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on the air:インバル/都響 《千人の交響曲》

c0060659_6335271.jpg【2008年4月30日 サントリーホール】
●マーラー:交響曲第8番変ホ長調~第1部、第2部(後半)
→澤畑恵美、大倉由紀枝、半田美和子(S)
  竹本節子、手嶋眞佐子(MS)
  福井敬(T)、河野克典(Br)、成田眞(Bs)
→晋友会合唱団、NHK東京児童合唱団
⇒エリアフ・インバル/東京都交響楽団
(2008年6月29日/NHK教育テレビ)

東京時代に最も好きだった、最も足しげく通ったオーケストラが都響だったことを、久しぶりに思い出させてくれる好演でした。

デプリーストがシェフに就任したのと同時に名古屋へ来たため、ここ数年はまったく聴く機会がなかった都響、、このコンサートはぜひ聴きに行ってみたかったんですよ。残念ながら日程も合わずチケットも早々に売り切れたためライヴは叶いませんでしたが、こうして放送してくれたNHKには感謝(稚拙なカメラワークと醜悪な番組構成にも目をつぶろう!)。

+ + +

インバルのマーラーに対しては、小骨が多くて嚥下に苦労するような印象を持っていました。細かな仕掛けの多い演奏、基本的には好きなんですが、ことマーラーに関してはそれ自体の複雑さをストレートに表現するだけで十分じゃね?というスタンスなんですよ。そのため(あえてそういう書き方をすれば)CDで聴いたインバルのマーラーが「賢しさ」を放出するのが厭で、敬して遠ざけていたと。そんな感じです。
しかし番組中でも語っていたように、インバルにとって第8番は特別の作品らしい。
確かに、盛んに口にしていたfestiveという形容詞がそのまま音になっていたんです。

まるっと放送された第1部は、まずその雄渾な流れに驚かされました。
非常に柔和な開始に「あーまたインバル節かよ」と感じたのも束の間、きりりと引き締まったテンポに乗って、太い音の筋がびゅうびゅう流れ始める。ベルティーニのやっていた音楽を思い出して思わず目頭が熱くなりましたよ。ホントに。
いっぽうテクスチュアが薄くなる箇所ではインバルらしいバランスへのこだわりが見え、同時にテンポも緩やかに情熱的になって美しい「澱み」が表出します。この澱みの中に小骨が見えてしまうのが僕の知っているインバルのマーラーだったけれども、この演奏ではあくまでとろりとした蜜状の響きで厭らしくない。なーるほどねー。

第2部は「マリア崇拝の博士」のあたりから。
福井さん始め男声陣は熱演でしたね。女声は澤畑さんと竹本さんが流石の貫禄。
さてもこの後のスケルツォ的シーンについて、インバルの手管と都響の管楽アンサンブルには大きな声で賛辞を贈りたいです。ライヴで、しかもあの快速テンポで、まっすぐ《大地の歌》に流れ込むような煌めきがしっかり表現されるとは。。凄いなあ。。
テノールの「Blicket auf...」から先、音楽がとびきり柔和な表情をしていたのが印象的です。もはや神経質に設計される心配に胸を痛める必要もなく、インバルもオケもステージにいるメンバーがみな音楽に陶酔しているのがよく伝わってまいりました。最後のとびきり下劣なフライングブラボーもこの雰囲気を壊すことはできなかった。

都響の「ニュアンスを汲み取って積極的に表現する雰囲気」は、果たしてしっかりと維持保存されていたように思いました。2004年にみなとみらいで聴いたベルティーニの《千人》と、この日のインバルの造形はやはり様々な面で異なっていたけれど、オケから湧き上がってくる真摯な響きはまったく同じ。安心した。やっぱりこのオケが好き。
by Sonnenfleck | 2008-06-30 06:37 | on the air

on the air:ゲルネ+パーヴォ・ヤルヴィ 《少年の魔法の角笛》

現実のパーヴォ・ヤルヴィとフランクフルト放送響は昨晩名古屋にいて、マーラーの9番を演奏していたようです。当日券で残っていた高い席を買うのが難しく、僕は今回はパス。それでなくとも、この指揮者には痛い目に合わされたことがありますから。。
そこへちょうどよく、オーストラリアのABCがP. ヤルヴィと彼のオケによるライヴを流していたので、録音して聴きました。こっちはタダだもんねー!(負け惜しみ)

c0060659_657621.jpg【2007年6月15日 フランクフルト・アルテオパー】
●マーラー:歌曲集《少年の魔法の角笛》
→マティアス・ゲルネ(Br)
⇒パーヴォ・ヤルヴィ/フランクフルト放送交響楽団
(ABC Classic FM/2008年6月5日)

ゲルネが本当にいいなあ。
苦々しさの中に絶妙なコクがあって、淹れたてのいいコーヒーをブラックで味わうようです。
皮肉なメロディ満載のこの歌曲集でこそ、彼の少し重い声質が映えるというもの。
いっぽうP. ヤルヴィ、またぞろグロテスク要素「だけ」を取り上げてガチャガチャ喧しくやるかもなあと思ってたんですが、意外なミニチュアライズとともに誠実な重層構造を示していたので、安心というかやや拍子抜け。妙なルバートもなくてしっとりと聴かせます。ゲルネの真面目な歌いまわしとともに〈この世の営み〉〈原光〉が(驚くべきことに両方とも!)絶品だったのを書いておかなければなりません。

基本せかせか、大事なところはいざアイディア勝負、みたいなのが嫌で、ここ数年はP. ヤルヴィを聴いてなかったけど…こういうスタイルを変わったんなら聴いてみてもいいなあー。
大曲だと「まとめ」技が使えないから、いったいどうするんだろうか。
どうでしたか?>来日公演聴かれた組の皆さん。

+ + +

なお、フランクフルト放送響のサイトに極東ツアーブログができてました。やっぱり。

6/5の名古屋、雨、21℃。
書き手は、同行しているヘッセン放送リポーター、ナターシャ・プフラウムバウム。
雨の中ホテルに着いて、28階の「緑」に冷たい視線を送り、なぜか18時45分から始まる名古屋独特の演奏会ルールに巻き込まれたためにメシを掻き込まざるを得ず、相当イラついているご様子。「Stress heute!」だって。。

<6/7 追記>
当日はヴィオラ首席の鼻血が止まらなくなるというアクシデントに見舞われ、後半のマラ9は相当遅れて始まったみたいです。強行日程だもんなー。お疲れさまでした。
by Sonnenfleck | 2008-06-06 06:58 | on the air

on the air:ハイティンク/シカゴ響のマラ6

c0060659_5493868.jpg

自主制作CDにして売ってる演奏?をオンデマンドで流してしまうシカゴ響萌え。

【2007年10月 シカゴ・シンフォニーセンター?】
●ワーグナー:《ジークフリート牧歌》
●マーラー:交響曲第6番イ短調
⇒ベルナルト・ハイティンク/シカゴ交響楽団
(2008年5月11日/BP CSO RADIO BROADCASTS)

6番が直情的な作品だと思い込んできた僕のような温いマーラー好きにとっては、実に衝撃的な内容でした。
つまり、そのようにしか聴けなければ、この演奏はひたすらフラットで停滞した状態にしか聴こえない。一方、6番でもマーラーはいつもと同じように(たとえば3番や7番のように)立ち止まったり意識を拡散させたりしてるんだと気づけば、これほど上質な演奏はなかなか考えにくい、ということなんです。

スコアを持たずに例を挙げるのは非常に困難なんですが、たとえばスケルツォがこんなに情報の多い楽章だということに僕は気がついていなかった。和声形成に音色の要素をふんだんに、ただしグロテスクに陥ることなく取り入れて、しかも破綻させない(ここが凄い)。音色をセリー的に捉える考え方の手前まで近づいてるんではないか。多種多様な音色要素があちこちから断片的に聴こえてきて、ゾクゾクいたします。

アンダンテも表層的にはさっぱりしたものです。ただ、数多くの「推進している」演奏の中にアンダンテを聴くと、箸休めとして流すか、さもなくば浪漫的に(≒グロテスクすぎる)加工を加えてしまっているケースが多いように思うんですが、ハイティンクはそんなことはしない。
中間部の一歩手前に聴かれる木管群のクロマティックな旋律、これをよく聴けば、そのブレンドの絶妙な匙加減に舌を巻かざるを得ないんですよ。今度は「図」も「地」もない「要素のフラット化」とでも言ったらいいのか。終結部に向かって一途に盛り上がっていく箇所がなぜ醒めているかと言えば、ハイティンクのやり方ではこの「泣かせる」箇所に大きな価値を見出さないのが当然のことであるからです。揺れ動きながら拡散していく意識を聴くのが、このアンダンテの主たる目的ということでしょうか。

それでいてフィナーレは凄まじい高潮を見せる。この、高潮の中に複数の楽想が並存する箇所は、いくつもの柱が音を立てて地面から突き上がってくるような印象を受けます。大切なのは、柱が一本きりではないということ!
コーダに突入すると、その居並ぶ柱が一気にすべて苔むし、朽ち果ててしまう。この空気の変化は強烈ですね。視点がすぅーっと後退して響きが急激に拡散し、全景が見渡せたところで、柱廊は秩序立って崩壊。「破綻」そのものが破綻していては元も子もない、ということを知り抜いたハイティンクの設計が光る瞬間であります。

+ + +

で、前半の《ジークフリート牧歌》がこれまた美しいんですよ。絹に顔を埋めるよう。。
なんでこれを余白に入れなかったんだろうか>CSO・RESOUND
by Sonnenfleck | 2008-05-17 05:52 | on the air

on the air:ハーディング/東フィルのマラ6

c0060659_6593691.jpg明日あたり感想をUPしますが、このFM放送の前に、老獪なハイティンク/シカゴ響を先に聴き込んでしまったのは失敗だったかも。

【2008年2月14日 東京オペラシティ】
●マーラー:交響曲第6番イ短調
⇒ダニエル・ハーディング/東京フィルハーモニー交響楽団
(2008年5月11日 NHK-FM)

第1楽章。身振り手振りでとにかく何かを伝えたがっている印象が、まずは強い。
各旋律線は一本の太い綱にまとめられて、皆で動揺し、皆で伸縮しています。一糸乱れず「推進していく」統一感という点では、シカゴよりこの東フィルの方がずっと上ですね。オケの方ですっかりやる気になっているというか、指揮者のカリスマに中てられているというか…。よくここまでオケのポテンシャルを引き出したなあと(嫌味でも皮肉でもなく)素直に感心しています。全曲を通じて最も高く評価したいのはこの楽章でした。

第2楽章にアンダンテ、のパターン。清涼感があったけど、それはハーディングもオケも一途に素直に突進していっているのが伝わってくるせいかもしれないなあ。

それでは居並ぶ要素の弁別は?第3楽章スケルツォはラトルそっくりで、つまりグロテスクさを強調し切るのです。そうするとグロテスクなパッセージは効果的に強く浮かび上がるけど、そうでないパッセージは光り輝くグロテスクを目立たせるための「地」になってしまう。。

第4楽章は高血圧気味で、冒頭の和音は物凄くいきり立った響きをしていたけど、この方向で行くとオケの疲労がそのままトーンダウンに直結してしまって、縦の線にいくつもズレが生じ、最後は膨張し切れずにしぼんでしまったような印象。「しぼむ」と、直前に膨張していたときの「皮」みたいなものがヘタレてまつわりついているのが聴こえてくるようで…。

まあこれは夕食後に自室でまったりしながらFMを聴いてるからこそ細かい点が気になってくるだけであって、僕ももしその場に居合わせたら、きっと激しい緊張に苛まれていたことでしょう。大詰めの破綻(これは素晴らしい一撃でした)の後、30秒以上に及ぶ静寂を守った東京の聴衆にこそブラヴォでしょうね。

このマーラーはストレートでした。
ハーディングはそれでもなお、正体のわからない指揮者のひとりです。
シェフを務めるスウェーデン放送響とのライヴがネット上にたくさん出始めたので、拾って聴いていかなくては。個人的にはラヴェルとかベートーヴェンが見極めポイントかな。。
by Sonnenfleck | 2008-05-15 07:00 | on the air

夜のマンドリン

世界はマンドリンでつながっている。

c0060659_6165492.jpg【EMI/TOCE 3233-34】
●マーラー:交響曲第7番ホ短調
⇒オットー・クレンペラー/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

天下の奇演として知られるクレンペラーの《夜の歌》。
シェルヘンの怪奇趣味や、ラトルのモティーフ遊びに浮気しても、結局ここに戻ってこざるを得ないのは、根本からすっかり毒気に当てられてしまっているからです。

でも、「奇演」や「毒気」といった形容詞は、受容側の小ささを裏付けてしまうようで空しい。
気が遠くなるような激遅テンポが鑑賞の入り口にデロロンと横たわっているために、どうしても誤解されがちだと思うんですが、所詮テンポは相対的なものでしかないと開き直って考えれば、もうちょっと別の入り口が見えてくるような気がします。

この演奏、そもそもテンポ自体にはあまり動きがありません。ルバートによる情熱的な(あるいは情緒的な)表情づけに関して、クレンペラーはほとんど興味がないんだと思う。
じゃあ何に興味があったのか?
第2楽章第3楽章を聴けば、クレンペラーの興味が縦方向の一瞬の層を造形するという点にあったことが易々と想像される。第2楽章では異様に奥行きが広がって(冒頭の木管の鳴き交わし、中間部に一瞬だけ現れる荒んだ風景、豊かに消えていくコーダ)、音楽はヘッドホンから出て聴き手の脳内で定位するのではなく、まさにヘッドホンを通して向こう側の世界が果てしなく続いているような錯覚を覚えます。何やらオカルトめきますが、この非属人的な音運びはむしろ数学さえ連想させる。
いっぽう第3楽章は、2chステレオという事実がいとも簡単に覆されて、聴き手は四方八方から各要素に貫かれます。どうしてラトルが「Leaving Home」でこの曲のこの楽章を取り上げたか、当のラトルの録音よりさらにはっきりと示してくれるというわけ。

さて第4楽章のマンドリンに痺れた結果、いつもディスクを入れ替えるのが面倒になって、鑑賞はここで終了(要キアリク)。最後の楽章はまたいつか聴こう。
by Sonnenfleck | 2008-03-26 06:18 | パンケーキ(20)

on the air:ハーディング/VPOのマラ10

ハーディング。しょっちゅう東京に来ているようなので、関東の皆さんにはそろそろお馴染みなんですかね。CDもライヴもほとんど聴いたことがない僕には、まだまだ未知の指揮者であると言えます。今度DGからマーラーの第10交響曲をリリースしたようで…。
比べてみようエアチェック。

c0060659_8445286.jpg【2004年12月19日 ウィーン・ムジークフェライン大ホール】
●マーラー/クック:交響曲第10番嬰ヘ長調
⇒ダニエル・ハーディング/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(2004年12月19日/NHK-FM)

なぜか2004年はVPOの定期演奏会がNHK-FMで生中継されてて、この演奏も80分のMDに収まるかどうかハラハラしながら聴いていたような記憶があります(確か)。海賊盤も出てますね。
この演奏会はハーディングのウィーン・デビューだったように思いますが、3年後に両者がこの曲の録音セッションを組むことについては、この時点ですでに決定事項だったのでしょうか。

マーラーの第10番って夜にヘッドホンで聴くにはちょっと怖いので、そのスタイルがノーマルな聴取方法である僕にとっては、この曲はあまり馴染みがないのです。
極彩色の曼荼羅のような眺めで、つまり要素の一つ一つに秩序があって意味があるのだろうけど、深く潜り込まねば内容の理解は難しい。でもハーディングがウィーン・フィルに求めているのはグロテスクさではなく、たぶん甘くて優しい歌心なので、どうせよくわからんのだったらそこに耽溺するだけでいいのかなーとも思う。

とすれば、第1楽章の金管絶叫コラールや、第5楽章のクラスターみたいなパッセージ、こういったコワモテ部分でも柔らかく聴かせてくれるこの演奏に、じっくりと身を任せてみるのも悪くないかもしれません。フィナーレの終結への足取りは十分に感動的です。
真ん中の第3楽章には先祖返りしたような「愛らしさ」が充満しているので聴きやすいし、おそらくウィーン・フィルとしても演奏至難ではないのだろう。こういうテクスチュアならすでに手の内に入ってるゼ!という雰囲気。
いかにもリズムが難しそうな第2楽章第4楽章はアンサンブルがざわついていて、今度のセッション録音に期待してしまうところ。それでも前者のトリオ部分と終結部はさすがの美しさ!

「ゲンダイオンガク」ゆえに拍手が不機嫌そうなのも、VPO定期ならでは、でしょう。
by Sonnenfleck | 2008-03-22 08:53 | on the air

B先生の唯美主義に立ち向かってみました

c0060659_6533594.jpg【WEITBLICK/SSS0081-2】
<ベルティーニ マーラーシリーズ>
●交響曲第9番ニ長調
⇒ガリー・ベルティーニ/ウィーン交響楽団
(85.2.3@ウィーン)

これは手放しの絶賛とは行きません。
なんと言ってもオケに癖がありすぎるからです。
ウィーン響については何ら固有のイメージは持ってなかったんですが、ここで聴く限り、実はずいぶん「味がある」響きのオケなんですね。テクスチュアが薄くなって個々のプレイヤーのノリが聴き取れる箇所だけでなく、トゥッティが一丸となる箇所でも、何か聴き慣れないことになっている。普段生で聴いている日本のオケとも、またケルン放送響とも、発音のタイミングや抑揚、呼気の温度や湿度に至るまでまったく違う。
もっと表層に耳を傾ければ、ミスをまったく恐れずに突撃していく大胆さがどうやら彼らの持ち味であるということが想像されます。要するに何が言いたいのかというと、この9番は、クールな滑らかさとしっとりした上品な響きを旨とする常のベルティーニのマーラーとは、まったく様相を異にするというわけ。スリリング。

それにこの録音、けっして良質なコンディションではなく、ヘッドホンで聴いていると、自分の下に音場ができてしまうという不思議なクオリティ。指揮者の上空5メートルくらいに漂ってるような感じ(ってことはマイクそのもの?)。だんだん慣れてきちゃうんだけど。

第1楽章はガサツな空気感。なかなかエンジンがかからない。。
しかし真ん中の2つの楽章、これが生き生きとしていて実に素敵です。アンサンブルの乱れを気にせず、自分たちと同じ言葉を話し、自分たちと同じ空気を吸っていた人間の音楽として、時に羽目を外しながらも愉しく描写している。
許センセは「演奏者の相当部分が、自分が弾いている箇所がわからなくなってしまったのか」と書いているけれど、僕にはこれが何か演奏技術上の失敗に基づくものだとは思われません。むしろ自分の弾いている吹いているパッセージの意味を把握して、そこにノリを見出して遊んでいるんじゃないかと。結果的にベルティーニ指揮らしくない凸凹が響きのあちこちにできるわけですが、これはこれで抗し難い魅力がある。

第4楽章は…ベルティーニの勝ち。オケが組み敷かれてます。
で、このように意志があり味のあるオケが指揮者の言うことを忠実に守ると、大変な美しい響きがやってくるらしい。その見本みたいな演奏。弦のうねることうねること。
by Sonnenfleck | 2008-02-12 06:55 | パンケーキ(20)

B先生の唯美主義

c0060659_6314220.jpg【WEITBLICK/SSS0074 75-2】
<ベルティーニ マーラーシリーズ>
●交響曲第4番ト長調
→カミラ・ニルンド(S)
●交響曲第6番イ短調 《悲劇的》
⇒ガリー・ベルティーニ/ベルリン・ドイツ交響楽団
(第4…04.2.29. 第6…73.4.30. いずれも@ベルリン)

ベルティーニの訃報に接してから、3年が経とうとしています。
昨年12月、WEITBLICKからベルティーニによるマーラーのライヴ録音が数点発売されました。どれもいい値段だったので購入には二の足を踏んでいたんですが、栄HMVの試聴機の脇にこのCDの帯の煽り文句が大きく印刷されて置いてありましてですね。
「第4番について―第3楽章の16分過ぎ、弱音からのいきなりの爆発。それはあたかも、突然天国の扉が開かれるかのような荘厳な一瞬だが、ここでのすさまじい響きは筆舌に尽くしがたいものがあった。」
「いったいオーケストラというものがどれほどものすごい音を出すことができるか、私は本当に久しぶりで感じ入った。」
すなわち許光俊氏の、この文章にゾクッとしまして、とにかくも第4番だけは聴かないといかんと思って買ってしまいました。
トレイに乗せてPLAYボタンを押すと、最晩年に東京で聴かせてくれたベルティーニらしいクールなマーラーがすーっと流れてきて、それだけで胸がいっぱいになってしまったです。

簡単に言ってしまえば、許氏の大袈裟な煽りがまったく嘘ではない、そういう演奏。
僕の中で作用するベルティーニ補正のためであっても、それでいいです。
第3楽章の美しいことといったら、、許氏はこの美しさに流されずによく文章化できたなあと、、この説明でわかっていただけるでしょうか?
ただし第4楽章はカミラ・ニルンドの勝手気儘なサイテーのリズムによりすべてがぶち壊しなので(かなり美しい声質なのが余計に腹立たしい)、特に嫌なことがあったのであえてイライラして解消したいという方以外は、、ここでSTOPボタンを押すのが良。かな。
by Sonnenfleck | 2008-02-01 06:32 | パンケーキ(20)

D先生の自然勾配主義

c0060659_7104888.jpg【DECCA/466 345-2】
<THE CLEVELAND SOUND>
●マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
●同:交響曲第6番イ短調 《悲劇的》
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/
  クリーヴランド管弦楽団

ドホナーニ先生の廃盤CDは実に高い。みんな探している。
特にこの<THE CLEVELAND SOUND>という2枚組みのシリーズは高額で、amazonの中古ではブルックナーの第5と第7を組み合わせたものに12,000円の値がついています。このCDも9,000円超えのとんでもない高値ですが、、先日、今池ピーカン・ファッヂに行ったらその10分の1の値段で売ってました(-_-;;)

まずはshuさん激賞の6番から。
最初にお断りしておきましょう。
マーラーはすべからく脂ギッシュで、人生の苦悩でもって常時ネトネトしていなくてはいけない、という考えの方、この演奏は絶対に聴いてはいけないと思います。探しても絶対にそんな局面は見つかりません。
僕自身はそういうマーラー観とまったく反対の考えを持っておって、おまけに「悲劇的なくらい騒々しく」演奏されることが多い交響曲第6番が大の苦手で、ベルティーニ/ケルン放送響のやり方が唯一の解決策なのかなあと思っていたのですよ。

、、でもこの演奏が、理想の《悲劇的》でした。
これを耳にしてしまって、他の演奏が聴けるか??

第1楽章の厳しい第1主題は、ドホナーニ流のやり方だとモーツァルトのように涼やかに自然に流れ出ます。逆に、冒頭のノーブルな響きにちょっとでも失望感を感じたら、聴くのをやめたほうがいいかもしれない。ずっとこんな感じですもの。
第2主題が訪れると、よく晴れた冬の夜空のように、キラキラしたものが眼前にぱぁっと広がります。発音はあくまで自然に引き上げるだけ、そしてその音が消えていく美しさを見届けて、今度は次の音符に見合った立ち上げを用意する。これだけです。これを守るだけで、音楽は何と官能的な勾配を持つのだろうかということ。「立ち上げる+消す」ではなく、「立ち上がる+消える」を尊重するやり方なのです。第2主題の息が消えていくところ、物凄いですよ。こんな弱音、アリなのか。
さらに、ステージから離れた席に座っているときに聴こえるような、少し遠くて1箇所に凝縮した録音コンディションが、発音から減衰までを完璧に計算に入れたドホナーニの造形美をよく伝えているように思う。ホールを楽器にしてこその指揮者ではないですか。
…そうして、音場は1箇所に凝縮しつつも、信じられないくらい分離がよい、という矛盾を書く羽目になる。各パートが描く勾配が縦横に交わる様子が、展開部の中でよく聴かれます。勾配の頂上に置かれたチェレスタとカウベルの惻惻とした混淆には目が眩む。

再現部第1主題の(経過句部分の、とすべきかな?CDでは17分30秒過ぎの)一瞬の悪夢のような煌きは何でしょうか。粘ついたり我を忘れたり、そういった状況を伴っていないのが、実に恐ろしい。コーダも形が崩れない。。

第2楽章スケルツォは第1楽章に比べて縮尺が大きい気がします。
トゥッティの様子は変わらずすっきりと爽快ですが、その中で今度はソロを自由に遊ばせてる感が強い。各プレイヤーの素晴らしい腕についていちいち書いてたらきりがありませんが、、こんなオケが常時そばにあったクリーヴランド住人が羨ましい。

第3楽章は、この楽章の演奏は、この曲が6番目の交響曲であることを忘れさせるに十分。
Vnの序奏が終わって主題が木管に引き継がれると、途轍もない世界が開けます。羽毛に包み込まれるようなこの感触は、痛ましい現実からの逃避のように感じられる。
ドホナーニ先生はここで初めて、禁断の歌い込みにちょっとだけ手を出します。
先生は勘違いされすぎている。つまり、「理性的で冷たくて歌えない」なんじゃなくて「必要がないから歌わない」だけなんですよ。現実逃避を支える甘い歌が必要になったら、こうして力でもって主旋律を「立ち上げる」ことにためらいはない。

あれよあれよという間に序奏が終わってしまう第4楽章。
主部に突入すると、各パートが描く勾配がぐるぐると螺旋状に絡み合いながら展開していく、神業のような響きが聴こえます。展開部においてはカウベルからの高揚がまことに自然な稜線で表現されていて、、第1のハンマーへ。小さくて硬質なハンマー音がいかにもこの演奏にふさわしい。
第2のハンマーは打撃音が重々しくて(打ち下ろした場所が異なるのか?)、悲劇的な調子を守り立てています。その後荒れ狂うトゥッティだけど、流線型の成り行きはまったく崩れる様子がない。騒々しく騒いだ挙句、勝手に内側から崩壊させる方法は、《悲劇的》には似合わないと思うんです。こんなに厳しく凝縮している交響曲には

3回目の序奏主題が、弾け飛ぶように瑞々しく演奏されます。俺はかわいそうに死んでいくんだという自己耽溺は、ここにはありません。死に絶えるように最後のアンサンブルが進行し、結末の軽快なモットー絶叫が理想的。重たい「意味」なんてまっぴらごめんというもの!

長くなりました。第5番はまた今度。
by Sonnenfleck | 2008-01-25 07:12 | パンケーキ(20)

ほとけのシェルヘン(猟奇的な意味で)

c0060659_7545352.jpg【UNIVERSAL=Westminster/471 263-2】
●マーラー:交響曲第7番ホ短調
⇒ヘルマン・シェルヘン/ウィーン国立歌劇場管弦楽団

秋らしくなりました。クルマのシートに座るとひんやり。
ここ数日、往還の車中で聴いているのがシェルヘンのマラ7です。
大音量でモノラル録音が聴けるのは本当にありがたい>クルマ。

奇数楽章は、何が言いたいのかよくわからない、表現主義的で不気味な瞬間が多く、はっきり言って落ち着きません。当然ラトルのようなデジタル風味ではないし、ベルティーニのライヴのような明解さもないし、テンシュテットのように荒れ狂うわけでもないし、クレンペラーのように拡大された理性が箍として填まっているわけでもなく、さながら苔むして表情も読み取れない路傍の石仏。そんな中で、石仏が「ニィッ」と口の端を持ち上げるような超自然的ドライヴ感を何度も味わうことができるというのが、この演奏の貴重なところのひとつかなと思います(強引な伸縮が多い第1楽章に顕著)。

この録音の何が面白いかというと、偶数楽章に漂っている奇妙な色気なんですよ。
ニッと笑う石仏の近くに、強くて甘い香りのする山百合が咲いている…ほかの録音では味わえない、遠近感が狂うようなその対比が魅力。
特に第2楽章の、ほんのちょっとしたニュアンスが実に美しい。
俗っぽくてジモティな音を持つ、このオケの面々がやりたい放題歌いまくっているんですから、こうした印象も当然と言えば当然。木管の濃厚な歌でリスナーを篭絡しながらも、、中間部の入り口に登場するVcの行進がもたれないところなんか感心します。さすが。

あと第4楽章のVnソロですね。このポルタメント!甘~い!マンドリンも濃厚でたまらん。
秋の朝、あるいは秋の夜、車窓を流れていく日常の風景がぐにゃりと歪んでいく。そんな音楽に耳を傾けるのも悪くないです。もちろん、早めの点灯と一時停止を遵守しつつ。
by Sonnenfleck | 2007-10-27 07:56 | パンケーキ(20)