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on the air:下野竜也/読売日響 第481回定演 [黛]

c0060659_6295071.jpg【2009年4月7日(火) サントリーホール】
●芥川也寸志:《エローラ交響曲》
●藤倉大:《アトム》(読売日響委嘱作品/世界初演)

●黛敏郎:《涅槃交響曲》
→東京混声合唱団
⇒下野竜也/読売日本交響楽団
(2009年5月31日/NHK-FM)

先週から2週連続で取り上げられている読響の定期公演。いよいよその後半部分、黛敏郎の《涅槃交響曲》です。

この曲こそライヴで体験してみたかったなあ。
まずは、第1楽章〈カンパノロジーI〉終結部でのブルックナーのような荘厳なマチエールに対する、第2楽章〈首楞厳神咒〉に現れた静けさ(これは物理的音量とは異なる!)から、仏教の感性を螺鈿細工のようにして「交響曲」に埋め込んだことによる効果のことを考えてしまう。
この場合、「地」の側が、仏教にまつわるものごとに比べると圧倒的すぎる力を持っているので、西洋音楽に精通した指揮者がこの作品を解釈することのアンフェアについても思いをいたすところであります。坊さまにも指揮をお願いしてみたらどうなるだろう?サントリーホールではなくたとえば延暦寺で?―しかし、こういったもしもトークも、結局のところ溶け合わない二者同士の独立が前提になっているわけです。そもそもがこういう作品なのだろうか。

もし第5楽章〈カンパノロジーIII〉でこの曲が終結してしまったなら、このモヤモヤした思いも確定的になってしまっていたのかもしれない。マエストロ・シモーノの特性や読響の好みを考えれば、彼らがこのアレグロ・マルカートな楽章に強い意味を感じているのはあまり疑いのないことだと思うし、事実、素晴らしくマッシヴな「西洋音楽」の演奏だもの。
そうなるとその後の第6楽章〈一心敬礼〉の存在がまったく心憎い。螺鈿細工の貝の殻も、土台となる漆器も、すべて砕けて粉々になりながら混ざり合う感覚―この楽章の奇妙な色気に、メシアンのような何かを見つけ出さないわけにはいきません。作曲者も最終的には溶け合いの方向で決着にしたんじゃないかなあ。

猿谷氏によれば、当日の会場には「若人」も多く訪れていて、演奏後の歓呼がなかなか収まらなかったとのことです(確かに拍手の冒頭、いいブラヴォが飛んでいました)。エローラの肉体賛美よりももっと奥まったところにある美のほうに、強く反応していたのかも。
by Sonnenfleck | 2009-06-03 06:52 | on the air

on the air:下野竜也/読売日響 第481回定演 [芥川&藤倉]

c0060659_6312744.jpg【2009年4月7日(火) サントリーホール】
●芥川也寸志:《エローラ交響曲》
●藤倉大:《アトム》(読売日響委嘱作品/世界初演)
●黛敏郎:《涅槃交響曲》
→東京混声合唱団

⇒下野竜也/読売日本交響楽団
(2009年5月24日/NHK-FM)

聴きに行ってみたかった読響定期が、まさかのNHK-FM登場!「現代の音楽」枠を使って2週分割オンエアと相成りました。嬉しいなあ。NHKに受信料を払う意味はこういうところにあります。

まず芥川の《エローラ交響曲》ですね。
サントリーホールのよく響くホールトーンの中で、細部は決して明瞭ではないけど、むしろこの作品の場合はそれが活きるよなあ。こういうゴツい曲をやるのにマエストロ・シモーノと「今の」読響の組み合わせは現代日本最高と思われます(名フィルもきっといい味出しますが)。
いやあオスティナートが、、かっこいいッス。滾るようなパワー。それだけだ。
会場の拍手が極めて鈍いんですが、ゲンオンヲタが集まれなかったのだろうか。

続いて藤倉大の《アトム》。世界初演です。これはもう一度聴きたいと思った。
弦楽器のぷつぷつとした気泡がいっぱい集合してテクスチュアが出来上がっていく様子はファンタみたいにカラフルでかわいらしいし、その後に立体感のあるサクサクとした生地と併せて悪戯っぽい。後半は打楽器を中心に据えたところから始まって、比較的静謐な時間が続くんですが、こちらもどことなくユーモラスなんだよなあ。下野/読響も腰が据わっていて、案外ありがちな「いいのかな~これこうでいいのかな~」みたいな自信のなさが、しっかりと排除されているのが気持ちいい。
藤倉作品って(語れるほど聴いてないけど、僕がこれまでに聴いた曲は)根底に「楽しませよう」っていう気持ちがあるように思うんです。それってゲンオンにとっても大事、、ですよね。

来週の「現代の音楽」はー、《涅槃交響曲》の一本です。また聴いてくださいね!
by Sonnenfleck | 2009-05-29 06:33 | on the air

下野竜也/読売日響 第107回東京芸術劇場マチネーシリーズ

【2009年1月10日(土)14:00~ 東京芸術劇場】
<メンデルスゾーン生誕200年記念プログラム>
●トランペット序曲ハ長調 op.101
●ヴァイオリン協奏曲ホ短調 op.64
 ○アンコール バッハ:無伴奏Vnソナタ第2番イ短調 BWV1003~アンダンテ
→小野明子(Vn)
●交響曲第4番イ長調 op.90 《イタリア》(1833/34年稿)
 ○アンコール 交響曲第5番ニ長調 op.107 《宗教改革》~第3楽章
⇒下野竜也/読売日本交響楽団


2009年のライヴ聴き初め。すでにして池袋芸劇がホームになりつつあります。
あのチャチな座席と濃紺の衛生陶器が実に懐かしく、趣き深い。

マエストロ・シモーノは11月の《聖パウロ》@名古屋も記憶に新しく、メンデルスゾーンから「聴きやすさ」のエッセンスを搾り出して提示してくれた点は大いに感謝するところであります。

最初のトランペット序曲ハ長調は珍しい曲ですね。
金管とティンパニによる一撃、それからやたらと浮かれた主題が特徴的で、蒼白メンデルスゾーンを期待している人は肩透かしだったかもしれない。途中、最高に艶やかなフーガが入ってきたりするんですが(メンデルスゾーンはこういうところが侮れない)、そこを器用に振り分ける指揮者と、アルブレヒト時代に比べて急激に駆動力が増したようであるこのオケの共同作業が巧くいっているのがわかるというものです。
それにしても終止がハ音でないのは奇妙。あの拍手の薄さは終止感の薄さによる?

昨年来から続く「2曲目のジンクス」どおり、メンコンは強力な睡魔に勝てず。
ソリストは爽やかな音色の持ち主だったようです。フレーズの形成に関してはちょっと考えさせられるところもあったのだけど、いかんせん当方は夢うつつでしたからね。。

さてさて《イタリア》は、通常演奏される初稿ではなくて、初演後にメンデルスゾーンが手を入れていた改訂稿がチョイスされましたが、この改訂稿の慎ましやかなスタイルには今回大いに驚かされました。これが聴かれただけでも足を運んだ甲斐があったです。
なんというか、彩度70%カット、みたいな感じなんですね。
この曲特有の華のあるメロディやハーモニーが、一応の外枠だけ残してぐっと渋くなり、ローマの謝肉祭の仮装が長屋のご隠居さんの江戸小紋に変わってしまったような衝撃です。特に第2と第3楽章の変容ぶりが強烈。
今回のシモーノの策は、あえてダルに仕立て上げて流れを滞らせた第1楽章と、繊細敏感な第2第3楽章の対比を聴かせるところに重点があったのではないかなあ。アクセントが四角四面、立方体がゴトゴトと転げるような鈍い第1楽章を臆面もなく提示した直後に、改訂稿の枯淡の雰囲気を生かした音づくりへモードを切り替える。やっぱり聴かせ上手ですよね。

この《イタリア》、第3楽章の途中でひとりの団員の方が明らかな体調の不良を見せて倒れかけたんですが(高熱でもあったんじゃないか)、額の汗を拭きつつ最後まで演奏に参加されていました。プロの根性にブラヴォ!です。
by Sonnenfleck | 2009-01-11 09:05 | 演奏会聴き語り

下野/名フィル+名古屋市民コーラス メンデルスゾーン《聖パウロ》

c0060659_634797.jpg【2008年11月8日(土)17:00~ 中京大学文化市民会館】
<名古屋市民コーラス 第38回定期演奏会>
●メンデルスゾーン:オラトリオ《聖パウロ》 op.36
→谷村由美子(S)
  谷田育代(A)
  北村敏則(T)
  末吉利行(Br)
→長谷順二/名古屋市民コーラス
⇒下野竜也/名古屋フィルハーモニー交響楽団


演奏についてあーだこーだと言う前に、作品自体の素晴らしさに惚れ込んだことを書いておきましょう。
キリスト教最初の殉教者・ステファノの逸話から、初めユダヤ教パリサイ派のエリートとして迫害者だったサウロ(=パウロ)が、天の光線を浴びて改心し、厳しい伝道ののち殉教を覚悟してエルサレムへ上るまでを2時間半で描くオラトリオ。パウロの生誕2000年(!)とメンデルスゾーンの生誕200年が交錯する08-09シーズンにはぴったりの選曲です。僕は今回生まれて初めてこの曲を耳にしましたが、これほど充実した作品がどうして滅多に演奏されないのか不思議に思う。

このオラトリオが作曲されたのは1836年、メンデルスゾーン27歳のときですが、雰囲気、というか音楽のフォルムがバッハの受難曲に酷似している。すなわちレチタティーヴォとアリア、重唱と合唱が折り目正しく連続する中で、ソプラノとテノールが交互に「福音史家」の役割を、バリトンがパウロを、合唱が「醜く残忍な群集」をそれぞれ演じ、ストーリーは淀みなく流れてゆくわけです。
ただし、フォルムはそのようにレトロなのですが、搭載されたエンジンや電気部品はメンデルスゾーン一流の繊細雄弁な表現を纏って、1836年当時最新鋭の実力を見せるというわけ。見かけは古めかしいので暢気に構えていると、メンデルスゾーンの劇的な表現力に度肝を抜かれることになります。メンデルスゾーン作品の最高峰のひとつじゃないかなホント。

+ + +

まず本公演の母体になっているのが、来年で結成50年を迎える名古屋市民コーラス
お年を召されたように見える方が多いのはやはり老舗だからでしょうか。ハーモニーにはどっしりとした安定感があり、表現力も(こう書いてはなんですが)老獪。律法を否定され怒り狂ったユダヤの群集と、イエスを希求する清純な心と、両方の描き分けが巧いんです。合唱を専門に聴いておられるリスナーの意見はまた別にありましょうが、アマチュアでこれだけ心の機微を表現してくれたら僕は何も言うことがありません。ブラヴォでした。
(第1部最後の22番と、第2部29番のヒソヒソ話+コラール、拍子にエスニックな香りが漂う35番、怒り狂った38番の群集、そして45番の終曲、このあたりの集中力が素晴らしかった。きっとずいぶん練習を重ねられたことでしょう。)

次に、マエストロ・シモーノに率いられた名フィル。こちらもよかった。
2時間半の長丁場だし、団員も作品の詳細に関して十分知悉しているとは思えませんから、ほとんど定期公演がもうひとつ増えたようなものでしょう。
下野氏は相変わらずよくスコアを読んでるんだろうなあという印象で、隅々まで自然なコントロールを効かせながら(いつもより少し安全運転だったけど、この人のフレーズ造形能力は実に素晴らしいと思う)、聴かせどころでは畳み掛けるようなスピード感やごついハーモニーを前面に出したりする。序曲の神々しく精妙な和音から終曲の大見得まで、もたれることなく運んでいました。
(いつもより弦が薄く聴こえるのはあの恐ろしくデッドな音響のせいだろう。金管陣はずいぶん安定していたし、木管陣、特にClのティモシーくんの豊かな表現力にはますます磨きが掛かってるような気がする。)

独唱陣に関しては評価が分かれます。
まず、見せ場の多いソプラノに登場したのが、今年のラ・フォル・ジュルネで一部の話題を攫った谷村由美子さん。僕もコルボが指揮するシューベルトの変ホ長調ミサ曲で彼女を聴いて「突出」と書きましたが、それは単に声量だけの問題ではなく、彼女の透き通った声質や深い表現力は今回のメンデルスゾーンでも遺憾なく発揮され、結果として本公演でも「突出」して素晴らしかったと書かざるを得ません(ソプラノのアリア〈エルサレムよ!〉の神々しさには涙が出た)。なーんか、、この人何かのきっかけで有名になったら爆発的に人気が出そうなんですよね。。プロフィールに書いてあったんですが、来年コルボの《ロ短調ミサ》が発売されるみたいで、そこにソプラノとして参加してるらしいです。ブレーク間近か。

逆にもうひとり見せ場の多かったテノールの方は、、突出して絶不調。どうしようもないくらい音程が取れてなくて、声も裏返るし、苦しそうだし、はっきり言って「お金払いたくない」という感じでした。
バリトンの末吉利行氏は悪役っぽい声質で、最初のパウロのアリア〈彼らを根絶やしにしてください、万軍の主よ〉が禍々しく素敵でした。改心してからも声に翳りがあって面白かったなあ。ヘレニストのパウロは原始キリスト教が最初に内部に抱えた「他者」だったのかもしれず、パウロの内面も複雑に絡み合っていたはずだもの。
アルトは、、この作品では極端に出番が少ないけど、水準以上でした。

+ + +

というわけで、総合的には「名古屋だけにしまっておくのはもったいない」公演でした。
名古屋的にも(数は少ないけど名フィル定期で見るような)クラヲタ層が来ているようには見えず、もったいないなあと思う。お客さんも「職場の同僚に招待券もらったから行くわ」的な目的意識の薄い人が多いようで、せっかくの熱演にも拍手が薄く、これももったいない。

検索してたら、来週の金曜日に湯浅卓雄氏の指揮による藝大フィルハーモニア・合唱定期でこの《聖パウロ》が取り上げられるみたいです。関東の方は行かれてみては。一度は生で耳にしておくべき作品と思いますれば。
by Sonnenfleck | 2008-11-11 06:38 | 演奏会聴き語り

読売日響名曲シリーズ 名古屋公演

調べてみると、最後に読響を生で聴いたのはなんと2005年9月、ロジェストヴェンスキーのオールグラズノフ―西行短歌の朗詠付き―@芸劇という珍妙なプログラムでありました。。オレ(アタシ)聴いたよっていう方、おられますか。。
つまり、スクロヴァ爺さん+シモーノ体制になってからの読響をライヴで聴くのはこれが初めてなんですよ。アルブレヒト時代からどう変わったか?あるいは変わらないのか?

c0060659_6581148.jpg【2008年5月27日(火)19:00~ 愛知県芸術劇場】
●ドヴォルザーク:序曲《謝肉祭》 op.92
●グリーグ:Pf協奏曲イ短調 op.16
→清水和音(Pf)
●ドヴォルザーク:交響曲第8番ト長調 op.88
  ○アンコール バッハ/ストコフスキー:アリア
⇒下野竜也/読売日本交響楽団


プログラムもチラシも…どうなのよ…って感じですが、お懐かしやの読響のためであれば駆けつけます。
でも客席を観察すると、読売新聞からの「聴衆」が非常に多く入っているらしい上に、企画自体が某大手警備会社の冠をかぶってるため、果たして正規料金を払って入場したのはどれくらいいるのかなあという感じ。マナーはここ最近出かけた演奏会の中でも随一の酷さで…飴ちゃんおしゃべり咳くしゃみ、指揮マネ着メロフライング拍手。

で。読響の音は一層ブリリアントに、そして一層重くなったような印象を受けました。
悪い言い方をすれば、箍が外れて放恣な方向に向かっているような気もする。これであの細かいスクロヴァチェフスキとぶつかってるんですから、予想がつきません。
しかし同時に、マエストロ下野と物凄くいい関係を築いているらしいことも伝わってくるんです。1曲目の《謝肉祭》みたいに派手派手な作品であっても、彼の指揮棒にまめまめしく反応して丁寧な造形を(一応)心がけているあの様子、、聴いててちょっと妬けてくるくらい。このコンビをフツーに聴ける東京の人々が羨ましいなー。

グリーグは寝落ち。

ドヴォ8は、(恐らく最後に生で聴いた)フェドセーエフ/東フィルの呪縛から逃れられずにいたんだけれども、当夜のまったく地に足の着いた演奏には感心しました。
まず、下野さんって結構「効果的」すれすれな演出を施すなあという印象があって。今回のドヴォ8でも第1楽章でベッタベタに歌ったり、第4楽章の「コガネムシ」を仰々しく飾ったりする。しかし、それなのに脂っこくないのがこの人の音楽の面白いところで、ギラギラはお手の物である読響を操りながらも、最終的にはほっこりした丁寧な響きを届けてくれるんですね。

グラデーションの文目が微細にコントロールされたり、弱音で歌うことがちゃんと要求されたりした結果、全曲を通じて最も強く印象に残るのが第4楽章の穏やかな再現部なんです。後ろに爆発的なコーダが控えているのに(事実シモーノは大いに煽っていたけど)、あの長閑な抒情を低い姿勢からじっくりと造形するセンスに惚れました。

ノーラン得意の「わりと気ままなソロ」も久しぶりに聴けたし、満足満足。
by Sonnenfleck | 2008-05-29 06:59 | 演奏会聴き語り

名古屋フィル 第331回定演

【2006年12月16日(土)16:00~ 第331回定演/愛知県芸術劇場】
●ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調(原典版)
⇒下野竜也/名古屋フィルハーモニー交響楽団


アーノンクール体験の直後でコンサートへ行く情熱を完全に無くしていたために、前回の定演はパス、名フィルは2ヶ月ぶりです。そしておそらく2006年の演奏会納め。
いつも開場まで時間をつぶす近くのドトールへ向かって歩いていたら、、どう考えても今日の指揮者・下野氏にしか見えない人が向こうからやってくる。すれ違いざまに見事に目が合いまして(笑) もしかしたら「今日の客だな」とか思われたでしょうかっ(←自意識過剰)

下野氏の指揮を聴くのはこれが初めてなのですが、そんな感じがしないのは彼のブログ「たつの雑談」を愛読していたからなんでしょう。惜しまれつつも2006年2月をもって休止となったこのブログ、ここで目にした下野氏の真摯な人柄はおそらく彼の音楽にも現れているのだろうなあと思って今日のコンサートに臨んだわけですが、予想は裏切られなかった。

1stVnと2ndVnが対向、ティンパニが下手奥に移動し、さらにCb軍団が舞台最奥に横一列でどどんと並ぶ「ノリントン配置」。今日の演奏は細かなニュアンス表現のためにテンポを頻繁に動かすアプローチでしたが、にもかかわらず終始感じた物凄い安定感は、おそらくこの配置から生み出される響きの肌触りに因るところが大きかったのだと思います。フーガになったときの対向配置、そしてCb8台のf字孔=計16個が全て真正面を向いていることがどれだけ大きな意味を持つか、今日は改めて身体で感じることができました。

第1楽章冒頭、8人のCb奏者が、何もない空間に決然とピツィカートを打ち込みます。それは古典的にブルックナーらしさとされてきた模糊たる響きとは一線を画す、即物的な音。ブルックナーの5番は「まるでオルガン」な交響曲なので、こうした即物性が根底にあると実に聴き映えがする。でも続く金管群のコラールが、なんだかとっても人間くさい。音の濁りを排除しない「優しさ」が、ザッハリヒなテクスチュアにやんわりと浸み込みますよ。
第5の第2楽章はブルックナーの作品でもっとも好きな瞬間ですが、、果たしてこの男っぽさ、この力強さ。ほとんど強引なくらいのドライヴ感で引っ張りますが、強引に引っ張られることがこうして時に聴衆に心地よさを与えることを、下野氏は巧く捉えているようです。。ティーレマン/ミュンヘンpoの雰囲気によく似ている。
それにしても第3楽章のトリオには驚いた!たくさんのきれいな羽虫が飛び交っているような幻惑感に襲われましたよ。激しく前のめりにテンポアップした第1スケルツォとは対照的な、メンデルスゾーンのような軽い木管たちを非常に巧く処理していたと思います。もちろんオケにもブラヴォ。
そして第4楽章。序奏でClがフィナーレの主題動機で前楽章のエピソードたちを区切りますが、この場面転換の鮮やかさに仰天。バレエ音楽のようといったら失礼だろうか、、でも空気を素早く入れ替える手際のよさが実に見事。そしてフーガだらけのこの楽章で、いよいよ「ノリントン配置」が牙を剥くんですね。非常に立体的な、それこそ読響での下野氏の師匠にあたるスクロヴァチェフスキを髣髴とさせるような立派なフーガが構築される。素晴らしい―

拍手と歓声の中で立ち上がる名フィルの面々は、明らかに疲労困憊の体。下野氏もふらつきながら、最後は指揮台からブルックナーのスコアを高々と掲げて聴衆に応える。何かを抉る、聴衆を懐疑に沈ませる演奏もいいけれど、後味も素敵な、素直にいいと感じる演奏もまた格別なのです。下野氏の肯定的な音楽づくり、僕は非常に好きです。了。
by Sonnenfleck | 2006-12-16 22:54 | 演奏会聴き語り