゃないの?!
残響がないホールで音楽を聴くと、届いてこなくてもいいアラまで聴こえてしまうわけで。。

確かに、《パラード》は逆にそのスタイルが際立ち、恐ろしく皮肉っぽい鳴り方をしていたように思う。それは認めざるを得ない。
この曲、ようやく生で聴くことができて大変感激しているのであります。しかし「普通の」ホールでやったならば、サイレンやタイプライター、ピストルは多少なりとも楽音のように角が丸められるはずですが、このホールでは闖入してきた非楽音としか認知できなかった。乾いた響きにこちらの耳が慣れず、また演奏のほうも1曲目ということでどうにも生真面目…サティの変態的な狙いはここで見事に実現されたのではないかしらん。

《牝鹿》は生き生きしてたなあ。もともとそんなに複雑に入り組んだテクスチュアではないと思うし(スコア見たわけじゃないからわかりませんけどね)、ストレートな軽いリズムの応酬は矢崎さんが得意とするところのひとつでありましょう。Vcの音(特に身振りも大きい太田氏の音!)がビンと張った輪郭線になってよく届いてくる。
途中、ストラヴィンスキー《11楽器のためのラグタイム》(1918年)の本歌取りのような部分が多数あることに気がつきました。以前この作品を聴いていたときは特に何も感じなかったので、「マラソン」のおかげかもしれません。

シュトラウスの《ブルレスケ》についてはノーコメント。この曲は何度聴いてもよくわからない。響きが溢れるホールで聴いても、逆に今回のように線の一本々々が丸裸になるホールで聴いても、やっぱりわからないということがわかった。
どうでもいいけど、シュトラウスとディアギレフのつながりって《ヨゼフ伝説》だけなんじゃないですかね。プログラムに協奏的作品を乗っけるためだとしてもここでいきなり19世紀末の作品を出すのは少し無理があるような気もする。

休憩開けて《ペトルーシュカ》。暗くなったのでプログラムから顔を上げたら、ピアノのところにちゃっかり若林氏が座っててびっくり(笑) 前プロのソロピアニストが「ピアノ」で乗っているのを見たのは初めてッス。ありそうでなかなかない。
演奏はなあ…なんだか妙にモタモタして聴こえました。。
1番Clを吹いたティモシー君の素晴らしい表現意欲とか、確かにきらりと光る瞬間も多かったけど、全体を貫くリズムがのっぺりと均一で、1、2、3、4、と拍を数えられる場面が多すぎる。農耕民族的な安全運転型ペトルーシュカであったなというのが最大の印象。したがって好ましいスリルを感じることがなく、しかし安全運転型のわりには(ホールの音響特性上嫌でも届いてくる)好ましくないスリルにドキドキしなければいけないっていうのが、オケのサポーターとしては実に辛い。
1947年版、そこにお巡りさんが駆けつけてくれない尻切れトンボverのコーダが選ばれてて(個人的にはこの選択にも不満が残る)、あっけなく終了。なので、《ペトルーシュカ》に関するプログラムの表記には適切ではない部分が多少あると思うんですが。

名フィル、日比谷でミッチーに搾られてお疲れ?あんまり練習時間が取れなかったのかしら。
1月も尾高・プーランク・デュリュフレのフランス・プログラムなので、、、期待してます。
by Sonnenfleck | 2007-12-15 13:33 | 演奏会聴き語り

今日は朝からストラヴィンスキー(17)

c0060659_755765.jpg【DISC18…ORATORIO-MELODRAMA VOL.1】
●オペラ=オラトリオ《エディプス王》(1927/1948)
→ジョージ・シャーリー(T/エディプス)
  シャーリー・ヴァーレット(MS/ヨカスタ)
  ドナルド・グラム(Bs/クレオン)
  チェスター・ワトソン(Bs/タイレシアス)
  ジョン・リードン(Bs/使者)
  ローレン・ドリスコル(T/羊飼い)
  ジョン・ウェストブルック(語り手)
  ワシントン・オペラ協会合唱団
⇒イーゴリ・ストラヴィンスキー/ワシントン・オペラ協会管弦楽団
●音楽劇《大洪水》(1962)
→ローレンス・ハーヴェイ(語り手)
  セバスティアン・カボット(ノア)
  エルザ・ランカスター(ノアの妻)
  ジョン・リードン&ロバート・オリヴァー(神/Bs)
  リチャード・ロビンソン(ルシファー/T)
  ポール・トリップ(呼び手) 他
→グレッグ・スミス/グレッグ・スミス・シンガーズ?(記載なし)
⇒ロバート・クラフト/コロンビア交響楽団

ソフォクレスの『オイディプス王』を下敷きにしてコクトーが台本を書いた《エディプス王》ですが、これをストラヴィンスキーの代表作のひとつに挙げている例が意外に多く見つかるので、どんな作品なのかと思って聴きました。
「オペラ=オラトリオ」の真意は、英語による語りの進行と歌唱を峻別したこと、劇中のすべての歌唱をあえてラテン語にしたこと、そして最も重要なのは、厳格な音楽と猥雑な音楽との大胆な交雑、こんなところにあるのかしら。ちなみに、この作品の8年後に初演されるオネゲルの「劇的オラトリオ」《火刑台場のジャンヌ・ダルク》へまっすぐつながる線が(素人的にはかなり強く)感じられるんですが…どうでしょう。このへんの<ストラヴィンスキー⇔6人組>な領域を考察するにはあまりにも力量不足なのでテキトーにぼやかしておきますね。

第1幕、ナレーターの前口上に続いて冒頭から強烈な合唱が登場します。同じような時期に作曲され同じように合唱が主役である《詩篇交響曲》が静けさを第一義としているのに対し、ここでは原色をシャッシャッと塗りたくるような威力的な合唱がまず空間を支配するんですね。厳粛な原色というのはこんなに激しいパワーを持っているのだなあと感じ入る。だいいちワシントン・オペラ協会合唱団(?)が全然揃ってなくて、却って力強い。

そして娯楽的というには悲惨すぎる第2幕。父王を殺したのがほかならぬ自分であり、おまけに王妃ヨカスタが実母であることが判明していく、、ヒタヒタと罪が暴露されていくクライマックスですが、ストラヴィンスキーはこの第2幕、特にヨカスタについて思いっ切り滑稽で俗悪な音楽を付けています。
娼婦のようなVaソロ(Vn?)、妖しげな曲線を描いて裏返りそうなCl、途中で擬バロック調のすばしこいアンサンブルに突入して、再び妖しい嘆息へ…。続くエディプス王とヨカスタのJAZZYな二重唱の、なんと悲惨な猥雑さ!ここはワシントン・オペラ協会管弦楽団(?)に色気がないのを嘆くべきかもしれませんが、、聖と俗を隣り合わせてお互いを際立たせる手法は、演奏者ストラヴィンスキーのドライなタクトの下でこそ最大限の効果を発揮しているようです。再びクソ真面目合唱隊の中にしんみりと溶暗する幕切れ。。

さて《大洪水》は、、聖と俗の対比なんか軽く飛び越えて、ブリテン似の冷たく湿った音響で耳を浸食します。セリーに(そして「セリーの雰囲気」に)手を染めた晩期ストラヴィンスキーにはDISC15の収録曲から少しずつ慣れていっているはずですが、ストラヴィンスキーにしてもサービス満点すぎる《エディプス王》のあとではいかにも晦渋に聴こえて困る…。
この作品は「ノアの方舟」のエピソードを元にした正味25分ほどの短い劇。誰が主役で誰が脇役ということもなく、台本もエンタメではなく、したがって大変とっつきにくい(苦笑) 登場人物は数人ですが、俳優と歌手が混在しているために、オケだけではなく聴こえてくる声の感触も一筋縄ではいきません。
ノアとその妻は俳優が演じているので、「神」が歌で語り掛ける場面が印象に強く残る。常にヒュ~ドロドロドロ~というバスドラムの連打に乗って出てくるその声は、ブリテンのカンティクル第2番《アブラハムとイサク》でテノールとアルトの二重唱で表現されているのと同じように、この《大洪水》においてはバスの二重唱で歌われます。

「方舟の建造」シーンではオケが(たぶん)金槌や鉋の模倣をしていてちょっと微笑ましいのでありますが、スペクタクルなのはやはり「洪水」の場面。Vn群がトレモロで無慈悲な裁きを表現している。いつものコロンビア響に比べてよく訓練されているように聴こえるのは指揮がクラフト先生だからかな(笑)
最後はノアと神が「虹の契約」を結ぶ場面で<サンクトゥス>の文章が引用されて、冒頭の<テ・デウム>引用とサンドイッチ。ただしここが拍子抜けするくらいあっさりしていて、すっかり脂が落ちてしまった晩年の作曲家が析出するのでした。
by Sonnenfleck | 2007-12-10 07:06 | パンケーキ(20)

今日は朝からストラヴィンスキー(16)

c0060659_6313319.jpg【DISC16&17…THE RAKE'S PROGRESS】
●歌劇《放蕩児の遍歴》(1951)
→ドン・ガラード(Bs/トゥルーラヴ氏)
  ジュディス・ラスキン(S/アン・トゥルーラヴ)
  アレクサンダー・ヤング(T/トム・レイクウェル)
  ジョン・リードン(Br/ニック・シャドウ)
  ジェーン・マニング(MS/マザー・グース)
  レジーナ・サーファティ(MS/トルコ人ババ)
  ケヴィン・ミラー(T/競売人ゼレム)
→ジョン・バーカー/サドラーズ・ウェルズ・オペラ合唱団
→コリン・ティルニー(Cem)
⇒イーゴリ・ストラヴィンスキー/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

悪魔ニック・シャドウにそそのかされて、将来を誓い合った娘アン・トゥルーラヴを捨てて都会へ出た若者トム・レイクウェル。財産を手にしてトルコ人ババと結婚、放蕩の限りを尽くしたのち、最後は破産したうえ発狂し、精神病院で死んでいく、という陰惨な話。放蕩も何もかも全面的に許される聖書の<放蕩息子>エピソードとは違う、バッドエンド。
舞台作品としての飴=親しみやすいメロディや愉快なシーンもたっぷり用意されている。でも、アリアとレチタティーヴォを並べていくスタイルをストラヴィンスキーが堅持しているために感動も愉快もみな大人しく型にはまっている印象を持つし(それこそが間違いなく狙いどおりなんだろうけど)、同じ時期の《オルフェウス》《七重奏曲》のように、新古典期終盤に特有のダイアトニックながら寂しくて「薄い」音響が支配的なので、軽快な中に切なさが残る。

これも前回の歌曲集と同じくテキストが手に入らなかったので、音楽とあらすじ(こちらのサイトにお世話になりました!)だけを頼りになんとか鑑賞。〈序曲〉のファンファーレは、モンテヴェルディの《オルフェオ》のファンファーレのパロディだということらしい。

第1幕は<田舎>でのやり取りと、<都会>の官能的な描写が聴きどころかなあ。数本の木管で静かに編み上げられる<田舎>、反対に<都会>のリズミカルな誘惑。
トムとニックの会話等、レチタティーヴォを支えるのはコリン・ティルニー。調べてみると「REFLEXE」シリーズにバードやフローベルガーなんかの録音がある往年の名チェンバリストですね。彼がレチタティーヴォで痛烈な不協和音を鳴らすので、棘のように刺さる瞬間が静かな<田舎>には実は多いのでした。
第2幕。これはトルコ人ババが早口でアリア(?)を歌ったり、皿を割ったり、トムを破産に導くべくニックが出したインチキ機械が出てきたり、バタバタとやかましい。

このオペラ、第3幕が破格に飛びぬけて素晴らしいように思う。。
第1場は破産したトムの財産が競売に掛けられる場面なので音楽が脚本に寄りかかってるみたいでそんなに面白くないんだけど、墓地で悪魔ニックがその正体を現し、トムの魂をかけたトランプをする第2場からは音楽の力がグッと増します。
墓場の描写ということで響きは極限まで切り詰められた中に、すべて諦めたような歌い口のトムと引き攣ったようなリズムで語り掛けるニックが見事に対置されています。特に悪魔ニックを演じるバリトンのリードンは、それまでのレポレロ風お人よし歌唱から一気に下卑た声になって驚き。。トランプのシーンからBGMはティルニーのチェンバロのみになって、物凄い不協和音を鳴らしながら煽ってきます。すげ。
結局トランプはトムが勝ったものの、ニックは仕返しにトムの精神を破壊して地獄に落ちていく。この地獄堕ちの音楽は常のストラヴィンスキーのように斜に構えたところが全然なくて、シリアスだけを目的にして正面切ってぶつかってくる威力がある。

さて第3場への橋渡し部分から、発狂してしまったトムを表現するかのように、一面にぱあっと花が咲いたような木管アンサンブルの美しい音楽が始まります。精神病院へ移行してからも極上の「薄い」音楽が溢れ出して、最高にクール。新古典期ストラヴィンスキーの結晶とでも呼ぶべき繊細な響き。
第3場はアン・トゥルーラヴ役のラスキンがいいなあ(セルのマラ4で歌ってるのはこの人?)。テキストがないので何を言ってるのかイマイチよくわからないんですが、最後のアリアは透明な悲しみに満ちており、泣かせどころなのかもしれません。

そして、《ドン・ジョヴァンニ》と同じく、最後の最後に「教訓」の五重唱が用意されています。
盛大な楽屋落ち、とでも言えるのかな。チャンチャン。
by Sonnenfleck | 2007-12-03 06:33 | パンケーキ(20)

今日は朝からストラヴィンスキー(15)

c0060659_7354093.jpg【DISC15…35 SONGS】
●《牧神と羊飼いの娘》(1906) ※
→マリー・シモンズ(MS)
●《ヴェルレーヌの2つの詩》(1910/1951) +
→ドナルド・グラム(Br)
●《バリモントの2つの詩》(1911/1954) +
●《日本の3つの抒情詩》(1913/1943) +'
→イヴリン・リア(S)
●3つの小さな歌《わが幼き頃の思い出》(1906/1913/1930) +
●《プリバウトキ》(1914) +
●《猫の子守歌》(1916) +
→キャシー・バーベリアン(MS)
●《4つのロシア農民の歌》(1917/1954)
→グレッグ・スミス/グレッグ・スミス・シンガーズ
●《4つの歌》(1954)
→アドリエンヌ・アルベール(MS)
  ルイーズ・ディ・トゥリオ(Fl)
  ドロシー・レムセン(Hp)
  ラウリンド・アルメイダ(Gt)
●《シェイクスピアの3つの歌曲》(1953) ++
→キャシー・バーベリアン(MS)
●《ディラン・トーマスの思い出に》(1954) ++
→アレクサンダー・ヤング(T)
●《J.F.ケネディのためのエレジー》(1964)
→キャシー・バーベリアン(MS)
  ポール・E・ホランド(Cl)
  ジャック・クライゼルマン(Cl)
  チャールズ・ルッソ(Cl)
●《梟と子猫》(1966)
→アドリエンヌ・アルベール(S)
  ロバート・クラフト(Pf)
●《4つの歌》~〈チーリンボン〉(管弦楽版)(1954?) +'
→イヴリン・リア(S)
⇒イーゴリ・ストラヴィンスキー/
  CBC交響楽団(※)、コロンビア交響楽団(+)、コロンビア室内アンサンブル(++)、
  ロバート・クラフト/コロンビア交響楽団(+')

曲名と演奏者の表記だけでこんなに行を使ってしまった。
ストラヴィンスキー・マラソン、15枚目は歌曲がずらりと並びます。
で、廉価再発売された今回の「大全集」のライナーノーツからは、当然のごとく歌詞なんか省かれてるわけです。以前通常の値段で購入されて悔しい思いをされた方は、ここで大いに溜飲を下げてください!この先DISC21までの7枚は、テキストが読めなければお話にならないからです!くそう!
廉価ランナーができるのは、断片的に聴き取れるテキストと作品の題名から妄想をたくましくするか、声のパートも楽器として聴くか、それくらいの対応です。そうやって聴きました。

キーボードを叩いていてまず気になったのは、作曲年が10年代と50年代以降に固まっているところでしょうかね。10年代の作品もはっと思い出したみたいに50年代に改訂されてるし、晩年を迎えて声の魅力にはまり込んでしまったのかな。
まず《牧神と羊飼いの娘》は、交響曲第1番に次いで「作品2」の番号を与えられていて、華々しいオーケストレーション。いかにもリムスキー=コルサコフ流の重厚な面構えです。聴いた感じ交響曲第1番よりずっと保守的な雰囲気が漂っていて(この曲は改訂されてない)、現存するストラヴィンスキー作品の中でも特に19世紀の濃密な影を感じさせる作品だなと思いました。テキストもプーシキンみたいだし。

ところが《バリモントの2つの詩》《日本の3つの抒情詩》に至って、突然簡潔で鋭い、半音階的な音響になります。2曲とも元はピアノ伴奏だったのが室内アンサンブル伴奏に改訂されていて、ギィ...パキッ...ポツ...といった感じで、、《アゴン》Pfと管弦楽のための《ムーヴメンツ》にちょっと似た響きを獲得しています。ただし、これは作曲当時にストラヴィンスキーの外側にあった表現主義の流れを汲んだもの(と同時に自らの原始主義が援用されたもの)であって(たぶん)、《アゴン》や《ムーヴメンツ》がストラヴィンスキー流にドデカフォニーを消化したものであることを考えると、同一視は全然できないなという感じ。

で、同じ10年代でも《わが幼き頃の思い出》から《4つのロシア農民の歌》までは、たぶんストラヴィンスキーの個人的な体験や嗜好が強く現れていて、ロシア土着の民謡主題が「なんたら主義」を塗り潰して圧倒的に自由で力強い。キャシー・バーベリアン決死の歌唱がいいですね(厳しいリハの効果か)。

そしてトラック25とトラック26の間にある隔たりは…譬えようもなく深い。
この間の40年で、土俗的な民謡を結晶化する術を完璧に身につけてしまったんでしょうかね。この《4つの歌》の主題自体は先ほど聴いていた10年代の作品とあまり違わないのに、歌を彩るフルート・ハープ・ギターのアンサンブルが劇的に巧く構築されていて、一体何と表現したらいいのか。。わずか数分の中に後期ストラヴィンスキーのエッセンスが詰まっている気がする。この録音のあっけらかんとした空気感は本当に見事。素晴らしい。「大全集」を開封してない方、このディスクだけはちゃんと聴いてくださいよ!

さらに《シェイクスピアの3つの歌曲》《ディラン・トーマスの思い出に》になると、非常に透徹した音響空間がすっ...と目の前に広がります。作曲者名を隠して聴かせて、これがストラヴィンスキーの作品だと言い当てられる人はあまりいないんじゃないか。
前者の第2曲〈汝の父は、5尋の海底にいて〉では、弔いの鐘?を模倣した「ディンドン」という音型がそのまま第3曲〈春(まだらなヒナギク)〉のカッコー音型へ流れ込む様子が見事。ヴィオラ・フルート・クラリネットの冷たく湿った響きもブリテンを想起させずにはいられない。
後者ではトロンボーン4本の鈍い光が特徴的。ディラン・トーマスは夭折した天才詩人のようです(ググると同名の競走馬がたくさんヒットするけど)。

これまで聴き進めてきた「大全集」のなかで最高の一枚でした。
繰り返しますけど、このディスクを聴かないのはもったいないです。

【今日の伴走者】
■ジェーン・マニング+ラトル/ナッシュ・アンサンブル(CHANDOS)
《バリモント...》《日本の3つ...》他。ずいぶん拍節感が強くて、1、2、3、4、、とカウントを迫るような生真面目さが鼻につく。ナッシュEnsも小ざっぱりとした音なので余計に。
by Sonnenfleck | 2007-11-18 07:40 | パンケーキ(20)

今日は朝からストラヴィンスキー(14)

c0060659_6452276.jpg【DISC14…OPERAS】
●歌劇《夜うぐいす》(1909/1914) ※
→ローレン・ドリスコル(T/漁師)
  レリ・グリスト(S/夜うぐいす)
  マリーナ・ピカッシ(S/コック)
  ケネス・スミス(Bs/侍従)
  ハーバート・ビーティ(Bs/僧侶)
  ドナルド・グラム(Br/皇帝)
  エレーヌ・ボナッツィ(A/死神)、他
  ワシントン・オペラ協会合唱団
●歌劇《マヴラ》(1922/1947) +
→スーザン・ベリンク(S/パラーシャ)、マリー・シモンズ(MS/母親)
  パトリシア・リドー(CA/隣人)、スタンレー・コルク(T/ヴァシーリー)
⇒イーゴリ・ストラヴィンスキー/
  ワシントン・オペラ協会管弦楽団(※)、CBC交響楽団(+)

いよいよ声楽作品の領域へ侵入開始!これから先、聴いたことがあるのは、今日の《夜うぐいす》と来週取り上げる予定の歌曲《日本の3つの抒情詩》だけです。未開の地すぎる。

《夜うぐいす(ナイチンゲール)》は、ストラヴィンスキー最初のオペラ。全3幕で50分に満たない短さ、そのわりには多い登場人物、ロシア語テキスト、と実演や録音を阻む属性をたくさん兼ね備えているために、幅広く聴かれているとは言いがたい作品でありましょう(それでも彼の他のオペラに比べればずっと知られているけども)。実演の体験はたった一度、2003年にロジェヴェン/読響による演奏会形式で聴いたことがあるだけですし、録音でもブーレーズ/BBC響のERATO盤一枚を知っているのみ。
それでも、僕はこの「オペラ」とも言えないような声楽作品の凛とした佇まいがなんとなく好きで、ストラヴィンスキー・マラソンに取り組む以前のこの作曲家に関するイメージは、少なからず《夜うぐいす》を材料にして構成されていたように思います。

慣れ親しんできたブーレーズ盤に比べると、悪く言えば雑駁な、でも良く言えば生命力に溢れる演奏だなあというのが第一印象。他の曲の自作自演と同じで相変わらず楽器同士は溶け合わず、それぞれの色のままずらっと並んでいてワイルドですが、これはこれで《夜うぐいす》の幻想的な雰囲気を壊すものではないし、逆にさまざまな感触を楽しむことができるというのは立派な長所でしょう。
初期に作曲された第1幕は、小節の間・音符の間に空気をたくさん含んでいるというか、とにかく軽く作られているので、自作自演のゴリゴリとしたアクセントがときには重すぎるように感じられなくはない。でもハルサイ後に作曲された第2・第3幕に関しては、演奏者ストラヴィンスキーの幾分刺々しい趣味がぴたりと当てはまって素敵だなと思う。第2幕冒頭の鋭い破裂音とか、ちょっと禍々しい<中国の行進>とか、ブーレーズの「上品な」演奏ではあまり映えてなかったようです。
加えて、レリ・グリストのナイチンゲールが素晴らしい。第3幕で「音楽を!」と叫ぶ皇帝の前に、何の脈絡もなく突然現れて歌いまくるわけですが、低音から高音まで透き通っていて無生物的な美を振りまいています。死神との掛け合いもいいなあ…。

《マヴラ》については、、特にコメントすることがないかなと。。
新古典期のほぼ最初に作曲された「オペラ・ブッファ」で(!)、ブルジョワ風刺、オペラ・ブッファ風刺、しかしプーシキンを土台にした台本を持つことからロシアの作家へのオマージュでもある、という謎の作品です。
母と娘がいる。娘は隣に住む男と恋仲で、一緒に住むために男を女装させ、マヴラという偽名を使わせてメイドとして雇う。しかし母娘の外出中にヒゲを剃っているところを見つかってしまった男は、そのまま窓を蹴破って逃走、幕。という実に他愛もないストーリーです。音楽のほうも《結婚》と《プルチネッラ》を足して4で割って物凄く俗っぽくしたような、他愛ない響きがしています。全集でなかったら聴かないなあこれは。。

【今日の伴奏者】
■アンセルメ/スイス・ロマンド管(DECCA)
⇒選集の中に《マヴラ》が収録されてました。。意味づけや深読みを拒否するような素っ頓狂な響きが…きっと彼らの特徴なんだと思う。でも歌手たちは自作自演よりずーっっと真面目に歌ってて、「オペラ・ブッファ風刺」という意味ではこちらのほうが一枚上手かもしれません。
by Sonnenfleck | 2007-11-12 06:46 | パンケーキ(20)

今日は朝からストラヴィンスキー(13)

c0060659_6571629.jpg【DISC13…CHAMBER MUSIC & HISTORICAL RECORDINGS VOL.2】
●デュオ・コンチェルタンテ(1932) ※
→ヨーゼフ・シゲティ(Vn)
●イ調のセレナード(1925) ※
●2台のPfのための協奏曲(1935) ※
→スリマ・ストラヴィンスキー(Pf)
●ピアノ・ラグ・ミュージック(1919) ※
●2台のPfのためのソナタ(1944)
→アーサー・ゴールド(Pf)、ロバート・フィッツダール(Pf)
●Pfソナタ(1924)
→チャールズ・ローゼン(Pf)
⇒イーゴリ・ストラヴィンスキー(Pf※)

22枚組「大全集」の中で唯一、ストラヴィンスキーのピアノ演奏が聴けるのがこのDISC13。
ストラヴィンスキーにとってのピアノって一体何だったんだろう。。

まず独奏曲であるイ調のセレナードPfソナタ。これらが作曲されたのは《プルチネッラ》と《ミューズ...》の間、いわゆる新古典期のことです。ほぼ同時にPfと管楽器のための協奏曲が生み出されているあたり、一瞬ピアノへの興味が湧き上がったのかもしれない。
しかし鳴っているのは、これ以上ないだろうというくらい空虚で荒涼とした音楽であります。
それでもイ調のセレナードはまだ「セレナード」という皮をかぶっているので、幾分かは抒情を感じさせます(第2曲〈ロマンツァ〉とかまだ許容できる)。でもPfソナタのほうは、「簡素」と言うにしてもあまりにもあっけなく、、どうしてもマイナスの感情が「空疎」という言葉を連れてきてしまう。旋律も和音も虚ろで、とにかく極端に音が少なくて、モビールが風に乗ってくるくると運動しているような「動き」しか聴き取れないんですね。

ただし、何度も何度も繰り返し聴いていると、そのうち「動き」に耳の焦点が合ってくる。
そうなるとです。
ここに提示されている「動き」というのは、もしかしてストラヴィンスキーの管弦楽作品の「器」なのではないかという考えが浮ぶ。譬えると、ここに置いてあるのは空の弁当箱であって、ここにおかずやご飯を盛り付けていくことで立派な分厚い幕の内弁当が出来上がる―。そういうものなんじゃないでしょうか。
「器」そのものだと思えばフォルムを鑑賞するのは当然のことだし、もし必要があれば聴き手のほうで「おかず」が盛り付けられた姿を空想すればいい。合点がいく。。作曲家ストラヴィンスキーにとって、ピアノは「器」を制作するための道具だったのか。
2台のPfのための協奏曲2台のPfのためのソナタは、そうなると幕の内弁当の二段重ね(ただし中身なし)だと思えばいいのでしょう。でも4手になることで旋律や和音の要素が若干上乗せされているような気もするので、あるいはごつい手触りの陶器と華やかに絵付けされた磁器の違い、くらいは言ってしまってもいいのかもしれません。

そういうわけで、デュオ・コンチェルタンテだけがこのディスクの中で浮いています。ヴァイオリンという贅沢な「おかず」が「器」に盛り付けてあるんですからね。ただ、物凄~く久しぶりに聴いたシゲティの音はやっぱり超ストイックで…アジの開きというよりは高野豆腐かな。
by Sonnenfleck | 2007-11-05 07:00 | パンケーキ(20)