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大エルミタージュ美術館展@名古屋市美術館

c0060659_2315330.jpgあんまり期待しないで出かけたら事実その通りで、逆に安心して見ることができたという変な展覧会でした。
<都市と自然と人びと>をコンセプトに掲げ、「家庭の情景」、「人と自然の共生」、「都市の肖像」という3パートに区切ってエルミタージュの至宝をご紹介!という触れ込みですが、そりゃこれだけ並べれば西洋絵画のほとんどは当てはまるだろと。キャプションもテキトーでなんともいえない散漫な印象。。出品目録がないという時点で怒り心頭でありましたが…それでも心を動かされるものがいくつかあったのは幸運でした。

フランソワ・ブーシェ 《沼地の風景》(1746) ↓

c0060659_23152062.jpgブーシェです。
画像は常識的な色合いに見えますが、実際は全体に青緑色の霧が立ち込めたような湿り気のある絵。
彫像と釣り人を対応させているのは明らか。さらに赤い服の釣り人が持っているタモ網を照準器のようにして視線を後景に誘う、見事な構図だと思います。
あとは後景の入り口左横に立っている樹木がどうも直截な、その…うーむ;;

ケル・グザヴィエ・ルーセル 《バッカスの勝利》(1911-1913) ↓
ピエール・ボナール 《汽車と荷船のある風景》(1909) 画像
ピエール・ボナール 《ヴェルノン近郊のセーヌ川》(1911) 画像

c0060659_23153850.jpgそして150年後のナビ派な人々。
寡聞にして「画家の」ルーセルは今回初めて知ったのだけど、鮮烈な色彩で描かれた《バッカスの勝利》は「作曲家の」ルーセルの作品と同じくらい印象的でした。画面を縦に貫く稲妻型の線、そして橙と空の青みのコントラストが実にリズミカル。
ボナールの2作品は、彼の作品の中ではいささか地味な雰囲気。でも《汽車と荷船のある風景》の左下や《ヴェルノン近郊のセーヌ川》の空に置かれたピンクは紛うことなきボナールの色です。前者は汽車が吹き上げる優しい煙、後者は矢鱈と装飾的な地面の草など、見るべきところが多い。

チラシに印刷されて宣伝に使われてる作品では、作者不詳の《聖母子》(15世紀)と、ピーテル・ヤンセンス・エリンハの《オランダの室内》(1670)以外、ピンときませんでした(画像)。エリンハという人の作品は、まあフェルメールみたいと言うのは簡単だけれども…この中にモンドリアンのような美しさを認めるのは邪道でしょうか。。
あとはモネもルノワールもルソーも、なんかなあという感じ。彼らのベストではないような。ゴーギャンは苦手なのでノーコメント。

それにしても「大」は言い過ぎ。よくて「中の上」くらいです。3月4日まで。(公式サイト
by Sonnenfleck | 2007-01-14 23:17 | 展覧会探検隊

GARDENS―小さな秘密の庭へ@豊田市美術館

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今日は突発的に仕事がお休み。こんなこともあるのか。
ということで少し遠出、お隣は豊田市にある豊田市美術館まで行ってきました。
初っ端からですが、うーん、、ここはかなり気に入ったですね。
オープンは1995年、高台にドカンとそびえるシンプルな筐体は、名古屋らしからぬ(ごめんなさい)アカヌケぶりです。収集と展覧会企画の対象がモダン以降というのも個人的には萌えポイント高し。名古屋地区で「通いたい」と思う美術館がようやく見つかりました。。

開催中の「GARDENS―小さな秘密の庭へ」は、10名の現代美術アーティストがそれぞれに「庭」の概念をモチーフにして制作した作品を連続的に体験できる、コンパクトな特別展であります。表現が高踏的すぎて何が言いたいのかよくわからない「ゲンダイビジツ」と、センセーショナルな餌で「へー」と驚かせつつ一瞬で印象が消えるコンテンポラリー・アート、これらばかりが蔓延っている印象は一般的に言って確かにあるんですが…嬉しいことに本展は両者の長所を巧く汲んだナイスバランスな作品が多かったですね。

第2セクションにいきなり登場したのは、居酒屋でビールやコーラの壜を冷やしているあの素っ気ない業務用冷蔵庫。その中には照屋勇賢《Dessert Project》が収納されている。…冷やさなければならないのは、それがデザートでできているからです。
砂糖とお菓子で構築された彼の小さな街並み・青いゼリーの海は確かにキュートなのだけど、どこか不穏な人工性を主張している。。不思議です。

第2セクションと第3セクションを隔てる壁に、大人がやっと頭を入れられるくらいの覗き窓がついています。中を覗くと、、そこには水溜りと繁茂する羊歯が。これは比喩でもなんでもなく、栗林隆《Divider》は本当に壁の中に小さな庭が構築されている作品なんですね。しかし窓から頭を抜くと、美術館らしい白い壁と監視のお姉さんが座っているのが見えるわけで。自分を守るためには、究極的に囲うしかないのか。あるいは秘密の花園2.0。

第6セクションに入ると、甘い匂いがしてきます。
ジャック・ヴィエイユ《ガール・オブ・ランド》は、とちおとめの鉢が何百も放射状に並ぶ巨大なインスタレーション。蛸足状の水生栽培機構により極めて人工的な形で栽培される苺ですが、冒頭の《Dessert Project》の暗い人工性とは違って、何か火傷するくらいの絶対的な肯定ニュアンスが漂っているんですよね。栽培されてるのが苺だからなのかなあ。

第7セクションには樹木の化石が折り重なっているような白いセラミックの泉―小粥丈晴《泉》が現れます。
水面は一見死んでいるように動きませんが、近づくとかすかな水音が。死んだ樹木の先端から静かに落ちるように設計された水滴がやはりポジティヴな印象を与えて、この回遊式庭園を閉じるのでした。

…うちはいつも夏の日ざかりですけど、たまには11月の弱い陽光を入れたりしてもいい。
by Sonnenfleck | 2006-11-10 23:40 | 展覧会探検隊

ヨーロッパ肖像画とまなざし@名古屋ボストン美術館

c0060659_2110238.jpg名古屋ボストン美術館は、ありがたいことに平日は毎日19時まで開館してるんですね。エヴリディ勤労感謝。ということでこの間の木曜日、仕事場からの帰りに駆け足で観てきました。

全体は16世紀の肖像画→17...→18...という章立てが20世紀まで続くシンプルな構成。しかし「ヨーロッパ肖像画500年の変遷を一同に紹介!」なんて謳うわりになんだか物凄く物足りないんですよ。。出品数が特別に少ないというわけでもないのにそう感じるのは、やはり僕の側の問題、つまり肖像画を「工芸品」としか感じられないせいなのかなあ。陶磁器なんかと一緒で、差異を見分け、その中に画家の個性を見つけるのが劇的に難しい。要するにどれも同じに見えるんですね。
本展の半分以上を占める16~18世紀の作品においては、大体において画家自身「オレの個性の刻印!」ではなく「注文主のお気に召すまま…」を第一に考えてるということがあからさまに伝わってきます。確かにティツィアーノの《本を持つ男の肖像》(1540年頃)の肌の表現は非常に美しかったけど、その美しさはどうも表層的で好きになれません。しかもそれが素朴な偽善であるだけにたちが悪い。
…といってもそれが林檎に蜜柑の味を期待するようなものであることは承知しています。そもそも林檎の味わい方を知らない人間がどうのこうのと言える問題ではないのでしょう。

そんなわけで前半は華麗にスルー、後半へ歩を進めます。
ゴーギャンの《ステファヌ・マラルメの肖像》(1891年)とカリエールの《ポール・ヴェルレーヌ》(1891年頃)。幾分カリカチュアライズされた前者と、出来過ぎなくらいぼんやりとした後者には表現上大きな違いがありますが、もう表面的な感じはしない。画家の個人様式が肖像画の機能を破壊したところでやっと工芸品臭は消えます。セザンヌの《赤い肘掛け椅子のセザンヌ夫人》(1877年頃)の相変わらず分裂した意識も楽しい。スカートの模様に対するモノマニアックな拘り!
しかし逆に、表面を極限まで突き詰めた19世紀のアカデミー作品にはむしろ惹かれるという面白い状況も起こる。ロートレックやブラックの先生であるレオン・ボナ(1833-1922)の《メアリー・シアーズ(後のフランシス・ショー夫人)》(1878年※上に画像をアップ)は、本展の最大の収穫でした。展覧会名にある「まなざし」はモデルに対する画家の視線のことを言っているのだと思うけど、それを跳ね返すようなモデルの「まなざし」を感じたのはこの作品だけでしたね。表面によって内面が構築されてると言いますか、、見た目も深層もほとんど絵画版『ねじの回転』。ううむ。

◆公式サイト http://www.nagoya-boston.or.jp/data/a01_01.html
by Sonnenfleck | 2006-10-28 21:11 | 展覧会探検隊

若冲と江戸絵画展@東京国立博物館

c0060659_19315212.jpg来年の春には名古屋にも巡回してくるらしいのですけど、、そんなん待てるかい!ということで行ってきました。既にして会期末、芋で芋を洗うような超絶芋洗い混雑には当初悶絶しましたが、「絵を見るという行為」そのものの意味が問われるという強烈な体験があったため、結局のところ混雑なんてどうでもよかったのでした。

全部で5つのセクション構成はこちらを見下ろすでもなく見上げるでもなく、自然なシンプルさを示しており、好感が持てます。
しかしその中でもやはり多数の観覧者と同じく、「第三章 エキセントリック」、分けても若冲作の「ドット絵」《鳥獣花木図屏風》を目当てに出かけたのは間違いない。僕のようなニワカ若冲フリークでも知ってる名作ですね。
…これは確かに面白い。至近距離に近づいてみると、ドットをドットとしてファミコン風にカクカクの処理を施した箇所と、あくまでリアルにドットを曲線で無理矢理分割した箇所とが渾然一体として、妙にデコボコとした印象。しかしやや遠くに離れると、むしろそのデコボコ感が画面全体に動きを与え、日本画にあるまじき立体感を生じさせているようであることに気づく。

(*色彩の配置についてもまったく同じ印象を得ます。遠くから眺めたとき、もし正面に象がいなかったらどれほど締まりがない画面になるだろうか、もし羊のドットにエメラルドグリーンが入っていなかったらどれほどくすんで見えるだろうか、ということに初めて気づくのでした。)

ただし、、この(意地悪な言い方をすれば)客寄せパンダが展覧会の唯一の頂点として組まれていたら、大いに興ざめだったでしょうね。でも、次から次へと繰り出される厖大な量の出品、そして何より展覧会後半に配された最高の仕掛けが、見る側を沈黙させる。

■■■この先ネタバレ。ご注意!■■■

平成館の左翼に移ると、驚くべき部屋が待ち構えているんです。
コレクションのオーナーであるプライス氏の持論「日本美術の鑑賞において光が果たす役割は非常に重要である」…これを元に、部屋の照明は限界まで落とされ、さらに作品を照らし出す光度を緩やかに変える機構が設置されることで、それぞれの絵の「オーナーしか知りえない表情」が強引に暴かれて大衆の前に曝け出されます。。これこそは「藝術」の「冒涜」で、これまでにない最高最強の贅沢。正直これ以上ないくらい興奮してしまいましたよ!

朝まだき、薄明かりの中にこそ映える銀色の雪の煌めき。
午前から午後にかけて、光の当たる面が変わるのが屏風。
黄昏時、日が落ちて蝋燭の明かりが燈された直後の、赤黒く官能的に光る金。
深夜に見る幽霊画の、なんという凄惨な実在感。

…ショックです。絵は動くものだったのか。

繰り返しのない「絵」という芸術を、音楽のようにその場その場で再現的に楽しむ、、そんなことが可能なのだとすれば、それは周囲の環境を変えてみるよりほかに手段はないでしょう。
してみれば、これまで毫も疑問に感じなかった「美術館」の展示は…あれは「動かない」という意味で、大量に印刷された画集と変わらない干からびた装置だったのかもしれない。

* * *

実はこの「移り変わる光」、こちらで実際に見ることができます。
でもこの先、巡回先などで本物の展示を見るチャンスがちょっとでもある方は、絶対に見ないでください。本物の「絵の動き」はこんなものじゃないけど、実際に目にしたときの衝撃が台無しになりますので。。

◆公式サイト http://www.jakuchu.jp/
◆公式ブログ http://d.hatena.ne.jp/jakuchu/
by Sonnenfleck | 2006-08-24 21:49 | 展覧会探検隊

「じゃあ滝の前で」

c0060659_22402460.jpgネットをふらふらしていて見つけました。
ドイツの写真家、マルティン・リープシャーの《サントリーホール》

2000人のリープシャーによる、キュートでポップでちょっと歪んだセルフ・ポートレートであります。これはマジで労作ですね。
ネット上の情報をかき集めると、どうやらこのリープシャーというアーティストは自己増殖が好きらしく、ほかにもベルリンで《フィルハーモニー》をやってくれたようで(5月まで森美術館でやってた「東京-ベルリン/ベルリン-東京展」に出品されてた模様)。

画面をよぅく見ると「膳」や「レインボーマウンテン」が配置されてて、昨日に引き続き狙いまくったあざとさが楽しいのですが(笑) それだけにとどまらず、指揮マネ・居眠り・マスク・討論・急病人・ブラヴォー屋さんなどお客への擬態は実にマニアック。
舞台にはマルティン・リープシャー/マルティン・フィル、舞台後方とP席にはマルティン男声合唱団、舞台手前にはピアノの巨匠マルティンと独唱のマルティン君。
なのだけど、これにぴったりの編成は残念ながら思いつきませんねえ。ピアニストがいなかったら→《バービィ・ヤール》とか、独唱がいなかったら→ブゾーニのピアノ協奏曲、とか?

ところで《サントリーホール》の1階9列19番、ウォーリーが座ってません?
by Sonnenfleck | 2006-08-09 23:04 | 日記

「江戸の誘惑」@名古屋ボストン美術館

c0060659_19515423.jpg名古屋ボストン美術館のある金山という街は残念ながらまったく魅力のない場末的なところなんですが、地下鉄に貼ってある絢爛華美なポスターに惹かれて行ってみることにしました。
ボストン美術館が死蔵していたとある浮世絵コレクションが、非常な傑作を数多く含むとてつもない作品群であると判明したのはわずか10年前のこと。フェノロサのお友達である医師ウィリアム・ビゲローがマニアックに集めたこのコレクションは、版画でない、肉筆の浮世絵がその多くを占めており、今となっては限りなく貴重なんですね。そんなオートクチュールたちが今回の展覧会で一世紀ぶりの帰朝であります。

まずは上に画像をUPした北斎の《鳳凰図屏風》(天保6年/1835)。
画狂老人75歳、その異常な神経に背筋が寒くなる。高さ40cmほどの小さな枕屏風なんですが、画面いっぱいに翼を広げる鳳凰の姿は…神々しいというよりむしろぬめりと湿った体温と獣の臭いが伝わってくるような生々しさに溢れています。こんなものを枕元に立てて寝ることはできない。強烈に視界を焼く赤青緑、病的に細かい羽の描き込み、、しばし呆然と立ち尽くしてしまいましたよ。恐怖です。

そして渓斎英泉の《芸妓図》(天保35年/1832-34)。
これは一言、凄惨です。まず藍一色の色調がおかしい。そこに描かれるのは粋でも清楚でも理想的でもない、くたびれた年増。その憎憎しげに歪んだ顔はパーツの配置が完全に支離滅裂で、80年後のキュビスムとなんら変わらない江戸アヴァンギャルドであります。。正視に堪えない浮世絵って、どうなのよ。(*この作品だけキャプションにも力が入ってて、「堕落しきった」とか「地獄の底から」とかおよそ美術館らしくない文言のオンパレード。)

しかし「心底怖い」のは例外的にこれらの作品くらいで、あとは誘惑の名に恥じない美人画・風俗画の名品が多数。のんびりと楽しめます。
特に印象に残っているのは、鈴木春信と鳥文斎栄之の作品。前者の手になる《隅田河畔春遊図》(明和年間/1764~72)の禁欲的でクラシカルな美人画と、後者が描いた《柳美人図・桜美人図・楓美人図》(文化年間/1804-1811)の官能的な美の礼賛とは、左か右かというくらいもう絶対的に違います。
特に鳥文斎栄之の美人は、すごい。今回最高の発見であります。
江戸時代の「美人画」って今見ると何が美人なのかよくわからんかったりしますが、彼が描く美人には納得させられる。人体造形のバランス感覚が西洋的に整然としているのと同時に、その均衡を破るようなアンバランスをあえて潜ませるんですよ(上に挙げた三連幅の美人図。太夫がぐっと体を後ろに反らす姿のなんとエロティックなこと)。今流行りの二次元萌え絵師たちの元祖かもしれないな(危)

はい。たっぷりと誘惑されてきました。
8月末まで展示されたのち、江戸東京博物館へ巡回とのこと。公式サイトはこちら
by Sonnenfleck | 2006-07-10 21:27 | 展覧会探検隊