人気ブログランキング |

タグ:ドホナーニ ( 13 ) タグの人気記事

on the air:ドホナーニ82歳、タングルウッド75周年を祝う@タングルウッド音楽祭'12(7/6)

c0060659_11185892.jpg

【2012年7月6日(金) 20:30~ クーセヴィツキー・ミュージック・シェッド】
<ベートーヴェン>
●《レオノーレ》序曲第3番 op.72b
●交響曲第6番ヘ長調 op.68《田園》
●交響曲第5番ハ短調 op.67
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/ボストン交響楽団
(2012年7月7日/WGBH Classical New England生中継)


タングルウッド音楽祭2012のオープニングコンサート。75年前のこの夜、クーセヴィツキーが振った同じプログラムを、ドホナーニが振ります。ということで久々のドホ爺ネタ。

+ + +

最近しばしば考えるのは、ドホナーニがやるような様式のベートーヴェンは、われわれの多くが気づかないだけで、もうすぐライヴでは聴けなくなる可能性が相当高いということである。

モダンオーケストラの機能を全開にした《田園》の音響の美しさよ。
この美しさは、五線譜の行間が拡張されて、増強されて、加重された結果なので、まったくナチュラルではないかもしれないが、ナチュラルなものだけが美しさのすべてではないのだ。それでいて清冽な透明感をまったく喪わないドホナーニ先生の手綱捌き、これが全然衰えていないのが確認できたのは慶賀の至り。
ドホ爺のものと思われる鼻歌が随所で聴かれる。萌えである。

第1楽章再現部の貴族的な高血圧、第2楽章での自信満々な低弦の勁さ、同じ楽章のおしまいに登場する「義体化カッコウ」、きわめて観念的な第4楽章などは、この交響曲が持っている複雑な性格を浮き彫りにしている。
ベートーヴェンの作品たちを18世紀交響曲の終わりとして見るのがフツーであるのと同じくらい、これらを19世紀交響曲の始まりとして捉える視座も、僕たちは忘れてはいかんのだと思う。ほんとに思う。

燦爛と輝く第5楽章の威力に恐れをなしつつ(omnipotent!!!)休憩。

後半の第5交響曲も、一貫して同じ哲学が底部にある。
第3楽章からまっすぐに伸びた高張力鋼のようなブリッジ、全曲における第4楽章の明確な優位性、ボストン響の高雅な音色、そしてもちろんドホナーニ好みの清冽な響き。どれをとっても第一級の20世紀中後半様式なのさ。いいね。とてもいいね。
by Sonnenfleck | 2012-07-15 11:20 | on the air

on the air:ドホナーニ/ボストン響の生中継を聴く。

c0060659_18133225.jpg

【2011年1月29日 20:00~ ボストン・シンフォニーホール】
●リゲティ:FlとObのための二重協奏曲(1972)
→エリザベス・ローヴェ(Fl)+ジョン・フェリロ(Ob)
●モーツァルト:Vn協奏曲第4番二長調 K218
→アラベラ・シュタインバッハー(Vn)
●ドヴォルザーク:交響曲第7番ニ短調 op.70
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/ボストン交響楽団
(2011年1月30日/WGBH All Classical生中継)

おかかさんのウェブラジオ番組表をありがたく眺めていたら、ドホナーニのライヴが中継されることに気がつき、慌ててWGBHにアクセス。この両者、CD脳からすると見慣れぬ組み合わせですが、定期やタングルウッドではちょくちょく共演しているみたい。僕はこのカップリングは初めて聴きます。

+ + +

まずリゲティの、Fl+Obダブルコンチェルト
ここ1年ほどでバルトークへの個人的親和が急激に高まってからというもの、リゲティの中の「バルトーク性」にも同じような強い共感を覚えるようになっている。
この作品も第1楽章、まずはクラスター風のゆったり模糊とした弱音の漂いに惹かれる。確かに都市的な緊張感もあるが、それとは矛盾して土や草の強い香りもする。緩やかにグラデーションが移り変わる。とても微細で素敵なグラデーション。そして、どこまでも丁寧な音色の捌きかた。ドホナーニらしい。

二人のソリストも、このように視覚効果がなければ、オーケストラの薄さも相まってソロには聴こえない。第2楽章は微細グラデからもう少し動きが出てくるけど、ハルモニームジークみたいな趣き。かわいらしいナンバーでした。

続いてモーツァルト第4Vn協奏曲
実は、生まれて初めて生で聴いたヴァイオリン協奏曲がこの曲でしてね。以来これまで偏愛。したがってドホナーニの指揮でこれが聴けるのは望外の喜びだねえ。
第1楽章のマーチ風主題を聴くだけでもう、その仮借なくエレガントなリズムの踏み出し方に心を鷲づかみにされてしまう。ドホナーニ先生のモーツァルトの美点のひとつが、リズムが絶対に後ろに倒れないのに、別段急いでいるようには聴こえない、その魔法のような時間感覚なのだが、今回もそれがよく聴き取れる。先生も最近、でかいシンフォニーばっかり振ってたけど、モーツァルトを振ると今でもこうしてくっきりとした時間造形になるんだな。すげえな。

第2楽章の、野の花のような透明感、、いや、これなんですよ。ドホナーニを聴いていて幸せなのはこういう瞬間。冒頭の清楚な響きもよかったし、ソリストのカデンツァを受け止めて柔らかい花弁が開くような絶妙なルバートにも身もだえする。
ピリオド以前のモーツァルトのいいところだけが、高圧下に結晶化してきらきら光ってるような感じがするよね。もう20年くらいしたらこういう演奏が大絶賛されるようになって、こっちの方向に揺り戻しがくるんじゃないかと密かに思っている。

ソロのシュタインバッハー嬢は右手の線が華奢で、それがために、主張の強いピリオドアプローチに触らずにこの曲のようなピースフルなパッセージを弾いているといかにもお稽古的で、物足りなさが残るなあ。



休憩後、ドヴォ7。ドホナーニ先生の十八番ですな。
うーん。
なんだか実体感が薄い。思念の音楽みたいになっているぞ。。
WGBHのビットレートは中程度なので、前半みたいに編成が薄い作品だとあんまり気にならなかったけど、こういう厚いロマン派交響曲には向かないのかもしれん。だといいな。第2・第3楽章の寂寞としたさま、特に後者、中間部から主部に帰ってくる局面でのすべすべした移行には、生きる活力のようなものが完全に失われている。いやはや。

…これ、ビットレートのせいじゃないな。第4楽章もどことなくおかしい。
フレーズが浮き上がるジャンプ力みたいなものが、音が沈み込んで消える作用に負けてしまっている。前述のようにリズムが絶対に後ろに倒れないし、響きも往時と同じようにきゅっと引き締まっているので、音のない空隙の存在感がよけいに増しているんだな。
こんなに静かな音楽になってしまったら、このあとはもう行き止まりじゃないか。。モーツァルトは特に変化を感じなかったけど、ドヴォルザークがこういう状態では、ブラームスやマーラーなどいったいどうなってしまってるんだ。。
2011年のドホナーニ、追わねば。
by Sonnenfleck | 2011-01-30 18:32 | on the air

ようやくドホナーニのマーラー9番を聴いた。

c0060659_13132468.jpg【DECCA/289 458 902】
●マーラー:交響曲第9番
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/
  クリーヴランド管弦楽団

おっCD感想文久しぶりじゃね?的な?

「このブログのキャラクタだからきっとこのCDのこと書くでしょう?」という、傍から見たらそんなことどうも思ってねえっつうのというジジョージバク。この数ヶ月、縄抜けしたつもりになっていたけど、むしろその空白の辛さによって、この強迫観念を自分の力で断ち切るのは無理であるとの結論に達した。断ち切るよりはもがき苦しんでも何かを書いて、乗り越えていくよりほかにないのかもしれない。だからこの演奏のことを書きます。

+ + +

僕がこの曲の中身をちゃんと知ったのは、FMから流れてきたケント・ナガノのライヴと、それからラトルとギーレンのCDだったから、見事にドライなテクスチュア好みに育った(と自負)。
それにしてもこのドホナーニは、ドライマラ9好みの僕でもかなりビビるほど大気が乾燥している(特に真ん中の二楽章に関して)。これまでに聴いてきた一連のドホナーニ録音群の中でも異色の乾燥ぶりと書いてしまいたい。

ウェットな曲づくりは何がウェットを感じさすのかと言うと、まあ要素はいろいろあるけれども、僕は第一にフレーズの収まるところに湿り気を感じる。
各フレーズのしっぽに吐息のような余韻が残っていると、次のフレーズの立ち上がりにその余韻が微妙に重なって襞ができる。さらに、特にオーケストラであれば、楽器ごとのズレは無くなりようがないから、フレーズしっぽ自体にも襞がある。これによって何層もの重なりが湿気に富んだテクスチュアを形づくるというわけ。
(蛇足ながら、湿度には演奏のスピードは関与しないように思う。速くて湿った演奏も、遅くて乾いた演奏もある。)

+ + +

ドホナーニのマラ9は、この人らしくフレーズの設計が隅々まで行き届いて、一片の破綻もない。気になるフレーズしっぽには、憎たらしいことに、余韻の襞まで「設計」されている。
マーラーの懊悩に付き合うことなんて端からドホナーニの頭にはない(この録音を聴いて「苦しむマーラーの姿が表されていないといえよう!」とか言っちゃうのはマヌケです)。ネジやバネや歯車が噛み合って運動しているところに、私小説的なのけぞりや不幸の涙や洟が生じるわけがないんですもの。その意味で第2楽章第3楽章の、触覚に訴えてくる機械的な美しさには心底驚嘆する。ことに後者なんか、ブルレスクに縋りついてでも生きたい作曲者を完全に無視して、テクスチュアで遊んでしまう非道の演奏でありましょう(こりゃまさに二重ブルレスク)。

この作品は両端の二楽章と真ん中の二楽章が別物すぎてさぞかし設計に苦労するんだろうなあと思うんだけど、この録音の第1楽章は乾きと湿り気のバランスが素晴らしい。フレーズとフレーズの連結部分はしっかりしているのにわざと曖昧にぼやかされているので、フレーズたちは間接照明のようにぼうっと暗い部屋に浮んでいるような具合。泣いたり絶叫したりする演奏がお好きな方はここに近寄ってはいけないかもしれない。

第4楽章だけは、湿った旋律美の図面がシンプルに選択されていて興味深い。フレーズしっぽごとに設計されている襞が急に厚くなって響きが前方に滑らかに流れ出す様子が、真ん中の乾ききった二楽章との著しいギャップを形成している。これは、ウソっぽいくらい超高級なクリーヴランド管の弦楽合奏がいい味を出しているとしか言えず、コーダの薄氷のようなpppには、他の演奏では味わい難い冷たい緊張感があります。

+ + +

150→100の初めに。
by Sonnenfleck | 2010-01-11 13:18 | パンケーキ(20)

構造特性

c0060659_6204775.jpg【DECCA(TOWER RECORDS)/PROA244】
●モーツァルト:交響曲40番ト短調 K550
●同:同第41番ハ長調 K551 《ジュピター》
●ウェーベルン:変奏曲 op.30
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/クリーヴランド管弦楽団

交響曲第40番は、モーツァルトの何を表しているんでしょうか。クラを聴き始めた当初からこの点がわからなくて、いまだにこの曲には心を許すことがないのです。古来言われている通り、モーツァルトはト短調に慟哭を込めているのでしょうか。悲しみが疾走しているのでしょうか。もし、仮にそうだったとしても、音楽家はト短調物語の全面支援を受けたストーリーテラーたるべきなのでしょうか。

物語性に価値を置くこと自体を批判するわけではまったくないということを、あらかじめお断りしておきます(僕だってショスタコーヴィチには物語を求めるもの)。しかし、それにしたってモーツァルトの40番は、この曲だって「鳴り響く構造体」には違いないのだが、興味深いことにモダンもピリオドも方法を問わず、スポンサー「物語」の意向からは全然逃れ得ていないんじゃないかと思うのです。―でも、例外的にこういう演奏があった。

はたしてドホナーニの下、クリーヴランド管の高級感のある響きは冷え冷えと磨き上げられ、意味ありげな素振りが窺える局面はほぼないと言っても言い過ぎではありません。ト短調物語のファンからしたら、この演奏はきっと冒涜的に聴こえると思う。
若干、あり方が似ているカラヤンと決定的に違うのは、「<泰西古典名曲>というストーリー」すら存在していない空っぽ状態である、という点でありましょう。そうしてその空っぽ空間を、音楽の響きそのものがたっぷりと柔らかく満たしているわけだ。ドホナーニのブルックナーを無目的的とする評論もありましたが、しかし「意味」や「らしさ」の補助輪が、クラシックの聴取にいつまで必要なの?というふうに自分は感ずるわけです。それそのものを作りこむことに神経を傾けている音楽家の存在に、いつまで気がつかないでいるのだろう?

で、90年代初頭の僕はクラシックなんか全然聴いてなかったから無責任にこんなことが言えるんですが、どうしてこの演奏は「発見」されずに埋もれたんだろうか。少数のリスナーには「発見」されていたけど、マジョリティ以外の声はレコ芸世界に浮上しにくかったのかもしれない。20年近く経って、可能性が細部までマニアックに追求され続けた今日においても、第40番をこのように澄み切った音響体として捉えた演奏には出会えてなかったですからね。

+ + +

第40番の純な音響に比べると、《ジュピター》はもう少しリラックスしている。
で、ウェーベルンの変奏曲は信頼の美しさ。モーツァルトの骨格標本みたいです。
by Sonnenfleck | 2009-06-11 06:34 | パンケーキ(18)

ハルニクラス―春のグラス

c0060659_6203597.jpg【DGG/437091】
●グラス:Vn協奏曲
●シュニトケ:合奏協奏曲第5番*
→ギドン・クレーメル(Vn)、ライナー・コイシュニク(Pf*)
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ
  /ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

グラスのコンチェルトは緩急緩の3楽章で書かれていて、ミニマルとネオロマンティシズムの間を悠々と漂っているような、いかにもこの作曲家らしい作品です。3月末には、これをiPodに収めて外を歩くにはまだ寒すぎるなあという日々が続いてエントリできない状態だったわけですが、ここ数日はようやく風の匂いも春らしくなって「まさしく今」であります。あとちょっと暖かくなってもダメだと思う。

これはドホナーニ先生とウィーン・フィルの作り出している音響が、あまりにも繊細を極めているというところに理由がありましょう。感覚をぎゅっと押さえ込んでいた冬から、感覚を開放する方向へ転換した春のスタート地点であれば、この繊細な音響を十分に感知できそうなのです。感覚の開放に慣れてしまったら、わざわざ外に持ち出す意味がなくなる。冷暖房の効いた暗い部屋で聴いていたらいい。
ある方たちにとっては外でのリスニングは邪道中の邪道かもしれませんが、ここでも書いたようにディレクターとしての「外」は案外新しいものを提供してくれるので、そのディレクターがやり方を変えた瞬間、そして受け手も排他性を弱めた瞬間、音楽を中心としながらも色々なものが交錯して何かが生まれる。慣れない音楽を外に、しかも季節の変わり目にあえて置いてみるという作戦は、これまで自分の中では多く功を奏しています。

第1楽章の、花の香りがふうっと漂ってくるような柔らかな音響には驚きます。これは管楽器軍団を中心としたこのオーケストラのポテンシャルによるのだろうけど、同時に放恣になりすぎない制御をドホナーニが加えているのかとも思う。そこを裂いて入ってくるクレーメルの音は苦々しい。
憂鬱なる第2楽章はまさに花曇りの音楽と言ってよいでしょう。今度はオケもソロも、湿気のこもった感傷的な音を滴らせるだけ滴らせています。展開の弱いミニマル・ミュージックの佳さはこういう達人たちによってこそ活きるよねえ。美しい。。
東風と春雷のような運動性が面白い第3楽章。響きの消し方の美しさは、マーラーやシューマンでも聴かれているドホナーニならではのもの。

+ + +

シュニトケは風貌が冷え冷えとしすぎるので、今回はノータッチとさせてください。外で聴いていてもグラスが終わったら再生を終えてしまいますから。。夏になるところでまた。。
by Sonnenfleck | 2009-04-09 06:22 | パンケーキ(20)

初心38+ラグジュアリー39

c0060659_6412929.jpg【DECCA(TOWER RECORDS)/PROA242-6】
●モーツァルト:交響曲第35、36、38-41番
●同:セレナード第13番ト長調《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》
●同:VnとVaのための協奏交響曲変ホ長調
●同:管楽協奏曲集
●ウェーベルン:管弦楽曲集
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/クリーヴランド管弦楽団

ドホナーニ先生の魅力に気づいてから、どういうわけか廃盤だらけの彼のディスコグラフィーを辿り、いろいろと集めてきました。その中でも本当に影も形も見当たらないディスクもいくつかあって、具体的には《ラインの黄金》とか《ワルキューレ》なんか本当に存在してるのか自信がなくなってきたんですが、このモーツァルト+ウェーベルンの組物も探し当てることがまったくできなかった一品。もーう神様塔様ですよ。コンドラシンの《バービィ・ヤール》といい、どうしてあんなにも的確にこちらの萌えポイントを突いてくるんだろう?

取るものも取りあえず、まずは鍾愛の《プラハ》と39番を。。

c0060659_641435.jpg【DISC2】
●モーツァルト:交響曲第38番ニ長調 K504 《プラハ》
●同:同第39番変ホ長調 K543
●ウェーベルン:5つの小品 op.10
●同:交響曲 op.21

《プラハ》、この曲を初めて聴いたときのことを思い出していました。あのフレーズこのリズム、一体次は何が飛び出してくるのか?―正確に言えば、あのフレーズこのリズムをドホナーニがどんなふうに捌いていくのか、それを聴き取っていく作業に物凄い興奮を覚えてしまった。こんなことは滅多にない。
余計なアゴーギクをつけるなんていうことは絶対にせず、与えられたスコアを純粋に音化していくのがドホナーニ流モーツァルト。第1楽章主部への進入が電撃的に美しく(ここが聴けただけで満たされる)、また展開部へかけて真っ青な空のように恐ろしく純真な響きがしていて、これはその意味ではアバド/オーケストラ・モーツァルトと双璧をなしているということに気づきます。やっぱり自分が好きなのはこういう方向なのだ。
第2楽章は贅を凝らした調度品が整然と並ぶ廊下を散策するようですね。調度品の一つ一つは小ぶりですが、その配置のバランス感覚といったら。響きの結合はあくまで謙虚…でも自然に解れる一歩手前で、あるかなきかのような薄い膜で包まれている。完璧な秩序の下に設計された音響デザインに気づかず(あるいは価値を見出さず)「死んでいる」とか書いてしまう一部のヒョーロンカ先生方がとても気の毒です。

小股の切れ上がった《プラハ》に続くのは、こちらは浪漫水分を多めに含んだ第39番
入道雲のような恰幅のよさはドホナーニ先生ではあんまり聴かれない表現なので、かなり興味深いです。リズムもちょくちょく後ろへ凭れかかって、些事に拘らないラグジュアリーな空気感を醸し出すわけ。面白いなあ。こういうグランドマナーっぽいこともするんだなあ。
もちろんここで「些事に拘らない」のは外枠だけであって、その内部の響きはスマートにコントロールされてます。木管の斉奏なんか冗談ではなくオルガンのように聴こえますよ。

さて最後のウェーベルンの交響曲が、常ならずメッタメタにロマンティックです。
この濃密な陰翳!モーツァルトの余白にウェーベルンがあるんじゃなく、ウェーベルンを録音するためにモーツァルトを選んだだけなのかもしれません。この演奏からは確かにマーラーの骨が聴こえるし、もっと遡ってワーグナーの余韻もあって、ドホナーニの中の水脈を探り当てたような気分。
by Sonnenfleck | 2009-01-16 06:41 | パンケーキ(18)

ふわとろブラムース(柑橘系)

c0060659_62117100.jpg【Signum/SIGCD132】
●ブラームス:交響曲第2番ニ長調 op.73
●同:同第4番ホ短調 op.98
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/フィルハーモニア管弦楽団

ドホナーニの過去の名盤たちを集め切るなんて、魅力発見後発組の僕にはムリな気がしてます。全然見つからないもん。

じゃあ新譜を攻めるしか。ついに新譜出ました。フィルハーモニア管+Signumで。
ドホナーニ先生の純粋な新譜っていったい何年ぶりになるのだろうか?15年ぶりくらい?
幸せを噛み締めながらディスクを取り出して、トレイに乗せます。

去年の5月に聴くことができた北ドイツ放送響とのブラームスの比較的太い響きをイメージしていたので、第2番はその軽やかな音響に唖然としました。正直言って。
しかし、この静謐で爽快な縦方向繊維質は、まぎれもなくあのとき耳にしたドホナーニの采配ぶり。そこへフィルハーモニア管のアクの少ない音質が加味されて、背すじを刷毛ですすすと触られるような快感があります。引っ掛かりやササクレを悪用するんではなく、このように全面的に自分を信じて作為のかけらもないストレートな運動を追求したブラームスって、懐疑が第一義とされる今日、滅多に聴けるものではないと思う。
第2番で言えば第3楽章なんか。
各パートの運動はこれ以上ないくらいデジタルを極めているのに、そこから紡がれてきた繊維質のふわふわとした柔らかさときたら!いったいこれは!
第4楽章も凄い。ブラームスのスコア上には古典的でシンプルな運動体がいくつも重なっているだけだというのがよくわかるし、そのうえさらに、横に運動していく形状たちが「耳にも心地よい」折り重なりを形成しているっていうのが僕には信じられない。コーダであんなに柔らかい音を出しながら姿勢がまったく崩れないなんて…。超一流のアスリートのようだ。

それに比べると第4番は、もう少し、滴るような浪漫水分を含んでいるようです。
運動体の種類や形や長さや色合いが、第2番よりもずっと複雑に入り組んでいる。おそらくそのまま第2番と同じように重ねていくとぶつかり合いが生じて、運動体同士がくっついたり、あるいは角が欠けたりしてしまうんだろうと思うんだけど、ここでは運動体と運動体の隙間に適度な水分を含ませているのがドホナーニ流です。
ほんの少しだけ手綱を緩めて、音響空間に余裕を持たせているのが巧い。
そしてそれだけじゃなく、耳に気持ちいい、耳に快感なのがまたいいんだ。悶絶ッス。

*ドホナーニ+フィルハーモニアのウィーン公演を聴かれた蔵吉さんのエントリ(メンデルスゾーンとブラームス、それからベートーヴェン)もぜひご覧下さい!
by Sonnenfleck | 2008-08-29 06:22 | パンケーキ(19)

狂気のない狂気

幻想交響曲がメインに据えられた、ティエリー・フィッシャー登板の次回名フィル定期。
行けないことが正式に決定いたしました。ががーん。
悔しいからドホナーニ聴いたる。

c0060659_865376.jpg【DECCA/POCL5166】
●ベルリオーズ:《幻想交響曲》 op.14
●ウェーバー/ベルリオーズ:《舞踏への勧誘》
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/クリーヴランド管弦楽団

ドホナーニならなんでも誉めるんかよ?な感じを皆さんに与えているかもしれませんが、それはいいなと思ったものしかここには書いてないからです。この前聴いたバルトークのオケコン+弦チェレはキレイすぎてちっとも面白くなかった。バルトークにはある種の凄惨な色使いが必要だと思うんですけど、それから巧妙に逃げてましたもん。スマートだけどずるいよな。

さて幻想交響曲ではそのキレイさが思いっきりプラスに働いてます。
第1、第2楽章は本当にキレイで嘘くさい。よくあるじゃないですか、猟奇殺人の真犯人がスマートで人当たりのいいナイスガイだった、ってやつ。あれです。しかも犯人と誤解されるべき狂気に燃える芸術家青年がここにはいません。いないのが気持ち悪いのです。
第1楽章では冒頭の主題で弦を抑制させるかわりに木管の爽やかなアンサンブルが前面に出して、イデーフィクスの扱いなんか手馴れたもの、そのまま白い歯を見せて苦悩することなく連れて行ってしまいそうです。第2楽章では弛緩しない誠実なテンポを設定し、上手なコルネットが舞踏会の美女を惹きつけて、最後の固定楽想は蕩けるようで、、、嫌だ、、完璧すぎる。比較的似ていると思われるデュトワですら、ここまで嫌味なく善人を演じることはない。。

この演奏で最も面白いのは第3楽章。ここでキレイさが古典的な佇まいと結びつく。
最初の<羊飼いの対話>は誰がやってもあんな感じですが、中間部の古風な折り目正しさからシューベルトを連想しました。中間部の頂点である金管とティンパニの咆哮もあっさりした「ポーズ」として軽く流されちゃうし、この後ベルリオーズが標題性の方向へ進まなかったら、こんなアダージョが据えられた交響曲第2番を書いていたのかもしれません。この曲を聴いてこんな思いに至ったのはこれが初めてだなあ。遠雷の2丁ティンパニもとことん明晰に鳴っていて、何かを描写しているとは到底思えない。

さて虫も殺さぬような顔をした好青年が(そのままの顔で)いよいよ破局に向かって走り出します。第4楽章の行進曲ではクリーヴランド管の圧倒的なアンサンブル能力が全開になって、スマートなイケメンマスクに狂気がじわりと染み出してくる(いくらなんでも揃いすぎ)。第5楽章では「サバトで変容した」イデーフィクスがまさかのノンリタルダンド!変な表情がついたりということもなく、全然グロテスクじゃないのが逆に物凄くグロテスク。あえて期待のハシゴを外すのって、ドホナーニがけっこうよくやる企みですね。
でも「怒りの日」の鐘以降、にわかにトゥッティが粘ついてくる様子が鮮やかです。
それでも小節線が溶けたりはしないので、好青年ついに正体を現して最後の大悪事、という感じ。華麗な最期を迎えるも―アンサンブルは腹立たしいくらい秩序立ったまま。。
by Sonnenfleck | 2008-06-29 08:12 | パンケーキ(19)

シト変容

c0060659_75168.jpg【DECCA/POCL-1218】
<R. シュトラウス>
●交響詩《ドン・ファン》 op.20
●《メタモルフォーゼン》
●交響詩《死と変容》 op.24
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/
  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

「ヱの字<序>」のDVDが出たみたいで、ちょっと興味があります。まあいいけど。

さて、こつこつ蒐集中のドホナーニ。オケの美感が厳しく要求されるシュトラウス作品集が、上前津のサウンド・ベイ・リパブリックに転がっていました。まだ店頭にあるんだなあ。ヤフオクではそんなに珍しい出物でもないようだけど、実物を探し当てる楽しみは大きい。
1989年の録音ということは、D先生とVPOの関係がフツーであった最後の頃でしょうか。
shuさんtakさんも軒並み高評価を与えておられる演奏なので、固唾を呑んでPLAYボタンを押してみましたが、、なるほどねえ、、こりゃーいいわー。

《死と変容》に大推薦マーク。
冒頭の苦々しく切ない後悔が心にしみます。ドホナーニは音が拡大しすぎないようにきつく手綱を締めていますが、それでもクリーヴランド管に比べると奏者自身の裁量に任されている領域が広いみたいで、VPOの甘い香りがあちこちから立ち昇っている。「甘苦さ」こそ音楽が表現しうる最高の感情のひとつでは?
ティンパニの一撃で主部に突入してからは、例によって流線型のフォルムでもって音楽が後ろにビューンと飛び去っていきます。ただしこの演奏で興味深いのは、(録音コンディションのせいかもしれないが)いつものドホナーニではあまり聴かれない響きの混濁があるというところ。特に最初の「変容」の主題近辺で顕著なのだけど、これはこれで味わいがある。VPOからの要求が想像されますね。
2回目のティンパニアタックの直後、ほろほろほろっ...と音符が抜けていく瞬間が絶美であり、総括するようにゆったりしたテンポで「変容」の主題が現れるところでは、涙腺が刺激されて困ります。響きを美しく抜いていくテクニックは、ドホナーニの必殺技!

《ドン・ファン》はちょっと引き締めすぎかなあ。
一方で《メタモルフォーゼン》は予想外に透明を極めていて驚きました。やけに明るい響きをしているのが物凄く効果的。ラヴェルみたいに聴こえる。
by Sonnenfleck | 2008-05-13 07:06 | パンケーキ(20)

僕は視る人形

c0060659_636063.jpg【DECCA/476 2686】
●ストラヴィンスキー:《ペトルーシュカ》
●バルトーク:《中国の不思議な役人》
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/
  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

うーむ。またドホナーニ。
「推薦」連発してるレコ芸のセンセイみたいな気分。

ですが、ドホナーニはここでもずいぶんと素晴らしい仕事をしているので、またしても「いい!」と言わせていただきます。仕方ないですわ。

この2曲が録音されたのは1977年の12月でありまして。
ヒストリカルをほとんど聴かず、クラにまつわる「脳内補正神話」みたいなものが好きでない僕としても、こんな響きを証拠として提出されたら、ウィーン・フィルがこの時期にあってもその独特の響きを維持していたらしいことを認めないわけにはいきません。木管のソロからトゥッティの爆発に至るまで、どこもかしこもこってりとした美音。
そんな状況で、今の彼のやり方にまっすぐ通じるような、恐ろしく精密で非人間的なリズムや縦の構造を実現してしまったことで、若き日のD先生はきっと団員から蛇蝎のごとく嫌われたことでしょう。これはさぞ激しいリハが繰り返されたのだろうと勘繰りたくもなります。

基本的なテンポ設定は速くはありません。速くないけど、響きが消えていくところにやはり気を遣っているようなので、もたれたりはしない。
美しい響きが充満している中で、特に第3部と第4部の充実には目を見張ります。前者ではムーア人とバレリーナが一緒に踊る場面がまさに「痛ましく」演奏されていて、ため息が出ますね。見せ付けられる者は、空しく苛立ちつつ美に見蕩れるという屈折した感情を持つわけで。この曲がった愛と痛ましさはまさしくミシマの世界。
で、そんな密室などなかったかのように、華やかな謝肉祭が第4部で描写されます。
〈熊を連れた農民〉から〈商人と二人のジプシー娘〉にかけての30秒間、目も眩むような響きが構築されてます。どこか一箇所聴いてほしいとしたら、ここ。

せっかく豪ユニバーサルが覆刻してくれたのに、たぶんすでに廃盤。
入手は困難ですが、探す価値大有りです。あ、もちろん《マンダリン》も色気のある演奏。
by Sonnenfleck | 2008-03-07 06:39 | パンケーキ(20)