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フルシャ/都響 第745回定期演奏会Bシリーズ@サントリーホール(12/15)

c0060659_21225649.jpg【2012年12月15日(土) 19:00 サントリーホール】
●バルトーク:Pf協奏曲第2番 Sz.95 BB101
→ゲルハルト・オピッツ(Pf)
●コダーイ:《ガランタ舞曲》
●バルトーク:《中国の不思議な役人》組曲 op.19 Sz.73 BB82
⇒ヤクブ・フルシャ/東京都交響楽団


どこで見かけても感想はほぼ絶賛の嵐、という注目の若手指揮者ヤクブ・フルシャ。今年ようやく聴けたのだ。

フルシャは1981年生まれの31歳。僧帽筋が発達したハリポタのような雰囲気だけど、彼がつくる音楽もまた、魔法のように鮮やか。驚いた。
しかしもちろん彼の魔法は、たとえば20世紀中葉であれば魔法だったかもしれないが、いまや指揮者の呪術的カリスマによって立ち昇る紫の煙ではなく、明確に乾いた高速演算処理の賜物であるのが痛快だ。

協奏曲を飛ばしてまずガランタ舞曲。急激に立ち上がる豊穣な響き。
前半は自分があまり聴けていなかったのかもしれないが、細部の音色の選択が練りに練られているところに、舌を何回転かぐるぐるっと巻かざるを得ない。拍手と歓声もずいぶん大きい。

そしてミラクルマンダリン…。上述の鋭い音色センスに加えて、縦方向の精密な積み重ねがビシッ、、ズシッ、、と重たくキマっていくので、重厚で華麗なマチエールがちゃんと現れている。こういう拍感覚って今日の指揮者ではプリインストールアプリみたいなものだけど、フルシャのセンスはちょっと高級感がある。
さらにそこへ、都響のバランスのいいクリアな音色もうまく相乗し(彼らの音響はロンドン響に似てきていると思う)、ある種の現代的な格闘技を観戦しているような快感を想起させられたのだった。都響は佳いオケだよねえ。ほんと。

+ + +

さて。前半のバル2はいささか問題の多い演奏だったのだ。
フルシャと都響は(すでに書いたように)非常に精密でしかもマッチョな快感も忘れない伴奏を繰り広げていたようなんだけど、そこに、オピッツのソロが乗り切らない。。まるで東京メトロの運行システムに旧い蒸気機関車をムリヤリ乗せているかのような齟齬が続発している。

オピッツにはカーテンコールで鋭いブーが飛んでしまったが(とても見事なブーだった)、蒸気機関車自体はそれほど悪くない。もうちょっと異なるタイプの伴奏―つまりリズムや色彩、力感じゃなく、しっとりした空気感や「間」みたいなものに重点を置く伴奏だったなら、より佳い演奏になっていたんじゃないかと思うんだよね。

フルシャは、あるいは、オピッツに主導権を譲るべき局面だったかもしれない。でも、協奏曲を自在に合わせるスキルも、きっと彼なら身につけられると思う。今後のフルシャ追っかけが楽しみです。
by Sonnenfleck | 2013-01-11 21:25 | 演奏会聴き語り

諏訪内晶子 Vnリサイタル@秋田アトリオン音楽ホール(4/28)

c0060659_21581086.jpg【2012年4月28日(土) 14:00~ 秋田アトリオン音楽ホール】
●シューマン:Vnソナタ第1番イ短調 op.105
●ベートーヴェン:Vnソナタ第5番ヘ長調 op.24《春》
●バルトーク:《ルーマニア民俗舞曲》Sz.56
●エネスコ:Vnソナタ第3番イ短調 op.25
⇒諏訪内晶子(Vn)+イタマール・ゴラン(Pf)


今年のGWは用事があって実家に帰ったのだが、たいへん珍しいことにまともな公演と帰省日程が重なったため、是非なく聴くことにしました。

秋田駅前から徒歩5分ほどの距離に位置するアトリオン音楽ホールは、座席数700ほどの中ホール。バルコニー席のない1フロアのみの方形をしており、関東の方は東京文化会館の小ホール、東海の方は岐阜のサラマンカホールをイメージしてもらえれば比較的わかりやすいだろうか。ホール内部はこんなふう↓

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高校生だった2001年にブレンデルのディアベッリを聴きに行って以来、10年ぶりに足を踏み入れることになったわけだ。
ここの柿落としは1989年だけど、内装のセンスは(地元民の思い入れを排しても)首都圏のホールと遜色ないので、今でも別段古めかしさは感じない。安心した。

+ + +

さて、諏訪内姐さんの音楽をちゃんと聴いたのは昨年の東響定期@テアトロ・ジーリオ・ショウワでのシマノフスキが初めてと言っていいんだけど、今回のソロリサイタルも昨年同様の感興をもたらした。

その興の中心にあるのは、主にバルトークとエネスコで端的に表出していた、妖艶な歌い口である。特に、エネスコのソナタを聴くのはこれが初めてだったのだけれど、ルーマニアン・ラプソディのようなキッチュな愉しさはこのソナタでは影を潜め、より曖昧な調性と自由な拍感が支配する神秘的な音楽なんすね。

諏訪内姐さんのここでの歌い口は―意外にも―ごく真面目で、省略や上滑りとは無縁の真摯なボウイングに終始する。しかし音楽ってのは面白くて、ある作品ではそうした生真面目さが単純な無味乾燥を呼ばず、むしろ黒ぶち眼鏡の秘書のようなある種の妖艶さを醸し出すこともあるんだわな。それが計算されてるような気がする。

ウルバンスキのサポートを得たシマノフスキも巧みだったが、似た組成をした音楽の演奏実践としては(イタマール・ゴランの伴奏の完璧さもあって!)今回のエネスコに軍配が挙がりそう。しかしこれらの艶麗な音楽を、安定して妖艶に演奏してくれる日本人が身近にいてくれるのは、嬉しいことだ。

+ + +

残念ながら前半のシューマンとベートーヴェンはあまり楽しめなかった。

これもまた音楽の面白い(また怖い)ところですが、シューマンは男臭い浪漫を作為的に演出しようとしてガチガチに硬い演奏に、ベートーヴェンは「楽に呼吸してまっせ」というのを表現せんとするあまり拍節感の混乱が発生してしまったようだった。ピリオド由来じゃない自由なフレージングは、古典派音楽においては今やとっても危険な代物になっている。

しかしそれでも、バルトークやエネスコにおける達成は霞まない。ハイフェッツの愛器・ドルフィンも上機嫌だったのでは。
by Sonnenfleck | 2012-06-06 22:11 | 演奏会聴き語り

デュトワ/N響の "Kékszakállú" 第1715回定期@NHKホール(12/10)

デュトワがN響に客演しに来るのは毎年12月に固定されてしまっているが、僕の本業は12月からピークを迎え始めてしばしば土日も潰れるので、だいたい毎年聴きに行けてない。今年は幸運です。

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【2011年12月10日(土) 15:00~ NHKホール】
●ブラームス:Vn協奏曲ニ長調 op.77
→リサ・バティアシュヴィリ(Vn)
●バルトーク:《青ひげ公の城》op.11
→バリント・ザボ(Br/青ひげ)
 アンドレア・メラース(MS/ユディット)
⇒シャルル・デュトワ/NHK交響楽団


で。当然ながら週日の疲れが出て眠くなる。コンディションは悪い。

なので、偉そうなことは全然言えないんですけどもね。あちこちで人気のこのソリスト、少なくともブラームスでは、生硬な節回しに変化のない音色、ごぼうの固い水煮みたいで、演奏は全然好みじゃなかったんだよなあ。ブラームスのコンチェルトはもっと豊饒で贅沢な音楽として捉えたいのが、僕の正直な気持ち。

ブラヴォも飛んでたし、ネット上の感想も上々なので、きっと僕が彼女の良さを感じ取れなかったのが悪いんでしょう。しかしこういうキャラクタなら浪漫作品じゃなく、ディーリアスかバルトーク、ストラヴィンスキーのコンチェルトでも聴いてみたいものです。

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まったくこれじゃいかんと、休憩中に3階自販機でリアルゴールド120円を買い求め、ぐいと飲む。NHKホールならではです。

《青ひげ公の城》を生で聴けるのはこれが初めての機会であったために、この2週間ほど一生懸命に予習をした。朝一番から通勤電車で青ひげ。残業帰りにヘロヘロになっても青ひげ。不吉のきわみだよなあ。

その予習に使っていたケルテス/ロンドン響の演奏と比べて、デュトワ/N響の演奏では優雅さ・流麗さが非常に際立つ格好となっていたのが面白い。ほとんど「反表現主義的」と言ってもいいくらいだろう。
冒頭の東方風音響の柔らかさから違いを認識させられ、その後はパッセージ同士がぬるぬると連結して豊かに流れていく(先日のマーラーとは正反対の作り方と言える)。第5の扉、ハ調の爆発なんか《妖精の園》かよっていうくらい肯定的な響きだったし、第6の扉から第7の扉に掛けて、つまり音楽がもっとも妖しく光る局面においても、響きは乾燥しない。血は干からびず、前妻たちも生きている。

それに輪を掛けて素晴らしかったのが、青ひげを歌ったバリント・ザボと、ユディットを歌ったアンドレア・メラース。
ナチュラルなアーティキュレーションで、しかし(ここが重要だが)デュトワのつくる柔らかい地を生かして、彼らはちゃんと表現主義的な鮮烈な歌唱を行ない、強烈な図を提供していたのであった。ザボの苦悩の混じった声、メラースのヒステリックな声がやがて催眠に掛かったように沈んでいく有り様。

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演奏会がはねて原宿駅に向かって歩いていると、代々木競技場の第2体育館の上に巨大な満月が昇っていた。その夜、月は欠けて赤く光る。
by Sonnenfleck | 2011-12-13 22:12 | 演奏会聴き語り

立教大学交響楽団 第102回定期演奏会@蒲田(11/4)

c0060659_23125388.jpg【2011年11月4日(金) 19:00~ 大田区民ホール・アプリコ】
●シューマン:《マンフレッド》序曲 op.115
●チャイコフスキー:《眠れる森の美女》op.66 抜粋
●バルトーク:管弦楽のための協奏曲
⇒家田厚志/立教大学交響楽団


一年に一度くらいはアマオケを聴くのもよい。

友人からチケットを貰い受けて聴きに出かけた。蒲田で下車するのは七年ぶり、前回もアプリコで、前回もアマオケ(アイノラ響の最初の定演だったと思う)
アマオケの感想文って本当に難しいのでエントリにしないこともできたが、部分的になかなか素晴らしかったので、取り上げたいと思います。

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《マンフレッド》序曲は、彼らがアマチュアであり、しかも公演の一曲目で緊張しているということを差し引いても、味の薄い味噌汁みたいな物足りなさが残った。特にシューマンにおいては、楽句と楽句の間は「何もない空間」ではないと思う。指揮者の捉え方なのかもしれないけど。

で、《眠りの森の美女》抜粋ね。
この演奏は、プロのオーケストラではあまり感じたことのない「天然もののコケットリー」が、ほうぼうからふあふあっと薫ってきてたいへん素敵だった。
この一晩を(明日のパンのためではなく)ただこの一晩を良くするためだけに捧げる想念、みたいなものが、曲調のシンプルさと相俟ってこちらの胸を熱くする。"Rose adagio" なんてちょっとはにかんだような雰囲気もあり、上質な演奏だったぜ。

このたいへんシンプルな想念は、チャイコフスキー演奏に関してはとても大切なものと思う。だからカラヤンやプレヴィンのチャイコフスキーは好い。

最後のオケコンは正直に申し上げると不安だったんですが、失礼ながら予想を大きく上回る演奏精度で驚いてしまった。
ところどころ妙に艶っぽい響き、直線的な盛り上がりの激しさ、そうは言いながらもやや散漫なところもあるアンサンブル…これは旧東のオケに似てなくもないではないか!と思って、ノヴォシビルスク響とかソフィア・フィルを想像して楽しんだ。第3楽章の苦い詩情をよく表現していたのに大いに感服。

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帰り道の蒲田は、やっぱり今夜もぎらぎら。
by Sonnenfleck | 2011-11-07 23:16 | 演奏会聴き語り

Seid ihr nicht der Schwanendreher ?

どうもな。去年の夏くらいから、透過率80%くらいの音楽ばかり聴いてきた。

透き通った音楽は、沼地の精霊のように親密に近づいてきて、こちらにそっと寄り添い、それでこちらのエネルギーをこっそり奪い取っていく。透き通らない音楽を聴くにはエネルギーが要るが、その代わりそれと同量か、それ以上の力を与えてくれるんだな。そろそろこちらの充電も終わったようなので、強い色、烈しい輝きを持った音楽にもまっすぐ向き合おうと思うよ。もう春の濁りはすぐそこ。

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c0060659_22442494.jpg【PANCLASSICS/PC10215】
●バルトーク:Va協奏曲(デッラマジョーレ+P. バルトークによる新校訂版)
●シェーンベルク:《浄夜》
●ヒンデミット:《白鳥を焼く男》
→今井信子(Va)
⇒ガーボル・タカーチ=ナジ/
  ジュネーヴ音楽院管弦楽団

ここまでバルトークとヒンデミットを録音してこなかった今井信子さんが、ついに封印を解いてディスクをリリース。この2曲との初めての出会いがこのディスクであった僕は、幸運だろうか。幸運だろうね。

バルトークで用いられた楽譜は、なんでも通常の「シェルイ補筆版」じゃなくて、手稿のファクシミリ版に基づいた「デッラマジョーレ新校訂版」というやつらしい。
補筆版の内容を知らないので、したがって新校訂版がどれくらいスッキリしたのかもわからないのだが、もともとのバルトークのペン先からして響きに混じりけがないような気がするし、晩年の「ヤンキー歓ばせテイスト」もそんなにないので、ひと息に音楽そのものを気に入ってしまった。

バルトークのざらざらに湿った悪意を薬味として受け入れられるようになった今、この曲にも厳然と現れている、ハンガリー時代のような闇っぽさに好感。
僕が育った田舎では、夜に犬の散歩をしていると、闇を切り裂くように鋭い声で鳴くトラツグミにしばしば出遭うことがあり、この作品での独奏Vaはちょうどそのように聴こえる瞬間が多い。

さてヒンデミットはどうかな。《白鳥を焼く男》を、陰気なユーモアに満ちた暗い音楽だろうと勝手に思い込んでいた自分を、からりっと明るい今井さんの音色が優しく平手打ち。
プレトリウスの古謡とヒンデミット様式の組み合わせなんて、ヒンデミット以外の誰が思い浮かぶだろう。音楽のほんのりとした明るさ、罪のない単純さ、そしてここでは、独奏Vaの丁寧な語り口が胸に迫る。苔生す第2楽章から、悪戯っぽい第3楽章へのVaの変わり身の鮮やかさは、今井さんの硬質なアーティキュレーションが活きるね。硬質といっても、取りつくしまもない硬さじゃなくて、曖昧なところのない爽快感をそのように呼べば、ということ。

+ + +

でね。バルトークとヒンデミットに挟まれた《浄夜》が、物凄い美演なのである。
by Sonnenfleck | 2011-03-10 22:50 | パンケーキ(20)

[カルミナ・ウィークエンド]第4日:The Challengers

c0060659_6312478.jpg【2009年6月13日(土) 18:00~ 第一生命ホール】
<第4日 The Challengers―挑戦する者>
●バルトーク:弦楽四重奏曲第2番 op.17
●シャーンドル・ヴェレシュ:弦楽四重奏曲第1番
●ダニエル・シュナイダー:弦楽四重奏曲第3番《日は昇り、日は沈む》
●ラヴェル:弦楽四重奏曲ヘ長調
 ○ドビュッシー:弦楽四重奏曲ト短調 op.10~第3楽章
 ○ジミー・ヘンドリクス:《紫のけむり》

⇒カルミナ四重奏団
   マティーアス・エンデルレ(1stVn)、スザンヌ・フランク(2ndVn)
   ウェンディ・チャンプニー(Va)、シュテファン・ゲルナー(Vc)


金土と聴いて―どちらも素晴らしかったのだけど―やはり土曜の公演の完成度は、いくら思い出しても惚れ惚れとしてしまう。
しかしその中でも特に、バルトークとヴェレシュの異様な緊張感が強い印象を残しているのです。この日のプログラミングからは断裂から平明への流れがきれいに窺えましたが、前述したような球面の方法で「断裂」を表現するという、スリリングな時間航行を最初に体験してしまうと、ラヴェル一流の「平明」も少し色褪せてしまっていたように感じました。
もしかしたらバルトークの表面はもっと泥のように、草いきれのように、救いようもなく荒れ果てていた方が好みだという人もいるかもしれない。でも今回のカルミナは、バルトークの核にある超硬度インテリ質みたいなものを抽出して、それでもって球体の表面を硬くコーティングすることを選択していました。僕はバルトークの野生よりも彼のインテリ質のほうにより強く惹かれるものですから、この手法は願ったり叶ったりで、、冷え切り固まり切った第3楽章の和音に背すじを撫でられるのはたまらなく心地いいのでした。

ヴェレシュの作品はバルトークの第2カルテットの13年後に作曲されているにもかかわらず、お師匠さんより柔和で人懐こい表情が魅力でありました。ドデカフォニー寄りではあるものの、マチエールにはラプソディックな主題が懸命に散らしてあり、それを誠実に実現させてゆくカルミナの面々。
ただ、彼らは単純に几帳面に楽譜を起こしていくだけじゃない。当然。
これは一部のカルテットにしばしば感じてしまうことなのだけど、手持ちのポイント100点25+25+25+25で分配したって弦楽四重奏は面白くないってことに気づくべきでは、と。100点80+20にしたり、100+0にしたり、33+33+33+1にしたり、そういう思い切りの良さがカルテットを面白くするのだし、カルミナQはこの配分センスが特に優れているなあというのが、今回の一番強い感想かもしれない。ポイント自体が500点だったり1000点だったりするわけじゃないんだけどね。

シュナイダーのカルテットは魅力的な箸休め。2002年の作みたいだけど、かなり意図的にアカデミックなところから逃げていて、肩肘張らないショウピースとして楽しむのみです。第3楽章の多彩なリズムはさすがのカルミナもちょっと額に汗といった感。

大トリのラヴェルは少しハードボイルドではあったけども、自分としては予定調和時空の範疇で、あえて語るべきことは何もありません。ラヴェルらしい気取り、気取りを客観視する冷たさ、この分裂を内包しつつやっぱり球面でした。若手カルテットだったらきっと肩に余計な力を入れてしまうところを。

+ + +

ああ、だがアンコールは、予定調和ではなかった。
この偉大なプログラムを駆け抜けて、アンコールをやるにしてもさすがにモーツァルトの軽いアダージョくらいだろうとおもっていましたら、1stのエンデルレから"Claude Debussy..."の声。ドビュッシーのアンダンティーノはまさしく、ぴっしりと一分の隙もなく完結していました。こんな演奏の前にいったいどんな言葉を弄すべきだろうか。冷汗を出すのがやっとだよ。

そしてよもやの、ジミヘン。《パープル・ヘイズ》。
クロノスQのCDでしか聴いたことがなくて、いやしかし、当夜はあのような生ぬるい演奏ではなく、3人のつんのめるような律動の上で、エンデルレのVnは完全にエレキを纏っていたのだった。おクラシックが寝んねしたあとの何か。客席からの歓声はフォォォウ!ヒャハー!であった。あの感じはちょっと忘れがたいな。
by Sonnenfleck | 2009-06-16 06:35 | 演奏会聴き語り

名古屋フィル 第351回定演

c0060659_19563831.jpg【2008年10月18日(土)16:00~ 愛知県芸術劇場】
<ツァラトゥストラ6―墓の歌>
●ベルリオーズ:カンタータ《クレオパトラの死》
→加納悦子(MS)
●ハイドン:交響曲第45番嬰へ短調 Hob.I.45 《告別》
●アデス:《…されどすべてはよしとなり》 op.10
●バルトーク:管弦楽のための協奏曲 Sz.116
⇒マーティン・ブラビンス/名古屋フィルハーモニー交響楽団


これまでの「ツァラトゥストラ」シリーズは、プログラムを見た時点でピンと来るか、そうでなくても実際にホールで聴いて納得がいくパターンでしたが、今回の「墓の歌」を貫く一本線は見えず。うーむ。

指揮者ブラビンスの名前は今年のプロムスでも見かけていました。10年以上BBCスコティッシュ響の副指揮者を勤め、その間ほかのBBC系オケも含めて彼がハイペリオンに録音したCDは30枚以上らしく、都響にも来年早々に客演するみたいです。いかにもフィッシャー系の人脈っていう感じですよね。
そのブラビンス、とにかく何でも器用にこなす人だなあという印象。
本定期の4作曲家の様式に関する途方もないギャップをちゃんと振り分けることができるし、ただ事務的に振り分けるんじゃなく、その上で聴衆が喜ぶ「ふりかけ」みたいなものもちゃっかり知っていてパラパラとやる。お客さん喜ぶ。オケメンも喜ぶ。みたいな。

+ + +

最初の《クレオパトラの死》は沈没。ダメだね最近。寝てしまう。

しかしハイドンの《告別》が、これが素敵な演奏だったので飛び起きることができました。
弦の編成は8-6-4-3-2と一気に刈り込む一方、その小編成にも関わらずアーティキュレーションは必ずしも原理主義的ではなく、レガートやヴィブラートも何食わぬ顔で表現パレットの上に乗っています。ブラビンスが作る土台はとろりとして温かい響きであって、そこへピリオド奏法の軽快さを抽出したふりかけをパラパラ(Fgシャシコフ氏が座っている場所は完全に通奏低音部隊だったね)。
これまでの「ツァラ」シリーズに3度練り込まれていたハイドンの中では、この日のブラビンスのスタイルがもっとも明解に成功していたと思われる。愛知県芸の豊かな残響も考慮に入れて、爽快かつふわとろな演奏でありました。

日本にいてフツーのクラヲタをやっているかぎり、アデスをライヴで聴くのは人生にそう何度もないことと思われます。今回の《…されどすべてはよしとなり》は、いやー可愛い曲だ。
打楽器群が重層構造になったリズムを叩く→トゥッティに飛び火する→いつの間にかごく簡単な山型のメロディが一本流れるようになる→リズムが落ち着いて静かに解決する、というのが大まかな流れですが、バルトークのオケコンとほぼ同じ大きさの巨大な編成なのに響きは省エネな感じ。ショスタコが交響曲第15番の最後でやった「チャカポコチャカポコ…」と同じ線上に位置する、「無邪気な」音の遊びです。
こういう無目的的な音楽って、定期演奏会なんかではまだまだ受けないのかもしれない。拍手の薄いことといったら!熱狂してる自分が恥ずかしくなるくらい!

最後にバルトークの管弦楽のための協奏曲
これはブラビンスとオケの共同作業が非常に上手くいっていた感アリです。ブラビンスはここにきて聴衆大喜びのガハガハ系バルトーク像を持ち出し、濃ゆい味つけを施すんですが、(多少の破綻もあったけども)基本的にはそれがスムーズに再現されるあたり、もう馬力だけの名フィルではないのだなあと。
もちろん第1楽章第3楽章の濃厚な静けさもよかったけども、第2楽章第4楽章のスパイシーな凹凸が実に刺激的でした。ああいう豊かな抑揚は日本人指揮者+日本のオケだとあんまり現れないですよね。面白かった。

ここまで書いて、今回の「墓の歌」は、ニューヨークのバルトークが葬った、しかし絶えず憧れてやまなかったヨーロッパ的な過去を並べたのかなあという気がしてきた(ニーチェの「墓の歌」ってそういう感じじゃなかったっけ?)。ベルリオーズもハイドンもアデスも、病身のバルトークが懐かしく思い描いた非合理性を背負っているものね。
by Sonnenfleck | 2008-10-19 08:18 | 演奏会聴き語り

on the air:ブーレーズ/シカゴ響の《ミラクル・マンダリン》

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iioさんのエントリで拝見したシカゴ響ライヴのネット配信。ドゥダメルの《巨人》はポジティヴでスポ根で、ヒネた末生りクラヲタには眩しすぎる。こういうスタイルは個人的に好きくないです。

【2006年12月1日? シカゴ・シンフォニーセンター】
●ハイドン:交響曲第103番変ホ長調 Hob.I.103 《太鼓連打》
●リゲティ:Pf協奏曲
→ピエール=ロラン・エマール(Pf)
●バルトーク:《中国の不思議な役人》 Sz.73
⇒ピエール・ブーレーズ/シカゴ交響楽団

で、今度は去年の12月、ブーレーズ指揮の定期公演がタダで聴ける状態にあったんですが、ハイドンの四文字にさぁーっと血の気が引き、怖いもの聴きたさでアクセスしてみました。今ブーレーズってハイドン振ったりするんですか?ひえー^^;; (と思ったら、前世紀末にウィーン・フィルで《ロンドン》をやってたみたい。意外と好きなのかも。)
まずハイドン、ではなく、マンダリンについて。
この曲はブーレーズのNYP録音で覚えたので、基本的な曲運びは生理的にしっくりきます。しかしCSOとの新録音(1994年)が過剰に殺菌消毒されてしまって期待外れであったのがやはりここでも同じように再現されていて、あんまりにも実体がないというか、いや、逆に実体だけというか、それで?という感じなのです。僕がマンダリンという作品に期待するのはインテリの皮をかぶった猥雑さ、優しい丸メガネの奥に覗くどうしようもない変態ぶり、そういった種類の雰囲気なのですが、その点NYPとの旧録音は理想的な仕上がりで、他の録音をいくつか聴いても、やはりここに戻ってきちゃうんですよ。

リゲティはさすが鉄板。キラキラとして美しい演奏です。ブラヴォです。

で、冒頭のハイドンですが、巨大な編成で、堂々としていて、古楽エッセンスなんか微塵もないのです(ブーレーズってピリオド・アプローチが大嫌いらしいですね>巨大掲示板の受け売りですが)。まさに「それで?」の極み。ピクリとも動かないハイドンの骨格標本を眺めてるみたいなんですが、、しかし、、この音の美しさは一体何だ…。うーむ。
by Sonnenfleck | 2007-08-01 06:53 | on the air