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メッツマッハー/新日フィル 第515回定期演奏会|Conductor in Residence 就任披露@サントリー(9/14)

c0060659_10303459.jpg【2013年9月14日(土) 14:00 サントリーホール】
●ムソルグスキー/R=コルサコフ:歌劇《ホヴァーンシチナ》~前奏曲〈モスクワ川の夜明け〉
●スクリャービン:交響曲第4番《法悦の詩》op.54
●チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調 op.64
⇒インゴ・メッツマッハー/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


2013/14シーズンの個人的オープニングにして、ほぼ2ヶ月ぶりのフルオーケストラ。男子の朝・男子の夜・男子の昼、みたいな高2系プログラムも興味をそそる。

メッツマッハーを聴くのは1月のアルペン以来ですが、やっぱり前回と同じように、マルケヴィチやベイヌムを想起させたのだよねえ。
鮮やかに分離した声部の襞々と(鮮やかに分裂して静止していれば、それは≒ブーレーズ)、それだけではない自在に伸縮する横への流れ。こうした美質をメッツマッハーは先輩たちと同じように備えていると思うのです。

+ + +

まずチャイコフスキーから書こう。
スタッカート多用のポツポツしたアーティキュレーションで第1楽章が始まってちょっと困惑させられた聴衆は、やがてメッツマッハーの巧妙な仕掛けに気づく。
「普通の」チャイ5であれば1stVnの分厚いレガートに覆われて見えない木管隊の密やかな声部、これが弦楽器とバランスされてしっかりと浮かび上がる。メッツマッハーが頑なに指定する急速なインテンポに率いられて、それらが鮮やかに分離しながら華々しいテクスチュアを織りなす様子は、ダンスだよ。

ハーモニーの上では無理な統合で縛られないので、一本一本の声部は主張をやめないが、それらがリズムの上で統合されたとき、ペルシアの絨毯がうねるような豪奢な美が目の前に現れる(より正確に言えば「現れそうになっていた」)
つまり、メッツマッハーが最終的に目指しているものは明確なのだよね。したがって第2楽章では、もし新日フィル弦楽隊に一層の照りや艶があったとしたら、なお適切なバランスで浪漫の絨毯がホールに敷かれただろう、という瞬間がないではなかった。それは、このコンビを聴き続けていく理由は十分にあるということを意味するだろう。

第4楽章など、VaとVcの刻みがあまりにも機能的な美しさを放つのでまるでストラヴィンスキーのように聴こえる局面もあり、たいへん興味深い。
響きを器用にまとめ、どちらかと言うと腰高な音を持つ新日フィルと、上に書いたようなメッツマッハーの目指す音楽とが、別々の方角を向いているのではないのは疑いない。あとは2直線が交わるのを聴衆は待ってる。

+ + +

前半のスクリャービン。藝術の峻厳な高みに近づくために、ここで少し不適切な表現を使うのを許してください。

多くの《法悦の詩》が「ボカシあり」だとすれば、メッツマッハーの《法悦の詩》は「無修正」だったと思われる。のたくりながら絡み合う声部たちはやはり綺麗に分離していて、このよくわからない交響曲を初めて何かの描写だと納得させてくれたのだった。直接音の多い座席で聴けたのは幸運だったと思うけど。

次はメッツマッハーのベートーヴェンかハイドンを聴いてみなくちゃいけないなあと思うのでありました。
by Sonnenfleck | 2013-09-16 10:31 | 演奏会聴き語り

ブリュッヘン・プロジェクト第4夜|新日フィルのシューベルト三態@すみだ(4/15)

c0060659_238152.jpg【2013年4月15日(月) 19:00~ すみだトリフォニーホール】
<ブリュッヘン・プロジェクト第4夜:シューベルト>
●交響曲第5番変ロ長調 D485
●交響曲第8番ハ長調 D944《グレイト》
 ○劇付随音楽《ロザムンデ》D797~間奏曲第3番
⇒フランス・ブリュッヘン/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


飛び去ったとんぼの影を追いかけて、追いかけちゃならないようにも思ったけれど、来てしまった。すみだ。
当日券で1階7列目中央ブロックに座る。そこが当日残っているくらい、お客さんの数は少ない。18世紀オケの3公演の後では仕方がないのかもしれないが、新日と公演の順番が逆だったら果たしてどうだっただろう。

オール・シューベルト。
前半の第5番は僕にとってはプラスの方向に評価するのが難しい演奏だった。遠くに飛び去ったとんぼの、そのまた影を眺めるようなもどかしさ。
極薄に刈り込まれたアンサンブルがなんだかヒリヒリして、あの優しい第5番が立ち上がるのに必要なふあっとした実体がなく、荒涼としたランドスケープが広がっている。弦楽隊のみんながボウイングの伸びやかさを抑えこまれ、ガチガチに凝り固まったフレーズの断片が風に揺れるばかり。このコンビが18世紀オケと同じ響きになるわけがないのだけど、でもハイドンやベートーヴェンツィクルスのとき以上に、枯れた花のような音楽になってしまっていた。

求めていたのはこれじゃないのだ…!と強く感じつつ、いっぽうで、これは00年代ブリュッヘン好みの北極点だったのではないか?という思いもある。18世紀オケの《未完成》はオケのメンツが此岸で踏ん張っていたんだなあ(ちなみにGlossaの新ベートーヴェン全集も、ああなるぎりぎり一歩手前みたいな演奏です)。リコーダー仙人がひとりで踏み込んでしまうと、こうなるのかもしれない。

+ + +

後半もこんな演奏だったらどうしよう…と思った僕を、ブリュッヘンはその音楽で温かく平手打ちにした。

僕はこれまで、ブリュッヘンと新日フィルのコンビネーションに対して、どこかで18世紀オケの影を重ねようとしてきた。ないものをねだるようにして。でもついに新日フィルは、新日フィルの特徴的な響きのままブリュッヘンの文法講座を修了し(あるいは習得に限りなく近づき)、その卒業演奏を僕たちに聴かせてくれたのだ。「守破離」で言ったらこの夜が間違いなく「離」だった。

硬く凝縮した第5番から一転し、単純に舞台上の人数が増えたことだけでは説明できないような響きの広がりが、第1楽章の序奏から徐々に生まれてくるのを観測していく。しかもその文法は弦楽器の側からアーティキュレーションに細心の注意を払わせた公平なバランス、つまり18世紀オーケストラと同様ながら、響き自体はたしかに少し腰高で細身の、あの新日フィルの音によって担われている。
これがどれほど単純で複雑なパフォーマンスであることか。2005年からの、8年越しの音楽文法講座の集大成である。

全編にわたって恐ろしく燃焼した演奏だったけれど、特に真ん中の2つの楽章はブリュッヘンのコントロールがよく効いていたように思われた。

まず第2楽章。僕はたしかにここでマーラーの子葉を聴いたのだけど、それはシューベルトのなかの古いウィーン性みたいなものが胚乳として利用されていたからに相違なく、その(ビーバーやフックスから流れてきているはずの)古いウィーン性は、ブリュッヘンが指示する管楽器の特徴的な厚みや強いアクセントによって増幅されている。それを養分に子葉が別の進化を歩むと、あのアンコールで示されたヨゼフ・シュトラウスになるのだろう。
最後の和音はとても整ったメッサ・ディ・ヴォーチェ。ブリュッヘンが新日フィルを「吹いて」いるようで、胸が熱くなる。

そして第3楽章。あの美しいトリオで自分は涙腺が壊れたようにだぼだぼ泣いたのだ。大編成の弦楽隊はパートとパートの間で静かな対話を繰り返しつつ、そこに対峙する木管隊はメリーゴーランドのように多幸感をきらきらと放射する。それらはどこまでも公正なバランスに乗って届いた。

第1楽章第4楽章は新日フィルの想いが昂ぶって、たいへん熱い演奏だった。ブリュッヘンも「しぃーっ」ていうやつをやっていなかったから、想いに応えていたのかもしれないです。豊嶋コンマスの渾身のリード、すごかったな。僕はプロのコンマスがあれほど気持ちを全身に乗せて弾いている姿を見たことがなかったし、演奏後にあれほど魂が抜けてしまっているプロのコンマスを見たこともなかった。

+ + +

アンコールには18世紀オケとの初日(僕は聴けなかった)でも演奏されたという《ロザムンデ》の前奏曲。
典雅な和音が穏やかに並んで生成されていくなかで、老人が指揮台から「クンッ」と軽い指示をコントラバスに飛ばすと、急に音楽の底が抜けて、漆黒の闇が口を開くんである。たいへん恐ろしい瞬間であって、これもずっと忘れないだろう。

その後、ロザムンデの後にもみんな譜面を急いで捲っていたので、どうもアンコールがもう一曲あったんじゃないかという気がしている。しかしブリュッヘンが車いすに座ったまま自分を指さしながら「俺はもう疲れた」みたいに豊嶋コンマスに話しかけて、そのまま解散となったのだった。
でも、これでよかったように思う。最後のアンコール曲は、もしかしたらあの最初のラモーの再演だったかもしれないし、あるいはまたバッハやシュトラウスだったかもしれないけれど、寂しく輝く美しいロザムンデが、最後に強い「。」ではなく余韻のある「―」を置いて、そうして中空に消えていった。
by Sonnenfleck | 2013-04-23 23:17 | 演奏会聴き語り

メッツマッハー/新日フィル 第503回定期演奏会@すみだ(1/12)

c0060659_9333315.jpg【2013年1月12日(土) 14:00~ すみだトリフォニーホール】
●J. シュトラウスⅡ世:《ウィーンの森の物語》op.325
●ヤナーチェク/マッケラス:《利口な女狐の物語》組曲
●R. シュトラウス:アルプス交響曲
⇒インゴ・メッツマッハー/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


メッツマッハーを聴くのはこれが初めてではない。前にもどこかで書いたかもしれないけど、2004年に、ペーター・コンヴィチュニー演出の《モーゼとアロン》をハンブルクへ観に行ったことがあって、そのときにタクトを執って異様に鮮やかな音楽を聴かせてくれたのがインゴ・メッツマッハーでした。これまでの新日客演はタイミングが悪くて聴き逃しちゃったけど、ついに9年ぶりの再会。

+ + +

この日のプログラムはすべて、作曲家が自然を解釈して生まれたはずの作品だったのだけれど、メッツマッハーは不敵にも、何かの描写を一切行わなかった。客席が自然を想像するための補助線としての表情づけや音色効果が、ない。

その作業はまず《ウィーンの森の物語》を、ヨハン・シュトラウスの「交響詩」のようにしてシンフォニックに仕立てることから始まった。
先月、僕はハーディングのショスタコーヴィチを聴いて、マッシヴな迫力を感じさせないのが新日の個性だと書いた。でもメッツマッハーは、冒頭から全力でゴリゴリした響きを生み出そうとしている。そしてそれが上手くいっている…!驚いてしまった。いつもの新日の音と全然違うのだから。

ともすると緩やかに「和し」がちなこのオーケストラを、鮮やかに分離させることで「主張」のぶつかり合いに導いている。ゴワゴワした織物になるけど、そのゴワゴワがダイナミックに揺れ動く愉悦は、たぶんこれが19世紀音楽のひとつのあるべき姿なんだと思うんである。
メッツマッハーの指揮姿には、彼のやりたいことがストレートに表現されている。彼が考える交響的ワルツは、豪快に跳ねたり伸縮したりする。オケもちゃんとついてきてる!

利口な女狐組曲は、さらに一歩進んで構築されている。ヤナーチェクのなかに埋まっている都会性を、ヨハン・シュトラウスからのシームレスな展開でちゃんと炙り出しちゃうんである。ヤナーチェクの青春はブルノという工業都市にあったということを忘れてはならない。
まさに小股の切れ上がったヤナーチェク。組曲のあちこちに浮かび上がる器械的リズムは、ビストロウシュカを未来主義的女狐として華麗に変化させている。どんどん先に流れていくのだ。こんなヤナーチェクがあったっていいんだよね。

+ + +

そしてアルペン。これも見事のひとことでした。
あえて無理やりに登山に例えるなら、タイムアタックトレッキング。実際の所要時間はほかの数々の演奏と大して違わないんだろうけど、体感する音楽の流れの速いことといったら!流麗だ!
そして(前半のプログラムを聴いていてもよくわかったけど)メッツマッハーは各パートの統合じゃなく、分離の良さを第一に考えている。オーケストラの100人が、100通りの軌跡で横に展開していくんだよね。穏やかにまろやかに統合された響きは、別の指揮者に求めよう。これは、すべての楽器がコンチェルティーノになりうる、リヒャルト・シュトラウスのコンチェルト・グロッソだった。

過去の《モーゼとアロン》では感じ取れなかったメッツマッハーの重要な美質として、この日のアルペンは「横の流れへの鋭敏な感覚」を気づかせてくれた。

それは、こういうふうに横方向に豊麗かつ急速な流れができる指揮者、たとえばマルケヴィチやベイヌムに通じる美質。ハイパーな解像度で。僕は聴きに行かれないけど、今日のサントリーのブルックナーは必ず面白い演奏になる。
by Sonnenfleck | 2013-01-19 09:34 | 演奏会聴き語り

ハーディング/新日フィル 第502回定期演奏会@すみだ(12/8)

c0060659_5364650.jpg【2012年12月8日(土) 14:00~ すみだトリフォニーホール】
<ショスタコーヴィチ>
●Vn協奏曲第1番イ短調 op.77
 ○パガニーニ:《うつろな心》による変奏曲 op.38
→崔文洙(Vn)
●交響曲第10番ホ短調 op.93
⇒ダニエル・ハーディング/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


この日のハーディングのショスタコーヴィチは、会場に大勢つめかけていたタコヲタ諸氏のカタルシス希求を(たぶん)完全に裏切った。のと同時に、ショスタコーヴィチの音楽をもう一段階上に引き上げようというロケットエンジンの火花を、強く強く意識させる快演でもあった。

+ + +

そもそもハーディングと新日フィルの共同作業は、指揮者がオケの美点を必要十分に評価するところからスタートしているように思っている。
新日フィルはたいへん器用なオケではあるが、僕はいまだに彼らの演奏からマッシヴな充実を感じたことはない。それは彼らの個性だ。ハーディングはこの個性を十分に活かすことを大前提に、このショスタコーヴィチを構成したんじゃないかな。

ショスタコーヴィチを、量感と、響きがみっちり詰まった重さで捉える向きからすれば、きっとハーディングの音楽づくりは耐えがたかろうと思う。あるいはショスタコ自身ですら「オレは(この時期には!)こんな音楽を生み落としたのではない」と憤るかもしれない。
以前フェドセーエフのときに書いた「ショスタコーヴィチの中期様式」をハーディングはあえて完全に無視している。その結果、あたかも大人が幼時の夢を見るかのように、ショスタコーヴィチのなかに結晶化して眠っているアヴァンギャルドの毒が、じわりと表層に浮かび上がってきている。

かように俊敏な演奏の第10交響曲は、ライヴでは未体験ゾーンである。ラトル/BPOの海賊盤がちょっと似たような雰囲気だったけれど、ハーディングの要求はそれと同じか、さらにもう少しドライに音符の運動性能の向上にこだわっているふうだった。

たとえば第3楽章のワルツが完璧なインテンポだったこととか(これにはたいへん新鮮な感動を与えられた)、第1楽章や第4楽章の木管隊がオルガンのような響きを構成しながら激しく運動していたこととか、ハイドンのように理路整然とした第2楽章とか、枚挙にいとまがない。義体化ショスタコーヴィチ。アヴァンギャルドのゴーストはちゃんと宿っている。

+ + +

崔コンマスのソロは、いち新日フィルファンとしては楽しかった。でもこの協奏曲に高い完成度を期待する聴衆のひとりとしては、音量も音程も発音もすべて、率直に言って物足りなさが残った。おそろしい作品である。
by Sonnenfleck | 2012-12-19 05:43 | 演奏会聴き語り

オール・アバウト・ハインツ・ホリガー第1夜@すみだ(10/6)

c0060659_6145013.jpg【2012年10月6日(土) 15:00~ すみだトリフォニーホール】
●モーツァルト:Ob協奏曲ハ長調 K314*
●シューマン:交響曲第2番ハ長調 op.61
●ホリガー:《音のかけら》
●ラヴェル:《ラ・ヴァルス》
⇒ハインツ・ホリガー(Ob*)/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


秋のホリガー無双。前々日には大井浩明氏のシリーズ・POCに現れたらしいね。日本の聴衆のアンテナの高さに気がついてくれただろうか。受信する準備は整ってます。

さて、シューマンへの偏愛を思わせる第2。ホリガーってシューマンが好きなんだよね。名フィルの中の人が呟いておられたけれども、2010年の名フィル客演時のプログラムも「ラヴェル→ルトスワフスキ→自作→シューマン第1」だった。

アンサンブルはシームレスが至高!とされる世の中の風潮を前に、ホリガーの造形は縫い目も継ぎ目もありありで、グラデーションの付いた同系色の大小キューブが整然と並んでいるような面白いシューマンだった。
演算処理の素早さ、そしてキューブから成り立つことと、継ぎ目のあることに価値を置いているみたいな…しかしそれはぎこちないという意味では全くなく、デジタル処理でドット演出が施されたシューマン。うまく説明できないんだけれど…。

このドット画シューマンを土中に埋葬して骸骨にすれば、なるほど「トーンシェルベン(音のかけら)」になるは必定。シューマンでは浪漫肉の下に埋もれていた素材が骨になって沈黙の暗闇に浮かぶ。旋律は妨げられるし、呼吸は管楽器を鳴らすことなく風の音になって消えるけれども、ウェーベルンとは違う種類の豊穣。。

そしてあのシューマンの骸骨にラヴェルが肉付けを施したら、たしかにヴァルスである。なので、この日いちばんドライな空気を感じて気持ちよかったのは、最後のラヴェル。あっけらかん!

+ + +

モーツァルトは、第2楽章から第3楽章のカデンツァ手前くらいまでが老剣客のようで凄みがあった。アーティキュレーションには加齢によるものと思われる事故が散見されたし、音色も出がらしの番茶のようで華々しさはなかったが、フォルム自体が崩れることはほとんどなかった。まあ、この曲はファンサービスだとしても、シューマン→自作→ラヴェルというプログラミングはいかにも楽しかったですよ。ホリガーがやりたいように組んだんだろうねえ。
by Sonnenfleck | 2012-10-15 06:16 | 演奏会聴き語り

ハーディング/新日フィル 第497回定期演奏会@すみだ(7/7)

c0060659_22122948.jpg【2012年7月7日(土) 14:00~ すみだトリフォニーホール】
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759《未完成》
●R. シュトラウス:交響詩《英雄の生涯》op.40
⇒ダニエル・ハーディング
 /新日本フィルハーモニー交響楽団


生でもネットラジオでも、聴くたびに印象が変わってしまって、そのへんが扱いに困るハーディング氏。この日の公演では職人的趣味性というか、ギチギチにしろしめす気質というか、彼のそういう側面を特に強く感じさせられたのだった。

+ + +

このまえ目白の永青文庫で、細川家の香道具コレクションを眺めてきたんですよ。ハーディングの「統率」は、あのいともまめやかなるオートクチュールに似て、一切の不随意を排除する。排除して、隙間という隙間を随意の螺鈿で埋めていく。暗いと思われた空白も、実は全面がねっとりと黒漆で塗り固められている。

だからあのシューベルトは、僕には極めて不自然に聴こえた。
シューベルトの演奏にあっては、空気の薄さと靄のような余韻がなにより大事だと僕は思っています。第2楽章の終末に向けて空中分解していく様子など(それが意図された結果であるにせよ、そうでないにせよ)いくつかの演奏ではよく表現されているのを知っているだけに、ハーディングの「統率」の高い完成度は不毛な贅沢としか感じられない。
しかしこのような作り込みに対して、東京のオケでもっとも感度が良さそうなのが、たしかに新日フィルなんである。彼らがハーディングをパートナーに選び、またハーディングもそれに応えたのは、本当に納得のいくところでもある。

《英雄の生涯》は、その点ではとてもよくハーディングの特性と合致する(何しろ初めから隙間のない音楽だもの)
たとえば「英雄の戦場」のきれいな捌きなんかは聴いていて胸がスカッとしたよね。あの部分のほとんどクラスターみたいな混雑した響きを、ショスタコーヴィチみたいなダッサダサのリズムに乗せてするっと解体してみせたハーディングの手腕と、新日フィルの細身のアンサンブルは、なるほどいいコンビ。

ことほどさように、蒔絵小箱やつぶらな香炉のごとき凝縮した予定調和で物事は解決されていくのだから、何を反駁することがあるだろうか。ひとまず、その「誂えられすぎ」を退屈と言い換える必要が出てこない限りは。
by Sonnenfleck | 2012-07-09 22:16 | 演奏会聴き語り

アルミンク/新日フィル 第495回定期演奏会@サントリー(5/25)

c0060659_20562324.jpg【2012年5月25日(金) 19:15~ サントリーホール】
●エスケシュ:Vn協奏曲(2009)※日本初演
 ○同:《nun komm》
→ダヴィド・グリマル(Vn)
●ブラームス:交響曲第4番ホ短調 op.98
⇒クリスティアン・アルミンク/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


今をときめく、とされているコンポーザー・オルガニスト、ティエリー・エスケシュのVn協奏曲を初演コンビで、ということなら期待はいやが上にも高まらん。
さあれども勝敗は…。
東前頭筆頭バルトーク、西前頭三枚目シュニトケ、呼び出しはマルティヌー、行司はブリテン、正面審判長はショスタコーヴィチ、東のバルトークが諸差しでシュニトケを寄り切り、千秋楽に勝ち越しを決めました、といったふう。

60年くらい前の音楽と紹介されても、それほどの違和感はない。極めて保守的かつ適 度 に 良くできた音楽で、バルトークやショスタコのVn協奏曲第3番を求めていた向きにはめっけもんかもしれませんね。
勝手に熱狂的革新的かっこいいコンチェルトを期待していた僕は、細切れに過ぎて痙攣的なリズムや、既聴感が拭えない楽想にがっかり。バルトークによく似た1.5級品ならバルトークを聴きます。

アンコールのnun kommという無伴奏曲のほうが、20世紀音楽のイミテーションとしてはずっと高級だった。より凝縮してる。ソロVnのグリマルはカントロフを図太くしたような音で、かなり好みでありましたが。

+ + +

さて音楽監督アルミンクはプレトークのなかで「エスケシュのVn協奏曲は安心感が反対要素によって打ち消される場面ばかりだが、最後はパッサカリアのテーマが安心感をもたらす」みたいなことを言っていたが、この晩のブラ4がもたらしたものは何だったか。

少し辛めに書く。
つまるところアルミンクは安心しきって棒を振っていた(何しろエスケシュを振るのは指揮者にとっては「悪夢」だそうだから)。オケも安心して自分たちが知っているブラ4を自分たちが知っているやり方で演奏していた。

別に僕は、珍演奇演至上主義者ではない。でも、新奇でないならもっとディテールの詰めを緊くしなければ、今ブラームスを演奏する意味ってあるのかな。それが指揮者と演奏者の「安心」や「満足」に繋がってるってんなら僕は何も言わずに立ち去るけど、それならアマオケと変わらない。パッサカリア縛りで意欲的なプログラムだぜ!って叫ぶ前に、やるべきことがたくさんあったような気がするのだ。

アルミンクは、第1楽章を同質なメゾフォルテの果てしない連続体として示した。あの第2楽章を少年の幼い妄想みたいな音楽に導いたし、第4楽章をぎゃんぎゃん鳴り響く何か別のものに変えた(オケもけっこう責任が重い)。第3楽章だけはリズムの角がよくきまり、サイダーのようにこざっぱりして好かったけれども、よく練られたうえでの回答なのかどうかはわからなかった。この演奏会に関するレヴューは比較的好意的なものが多いようだが、僕はそうは感じなかった。

ああアルミンク。僕はあなたをこれまで珍曲でしか聴いてこなかったが、それでも負うた恩は多い。現時点での、ブラームスにおける、そうした予防線を「限界」というワードに張りたい。そういう気持ち。
by Sonnenfleck | 2012-05-30 21:00 | 演奏会聴き語り

アルミンク/新日フィル 第481回定期演奏会@サントリー(7/28)

c0060659_615266.jpg【2011年7月28日(木) 19:15~ サントリーホール】
<今、真の芸術作品に光を。秘宝よ輝きを放て>
●ウォルトン:ヒンデミットの主題による変奏曲(1963)
●ブリテン:Vn協奏曲 op.15
 ○バッハ:無伴奏Vnソナタ第3番~第3楽章
→イザベル・ファウスト(Vn)
●ヒンデミット:ウェーバーの主題による交響的変容
⇒クリスティアン・アルミンク
 /新日本フィルハーモニー交響楽団



ブリテンの協奏曲が極めつけに佳かった。なんと痛切な音楽だろう。。

異国を内包したスペイン風のリズム(タンタ|タタンタン|…タン)が執拗に付きまとう第1楽章は、オケの冷たい湿り気にブリテンの真髄が宿っていたし、ファウストの歌い口も不穏で心細い。心細いが、それをただの音色じゃなく充実したアーティキュレーションで実現させてるのが、超一流の藝術家の証拠だろう。

第2楽章はショスタコーヴィチによく似たスケルツォだが、あちらさんに比べてブリテンのスコアはオケがさらに残忍に鳴るようにできてるようで、11月の夜の森のようなオケの暗い咆吼にしばしば背筋が寒くなる。

そして第3楽章だけども、あの痛切な旋律美を完璧に描き出したファウストの手腕には脱帽するしかないよ。藝術的でも反藝術的でもなく、時にはヴァイオリンであることも超えて木管や金管にも、人の声にも変容しながら、ただそこにある楽音として音楽を奏でる人なのであった。
静謐で長い第2楽章のカデンツァからアタッカで突入すると、頼るべき何ものかを希求するようなアリアが始まる。アリアは何度も途切れながら、静かにクライマックスに向かっていく。張りつめたフラジョレットに客席は息を飲み、音がついに途絶えても動けない。ソロも指揮者もオケも、客席も、おのがじし何かを感じ、考えるための長い沈黙があった。

アンコールに選ばれたバッハも、旋律の線がそれほどはっきりせず、途切れがちなアリア。ファウストの意図を感じ、ぐっと目頭が熱くなってしまう。ブリテンとバッハの繊細な旋律に身を浸して、休憩時間いっぱい、ぼうっとする。

+ + +

後半、すでに20時45分を回っていたが、交響的変容が始まる。
これは仕掛けが巧妙に発動した感があった。すなわち、全曲を甘く、ソフトに、上品に仕上げることで、音楽的クライマックスを第3楽章に持ってくるという手口なんだよね。トリフォニーでトリスタンをやった残響がオケに残ってるみたいで、特に弦楽器の響きがいつもよりずっと官能的であった。

この曲の第1,2,4楽章は(極論すれば)グイグイひっぱってドンジャカやってりゃだいたい格好がつく音楽と思うので、そこで、通常は浮いてしまいがちな第3楽章にあえて焦点を合わせるなんてのはいかにも頭脳プレーだわな。
そしてこの皮肉いっぱいの音楽を、推進力をまったく持たせずに無邪気に柔らかく変換してゆくという、ヒンデミットに対する皮肉も漂うよね。



最初のウォルトンは感想なし。ヒリヒリに乾いた音の中に時折響く稲光のような激しいパッセージが、僕をこの作曲家から遠ざける(酷薄すぎてついてけねーのです)
by Sonnenfleck | 2011-08-01 06:21 | 演奏会聴き語り

ブリュッヘン/新日フィル 《ロ短調ミサ》@すみだ(2/27)

c0060659_2246244.jpg【2011年2月27日(日)15:00~ すみだトリフォニーホール】
●バッハ:ミサ曲ロ短調 BWV232
→リーサ・ラーション(S)
  ヨハネッテ・ゾマー(S)
  パトリック・ヴァン・グーテム(A)
  ヤン・コボウ(T)
  デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン(Br)
→栗山文昭/栗友会合唱団
⇒フランス・ブリュッヘン/
  新日本フィルハーモニー交響楽団


LvBにおいては、特に新しい知見を僕はブリュッヘンに期待して、ほぼすべての交響曲でそれは与えられた。
一方JSBにあって、何か極端に新しい発見はあっただろうか。いや、極端なものはなかった。2009年のワルシャワでのロ短ライヴをポーランド放送で聴いていたから、これは想像の通りであった。

+ + +

ベートーヴェンではその精神に忠実であろうとして、時には物議を醸すような仕掛けを乗せたわけだけど、ブリュッヘンのバッハはパッと聴きでは拍子抜けするくらいオーソドックスなことが多い。古楽器アンサンブルがさらに機敏に、フットワークを軽くしていく流れの中に彼のバッハはなくって、最近の流行のような分かりやすい表現を搭載することもほとんどない(もちろん全部がそうとは言えないけど>たとえば管組!)

ブリュッヘンのバッハの「響きの肉厚ジューシー路線」みたいなものは、単にコントラバスを太く弾かせているとか、その程度の細工で実現されてるんじゃないというのが今回のでよーーーくわかった。生で聴いてみないとわからないことってたくさんあるのだ。
管楽器たちを(古楽の方法から逸脱しない範囲で)最大限に厚く盛り合わせ、通奏低音のテクスチュアを(楽器の組み合わせを入念に考慮することで)細かく変化させる。特に通奏低音部隊への要求はまことに特徴的で、このアリアではVc2+Kb1、ここではVc3+Kb2、Vcはお休みでKbソロ、とか、なるほどと思わせる局面が多かったなあ。
楽譜のリズムを牽引するのが普通のコンティヌオなら、その瞬間の主役を邪魔しないように絶えずその質をチューニングしつつ、楽譜の輪郭をくっきり及びもっちりさせるのが「響きのコンティヌオ」。みたいな。

新日フィル。もうちょっとだけ精度を上げてくれ!というところも確かにチラホラあったが、どちらかと言えばそれは個々のプレイヤーの技量や疲労の問題であって、アンサンブルとして荒れているとか志向性が違うとかではないため、あげつらう意味はないだろう(これが一部のLvB曲との違いだった)。一ヶ月間の共同作業の結実として、トゥッティには極めて好い瞬間がたくさんあった。Vc小隊4名の完璧なメッサ・ディ・ヴォーチェを僕は忘れない。

ブリュッヘンのバッハの入口に、日曜日の新日フィルは確かに立っていた。(普段は定期で弾いたりしない古楽風バッハへの緊張感も大いにプラスに働いたんだろうとは思うが)18世紀オケの在東京代理店としてではなく、彼らそのものとして立っていた。これはたいへんな収穫だよねきっと。

+ + +

栗友会。第九のときはオヤッと思わせる綺麗な不自然ぶりを実現してたが、逆に今回はオヤッと思わせる「自然な」合唱に仕立て上げられていた。がなるところは強くがなり、神経質にならず、開放的な発声で、嬉しいときは嬉しそうに、辛いときは辛そうに。
アーノンクールの意を汲んだシェーンベルク合唱団と比べてどうこう言うのは容易いけど、ブリュッヘンはバッハにそういう硬い緊張・凝縮感を求めてないのね。それは別の人がやればいい。〈Dona nobis pacem〉の現世ご利益的な暖かみにくるまれて、そう思うのだった。

ソロ。見事にでこぼこしてて、気まま。それゆえにこちらも、奇妙に地上的現世的なのだったよ(就中あの不気味な声質のアルト歌手は、ロビン・ブレイズ以上の、今どき珍しいくらいのオカマっぽさで僕らの度肝を抜いた)

お客さんの反応も誇張がなくて素直であった。涙涙の大ブラヴォ合戦ではなかったし、一般参賀も起こらなかったが、みんななんとなく満ち足りていたようであった。だんだんブリュッヘンのコンセプトに乗せられちまったような気もしてくるのだぜ。ちょいガサガサでオーガニックなロ短。これもアリだろう。
by Sonnenfleck | 2011-03-01 23:15 | 演奏会聴き語り

ブリュッヘン/新日フィル Beethoven Project 第4回(2/19)

c0060659_1455252.jpg【2011年2月19日(土) 15:00~ すみだトリフォニーホール】
<Beethoven Project>
●交響曲第8番ヘ長調 op.93
●交響曲第9番ニ短調 op.125 《合唱付き》
→リーサ・ラーション(S)
  ウィルケ・テ・ブルメルストゥルーテ(A)
  ベンジャミン・ヒューレット(T)
  デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン(Br)
→栗山文昭/栗友会合唱団
⇒フランス・ブリュッヘン/
  新日本フィルハーモニー交響楽団


◆第8番、ノーコメント。
この交響曲だけはいまだに正体がわかりません。ハイドンパロディ、そしてセルフパロディも含んだベートーヴェンの《古典交響曲》なんだろうなーということは薄々感じているが、この日の演奏でも確信には至らなかった。

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◆シンフォニア付きオラトリオ ニ短調 op.125a 《歓喜に寄す》
よくね、通のひとって、「第九は第3楽章まででいいんざんす」って言うでしょう。
しかしこの日の演奏を聴いてなお、そう言い切れるだろうか。

第1楽章第2楽章。泰西古典大交響曲の、大楽章としての。
ツィクルスを通していくつかの曲から奪い取ってきた交響曲性を、今度は自分の手駒として投入するブリュッヘン。確かに、古楽「風」アーティキュレーションをツールに用いながら、彼のやりたいことはフルトヴェングラーなどとほぼ変わらないのではなかったか。ジェットコースターのように上っては下る響きの波に洗われる客席。静まり返る。
そして、第8までの編成から弦の各パートを倍増させているにもかかわらず、アンサンブルの状態は前半とはずいぶん違う。劇的なパッセージで表情の彫り込みがより豊かになっているのはよく理解するけども、静かな局面においても静けさがより濃密になっているのは、これは綿密な練習の結果であろうよ。ツィクルスを通じて、新日のアンサンブルの状態は不安定と言ってしまってよかったが、当たったときのここ一番の集中力はなかなか凄い。

第3楽章レチタティーヴォ楽章としての
この扱い。まずここで、たいへん驚く。
1stVnやOb、Flなど、旋律を奏でる高音楽器の言語的な取り扱い、その揺らぎは、完璧に語りであった。そこへVcとKb、Fgまで勝手気ままに振舞うと収拾がつかなくなってしまうんだけど、そこは通奏低音としての役回りがちゃんと計算されていて、揺らぐ高音にヒタリ…とつけてリズムの一定の秩序を守る(この日のVcトップが花崎氏だったのはちゃんと意味があった)。この楽章は滔々と甘美に歌われるアリアではなく、レチタティーヴォだったわけだ。

1992年の正規全集(PHILIPS)、2006年のシャンゼリゼ・ライヴ(KARNA MUSIK)、聴き返してみればいずれもその萌芽があるんだけれども、実体験としてはもっと鮮烈であった。悠然と伸び縮みし、自由に呼吸する音楽。クラヲタに蔓延する第九アダージョ至上主義は、アダージョがアリアとして扱われることによる思考停止状態ではないのか。

そして第4楽章。要するに、レチタティーヴォのあとには何がくるかということ。
第3楽章のレチタティーヴォの雰囲気は、力強く訓練されたVc+Kb軍団によってさらに引き継がれる。その中ではあたかもVcがテノールソロ、Kbが通奏低音であるかのような分担作業が行なわれ、歓喜の主題を経てバリトンソロの登場が待たれる。。
ところが、バリトンソロがステージの上にいない。バリトンだけでなく、残りの3人もいない。合唱団は第1楽章からずっとオケの後ろに座っているのだけれど、ソリストたちが入場していない。二度目の不協和音が鳴り終わっても、ソリストが入ってこない。どうすんの!?
そうして、バリトンのウィルソン=ジョンソンが「O Freunde, nicht diese Töne!」と歌いながら、合唱団員をかき分けるようにして入場してきたとき、そして合唱団が「Freude」の入りを半拍以上、下手をすれば一拍程度早めて演技的に発声したとき、これはヘンデルがたくさん書いたオペラ=オラトリオのパロディだな、という妄想的結論に至る。ああ!そして時はもうまもなく四旬節なのであった(かつてヘンデルは、四旬節の間はオペラの上演を控えて、オペラ歌手にオラトリオを歌わせていたのです)

もうね、背すじがぞくりとしたですよ。
レチタティーヴォ→アリア+合唱という、確固たる連続性の演出にも賛辞を贈りたいけれども(第九に第4楽章は必要だということ)、僕はそれ以上に、そのもうひとつ外側の箱であるところの、演技性の表出に驚嘆させられたのだった。

これは何十年もバッハやヘンデルに立脚して音楽をやってきたひとでないと発想できない事柄だろうし、第九から最後の最後で「第九性」みたいなものを剥ぎ取って、指揮者が考えている、或る文脈の中に再び位置づける行為だった。ちゃんと思想の用意された回答であることよ。
(2008年のスタヴァンゲル響とのベートーヴェン・ツィクルスは、8&9の回のみ録音できておらず、この試みが新日フィルで初めて行なわれたものなのかどうか、ノイズなどから検証することはできない。ブリュッヘン月間終了後にでも、事務局サイドからの種明かしがあると嬉しい。)

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最後のロ短、どうなる。
by Sonnenfleck | 2011-02-20 14:55 | 演奏会聴き語り