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フォアマン×シェーファー『アマデウス』:サリエリをちょっと擁護してみる

c0060659_20594683.jpg【2011年9月18日(日) 18:00~ TOHOシネマズみゆき座】
<第二回 午前十時の映画祭~赤の50本>
●『アマデウス ディレクターズ・カット版』
 (1985年、カラー、181分)
→ピーター・シェーファー(脚本)
 ミロシュ・フォアマン(監督)

oyamadaさんのtwitterで上演を知り、出かける。これを初めて観たのは中学の音楽の授業、二度目は高校生のときに市販のビデオテープを買って、そして今回で三度目。
連休中日といえども日曜夜の回に観客が押し寄せるわけがない。お互いそれを狙って集まってきてるから、静かなものだ。誰かのポップコーンの香りが漂っている。

ああ。スクリーンで観る《アマデウス》がこれほどのショックを与えるとは。

レオポルドのウィーン訪問のあたりから急激に画面の色調が昏くなり、それは予想通り、1791年12月5日の朝のシーンでクライマックスを迎える(映画館というのはあんな暗闇を表現できるのか)。しかれども画面は最後に一転、画面に凡人の光が満ち、破顔しては赦しを与えていくサリエリの表情。呆然としてしまった。

+ + +

●自分は普段、こばんざめのような二次表現者として一次表現者との間に絶対的な壁を感じながら藝術を眺めているが、一次表現者同士にもこうした壁があるんだろうか。あるんだろうな。二次表現者は一次表現者に対して深い愛情を感じていればそれで済むが、一次表現者が上位の一次表現者に感じる愛情は、嫉妬の形をしなければならないんだろうな。そりゃあ苦しいよな。

●コンスタンツェがなぜあんなにサリエリを嫌うか、これまでいまいちピンと来てなかったんだが、ディレクターズ・カット版でその理由が判明した。そりゃーあの大事なシーンをカットしてたら、サリエリの悪行だけが目立つのは当然じゃん。まあつまり何が言いたいかというとコンスタンツェはおバカかわいいということだ。
●あそこでコンスタンツェをモノにできない、据え膳下げて寝る人間味。

+ + +

●音楽の使い方はやはり非常に巧みだった。《グラン・パルティータ》は言わずもがなだけども、何より今回、シカネーダーの芝居小屋で流れるモーツァルトのパロディ劇のシーンに強い衝撃を受けた(お馬さんからソーセージや鳩が出てくるやつね)。下品なジングシュピールに乗っかる旋律の親密な美しさが、直前に登場するサリエリのオペラセリアとの著しい対照をなしているんだよねえ。

●でも正当なセリアとして聴くと、むしろグルックの後継者としてのサリエリの「確かさ」を感じないわけにはいかない。バッハ以後ハイドン以前の音楽を無視する19世紀的音楽史観が、『アマデウス』を作劇させたということか。


↑グルック《オーリードのイフィジェニー》(1774年)から。2009年、ヴェロニク・ジャンスのイフィジェニー、ルセ/モネ劇場。


↑サリエリの《見出されたエウローパ》(1778年)から。2004年、ディアナ・ダムラウがムーティ/スカラ座をバックにエウローパの超絶技巧アリアを披露している。ぜひ聴いてみてください。名曲の名演奏だと思うよ。

●いっぽう、モーツァルトの《ポントの王ミトリダーテ》(1770年)は「セリアとしては」まったく失格だったかもしれない。


↑何しろシリアスじゃない。これはたぶん2005年のザルツブルク、ベジュン・メータがミンコフスキ/ルーヴル宮と一緒にファルナーチェのアリアを歌う場面。

●とりあえず、バルトリ姐さんのサリエリ・アルバムを買ってみようと思った。
by Sonnenfleck | 2011-10-01 21:22 | 日記

プイリエフ×ドストエフスキー『白夜』:非リア非モテの花道

c0060659_8531835.jpg【2011年9月10日(土) 15:00~ 浜離宮朝日小ホール】
<ロシア文化フェスティバル2011>
●『白夜』(1959年、カラー、97分)
→フョードル・ドストエフスキー(原作)
 イワン・プィリエフ(監督・脚本)

僕が映画にとことん疎いのを不憫に思った友人が、チケットを譲ってくれたもの。50年代のソヴィエト・リアリズム映画ってことで、先日の『グラス・ハーモニカ』の対極にあろうかと思う。視点が増えていくのが嬉しい。

ドストエフスキーの『白夜』って読んだことあります?『白痴』じゃないすよ。
自室に隠って妄想に耽るのが好きなヒキ青年「私」。これまでリアル女性と話したこともない。そんな彼がネヴァ川のほとりで出会った女性・ナースチェンカに一目惚れし、ナースチェンカの恋バナを友人として誠実に受け入れ、決定的に親しくなるも、その幸せの絶頂でナースチェンカは戻ってきた元カレに走り、「私」は心をざっくりと斬られて討ち死に。ああこれが俺の青春だったんだウォッカぐびぐび。幕。
Hélas!森見登美彦にリライトしてほしいよねえ。ネヴァ川を鴨川に変えてね。

僕は原作を読んだことがなかったから、どこまでがドストエフスキーでどこからがプィリエフという監督の脚色か判断できんのだけど、「私」とナースチェンカの話が最初から最後まで全然噛み合わないのがまことに痛々しかった。

全編、ネヴァ川のほとりのベンチで2人が話してるんだけど、「私」が「普段こんなの空想してるんです」と自慢げに披露する妄想シーンでの子どもっぽい活気と(森の奥の古城でチャンバラしたりしてる)、ナースチェンカのあくまで実体験に即した恋バナと、こんなのが噛み合うわけがない。

いちおうお互いに「私も空想家よ」とか「わかりますよナースチェンカ!」とか言い合うわけだが、当然痛さがこみ上げる。むろん「私」路線寄りの自分としては、その気持ちをわかってて保険扱いしながら弄ぶナースチェンカ爆発しろと思いましたがね。元カレに手紙を渡すのを手伝わせたりしてるしな。あー腹立ってきた(笑)

セットを組んで撮影されたと思われる華麗なペテルブルクの街並み。ナースチェンカの自宅の細やかなディテール。プィリエフという人は人民芸術家で、スターリン賞を6回も受賞して連邦議員にまでなってるので、この雰囲気が映画における社会主義リアリズムへの解なのかなと思う(ただしこの人は経歴がショスタコーヴィチにそっくりなので、この画面を鵜呑みにしていいか若干悩むところでもある>反体制の意志がこっそり隠れてたりするのかしら)
それから俳優たちの謎の熱い演技。突然歌い始めたりするのも可笑しい。特に主人公「私」を演じるオレグ・ストゥリジェノフの煌々と輝く病的な瞳にぞっとする。

+ + +

客層の高さはクラシックの比ではなく、往年の左翼インテリ、みたいな背筋のスッとした爺さんが多かった(会場では最年少だった自信がある)。まあなあ。ソヴィエト映画なんて今日び流行らないよなあ。あまりにも救われない結末に心底冷え冷えとし、観終わってから代々木のラーメン屋に行ってしまった。
by Sonnenfleck | 2011-09-18 09:00 | 日記

サントリーサマーフェスティバル2011|映像と音楽 - 瀧の白糸(8/27)

c0060659_22252379.jpg【2011年8月27日(土)16:00~ サントリーホール小ホール<ブルーローズ>】
●溝口健二×望月京:無声映画《瀧の白糸》
 (1933製作/2007作曲)
 (35mmサイレントフィルム、白黒、101分)
 音楽・日本初演
→有馬純寿(エレクトロニクス)
⇒杉山洋一(Cond)
 藤原道山(尺八)、後藤真起子(箏)、辻英明(三味線)
 池上英樹(Perc)、篠崎和子(Hp)、野口千代光(Vn)


1933年の無声映画に、2007年の音楽が寄り添う。

時には素直な効果音のごとき場面もあるが、音楽のほとんどはそれ自体が映画とは無関係なイメージを喚起する豊かなもので、映像と同様の色気を感じさせた。
従って、どちらかがカンヴァスになって全体の印象を決定づけるのではなく、今は映画が主に見える、ここは音楽がメインに聴こえる、てな感じで、だまし絵状態に陥った。これは同じ「後付け型」のヴィオラ×ヴァレーズじゃ感じなかったで。

さて、望月さんの音楽をライヴで聴くのはこれが初めてだったが、響きが著しく肉感的であるのに衝撃を受ける。
メロディもリズムもハーモニーもそれぞれは渋い雰囲気だが、なぜかそれらが集合すると華々しく感覚を撫でる。音の要素が蒔絵重箱にぎゅっと詰まっているような感じ。そらぁあんた箏と尺八と三味線が入ってたから華々しいのは当たり前じゃねえか、と思われるかもしれないが、この官能性は(別エントリで取り上げる)マン・レイのフィルムへの付随音楽ではより一層高いレベルで現れていたので、これが望月音楽の特徴なのだろう。
箏とハープの切ないデュオ、パーカッシヴにメロディを奏でて最強な三味線、それをライバル視して頑張るヴァイオリン、すべてを強烈に統率する打楽器群に、気障な尺八。アンチストイック、饒舌な音楽だった。

また、無音の箇所がかなり多いのもたいへん面白かった点です(それも、いかにも情感溢れる場面や、いかにも哀しい場面において)
そうしたときは、プログラムにもあったけど、網膜に光が焼き付いて太陽の形が見えるがごとく、無音の画面にそれまでの音楽が残響として漂うんだなあ。それを自分の中に聴き取るのはとても愉快な経験だった。

+ + +

最後に、映画についてね。映画と演劇と建築は、上手に鑑賞する方法がいまだにわからないのではあるが。。
c0060659_22254023.jpg
女水芸人「瀧の白糸」は、乗合馬車の御者を働く村越欣弥と知り合う。欣弥が金のために学問を断念したことを知った白糸は、自分が仕送りをすることを約束し欣弥を支援する。欣弥への仕送りはしばらくつづくが、やがてそれもままならなくなり、また芸人仲間の若い連れを駆け落ちさせるなどして旅座仲間の南京出刃打の恨みを買う。
白糸は一座のために高利貸しの岩淵から金を借りたが南京にそれを強奪され、岩淵と南京がグルであることを責めようと白糸が岩淵を訪れた折、誤って岩淵を刺し殺してしまう。白糸は勉学に励む欣弥の元を訪れるがあえなく逮捕、取調べに立った検事は欣弥であった。
拘置所を訪れる欣弥に白糸は正直に裁いて欲しいと懇願し、法廷で欣弥は白糸に包み隠さず正直に証言するよう諭す。白糸は言われるままに正直に殺人の経緯を告白。そのまま法廷内で自殺を遂げるのであった。
(wikipediaより)
ヴェリズモ・オペラみたいなストーリーよね。
時間軸の比較的自由な移動。それから、平たくのっぺりと全員を映したかと思えば、人物の視点を獣のように追うシーンもあり、一筋縄ではいかない不思議なリズムが画面にある。これが世界の溝口というやつなのかしらん。

それにしても、瀧の白糸=入江たか子の異常な美貌にゃ恐れ入ったよう。
by Sonnenfleck | 2011-09-05 22:28 | 演奏会聴き語り

借りぐらしのアリエッティ(9/11)

「もののけ姫」のなかに(たぶんアシタカがムラを旅立った場面に)巨大な分水嶺があって、それ以前と以後ではジブリ作品の質が全然違うように感じている。それ以前は、淡白なストーリーと、淡白な演出から、観る側が観る側のために自分で何かを見つけ出せばそれでよかった。あるいは、自分がそうと思わなければ、見つけ出す必要もなかった。

でもあの作品以降は、ストーリーに変な臭みが増して、演出も幼稚化する一方なんだよね。これは、かわいい女の子が出てきてどたばた走ったり、むしゃむしゃと食い物に齧りついたりする、身体的幼稚さは宮崎駿から切り離せないから、そういう意味ではない。そういう意味ではなくて、「見つけ出されるもの」の押し売りとか、「見つけ出し」の強制ということ。どう見るかなんて自分で決めるっての。

+ + +

c0060659_22295153.jpg【2010年9月11日(土) 18:30~ ユナイテッドシネマ豊洲】

で。「もののけ姫」より前のジブリ作品を思い出した。

屋敷に隠れ住む小人が主人公だから、世界は屋敷とその周りの庭だけ。ストーリーは淡白の極みで、なおかつ全編がほんのりビターであって、ハッピーエンドでもバッドエンドでもない。
ここ!ここに「意味」が隠れてるよ!という最近のジブリの臭みがまったくなくて、昔みたいに、素晴らしく美しい植物の描写や、小人たちの身体の動きや、美味しそうな料理や、裏表のないストーリーに、僕はぼうっと見入ればよかった。

BDが出たら真っ先に買いたい。BDプレイヤーないけど。
by Sonnenfleck | 2010-09-28 22:33 | 演奏会聴き語り

アリス・イン・ワンダーランド(5/22)

c0060659_22553527.jpg【2010年5月22日(土) 15:45~ 品川プリンスシネマ】

よく、ドラクエは「大人が子どもの心に戻るための作品」、FFは「子どもが大人に背伸びするための作品」みたいな表現を目にする。
ことの正否は判断しかねるけども、個人的にはなるほどうまいことを言うなあと思っていて、今でもドラクエに抑制の美学を感じたりするわけです。

「アリス・イン・ワンダーランド」は、その分類に則れば、ドラクエ型の作品だったと思う。

ストーリーは淡白の極み。『不思議の国』と『鏡の国』を控えめに混ぜ合わせてほとんど足しも引きもしないところに、幼女アリスから少女アリスへの成長をスパイスに効かせ、続編なんかまったく期待させないツンとした幕切れ。結末で敗者側がまったく救済されないのもさっぱりしている。
しかも、くどくどと教訓じみたことを言うのが台本作家ではなくて、その役割に忠実な青い芋虫だけ、というのがドラマトゥルギーの見本みたいでよほど心憎い。

僕は映画をほとんど見ないので、見当違いなことを言っていたら申し訳ないのですが(恥ずかしながらティム・バートンの映画もこれが初見)、キャラクタ造形は至極真っ当と思った。
ジョニー・デップ演ずるいかれ帽子屋(自分は慣れ親しんだこの邦訳から逃れられない)が若くて等身が高く、セクシーすぎるかもしれないが、そのためにピエロの悲哀のようなものを感じさせる。その一方で、ヘレナ・ボナム=カーターの赤の女王は、奇怪な頭部発達メイクを食ってしまうくらいの狂った表情を見せ、対するアン・ハサウェイの白の女王も、時折見せる呆けたような表情に無色の狂気が滲んでいて素晴らしい。
そしてアリスを演ずるミア・ワシコウスカ。あの冷ややかさ!装飾的軽さ!

最後に、同行者と話し合ったいつもの箇条書き。

■案外、バトル映画だった。
■2D上映を選んで正解だった。
■品川よいとこ。
■眼球に関するフェティシズムみたいなもの。
■バンダースナッチは、しかし、FFに登場するモンスターという倒錯。
■あたり一面の毒々しい色遣いを見ていて、ティム・バートン映画化の《魔笛》を想像する訓練。パパゲーノにジョニー・デップ。3人の侍女はCG。
by Sonnenfleck | 2010-06-02 22:58 | 演奏会聴き語り

のだめカンタービレ ‐ 最終楽章 後編(5/4)

ポゴさん@サントリーの感想文は、まだ書けてない。

+ + +

c0060659_856494.jpg【2010年5月4日(火) 19:10~ 新宿バルト9】

観てしまった。前編観てないのに。

4コマのように小さなエピソードを積み重ねるのが好きで、なおかつその点で抜きん出ていた二ノ宮さんは、パリ留学以降の長編のストーリーテリングで彼女の持ち味を発揮したかというと、そうではない。

原作のあの結末は、拡げすぎて抱えすぎてしまったものを、自らの手で全部ご破算にするようなヤケクソ感が強く、何かタコ6の最終楽章みたいなものを髣髴とさせた。のだめ原作の長編化の構想自体、作者にとってはもしかしたら不幸だったのかもしれないなあというのが、僕の現時点での結論。(短編的なつくりに戻ってきた原作エピローグの第24巻は普通に面白く、面白うてやがて少し無念。)

月9時代とは異なり、独自演出をやや弱め、だいたい原作通りに作り込まれた今作。それに対してプロットに関する文句を言っても実に詮ないので、思ったこと・同行者と話し合ったことを箇条書きにて。

■3年も経つとみんな顔が変わる。瑛太と小出君はそろそろきつさが漂うね。。
■ヤドヴィは蒼井優がカツラ+カラコンでやればよかった。
■ラヴェルの協奏曲祭りの予感。のだめのイメージCGもいい。
■のだめは伴奏もソロパートも含めて、無理やり全部ピアノで再現していたが、あれはクラヲタ的にはニヤけるポイントだよねえ。あのゴーストプレイヤーもランランなんだろうか…聴いてみたいぜ…。
■山田優の弾いてなさが、ぐるり一周してRuiっぽい。逆に樹里のだめや水川清良はすっかり堂に入っているということがわかる。
■そこ、第1楽章じゃね?
■あれって《ファウスト交響曲》なのか。
■玉木千秋は指揮がずいぶん上手くなった。すごい。
■ベートーヴェンのop.110は名曲すぎる。原作でこれが選曲されたときには非常に驚いたけれども、実写になって流れてくると、戦慄を覚えるくらい。
■少しも変わらず怪しい竹中シュトレーゼマンにも戦慄。
■モーツァルトの2台ピアノはちゃんと暴走してましたね。恐怖の多重ランラン。
■結論としては、地上波お正月スペシャル、とかでもよかった気もする。

+ + +

今調べたら、2005年の過去ログで、当時第11巻まで出ていたのだめのことを取り上げてました(恥ずかしいのでリンクは張りません)。この5年ですっかり国民的ヒット作に祭り上げられたのが、なんだか夢のような。知る人ぞ知る秀逸クラ漫画のままであったら、それはそれでよかったのかもしれないな。
by Sonnenfleck | 2010-05-09 08:55 | 演奏会聴き語り

シャネル&ストラヴィンスキー(1/16)

c0060659_21572882.jpg【2010年1月16日(土) 16:30~ シネスイッチ銀座】
<2009年 仏(原題"COCO CHANEL&IGOR STRAVINSKY")>
→アナ・ムグラリス(ココ・シャネル)
  マッツ・ミケルセン(イーゴリ・ストラヴィンスキー)
  グリゴリイ・マヌコフ(セルゲイ・ディアギレフ)
  マレク・コサコフスキ(ヴァーツラフ・ニジンスキー)
  ジェローム・ピルマン(ピエール・モントゥー)ほか
⇒ヤン・クーネン(監督)

舞台は1920年のパリ。一流デザイナーの地位を手にしながら、初めて心から愛した男を事故で亡くし、悲しみにくれるココ・シャネル。天才音楽家でありながら、「春の祭典」初演を酷評され、悲観にくれるイーゴリ・ストラヴィンスキー。そんな2人が出会い、たちまち恋に落ちていく―。
妻子あるストラヴィンスキーだが、2人はお互いを刺激し、高め合い、心を解放し、悲しみさえも活力にかえていった。そしてお互いの中に眠っていた新たな創造力を、次々と開花させていくのだった。初めての香水創りに魂を注ぐシャネルと、「春の祭典」再演に命を賭けるストラヴィンスキー。秘められた恋の行方は―。
というストーリー。クラヲタ的には、1920年のハルサイ再演のために改訂作業を行なっている途中のストラヴィンスキー、と書いたらいいか。

昨秋の「クララ・シューマン 愛の協奏曲」が記憶に(特にロベルト錯乱シーンが生々しく)残っているところですが、今度の「シャネル&ストラヴィンスキー」は、はっきり言って、よかった。
まず、徹頭徹尾、装飾的に仕上がっている作品だというのがポイント。
服飾デザインとクラシック音楽という、一般的にはマニアックな世界のお話なのに説明口調の部分がほとんどないし、むしろ観客が想像する余白がたっぷりと取られている。そのために枠組みは重厚なのに足腰の運びが軽いんだな。だから、説明される映画が好きな人にはこれは絶対物足りなく感じられるだろうし、決して万人受けはしないと思う。

それから、その点にも関わるけども、シャネルにもストラヴィンスキーにも寄りすぎていない脚本のバランスが見事。
完全な3人称とまでは言わないけども、シャネルの視点もストラヴィンスキーの視点も不完全で、2人の考えている内容が明確に提示されることはあまりない。(←それでもイーゴリの行動がわかり易いのは僕が男子だから?) しかし見終えた後にトイレに行ったら、すれ違った2人組の女子が「シャネルってマジめんどくさい女ぁ!」って言ってたから、女子的にもココは謎なのか。それも謎。

+ + +

以下、鑑賞後に同行者と話し合った内容及び個人的補足を箇条書く。

■冒頭の唐草模様エフェクトがカコイイ。
モントゥー似過ぎ!!!!!鼻血出そう!!
■ハルサイ初演のシーンは極めてよくできていると思った。クラヲタならこのシーンだけでもこの映画を見る価値があるだろう。(演奏はラトル/BPOなのかしら?巧すぎるので演奏のリアリティはない。) 怒って席を立つサンサーンスを探したが見つけられず。
■ココもイーゴリもカラダがきれいだなあ。R-18ながらきれいすぎて装飾化。
■エレーナ・モロゾヴァ演ずるエカチェリーナ・ストラヴィンスキーはホラー寸前。シャネルに告発文を渡して別荘を去っていくときの演技はなかなかのものです。
■スリマ発見。
■秘書面接と称して男の子を裸にしているディアギレフが可笑しい。
■赤ワインうまそう。
■ストラヴィンスキーが自らタクトを取ってハルサイ再演を行なうラストシーン。その一歩手前で、ストラヴィンスキーはニューヨーク、シャネルはホテル・リッツと、最晩年の老いた2人の様子と彼らが過ごした場所のカットが挿入される。これはどうしてだろう。
「我を忘れて愛し合った瞬間を見ていた観客に、それも人生の僅かな一部分だったにすぎない、ということを客観的に感じさせるためではないか」というのが同行者の説。僕は考えたけども理由がわからなかった。
■タイトルロールで席を立ったらダメダヨ。

+ + +

これ、原作があるんすね。amazonでその商品情報を見てたら
天才音楽家でありながら、7年前のニンジンスキー振付の「春の祭典」初演を酷評され、悲嘆にくれるイゴール・ストラヴィンスキー。
って書いてあるんだなあ。我喜欢胡萝卜!
by Sonnenfleck | 2010-01-26 22:14 | 演奏会聴き語り

クララ・シューマン 愛の協奏曲(9/21)

c0060659_10435858.jpg【2009年9月21日(月) 13:45~ Bunkamura ル・シネマ】
<2008年 独仏洪合作(原題"Geliebte Clara")>
→マルティナ・ケデック(クララ・シューマン)
  パスカル・グレゴリー(ロベルト・シューマン)
  マリック・ジディ(ヨハネス・ブラームス)
⇒ヘルマ・サンダース=ブラームス(監督)

Bunkamuraの客層ってちょっと不思議な感じよね。
さて。
こういう主題だから、クラヲタとしては「××は悪かったけど総じて良作だった」という感想に持っていきたいところなんだけど、今回は「○○はよかったけど総じて残念な出来だった」というところに落ち着いてしまうかなあ。せっかくの題材を全然活かし切れずに終わってしまった感アリアリ。

1850年、ロベルト・シューマンがデュッセルドルフの音楽監督に招かれたところから物語が始まる。交響曲第3番の作曲と初演、ロベルトのグロテスクな精神疾患、夫の病と音楽と生活に挟まれて身動きの取れないクララの心労、そこへ自信に満ちた若きブラームスの姿が加わります。やがてロベルトのラインへの投身、精神病院への入院、発狂と死へつながっていきますが、クララとブラームスの危うい関係はついに深い描写を経ず、ブラームスの第1Pf協奏曲をクララが弾いて、幕。なんだこりゃあ。
以下、鑑賞後に同行者と話し合った内容及び個人的補足。

■プロットが弱々しく、結局何が主題だったのかよくわからない。常に3人の視点が混じり合って曖昧模糊としたせいで、せっかくの(多分この作品のクライマックスであった)クララとブラームスのラヴシーンも説得力がなく、かなり唐突な感じになってしまった。
■尺の伸縮管理がいいかげんで、間延びしすぎたり急展開すぎたり。ラインに飛び込んで10分後に入院支度を済ませて自宅を出るロベルト早業。
■ロベルトが《ライン》の第1楽章を指揮しながら第2楽章に侵蝕されていく演出はよかった。同様に、第2楽章のエピソードが狂ったようにリピートする演出もよかった。シューマン家の飯炊き婆さんが階上から聴こえてきた第2楽章に感涙するシーンもよかった。
■ロベルト役の狂気の演技は粗野な方に傾きすぎ、知的な印象に欠ける。
■クララ役が肝っ玉母さんすぎる。
■ブラームス役の演技は野心的すぎ、繊細さに欠ける。
■結局ブラームスの叔父の子孫のジコマンでは。
■あれ?「Ich weiß...」じゃねえのか。
■イソジン。

+ + +

お正月の「シャネル&ストラヴィンスキー」はかなりよさげ。
by Sonnenfleck | 2009-11-22 10:50 | 演奏会聴き語り

砂の女が死んだ

岸田今日子さんが死去 劇団円創設、映画「砂の女」主演(12月20日/asahi.com)

2003年の2月20日、武満の命日に開かれた、東京シティ・フィルの「武満徹とフランス音楽Ⅰ」。休憩時間にホワイエに出たら、岸田今日子のような女性が谷川俊太郎のような男性と二人で話している。あれが女優と詩人だったのか、結局のところ今でも自信がないのです。でもきっと武満の噂話でもしていたんだろう。彼が今どうしているかとか。

若杉/都響の《弦楽のためのレクイエム》を聴いて、クレーメルの<ル・シネマ>から《ノスタルジア》を、今夜はタルコフスキーではなく彼女の追憶のために聴いて、最後は『他人の顔』の〈ワルツ〉を聴く。ハムテルのおばあさんは昔、砂の女だったんだ。合掌。

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by Sonnenfleck | 2006-12-21 00:01 | 日記

『トリスタンとイゾルデ』試写会(記憶の彼方ver.)

c0060659_2383373.jpgショスタコ漬けの一週間でしたが、いい加減お仕舞いにします。

さて10月下旬公開予定の映画『トリスタンとイゾルデ』ですが、そろそろ試写会も増えてブログ界隈でも盛り上がってくるころでしょうか。
言わずと知れたワーグナーのアレと同じ題名を持ってるだけで強力なクラヲタ誘引作用があるのに、加えてiioさんがCLASSICA - What's New!のトップにバナーを張っておられるので、クラファン的にはすでに宣伝効果200%超ですよね。

しかし日本版公式サイトは甘甘で滅菌消毒済みのデザイン(笑) 僕が試写会で受けた印象に近いのは、むしろ英語版公式サイトのほうなんですよ。
爽快な風が吹き抜けるような日本版公式サイトの画像とは裏腹に、その実態は制作総指揮のリドリー・スコットの趣味がよく滲み出ていて…つまりわりあいにダークで過酷でエロい。日本版公式サイトを見て「あら素敵だわっ」とか思って出かけたオバサマを沈黙させるには十分なくらいです。

以下、ほんの少しネタバレ。
by Sonnenfleck | 2006-09-27 00:02 | 日記