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踊らん哉(デジタルリマスター・エディション)

c0060659_1374848.jpg【ALIAVOX/AVSA9882AB】
<L'orchestre De Louis XV|ラモー>
●《優雅なインドの国々》
●《ナイス》
●《ゾロアストル》
●《ボレアド》
⇒ジョルディ・サヴァール/
 ル・コンセール・デ・ナシオン

近来のラモーのなかでは最強のヒット。これを聴いてラモーを好きにならない人がいるとは思えない。僕がまず初めに薦めたい「はじめてラモー」が更新された。

前々から、ラヴェルに真っ直ぐつながるようなラモー演奏がないもんかなあ、と思ってたんだよね。作り物っぽくて、感傷が分かちがたく混入していて、それでいて退屈しのぎに羽虫を引き裂くような無邪気さに溢れている演奏はないかと。(※オネゲルにつながるラモーとしてのブリュッヘンの演奏はいっぽう、その真摯さと性質の猛々しさから、いまだに物凄い価値を持ち続けているんだけども。)

+ + +

一般的に快楽派ラモーといえばミンコフスキだけど、アタックの強さや太鼓ばんばんに立脚しているようなところもあり、サヴァールの、時に緩慢で、堕落的で、音楽が停止しているような局面もある、本当のエロティシズム演奏の前ではすでに物足りなくなってしまったと言ってよいだろう(ここで演奏されている《ボレアド》のアントレなど甘美の極致である)。
要は、「快楽的演奏」の快楽的本質は、ゆったりしたナンバーや爽やかなナンバーがどれくらい耽美であるかで計ることができるんじゃないかと思うんだよね。このディスクの《ナイス》の序曲なんて、序曲のくせに目がとろーんとしてるからねえ。いったいこれから何が始まるのだろうか(笑)

むろんこれは酩酊が売りの演奏ではない。引き締めるところはバッハのコンチェルトのようにトゥッティをきりりと引き締めて、伊達である。

《優雅なインド》のシャコンヌなどまずはたいへん素敵だ。いつまでも終わらないでほしいと願うシャコンヌ萌え・パッサカリア萌えのツボをよく知っている。また、もともとダイナミックで格好いいナンバーの多い《ゾロアストル》は、儀礼用甲冑のようなブリリアントささえ感じさせるわけです。

しかし、そんな《ゾロアストル》でも、第1コンセールの第2楽章〈リヴリ〉と共通の旋律を持つところのガヴォットとロンドーでは、儀礼用甲冑をさらりと脱ぎ捨ててコンセールのあの親密な雰囲気を想起させつつ、うっとりさせるような躯を投げ出している。まことにエロいというほかない。

+ + +

そもそもラモーの場合は、ラモー自身が無節操で快楽的な音楽を書いているものだから、サヴァールのこのやり口はリュリ以上に完璧にフィットしちゃう。ゆえにこの伝説的完成度。ちなみにコンチェルティーノを務めるのはマンフレート・クレーマーとエンリコ・オノフリ、リッカルド・ミナシ…。聴き逃す手はないのです。
by Sonnenfleck | 2011-12-29 01:51 | パンケーキ(18)

on the air 番外編:この美しいリアルに、ベネズエラのラモー。

c0060659_2219394.jpg【2011年4月14日 カラカス、シモン・ボリバル・ホール】
<たぶんオール・ラモーのプログラム、順不同>
●《優雅なインドの国々》~シャコンヌ
●《優雅なインドの国々》~未開人の踊り
●《ゾロアストル》~地獄の神々のエール
●《ゾロアストル》~ルールとパスピエ
●《ゾロアストル》~メヌエットとコントルダンス
●《ダルダニュス》~序曲と戦士のアントレ
●《カストールとポリュックス》~闘技者のエール
●《カストールとポリュックス》~第1幕のエール、第2幕のエール
●《ダルダニュス》~タンブーラン
●《カストールとポリュックス》~〈悲しい身支度を〉への導入
●《カストールとポリュックス》~シャコンヌ
●《アカントとセフィーズ》~序曲
⇒ブルーノ・プロコピオ/シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ
(YouTube/BPROC1さんのチャンネルから)

うおお。
シモン・ボリバル・ユース・オーケストラとジャン・フィリップ・ラモー、出会ってはいけないもの同士が化学反応を起こし、禁断の魅力を朦々と放っている。

指揮はグスターボ・ドゥダメル、ではなくて、ブラジル人チェンバリストのブルーノ・プロコピオ(この人も1976年生まれなので若い)。パリに渡ってから最初はノエル・スピートのクラスで勉強を始め、ルセ、アンタイ、ランヌー姐さんにケネス・ワイスといった錚々たる面々に学んだ逸材である由。
YouTubeに本人のチャンネルを発見し、4月14日の演奏会を視聴した。

+ + +

通奏低音系の古楽指揮者だから当然、アンサンブルは正攻法の組み立てを目指している。よく聴いていると、当然ながらチェンバロとチェロ、コントラバスに主導権を渡そうと試みているのがわかるんだが、…それはそれ。

何しろ、SBYOVのヴァイオリン隊のアピール力が実に強大なのだ。ために、響きのセンターがぐうううっっと高音楽器に引き寄せられてるということ。
ピッチがぎらぎらと高いのもあれだし、だいいち土台は正攻法なのに外装のテンションが高すぎるというのが、冷帯や温帯の古楽アンサンブルでは体験したことのない類の興奮。爛熟のフランス系アンサンブルで聴く陰翳ラモーも好いが、リア充なラモーも同じくらい好い。わくわくするよぅ。


↑《優雅なインドの国々》からシャコンヌ。

あきらかに「弾き慣れてない」舞曲ではアンサンブルに雑駁なところも散見されるが(コントルダンス、タンブーランなどは怪しい)、それらも気にせず、勢いをつけて描く太い筆の輪郭線でヤッと収めてしまう。
いま世界的に流行っている懶惰と精妙のラモーが廃れたら、次はこういう「こまけぇこたぁいいんだよ」が主流になるのかもしれない。
by Sonnenfleck | 2011-11-02 22:35 | on the air

on the air:BBC Proms Chamber Music 2011 - ルセ/レ・タラン・リリクの小フレンチプロ

c0060659_7464981.jpg

【2011年8月1日 ロンドン・カドガンホール】
<BBC Proms Chamber Music 2011:3>
●クープラン:《諸国の人々》~〈ピエモンテ人〉
●リュリ:バレエ《変装したアムールたち》~アルミーダのモノローグ "Ah, Rinaldo, e dove sei?"
●ラモー:コンセールによるクラヴサン曲集第1番
●モンテクレール:カンタータ《ルクレツィアの死》
⇒クリストフ・ルセ/レ・タラン・リリク
 Eugénie Warnier (S)
 Virginie Descharmes (Vn)
 Yuki Koike (Vn)
 Jocelyn Daubigney (Ft)
 Stefanie Troffaes (Ft)
 Isabelle Saaint-Yves (Viola da gamba)
(2011年8月6日/BBC Radio 3)

今年もプロムスをちょろちょろと聴いてる。オケ物が幅をきかせる本体から独立して、プロムスでは室内楽のシリーズもやってるんですよね。

ルセは、チェンバロのソロだと佳く感じることも多いんだけど、こと自分のアンサンブルであるレ・タラン・リリクを操ると、変にエッジが甘くなったり、逆に締め付けすぎて窮屈だったりで、どうにも音楽がぎくしゃくしてしまう。
今や超優秀な古楽の小アンサンブルがたくさん存在する中にあって、ルセにはそういう体験をさせられることが多いものだから、大きな合奏体を仕切る指揮者としてのルセには期待しないことにしてたのです。得意不得意だってあるんだろうし。

でも、この日のプログラムはなかなか好感が持てた。これはきっと、今回のレ・タラン・リリクの編成が、旋律楽器数本+コンティヌオというところまで小さく刈り込まれていたことに起因すると思う。
大きな合奏体で(たとえば)ラモーのオペラをやるのとは違って、ルセは自分の身体の延長線上に各声部を置くことができる。クープランの〈ピエモントワーズ〉など起伏を付けるのが簡単ではない組曲仕立ての音楽を、小粒にきゅっと引き締めて―これは彼のチェンバロソロ演奏のスタイルとよく似てる―、趣味よく並べていた。身の丈に合う(なんて書いたら失礼なのかもしれないけど)規模の作品については、ルセは限りなく上品な演奏を聴かせてくれる。

リュリも素敵だ。しばしば立ち止まってぼんやりするのが売りのクープランと違って、通奏低音にしっかりした推進力が求められる音楽なのだが、あくまでスマートで小粒な響きを維持しつつ、楚々として前に進んでいる。モンテクレールも同様。

さて以上のような特質から、ラモーはルセにとっては鬼門のような気がしてるんだが(オペラ序曲集とか、巨大編成で録音したコンセール集は…な出来なんだよねえ)、今回のコンセール第1番は少なくとも佳い演奏だったと思う。
たぶんこれはルセの好みで…彼らのフレージングの根底に90年代古楽の「ちょっと遠慮がちな自由」をいまだに残しているためなのか、曲調の切なさと相俟って、〈リヴリ〉に押し殺したような官能が滲んでいたのであった。
by Sonnenfleck | 2011-08-12 08:33 | on the air

続・はぐれラモーでレベル上げ。

「♯Credo」のkimataさんが、BCJのしらかわホール公演のレビューで「バッハの音楽から遠ざかっていたのですごーーーくホッとした」と書かれているのを拝読しました。そうなんだよなあ。シューマンもラヴェルもショスタコーヴィチも、僕にとっては大切な外側なのですけれども、完全に全面的に心を許せるかというと、少し微妙な気がする。
僕の場合は、ラモーにそういう「内側感・居場所感」が強くて。いやもちろん、バッハだって大切な内側作曲家なんだけど、職人の最高級手工芸品としてのラモーの作品はいい意味で人格性に乏しく、自分の内側にあって拒絶反応を示さない。なにか、密かに積まれている。

+ + +

c0060659_22325534.jpg【Alpha/142】
●ラモー:室内編成による《ゾロアストル》《ザイス》
⇒フレデリク・アース(Cemb)
  /アンサンブル・オーゾニア




と言いつつ、ラモーのオペラはでかい。
同じようにラモーのゴーストの破片を積んでいるらしい鍵盤楽器奏者、フレデリク・アースが考えたのは、《ゾロアストル》《ザイス》という2つのオペラを一旦解体し、なだらかで長大な起伏の寸法をもう少し詰めて、1本のコンパクトな音楽的流れに統合しちゃうことだったんだな。

「音楽的流れ」なので、ラモーらしい派手な高みと官能的親密の両方を効果的に味わうことができる(翻訳された解説を読むと、どうやら物語的にも統合されてるっぽいんだけど、自分はあんまりそこには興味が湧かない)
この統合は、ソプラノとバリトンの歌手が1人ずつ参加してちゃんとテキストを歌われているために、ブリュッヘンやミンコフスキがやったような「管弦楽組曲」スタイルよりもさらにラモーそのものに近いように思われる。1パート1人に制限されたオケも、声を塗り潰さない官能的親密を明らかに志向しているわけです。

さらに、1パート1人制では相対的に管楽器の音響占有率が上がって、《コンセールによるクラヴサン曲集》が延々とつながっていくような、異常に贅沢な気持ちになる。ラモーの髄としての《コンセール...》に、血肉としてのフランス語歌唱、表皮としての物語、なのかな。

2008年のAlphaに録音するような古楽アンサンブルは、もう巧拙がどうこうというレベルにはない。このしなやかさが当然、この瑞々しさが当然。ロスとインマゼールの弟子であるアースは、呼吸するように自然な通奏低音魔術を響かせて、お師匠さんたちからのさらなる進化を見せつけます。

+ + +

初めてラモーに触れる人にはあえてお薦めしません。その代わりに、太鼓ズンドコ喇叭パーパー...以外のラモーに簡単にアクセスしてみたい、という方にはこれ以上ないくらい、群を抜いた贈り物だと思う。
by Sonnenfleck | 2010-06-15 22:35 | パンケーキ(18)

ミンコフスキ/ルーヴル宮音楽隊@オペラシティ(11/5)

快楽瞬間沸騰型のコンサートの感想文を今から書く必要があるのかという気もするが、年度を越す前に簡単に書いちゃおう。

c0060659_2294685.jpg【2009年11月5日(木) 19:00~ 東京オペラシティ】
●ラモー/ミンコフスキ:もう一つのサンフォニー・イマジネール
* 『カストールとポリュクス』序曲(1754年版)
* 《ゾロアストル》(1756年版)より
 〈エール・タンドル・アン・ロンド〉(第1幕第3場)
* 《レ・パラダン》より〈怒りのエール〉(第2幕第8場)
* 《優雅なインドの国々》より〈アフリカの奴隷たちのエール〉、
 〈太陽への祈り〉、〈西風の神へのエール〉、
 〈西風の神への第2のエール〉、〈北風の神へのエール〉
* 《アカントとセフィーズ》序曲
* 《カストールとポリュクス》(1754年版)より〈エールI・II〉(第2幕第5場)、
 〈ガヴォット〉(第3幕第4場)、〈タンブーランI・II〉(第1幕第4場)
* 《ピグマリオン》より〈彫像のためのサラバンド〉
* 《アカントとセフィーズ》より〈リゴードン1・2・3〉(第2幕第6場)
* 《カストールとポリュクス》(1754年版)より〈シャコンヌ〉(第5幕第5場)

●モーツァルト:セレナード第9番ニ長調 K320 《ポストホルン》
〈付〉行進曲ニ長調 K335/1(K.320a/1)

○ラモー:《優雅なインドの国々》より〈トルコの踊り〉
○モーツァルト:セレナード第7番ニ長調 K.250 《ハフナー》より第4楽章〈ロンド〉
→Thibault Noally(Vn)
○グルック:バレエ《ドン・ジュアン》より〈怒りの舞〉

⇒マルク・ミンコフスキ/ルーヴル宮音楽隊


この日は午後から有給休暇を取得し、アートギャラリーでヴェルナー・パントン展を見たり、面影屋珈琲店でぼんやりして、そのときに備えた。

で、2時間半におよぶパフォーマンスの内容によって得られたもの。
強烈な快感、だけじゃなくて、そこに深い絶望感がくっついてきたんだな。
ノッてやろうぜノらせてやろうぜ!という自信満々の押し出しの強さ。これがミンコフスキ/ルーヴルの本質のひとつであった。こうしたノリのラモーをライヴで、しかもあのように巨大な編成で聴くことは、いまの日本の古楽シーンではまず叶わない(あの、大きく筋肉を使った奏楽の姿からして全然違う)。

たとえば青白く燃える精妙なバッハであればたぶんBCJに一日の長があるけれども、それ以外の側面においてはまったく大人と子どもくらいの差が見えてしまった。
この場合は「どちらもいい」というきれいごとは書きたくない。「どちらもいい」というのは、どちらのタイプも存在した上でないと説得力がないんだからな。日本の古楽界は先鋭的・意欲的な小アンサンブルを除き、総体的には能面古楽としてガラパゴスの島々のように取り残されるよりほかにないのか。戦後に来日した一流のフルオケを聴いた人たちはこういう気持ちになったんだろうか。

+ + +

ラモーの細部について書くことにはあまり意味がないと思った。
アルバム「une symphonie imaginaire」が生です、もっと情報量が多いです、といったふう(曲順等は微妙に異なったけれども)。

彼らのモーツァルトは、いかにも軽佻浮薄で、とっっっても好きです。ト短調とジュピターのアルバムで聴かせていたシリアスも造られたシリアスだったようで、《ポストホルン》のように展開単位が小さい組曲になると一気にフランス革命前の気分にコネクトされてしまうのがまた不思議愉しい。
※少し前のottavaで林田さんが、ロマン派音楽を理解する上で欠かせない資料として山川の『フランス革命の社会史』を取り上げておられた。ここらはちゃんと勉強し直す必要がありますな。

+ + +

明日3/19の「芸術劇場」で、11/6のハイドンの公演が放送されるようです。
by Sonnenfleck | 2010-03-18 22:15 | 演奏会聴き語り

僕のガラテーア・プロジェクト

c0060659_639541.jpg【DHM/88697 281822-40】
●ラモー:1幕のバレ付きオペラ《ピグマリオン》
→ジョン・エルウィス(T/ピグマリオン)
  ミケ・ファン・デア・スルイス(S/セフィーズ)
  フランソワ・ヴァンヘッケ(S/石像)
  ラシェル・ヤーカー(S/アモール)
→ヘレヴェッヘ/シャペル・ロワイヤル
⇒グスタフ・レオンハルト/ラ・プティット・バンド

棚で十分に熟成させてあったDHM50周年箱から。確かに手持ちとのダブりもあったのですが、まだまだ未聴のディスクも多く含まれるので、頑張って聴いていこうと思う。このレオンハルトの《ピグマリオン》も、高名な録音ながら、レオンハルトのラモーはきっと自分の好みのラモーから微妙に外れているに違いないと踏んで聴いてこなかったもの。

序曲第4場以降に散りばめられた舞曲について言うと、その「自分の好みのラモーとは合わない傾向」が強い。拍の取り方が整然としすぎていて「遊び」の部分がなく、自在な伸縮が起こらない構造になっているものだから、聴いていて息苦しさを感じます。たとえばバッハは「遊び」があってもなくても、どちらのアプローチでもちゃんとバッハの像を結ぶのに対し、ラモーはそうもいかないんだよなあ。さすがのレオ師も2009年にあっては旗色悪し。。

で、この録音で息を飲んだのは、第3場、ピグマリオンが石像の美を讃え愛を告白する場面のねっとりとした美しさなのでありました。
ここぞ、というこの場面で、レオンハルトが拍を引き締める手綱をぐぐっと緩めているのがわかる。指揮をするときは基本的には拍の清潔な秩序で聴かせる人ですから、このように拍の揺らしにかかるのは珍しいことのように思われますし、こうなると控え目な和音の盛り方が却って活きてきますね。
中間部のゲネラルパウゼのあと、折り重なるバソンとフラウトトラヴェルソに導かれて痛切な願望が唱えられる。ここから先の時間は、お一人様ピグマリオンの脳がお花畑になってしまったあとの幻影かもしれません。幻影の入口ならこれほど美しくできているのも納得。
序曲から全開で遊びまくってきた演奏には不可能なこの技。なのです。

+ + +

これって、フィギュア萌えにすべてを捧げる高度なヲタクに幸福がもたらされるお話なんだよなあ。自分のことが好きな女子を振って2.5次元に耽溺していたら、フィギュアのキャラクタが生身の女子になっちゃって(あるいはヲタクの脳がそのように変容してしまって)、自分だけの幸せな世界に閉じこもると。フィギュアを「変身」させる「アモール」はニコニコ動画のクリップに読み換えちゃうとかしてさ。
この演出が恐ろしいリアルさを伴ってラモーの音楽で実現するのは、今の日本以外にないんじゃないでしょうか。第4場以降の演奏が明るければ明るいほど悲惨さが増すような演出、北とぴあとかでやってくれないかなあ(笑)
by Sonnenfleck | 2009-07-31 06:41 | パンケーキ(18)

マルクを待ちながら

c0060659_6321994.jpg【Brilliant(ARCHIV)/93930】
●ラモー:オペラ《アナクレオン》
●同:カンタータ《忠実な羊飼い》*
→ティエリー・フェリックス(T/アナクレオン)
  ヴェロニク・ジャンス(S*/バッカスの巫女)
  ロドリーゴ・デル・ポゾ(T/アガトクレス)
  アニク・マシス(S/クピド)
⇒マルク・ミンコフスキ/ルーヴル宮音楽隊&合唱団

日本にいてヘンデルを観聴きする機会はなんとなく増えているような気がしますが、翻ってほんまもんのラモーに触れるチャンスというのはまったくもって少ないままであります。だからこの秋のミンコフスキ/ルーヴルのラモー・プロには激しい期待を寄せているわけ。

その予習でもないけれど、最近BrilliantがDGGからライセンスを得て再発売した《アナクレオン》に耳を傾けています。全1幕で40分程度の短いオペラでして、解説を読んでみると、どうやら「愛と酒は両立するか」という問いを中心に据えた他愛のない作品のようです。ただ、初演されたのが1657年とラモーの晩年期にあたりますから、解説にも書いてあるとおり音楽がかなり如実にイタリア様式の影響を受けていて、じっとりと聴いているとなかなか面白い。

第3場冒頭で老詩人アナクレオンが打ちひしがれて眠り込んでしまう部分の猛烈な半音階や細かくて強いパッセージ、あるいは第5場でのクピドのアリアなんか、ヘンデルとヴィヴァルディを経由してハイドンからベートーヴェンに接続されても全然おかしい感じはしないですね。最盛期のけばけばしいタンブーランとかはもう作中に登場しないですから、打楽器シャンシャンの賑やかラモーを期待しているとちょっと肩透かし。でも晩期ラモーの趣味が汎ヨーロッパ的に展開していくのが記録された興味深いスコアですから、ミンコフスキがあえてこの作品を録音した理由がなんとなくわかりますし、ルーヴル宮音楽隊がフランス・バロックを飛び出ても活躍しうるかということを、こういう音楽で実験していたのかもしれないな。

歌手については、作中ではアナクレオンとクピドの対話が多いので、クピド役のアニク・マシスのショタ趣味っぽい美声に聴き惚れるのがよいかと思いますね。
ヴェロニク・ジャンスを期待する向きには、むしろカップリングの短いカンタータ《忠実な羊飼い》がオススメ。1728年くらいの作曲ですから、古式ゆかしいフランス・バロックのスタイルを普通に味わうことができます。ミンコフスキはどちらの様式もドンと来いといったふう。

これがBrilliant価格の700円で売ってるんだからなあ。たまらんわなあ。
by Sonnenfleck | 2009-06-23 06:33 | パンケーキ(18)

カンブルラン/読売日響 みなとみらいホリデー名曲コンサート・シリーズ:ラモーがなくちゃ始まらない!

c0060659_6422275.jpg【2009年4月19日(日) 14:00~ 横浜みなとみらいホール】
●ラモー:《ダルダニュス》組曲~
 〈アントレ〉〈タンブーラン〉〈荘重なエール〉〈活発なエール〉
 〈アントレ〉〈眠りのロンド〉〈優雅なガヴォット〉〈リゴードン〉
●ラヴェル:《クープランの墓》
●ベルリオーズ:《幻想交響曲》 op.14
 ○サティ/ドビュッシー:《ジムノペティ》第1番
⇒シルヴァン・カンブルラン/読売日本交響楽団


東京南部に住んでいたときの癖で、いまだにみなとみらいが近いつもりで出かけてしまう。やっぱ遠いよー。

さて、《幻想交響曲》の終了と同時に激しいブラヴォが飛び交いました。
中には感極まったのか「ゲボォォォーー!」という切ない叫びも聞こえてきて、興行としてなかなかの成功だったでしょう。しかしこの日のお客さんのマナー最悪だったなあ。咳のタイミングといい、楽章間拍手といい、慣れてない方がたーくさんいらっしゃったのではないかと思われた(いよっ!大新聞!俺っちも招待してくれっ!)

しかしカンブルランと読響の《幻想交響曲》は、かなり性質の異なる彼らの化学反応の現時点での到達点であったとともに、今後の課題が見え隠れするパフォーマンスでもあった。
先々週のベートーヴェン・プロで危惧されたアンサンブルの荒れはだいぶ収まったものの、この演奏における大編成ではカンブルランの期待しているであろう音響の軽さ、すなわち夾雑物のないクリアなサウンドや、フレーズの入りやおしまいへの配慮がまだ十分でないように感じられました。特に第4-5楽章に多い興奮の山場では、オケが冷静さを失い、ゴージャスだが濁りの多い音響に終始することもあったように思う。熱くなるのは読響の欠かすべからざる魅力だけども、カンブルランはもうちょっと先の地点にオケと聴衆を導こうとしているんじゃないかな。
ただ、「先の地点」の背中(たとえばトゥッティがひとつの生き物のようなデュナーミクを感じさせたり、パートごとの重なり合いが異様に細かなグラデーションを描いたり)は、この日は第2楽章第3楽章においていくつも観測されていましたので、今後の共同作業によってそれは見えてくるでしょう。特に第2楽章の微細にして分厚い弦楽合奏、まさに大勢のモブキャラクタによって主役=主題がどんどん隠れていってしまうような演出は見事でありました。

+ + +

前回の感想文からご覧の方は、書き手の態度がちょっと変わったことに気づかれたかもしれません。
それは、この日の前半に組まれていた《ダルダニュス》組曲《クープランの墓》が大変素晴らしかったからに他ならないのです。猛々しく荒っぽいことが第一義とされたらしい(あるいは練習の不足が原因だったのかもしれない)ベートーヴェンとは似ても似つかぬ、あのようにクリアなサウンドが聴かれるとは想像していなかった。ベルリオーズの演奏に対して浴びせられた喝采は、僕としては、ほとんど残らずラモーとラヴェルに供されるべきだったと思う。

《幻想交響曲》に比べて半分くらいのコンパクトな編成で扱われた《ダルダニュス》組曲は、そのぶんカンブルランの意図がアンサンブル全体に染み渡り、えもいわれぬ典雅な響きに。
ピリオド本流の指揮者でも、今回のように<当意即妙>だけでラモーのテクスチュアを織り上げることのできる人っていうのはそんなに多くはない印象です。おっかなびっくり扱ったために編み目が緩すぎたり、踏ん張りすぎて奇怪な模様ができてしまったりするのは、たまには楽しいけどいつもでは困る。しかしカンブルランは特に弦楽器に対して弓の扱い方の指示を多く飛ばしたようで、多くの音はしっとりと(でもしっかりと)したメッサ・ディ・ヴォーチェで表出するものですから、読響としてはかつてないほど軽い音になっていたのではないかと思います。もちろん、輝きはゴージャスなままで!
オケも指揮者もちゃんと小さなアンサンブル作品に向き合っているなあというのが伝わってきたし、何よりもカンブルランがこういう音楽で何を目指す人なのかが(何となくではあるけど)わかったのが嬉しい。拍手を聴いていると、たぶん読響に興味のある普通のお客さんはラモーなんか箸にも棒にもかけないんだろうけど、個人的にはとてもいい現場に立ち会ったという感じがする。これがカンブルランの所信表明だったのかもしれない。

《クープランの墓》について書くには文章が長くなりすぎました。だいたい、目指しているところはラモーの演奏とほとんど違わなかったのです。トゥッティがカンブルランの意志を捉えて有機的に動き出したら、読売日響は新しい段階に足を踏み入れるのかもしれません。

+ + +

今回から(今回だけ?)数年ぶりにサブタイトル制を復活。
by Sonnenfleck | 2009-04-21 06:44 | 演奏会聴き語り

ラモーの旨み

c0060659_1225407.jpg【Paradizo/PA0005】
●ラモー:鍵盤作品集
⇒スキップ・センペ(Cem)+オリヴィエ・フォーティン(Cem)

「ちょっと出し」になった今年のLFJ情報、「あの人(イケイケ系クラヴサン奏者)」がセンペだったらとっても嬉しいです。H氏でも嬉しいけど、少し期待して待ちましょう。

さてスキップ・センペの自主制作レーベル「Paradizo」からの新譜は、待望のラモー作品集。ここのセンペはイケイケの仮面の上にさらにねっとりとした豊饒の仮面を注意深く被り直していて、とろけるようなタッチでラモーの音楽を奏でています。植物的かつ妙に「安定した」ルイ・クープラン、あるいは南国フルーツのようにケイオティックなドメニコ・スカルラッティを思い出してみると、同じ奏者の指からこんなに動物の肉汁を感じさせる音楽が流れ出していることに驚きますね。でもこの千変万化するスタイルこそがセンペの魅力であり、いずれも根幹には、注意深い様式リサーチと、藝術としての豊かな感情表現、そしてもちろん目覚しいテクニックが混淆状態で渦巻いているわけで。

トラック2の《メヌエット》やトラック9の《クーラント》、トラック10の《サラバンド》など、こんなにミニな曲でさえ滴るような旨みを閉じ込めているのは、センペの旋律線へのこだわりのおかげでしょう。拍が破綻する寸前までメロディを追い込みながら、それを破綻と感じさせないのはとても不思議です。話が脱線するけど、もしかするとこういう手法はコルトーなんかがやっていたこととそんなに遠い領域ではないのかもしれない。
あとはご存知《キュクロプス(一つ目巨人)》。技巧と歌心の幸福な結婚。

オリヴィエ・フォーティンと一緒に2台クラヴサンで弾いている第1コンセール第5コンセールも、期待にそぐわぬ金襴緞子の豪華世界。轟然たる大音響に目の奥がチカチカしますが、巧者二人が二人してねっとりとしたアゴーギクを効かせているわけで、単細胞な大音響とは一線を画しています。
第5コンセールの《ラ・キュピ》なんか腐敗寸前のバナナみたいに深い甘みを放っていて、この感覚は他では体験したことのない類のものですね。複雑に絡み合うメロディの息、崩壊しそうなくらいたっぷりした和音、生で聴いたらどんな感興を催すことやら。。
by Sonnenfleck | 2009-01-24 09:40 | パンケーキ(18)

秋の新色ラモーでグランモテ系美人。

c0060659_6271042.jpg【harmonia mundi/HMA 1951078】
●ラモー:グラン・モテ集
→シュザンヌ・ガリ(S)、リエヴ・モンバリウ(S)
  アンリ・ルドロワ(C-T)、ギ・ド・メ(T)
  ステファン・ヴァーコー(Br)、ペーター・コーイ(Bs)
⇒フィリップ・ヘレヴェッヘ/
  シャペル・ロワイヤル+コレギウム・ヴォカーレ団員

ふと思い出してデュモンのグラン・モテを聴いていたんだけど、さらに下って、そういえばラモーのグラン・モテに関しては何も書いてなかったなあと思って。
デュモンは1684年に亡くなり、一方のラモーは1683年に生まれているから、同じ形式で作品を生み出していてもそこには途轍もない差異があります。ふよふよとしたモノトーンの世界にうずくまるデュモンに対して、ラモーは巧みなオーケストレーションで「原色刷り」と言ってもいいくらい鮮烈なイメージを聴き手にもたらすわけ。

ラモーがグラン・モテを作曲していたのは彼がトラジェディ・リリクやオペラの大家になる前、30代の頃だったのですが、すでにこの頃から豪快なセンスを発揮しています。太鼓ボコボコ+ラッパがババーン、、とはならないにせよ、これは市井の聴き手のことを意識しているなあという局面がたくさん見受けられるんですね。
たとえば《主がシオンの繁栄を回復された時》の終曲合唱に、彼は生々しい半音階を用いて背筋が寒くなるような効果を持たせているし(これはマジでビビる)、たった2分半しかない《叫びつかれて力は失せ》では、ため息をついて脱力するような奇妙なリズム+不協和音の連続から、プーランクのような「痺れるクール」を感じます。
これ、特に後者を耳にした当時の会衆はどんな気分に襲われただろうか。
現代的ギャップに換算すれば、ガーシュインとベトベンの楽しい「のだめコンサート」の最後で茂木氏がおもむろにラッヘンマン振りました、というクラスのエグさでは。

ソロもオケメンバーも申し分なく豪華だし、鮮やかなのに刺々しくないという不思議な肌触りのラモーであります。いまだヘレヴェッヘの正体がしっかりと掴みきれない小生にとっては、これがマイルストーン的ディスクのひとつ。
by Sonnenfleck | 2008-10-02 06:37 | パンケーキ(18)