人気ブログランキング |

タグ:フェドセーエフ ( 7 ) タグの人気記事

フェドセーエフ/N響 第1755回定期@NHKホール(5/18)

フェドセーエフ好きの僕は、昨秋聴いたチャイコフスキー交響楽団(旧モスクワ放送響)との来日公演のデザートのようなつもりで出かけたのだったが。

+ + +

c0060659_2304198.jpg

【2013年5月18日(土) 15:00~】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第1番ヘ短調 op.10
●チャイコフスキー:弦楽セレナード ハ長調 op.48
●ボロディン:歌劇《イーゴリ公》~序曲、だったん人の踊り
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/NHK交響楽団


フェドセーエフは意外にもこれまでN響に客演したことがなく(東フィルと仲良しだったからかな)、今回が初共演だった由。ところが彼らの90分間の共同作業を聴いて、僕は、彼らの相性が全然良くないことを知った。

現在のフェドセーエフは、兇暴な音響や音の質量を武器にするのではなく、オケの自然な円みや香りを活かすがゆえに、すべてを完璧に統率し切るような指揮をもうやめている。それでも手兵・チャイ響や、手の内を長らく学んできた東フィルは、フェドセーエフのフェドセーエフらしさを少なからず補いながら、それを自分たちの音楽とも不可分のものとして共に創る意気があるからまだいい。

しかしN響は。彼らが(彼らがと書いてまずいなら、紺マス氏がコンマスをやっているときには)自発的に指揮者に合わせよう、オケの側から指揮者を補おう、という気はさらさらなく、まったく事務的に、自分たちの負担にならない程度の適度な運動で定期公演を終えてしまう。

「オーケストラを訓練し統率することへの興味」をあまり多くは持たず、自由な霊感を大事にしている指揮者と、「自発的に協力する気持ち」に不足する"学級の秀才"オーケストラ。彼らが出会ってしまった。

+ + +

老人も少しは訓練を試みるし、優等生もその名に恥じない事務的な協力は惜しまないから、たとえば弦楽セレナードの第3楽章のようにまずまずの演奏(ピッチやアーティキュレーションに少なからず問題はあったが)が成立した箇所もあった。またイーゴリ公の周辺も、若いころのフェド節をほんの少し思い出させた。前世紀の録音で聴かれる、またチャイ響との音楽会でもちゃんと保持されていた、フェドセーエフの音楽に特有の張りと艶はここではほとんど望めなかったにせよ。

しかし…ショスタコーヴィチの第1交響曲。これは良くない。まったく良くない。心が凍えるくらい寒々しく醒めた演奏。そのために一面ではかなりショスタコらしくもあったが、あれを楽しめるほど僕はひねくれた人間ではない。

アンサンブルはギザギザで量感に乏しく、合奏協奏曲のコンチェルティーノである各パートのソロは輪郭がへにょへにょ(あのTpとVcに対してお金を支払われるのかと思うと実に厭な気持ちになる)。そしてもともとメドレー的な作品であるだけに、肝心なのは横方向への展開だけど、それすら怪しい。前に進まない。指揮者にもオーケストラもお互いに「なんでそっちがもっと努力しねえんだよ」という空気が漂う。断じてこれでは困る。

+ + +

僕はフェドセーエフ贔屓だから次のように書かせてもらうけど、N響は近ごろますます魅力がない。それなりの「当たり」にすら出会えなくなってきている。ほとんど燃え上がることのない湿った楽団に、なぜ時間を割く必要があるだろう?
by Sonnenfleck | 2013-05-22 23:02 | 演奏会聴き語り

フェドセーエフ/チャイコフスキー響の千夜一夜@サントリーホール(10/16)

c0060659_614477.jpg【2012年10月16日(火) 19:00~ サントリーホール】
●ラフマニノフ:《ヴォカリーズ》
●同:Pf協奏曲第3番ニ短調 op.30
 ○スクリャービン:左手のための夜想曲 op.9-2
→小山実稚恵(Pf)
●リムスキー=コルサコフ:交響組曲《シェヘラザード》
 ○チャイコフスキー:《くるみ割り人形》から〈アラビアの踊り〉
 ○同:《白鳥の湖》から〈4羽の白鳥の踊り〉
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/
 チャイコフスキー交響楽団


フェドセーエフウィークの第二夜。
この夜はもともと行くつもりがなかったし、行けるとも思ってなかったのです。ラフマの3番はあまり得意じゃないし。でもこの日、仕事がトントンと片づいた僕は、ふと気がつくとサントリーの当日券売り場に向かって駈けていました。1曲目を犠牲にしてぎりぎりセーフ。シェヘラザード、聴きたかったんだもの!

入場してびっくり。席が9割方埋まっている。前日の4割と大違い。。

ラフマニノフの協奏曲は(おなかも空いていたので)リーマン大好き肉豆腐のことを考えながら聴いた。この曲の素材は、まず巨大な木綿豆腐としての独奏ピアノがでん!と存在感を示さなければいけない。それからほろほろに煮崩れて形状を失った各種モツ、たっぷりの青ネギと、たっぷりの七味。

むろん「最近ラフマニノフがなんとなくわかってきた」ような段階では、この煮込み風協奏曲の演奏の出来なんか云々できっこないのだが、前日のチャイコフスキーを知っている身からすれば、フェドセーエフ側に若干以上の遠慮があったような気がしてならなかった。モツが少なめ、ネギはあまり香りがせず、七味は切れている。お豆腐の存在感が弥増すばかりなり。

+ + +

酒肴のことなんか考えていたのが悪かったのか休憩時間には腹ぺこに。

「ビールは飲むパンである!」と修道士のような決意を固めてプレモルを頼んでしまったのが運の尽き、後半のシェヘラザードはひたすら気持ちいい音響に身を任せることになってしまったのだが、やはり、巨大で破壊的な音響が来るとの予想はきれいに裏切られ、より叙情的な円っこい音響が支配的であった(のは覚えている)

アルコールを入れて臨む音楽会は、聴いている最中は聴神経が研ぎ澄まされているように感じるのだが、結局そんなに内容を覚えていなかったりする。毎度のことながら反省しきり。船は黄金の泡の海で難破。終局。
by Sonnenfleck | 2012-11-08 06:24 | 演奏会聴き語り

フェドセーエフ/チャイコフスキー響のショスタコーヴィチ@サントリーホール(10/17)

c0060659_838184.jpg【2012年10月17日(水) 19:00~ サントリーホール】
●スヴィリードフ:交響組曲《吹雪》~プーシキンの物語への音楽の挿絵~より
●リムスキー=コルサコフ:《スペイン奇想曲》op.34
●ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調 op.93
 ○チャイコフスキー:《白鳥の湖》から〈スペインの踊り〉
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/
 チャイコフスキー交響楽団


いよいよ本年の期待度MAX音楽会。
有給休暇も使って備えは万全。
ショスタコーヴィチの第10交響曲が好きでたまらず、これまでに正規非正規合わせて90種くらいの録音を聴きましたが、今でも録音のベストはフェドセーエフ新盤だったりするからです。前二日間の演奏からすると、フェドセーエフの好みは少し変わってきてるようです。はたしてそれがどう転ぶやら。

第10番は、現代の標準的な指揮者と標準的なフルオケが特に策を持たずに挑んでも、まあまあサマになってしまうようなところがあって、第5の次の人気作として最近は位置づけられてきている。そのせいなのかはわからないけれど、変な定石がだんだん形成されてきてて興味深くもあります。第1楽章は長いからテキトーにスパイスを掛けて、第2楽章はスリリングに、第3楽章は曖昧にそれっぽく、第4楽章の最後で派手に打楽器を爆発させりゃあ客は喜ぶぜ、みたいな。

そしてもっと厄介なのは、そういうヌルい定石だけではなく、あまり様式感に合わない珍奇な策を乗せる傾向も広がってきているという事実。
第2楽章でだけ爽快感が出るくらいスピードを上げたり(ムラヴィンスキーやミトロプーロス、ロジンスキーはちゃんとほかの楽章も快速運転です)、奇矯なフレージングに頼って第1楽章を破壊してみたり(パーヴォ何とか氏は第1とか第6をレパートリーにすべきでは…)、枚挙に暇がない。

何も懐古趣味に陥っているわけじゃない。2010年に出たヴァシリー・ペトレンコ盤(Naxos)なんか、新しい録音だけどたいへん佳いと思いますもの。
ただ、モーツァルトに様式感があるのと同様に、やっぱりショスタコーヴィチにも厳然たる様式感というものがあると僕は熱烈に思うのです。モーツァルトをカラヤンみたいに作り込む人、もう今日ではいないでしょう?

+ + +

当夜のフェドセーエフは、ただただシンプルに、ショスタコーヴィチの中期様式に対して忠実な作り込みをしていたとしか言いようがない。このスタンスは彼の二種類の録音からまったく変化していなかった。安心した。

じゃあショスタコの中期様式って何だろうか。
それが要求するものは、さほど特別なものではないと僕は考えていて、腹の底にズンと来る重い響きだったり、痛切な音色だったり、ダッサいリズムを恐れずに腹を括った乱痴気騒ぎだったりする。要するに、チャイコフスキーの様式が要求する技芸とあまり変わらないのだ。無論、初期様式や後期様式はちょっと違いますけれどもね。

2日前のチャイコフスキーと同じく、フェドセーエフが大音量を武器にしていた時代が終わったことをよく物語る第1楽章
どことなくはんなりとした色気さえ漂うゆったり感のうちに、展開部でも響きが割れずに豪壮な風格がある。変なアゴーギクが用いられないためフォルムには鉄壁の安定感があるが、その一方で弦楽合奏には人が泣き叫ぶような音色が割り当てられているため、聴き手の気持ちは不安定なままである。

第2楽章の雄渾なランドスケープには(十分予測されていたけれども)驚かされる。相変わらず縦線はざっくりしているが、拡がりを感じさせるくらい構えが大きい。この楽章はスターリンのカリカチュアだとよく言われますね。このフェドセーエフ製スターリンは冷静かつ巨大で、逃げられる気がしない。

この日の演奏は全曲にわたってテンポの揺動が聴かれなかったが、唯一、亞!と思ったのが第3楽章でした。
エリミーラ主題が初めてホルン隊の斉奏で登場した直後、ほとんど事故のようにしてガクッとテンポを落とすフェド。中間部のワルツでこそいつものフェド節が聴けるだろうと思っていた僕は、こんなところでぽっかりと口を開けた奈落にギョッとしたのであった。これ、録音でもやってたかなあ…?

第4楽章。全曲を通じて魅力的なソロを聴かせてきた木管隊が最後の祝祭をキリリと〆てくれる。ファゴットのモノローグがあれほど野太くトゥッティを突き破って聴こえた経験はないし、結尾を導くクラリネットがあれほどねっとり厭らしく聴こえたこともなかった。
フェドセーエフ自身はかなり響きの円やかさを好むようになったみたいだけど、味のあるベテランに血気盛んな若手が供給され続けているオケはそうそうすぐには変化せず、結果として複雑な味わいのブレンドになっていたのが面白かったな。ショスタコーヴィチの中期交響曲を聴くには、ベストの状態だったかもしれません。

+ + +

密かにハチャトゥリャーンのレズギンカを期待していたアンコールは、月曜と同じチャイコフスキーのスペインの踊り。残念です。ただ、前半のリムスキー=コルサコフ(これも大名演!)とスペインセットを形成したのは楽しい配慮と思われた。
(※2003年の東フィルタコ10のときってフェドセーエフはレズギンカをやったと記憶してるんだけど、どなたか覚えておられませんか?)

オケもアンコールではさすがに疲れを感じさせるが、目算4割の熱心な客席は二度の一般参賀でもってマエストロを讃えたのだった。ショスタコーヴィチにちゃんと様式があり、それが有効であることをライヴで再確認できて、心から満足しています。また、このブログでずっと以前からお世話になっているmamebitoさんにTwitterを通じてお会いできたのも、忘れられない思い出になりました。おしまい。
by Sonnenfleck | 2012-10-27 08:38 | 演奏会聴き語り

フェドセーエフ/チャイコフスキー響のチャイコフスキーナイト@サントリーホール(10/15)

c0060659_6193432.jpg【2012年10月15日(月) 19:00~ サントリーホール】
<チャイコフスキー>
●《エフゲニー・オネーギン》から3つの交響的断章
●弦楽セレナード ハ長調 op.48
●交響曲第6番ロ短調 op.74《悲愴》
 ○《眠りの森の美女》から〈パノラマ〉
 ○《白鳥の湖》から〈スペインの踊り〉
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/
 チャイコフスキー交響楽団



フェドセーエフウィークの第一夜。何度か聴くチャンスがあってこれまでに体験してきたフェドの、彼のオケとの共同作業を聴くのは実はこれが初めてなのであった。

この夜がはけて感じたのは、まず、自分はこれまでチャイコフスキーの何を聴いていたのか…ということ。それから次に、仮にこれがフェドを聴く最後の機会だったとしても後悔はないだろう…という思い。

+ + +

目算でせいぜい4割程度の寒い客席を前に、フェドセーエフとチャイコフスキー響の面々はまず、オネーギンのパラフレーズを聴かせる。
チャイコフスキー響は録音で聴く彼らの昔、モスクワ放送響とあんまり印象が変わらなかった。弦は上質な麻のようにざっくりしながらも豊かであり、音色は暗い。その上へ明るめの木管と沈着な金管、ノーブルな打楽器が加わりアンサンブルをしている。縦線にそれほど拘らないのはフェドを全力で信頼しているからだろうか?
とまれ、トゥッティの鳴りの深さは在京オケ定期公演と比べるまでもなく、力任せのぎらぎら、ぐいぐい、ではないゆえに断絶は深い。

ぐったりしているうちに始まった弦楽セレナードも実に美しかったが、なかんづく第3楽章は群を抜いていた。絶品の一言。功成り名遂げた威丈夫の、老いて穏やかな終末を追体験するような感覚。平穏にして雄渾。

以前の体験を基準にすれば、フェドセーエフはやや老いた感がある。鋭いアクセントによる強音方向へのダイナミクスいじりに対する興味がかなり薄れたかわりに、緩徐楽章や弱音部において志向するメレンゲのようなふあふあの総体が印象深い。激しくブラヴォが飛び交う。

言葉も出ず、ホワイエに出て熱い紅茶をすする。お客さんは少ないが、そのぶんこの音楽会のための意志が確りしているものと思われた。連れ立ってきている人びとも含めて皆どこか黙しがちで、眼差しが熱く光っている。

+ + +

悲愴は、悲愴というものがたりの頁岩に染み込んだオイルをよく燃焼させた演奏だった。悲愴以外の何ものでもなかったと断言できる。

第1楽章、クラリネット首席の天才的な弱音に導かれて訪れる展開部に、強引さは見当たらない。懊悩の深さは決してトロンボーン隊の攻撃力だけが理由なのではなく、まるで上代の読み物のように、高貴で様式的な絶望感を伴ったフレージングに因るところが大きい。
砂糖さらさらメレンゲふあふあの第2楽章から、くるみのワンシーンみたいに飛び跳ねる、威圧や自己陶酔からかなり遠い嬉遊的な第3楽章。

第4楽章に満ちていた大気は悲嘆や哀哭と表現できるものにたいへん近かったが、まったき御涙頂戴かと言えばそんなことはなく、本質はもう少し高次の、ギリシャ彫刻のような様式化された硬質な悲劇であった。最後にコントラバスのピツィカートを、葬送の空砲のようにボンッ…ボンッ…と強い輪郭で鳴らし切る独特の風味を残して。

+ + +

チャイコフスキー尽くしのアンコール、そして熱狂的な一般参賀のあとも思いのほかしっとりとした情感が残ったのは、自分でも意外だった。時間の経過とともに、自分のなかの杯が美酒で充たされたような感覚が生じていることに気がつく。これが藝術の力だ。
by Sonnenfleck | 2012-10-18 06:20 | 演奏会聴き語り

星見てボロディン。

c0060659_8132045.jpg【Victor(MELODIYA)/VDC-513】
●ムソルグスキー:交響詩《禿山の一夜》
●ボロディン:《韃靼人の行進》
●同:交響詩《中央アジアの草原にて》
●イッポリトフ=イワーノフ:組曲《コーカサスの風景》op.10
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/
 モスクワ放送交響楽団

まだ40代のフェドセーエフの音楽を、ビクター音楽産業のスタッフたちによる優秀な録音で聴く。裏ジャケの録音情報をよく見ないで買ったものだから、当然MELODIYAの荒々しい録音だろうと思っていたが、そうではないので吃驚してしまう。

+ + +

武田泰淳のパートナー・武田百合子の『犬が星見た―ロシア旅行』という本がある。いつか独立したエントリを書こうと思っていたが、まあいいか。

昭和44年(1969年)に船で横浜を出発した有閑の文化人たちが、ナホトカ→ハバロフスク→イルクーツクとシベリアを横切り、アルマアタ→タシケント→サマルカンド→ブハラといった中央アジアの諸都市を経て、トビリシ→ヤルタ→レニングラード→モスクワ、とソヴィエト連邦を横断旅行した際の模様を記した旅行記である。

武田百合子の筆は剛直かつ率直であり、簡易な言葉しか使わない文体の強靱さは当代のヤワな流行作家たちが何人束になっても敵わない。平気で悪態もつく。彼女のテンションは空路でアルマアタ(現アルマトイ)に入ったところから高揚し、ブハラの砂漠で最高潮を迎え、やがてヨーロッパ・ロシアに向かって急速に萎むのだが、その中央アジアの描写がきわめて鮮烈で、得難い魅力を感じる。
「これは何でしょう?」いちめんに、ほやほやと生えている灌木に似た草を指すと、運転手は「サクソール、サクソール」と、噛んで含めるようにくり返してくれた。すぎなを大きくしたような草。幹を折ると、水気をいっぱい含んでいた。
ゼラフシャン河のほとりで車を停めた。橋にもたれて、皆、水を飲んだ。りんごの味がかすかにしている水を、一人一本ずつ飲んだ。綿の運搬車が土煙をあげて走って行く。
この河の近くでは、瓜がたくさん出来るという。それは八月ごろらしい。
また来ることがあるだろうか。そんなことがもしあったら、この橋のところで、りんご水ではなく、瓜を食べたい。
こんな感じ。佳いでしょう?僕はたいそう好きだ。みなさん読んでみてください。

+ + +

フェドセーエフが形作る《中央アジアの草原にて》も、ここでは武田百合子の筆致と同じように直截で、それゆえにとても優しい音楽になっている。弦楽のアンサンブルは豊穣で瑞々しく、木管はどこかぽうっとして田舎くさく、金管は穏やかに鈍く光る。耳から入った乾いた風が頭を吹き抜ける。脳みそは除湿機構を働かせたみたいにしてひんやりと乾いてゆく。

《コーカサスの風景》ももちろん素敵だ。カザフスタンやウズベキスタンに比べるとヨーロッパの臭みが強いが、これはリムスキー=コルサコフ仕込みの管弦楽法を自在に操るイッポリトフ=イワーノフの様式に、フェドセーエフがちゃんとギアを合わせている証拠と思われる。レガートの上質さ、遠大なフレージング。

といった作品を聴いたあとに《禿山の一夜》を聴くと、彼のヨーロッパ気質が急に強く感じられて面白い。いつもはエキゾチックに感じることが多いムソルグスキーも、実は都市生活者の音楽を書いているのだな。
by Sonnenfleck | 2011-08-06 08:16 | パンケーキ(19)

フェドセーエフ/東京フィル 第798回サントリー定期(2/11)

雪の降る街を歩いて、久しぶりに重量級のハシゴ。順番は前後するが、ハシゴの二軒目から先に感想文を書いておきます。

北東北育ちの男子的には(いつまでも僕を支配する男子中学生メンタル的には)、雪に対して傘をさすのはとってもとってもとーっても格好悪いことなので、この日も傘を持たずに外出したのだが、残念ながら東京の雪はすぐに融けてしまうので、頭からずぶ濡れになった。東京で雪なのに傘をさしていない男性は北東北以北の人だと勝手に変換して、勝手に親近感を抱いてしまう。

+ + +

c0060659_1050518.jpg【2011年2月11日(金) 19:00~ サントリーホール】
●ドヴォルザーク:Vc協奏曲ロ短調 op.104
 ○バッハ:無伴奏Vc組曲第1番~プレリュード
 ○同:同第3番~サラバンド
 ○同:同第3番~ジーグ
→アレクサンドル・クニャーゼフ(Vc)
●ストラヴィンスキー:《ペトルーシュカ》
  (1911年版コンサートver)
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/
  東京フィルハーモニー交響楽団


フェド久しぶりだなあ。最後に聴いたのは2006年の1月に《森の歌》をやったときみたいでしたが、それよりも前、2003年にタコ10を振ったときにすっかり魅了されてしまって、いまだにそれを上回る思い出ができないこの関係。

ともかくもこの5年間でいろいろな音楽を聴いてきて、今回それでもなおかつ、フェドセーエフすげえなあ…と思った次第。
ソヴィエトの香りを音楽に籠めることができる指揮者はもうほとんど残っていないと思うが(ロジェヴェン老師はそういうのを超越しているし、テミルカーノフやキタエンコは、なんか違うのだ)、日本に住む僕らにはラザレフとフェドセーエフがいてくれる。前者がチャイコフスキー的高慢を体現するなら、後者はバラキレフ的お下劣を巧妙に構築する技に長けているといえよう。もちろんどちらも褒め言葉ですよ。



今回の《ペトルーシュカ》が、もう出会うことはないであろうまことに奇矯な演奏だったことを、まずは初めに書いておこう。
とにかくすべてのフレーズが泥のように粘ついていて、それぞれの短い局面においてはたいへん気持ちの悪い音楽なのだが(バレエ音楽のバレエ音楽性を、極端に突き詰めるとこうなるのだろう)、しかしその短い局面が連続して並んでいると構築は破綻しておらず、むしろ丁寧なつくりさえ感じさせて、アルチンボルドの野菜人間みたいな変な安定感が生まれている。

白眉は第1場第4場。謝肉祭の広場の塵芥と泥濘の中から次々とパッセージが立ち上がってこちらに押し寄せてくる様子には、酩酊感を覚えるほどでした。何が、どのパートが、というよりも、トゥッティが隅々まで調教されたときの威力に気おされた、というか。だいたいの時間において、東京のオケとは思えないような傲然とした響きが立ち昇っていたよな。この、謎の土俗性。もしくは肉々しさ。

何も知らない人に「この音楽はペトルーシュカという乙女が異教の祭典に生贄として捧げられる様子を描写しているのだ」と説明して、彼を納得させるのは容易いだろう。三大バレエの中でももっともモダンでドライなこの作品でそれが起きたということに驚いている。
こうした様式で《レクイエム・カンティクルス》などやった暁には、十二音時代のストラヴィンスキーが決然と見直されることになろうかと思うが、そんな日はついにやってこないだろうな。ソヴィエトの体制がもう30年くらい続いていたら、ソヴィエト型の怪しい指揮者に成長したゲルギエフなどがやってくれたかもしれないが。



前半のドヴォルザークも実に自由な演奏で。
2007年のLFJで同じ曲をクニャーゼフで(+ドミトリー・リス/ウラル・フィルで)聴いた自分は「ひたすら演歌の人」との感想を書き残していますが、指揮者まで演歌に徹するとこうなるんだろうなあ。全盛期のロストロポーヴィチのライヴはこんな感じだったんだろうか。世界で一人くらいは、こういう本能のままのチェリストが一線級にいるべきだと思う。チェリストがみんなケラスとかウィスペルウェイみたいじゃつまらないものね。(おっとこれはマイスキーの悪口じゃないぞ。)

アンコール。真ん中のサラバンドはグッと胸に来た。

+ + +

ホールを出ると、まだ雪がちらちらと舞っている。コンビニでビニール傘を買った。
by Sonnenfleck | 2011-02-13 10:52 | 演奏会聴き語り

プチグラ

c0060659_21403978.jpg【ICONE/ICN-9424-2】 <グラズノフ>
●バレエ《ライモンダ》 op.57~〈グラン・アダージョ〉ニ長調 *
●演奏会用ワルツ第1番ニ長調 op.47 +
●悲歌《英雄の思い出に》 op.8 *
●幻想曲《森》 op.19 #
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/モスクワ放送交響楽団 *
  ゲンナジー・チェルカソフ/モスクワ放送交響楽団 +
  ヴェロニカ・ドゥダロヴァ/モスクワ国立交響楽団 #

眠りにつく前にまったりとしたロシア音楽に耳を傾けるのも、たまには乙なものです。

グラズノフの音楽はどうにも起伏が付けづらそうで、そのくせ細部の響きは小洒落ていて、きっと演奏者泣かせなんだろうなあと思う。老人のことを嘲笑していたであろうプロコフィエフの音楽が、結局その老人の洒落た響きによく似ているというのを、直感的に感じる。

謎のグラズノフ管弦楽曲集。
フェドセーエフが担当する〈グラン・アダージョ〉《英雄の思い出に》では普段の強引なドライヴ感が完全になりを潜め、小さくまとまってプチチーズケーキという感じです。たぶんグラズノフ演奏においては、この「プチ」感が物凄ぉぉぉぉぉく大事なんじゃないかと思うんですよ。メロディもリズムもどこか真実味がない、地に足のつかない上品さを表現するのに、大きすぎるキャパでは逆に見たくもないような「真実味」が出てしまうような気がして。

これも謎の指揮者、チェルカソフによる演奏会用ワルツ第1番
途中でチャイコフスキーの亡霊に纏わりつかれつつ、それを巧妙に追い払う勇気を持ったスコアを、輪郭の甘いオケで享楽的に表現します。チャイコの本気っぽさに比べ、グラズノフの何という虚飾。だが虚飾の何が悪いというのか?

ドゥダロ婆ことドゥダロヴァの幻想曲《森》は、これぞグラズノフの真骨頂、という感じのなかなか茫洋とした曲です。オケがマッチョのモスクワ放送響でなくなったせいもあるのか、叙情的な表現に一日の長あり。彼女、今年で92歳?
by Sonnenfleck | 2008-06-05 07:10 | パンケーキ(19)