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on the air:ブリュッヘン、5分間だけドビュッシーを振る@ユトレヒト(3/16)

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【2012年3月16日(金) 20:15~ ユトレヒト・フレーデンブルフ音楽センター】
●ドビュッシー/ラヴェル:《ピアノのために》~サラバンド
●モーツァルト:Pf協奏曲第17番ト長調 K453
→アンドレアス・シュタイアー(Pf)
●ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調 op.60
⇒フランス・ブリュッヘン/オランダ放送室内フィルハーモニー
(2012年3月27日/Nederland Radio 4 オンデマンド)


150年に一度の快挙である。ブリュッヘンの振るドビュッシー(というかラヴェルというか)がどーーーうしても聴きたくて、つまりこのたかだか5分程度の音楽を楽しみにして、オランダ国営放送のサイトにアクセスしたのだった。

+ + +

今回取り上げられたのはドビュッシーのサラバンド、つまり4月1日の東京春祭ドビュッシーマラソンでも聴いた、あの曲である。あのとき藤井一興氏が言っていたけど、《忘れられた映像》のサラバンドと《ピアノのために》のサラバンドは、ほぼ同じ曲でありながら微妙に#や♭の有無が異なってるそうだ。もちろんラヴェルが知り得たのは《ピアノのために》のほうだから、編曲したのはそちらだろう。

で、たしかにフォルムは古い舞曲なれども、旋律は明確にドビュッシー、管弦楽法は明白にラヴェルである。フレージングはどことなくぎくしゃくしながら、マチエールは聴き間違えようのない濃厚なブリュッヘン節であった。彫りは深く、打点は重く、陰翳も濃い、昔ながらの彼の剛胆な音楽づくりが、ドビュッシーについてこのような方向に働くとはね。

歌い出しから古色蒼然とした音色がオーケストラに(特に木管隊には厳しく)要求されているようだ。古楽のひとがモダンオケを振って19世紀末の懐古趣味音楽をやってるんだから、状況は相当に捩れまくっているわけだが、何かストンと落ちてしまって違和感ゼロだな。最後に銅鑼がくぉーん…と鳴るまで魔法のような5分間。

+ + +

こっから先はおまけのようなものですが、モーツァルトはシュタイアーが借り猫のように大人しくてちょっと拍子抜け。というかブリュッヘンとシュタイアーの方向性があんまり違わないのかもしれない。少なくとも反発し合うという感じではない。第2楽章の終結部でも合体技・黒々とした不穏が垣間見えた。

ベト4はなんというか、かなり自由な造形になってきてます77歳。
by Sonnenfleck | 2012-05-24 22:04 | on the air

景山梨乃 ハープデビューリサイタル@東京文化会館(12/22)

c0060659_8512034.jpg【2011年12月22日(木) 19:00~ 東京文化会館小ホール】
<フランスハープ音楽の夕べ>
●タイユフェール:Hpソナタ
●グランジャニー:《子どもの時間》
●コンスタン:《ハルパリュケ》
●ルニエ:『告げ口心臓』による幻想的バラード
●カプレ:『赤死病の仮面』による幻想的物語
●フランセ:五重奏曲第1番
●ラヴェル:序奏とアレグロ
○アンコール ドビュッシー:アラベスク第1番
→長尾春花(Vn)、山本美樹子(Vn)、松村早紀(Va)、山本直輝(Vc)
 窪田恵美(Fl)、前田優紀(Cl)
⇒景山梨乃(Hp)


佳いプログラムだとは思いませんか皆さん。
忘年会の特異日みたいなこの木曜日、幸いにして?何の予定もなかったので、急に決めて当日券で入りに行ったのだった。何しろ曲目が素敵だもんね。

ハープのリサイタルは、実は今回が初体験である。だから、ホールのどのへんに座ったらよいかもわからない。この楽器の正面はどこにあたるのか?
で、数年分くらいのハープ分を一気に摂取して、あらためて、ハープってのは(良い意味でも悪い意味でも)独立して閉じた楽器だなあというのを実感することになる。

+ + +

前半のソロ作品群では、この楽器が一台で行なう発音や表現する物事の幅広さを思い知らされた。考えてみれば、ハープはギターやリュート以上に複雑な角度から弦を弾くことができるわけだから、アーティキュレーションはそれこそ無限だよね。ショスタコーヴィチの交響曲で聴くチェレスタとかシロフォンみたいなハープの発音って、あれだけが「ハープらしい音」のカウンターパートじゃないんすね。

その意味で、マリウス・コンスタン《ハルパリュケ》が表現するイメージが興味深い。つまり空疎さや残虐、淫蕩に放心といったもの。こういう音楽では、ハープという楽器のくどいデザインが一周回ってよく活き、パフォーマンス自体がコンセプチュアルなものと化す。その好例だろうな。
あるいは、ルニエやカプレの「ポー音楽」。恐ろしく繊細な描写能力。


↑《ハルパリュケ》から終結部。

そして後半のアンサンブル作品群では、ハープの音像が擦弦楽器の音のエッジに負けて簡単に「最背面」に回ってしまう、この楽器特有の圧しの弱さが露呈していたのだった。圧しの弱さを生かして楽曲の壁紙にするのがもっとも平凡な解決とするならば(フランセ…)、しかし、ラヴェルの天才は平凡の愚を犯さない。

ラヴェルの序奏とアレグロ
小生ですね、この曲をようやく生で聴けてかなりテンションが上がっているんですが、弦楽四重奏にフルートとクラリネットまでいる、この鮮やかな音響体に、さらにハープまで加えてバランスが崩れないどころか、ほとんどオーケストラみたいな音がゆら…と立ちのぼっているのは驚き以外の何ものでもないですよ。ラヴェルの天才を聴かされると、カプレやフランセはすっかりかすんでしまう。

景山さんのハープはこの日いちばんの冴えを見せていたように感じる。
ハープの上手下手ってあまりよくわからないんだけども、「序奏」のおしまいにカデンツァのように配置されたハープの見せ場では、景山さんの撥弦がガラスのように硬質になり、「アレグロ」が始まってもエッジで競り負けない。むろんラヴェルがそのように設計している部分も大きいだろうが、音大生らしく急にテンションを上げたストリングス4本を向こうに回して、堂々と渡り合っている。

1990年生まれの景山さんはこれから、吉野直子さんや篠崎史子のようにハープ界を背負って立つ人材に育っていくのだろう。

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開演前にホワイエで飲んだ生ビールが奇妙に美味かった。疲れているな。
by Sonnenfleck | 2011-12-23 10:11 | 演奏会聴き語り

モニクおばさんとモーリス

c0060659_1010927.jpg【DGG/00289 477 5353】
<ラヴェル>
●Pf協奏曲ト長調
●左手のためのPf協奏曲ニ長調
●ソナチネ
●高雅にして感傷的なワルツ
→ポール・パレー/フランス国立放送管弦楽団
⇒モニク・アース(Pf)

とっても佳い演奏です。知らなかったあ。
ラヴェルの協奏曲でいつも聴いてるロルフ=ディーター・アレンス+レーグナー/ベルリン放送響の録音は、オケの音色はほとんど最強なんだけど、ピアノが微妙な瞬間も多々あって、なんとかならないものかしらんと感じていたのだが、ここへ来てやっと美しいバランスの演奏に出会うことができた。

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ト長調のほう。
アースおばさんのきめ細やかさな音色は、彼女のドビュッシーを何度も何度も何ぁーん度も聴いた自分には、ごく当たり前に染み入ってくる。ばあちゃんの味噌汁という感じだ。ドビュッシーのプレリュードと異なるのは、そこでタッチのさらなる怜悧さが追求されているところかな。

パレーのサポートはちょっぴり癖がある。ラヴェルが本来的に抱えている「かたち」のエグさエロさをわりにストレートに演出することで、ドビュッシー風に流れるのをよく防いでいると思う(蛇足だけど、パレーはドビュッシーでも「ドビュッシー風を避ける」ので、結果としてあの剛毅な不思議音楽ができあがる)
第2楽章の複調的階層を、一部の管楽器をかなり強調することで炙り出したり、第3楽章ではピアノからゴジラ主題を受け取ってゾワゾワと蠢かしたり、この指揮者ならではの細かさは枚挙にいとまがない。

そして、より素晴らしく、理想的な演奏なのが「左手」。
ラヴェルの管弦楽作品のなかで最もラヴェルが「素」の状態なのが「左手」だと思っているんだけど、ほかの作品のお洒落な外側に影響されて、この協奏曲の岩山のような荒々しさはあまり顧みられない。でもこの録音は違う。

ここでのアースのタッチは野人のようであり、野人が岩山を駆けるような軽快な運動性と、同時に、野人が感じているシンプルな哀しみのようなものにもちゃんと気を配っていて、軸がぶれない。
パレーは岩山を蔽う黒雲や稲妻のような烈しい伴奏をつける。だいたい模っ糊り模糊模糊としてしまうこの曲のオケ部からちゃんと「かたち」を見つけ出して、いつものように鋭角的に仕上げている。藝術を感じる。



アンコール風に置かれた2曲。パレーもオケもいなくなってアースおばさんの肩の力が抜け、親しみ深いドビュッシーの薫りがふあふあと立ちのぼってくる。「ワルツ」が本当に高雅で感傷的に聴こえる演奏はけっして多くない。
by Sonnenfleck | 2011-07-30 10:12 | パンケーキ(20)

イーヴォ・ポゴレリチ リサイタル@サントリーホール(5/5)

4月28日のデュトワ/フィラデルフィア管との超対決、5月3日の怒号飛び交うLFJ出演などのレヴューが上がるにつれ、この伝説を聴き逃すわけにはゆかぬと思われて、5月5日の当日券に並ぶことにした。
カラヤン広場に薫風吹き抜けるこどもの日、30枚の当日券を求める長蛇の列は、おのおのの時間を心地よい期待のうちに過ごしたものと思われる。あの中の誰が、その後展開されることになる人心惑乱時間を想像していただろうか。

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c0060659_10142736.jpg【2010年5月5日(水) 14:00~ サントリーホール】
●ショパン:ノクターン第18番ホ長調 op.62-2
●同:Pfソナタ第3番ロ短調 op.58
●リスト:メフィスト・ワルツ第1番
●ブラームス:間奏曲イ長調 op.118-2
●シベリウス:《悲しきワルツ》
●ラヴェル:《夜のガスパール》
⇒イーヴォ・ポゴレリチ(Pf)



開場遅れること10分、開演遅れることさらに15分。
極端に照明を落とした暗い舞台に、急ぐでもなく悠々と歩み出てくるポゴさん。

前半のショパンとリストの80分間は、この二人の作品に縁遠い僕にとっては、まさしく気が遠くなるような時間でありました。
かの有名な停滞的テンポと極端に幅広のデュナーミクを全身に浴びることで、こちらの集中力は十数分で完全に切れ、幾度も短い眠りに落ち、目覚めてもまだ曲の終わりが来ない地獄。「吉田秀和 meets クナッパーツブッシュ」を追体験した。

プログラムに掲載された過去のインタビューで、こう語るポゴさん。
「私の音が長く続くのは、それが深い響きだからです。私はやたら速く弾くなどということを好みません。もちろん、非常に速く演奏することはできますよ。けれど、深い音には長い生命があるのですからね。響きを維持することを好み、2つの音を直ちにひとつの線に連結することは求めない。それよりも私は、をみたいと思うのです。」(「ムジカノーヴァ」2006年1月号)
ぶつかり合った音符が虹のように透き通って、人智を超えていた瞬間も多かったけれど、あるいは絶望的に混濁して、雨のアスファルトに滲んだガソリンの虹のように醜悪な瞬間も多かったのは事実。

+ + +

後半、急に追加されたブラームス、それからシベリウスは、原曲を多少知っているために、前半に比べればまだポゴレリチの行為が追い易かったといえる。(プログラムの前半は、だからショパンをしっかりと知っている人なら、凄まじい感激に襲われたのかもしれなかった。)
いま、比較の試みにアファナシエフのop.118-2を聴いてみました。
そうすると、アファナシエフがいかに遅いテンポを以て任ずるピアニストであったとしても、彼の咀嚼はあくまでも理知の辺縁に踏み止まっているのだということがよくわかる。つまり、シンプルに歩くのが遅い人と、意識の森林をさまよいながら足を前に運んでいるだけの人では、速度の意味が違いすぎるということ。

深い森や臭いのする沼地に変わってしまったブラームスのスコアは、拍動や旋律がばらばらにほどけて、和音の雰囲気だけがゆらっとたちこめる異様な空間として示されました。このやり方を、ポゴレリチはここまでのすべての作品に同じように適用するという本当に野蛮なことをしていたのだけど、作品側からの反応・照り返しが最も良かったのは、意外にもブラームスだったように思った。

+ + +

《夜のガスパール》。これはたぶん、昔のポゴレリチの「かたち」が破壊されずに残っていた。
ピアノという黒い楽器の秘孔を突いてビーストモードに変えてしまうポゴさんの手腕は魔術的であったが、また同時に、この日唯一、自分がステージに立っている世界的ピアニストで、聴衆に囲まれていることを思い出した瞬間だったのではないかと思う。コンサート会場で聴くホロヴィッツというのは、こういう感じだったのではないかと、なんとなく想像する。

心胆コールド。しかし、久しぶりに、藝術行為を聴いたような気がします。
by Sonnenfleck | 2010-05-22 11:33 | 演奏会聴き語り

楽園と禁欲

c0060659_8493953.jpg【ORFEO/C013821A】
<ラヴェル>
●Pf協奏曲ト長調
●左手のためのPf協奏曲ニ長調
→クン・ウー・パイク(Pf)
⇒ガリー・ベルティーニ/シュトゥットガルト放送交響楽団

このCDはベルティーニの数少ないスタジオ録音盤ということで入手していたものです。1981年のベルティーニはここで、チェリビダッケ政権が終わった後のシュトゥットガルト放送響を使い、夢のような人工楽園を造営しています。ベルティーニが伴奏をするラヴェルの協奏曲は(ト長調の方ね)、アルゲリッチをソロに迎えたライヴ録音が先年発売されていますが、あそこに記録されているものに比べるとこちらのスタジオ録音は当然ながら塵ひとつないくらい滅菌されて、構造が燦然と輝いています。

ところが、聴き始めて最も注意を惹くのは、実はクン・ウー・パイクの極端に禁欲的なソロなのでした。僕はこの人がNaxosに録れているプロコフィエフの協奏曲全集が結構好きでこれまでも聴いてきたのですが、記憶にあるそのパフォーマンスに比べても、このラヴェルはあんまりにも静かでたじろがず、騒がず、動かない。凄い。
両手協奏曲第1楽章第3楽章のパイクは、ベルティーニの人工楽園の中を浮遊するだけで良しとしているような雰囲気。Pfソロの録音レベルが極端に低いということ以上に、オケを押しのけて前に出ようなんておこがましいと、そんなふうな姿勢が感じられる。テクニックは抜群な人なので余計そんな感じなのですが、「ピアノ協奏曲」として作曲された音楽の録音で、ピアニストがこんなに脇役を楽しそうに演じている例を僕は他に知らない。

じゃあ真ん中はと言ったら、その第2楽章こそこの録音の肝なのだ。
人工楽園が夜を迎えて閉園した後、相対的にパイクの緩やかなそぞろ歩きがクローズアップされることになります。この楽章のメロディの美しさを、並みの演奏よりもずっとずっと雄弁に語ってくれるのが、ここでテンションが上がってしまうでもなく、ふんわりとしたアーティキュレーションのままでストイックに演奏してしまうパイクの演奏なのですね。
昼間ガチャガチャとうるさい人が、夜になってムード満点になることの嫌らしさを、この罪作りな協奏曲はしばしば教えてくれます。ここでは、そこがよくわかっているベルティーニとオーケストラの強いサポートもあって、パイクの静かな声が静かに響く。とてもいい演奏ですよ。

一方、作品としてより優れる左手協奏曲は、指揮者のほうでかなり熱くなっている感がありまして、透明感のある管弦楽がしなやかに伸び縮みする様子は、クラシック音楽を聴く醍醐味の一つ。ベルティーニが遺したスタジオ録音の中でも、この左手協奏曲の伴奏は忘れてはならないものだと思いますね。パイクもそれがわかってか、両手のときほどには控え目ではなく、華やかな見得を切ったりしている。
by Sonnenfleck | 2009-08-29 08:51 | パンケーキ(20)

on the air:カンブルラン/南西ドイツ放送響のカーター

c0060659_6335761.jpg【2001年9月9日 ルツェルン・文化会議センター】
<ルツェルン音楽祭'01>
●ハイドン:交響曲第82番ハ長調 Hob.I-82 《熊》
●カーター:Ob協奏曲(1986-1987)
→ハインツ・ホリガー(Ob)
●同:Symphonia "Sum fluxae pretium spei" (1993-96)
 ~第3楽章 アレグロ・スコッレヴォーレ
●ラヴェル:《高雅にして感傷的なワルツ》
⇒シルヴァン・カンブルラン/南西ドイツ放送交響楽団
(2002年3月27日/NHK-FM)

エアチェックしたMDを眺めてたら、カンブルランの8年前のライヴが。恐らく彼が得意な古典とモダンの溶接プログラムでした。接合部が奇怪に目立つことこそカンブルランの狙い!

しかし真ん中の2曲のカーターが、カッコよかったんですな。
カーターは「ゲンダイオンガクらしいゲンダイオンガク」だけど、ダイナミックレンジへのあからさま挑戦は行なわれないケースが多いような気がする。ゲンダイオンガクに欠かすべからざる急激な音量増大が苦手な僕からすると、カーターの比較的穏健な前衛ぶりは心地よく響きまして、このオーボエ協奏曲だって、1945年に85歳のマーラーが交響曲第20番を初演した後に書き上げた気軽なピースくらいに思えます。

テクスチュアは混雑しているけどカンブルランの手腕もあってか追いきれないほどではないし、むしろ音響が塊になっているところよりも散逸しているところのほうが多くて、そういった箇所の和音の透明感はこの曲に強い価値を与えているんじゃないかしら。なるほど読響で聴いたラモーと《クープランの墓》から予想されたとおり、こういう作品をやると滅茶苦茶に透き通った時空を発生させるカンブルラン。ホリガーの適切な超絶技巧、幅の広い音色はこの時点でまったく健在であって、気まぐれな王様のように振舞います。オーボエを協奏作品のソロに仕立てる作曲家は、オーボエの音色がもたらす思念に捕捉されるんでしょうね。ラヴェルしかりシュトラウスしかり、カーターしかり。

Symphonia "Sum fluxae pretium spei"(なんと訳すべきだろう?)の第3楽章もその名前どおり滑らかで、激しいダイナミクスによる断崖絶壁がないので安心して混雑した響きに浸っていられます。子どものころ、実家の裏山に山菜を採りに入ると、ときどきこういう害のない安心カオスに周囲を取り巻かれることがあった(これは当然、人家に近接した里山だからあり得たことなのだろうと思うけど)。この感覚は音楽そのものからはかなり遠いけれども、曲調に微妙な懐かしさを感じるのは、そんな記憶が根を張っているからかもしれない。

+ + +

《高雅にして感傷的なワルツ》は、ジタバタドスドスとしたアーティキュレーションがグロテスク。なんかさ、、そもそもこういうのが好きな人なんだね。カンブルラン。
by Sonnenfleck | 2009-06-10 06:35 | on the air

on the air:ジャン・フルネの思い出に@Netherlands Radio 4

1960年代のライヴ録音を、インターネットラジオからWAVE方式で録って、MP3に変換してiPodに格納し、それを電車で聴きながら携帯で感想をポチポチと打つ生活。このブログを始めた2005年には露ほども考えなかったリスニングスタイルです(そういえば当時はまだ自PCの中に音楽データは存在しなかった)。
少し前にNHKで読字障害のことを特集していて、テクノロジーの劇的な進化に人間の脳がついていけないのはむしろ当然、字の概念を操っているだけでもすげえぜ、というようなことが語られていました。最近よくこの視点から思う。

まあ、前置きが長くなったけど、フルネとオランダ放送の幸せな関係を示す番組が放送されたので聴いてみたということ。

【1961年9月23日】
●ワーヘナール:序曲《シラノ・ド・ベルジュラック》
●リスト:Pf協奏曲第1番変ホ長調 S.124
●ファリャ:交響的印象《スペインの庭の夜》
→エドゥアルド・デル・プエヨ(Pf)
●ラヴェル:《ダフニスとクロエ》第2組曲

【1952年5月29日】
●ラヴェル:《クープランの墓》

【2004年5月28日】
●ショーソン:交響曲変ロ長調 op.20
●フォーレ:《シャイロック》組曲から
●ラヴェル:《ラ・ヴァルス》
⇒いずれも、ジャン・フルネ/オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団


最初のライヴは1961年のモノラル録音だけども、よく晴れた土曜の10時半ころに洗濯物を干しているような、つまりとてもフルネらしい、何とも言えない気持ちよさがすでに伝わってきます。《スペインの庭の夜》もとにかく響きが明るく、またすっきりとしていて、この曲でさえ朝の洗濯物の文脈に落とし込んで違和感がない。ただし《ダフニスとクロエ》第2組曲だけはミュンシュみたいに直線的な盛り上がりを提示していて楽しいです。若フルネ。

続いての《クープランの墓》が非常に素晴らしい!オケがこのころはまったく巧くないくせに恐ろしいほどアクが強くて(このあとに聴く2004年のライヴとは隔世の感アリ)、山菜と野草を煮込んでみましたが味は保証できかねます、という強気の押し出し。当時39歳のシェフ・フルネがきりりと絞り上げた野生のラヴェルであります。

最後は2004年、フルネとオランダ放送フィルとの最後期の共演ですね。
《ラ・ヴァルス》がなぜか途中からしか流れなくて悲しい。香気のある演奏だけに。
しかし初っ端のショーソンの交響曲が、、とんでもない名演奏のようなので帳消しです。ニュアンスの盛り付けと全体の質感を調和させ、上品の極致のごとき「明るい」音響を実現しています。これがフルネなのだ。それでいてショーソンの様式を巧みに汲み取っているので、あたかも純白のワーグナーを聴いているようですね。もし客席で聴いていたら昇天。。

来週の月曜深夜にも、今度は《幻想交響曲》ほかが放送されるみたいですよ。
by Sonnenfleck | 2009-02-06 06:32 | on the air

名古屋フィル 第352回定演

c0060659_19341099.jpg【2008年11月15日(土)16:00~ 愛知県芸術劇場】
<ツァラトゥストラ7―舞踏の歌>
●ハチャトゥリャーン:バレエ《ガヤネー》から
〈剣の舞〉、〈子守歌〉、〈薔薇の乙女たちの踊り〉、〈レズギンカ〉
●ショスタコーヴィチ:バレエ組曲第1番
●ルーセル:バレエ《バッカスとアリアーヌ》第2組曲
●ラヴェル:《シェエラザード》
→浜田理恵(S)
●同:《ボレロ》
⇒大友直人/名古屋フィルハーモニー交響楽団


最近夕方の4時ころが猛烈に眠い。どうしてかな。
4時開演の名フィル定期は、だからとっても辛いんです。

ハチャトゥリャーンからルーセルまで、前半は起きていた時間と沈没していた時間が半々くらい。情けない。起きていた時間に関して感想文を書きます。(ルーセルは9割方沈没。)

ハチャトゥリャーンはチェクナヴォリアン/アルメニア・フィルの、ショスタコーヴィチはマキシム/ボリショイ劇場管の演奏が頭の中にあるから、大友氏のスタイルは(予想されてたけども)はっきり言って全然好みではありませんでした。ソヴィエトの作曲家の「バレエ」って平明に見える小節線の底にヘドロのように思念が沈殿しているから、額面どおり平明にバランスよく纏めるだけでは、僕は意味がないと思っています。
〈レズギンカ〉〈叙情的なワルツ〉〈ギャロップ〉も、よく研磨されてササクレは見つからない。テンポの伸縮もなくほとんど表情のないかわりに、清潔で健やかで○王の石鹸のごとき響きでした。こうした大友氏のバランスのよさは後半のラヴェルで活きてくることになりますが、前半は退屈だったです。申し訳ないけど。

+ + +

「ツァラトゥストラ」シリーズ第7回、「舞踏の歌」。もし僕がプログラミングを決める権限を持っていたら(大胆な仮定)、安易な気持ちで《高雅にして感傷的なワルツ》《ラ・ヴァルス》を持ってきてしまうでしょうが、ここでは《シェエラザード》

この「うた」が、非常に秀逸な出来。これが聴けただけでも元は取れたと思う。
大友氏の最大の美点は、まさしくこのラヴェルで最大限に発揮されたのです。つまり彼がブレンドした響きは、楽器がキシッ、キシッ、キシッ、と音を立ててアンサンブルに変形していくような、ラヴェル独自の合体ロボット的な精密さと精密さ自体による感覚的な快感を発生させることに成功しておりました。大友さんってこんなに優れたバランスを構築する人だったのか。初めて彼の真価を思い知ったような気がする。名フィルもコンディションがいい…。

もちろん、《シェエラザード》に対してこの日ひときわ大きな拍手が寄せられたのは、オケの音色の素晴らしさにだけに因るわけではないでしょう。ソプラノの浜田さんの声質や歌い口がこの日の大友+名フィルのサウンドによく合致しているといいますか、何か特段の相性の良さのようなものを感じさせたのです。声がオケに乗っかっているのではなく、オケが声を包括しているような。
ディクションはそんなに明瞭じゃなかったのでフランス語を解する方はイライラしたかもしれませんが、ちっともフランス語がわからない自分には一個の楽器が美しく鳴っているように聴こえて、20分間ひたすら美しい響きに溺れました。ほわわ。

《ボレロ》はね。過剰な誉め言葉も自虐的な反省も必要ないでしょう。あれが現時点での名フィルそのものだと思う。ソロの出来に関して脳内BPOや脳内CSOと比べてあーだこーだと文句をつけるのは実に簡単だけど、そういう問題でもないかなと。何より、拍手を浴びながら起立しているときの団員さんたちの「やりきった」顔がとてもよかった。
ああいう顔をしているオケは、もっと応援していかないとなと思う。
by Sonnenfleck | 2008-11-16 08:28 | 演奏会聴き語り

on the air:名曲のたのしみっ。吉田秀和。

c0060659_5562621.jpg「今日は試聴室っ。」 鎌倉の蝉の声が後景に広がっている。

【2008年9月27日(土) 21:00~22:00(NHK-FM)】
<私の試聴室>
●ガーシュウィン:《ラプソディ・イン・ブルー》*
●同:《パリのアメリカ人》
→パスカル・ロジェ(Pf *)
⇒ベルトラン・ド・ビリー/ウィーン放送交響楽団
(OEHMS/OC623)
●ラヴェル:《亡き王女のためのパヴァーヌ》、《水の戯れ》、
        ソナチネ~第2楽章
⇒アレクサンドル・タロー(Pf)
(harmonia mundi/KKCC501-2)

「今のは、An American in Paris。」
このアーティキュレーションの自然なダンディさ、および、頻出する鼻濁音の美しさは筆舌に尽くしがたい。今、吉田先生は《名曲のたのしみ》にプーランクを招いているところなんだけども、この日の「試聴室」はガーシュウィンとラヴェルの幸福な関係について。

ビリー+ロジェ+ウィーン放送響のガーシュウィンはアタックがきつくて音もギラギラし、いかにも表現主義的な感じで好みではありませんでしたが、続いてタロー兄さんのラヴェルが選ばれたところでガッツポーズ。
ずいぶん堂々とした体躯の《パヴァーヌ》はきっと微妙な皮肉が効いているせいだろうし、逆にソナティネの傷つきやすい風情も納得の品質。

「そいじゃ来週また。さよなら。」
先生さようなら。来週もラジオの前で待ってます。
これ以外に、95歳のパーソナリティが毎週喋る番組がこの世界にあるんだろうか。
『永遠の故郷―夜』買わないとな。
by Sonnenfleck | 2008-09-29 05:58 | on the air

名古屋フィル 第350回定演

c0060659_853294.jpg【2008年9月6日(土)16:00~ 愛知県芸術劇場】
<ツァラトゥストラ5―学問の拒絶>
●メシアン:《キリストの昇天》
●武満:《ファンタズマ/カントス》
→亀井良信(Cl)
●ラヴェル:バレエ音楽《ダフニスとクロエ》
→荻野砂和子/グリーン・エコー
⇒ティエリー・フィッシャー/名古屋フィルハーモニー交響楽団


メシアン+武満+ラヴェルによる「学問の拒絶」
いい。たまらなくいい。萌えのポイントを的確に刺激されます。

と言いつつ、実はメシアンと武満はそれぞれ聴いたことのない作品。
メシアン《キリストの昇天》はプログラムによると1932年から33年にかけて作曲されているので、まったくモダンの作品。コンテンポラリーじゃないよね。全4楽章、30分ほどの時間の中に、後々メシアンらしい音組織を形作る各要素たちが、ここではまったく別の形状に擬態して並んでいるような感じでした。ただし学問は拒絶されているから、これは交響曲ではない。

たとえば第1楽章〈みずからの栄光を父なる神に求めるキリストの威厳〉は、これはブルックナーの残り香がふわーっと漂ってくるし、一方で第3楽章〈トランペットとシンバルによるアレルヤ〉の根底にはルーセルのような軽快な運動性が聴こえてくる。
加えて特に第2楽章〈天国を希求する魂の清らかなアレルヤ〉で顕著なんですが、極めて点描的な、ウェーベルンのような感触がこの作品の全面に覆いかぶさっているんですね(頻出する管の大ユニゾンはショスタコーヴィチのお得意パターンだが、これは「管の大ユニゾン」というひとつの選択肢、パレットの中のひとつの色にすぎないようだ)。そのために各パートが裸になってしまう場面がかなり多いので緊張するだろうし、オケプレイヤーたちにとってはなかなか辛い曲かもしれません。
管楽器だけで演奏される第1楽章、そして弦楽合奏だけで演奏される第4楽章〈父のみもとへ帰るキリストの祈り〉、名フィルのメンバーはそれぞれ健闘していたと思います。…思いますが、後者に限っていえばもっとグラマラスな量感を出してほしかった。フィッシャーの指示かもしれないけどとにかくストイックで、ひんやりしてとても美しい音が出ているんだけど、ちょっと食物繊維っぽくて物足りないんですよね。。これは様式に沿った解釈だろうから、肉っぽくなったメシアンしか知らない自分としては何も言えないけどさ。。

続く武満の《ファンタズマ/カントス》
点描的でそんなにメシアンらしくない1曲目のあとに並べて聴くと、90年代の武満作品は余計トロトロでエロティックに聴こえるであります。タケミツトーンとクラリネットの相性は抜群であると思われますが、この日のソロを務めた亀井氏はとても耽美的な音質の持ち主のようで、いつ始まるともいつ終わるともわからない武満時間に溶け込んでいました。
よく練り上げられたこしあんのようにしっとりと光ったり、暗さを秘めたりして、オケの状態はこの曲が最もよかったように思う。この前のショスタコーヴィチもそうだったけど、こんな感じの響きを作るのが得意なフィッシャーのスタイルを僕は強く評価したいし、それを名フィルに導入しようとしている彼の試みもぜひ応援したい。

さて《ダフニスとクロエ》です。
ここで白状しますが、実は金曜と土曜、両方聴きにいったんですよ。

金曜のダフクロはもう本当にアンサンブルがガタガタで、合唱にもいらぬ緊張が走り、そういうときに限って個人のミスも集積し、さらに長いスコアの最初の1小節目で着メロが鳴り響いてしまって、それはそれは悲惨な出来に。。
メシアンと武満は金曜の方が厳しい集中力を感じたので、どうも前後半で力の配分をミスったんじゃないかなあと思うんですが、一方で「ツァラトゥストラ」シリーズにより大量の情報が注ぎ込まれた疲れがここにきて出てきたのかなあという気も。。

仕切り直して土曜日。
フィッシャー親方の意図しているラヴェルは速めのインテンポの中に自由なデュナーミクが効いているために柔らかく、それでいて冷たくツンと澄ましていて、各場面の切れ目には几帳面な句読点が置かれ、とこれまでの名フィルには(たぶん)そんなに馴染みのない要素が多く含まれていたんです。これも金曜のゴタゴタした演奏の原因かもしれない。
しかし…オケは土曜日に一変。
土曜日の午前中(金曜の深夜かも)に何があったか知りませんけど、アンサンブルの練り上げがまったく段違いなのですよ。レベルが違う。あちこちから匂い立つような素晴らしい響きが立ち昇ってきて、眩暈のするような幸福を感じました。

ダフクロはどの部分も欠かすことができないし、連続しているから意味があるわけで、どこかを取り出してああだこうだと書くのはあんまり気が進まないのだけど、特に強く印象に残っているのは〈無言劇〉かなあ。
それまでの仮借ないインテンポの行進がここだけ極端に緩められ、この日大活躍の首席Fl・富久田氏の音がふわふわと漂います。彼の音にはこれまでそんなに注目していなかったけれども、何よりノリとリズム感に優れているようで、これはフィッシャーの音楽づくりに間違いなく適していると思う。元フルーティストの指揮者にしごかれるのはなかなか大変だったでしょうが、フィッシャーがカーテンコールで真っ先に彼を立たせたのはもっともなことです。
(※《クープランの墓》がOb協奏曲なら、《ダフニスとクロエ》はFl協奏曲かも。)

打楽器陣は健闘していたと思う。金曜日はスネアがズレ気味で残念だったけど、土曜にはしっかり補正されていましたし。非楽音的な音が頻出するハープも素晴らしかったです。
ただし、ウインドマシン。
帰りがけに階段を下りていたカポーの男の方が「あれならオレでもできるぜー。ひゅ~ううう~ってやつ。どぁはははは!」って笑っていたけど、意外にそうでもないのだ。滑り出しと止めを円滑に行なわないと、風には聴こえなくなる。

合唱は、、指揮者が必死に口に指を当てて「しーっ!」とやるのに、なかなか声量をコントロールできない。あれだけ人数がいると(これまで何度か聴いてきたグリーン・エコーに比べて多かったような…)ひとりひとりが本当に注意しないと、恐怖の金太郎飴メゾフォルテになってしまうんだよなあ。残念。それでも金曜より土曜のほうがずっとずっとよかった。

+ + +

ステージ上にはマイクがセットしてあったけど、武満のときにソロ用マイクが立ってなかったから、合唱団員頒布用の録音かも。いや、武満はコンチェルトではないから総体の中に聴こえてこそという深謀遠慮に因っているのかもしれないけど。
by Sonnenfleck | 2008-09-07 09:29 | 演奏会聴き語り