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[感想文の古漬け]ジャッド/都響 第750回定期演奏会Bシリーズ@サントリーホール(4/3)

c0060659_7411387.jpg【2013年4月3日(水) 19:00~ サントリーホール】
●エルガー:弦楽セレナーデ ホ短調 op.20
●ベートーヴェン:Pf協奏曲第5番変ホ長調 op.73《皇帝》
 ○バッハ/ジロティ/ホロデンコ:前奏曲
●ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第5番ニ長調
⇒ジェームズ・ジャッド/東京都交響楽団


ひと言、心の奥底からじわーっと温めてもらえたような、本当に素晴らしい音楽会だったのです。そのメインであるヴォーン。ウィリアムズの第5交響曲(自分愛称ヴォン5)から書かねばなりますまい。

僕はRVWの良い聴き手だとは言いにくい。それどころかイギリスの音楽全般について親しめずにこれまで過ごしてきた。
しかしこの一二年、好みはゆっくりとではあるが確実に変わりつつある。以前ほどにはソヴィエト音楽が好きではなくなり、代わりに北欧の作曲家たち、そしてイギリスの音楽作品が、僕の内面に深く浸透し始めているのを認識している。この好みの過渡期に、ほとんど決定的と言えるヴォン5のライヴを聴いてしまったのは、何かの縁なのだろうか。

+ + +

ジャッドはN響客演の常連なので何度もFMで聴いているような気がするのですが、ライヴに接するのはこれが初めてだと思う。でもN響とジャッドの組み合わせで好いなと思ったことはない。それは(この夜わかったことだけど)ジャッドがオーケストラの素顔の実力を養分にして花を咲かせる、庭師のようなタイプの指揮者であるためなんだろう。
N響はたしかに優れたオケだけれど、彼らが指揮者を下に見たときには本当に冷え冷えと乾いた音楽を平気で伝達する(そしてそうした音楽に当たる確率がめっぽう高い)。ジャッドが引き出すN響の素顔の花は、痩せ細ったしおれかけの花だった。

僕は庭師自身がそういうタイプの音楽をやるひとだと勘違いしていた。でも都響のアンサンブルを土壌にしてジャッドが咲かせた花は、豊穣で瑞々しく、何より佳い匂いのする花だったんだよねえ。

+ + +

手元にあったハンドリー/ロイヤル・リヴァプールpo盤、ハイティンク/ロンドンpo盤、そしてYouTubeに上がっていたバルビローリ/ハレoの古い録音などに比べ、ジャッド/都響の演奏はより鮮やかで瑞々しい印象を与えた。物理的なテンポの身軽さももちろんそうした感覚を生んだ要因だと思う。

でも、普通なら無意識に流されてしまっても仕方がないような木管の小さなパッセージのひとつひとつが、マニアックなくらい丁寧に描写されていたのもとても印象深いのです。

それって流れの停滞を生むんじゃないかって?いえいえ。実際の自然はどんなに小さな虫も草花も「有効」なのに、停滞しているようには見えないでしょう?必要なのは、小さなパッセージのひとつひとつが、丁寧に、かつ続けて絡み合っていく有機的な連関。互いを緻密に聴き合い補い合っている都響のアンサンブルは、楽句を発して、次行程に渡していくのがとても巧いんだよね。そうした美点を引き出しながら、RVW用の音色の文法を伝授していくジャッドの手腕もお見事。
(なお、このやり方をもう数歩進めると、ブロムシュテットのブルックナーみたいな感じになるはず。)

それゆえに第3楽章の豊かな盛り上がりもナチュラルだったし、スケルツォ楽章や最終楽章の前半などではにかみがちなシニシズムまで感じさせてくれたのは、新鮮な驚きだったと言える。これはやっぱり20世紀の交響曲なんだわね。

これは伝記的蛇足だけど、矢部コンマスが終演後にtwitterで次のような内容をつぶやいていた(ブログへの転載どうかお許しください)。惚れるぜ矢部っち。
都響の中で最も尊敬している奏者の一人が、今日演奏したRVWの交響曲第5番をこよなく愛していて、リハーサルの時からハンカチで目頭を押さえていた。彼のその思いを裏切りたくない気持ち1つで弾いたコンサートだった。もしかしたらこの曲を弾くのは最初で最後かも知れないと思って。
+ + +

前半の《皇帝》は、ムラっけがあってとことん夢見がちな、良くも悪くも「童貞っぽい」ソロの評価が分かれるだろう。僕はそれを面白く聴けたし、ジャッドと都響は完璧なサポートを実現していた。協奏曲を演るのに、ジャッドにあってフルシャになかったのは、このホスピタリティだったかもしれない。

都響の天下が続いている。どの在京オケも個性があって、僕は個人的に引き続き東響の音色のファンを自認しているけれど、都響のアンサンブルの高品質さはやはり抜きん出てしまっている感がありあり。この「何ものでもない」ニュートラルな美しさ。
by Sonnenfleck | 2013-06-08 07:46 | 演奏会聴き語り

L'étoile de la danse

c0060659_23165292.jpg【EXTON/OVCL-00472】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ長調 op.43
⇒エリアフ・インバル/東京都交響楽団

レコードアカデミー賞大賞!の惹句が、わりとマジで気になって購入してみたのです。日本のオケ録音に大賞が出たことについて、陰謀論者は疑い深い視線を投げかけるのかもしれないけれど、僕は純粋に興味がある。

録音で聴いてきたインバル/ウィーン響のショスタコは、僕にとっては何か、言いたいことを言い切っていないような、噛みしめても繊維質がボソボソと口に当たるような生煮えの雰囲気を感じていた。
ところがインバル/都響のショスタコは、その半端な印象をしなやかに投げ飛ばし、もってインバル流レシピの決定版たるを得てます。ほんとです。

+ + +

ここに録音されたタコ4は、他のどんな演奏にも似ていない。

この演奏は、ザミャーチンの宇宙船インテグラル号のようなディストピア的全能でもなければ、社会主義リアリズムの泥をぼとぼと飛ばすようなどん底でもない。この演奏が表現しているのは、絶望的に乾ききった新古典主義バレエ。個人的にはものすごいショックである。
インバルはこういうショスタコーヴィチがやりたかったんだなあ。それはニュートラルかつ上手で品の佳い音のするオーケストラを絶対的に必要とする。たぶんオーケストラは「機能的」みたいな服すら脱ぐことが求められて、いわんやアクの強いウィーン響では十分にインバルの意志を実現することができなかったのだろうと思う。都響は理想的な道具なんだろうなあ。納得納得。

第1楽章で聴こえてくるのはストラヴィンスキーの遠い残響。アヴァンギャルドが支配する直前、帝政最末期のストラヴィンスキーが生み出していたバレエのように、露西亜の呪術的民話を内包しつつも肌を切り裂きそうな乾いた風が吹き抜ける音楽。この交響曲をマーラーからもアヴァンギャルドからも遠ざけた演奏で聴くのはこれが初めてかもしれない。
バレエを想起させられるのは、インバルが都響に対して命じている、恣意性を排除した音色とリズム感が完璧にハマっているからだろう。
もっとも強烈だったのは、あのプレストのフーガが「優雅」だったことである。いちばんしっくり来る形容詞がよりによって「優雅」だよ?

じっとりしつこいマーラーをやらせると今では世界で一二を争うインバルだけど、マーラー成分が混入しまくってる第2楽章は意外にふわとろ系。バレエのロマンスシーンかというくらい、拍節感を維持しつつふんわりした音響で支配する。

第3楽章もやはり第1楽章と同じ傾向。苛烈な音響や粗雑なアゴーギクは退けられ、キリッと引き締まったリズムと、冷たく乾いた優雅なマチエールで音楽が展開していく。途中の木管隊による斉奏の、どこのものでもない中庸な美しさには呆然としちゃいますよ。これが無個性無個性と貶められ続けてきた日本のオーケストラの「個性」なのかもしれないな。だとしたらこんなに嬉しいことはない。

この楽章、いつもペトルーシュカの最終場・謝肉祭を彷彿とさせるんですが、インバル/都響のこの演奏に振り付けてバレエを上演したら、さぞかしクールだろうな。作りものじみててさ。
by Sonnenfleck | 2013-03-13 23:18 | パンケーキ(20)

インバル/都響<新・マーラーツィクルス>その5@東京芸術劇場(1/20)

c0060659_23334721.jpg【2013年1月20日(日) 14:00~ 東京芸術劇場】
●モーツァルト:Fl協奏曲第2番ニ長調 K314
→上野由恵(Fl)
●マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
⇒エリアフ・インバル/東京都交響楽団


くどくどと感想を書く気になれない音楽会。
僕はインバルの全面的信奉者じゃない。しかしインバルに率いられた今の都響が一段階ステージを上がってしまったのは間違いなかった。こういう演奏は好き嫌いの次元で語ってはいけない気がする。

都響マーラーツィクルスの5回目。僕が聴いた芸劇公演は3度演奏されるマラ5のうちの第2回目だった。
白眉は第1楽章と第2楽章。インバルは粘り気を込めつつも違和感のない(もうちょっと言うならベタな)フレージングを全面的に採用していたけれど、縦の一瞬一瞬ではまさに痺れるような音響を作り出していた。特に弦楽の内声・管楽器たちの音色に対する優れたこだわり、マーラーに必要な、切なげに甘えるような音色を実現するセンス、これに恵まれて失敗するわけがないんである。

僕は今回芸劇のRB1列、つまり舞台直上に座ったのだけど、第2楽章に顕著なユダヤっぽいメロディの瞬間のインバルは、恍惚として鼻歌を唄いながらVaやVc、Clにねっとりとした指示を出していた(ちなみにこの席は芸劇のなかでもっとも好い音がする場所と思う)。その結果として都響が啼く。その音響はである。
繰り返すけどこういうマーラーは苦手だ。でもあの響きを評価しないなんて許されない。矢部コンマスの鬼神のようなリードも忘れがたい。

アダージェットがドライだったのも違和感がない。こういうところでインバルが見せる醒めきったバランサーとしての姿は「敵ながらあっぱれ」という感じ。

むろん終演後は凄まじいブラヴォの嵐。僕の席はだいたいステージ上と同じような聞こえ方がしていたはずで、楽員さんたちの喜びと驚きの表情もよくわかる。最後はインバルの一般参賀→インバルがTp高橋首席の手を引っ張って一般参賀その2→さらに矢部コンマスまで捕まえてきて一般参賀その3、という大盛り上がりなのであった。

+ + +

この公演の前日、マーラーツィクルス後期セット券を購入した(本当は芸劇がよかったけど、諸々の事情からみなとみらい)。後期交響曲はインバルの大きくてふてぶてしい自意識をがっしりと受け止めるのだから、これを聴き逃すわけにはいかないんだよね。ただ多くの人たちがそのように考えたみたいで、1回券がほとんど発売されないかも、という回もあると聞いている。。

みなとみらいはベルティーニのマーラーをたくさん聴いた思い出のホールだけど、いつまでも彼の思い出のなかに生きるわけにはいかない。今のハイパーな都響を、きっとベルティーニもにこにこして見つめているだろう。
by Sonnenfleck | 2013-01-27 00:08 | 演奏会聴き語り

フルシャ/都響 第745回定期演奏会Bシリーズ@サントリーホール(12/15)

c0060659_21225649.jpg【2012年12月15日(土) 19:00 サントリーホール】
●バルトーク:Pf協奏曲第2番 Sz.95 BB101
→ゲルハルト・オピッツ(Pf)
●コダーイ:《ガランタ舞曲》
●バルトーク:《中国の不思議な役人》組曲 op.19 Sz.73 BB82
⇒ヤクブ・フルシャ/東京都交響楽団


どこで見かけても感想はほぼ絶賛の嵐、という注目の若手指揮者ヤクブ・フルシャ。今年ようやく聴けたのだ。

フルシャは1981年生まれの31歳。僧帽筋が発達したハリポタのような雰囲気だけど、彼がつくる音楽もまた、魔法のように鮮やか。驚いた。
しかしもちろん彼の魔法は、たとえば20世紀中葉であれば魔法だったかもしれないが、いまや指揮者の呪術的カリスマによって立ち昇る紫の煙ではなく、明確に乾いた高速演算処理の賜物であるのが痛快だ。

協奏曲を飛ばしてまずガランタ舞曲。急激に立ち上がる豊穣な響き。
前半は自分があまり聴けていなかったのかもしれないが、細部の音色の選択が練りに練られているところに、舌を何回転かぐるぐるっと巻かざるを得ない。拍手と歓声もずいぶん大きい。

そしてミラクルマンダリン…。上述の鋭い音色センスに加えて、縦方向の精密な積み重ねがビシッ、、ズシッ、、と重たくキマっていくので、重厚で華麗なマチエールがちゃんと現れている。こういう拍感覚って今日の指揮者ではプリインストールアプリみたいなものだけど、フルシャのセンスはちょっと高級感がある。
さらにそこへ、都響のバランスのいいクリアな音色もうまく相乗し(彼らの音響はロンドン響に似てきていると思う)、ある種の現代的な格闘技を観戦しているような快感を想起させられたのだった。都響は佳いオケだよねえ。ほんと。

+ + +

さて。前半のバル2はいささか問題の多い演奏だったのだ。
フルシャと都響は(すでに書いたように)非常に精密でしかもマッチョな快感も忘れない伴奏を繰り広げていたようなんだけど、そこに、オピッツのソロが乗り切らない。。まるで東京メトロの運行システムに旧い蒸気機関車をムリヤリ乗せているかのような齟齬が続発している。

オピッツにはカーテンコールで鋭いブーが飛んでしまったが(とても見事なブーだった)、蒸気機関車自体はそれほど悪くない。もうちょっと異なるタイプの伴奏―つまりリズムや色彩、力感じゃなく、しっとりした空気感や「間」みたいなものに重点を置く伴奏だったなら、より佳い演奏になっていたんじゃないかと思うんだよね。

フルシャは、あるいは、オピッツに主導権を譲るべき局面だったかもしれない。でも、協奏曲を自在に合わせるスキルも、きっと彼なら身につけられると思う。今後のフルシャ追っかけが楽しみです。
by Sonnenfleck | 2013-01-11 21:25 | 演奏会聴き語り

インバル/都響<新・マーラーツィクルス>その1@東京芸術劇場(9/15)

c0060659_6114552.jpg【2012年9月15日(土) 14:00~ 東京芸術劇場】
●ベートーヴェン:Pf協奏曲第2番変ロ長調 op.19
→上原彩子(Pf)
●マーラー:交響曲第1番ニ長調《巨人》
⇒エリアフ・インバル/東京都交響楽団


これまでの自分の聴体験を信じれば、インバルという指揮者には強く同意できる側面とそうでない部分があって、結果として、全面的に好きな指揮者とは言いにくい状況にある。熱狂t的なファンの方が多いのでなんだか申し訳ないのですが。。

インバルが新しく始めたマーラーツィクルスの、この日は記念すべき第一回。
都響のマーラーというと、みなとみらいホールでの故ベルティーニの姿があまりにも鮮明に思い出されてしまう。インバルに対して感じている上述のような思いもあって、少し複雑な気持ちなんである。

ベルティーニの晴朗にして波高からぬ、耽美なマーラーをこころの基準に置いていると、インバルのマーラーの、時には強引と思えるえぐみやしつこさには簡単には感心できない。そんな瞬間は確かに多かった。

でももう少し分解して聴いていくと、マーラーが飾り付けた第3楽章マルティン君テーマのなかのクレズマー要素を非常に的確に再現させているのがよくわかるし(ここでバスドラムに小さくて硬いヘッドのバチを用いて、チンドンの輪郭を際立たせる技などはさすがだ)第4楽章の爆発的な音量の中でも木管隊をけっして埋もれさせない立体感も好きなところだ。インバル、物凄い角度のベルアップを要求していましたね。そして終盤では明らかに後期交響曲の音が先取りされている。

+ + +

ところで今回、もっとも感銘を受けたのはベートーヴェンの第2楽章です。あの官能的肉感的なアダージョはいったい…。プロコフィエフの急速楽章専門家にして重火器系ピアニスト・アヤコウエハラ(第3楽章などあまりのぶっ叩きぶりに笑ってしまった)を包含してもなおあのアダルトな音楽!

とりあえず、ツィクルスその5の安席を会場で買ったのだった。
by Sonnenfleck | 2012-10-02 06:14 | 演奏会聴き語り

梅田俊明/都響 プロムナードコンサートNo.349@サントリーホール(6/23)

c0060659_1011421.jpg【2012年6月23日(土) 14:00~ サントリーホール】
●ムソルグスキー/R=コルサコフ:交響詩《はげ山の一夜》
●クーセヴィツキー:Cb協奏曲嬰ヘ短調
→山本修(Cb)
●R=コルサコフ:交響組曲《シェヘラザード》
⇒梅田俊明/東京都交響楽団


6月のふんわりした晴れ間の午後に、ロシア音楽の並んだ名曲プログラム。ホール前の滝も涼しげな季節になった。

それで、本公演。都響のプレーンな実力と、梅田氏の清潔な音楽観がしっかり結びついた、適切で快適な演奏実践だったわなあと考える。たとえばクラシック音楽に馴染みのないひとがこのコンサートを入り口にできたとしたら、それは幸福ではないだろうか。プロムナードコンサートの模範のような120分。

まず、梅田氏の適切なフォーミングとそれを実現する適切な指示に言及しないわけにいかない。
梅田氏はずいぶんいろいろなオーケストラに登場しているマエストロなので、きっと幾度もどこかで、彼の音楽を聴いているのだが、この日の午後ほど梅田氏の巧みさを意識したことはなかったと思います。特に《シェヘラザード》など、第3楽章までは中庸美に溢れた極めて上品な仕立てだったけれども、第4楽章で採用された前のめりテンポと婀娜っぽい音色に、都響というオケを無理なくドライヴしてリムスキー=コルサコフを実現させる戦略を感じないわけにはいかなかった。

左様に好感の持てるリードが成されていくなかで、都響のアンサンブルの快適さが随時放出されていたのはとても重要だ。
《はげ山》夜明けの丁寧で薄い合奏はまさしくシルキーと言い表せるだろうし、協奏曲でトゥッティが聴かせた盆栽のような静かな険しさは、クーセヴィツキーの狙いがシンプルに、必要十分に再現されていたと言ってよいだろう。もちろん《シェヘラザード》での四方コンマス・古川首席のソロも艶やか。都響は平日公演が多くてなかなか聴きに行かれず、やや久しぶりに体験したけど、やっぱ巧いわなあ。

+ + +

さて、クーセヴィツキーのコントラバス協奏曲を、というよりコントラバスをソロに立てた協奏曲をこの日初めて耳にしたのであった。

ソロとしてのコントラバスは、サーカスの孤独な象が四肢を小さく折り曲げて曲芸をしているかのようで、ほのかなペーソスを感じさす。あの楽器がソロを務めるにはサントリーホールは大きすぎるようだ。でも、伴奏側の編成が小さく刈り込まれ、さらに梅田氏がメリハリを付けてトゥッティを捌いていくので、聴衆としてはだんだん耳の照準が定まっていくのを感じる。ソロは都響首席の山本氏。
by Sonnenfleck | 2012-07-01 10:30 | 演奏会聴き語り

トゥルコヴィチ/都響 「作曲家の肖像」シリーズvol. 83《モーツァルト》 @オペラシティ(9/4)

c0060659_1072444.jpg【2011年9月4日(日) 14:00~ 東京オペラシティ】
<モーツァルト>
●交響曲第38番ニ長調 K504《プラハ》
●Fg協奏曲変ロ長調 K191 (186e)
→岡本正之(Fg)
●交響曲第39番変ホ長調 K543
⇒ミラン・トゥルコヴィチ/東京都交響楽団


たいへん丁寧に造形されたモーツァルトだった。
音楽のうま味を心の底から堪能した。

個人的にはコンツェントゥス・ムジクス・ウィーンの重鎮としての印象が強いトゥルコヴィチだが、前回の都響登場時の評判がずいぶんよかったので、今回のチケットを買ってみた次第。
指揮者がアーノンクールの盟友であるということを配布されたプログラムで知ったお客さん、また、ピリオドアプローチ=ヴィブラートと思っている向きには、この日の演奏は少々意外に、もしくは少々期待はずれに聴こえたのかもしれない。
なぜならトゥルコヴィチの造形は「一般的なピリオド風味」(小編成・Vn対向配置・ノンヴィブラート等)からすべて離れてて、多少判りやすいのは編成にバロックティンパニを導入していることくらいだったわけ。
じゃあ、サー・ネヴィル・マリナーのモーツァルトみたいな感じなのかと問われれば、いややっぱりそれとは違う。やっぱりこの人はCMWの藝術家なんだ。

たとえば、変ホ長調の第1楽章提示部で聴かせた、アーノンクールそっくりのおどけた調子(ソォっっファっっっミぃ♭~という強いスタッカート>これを再現部では再現しなかったのはこの人の好みだろうか)
それから第3楽章の田舎踊り。これもニコラウス親方によく似てら。東京人が東北訛りを茶化すみたいに、ウィーンの都会人が観測した田舎踊りはめっぽう愉快に表現される。第4楽章はちょっと勢いがつきすぎてたけど…。

無論、アーノンクール似の造形だけでは面白くないわけで、今回は《プラハ》の第2楽章が、これがトゥルコヴィチの本領が最強に発揮された時間だった。

あまりにもちゃんとバルカローレのリズムが維持されていたため、素っ気なく聴こえた人もいたかもしれないんだけど、各声部は(特に管楽器隊は完璧に)統率されて動き、しかも今度はそれら同士が明解に独立して働く、あんなモーツァルトの緩徐楽章をライヴで聴けるなんて想像していなかった。
つまりトゥルコヴィチは数本の楽器でセレナードでもやるみたいにして、《プラハ》の巨大なアンダンテを組み上げてしまってた。3階席から見下ろすとお客さんの3人に1人は安らかに眠っていたが、それは本当にもったいないことよ。。

ピリオドアプローチの真の意味は、アンサンブルのアーティキュレーションを精査し、各局面に応じてそれを最適化することで、親密な室内楽をモダンオケで実現させることにあると僕は考えている。それはともかく、《プラハ》のアンダンテで実現されてた。トゥルコヴィチのコンティヌオ者としての感覚も、おそらく造形の役に立っていることだろう。都響のコンディションがすこぶる良いのも嬉しかった。

+ + +

ところでFg協奏曲も、2曲のメインの間でたいへん魅力的な一皿として提供された。都響首席の岡本さん、ブラヴォでした。
トゥルコヴィチはきっと、この協奏曲のソロを世界中で飽きるほど吹いてきたんだろう。この曲だけは当然のように暗譜で指揮棒を振っていたのは可笑しかったが、完璧なタイミングでトゥッティを操り、アンサンブルは快適としか言いようがなかった。この曲についてはたぶん世界でいちばん巧いサポート。
by Sonnenfleck | 2011-09-11 10:12 | 演奏会聴き語り

インバル/都響 第701回定期演奏会@サントリー(6/19)

c0060659_229059.jpg【2010年6月19日(土) 19:00~ サントリーホール】
●マーラー:交響曲第2番ハ短調 《復活》
→ノエミ・ナーデルマン(S)
  イリス・フェルミリオン(MS)
  二期会合唱団
⇒エリアフ・インバル/東京都交響楽団



激しい蒸し暑さ。
W杯は、僕にとっては遠い国の遠い出来事。

インバルは、何度か実演を聴いても、正体が掴めない指揮者であった。全局面に渡ってクリティカルヒット!というライヴを聴いていないのも大きかった。
しかしよく考えると、これまでに聴いたインバルのライヴは、いずれもベートーヴェンだったんだよなあ。徹底解釈者・インバルにとっては、ベートーヴェンは革新的というより古典的で、彼が20世紀から後ろを振り返ってベートーヴェンを捉えているのが、あの演奏からはよくわかる。ピリオド系の人々が尊ぶ「フォルムそのものの運動性」には、たぶん彼は興味がないんだと思う。

それを踏まえた上で、マーラーは、彼の巨大な自意識や解釈したい気持ち、みたいなものが存分に充満できる大きな水槽だということが判明する。アマゾンの白くて巨大な魚が大きな水槽の中を悠々と泳ぐようにして、インバルのトップギアが入る。つまり、非常に壮絶な演奏が展開されることになる。

+ + +

特に第1楽章第3楽章後半の空気感は、忘れることができない。
時折烈しく畳み掛けるような強いテンポをメインとし、ソリッドな響きでもってそれを固めていくやり方。また同時に、インバルが歌いたい、テクスチュアが薄い箇所で急激に歩調を緩めて、とろりとして美しい「澱み」を混ぜるやり方。これは2008年にNHKで視聴した《千人の交響曲》と同じアプローチでありました。第1楽章の第2主題は効果的にポルタメントが用いられ、甘い蜜のようで胸が熱くなったよ。

ただ、この両楽章に特徴的に頻出する破裂音・炸裂音が、調理されないままと言ったらいいのか、原始的な硬い音響で処理されていたのはいささか意外であった。僕の席が打楽器に近かった(というか舞台真横)ので、打楽器の直接音によってマスクされたためかもしれないけど、もっと多層的にうごめく炸裂音を予想してたんだよね。全体を俯瞰する席で聴かれた方、いかがでしたか。

しかし、空気がこんなに張り詰めているとは。。指揮者とオケの緊張感も鋭いし、お客さんもそこから緊張が伝染して厳しく集中しているし、音の行間には空調のかすかなホワイトノイズだけが乗っている。楽章が終わったところでお客さんがふうっと息を吐き出すのがわかる。

第4楽章第5楽章のつくりはオーソドックスで予定調和的。でも感動しちゃうのがこの曲なんだよねえ。在京オケ定演では数年に一度聞かれるかどうかというクラスの、大人数&大音声のブラヴォが飛び交う。

+ + +

この公演では、都響のポテンシャルが最大限に引き出されていたことも触れておきたいなあ。
都響の管楽首席陣はみんな自律的に歌心があって素敵だし(Ob広田氏、Tp高橋氏、独唱に合わせる局面の歌心が素晴らしかったです)、弦楽もやはり、自律的にアンサンブルを形成する意気込みを強く感じる(この日はあの湿気にも関わらず弦楽陣の精度が抜群に高かったが、なかんずくVaとKbが実にクールであった)
矢部コンマスがマーラーで美音を奏するとどうしてもベルティーニのことを思い出しちゃうけど、あの時ともまた違う、第一級のマーラーが繰り広げられた。
by Sonnenfleck | 2010-06-20 22:28 | 演奏会聴き語り

インバル/都響『作曲家の肖像』Vol.76 《ベートーヴェン》@芸劇

c0060659_20121816.jpg【2010年3月14日(日) 14:00~ 東京芸術劇場】
<ベートーヴェン>
●《エグモント》序曲 op.84
●Pf協奏曲第5番変ホ長調 op.73 《皇帝》
→小菅優(Pf)
●交響曲第5番ハ短調 op.67
⇒エリアフ・インバル/東京都交響楽団


ラザレフ/日フィルから二日連荘で組んでしまったためか、はたまた週日の疲労が蓄積したためか、体調激悪。《エグモント》《皇帝》はほとんど完全に寝スルー。

初めに、残念だった点を書いておくと。
ついにライヴ体験した小菅さんは、これならばどうしてこんなにブログ界隈で評判が高いのか…と首を傾げざるを得ない大味な様子でした。大きなミスタッチ、不安定なテンポ、ドスンバタンと鍵盤を叩きつける重量感、きっと3月14日が絶不調だったのだろうとは思いたいものの。

で。運命ですよ。これ、大名演だったんじゃないですか。
昨年のエロイカで感じざるを得なかった違和感、違和感で構成された音楽、今回もそういったものを予想していたので「眠気は飛ぶけど神経が疲れるだろうなあ」という気持ちがありましたが、蓋を開けてみたら、なんということもない直裁運命だったわけだ。
今日、倍管のモダンフルオケでベートーヴェンを聴く意義は…などという辛気臭い考えもぶっ飛ぶほどのエネルギー。ところどころ「ん?」と思わせるような違和感のある仕掛け、これがほとんどなかったのが逆に新鮮。秘技・サプライズ封じによる逆サプライズ。塩とブラックペッパーだけで軽く味つけされた分厚いステーキに齧りつくような、そういう健康的ワクワク感がこの日の主役だったなあ。解釈者インバルはステーキの後ろに隠れていたよ。

それから都響はいいオケ。やっぱりこれを再認識する。
by Sonnenfleck | 2010-03-28 20:13 | 演奏会聴き語り

インバル/都響 『作曲家の肖像』 Vol.72 《ベートーヴェン》@芸劇

c0060659_6382432.jpg【2009年4月4日(土) 14:00~ 東京芸術劇場】
<ベートーヴェン>
●序曲《コリオラン》 op.62
●Pf協奏曲第2番変ロ長調 op.19
→ゲルハルト・オピッツ(Pf)
●交響曲第3番変ホ長調 op.55 《英雄》
⇒エリアフ・インバル/東京都交響楽団


年度を跨ぐこの時期、毎朝晩に電車の中でレイボヴィッツのエロイカを聴いていたのにはわけがございます。今となってみれば何の根拠もないのは明白ですが、なんとなく、インバルのエロイカはレイボヴィッツみたいになるんじゃね?という予想があったものだから。

ところがまあ、それが大外れに外れた。

レイボヴィッツのように水で譬えると、あの録音が「設計された西洋噴水」だとしたら、今回聴いてきたインバルは「細部までマニアックに造り込まれた巨大水槽」でした。噴水と水槽で何が違うかといったら、それは<閉じているか開いているか>だろうと思う。噴水だって循環してるじゃんよ、というのは措いておくとしても、水槽の中に閉じ込められているエロイカの「水量」はそれ自体の厖大なエネルギーを外に放射することなく、ただ不機嫌そうに澱んでいる。
水槽の中には竜宮城セットや藻や田螺や、そういうこまごまとした小道具が配されて、さらに(これが重要だけど)インバルのセンスという巨大な魚が悠々と泳いでいます。インバルは自分のこだわりを生かすためにエロイカの巨大なフォームを拝借しているだけで、英雄交響楽に対して尊崇の念なんかこれっぽっちも持ってない。圧倒的解釈者!

インバルのセンスに共感できた方は、大喝采でしょう。さらにそれをオーケストラ上で実現させた手腕を評価する(造形美至上主義みたいな?)のであっても、大喝采でしょう。終演後の熱気を見ると、事実多くの方がこれを評価し、拍手を送っていたのです。
響きの肌触りはあくまでもノーブル、鞭のように気品がある。水槽の中のジオラマは完璧です。…なのに、何かがどこかが心に引っ掛かってくる。盛んに伸び縮みするテンポか、粘つくダウンボウか、普通は重ならないパッセージが微妙に重ね合わせられる木管か、もっと具体的にここなのですと言うのは僕の力では無理なのだけど、なぜか懐疑に落とし込まれる。各局面において自分の好み・自分のセンスをこんなに揺さぶられるベートーヴェンは聴いたことがないものですから。
自分は水槽を外から眺めているつもりになっているけど、インバルのセンスという巨大な魚は時折、ガラスの中からこちらを見ています。見られているのはどっちだ。

前半の《コリオラン》と第2Pf協奏曲はとても聴き応えのある、しかし普通の演奏だったので、後半のこの思いは余計に募ったわけです。ソロのオピッツも含めて。

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生で都響を聴いたのはずいぶん久しぶり。やっぱりいい音してるなあ。いいオケだなあ。
この日はお客ノイズが盛大で環境は最悪でしたが、それでもいい時間でした。

3/23のラヴェル・プロはTakuya in Tokyoさんのレヴューに、3/29のプロムナード・コンサートはまめびとの音楽手帳さんのレヴューに、なるほどそれぞれきっとそのようだろうなあという共感を覚えたので、勝手ながらリンクさせていただきました。
by Sonnenfleck | 2009-04-06 06:39 | 演奏会聴き語り