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ハイティンク/ロンドン響|ブリテン、モーツァルト、ベートーヴェン@サントリーホール(3/9)

いろいろな切り口の「ベスト体験」があっていいと思うけれども、「音楽それ自体」に限りなく接近したという意味で、僕はこの日、これまでで最高の経験をしたと断言できる。今日まで音楽を聴きつづけてきて本当によかったと思う。

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c0060659_23342183.jpg【2013年3月9日(土) 14:00~ サントリーホール】
●ブリテン:《ピーター・グライムズ》~4つの海の間奏曲
●モーツァルト:Pf協奏曲第17番ト長調 K453
→マリア・ジョアン・ピリス(Pf)
●ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調 op.92
 ○メンデルスゾーン:《真夏の夜の夢》~スケルツォ
⇒ベルナルド・ハイティンク/ロンドン交響楽団


後半のベートーヴェン、第1楽章ですでに、僕は座席の上で硬直していた。

これまでに聴いてきたベト7は、この午後にハイティンクによって実際に開帳された「音楽」の劣化した影か、過度に装飾された写しでしかなかった可能性がある。「演奏」ではなく「音楽」と書いたのは、演奏者や指揮者の刻印がそこから完璧に消えていたから。
「演奏」を研ぎ澄ましていった先の最終形態が「音楽」だとすれば、あの瞬間に(恐ろしいことに)ベートーヴェンの姿さえ透過していたのが観測されたことも何らおかしくない。あそこにあったのは旋律と和音と拍節のただひたすら心地よいつながり、言ってしまえば「音楽のイデア」みたいなものだった。

僕は普段(「僕たちは普段」でもいいのかはわからないけど)、ある「曲」のことを知っていて、いつでも頭のなかで再生できる「曲」を基準に、あるときどこかで聴いた演奏について「こいつは愉しいフレージングだ!」とか「ここは演奏実践の失敗だ…」とか考えている。

でもハイティンク/ロンドン響のベートーヴェンは、普段は実在しないはずの概念としての「曲」が、信じがたいことにそのまま目前で展開されるという、イデアの降臨としか言いようのない体験だった。快感に恍惚。そして第4楽章のコーダでは、イデア界への扉が音を立てて閉まるような圧倒的な絶望感が快感のなかに混信してきて、もう何が何だかわからない。
いや、正確には、すべてわかったと書いたらいいのか。あれは自分の頭のなかでまた鳴らすことができるような気もするんだよね。実際。

+ + +

2003年の「スーパーワールドオーケストラ」、2009年のシカゴ響に続き、ハイティンクを生で聴くのはこれが三度目だったのだけど、過去の二度はここまでの感覚を得たことはなかった。
いま極端にレパートリーを絞り込んできている彼は、イデアの在り処や呼び出し方をよく知っている作品だけを選んで振るようになっているのかもしれない。つまり磨き上げられて僕たちに供されるのは、最上の普通。この最上の普通に辿り着くために、どれほど多くの指揮者が時間と労力を欲しているのだろうか!

かたやロンドン響は、この週の他公演でアンサンブル荒れ気味という感想がTwitter上で散見されていたのでちょっと不安だったんだよね。
でもピーター・グライムズ、じゃなく「4つの海の間奏曲」が始まってすぐ、オケの機能に不満を持つ必要がないことがわかってほっとする。

冷たく湿った良好なブリテンだっただけじゃなく、ハイティンクの要請に応えて各パートが無数のギアチェンジを行うことで、整然と柱廊が組み上がっていくような巨大な音響も確保される。
よく鳴っているだけでなく、フォルムもくっきりとしていて実に気持ちよいわけだけど、そしてブリテン音楽の場合はそれが「ブリテンらしい居心地の悪さ」へとつながってゆくのだった。このまま第1幕が始まったらいいのに、と思ったひとも客席には多かったことだろう。

モーツァルトの協奏曲はあまりにも心地よくて(またベト7とは違い、自分の頭のなかに再生可能な「曲」がなくて)うとうとしてしまったので、感想を書く資格がない。ただ、ピリスの打鍵が瑞々しく、力が抜けているのに力強い、不思議な雰囲気を示していたことは記しておきたい。ハイティンクのサポートも実に温かな音色だった。ような気がする。

+ + +

こんな感想文はオカルトのカテゴリに分類されたって文句は言えない。でも、賛意を示してもらうどころか共有されたいという気持ちもあまり強くはないのです。「音楽」を聴いて心の底から驚嘆したので、そのことについて書いた。
by Sonnenfleck | 2013-03-10 00:43 | 演奏会聴き語り

ぼくのマーラーはじめてものがたり(5/18)

この日がマーラーの没後100年にあたる。5月17日の夜にちゃんとCDをリッピングしてiPodに仕込んだのだ。
僕が初めて聴いたマーラーは、亡くなった祖父が自分のCDコレクションからくれて寄越した、ハイティンク/コンセルトヘボウ管の《巨人》。PHILIPSの臙脂色ラインと、ジャケットの色づかいがシックでしょ。

初めて聴いたマーラーは、奥行きと広がりのある音楽であった。ベートーヴェンもモーツァルトもいいけれど、マーラーは表現したい事柄がずいぶん違うようだった。しかしこの演奏だから、なんの苦もなく自然に、マーラー世界へ足を踏み入れることができたのだと思う。ここにプレーンの良さが極まっているのさ。

+ + +

c0060659_23293744.jpg【PHILIPS/32CD-615】
●マーラー:交響曲第1番
⇒ベルナルド・ハイティンク/
 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団




第1楽章からして、未明の小雨で適度に湿気を含んだ夏の早朝みたいに気高い。そこへ木管の光線が差し込んでくる。心底きれいだ。浮かれがちなフレーズも(おそらくはハイティンクらしい品の良い自律心で)抑制が効いてる。
夜会のランプで魅せるマーラーもたくさんあるけど、日光と素肌美人、みたいなナチュラルな美しさはこの録音で聴けるコンセルトヘボウの一人勝ち。比類がないよね。マジでね。騙されたと思ってみんなに聴いてもらいたい。

大地の歌の終楽章を思わせるほど静謐に、丁寧に、ハイティンクはこの楽章を作り込んでいる。マーラーの本質のひとつでもある稚気から、注意深く離れて。そこにオケの深い音色が力を貸しているのは自明としか言えない。

第2楽章はエレガント。
ここに差し掛かると、ケーゲルがこの楽章をとっても残忍に作っているのがいつも思い出されるんだが、ハイティンクもコンセルトヘボウも、この楽章を幻想交響曲みたいに軽めのロマンに仕立てているんだよね。
さらに、第3楽章はまるでブラームスでもやるようにくすんだ音色が美しい。
木管のアンサンブルは高級きんつばのように深い色をしながらしっとりと湿り、極上の甘い香りを漂わすのです。

さて、ブルックナーの最終楽章みたいに堅牢な第4楽章の据わりの悪さが、この演奏の面白みであり、佳きところでもあろう。と、今こそ思う。

第1楽章の革新性は、ハイティンクの天性の勘とオケのスペックの猛烈な高さで乗り切ってしまったような感じだけど、比較的古めかしい様式の第4楽章は、既存の語彙に変換された上で処理が行なわれているようです。HrやらFlやらが弦の細かな模様の上でヒラヒラするパッセージなんて、オケの音がワーグナー専用みたいに重厚なギアにチェンジされて、いかにも古めかしい。柔らかなポルタメントがあちこちに降り注ぐ様子を一言で表せば、萌えである。
by Sonnenfleck | 2011-06-23 23:38 | パンケーキ(19)

ハイティンク/シカゴ交響楽団@横浜みなとみらいホール

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みなとみらいホールはこれまで何となく贔屓にしていて、たくさんの思い出があります。新しい住み処からはアクセスが悪くなってしまいましたが。。
今日の演奏会はそのみなとみらいホールの主催。「特別協賛」でスポンサーはついてたけど、FジテレビやD和証券の時のように客層の悪化はなく、それどころか「まさしくそれを聴くために」集まってきたと思われる聴衆が多くて実によかった。予鈴(MMホールだと予ドラか)が鳴ってからの奇怪な静寂は、チケットの値段以上のものを多くの聴衆が望んでいたから、と書いたら今回は穿ちすぎかもしれませんね。

【2009年1月31日(土)18:00~ 横浜みなとみらいホール】
●モーツァルト:交響曲第41番ハ長調 K551 《ジュピター》
●R. シュトラウス:交響詩《英雄の生涯》 op.40
⇒ベルナルト・ハイティンク/シカゴ交響楽団


普段は偉そうに垂れ流しておりますが、世界に冠たるオケを聴取する体験には乏しいワタクシめ、シカゴの生はこれが初めてです。チューニング音からして独特の光沢があるのがこういうクラスのオケの特徴なのだよね。。颯爽と登場したハイティンクはかなり元気そうだ。

《ジュピター》。紛うことなき無化調のモーツァルト。またこの言い方をするのを許してもらえるなら、「20世紀が時間をかけて蓄えたある種の微妙なセンス」を温存している指揮者とオーケストラによって、まるで今世紀に対するデモ行進が為されたようでした。
もちろん編成を刈り込んでいるとは言え、厚盛りのヴィブラートを含んだ豊満な歌い口によってリズムの角はどんどんあやふやになります。ラジオやディスクで聴くとそんなに感じなかったけど、あの後ろにもたれ掛かったリズムでモーツァルトが流れていくのを聴いていて違和感を覚えることしきり。
あの贅沢な響きで、彼らは何を表現したのか?このモヤモヤは「ネタにマジレス」なのか?
確かに第2楽章の展開部や第4楽章のフガートで、この容れ物においては明らかにオーバースペックな、ブルックナーのような美しさが顕現していたけれど、こういうのをメインにして楽しむ視座には僕は到達できていない。この先到達するかどうかもわからない。

一方で後半の《英雄の生涯》は、超一流のオケでシュトラウスを聴く喜びを十二分に満足させる、懐疑の入り込む余地の見当たらない演奏。モーツァルトの様式感とシュトラウスの様式感と、比べてどちらがシカゴ響に近しいかといったら、それは自明ですわな。僕はP席に近いLAブロック、ティンパニの後ろというかホルン隊の朝顔が向く先に座っていたのだけど、ステージから1階客席の窪みに、金色の液体が波々と湛えられているような視覚的な印象すら受けました。
冒頭のホルンと低弦の強奏や〈英雄の戦場〉のクライマックスは、天井が落ちそうな大音響を至近で聴いていたにもかかわらずテクスチュアの見通しがクリアで大変驚きましたし(ヒョーロンカ先生方がシカゴ響のために好んで使う表現に誇張はない)、〈英雄の敵〉で聴かれた恐るべき木管軍団の実力、〈英雄の伴侶〉におけるロバート・チェンの鮮烈なソロ、こうしたところの贅沢な気持ち。。
ではハイティンクは何をしていたのでしょう?
〈英雄の業績〉〈英雄の引退〉、この痺れるような幸福感と匂いやかな音響が聴けたのはハイティンクのおかげじゃないかと思う。最初のモーツァルトからこの最終局面に至るまで、ハイティンクは延々とテクスチュアの整理に徹してオケの好きなようにやらせていただけのような気がするし、オケもプライドをくすぐられてバルブを全開にしていたみたいなんですね。ところがいざ最後の場面、ハイティンクの棒の動きが急にエモーショナルになってオケを強く統率し始めるやいなや、一気に夕映えのような響きに変異してしまった。魔法のような位相切り替え…御侠なヤンキーオケからあのような音を引き出す技が見られたのは幸運だ。

さすがのフラブラ隊もこれには息を呑んでいたようで、ハイティンクが腕を下ろしてやっと、自然なため息と拍手が湧き上がってゆきました。ブラヴォ。アンコールがなくてむしろよかった。
by Sonnenfleck | 2009-02-02 06:40 | 演奏会聴き語り

考えるな、感じろ。

13年続いた「ウルルン滞在記」が、この日曜日に最終回。
僕の中でのテレビの地位は回復不可能なくらい低下してしまい、もう日常生活でテレビを見ることはほとんどないんだけれど、この晩は懐かしくなってチャンネルを合わせ、徳光さんと一緒にうるうるしました。最近涙もろいんだ。

センチメンタルな気持ちになって、センチメンタルな音楽が聴きたくなりまして。

c0060659_22395379.jpg【EMI/7243 5 85151 2 1】
<ヴォーン・ウィリアムズ>
●タリスの主題による幻想曲
●ノーフォーク狂詩曲第1番
●《ひばりは昇る》*
●《沼沢地方にて》**
●歌曲集《ウェンロックの断崖で》

→サラ・チャン(Vn *)
→イアン・ボストリッジ(T **)
⇒ベルナルト・ハイティンク/ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

音楽を聴いて判断する作業は疲れる。たまには「聞く」になってもいいよね?

《ひばりは昇る》でサラ・チャンの高音部が汚くったって別にいいじゃないか。何も考えずに浸って、ただ雰囲気を味わっていればそんなことは気にはならない。
「老後に聴く」とか言って誤魔化しながらイギリス音楽に入れずグダグダしているのは、先方が悪いんではなくて、こちらがガチガチに固まっているからなんだろうなーと思います。毎日毎日ブログを更新するために常にアンテナ感度をビンビンに上げている現状では、イギリス音楽の雰囲気や匂いを味わう余裕は生まれないのか。
by Sonnenfleck | 2008-09-16 06:37 | パンケーキ(20)

on the air:ハイティンク/シカゴ響のドイツ音楽プロ

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【2007年10月 シカゴ・シンフォニーセンター?】
●モーツァルト:交響曲第25番ト短調 K183
●ウェーバー:《魔弾の射手》序曲
●ヒンデミット:《ウェーバーの主題による交響的変容》
●ブラームス:Pf協奏曲第2番変ロ長調 op.83
→エマニュエル・アックス(Pf)
⇒ベルナルト・ハイティンク/シカゴ交響楽団
(2008年6月28日/BP CSO RADIO BROADCASTS)

いつものシカゴ響ネット配信から。
まずはモーツァルトの交響曲第25番ですが。
いやー、、こういう演奏は久しぶりであると言えます。巨大な編成で装飾はなく、決して急がないが恣意的なルバートも登場しない。いわば懐かしの20世紀後半様式。バーンスタインやレヴァインまではこういうスタイルが力を持って存在していたんだよなあ。
いかにピリオドスタイルが古典派を席巻してしまったか。僕はれっきとしたピリオド派なのであえて書かせてもらいますが、このスタイルが古典派を蹂躙したことで、20世紀が時間をかけて蓄えたある種の微妙なセンスは完全消滅へ向かっていると思う。我々はそれを過去の厖大な録音で聴くことができるから、その様式がライヴの現場では現在進行形で消えかかっていることに注意が向かないんだろう。この堂々として雄渾なメヌエットは…2007年10月の段階で20世紀様式がまだ残っていたことの重要な証拠になるはず。未来には。

+ + +

《魔弾の射手》序曲には物凄いブラヴォを飛ばしたい。ふっと香るような浪漫が確かに漂ってますもの。しかし輝かしいリタルダンドで曲を閉じたその直後に、「まったく同じ歩調で」始まった《ウェーバーの主題による交響的変容》に度肝を抜かれることになります。ドイツの蒼古とした森もヒンデミットの金属的なギラつきも、等距離から指揮してしかも違和感を感じさせない。山椒のようなヒンデミットの痺れに淫するんではなくて、あくまで低音基礎を敷いた上で縦線をがっちり固めてくるので、まるでブルックナーのように響く。

で、このまえ取り上げたばかりなので既視感のあるブラームスの第2Pf協奏曲です。10年の歳月が流れ、オケがボストン響からシカゴ響に変わり、指揮者もピアニストも10歳ずつ年を取ったわけですが、演奏はますます充実の度合いを深めていたのでありました。
アックスは音の腰が重たくなった代わりに、使い込まれた漆器のような渋い煌めきが出始めているし、ハイティンクは相変わらずオケの微細なコントロールに力を発揮するのと同時に、予想外の押し出しの強さを纏い始めている模様。同じ曲で同じ演奏家がぶつかっていると、変化のある部分とない部分が明解に聴こえてきて面白いですね。

基本的にはそんなに変化はないんですが、CD録音に比べると響きが渋くなって夕映えのような風情がプラスされ、あの爽快な主題たちから切ない気分を想起させられる瞬間が多い。第1楽章の終結部とかアックスがちょっと転びそうになるところをさりげなくテンポを合わせるハイティンクの妙技も聴ける(ような気がする)。第4楽章は羽が生えたように軽くなってるけど…聴衆が興奮しすぎて最後の小節からブラヴォと拍手が始まってしまう(笑)

今年はベルリンもウィーンもコンセルトヘボウも来るけどどれも聴きに行かないので、2009年初頭にあるとされるハイティンク+シカゴの来日公演には激しく期待しています。ブルックナー7番だけとかマーラー6番だけとか、そういうのだけじゃなくて(非常にアリソーだが)、こういう複時代的なプログラムも組んでくれないかなー。
by Sonnenfleck | 2008-07-04 06:49 | on the air

大切なのは内面だ

c0060659_624316.jpg【Sony/SRCR2414】
<ブラームス>
●Pf協奏曲第2番変ロ長調 op.83
→エマニュエル・アックス(Pf)
⇒ベルナルト・ハイティンク/ボストン交響楽団
●Vcソナタニ長調 op.78 《雨の歌》
⇒ヨーヨー・マ(Vc)+エマニュエル・アックス(Pf)

ジャケットのアートワークはサイテー。
もやもやした背景に浮ぶ、妙に克明なライティングに照らされた老人ふたり。怖いぞ。
かてて加えてアックスの胸元がだらしない。デザイナーは何を思ったのでしょう。

でも、そのくせ演奏は極上なのだからたまらない(これが暗シックの実情か)。

この人物たちがこんなに充実した音楽を聴かせると、いったい誰が想像するだろう。
最初はカーナビのHDDに読み込ませてBGMにしてこのCDを楽しんでたんですが、歩行者が気にならなくなるくらいオケの音色が美しいことに気がついてきまして。。恐ろしくなって宅聴きすることにしました。
この協奏曲、そんなに興味があるわけじゃなかったんだけども、まず第4楽章の情熱的な様子に心を掴まれたのです。アックスがつぶつぶした音で主題を提示したあと、オケがため息をつくような副主題へ突入するわけですが、ここでのボストン響が実に深みのある響きで、まるで鋳込まれた金属塊のように聴こえる。内部に熱っぽい不機嫌を宿す弦のつぶやきと、表面に落ち着きを装っているような木管の短いパッセージ、いいですね。痺れる。
この楽章はブラームスの明るい夏だけを描写しているわけじゃない。

そのあと遡って第1楽章第2楽章を聴くと、ハイティンクによるオケの微細なコントロールに舌を巻くことになる。前者ではアックスの紳士的な前口上が終わったあとに入場してくるトゥッティの深沈とした趣きに、この曲の主役はピアニストではないという事実がガガーンと打ち出されます。
いっぽう後者では冒頭でソリッドな動きをしているピアノに柔らかく絡みついて離さない様子や、中間部で聴かせる情熱のたぎりが、大編成モダンオケを聴く喜びを真っ直ぐ伝える。どこが奇抜でどのように突出しているかではなくて、フラットながらもなぜか魅力的な響きをしているのがハイティンク・ブレンド。素晴らしく素敵な匙加減じゃあないか。

第3楽章は美しいですよ。ねっとりしたのが好きな人は別の演奏を聴いたらいい。
by Sonnenfleck | 2008-07-02 06:27 | パンケーキ(19)

on the air:ハイティンク/シカゴ響のマラ6

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自主制作CDにして売ってる演奏?をオンデマンドで流してしまうシカゴ響萌え。

【2007年10月 シカゴ・シンフォニーセンター?】
●ワーグナー:《ジークフリート牧歌》
●マーラー:交響曲第6番イ短調
⇒ベルナルト・ハイティンク/シカゴ交響楽団
(2008年5月11日/BP CSO RADIO BROADCASTS)

6番が直情的な作品だと思い込んできた僕のような温いマーラー好きにとっては、実に衝撃的な内容でした。
つまり、そのようにしか聴けなければ、この演奏はひたすらフラットで停滞した状態にしか聴こえない。一方、6番でもマーラーはいつもと同じように(たとえば3番や7番のように)立ち止まったり意識を拡散させたりしてるんだと気づけば、これほど上質な演奏はなかなか考えにくい、ということなんです。

スコアを持たずに例を挙げるのは非常に困難なんですが、たとえばスケルツォがこんなに情報の多い楽章だということに僕は気がついていなかった。和声形成に音色の要素をふんだんに、ただしグロテスクに陥ることなく取り入れて、しかも破綻させない(ここが凄い)。音色をセリー的に捉える考え方の手前まで近づいてるんではないか。多種多様な音色要素があちこちから断片的に聴こえてきて、ゾクゾクいたします。

アンダンテも表層的にはさっぱりしたものです。ただ、数多くの「推進している」演奏の中にアンダンテを聴くと、箸休めとして流すか、さもなくば浪漫的に(≒グロテスクすぎる)加工を加えてしまっているケースが多いように思うんですが、ハイティンクはそんなことはしない。
中間部の一歩手前に聴かれる木管群のクロマティックな旋律、これをよく聴けば、そのブレンドの絶妙な匙加減に舌を巻かざるを得ないんですよ。今度は「図」も「地」もない「要素のフラット化」とでも言ったらいいのか。終結部に向かって一途に盛り上がっていく箇所がなぜ醒めているかと言えば、ハイティンクのやり方ではこの「泣かせる」箇所に大きな価値を見出さないのが当然のことであるからです。揺れ動きながら拡散していく意識を聴くのが、このアンダンテの主たる目的ということでしょうか。

それでいてフィナーレは凄まじい高潮を見せる。この、高潮の中に複数の楽想が並存する箇所は、いくつもの柱が音を立てて地面から突き上がってくるような印象を受けます。大切なのは、柱が一本きりではないということ!
コーダに突入すると、その居並ぶ柱が一気にすべて苔むし、朽ち果ててしまう。この空気の変化は強烈ですね。視点がすぅーっと後退して響きが急激に拡散し、全景が見渡せたところで、柱廊は秩序立って崩壊。「破綻」そのものが破綻していては元も子もない、ということを知り抜いたハイティンクの設計が光る瞬間であります。

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で、前半の《ジークフリート牧歌》がこれまた美しいんですよ。絹に顔を埋めるよう。。
なんでこれを余白に入れなかったんだろうか>CSO・RESOUND
by Sonnenfleck | 2008-05-17 05:52 | on the air

シュトラウスの味

c0060659_5524693.jpg【PHILIPS=TOWER/PROA-161】
<R. シュトラウス>
●《アルプス交響曲》 op.64
●交響詩《死と変容》 op.24
⇒ベルナルト・ハイティンク/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

タワーレコード×ユニバーサル系レーベルのシリーズはどれも目の付け所が素晴らしくって、懐具合が許せば全部買ってしまいたいくらいなのです。あのシリーズでドホナーニの廃盤が復活したら、どんなにいいかと思う。きっとあんまり売れないんだろうけど(モーツァルトの後期交響曲集なんかどうでしょう>塔)。

さて、古典派から後期ロマン派にかけての作品(特にオーケストラもの)がメインフィールドの方、たくさんいらっしゃると思います。そんな皆さんからしたら、このブログの書き手は野菜や豆腐やビタミン剤だけで音楽的生活を紡いでいるように見えるかもしれません。しかしそんな書き手でも肉をガッツリ食べたくなるときがあります。
外面的な焼肉。大勢で楽しみながらでないと食べられない。タレも大概はしつこい。
生姜焼きは内向きな食べ物であって、派手さはないが気取らない味で腹も心も満たす。
シュトラウスの素直な旨味が…落ち着いた響きのオケと極上の録音で楽しめるとしたら?
そんなシュトラウスの生姜焼き。ハイティンク+コンセルトヘボウのアルプス交響曲です。
神様塔様のおかげで覆刻されました。

オケそのものの響きを味わうのに、これほど適した作品がありましょうか。
(って同じことを許センセが書いていたような気がするぞ)
小難しい解釈とか、作曲家の言いたいこととか、そんなものはどうでもよろしい。
この録音を聴いていると、本当に伸び伸びと鳴り切ったときのコンセルトヘボウがどれほど素晴らしいか、改めて噛み締めざるを得ません。〈頂上〉での大爆発など、まさにモダンオケを聴く醍醐味の最たるものではないでしょうか。トロンボーンとホルンが後方でX字を描いて交錯し、手前でフルートとオーボエが螺旋を描きながら上昇して、そして前方で深々と弦が鳴っていて、本当にいいオーケストラってこういう音がするんだよなあ。。満たされる。。

そこから〈太陽が次第に薄れる〉〈悲歌〉にかけて、譜面の上では不安を演出し始めているにもかかわらず、堂々とした余裕を漂わせながら遷移するんですよ。ここがまさにマジェスティック。〈雷雨〉も整然とした響きで焦らない。この3分44秒のトラックだけで、いかにハイティンクとコンセルトヘボウが名コンビであったかがわかるというもの。
by Sonnenfleck | 2008-04-04 05:52 | パンケーキ(20)

ネパールから来た海賊(その三)

c0060659_754345.jpg【KARNA MUSIK/KA-277M】
●モーツァルト:交響曲第32番ト長調 K318
●同:Fl協奏曲第1番ト長調 K313
→ヴォルフガング・シュルツ(Fl)
●ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調 op.93
⇒ベルナルド・ハイティンク/ウィーン・フィル
(2006年6月14日/シャンゼリゼ劇場)

ネパールから来た海賊(その一)で扱ったハイティンク/VPOのタコ10は2006年6月8日のウィーン・ライヴでしたが、今回取り上げるのは1週間後の6月14日、パリ・ライヴの模様です。たった1週間の日付違いでも買い逃せないのがタコ10マニアの宿命。観賞用・保管用・布教用の3点買いをやらかすヲタク保守本流の方たちと大して違わんなあ(苦笑)

今回も先にショスタコーヴィチから書きましょう。
これまでハイティンク×ショスタコのベストフォームは、

□ コンセルトヘボウとの第13番(1986年スタジオ録音)
□ シュターツカペレ・ドレスデンとの第8番(2004年ライヴ)

であることよのうと思ってまいりましたが、このウィーン・フィルとの第10番(2006年ライヴ海賊盤)は、その殿堂に加わってしかるべき演奏であるように、最初は思われました。

基本的なスタイルはウィーン・ライヴとほっっとんど変わらないのですが、ウィーン・ライヴを聴いて気になった第3・第4楽章の「唐突さ」について基本的にはかなり改善しているといいますか、ハイティンクの要求する彼のスタイルに関してオケの側からの理解が得られたような感じ。しかもVPOはそれを理解し実行した上で、さらに持ち前の甘く切ない滑らかさを出し惜しみすることなく放出してくれてるんですね。そうしたらもう完璧じゃないですかー。いやーウィーン・ライヴはパリに向けた公開ゲネプロだったのか、それともソトヅラがいいだけなのか…。

前回やらかしてくれた第1楽章第2主題のFlも今度はミスをやらかさず、安心してたんですよ。
ところが!
第3楽章では悲劇の携帯着メロ乱入。こればっかりは仕方がないとはいえ。
今度は第4楽章の序奏で、ファゴットが運指ミス?により奇怪な装飾音を挿入してしまって派手にズッコケ。そのあと第4楽章は全体的に縦の線がどうにも噛み合わない。惜しすぎる。。ミスばっかり取り上げてケツの穴が小せえなあとお思いかもしれませんが、ヲタ的個人的な好みからすると、ライヴの熱気に加えて瑕のない美しさをやっぱり望んでしまうわけで。第1楽章から経過してきた演奏全体のよさでカバーできるレベルを超えてるのです。
最後はさすがの貫禄で立ち直り、堂々完走してくれましたが、もうちょっとムラっ気を無くしてくれたら、本当に文句のつけようがない演奏だったと思う。うーむ。

+ + +

前半のモーツァルト・プログラムはウィーン・ライヴのときと微妙に変わっておりまして、協奏曲がブレンデルのPf第27番からシュルツのFl第1番に差し替え。
交響曲第32番は単一楽章の序曲スタイルですが、こういうのをやらせると本当に横綱相撲ですわなあ。どこかのパートを引き上げて輪郭とするのではなく、幕の内弁当のようにすべての形をありのままに提示して充実させる温かい響きはハイティンクならでは。VPOも古典派をやれるときは実に嬉しそうで、音が浮ついている。
Fl協奏曲第1番はシュルツの美音もさることながら、趣味のいい上品な伴奏に心惹かれます。いくらピリオド贔屓でも、こんなに柔らかい音を20分以上(交響曲も含めれば30分近く)聴かされると、評価軸がグラつきます。いいなーモダンもいいなー。。
by Sonnenfleck | 2007-09-11 07:17 | パンケーキ(20)

ネパールから来た海賊(その一)

最近海賊盤の話題が多いですね。。闇夜に気をつけるなりしたほうがよいでしょうか(笑)
2005年くらいからアリアCDのサイトで見かけるようになったネパール(!…リマスタリングはドイツらしいけど)の海賊レーベル「KARNA MUSIK」。この4月に活動終了との告知がありまして、慌てて必要な2アイテムをオーダーしました。
今回はそのうちの1つ、ハイティンク/VPOのライヴについて。

c0060659_630199.jpg【KARNA MUSIK/KA-261M】
●モーツァルト:交響曲第32番ト長調 K318
●同:Pf協奏曲第27番変ロ長調 K595
→アルフレート・ブレンデル(Pf)
●ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調 op.93
⇒ハイティンク/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(2006年6月8日/ムジークフェライン大ホール)

タコ10コレクターのプライドをくすぐる「ウィーンのタコ10」。これ以外ですと2001年にロストロポーヴィチが振った演奏しか知りません。
ハイティンク指揮のものとしては3種類めの第10ですが(1枚目は77年のロンドン・フィル、2枚目は85年のコンセルトヘボウ)、このウィーン・フィル盤、ちょっと不思議な演奏です。。

第1楽章冒頭の悲劇的な響きが、チャイコフスキーのように甘く切なく滑らかに流れ出す。ソヴィエト時代のささくれ立った録音がデフォルトで設定されている耳には…明らかに異質に聴こえるんですが、ここの弦楽合奏は有無を言わせない美しさであります。こんな音を出すウィーン・フィルも恐ろしいけど、これを引き出すハイティンクの手腕にも唖然とする。
ここで第2主題のFlソロがおしまいのほうで致命的に音を外してしまうんですが、(そのためか)展開部に至るまで緊張感は持続して、弦のユニゾンとスネアの後ろでひらひらと木管群が飛び回る様子が大変美しい。この作品の「声を上げて絶叫」ではない箇所について、多くの演奏は音を無機質に、硬くすることで対応しているんですが(それがどこまでオケ全体で徹底されているかによって成功する/しないが決まっているようです)、ここではまったく逆のアプローチで、不思議と退廃的な雰囲気に持ち込むことに成功してるんですね。面白い。

第2楽章の速いテンポはこれまでどおり。ハイティンクがムラヴィンスキー寄りの解釈を示しているという点で興味深いのですが、この楽章の醍醐味である木管の奇怪なユニゾンの存在感がLPOよりもACOよりも格段に上で…さすがVPO。。しかし第1楽章の様子からもっと円やかな演奏が予想されていましたが、意外に残忍な追い込みが効いていて濃い口。

第3楽章の造形は極めてオーソドックス。エリミーラ主題のHrが静かで美しいのはいかにもですが、中間部のドンチャン騒ぎがどうにもマジメで…ここだけはちょっと物足りないかなあ。。そしてDSCH主題が滑らかなレガートによって紡ぎ出される様子は違和感アリアリ(苦笑)

第4楽章はふわふわと唐突に始まってしまい、ここもちょっとおかしな印象を受けます。第1楽章の柔らかさは巧まざる気まぐれの成果なのか?ハイティンクの旧録音はもう少し充実してたぞ。。
アレグロには快速テンポで突入しますが、ここはハイティンクのペース。これまでの彼の録音と同じスタンスで、あくまで腰軽に醜く薄くやるんですねー。おかげで今度はウィーン・フィルがいきり立ってドンチャン騒ぐ様子が垣間見えるのです。マジメな上司が無理して騒いでるみたいでちょっと気恥ずかしいのですけど、それでもコーダはR.シュトラウスのように光り輝いていて風格があり…何と言ったらいいのか…オケがショスタコの語法と別の立ち位置にいることによって出来上がった不思議な演奏。

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そして実は前半のモーツァルト2曲が超絶名演なのでした。ブレンデル久しぶり。。
by Sonnenfleck | 2007-07-03 06:39 | パンケーキ(20)